2018年6月12日火曜日

慰安婦はトラックで強制連行され、過酷で暴力的な性的虐待を受け、日本軍兵士は微笑みながら慰安所に列をなして立ち並んだ。

日本軍の慰安婦は、軍事的強要をうける特殊性な性奴隷となった。トラックで日本軍の占領地や戦地に強制連行されて、過酷で暴力的な性的虐待を受けた。この強制的に連行された強姦所にて、日本軍兵士は微笑みながら列をなして立ち並んだ。日本軍兵士の前列は、既にブーツやふんどしを脱いで、カーテンを開けて押し入って、すばやく短時間の約5分間で性交して交代した。朝の7時から夜の8時まで連続する日本人兵士たちは性交した。慰安婦となった多数の少女らは、数十名との性交により、子宮の入り口と膣が引き裂かれ、出血して、下腹部痛でうずくまった。慰安婦の報奨金は搾取さけて、衣装代・道具代・化粧品代なども抜き取られ、前借金の返済も積み重なった。日中戦争では、中国の南昌では11ケ所の慰安所に朝鮮人約100人と日本内地人約11人、九江では22戸の慰安所に朝鮮人約104人と日本内地人は約125人の慰安婦が配備された。南京では中国人の慰安婦数は約921にも達した。1991年1月に韓国ハンギョレ新聞に慰安婦問題の記事により、5月の盧泰愚大統領訪日から、植民地時代の韓国人らが日本政府に謝罪と補償を求めた。




2018年6月11日月曜日

第一次世界大戦末期のバイエルン革命にて、ドイツ中央政府の占領軍は労働評議会のレーテに対する報復的な虐待と虐殺がミュンヘン市内の各地で多発した。

第一次世界大戦末期に、ドイツのバイエルン王国では社会主義勢力と内戦状態となった。1918年11月7日に首都ミュンヘンで独立社会民主党のクルト・アイスナーが共和政府を樹立した。軍の支援が消滅失したドイツ帝政は崩壊した。1919年1月12日に選挙を実施するも、社会民主党は180議席中3議席に惨敗して、アイスナーは2月21日に暗殺されて、バイエルンは無政府状態となった。4月13日に労働評議会であるレーテによりバイエルン共和国が独立した。ドイツ中央政府は、ヴァイマル共和国軍やドイツ義勇軍を投入して、5月1日から3日にかけて中央政府軍の約6万人がミュンヘンに攻めのぼり占領した。労働評議会のレーテはバイエルン共和国の崩壊寸前には人質の虐殺を行った。労働評議会のレーテに対してドイツ中央政府の占領軍により報復的な残虐行為がミュンヘン市内の各地で多発した。1920年初めまでレーテ共和国に関係した者の裁判が約5200件以上行われた。



2018年6月10日日曜日

第一次世界対戦にて、西部戦線ではイギリス軍兵士の膨大な死体が、数千に昇る塹壕下に散在していた。

第一次世界大戦にて、西部戦線にて膨大なイギリス軍兵士の死体が、数千に昇る塹壕下に散在した。第一次世界大戦中におけるフランスからフランドル地方との間に混沌した塹壕が交錯していた。塹壕下ではイギリス軍兵士は、空爆から地雷や毒ガス攻撃に司令部が錯乱した。司令官は、武力精神や技術だけでなく、軍事的な思想が優遇される時期まで、突撃を強要した。第一次世界大戦は、1914年8月に勃発して1918年11月に休戦した第一時世界大戦により、膨大な犠牲者が虐待と虐殺された。西部戦線はベルギー南部からフランス北東部にかけ最長760Kmに及ぶ両側の塹壕線を中心に戦争が繰り広げられた。両軍とも大規模な攻勢をかけるも、複雑に配備された塹壕の防御側が優勢となり、攻勢側に大量の犠牲者が続出して不利となった。不利を打破する近代兵器である戦車・飛行機・機関銃・砲弾・毒ガスなどを投入してさらに惨殺した。西部と東部戦線での戦死者数は約1,000万人に達して、それに加えて約700万人の市民らが巻き込まれて殺戮された。



