2019年2月18日月曜日

日露戦争の旅順攻略にて、ロシア軍の砲弾で西嶺溝の東方にある畑地の多数の日本軍の歩兵連隊が戦死した。

日露戦争において、1904年7月26日午後に西嶺溝の東方にある畑地で戦闘中に、ロシア軍の砲弾等にて日本軍の多数の第36歩兵連隊が戦死した。その死体が、荒野の雑畑に散乱した。1904年2月から7月にかけて連勝の日露戦争は国民の不安心理を払拭して、県民は戦勝に酔い、各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。
 歩兵第36歩兵連隊は、日本陸軍の第3軍に所属して、遼東半島に上陸して、旅順要塞の攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦にも参戦した。この戦闘における歩兵連隊の戦死者率は第4位にも達した。203高地を攻略する第3軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参戦したことに由来する。8月19日からの旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、生存者は約251人と悲惨な戦死状態に陥った。戦死者は歩兵は約1,533人、戦傷者が約4,211人、行方不明は約24人に達した。9月5日には、第36連隊は旅順第1回総攻撃で竜眼北方角面堡の攻略に失敗して、ほぼ連隊が凄惨な全滅に陥った。奉天会戦でロシア軍を圧倒した1905年3月10日から、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みも立たなくなった。