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2019年2月26日火曜日

日露戦争で作子溝の戦闘で、日本軍兵士の多数の戦死体が、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。

日露戦争における作子溝の戦闘で、戦死した日本軍兵士の多数の死体が、処分が間に合わずに、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。戦闘中は、死体の収容も困難であり、放置されたままに腐乱した。日露戦争の膨大な戦死者の犠牲を伴うも、死体の処理は荒野で火葬あるいは埋められて処分された。至るところに埋めた目印となる墓標を荒野に立てた。膨大な死体の場合には積み重ねて火葬にして埋葬した。人体は水分が多いので、太い薪を大量に燃やしても一晩かかった。旅順攻略戦闘では、クリスマス休戦や正月の休戦等、戦域司令官同士が休戦を合意すれば、双方が戦死の死体を回収して、犠牲者を弔うこともあったようである。
 1873年1月10日に徴兵令を施行した明治政府は、陸軍と海軍の墓地制度を布告して、戦死体の処分権と祭祀権は、1945年8月15日の終戦まで遺族ではなく軍部が握った。日清・日露戦争から日中戦争の前半頃までは、戦地に墓地を設営して、火葬あるいは土葬して戦死者の死体を処分した。陣地が継続的に確保されていれば、墓標を立てて儀礼も行った。日中戦争の後半になると、墓地を設営する余裕もなく、火葬した遺体の一部分を持ち帰り、他の部隊に委託から本国に還送することになった。近代戦では、戦死者の死体数が増大するにつれて、戦況に応じた儀礼や処分がされた。軍隊に兵士の死体の処分の権利があり、遺族に遺骨を渡した。遺骨の還送が困難な場合は、霊璽(霊名)を記載した用紙、さらには白木の箱に入れた砂、小石、サンゴなどを、軍隊が形式的な儀礼を行って遺族に手渡した。日本国憲法では軍隊を持たない日本に、戦後から靖国神社が戦死者の祭祀権を保持している問題が継続している。




2019年2月18日月曜日

日露戦争の旅順攻略にて、ロシア軍の砲弾で西嶺溝の東方にある畑地の多数の日本軍の歩兵連隊が戦死した。

日露戦争において、1904年7月26日午後に西嶺溝の東方にある畑地で戦闘中に、ロシア軍の砲弾等にて日本軍の多数の第36歩兵連隊が戦死した。その死体が、荒野の雑畑に散乱した。1904年2月から7月にかけて連勝の日露戦争は国民の不安心理を払拭して、県民は戦勝に酔い、各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。
 歩兵第36歩兵連隊は、日本陸軍の第3軍に所属して、遼東半島に上陸して、旅順要塞の攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦にも参戦した。この戦闘における歩兵連隊の戦死者率は第4位にも達した。203高地を攻略する第3軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参戦したことに由来する。8月19日からの旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、生存者は約251人と悲惨な戦死状態に陥った。戦死者は歩兵は約1,533人、戦傷者が約4,211人、行方不明は約24人に達した。9月5日には、第36連隊は旅順第1回総攻撃で竜眼北方角面堡の攻略に失敗して、ほぼ連隊が凄惨な全滅に陥った。奉天会戦でロシア軍を圧倒した1905年3月10日から、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みも立たなくなった。 




2019年2月13日水曜日

日清戦争で日本軍は旅順を陥落した時に、中国人らを清国軍の容疑者として射殺した。

日清戦争において、日本軍による旅順の陥落時に、清国軍の容疑者として中国人を射殺した。日本軍は旅順内に戦死した戦友のさらし首の散乱にも激怒して、無差別に中国人を出会う生命は射殺しながら、銃剣で突き殺し、日本刀で切り倒した旅順虐殺事件が勃発した。
  日本は1876年2月に、朝鮮に対して日朝修好条規の締結を強要した。1894年5月に朝鮮で暴発した農民による東学党の乱で、日本は支朝鮮を支配配するために参戦した。朝鮮と関係が深い清国は、日本の支配に対抗して戦乱となった。日本軍は1894月25日には豊島沖で海戦、29日は牙山で陸戦して清国軍を敗退させた。8月1日に両国が宣戦布告して本格的な日清戦争に突入した。日本軍は9月1日に平壌を侵略して、10月24日に国境の鴨緑江を渡河して、清国内の遼東半島に侵攻した。日本軍は、花園口に上陸して11月6日に金州城、11月7日に大連湾を攻略して、21日に旅順を陥落した。日本軍の侵略に対して、朝鮮国内の猛烈な反日暴動が頻発した。日本軍は、10月27日に河東、11月7日に金剛山、11月12日に晋州、11月17日に三峰山、11月19日に百城洞、11月30日に忠清道で約20,000人もの朝鮮人農民の暴動に対して、残酷な虐待と虐殺を繰り返した。





