2019年2月28日木曜日

13歳男子のパレスチナ人の右眼がイスラエル軍の弾丸で撃ち抜かれ、大きく歪んだ右の顔面から多量に出血して即死した。

イスラエル軍は、2004年5月にテロリストの撲滅するレインボー作戦をパレスチナのガザ地区に侵攻した。パレスチナのブラジル地区とタラ・スルタン地区には、5月18日午前中から侵攻した。13歳男子のパレスチナ人の右眼が弾丸で撃ち抜かれた。救急車で瀕死のアル・ナジャール病院に護送されて、大きく歪んだ右の顔面から多量に出血して即死した。イスラエル軍は、パレスチナ地区で無差別に子どもまでも巻き込んで虐待と虐殺した。次つぎと多数の死体も運ばれて、病院は死体の置き場に変貌した。病院内に入りきれない死体は、中庭や廊下に散乱した。病院は5月18日だけで約17人の死体が搬入された。
 イスラエル軍はレインボー作戦で、パレスチナのガザ地区に対して、密輸トンネルの破壊、テロリストへの攻撃、緩衝地帯の拡大と占領した。イスラエル国防軍の軍事作戦で、2004年5月12日から24日にかけて、パレスチナ南部ガザ地区のラファに侵攻し占領した。イスラエル軍の約11人兵士が2回のパレスチナ人の攻撃で死亡した報復として勃発した。5月12日から24日までに約59人のパレスチナ人が虐殺された。そのうち約11人は18歳以下であり、約59人のうち約18人のみが武装していた。イスラエル国防軍は、ガザ地区にてエジプトの国境に沿って、少なくとも約70ヘクタールの農地も破壊した。その緩衝地帯を拡張するために約300戸のイスラエル人が入植して、ガザ地区の一部内側まで占領した。


2019年2月27日水曜日

コソボ紛争でアルバニア人たちが、1999年セルビア人によってラチャック村で無差別に虐殺された。

ユーゴスラビアの連邦国は、少数派を血まみれに追放して、共産主義のユーゴスラビアが崩壊後に、独立を宣言した。コソボ紛争でアルバニア人たちが、1999年1月15日にセルビア人によってラチャック村で無差別に虐殺された。血まみれのアルバニア人の約46の死体が散乱した。
 1945年以降にコソボのアルバニア人の少数民族は、90%もの多数派に達した。 1981年にこの地域から騒乱が始まった。スロボダン・ミロシェビッチは、セルビア人の少数派の代表者になり、後に大統領となった。1986年に、ユーゴスラビア共産党をセルビア社会党に改名した。1989年にコソボの自治を廃止して、アルバニア人幹部をセルビア人に置き換えた。
 1980年代末に、民族主義者らは共和国の権力を引き継いだ。クロアチアとスロベニアは、1991年6月26日に独立を宣言した。ユーゴスラビア軍は両国に進軍したが、すぐにスロベニアから撤退した。クロアチアの3分の1は占領を継続した。居住するセルビア人の少数民族はクライナ共和国の独立宣言した。
 1990年11月のボスニアの総選挙で、アリヤ・イゼトベゴヴィッチが率いるイスラム教徒民主化党が過半数を獲得して、1991年に独立宣言した。ボスニアのセルビア人少数派は、ラドヴァン・カラジッチの下でセルビア共和国は独立宣言した。セルビア人は、ユーゴスラビア軍の支援でボスニアの3分の2を占領した。追放と大量虐殺による残忍な民族浄化が行われた。北太平洋条約機構(NATO)は1995年に内乱の抑止のため介入した。約220万人が残酷な難民となり、約20万人が殺害された。国連の監視下でボスニア・クロアチア連邦とセルビア共和国に分割され独立国家とした。
 1995年にクロアチア軍は、クライナ共和国を再占領した。追放されたセルビア人はコソボに逃避した。1992年にアルバニア人はイブラヒム・ルゴバの下でコソボ共和国を独立宣言した。コソボ解放軍とセルビア人治安部隊と激戦となり、セルビア人勢力が攻勢に至った。NATOはセルビアに対する空爆とコソボの占領に介入した。数千人のイスラム教徒のボスニア人は、1995年にボスニアのセルビア人地域から逃げたNATOはセルビアに対する空爆とコソボの占領に介入した。
 マケドニアも1991年に独立を宣言した。マケドニアの少数派アルバニア人はイリリア共和国を宣言し、2000年に解放軍を創設した。コソボから約25万人の難民が発生した。 NATOと国連軍は戦争の暴発を抑止した。