2018年6月9日土曜日

ガダルカナルの戦闘にて、悲惨な虐殺された2人の日本兵の死体が、生々しく塹壕に折り重なった。

太平洋戦争のガダルカナル島で、アメリカ軍と日本軍が激闘した。その戦闘にて、悲惨な虐殺された2人の死体が、生々しく塹壕の中にて折り重なった。参戦したアメリカ軍兵士が個人として撮影していた。アメリカ軍に秘蔵されずに、仙台市に設置された元二師団の兵士が戦後に入手して公開された。日本軍兵士は青葉支隊に所属していたと推定された。仙台歩兵第四連隊は第二師団から離れて青葉支隊から分離して参戦した。その青葉支隊の一部が、全滅した川口支隊と一木支隊第二梯団と合流して、第一次総攻撃に投入されて膨大な日本軍兵士が玉砕した。1942年8月7日にアメリカ軍ががダルカナル島に上陸して侵攻した。日本軍から派遣して対抗するために8月17日からガダルカナル島に上陸した。8月20日には第七師団から分離した一木支隊が絶滅して、9月12日に第十七軍から分離した川口隊が絶滅した。ガダルカナル島での戦闘により日本軍が極限に消滅することで、日本軍の大本営が完敗を認めて12月31日に撤退を指示した。



2018年6月8日金曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮に対する空爆により、多数の北朝鮮の小児たちが被爆して虐殺され死体が散乱した。

朝鮮戦争において、アメリカ軍と韓国軍による北朝鮮に対する空爆により、多数の北朝鮮に在住していた小児たちが被爆して虐殺されて、その死体が散乱した。その側で、母親が呆然と泣き崩れた。さまざまな高性能爆弾や爆薬が、無差別に農村部に降り注いで壊滅した。大爆撃と海上封鎖により、北朝鮮を孤島にして、補給ラインを寸断して、敗北させて撤退を迫るための戦略となった。特に1951年7月から8月に平壌の大爆撃により、難民が流出して人口が約50,000人まで縮減した。8月15日から北朝鮮の交通と補給ルートを壊滅した。10月19日から朝鮮戦争に参戦した中国軍は、空爆に対抗するために空軍をソ連から補強して制空権を保持した。双方は膠着状態に陥り、11月末から休戦会談に至り、断続的に暫定的な軍事境界線が協議された。膨大な犠牲者を伴いながら、双方が1953年7月27日に朝鮮戦争休戦協定に署名して、38度軍事境界線上で休戦の膠着が継続した。



アメリカ合衆国トランプ大統領は、北朝鮮労働党の金正恩委員長の会談で、2018年6月12日にシンガポール朝鮮戦争の終結に向けた合意文書に署名する調整を公表した(6月7日)。


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2018年6月7日木曜日

北軍の兵士や市民らがヴァージニア州の荒野の戦いにて、南北戦争の戦死者の死体を集積して呆然と埋葬する準備をした。

ヴァージニア州の荒野にアメリカ合衆国の南北戦争による北軍の犠牲者の死体が散乱した。特に南北の境界に近いヴァージニア州が主戦場となり、人海戦による突撃により、一陸上戦で万人単位の兵士が死亡する虐殺戦となった。1864年5月にヴァージニア州のフレデリックバークスの荒野の戦いにて、北軍の兵士や市民らが荒野に戦死者の死体を集積して埋葬する準備をした。彼らは、膨大な死体を見つめて呆然とした。1861年4月13日に、南軍が北軍のサムター要塞を侵攻して、南北戦争が勃発した。ヴァジニア州では最初の約1ケ月間の南北戦争だけで、北軍の約60,000人が戦死あるいは戦傷した。南北戦争による犠牲者数は驚異的に増大した。1865年4月9日に南軍が北軍に対して降伏して終結した。アメリカ合衆国の戦史上、最悪の死者数と犠牲者となった唯一の内戦となった。公式の北軍の戦死者数は約364,511人であり、南軍の陸軍憲兵司令官の報告書には約133,821人で、総計で戦死者数が約498,332人と推測された。



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2018年6月6日水曜日

ナチス・ドイツ軍のベルゲン・ベルゼン強制収容所の7,195名の生存者のうちベラ・ベルガーが飢餓状態で発見された。

アンネ・フランク一家は1944年8月4日午前に、オランダの首都アムステルダムのプリンセンフラハト263番地の隠れ家の建物で、ドイツ軍親衛隊に逮捕・連行された。隠れ家の住人は父親のオットー・フランクを除いて全員が強制収容所で死亡した。隠れ家の住人は1944年8月8日午後にヴェステルボルク収容所で一時拘留され、9月3日にポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送され、その途中で9月6日にビルケナウ女子収容所に拘留された。ソ連軍の接近により、10月28日にアンネと姉のマネゴットのみがベルゲン・ベルゼン強制収容所に連行された。アンネとマルゴットは、不衛生によるチフスの感染と栄養失調により、強制収容所内で1945年3月31日頃に壊死したと推定された。1945年4月15日に連合国のイギリス軍が解放したときに、生存した収容者であるベラ・ベルガー( Vera Berger )が飢餓状態で発見された。彼女は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所の7,195名の生存者データリスト(アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館, No.1828)に登録された。チェコスロバキアのブレノで1932年3月15日に生まれた13歳の女子であった。