2019年1月8日火曜日

日露戦争の奉天会戦で、ロシア軍が敗退した満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。

日露戦争における奉天会戦で、ロシア軍が敗退して後に、満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。果てしない荒野には、見渡すかぎりの死体の山、焼け落ちた民家、煙がくすぶり続ける物資が散乱した。
 日露戦争の奉天会戦が1905年3月に行われた日露戦争最後の大規模な陸上戦となった。1905年1月に日本軍が旅順攻略したのち、日本の満州軍総司令部は日本軍兵士の約250,000人を終結し、ロシア軍を殲滅して戦局を決定することを意図した。現在の瀋陽である奉天を拠点とするロシア軍も約320,000人のロシア人兵士を集結して対峙した。3月1日に両軍は全線で戦闘が勃発した。戦局は容易に進展しなかったが、ロシア軍は3月7日までに約8,705人の戦死者と約51,438人の戦傷者と総計で約90,000人もの死傷者を出したた。次期に反撃できるロシア軍兵士を保持するために伝統的な戦略的撤退をした。3月10日に日本軍は奉天を占領した。日本軍も約15,892人の戦死者と59,612人の戦傷者と総計約70,000人もの犠牲を受けた。追撃の戦力を失って、特に戦闘の前線の先頭を侵攻する下級将校が犠牲となり、ロシア軍の追撃は達成できなかった。奉天会戦の犠牲で、日本軍は戦力の低下から、これ以後大規模な会戦は困難となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を醸成した。奉天会戦を機に日露講和が議論に上るも頓挫した。日本軍は戦勝を記念して奉天占領の3月10日を陸軍記念日とした。


2018年12月19日水曜日

万宝山事件で中国人脱走兵が虐殺した韓国人の死体と偽って報道して、日本は中国人の反日感情を韓国人に転換した。

万宝山事件が1931年7月2日に中国満州の長春郊外の万宝山で勃発した。用水路の工事を巡って朝鮮移住民と中国人の農民の衝突があり、朝鮮人移住民が中国人警官によって死傷者も出さずに用水路から強制的排除された。
 朝鮮日報により万宝々事件の誇大な誤報道(中国人警官約800人を朝鮮人の約200人を虐殺)伝わると、朝鮮半島の各地で中国人移住民に対して朝鮮人の集団的報復により、中国人移住民は次々と襲撃された。平壌だけでも約100人以上の中国人移住民が虐殺された。特に日本による誇大な誤報道により、朝鮮では激しい反中国運動が起り、それに対抗して中国では排日運動が激化した。朝鮮人たちは中国人から常時に満州で迫害を受け続けた。満鉄沿線以外では危険や迫害が迫り、危険防止のため朝鮮人は日本人の名前を所持する創氏改名の運動が起こった。



2018年12月17日月曜日

日露戦争は大石橋の惨戦は約30kmの大戦線で日本軍に甚大な死体の山や逃走兵も伴った。

日露戦争中に営口と南満州鉄道本線をつなぐ大石橋で、日本軍はロシア陸軍を撤退させ占領した。大石橋は中国遼寧省で哈大線沿いの町である。1904年7月24日に大石橋の惨戦が勃発して、7月25日に日本軍は大石橋を占領した。日本軍は約56,000人、ロシア軍は約49,000もの兵士で、東西に約30kmにも及ぶ大戦線となった。両軍それぞれ約1,000人もの戦死傷者を出す惨戦となった。大石橋の惨戦では、ロシア軍の強固な防衛線を前に日本兵は死体の山を築いた。悲惨な戦況から、遂に銃を捨て逃走する日本軍兵士も散見された。
 鴨緑江会戦で日本軍が5月1日にロシア軍を破り、南山の戦いではロシア軍陣地を5月26日に侵略して、約4,000人もの日本軍兵士が戦死した。遼陽を目指した日本軍は、南下したロシア軍隊を得利寺の戦いで6月15日に撃退し、続いて大石橋の戦いでも7月25日に惨勝した。日本軍が、旅順攻囲戦を8月19日から開始するも、ロシアの近代的要塞に長期化した。両軍ともに約1万5,000人が戦死する大損害を受けて、1905年1月1日にロシア軍を攻略した。



