日中戦争が1937年7月に盧溝橋で勃発して、第二次上海事変において1937年9月に、日本軍が中国軍の籠城する羅店鎮(Luodian)の城内が陥落した。城外に吹き飛ばされた多数の中国軍の兵士の死体が散乱した。おそらく日本軍の迫撃砲によって吹き飛ばされて殺害された。戦争には死体が付き物であり、醜く変形していた。敵兵の中国軍兵士の死体は、放置されたままでうじや細菌などで腐敗あるいは肉食動物に食い荒らされた。軍隊は、生き残った兵士よりも死んだ兵士を称えた。
上海事変が8月13日から勃発していた。中国の上海中心部から郊外の約25 kmの宝山区にある都市である。1937年に、上海近郊の交通の要所である羅店鎮で最も激しい攻防戦が勃発した。日本軍は、上海の要所にあたる羅店鎮の白壁の城を攻めた。中国軍の激しい抵抗に合って、死傷者が続出する激戦となった。日本本土では、日本軍の果敢な戦闘を大々的に報じたが、実際ははとても悲惨な戦闘となっていた。
羅店鎮の地域は悪路に加えて入り江が網の目にめぐっていた。砲弾などの補充がつかず、陣地の侵攻も困難であった。中国軍は夜襲や奇襲も仕掛けた。日本軍は海軍機の爆撃を得て、攻撃を再興した。城内に拠る中国軍兵士はは頑強な抵抗を続けたが、日本軍が羅店鎮を一旦は占領して鎮圧した。中国軍は要所である羅店鎮を奪回すべく、増援部隊を送り込み、連日のように逆襲をかけた。日本軍は9月初頭に、羅店鎮南側の中国軍に対して打撃を与えて、9月21日に陸軍機の爆撃によって攻撃が開始された。羅店鎮の白壁の城の頑強な抵抗に遭遇して、20日間も攻めあぐね坑道を掘進して9月23日に、爆破して占領した。家宅・周辺などの陣地の中国軍兵士を掃討して占領した。中国軍の死傷率は約50%以上にも達した。