 

 

隠れ家で1942年7月6日から暮して2カ月後にアンネは1942年9月28日の日記に「駄目にしてしまったページを使って、『下品な』冗談を書きます」と記した。「アンネ・フランクの家」とホイヘンス研究所、オランダ戦争資料研究所の3つの機関は共同で、覆い隠した2ページを画像解析ソフトを駆使して読み明かした。 (2018年5月18日)

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2018年6月6日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視読回数 120,000回

2018年6月5日火曜日

南京大虐殺の未確定の認定は困難ではあるが、日本軍の南京入城後に非戦闘員の無差別な殺害や略奪行為等は否定できないと歴史の事実を謙虚に受け止めた。

日中戦争にて、中華民国の国民党が遷都した南京を1937年12月13日に侵略して占領した。その後に日本軍は約2ケ月間にわたり、中国人兵士から捕虜、南京から周辺住民を巻き込んで無差別の大虐待と大虐殺をした。南京大虐殺は、直後から欧米から報道されて、日本政府や日本軍の保存した公式文書にも事件直後に虐殺を認知する文書がある。終戦後の南京軍事法廷や極東国際軍事裁判の判定後も、南京虐殺の規模、存否、戦時国際法違反、犠牲者数などは未確定の論争があった。1993年8月4日の河野洋平官房長官(宮沢喜一首相)の慰安婦から、1995年8月14日の村山富市首相の談話と、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を謙虚に受け止めた。日本政府は、未確定の認定は困難ではあるが、日本軍の南京入城後に非戦闘員の無差別な殺害や略奪行為等は否定できないと歴史認識を示した。



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2018年6月4日月曜日

アメリカ軍兵士たちは、首を切断して虐殺した南ベトナム解放戦線兵士の死体を見せしめにして微笑んだ。

ベトナム戦争にて、北ベトナムによる独立を目指した南ベトナム解放戦線の兵士たちは、アメリカ軍と南ベトナム軍により悲惨な虐待と虐殺を受けた。アメリカ軍兵士たちは、首を切断して虐殺した南ベトナム解放戦線兵士の死体を見下して微笑んだ。頭皮をつまんで見せしめの写真撮影をした。アメリカ軍と南ベトナム軍は、農村部に大部隊で侵略するも、解放戦線の兵士やゲリラは、ジャングルや地下壕にて対戦した。長期間のベトナム戦争によって、膨大な同士が虐待と虐殺された。双方の増悪と恨みが、逃げ遅れた双方の捕虜や容疑者の市民らを、拷問や虐待から虐殺して怨念を晴らした。1964年8月から北ベトナムを爆撃してアメリカ軍は約54万人も投入するも、1968年1月30日の解放戦線のテト攻勢から守戦となり、1968年3月にソンミ村の全虐殺が暴発した。







2018年6月3日日曜日

ハイチ軍兵士達は、暗黒の独裁政権を排除する選挙の投票所で、虐殺された市民たちを検視した。

ハイチ軍兵士達は、ハイチの首都であるポートープランスの投票所で、虐殺された14人の市民のうちの2人を1987年11月29日に検視した。ナミフィー暫定政権は無力であり、デュヴァリエ独裁政権を排除する1987年11月選挙の有権者を、マルコス特殊部隊が虐殺した。1988年1月の選挙でレザイレ・マニガット政権が選出された。
 アメリカ軍は1915年にフランスから独立を口実にハイチを占領して、世界恐慌から1934年に撤退した。1946年のクーデターでデュマルセ・エスティメが黒人大統領となった。ムラートと黒人の国内混乱を招き、1950年の軍事クーデターで、ポール・マグロワール政権が1957年まで軍事独裁した。9月の総選挙で黒人多数派のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任して、1958年から国家を私物化し個人崇拝させて、独裁体制を構築した。秘密警察トントン・マクートを創設して、多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年に父親は死亡し、1986年まで息子19歳のジャン=クロード・デュヴァリエが1986年まで引き継いだ。デュヴァリエ父子主導で、トントン・マクート秘密警察の暗黒時代が続いた。



2018年6月2日土曜日

捕虜となった日本人兵士はガダルカナル島の日本人死体を担架に乗せて運搬して塹壕に投げ込み埋葬した。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1942年8月7日にガダルカナル島に上陸して日本軍と激戦が勃発した。一木隊の約900人は1942年8月18日に、ガダルカナル島北東端のタイボ岬に上陸した。21日にイル川付近で、約10,000人ものアメリカ軍に突撃して、激しい機銃の掃射にて残酷に虐殺されて全滅した。一木隊の残兵は約100人のみとなり、捕虜となった日本軍兵士は、翌日の22日に川辺に散乱した一木隊の死体を埋葬する作業を強制された。日本人兵士の死体を担架に乗せて運搬して、塹壕に投げ込んで体積して処理した。1943年2月には日本軍は敗北してガダルカナル島から撤退した。アメリカ軍の太平洋戦争の大反撃が開始されて、太平洋上の諸島を撲滅しながら日本本土を目指した。ガダルカナル島の日本軍に対して十分な武器や食料の補給が行われず、多くの日本人兵士は悲惨な餓死に陥り餓島と名付けた。