2018年12月7日金曜日

日本軍は、鉄道妨害犯人で逮捕された3人の朝鮮人を軍法会議で死刑を宣告して銃殺した。

1905年頃に、日本軍は、1905年頃にソウル付近で鉄道妨害犯で逮捕された3人の朝鮮人を銃殺した。両側に並ぶ日本軍は、彼らを匪賊と呼び、軍法会議で死刑を宣告した直後に処刑した。
 日露戦争が1904年2月8日に勃発する直前に、大韓帝国は中立を宣言した。日本軍は無視して宣戦布告より2日前に仁川から約10,000人がソウル周辺を占領した。2月28日には日韓議定書を結び、日本は軍略上に必要な地点を臨機収用できた。日露戦争後には、朝鮮半島を南北に貫き中国東北部に迫る約950kmの鉄網を構築した。日露戦争後も日本軍は約30,000人が占領して、朝鮮は日本軍により植民地化された。鉄道は朝鮮人から農地を奪い、日本軍は強引に集められた朝鮮人に強制労働を課した。朝鮮人に反発と憎しみを呼び、日本支配に抵抗する義兵闘争となった。手を焼いた日本軍は、鉄道に危害を与えた者やかくまった者を死刑にする軍令で処刑した。きつい労働を強要されて抵抗した農民は、銃を構えた日本軍兵士にはりつけで処刑された。1905年頃に日露戦争のさなか、日本帝国が韓国侵略のために敷いた鉄道を破壊して、首都の京義線付近で3人が公開銃殺された。日本の植民地化に抵抗した3人は義兵として、処刑場面の写真は韓国の歴史教科書にも登場する。



2018年9月26日水曜日

日本軍が北間島の村落を放火し、ピョン農民が大極旗を振り大韓独立運動と叫び、日本刀により両腕を切断した。

日本軍が韓国を併合した時代に、朝鮮近辺における北間島の和竜県の全村落を放火した。その最中に、村民の30歳台のピョンと名付けた農民が、大極旗を振りながら、大韓独立運動と叫んだ。日本軍がピョンを検挙した。その処罰として、日本軍兵が、日本刀を振りかざして、ピョンの両腕を切断した。両腕から大量に出血して、直後に大地に倒れた。
 1902年10月に、日本軍がシベリアから撤退して、東南にソ連、西南に豆満江を挟んで朝鮮に接していた間島を侵略した。1920年10月に間島の日本領事館の琿春分館が2度に襲撃事件を引き起こして、朝鮮独立運動の容疑者を大量虐殺をした。朝鮮独立運動勢力は、北間島の周辺に潜伏した。日本軍は、北間島地方を無差別に弾圧した。1931年9月18日から満州事変が勃発してから、朝鮮独立運動は抗日闘争が過激化した。1934年に朝鮮人が土地を奪われて間島に流刑されて、人口が増大して約570,000人にも達した。間島を拠点とする独立武力勢力は強化されて、東北人民革命軍に合流して、中国共産党の支配下に入って、抗日統一戦線が結成された。