2019年2月26日火曜日

日露戦争で作子溝の戦闘で、日本軍兵士の多数の戦死体が、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。

日露戦争における作子溝の戦闘で、戦死した日本軍兵士の多数の死体が、処分が間に合わずに、中国の荒野の上ににうち捨てられて放置された。戦闘中は、死体の収容も困難であり、放置されたままに腐乱した。日露戦争の膨大な戦死者の犠牲を伴うも、死体の処理は荒野で火葬あるいは埋められて処分された。至るところに埋めた目印となる墓標を荒野に立てた。膨大な死体の場合には積み重ねて火葬にして埋葬した。人体は水分が多いので、太い薪を大量に燃やしても一晩かかった。旅順攻略戦闘では、クリスマス休戦や正月の休戦等、戦域司令官同士が休戦を合意すれば、双方が戦死の死体を回収して、犠牲者を弔うこともあったようである。
 1873年1月10日に徴兵令を施行した明治政府は、陸軍と海軍の墓地制度を布告して、戦死体の処分権と祭祀権は、1945年8月15日の終戦まで遺族ではなく軍部が握った。日清・日露戦争から日中戦争の前半頃までは、戦地に墓地を設営して、火葬あるいは土葬して戦死者の死体を処分した。陣地が継続的に確保されていれば、墓標を立てて儀礼も行った。日中戦争の後半になると、墓地を設営する余裕もなく、火葬した遺体の一部分を持ち帰り、他の部隊に委託から本国に還送することになった。近代戦では、戦死者の死体数が増大するにつれて、戦況に応じた儀礼や処分がされた。軍隊に兵士の死体の処分の権利があり、遺族に遺骨を渡した。遺骨の還送が困難な場合は、霊璽(霊名)を記載した用紙、さらには白木の箱に入れた砂、小石、サンゴなどを、軍隊が形式的な儀礼を行って遺族に手渡した。日本国憲法では軍隊を持たない日本に、戦後から靖国神社が戦死者の祭祀権を保持している問題が継続している。




2019年2月25日月曜日

イラク戦争で、アメリカ軍と参戦した外国人の傭兵の死体を砂漠に埋め捨て腐敗して白骨化した。

イラク戦争では、アメリカ軍兵士だけでなく、民間軍事会社に雇われた多くの傭兵が参戦した。アメリカ軍兵士が虐殺されている危険な地帯や戦場には、お金で雇った兵士である傭兵が参戦した。戦争で外国人の傭兵が虐殺されても、外国人として都合よく処理された。医薬品が落ちた荒野から、大きな黒いビニールが掘り出された。アメリカ軍が使用する遺体収容袋から、大量の腐敗して白骨化した死体が排出された。参戦した外国人の傭兵と思われる死体が砂漠に埋め捨られた。ヘリコプターからも死体を投下して捨られた。
 アメリカ軍は、ベトナム戦争後には徴兵制度が廃止された。職業軍人である士官以外の一般兵士は志願兵である。湾岸戦争からイラン・アフガニスタン戦争では、多くのアメリカ人の若者が奨学金を得て大学進学するために志願した。アメリカの志願兵制度下では、最も格差社会の下層階級出身の若者が奨学金目的で兵役を志願するという傾向がより顕著になった。ただし、非常事態には選抜徴兵できる義務兵役サービス(Selective Service System)に、アメリカ人男子は原則として18歳になった時点で登録する義務がある。
 1960年に徴兵制が廃止されたイギリス軍だけでくアメリカ軍にも、貧困から脱国するためにネパールから過酷で厳格な山岳民族から構成されたグルカ(Gurka)兵も傭兵として参戦した。その他に、貧困を脱国するために、そのほかに、南アフリカ、ウクライナ、フィージーなどから多数の傭兵が参戦した。徴兵制もなく軍隊も保持していない国家は、世界でアイスランド・コスタリカ・日本のみである。




