2020年12月27日日曜日

朝鮮戦争にて粛川の戦いでは、道端に地域住民が巻き込まれて虐殺された死体が散乱して、国連軍は死体を眺めながら通り去った。

朝鮮戦争により、アメリカ軍を主体とする国連軍が、1950年10月20日に空挺部隊が降下して粛川・順川の戦いが勃発した。その後の粛川の道端には、地域住民が巻き込まれて虐殺された死体が散乱していた。国連軍は死体群を眺めながら処置することもなく通り去った。

 朝鮮戦争にて国連軍が平壌を再奪還した1950月20日に、突如にアメリカ軍空挺部隊が平壌の北方約40kmのに粛川に降下した。主力が粛川に、一部が順川に降下し、それぞれ独立に行動して北朝鮮軍の退路を遮断する作戦であった。金浦飛行場から10月20日の正午頃に第一次降下隊が出撃した。第一次降下隊の約2,800人は、爆撃機による爆撃後に、粛川盆地とその周辺の丘に飛び降りた。第1大隊は、わずかな北朝鮮の抵抗を排除しながら、粛川東方の97高地と北側105高地を占領した。午後2時20分頃に、第2次降下部隊が順川の南西約3kmの地点に降下した。北朝鮮軍は退路を完全に断たれ、袋の中のネズミも同然、殲滅の運命で、朝鮮戦争は終末段階と誤認した。しかし、北朝鮮軍主力部隊と政権首脳はいち早く清川江を渡河して北岸に避退していた。一部が粛川の南方約10kmの永山で主力の後退を掩護した。アメリカ軍と韓国軍の捕虜もすでに北方に移送された。南下すると約2,500人の北朝鮮軍と衝突して、挟撃した。10月22日午前11時までに、残存していた北朝鮮軍約1,070人を打倒して、約880人を捕虜にした。北朝鮮政府首脳を一網打尽にできなかった。
 10月20日正午ごろ順川に到着した第1騎兵師団長は、西約8kmの鳴子姑トンネルの中で、北朝鮮軍に連行されたアメリカ軍捕虜の約300人のうちで約66人が銃殺された死体が散乱していた。北朝鮮の列車に約370人ほどの北朝鮮軍警護兵が同乗して、捕虜の残虐な取り扱いで、毎日約5人ずつが激しい下痢や飢餓、拷問のために虐殺された。10月20日午後に、アメリカ軍の空挺作戦の開始から、北朝鮮の列車はこのトンネルの中に待避した。夕方に、給食のため約100人の捕虜が列車から降りた時、北朝鮮警護兵がいきなり機銃掃射をあびせかけて、捕虜の半数が虐殺された。粛川の戦いの犠牲者は、アメリカ軍が約49人が戦死、約136人が戦傷した。北朝鮮軍は約1,075人以上が戦死、約1,200が捕虜となった。約11月27日〜12月13日の長津湖の戦いで、膨大な中国の人民志願軍が参戦して、朝鮮戦争の形勢が再逆転して国連軍は撤退した。