2018年6月1日金曜日

日露戦争にて日本軍が満州の荒野に散乱した戦死者の死体を火葬するために集積した。

日露戦争にて、両軍は膨大な戦死傷者が犠牲となった。日本軍が満州の荒野に散乱した戦死者の死体を火葬するために集積した。1904年年3月に勃発した満州と朝鮮への侵出する露と日本が衝突した帝国主義の日露戦争に犠牲となった。日本軍は戦死者は約115,600人と日清戦争の約13,800人の約10倍に昇り、露軍は約42,600人に達した。日本軍は約1年かけて露軍の旅順要塞を侵略し、1905年3月に奉天会戦で露軍は撤退し、5月の日本海海戦で露のバルチック艦隊を掃討した。露では1月に血の日曜日事件にて第1次ロシア革命が起こった。9月にアメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領の仲介で、ポーツマス条約を締結した。逆に露はバルカン方面への進出を強めて、第一次世界大戦に向けて突入した。 日本は1910年に韓国併合を強行して、社会主義思想を弾した大逆事件から皇帝制帝国主義を強化した。 




2018年5月31日木曜日

日本軍兵士が、アメリカ軍に突撃して、沖縄本島中部にて全身を銃撃されて射殺された。

日本軍兵士が、アメリカ軍に突撃して、沖縄本島中部にて1945年5月24日に全身を銃撃されて射殺された。アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した。沖縄本島の上陸地から本島北部は約2週間の4月22日に、アメリカ軍に占領された。日本軍が主に待ち構えていた本島中部では、約40日間にわたりアメリカ軍と激烈な戦闘があった。アメリカ軍に日本軍は追い詰められて、首里城地下の司令部を捨てて、5月27日に本島南部へ敗退した。戦闘はその後の約1カ月間も続いて6月25日に沖縄戦は終結した。アメリカ軍側は約12,5201人、日本側は約188,136人が死亡したと推定された。このうち沖縄県出身以外の日本軍兵は約65,908人、沖縄県出身の兵士は約28,228人、沖縄住民は約94,000人、沖縄県民全体では約122,000人以上が死亡したと想定された。




2018年5月30日水曜日

ナパーム弾に被爆して黒焦げになったベトナム人の児童を、祖父母が抱いて逃げ回った。

ベトナム人の2人の児童がナパーム弾に1972年6月に被爆した。黒焦げになった児童を、祖母父が抱いて逃げ回った。アメリカ軍が開発したナパーム弾は人体に付着すると取れず、広範囲に火傷して絶命した。ベトナム戦争で、アメリカ軍と南ベトナム軍は、1966年12月からナパーム弾を森やジャングルに潜む北ベトナム兵を壊滅するために無差別に投下した。ナパーム弾は、燃焼材のナフサに増粘剤のナパームを充填した焼夷弾で、約1,000度もの高温で広範囲を焼滅する。国連人権小委員会は1996年8月に「核・化学・生物兵器・気化爆弾・ナパーム弾・クラスター爆弾・劣化ウラン兵器の製造・使用の禁止を求める決議」をアメリカのみ反対で採択した。アメリカ軍は、アフガニスタンからイラク戦争でナパーム弾と類似のMark77爆弾を使用した。




2018年5月29日火曜日

広島原子爆弾が炸裂して孤児になった男子は、火傷した子供を背負って、全滅して1月後の広島市内の荒野に呆然と起立した。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂して、多大な犠牲者が被爆した。膨大な死者数のために、両親が共々が被爆死して、約6,500名以上もの被爆孤児のみが生存して残された。炸裂してから1ケ月後に男子は、火傷した子供を背負って、全滅した広島市内の荒野に呆然と立たずでいた。子供の頭部には、多数の火傷の瘢痕が残っていた。男子は軍帽をかぶり、小袋を抱えて草履で起立して、子供と一緒に悲しそうにカメラを覗いた。アメリカ軍の周りを取り囲んでは、おねだりして飢えをしのいでいた。アメリカ軍の海兵隊の従軍カメラマンであったジョ オドーネル(Joe O'Donnel)が、1945年9月2日に佐世保に着港してから、佐世保・福岡・広島・長崎を巡視して、空襲と被爆状況を撮影した。