2019年2月24日日曜日

ロシア帝国のウクライナでユダヤ人に対するポグロムにより多くの子ども達も虐殺されて犠牲者となった。

ウクライナのエカテリノスラフ(現在のドネプロペトロフスク)で、1905年にユダヤ人に対するポグロムにより多くの子ども達も虐殺されて犠牲者となった。ポグロム(Погром)とは、ロシア語に由来して、破壊あるいは破滅を意味する用語である。特定の場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為である。1881年3月1日から南ウクライナにて、ロシア人のよるユダヤ人に対するポグロムが起点となった。
 帝政ロシアは社会的不満のはけ口をユダヤ人排斥主義に誘導した。 ロシアにおける約5,000人ものユダヤ人が1905年に平等権を求める「ユダヤ市民宣言」に署名した。1903年から1906年にかけて重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の難民となった。ロシア帝国のキシネフで、1903年4月のポグロムで反ユダヤ人暴徒が、約49人のユダヤ人を虐殺して、1905年10月のポグロムで2回目の暴徒が、約19人のユダヤ人を虐殺した。第2次世界大戦でもポーランド東北部の村落を中心にユダヤ人がソ連および赤軍と密通の容疑から、ポーランド人やウクライナ人などナチス・ドイツ支配下に置かれた民族は、ユダヤ人にポグロムを執行した。 ナチス・ドイツが1941年に独ソ不可侵条約を破り、東欧からロシアに侵攻した。ポーランド人やユダヤ人の格下として、ナチスには劣等人種と蔑まれたウクライナ人は、逆にユダヤ人に対するポグロムに追従して見つけ次第に虐殺した。





2019年2月23日土曜日

アメリカ軍が上陸した日に、韓国の国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。

第2世界大戦の終戦により、朝鮮半島で勃発した政治的暴力により、朝鮮半島は日本軍からの解放後に最初の2人の死者が2人出た。アメリカ軍が上陸した9月8日に、国家警察により、労働組合指導と平和維持活動家が殺害された。朝鮮占領はアメリカ・ソ連ともに準備が足りず、両軍が朝鮮を把握できず、一貫した占領政策がなかった。特に主要都市であるソウルで大きな政治混乱を生む一因となった。
   韓国では、朝鮮が日本の植民地統治から自主独立を取り戻した出来事を光復と呼称され、光復を記念する毎年8月15日を光復節の祝日に定めた。1945年9月9日からアメリカ軍が朝鮮半島に侵攻して、先に入っていたソ連軍とともに朝鮮半島における日本軍の武装解除にあたった。先にアメリカ軍とソ連軍の間で締結されていた協定に即した。ソウル(京城府)と仁川を既に占領していたソ連軍は38度線の北へ後退した。朝鮮半島の38度線より南側はアメリカ軍が占領した。
 ソ連が支持した朝鮮人民共和国が1945年9月6日に樹立されるも、アメリカは朝鮮民主党を支持して、各地の朝鮮委員会を約1年を要して解体した。朝鮮半島南側の大韓民国は、1948年に建国宣言をした。 アメリカ保護下で旧植民地体制と国家警察の維持に対して、1948年から朝鮮戦争が勃発した1950年まで武装ゲリラが闘争した。