2018年8月24日金曜日

アメリカ艦隊は海兵隊を1867年に広城鎮に上陸させた戦闘で、アメリカ軍兵士は約3人と朝鮮軍兵士は約240人が戦死した。

アメリカのアジア艦隊は、1867年6月11日に陥落した直後の広城鎮には、多数の虐殺された李氏朝鮮の兵士ら死体が散乱した。強固な攘夷鎖国であった李氏朝鮮は、1866年に朝鮮住民を殺害したアメリカ商船シャーマン号を撃沈して乗務員を虐殺した。アメリカは1867年1月に、シャーマン号の乗組員の安否を確認する軍艦ワチュセットを派遣した。さらに1868年4月に辛未洋擾の事件究明のために軍艦シェナンドアを派遣した。1871年清国に駐在していたアメリカ公使は、李氏朝鮮に対してシャーマン号事件への謝罪と通商を求めて、アジア艦隊を李氏朝鮮に派遣を命じた。日本の長崎から5月に5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった。アメリカ軍は6月10日に激しい砲撃戦から、アメリカのアジア艦隊は海兵隊を江華島に上陸させた。まず草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。この戦闘の犠牲者は、アメリカ軍は約3人に対して、朝鮮軍は約240人も戦死した。朝鮮側の攻撃は、ほとんど米艦隊には損害を与えなかった。アメリカ軍は、李氏朝鮮軍かの多数の武器・軍旗を戦利品にして帰国した。アメリカ海軍の勝利であったが、本来の目的の通商は大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、朝鮮国は引き続き鎖国を続けた。日本政府は李氏朝鮮に1868年から開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏政権は鎖国政策を守り、拒否していた。日本は1875年に軍艦雲揚号が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領して、守備兵を虐殺して武器を略奪した。日本側は朝鮮側からの砲撃の責任を追求して、交渉のための開国を迫り、1876年に日朝修好条規が締結されて、朝鮮は開国した。






2018年8月11日土曜日

日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、犠牲となった戦死者の死体を満州の高地に埋葬した。

日露戦争の沙河会戦で、沙河南岸を防御した日本軍兵士は、南方高地に戦死者の死体を埋葬した。日露戦争にて、遼陽を侵略した日本軍に対して、ロシア軍は態勢を立て直し、奉天から大兵力を南下させた。両軍は1904年10月8日から18日にかけて、沙河付近で沙河会戦が勃発した。双方に大きな人的犠牲がでた。10月8日夜半に本渓湖の日本軍が、ロシア軍の攻撃を受けて沙河会戦が勃発した。日本軍は10月10日には防御から攻撃に転じた。各地で激戦が展開されて、10月12日に日本軍が三塊石山を占領し、ロシア軍は後退した。日本軍は15日に沙河河畔の要地である万宝山を占領した。ロシア軍は翌16日に万宝山を奪回した。日本軍はロシア軍の追撃も困難となり、10月18日に日本軍は沙河南岸に防御を固めた。10月下旬に旅順第2次総攻撃を控えた日本軍は、北部戦線に余力はなかった。北部戦線はこう着状態となり、両軍は沙河をはさんで、1905年春まで対峙した。沙河会戦にて、日本軍の参加兵力は約120,800人で、戦死者約4,099人・戦傷者約16,398人が犠牲となった。ロシア軍は、参加兵力約221,600人で、戦死者約5,084人・戦傷者約30,394人・行方不明者約5,868人の犠牲を出した。



2018年7月8日日曜日

日露戦争の満州侵略の途上にて、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の戦死者を集積しては火葬した。

日露戦争の緒戦にて、満州を侵略するために、日本軍は中国と北朝鮮の国境となる鴨緑江を渡河した。日本軍は1904年4月25日の夜に、北朝鮮北西部の虎山として知られる鴨緑江に面した九里島に侵攻した。4月26日朝に義州元化洞の九里島に攻撃して上陸して占領した。それを阻止するロシア軍の砲兵隊に砲撃を受けて、多数の戦死者を出した。日本軍は4月30日から5月1日まで鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、それを防御するために待機していたロシア陸軍との間で戦闘が勃発した。戦争下の日本軍は不利な状況になり窮地に至って、日本軍はロシア軍の砲撃により多大な犠牲を受けた。苦しい状況で攻めあぐねて、悲惨な戦況ともなった。ロシア軍も、悪路・悪天候の戦地の環境にも混迷して、戦地で苦戦をした。鴨緑江渡河の途上で、日本軍は義州元化洞の九里島を占領時の日本人兵士の戦死者の死体を集積しては火葬して処理した。5月1日の午後にはロシア軍の撤退によって日本軍は九連城一帯を占領した。