2019年2月22日金曜日

卒塔婆を背負わされて、両手を縛られた日本軍の2人の指揮官は、上海刑場の群衆の眼の前で銃殺された。

日中戦争の終戦後に、中国大陸に捕虜として在留させられた日本軍兵士は、敗戦による悲劇の制裁を受けた。中国在留の日本人にて、特に上官・憲兵・特殊機関員・宣撫班などの日本人兵士が戦争犯罪人として裁定された。日本軍兵士の上官は、部下の残虐行為の責任を取らされた。1946年に処刑する上海刑場に向かって、上海の街を引き回された後に、卒塔婆を背負わされて、両手を縛られた日本軍の2人の指揮官は、群衆の眼の前で銃殺された。上官だけでなく日本軍憲兵も、群衆の眼の前で処刑が執行された。
 中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷で裁定されて、1949年2月までに戦犯145人に死刑の判決を下された。特に中国人に悲劇の報復を受けて、日本軍の憲兵は約63人も死刑を処刑された。太平洋戦争後に、連合国は東京に極東国際軍事裁判所で裁定して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他に、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどでB級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本の戦犯総数は5423人で、判決を受けたものは4226人で、そのうち死刑に処せられたのは941人であった。第2次世界大戦の連合国によるポツダム宣言に基づき、戦争犯罪に関する極東国際軍事裁判所条例により有罪判決を受けた。条例では、A.平和に対する罪、B.通例の戦争犯罪、C.人道に対する罪の3罪が定義された。項目Aで訴追された者をA級戦犯、項目BをB級戦犯、項目CをC級戦犯と呼び、その大部分はB級戦犯であった。 




2019年2月21日木曜日

連合国の香港空襲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。

第2次世界大戦にて、アメリカ空軍は日本軍が占領した香港に対して無差別の空襲を投下した。香港空襲の犠牲により、崩壊した建物の下敷きに2人の少年が犠牲となり爆死した。日本軍は報道機関に対して、犠牲者の狼狽の状況、死傷者の運搬状況、死体などは、事実を誇張して刺激する被害の実態を公表することを禁じて極秘にした。
 イギリスの植民地であった香港を日本軍が1941年12月25日から終戦まで占領統治した。香港の戦いでイギリス香港総督が日本に降伏してから、日本のポツダム宣言受諾による降伏後まで、3年8ヶ月間にわたり日本軍が占領統治した。日本と中華民国の戦争が続いていた上に、香港住民は日本軍の香港占領に抵抗した。
 日本軍の香港占領時の1942年9月からは、中華民国内やイギリス領インド方面からの連合国軍の爆撃機による香港空襲が勃発した。主に日本軍の施設を目標するも、無差別な誤爆も度々発生した。最も犠牲者が多かったのは、アメリカ空軍による1945年1月21日の香港の湾仔市街への誤爆であった。香港住民の死者は約1,000人、負傷者約3,000人に達した。さらに1945年の香港空襲では、銅鑼湾にあった病院付近に爆弾が落ち、約490名の死者を出し、小学校にも誤爆があった。




2019年2月20日水曜日

イギリス公使パークスに対する攘夷で、罪人は斬首され樽で塩漬けの首を刑場に晒した。

イギリス人公使のハリー・パークスと一行は、1868年3月に京都の知恩院の門に面したまっすぐな道路を、何の妨害もうけずに進んでいった。行列の先頭が居酒屋や芸者置屋の多い新橋通りの角を曲がろうとした時、抜き身の刀を手にした2人の浪人者が飛び出して、怒りに狂って行列に切りかかった。通りは非常に狭く護衛兵の槍は家の軒先で役に立たなかった。
   2人の浪人者のうち、林田貞堅(朱雀操)はその場で斬られて即死した。もう1人の三枝蓊は捕らえられて、後に斬首となりました。ミットフォードは捕らえられた三枝蓊に食事を提供すると、外国人を知らずに襲撃の実行を深く後悔していた。一方のイギリス人一行は負傷者は約10名で、死亡者はなかった。イギリス人公使のパークスを直接に襲撃したが、イギリス側はこの事件を不問にした。明治政府は、狂信者たちが英雄的行為と考えてきた外国人を殺害や侮辱したりする行為は、恥ずべき邪悪な犯罪であり、罪人は刀を取り上げて士族の籍を抹消し、腹切りの特権なく重罪犯人として処刑した。斬殺された林田貞堅(朱雀操)の首は塩漬けにされて樽の上に、三枝蓊は斬首されて刑場に晒しものにされた。



2019年2月19日火曜日

ベトナム戦争にて、ソンミ村での大虐殺でアメリカ軍兵士からベトナム人女性が撃たれ、頭蓋骨や骨片が弾け脳みそが吹き出した。

   ベトナム戦争にて、ソンミ村での大虐殺の写真が、アメリカ軍兵士の大量虐殺の証拠となった。女性が撃たれ、頭蓋骨や骨片が弾けて、脳みそが吹き出した。多くの女性や子どもは、殺害されて死体が小道に横たわった。
   ベトナム戦争において、アメリカ軍兵士が1968年3月16日にソンミ村の無抵抗の約504人の住民を大量虐殺した。第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊は、1発の攻撃も受けずに、非武装のソンミ村住民を集団で大虐殺した。アメリカ軍兵士の約45人が無差別の虐殺に加担した。ベトナム戦争により、青年兵士を集団虐殺で、無実の村民を無慈悲に残酷に殺害させた。アメリカ軍の青年兵士は、射殺の指令により、女子や子どもたちを虐殺してから精神が動転しと錯乱した。戦争にて一旦殺害すると、殺害をし続けることは容易になった。チャーリー中隊の約105人の兵士は、周りの誰でもあらゆる手段で虐殺が起こり得た。
 ウィリアム・ローズ・カリー中尉のみが、戦争犯罪者として1971年に重労働の終身刑の判決を受けた。判決の直後にニクソン大統領により釈放されて、特権の刑事被告人となり、1974年には保釈された。政権はアメリカ世論をベトナム反戦運動の方向へ導かないように、ソンミ村大虐殺を隠蔽し続けた。 ソンミ村大虐殺は、戦争では必ず起こる手本と肯定した。
  本当に人々は戦争の真実を知っているならば、戦争は止めれるでしょう。しかし、もちろん人々は知りませんし、知ることもできませんし、知ろうとしません。戦争は人間には耐え難く、残酷な地獄です。戦争の真実が明らかになれば、血なまぐさい戦争を継続することはできない。



2019年2月18日月曜日

日露戦争の旅順攻略にて、ロシア軍の砲弾で西嶺溝の東方にある畑地の多数の日本軍の歩兵連隊が戦死した。

日露戦争において、1904年7月26日午後に西嶺溝の東方にある畑地で戦闘中に、ロシア軍の砲弾等にて日本軍の多数の第36歩兵連隊が戦死した。その死体が、荒野の雑畑に散乱した。1904年2月から7月にかけて連勝の日露戦争は国民の不安心理を払拭して、県民は戦勝に酔い、各地で毎晩のように盛大な提灯行列や祝勝会が続いた。
 歩兵第36歩兵連隊は、日本陸軍の第3軍に所属して、遼東半島に上陸して、旅順要塞の攻囲戦を戦い、続いて奉天会戦にも参戦した。この戦闘における歩兵連隊の戦死者率は第4位にも達した。203高地を攻略する第3軍に所属し、旅順要塞攻略戦と奉天会戦で、もっとも激烈な戦闘に参戦したことに由来する。8月19日からの旅順要塞攻撃戦で甚大な損傷をうけ、奉天会戦後にほとんど壊滅、生存者は約251人と悲惨な戦死状態に陥った。戦死者は歩兵は約1,533人、戦傷者が約4,211人、行方不明は約24人に達した。9月5日には、第36連隊は旅順第1回総攻撃で竜眼北方角面堡の攻略に失敗して、ほぼ連隊が凄惨な全滅に陥った。奉天会戦でロシア軍を圧倒した1905年3月10日から、日本陸軍の戦力がまったく底をつき、補充の見込みも立たなくなった。 




2019年2月17日日曜日

真夏の炎天下で、救援トラックに長崎原子爆弾で瀕死の被爆者が避難して集合していた。(長崎)

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に長崎市内に投下されて炸裂した。翌日の午前中には、爆心地から南方の約1.1kmの三菱製鋼所第一工場鍛錬工場の付近に、救援トラックは立ち往生した。救援の炎天下で、救援トラックに瀕死の被爆者が避難して集合していた。1人はトラックの荷台に横たり寝たきりで重篤になっていた。トラックの下にも数名の重症の被爆者が横たわっていた。運転台にも、座ったままで前方にうつ伏せていた。救援トラックは、行く手を阻まれて立ち往生して、被爆者は新たな救援を待ち続けた。灼熱の炎天下で被爆者は、倒れて寝たきり、放心状態で座り込んだ。