2018年7月1日日曜日

日露戦争でロシア軍兵士は203高地で死体を検分して、日本軍は戦闘は2回の攻略は失敗し、膨大な犠牲者は軽視された。

日露戦争は、旅順港の防御の重要地点であった203高地が最も悲惨な戦闘となった。ロシア軍兵士も膨大な死体群が旅順要塞に散在した。ロシア軍兵士らは、犠牲となった死体を検分した。日本軍は戦闘は数ヶ月にわたる2回の攻略は失敗して、膨大な犠牲者は軽視された。ロシア軍は、203高地の防御の重要性は軽視して、要塞攻略はあまり重要ではなかった。ロシア軍側も203高地一帯は不利な地点でり、前進基地としての運用しか考えていなかった。日本軍は2度にわたり攻略は失敗して、バルチック艦隊の出撃を受けた。要塞正面への攻撃による消耗戦に突入するため、1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するも、ロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。結局12月5日に203高地は陥落した。ロシア軍は要塞の予備兵力が消耗枯渇した。日本軍も203高地の占領は戦略的にも戦術的にも寄与しなかった。多くの戦死者を出した。旅順攻略戦として犠牲者は、戦死者約16,000人、戦傷者約44,000人に及んだ。ロシア側の被害も大きく、予備兵や臨時に海軍水兵水兵までも、203高地で虐殺された。



2018年6月18日月曜日

日露戦争の旅順で、ロシア軍は単純突撃した日本軍兵士の大量の死体を除去し廃棄した。

日露戦争の激烈な戦闘があった旅順にて、ロシア軍は大量の日本人兵士の死体を片付けて処理した。日清戦争により、日本軍が1895年に旅順を占領した。日本帝国は三国干渉により、下関条約による旅順を含む遼東半島の割譲は破棄された。1900年の義和団の乱の鎮圧により、ロシア帝国は旅順を租借地となり軍港の要塞となった。ロシア帝国から朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯の要請を拒否して、日露戦争が1904年から1905年まで勃発した。ロシア軍は約42,600人、日本軍は約115,600人が犠牲となり戦死した。ロシア帝国では、1905年1月9日に血の日曜日事件などが勃発して、日露戦争から退却となった。ポーツマス条約で1905年9月5日に講和して、日本軍は遼東半島の南端の関東州が租借地となり、南樺太が割譲された。日露戦争は限定戦争であるも、戦闘と軍事力の高度な殺傷力は、日露戦争が陸上戦にて単純突撃を反復して屍の山を築いた。戦闘が短時間に大量の犠牲者を生み、戦闘の加速度を増し、戦争地域が拡大した。 



2018年6月18日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 700回

2018年6月1日金曜日

日露戦争にて日本軍が満州の荒野に散乱した戦死者の死体を火葬するために集積した。

日露戦争にて、両軍は膨大な戦死傷者が犠牲となった。日本軍が満州の荒野に散乱した戦死者の死体を火葬するために集積した。1904年年3月に勃発した満州と朝鮮への侵出する露と日本が衝突した帝国主義の日露戦争に犠牲となった。日本軍は戦死者は約115,600人と日清戦争の約13,800人の約10倍に昇り、露軍は約42,600人に達した。日本軍は約1年かけて露軍の旅順要塞を侵略し、1905年3月に奉天会戦で露軍は撤退し、5月の日本海海戦で露のバルチック艦隊を掃討した。露では1月に血の日曜日事件にて第1次ロシア革命が起こった。9月にアメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領の仲介で、ポーツマス条約を締結した。逆に露はバルカン方面への進出を強めて、第一次世界大戦に向けて突入した。 日本は1910年に韓国併合を強行して、社会主義思想を弾した大逆事件から皇帝制帝国主義を強化した。 




2018年4月18日水曜日

日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。

1917年11月にロシア革命が勃発して、第1次世界大戦の捕虜となったチェコ軍が、1918年5月に西シベリアを占領した。チェコ軍がソ連軍と戦闘となり、連合国がソ連にシベリアに出兵して、軍事干渉をした。ロシアの労働者や農民などの市民が、パルチザンとして闘争して、激烈な抵抗をした。日本軍は約70,000人も増員して、11月に強引に東シベリアにも侵略を企てた。日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。日本軍だけは、日本人の保護を名目に軍事占領を継続した。1920年5月の尼港事件で、パルチザン部隊がニコラエフスクにて約6,000人を無差別に大量虐殺をした。さらにパルチザンとの戦闘が激烈となり、連合国は1920年6月までにシベリアから撤兵した。日本軍だけ残留するも、約3,500人の戦死者を出して1922年10月になって撤兵した。