2019年2月16日土曜日

内モンゴル人が中国人により頭部を叩き割られて殺害される暴力や虐殺が多発した。

内モンゴル人が中国人により頭部を叩き割られて殺害される暴力や虐殺は多発した。内モンゴル自治区シリーンゴル市の近郊の内モンゴル人牧畜民が、2011年5月に中国人系住民により虐殺された。付近に石炭の露天鉱が発見されて、中国人系の数百台のトラックが殺到して搾取した。内モンゴル系住民が抗議すると、中国人住民は金の賄賂をして自治区政府を黙らせて、内モンゴル系住民の虐待と虐殺を繰り返した。内モンゴル系住民が反政府運動をすれば、中国人民解放軍が侵攻して武力鎮圧した。
 国共内戦で共産党軍が勝利して、中華人民共和国が1949年10月1日に建国する以前に、1945年5月1日に内モンゴル自治政府が樹立され、中華人民共和国を構成する一つの自治区となった。自治区政府は、内モンゴル系住民から政府の頂点から下層の職種までの仕事を奪った。下層階級のさらなる底辺に、内モンゴル系住民から少数民族に至るまで押し込まれ抑圧された。内モンゴル自治区では、凄惨な事件が多発した。


2019年2月15日金曜日

ドイツ人市民が、ドイツ親衛隊が虐殺して埋葬した幼児の遺体を土中から掘り出して抱き上げて、茫然として見つめた。

連合国軍がナチス・ドイツよる大量虐殺の実態を連合国軍が調査した。1945年5月3日にドイツ人市民らに命じて、ズットロプ町外の集団墓からの悲惨な犠牲者を掘り起こさせた。ドイツ人市民が、ドイツ親衛隊が虐殺して埋葬した幼児の遺体を土中から掘り出して抱き上げて、茫然として見つめた。
 1944年9月からV2ミサイル開発部門はストロップに局在した。終戦の直前の1945年3月に、開発部門の親衛隊長は外国人労働者の虐殺を命じて秩序を取り戻すように命じた。1945年3月21日から23日まで無差別に女性と子供を含む外国人労働者の約208人がアルンスベルクの森で3回の射撃で射殺された。アメリカ軍が4月5日から8日に侵攻した後に、大量の土豪に埋められた遺体が発見され、ドイツ市民によって掘り出させて、個々の墓に埋めさせた。


2019年2月14日木曜日

ひめゆりの塔の慰霊碑が、沖縄戦末期に女子学徒隊に最大の犠牲を伴った沖縄陸軍病院の第三外科壕に建立された。

ひめゆりの塔の慰霊碑が、沖縄戦末期にて女子学徒隊が悲劇の犠牲を伴った沖縄陸軍病院の第三外科壕に1946年4月7日に建立された。ひめゆりは学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組合わせた「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載された。1953年1月に映画「ひめゆりの塔」が上映されて沖縄戦の悲劇を象徴した。沖縄は1972年5月15日に本土復帰して返還された。
 1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院に看護要員として動員された。最も犠牲を受けたのは陸軍病院第三外科壕の大きく開いた壕口内の学徒隊であった。第三外科壕は6月19日朝に、黄燐手榴弾などのガス攻撃を受け、壕にいた約96人のうち87人が死亡し、3人が壕から脱出時に銃殺されて、5人のみが生存した。
 ひめゆりの証言によく出てくる第三外科壕のガス攻撃は、ひめゆり同窓会の方では黄燐発煙弾か催涙ガスを想定した。催涙ガスでも第三外科壕のような竪穴では比重が重ければ酸欠を起こす可能性がある。残っていると仮死状態にもなる。黄色いガスからは黄燐弾により、ガスでではなく黄燐自体が体内に入って内臓疾や筋肉壊死がおこる可能性がある。戦闘に巻き込まれたひめゆり学徒隊だけでなく沖縄市民には、催涙ガス、神経ガスなど、ガスが噴出する兵器を投入された。沖縄戦では現在まで日米両軍ともに公式戦闘記録では致死性の毒ガス使用の記述は秘密裏あるは存在していない。