2018年4月1日日曜日

満州に南下したロシア軍は、中国人の捕虜を虐待して、身体の傷口から異臭すると、頸を切断して虐殺して見せしめにした。

ロシア帝国は、1891年からシベリアから満州への鉄道を敷設を開始した。義和団と清国軍が、1900年3月から反抗して鉄道の敷設を妨害した。それらを防御するためにロシア軍とコサック軍が南下し、6月に衝突して武力に劣る数百人の中国人を虐殺した。8月に黒竜江を渡ると、切り裂かれたロシア軍の捕虜を発掘して、周辺の地域を延焼した。中国人らは、満州北部に避難して、9月には南部の中国人軍は敗北して粉砕された。ロシア軍は、収容した中国人の捕虜を虐待して、身体の傷口から異臭して来ると、頸を切断して虐殺した。中国人の頭部を壁に貼り付けて見せしめにした。切り裂かれた身体からは、蝿がたかり、腐敗した。



2018年3月31日土曜日

日露戦争で旅順203高地のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なった。

日露戦争でに旅順203高地の争奪は日本軍とロシア軍で約8,000人もの悲劇的な戦死者を出した。ロシアの旅順要塞は1904年8月19日から12月5日まで、旅順要塞は厚いコンクリートの要塞に砲撃の効果が無く、次々に突撃した日本兵は倒れて戦死した。山頂からの攻撃の炸裂に対して身を隠すものがなく、狙い撃ちにされた日本兵は次々と倒れて戦死した。日本兵が決死の突入は、頭上からのロシア要塞の砲台から容赦なく銃弾と手榴弾と砲弾で戦死した。1904年12月5日に9日間に及ぶ日本軍の絶え間ない突入にロシア軍は力尽き203高地は陥落した。山頂のロシア堡塁に切り込むも、撃退されて、次々に日本兵の死体が積み重なっていた。



2018年3月23日金曜日

日露戦争の遼陽会戦で、ロシア軍が撤退した満州の黒英台の荒野には、膨大な日本軍兵士の戦死者が散在していた。

戦争の写真は、戦場の日常を映し出すも、戦死者はより一層に戦争の悲惨な真実を伝える。戦争における戦死者の写真は、文字や絵では描き出せない戦争の日常の中に死という現実を映し出した。遼陽会戦で1904年9月4日にロシア軍は退路の遮断を恐れて、奉天へ撤退した。黒英台附近の戦場の写真では、ロシア軍が去った満州の荒野に日本兵の戦死者が散在していた。両軍は膨大な兵力損失や戦死者から追撃は阻止された。苦難に立ち向かう味方兵士の美談・武勇などを讃えて、敵国兵士の残虐性・非道を引き立てた。次第に戦死の問題を遠ざけるために戦死者の写真は排除されて極秘にされた。逆に非人間的な近代兵器による自然や物体に対する威力は、士気高揚に資する壮大さ破壊力などが強調された。


2018年3月7日水曜日

日清戦争で旅順の近郊にて、日本軍は清軍の残兵を掃討するために無差別に虐殺した。

朝鮮半島にて、1894年(甲後)に朝鮮人農民が4月に全土にわたる内乱を起こして、甲後戦争が発生した。それに東学の信者が関与して、東学党の乱と別称される。朝鮮の反乱に対して、清国軍と大日本帝国軍が李王朝の援軍として出兵するも、厳しく対立して日清戦争が7月25日から勃発した。日清戦争にて、日本軍が旅順を11月に侵略した時に、旅順の市内と近郊にて、日本軍が清軍の残兵を掃討するために無差別に虐殺した。



2018年1月29日月曜日

初めて明治初に軍役に当たる20歳以上の日本人男性を集め徴兵検査をした。

明治政府は、1871年2月に薩摩藩・長州藩・土佐藩の武士による御親兵が組織された。しかし旧薩摩藩の反乱である西南戦争などに対抗するため、中央政府は独自の強大な兵力の整備を求めて、1873年1月10日に徴兵令を施行した。地租改正による定率の金納と長男相続制度から、戸主に代わる総てを兵役の対象として徴兵した。市民のような平民階級に課せられた賦役となり、次第に近代的な大衆軍隊を構成した。徴兵検査を受ける義務があった装丁となり、軍役を課せられる20歳以上の日本人男子が初めて集合した。