アメリカ軍普天間飛行場の名護市辺野古移設の是非を問う沖縄県民投票が2019年2月14日に告示され、沖縄県民は2月24日に投票する。

2019年2月13日水曜日

日清戦争で日本軍は旅順を陥落した時に、中国人らを清国軍の容疑者として射殺した。

日清戦争において、日本軍による旅順の陥落時に、清国軍の容疑者として中国人を射殺した。日本軍は旅順内に戦死した戦友のさらし首の散乱にも激怒して、無差別に中国人を出会う生命は射殺しながら、銃剣で突き殺し、日本刀で切り倒した旅順虐殺事件が勃発した。
  日本は1876年2月に、朝鮮に対して日朝修好条規の締結を強要した。1894年5月に朝鮮で暴発した農民による東学党の乱で、日本は支朝鮮を支配配するために参戦した。朝鮮と関係が深い清国は、日本の支配に対抗して戦乱となった。日本軍は1894月25日には豊島沖で海戦、29日は牙山で陸戦して清国軍を敗退させた。8月1日に両国が宣戦布告して本格的な日清戦争に突入した。日本軍は9月1日に平壌を侵略して、10月24日に国境の鴨緑江を渡河して、清国内の遼東半島に侵攻した。日本軍は、花園口に上陸して11月6日に金州城、11月7日に大連湾を攻略して、21日に旅順を陥落した。日本軍の侵略に対して、朝鮮国内の猛烈な反日暴動が頻発した。日本軍は、10月27日に河東、11月7日に金剛山、11月12日に晋州、11月17日に三峰山、11月19日に百城洞、11月30日に忠清道で約20,000人もの朝鮮人農民の暴動に対して、残酷な虐待と虐殺を繰り返した。





2019年2月12日火曜日

太平洋戦争で日本軍の守備隊兵士の死体が、アッツ島のマサッカル海岸一面に散乱した。

太平洋戦争にて、日本軍の守備隊の兵士の死体が、アッツ島のマサッカル海岸の一面に散乱した。北方軍の司令官は、日本軍の守備隊に全滅する玉砕を命じた。日本軍の約2,600人は5月28日に全滅して玉砕した。戦争で負傷あるいは自決せずに捕虜となった約29人を除く全員が、戦死あるいは自決した。
 太平洋戦争にて、アメリカ軍は北太平洋のミッドウェイ海戦で日本軍に大勝した直後から、日本軍は守勢に陥った。日本軍はアッツ島とキスカ島を侵略して、初めてアメリカ領土を占領した。北アメリカ大陸から北アジア大陸の間を弧状に連なった約2,000kmのアリユーシャン列島に点在していた。アメリカ軍はキスカ島を孤立するめに、まずアッツ島を先攻して1943年5月11日に海岸に上陸した。大本営は5月20日には、アッツ島からの撤退を内定するも、アッツ島の日本軍兵士は見殺しにされた。日本軍の約2,600人は5月28日に全滅して玉砕した。
 アッツ島より北部のアラスカ寄りのキスカ島は、7月28日にアメリカ軍艦が一時退避して、約5,000人の日本軍兵士は霧の晴れ間から逃避した。アメリカ軍が8月15日に上陸した時点で、日本兵全員は撤退して避難できた。



2019年2月11日月曜日

日本軍の将校が、日本刀により中国人兵士の首を切り落とした瞬間の写真が、南京軍事裁判の証拠資料となった。

日本軍の将校が、日本刀により中国人兵士の首を切り落とした瞬間の写真が、南京軍事裁判において南京虐殺事件の証拠資料として提出された。盧溝橋から快進撃した日本軍は、南京を1937年12月13日に侵略した。東京日日新聞の2人の記者が、大隊副官と歩兵砲小隊長は、中国人の「百人斬り」大接戦と百人斬り超記録(106対105)を達成したと報道した。江南戦線丹陽の2人の特派員が、架空の出来事を想像的に描いた記事であるフィクション(Fiction)を創作した。南京軍事裁判にて、新聞記者の創作と抗弁するも、2人の将校は1950年12月に銃殺された。
 日本は1931年に満州国を樹立した。満州の盧溝橋が1937年7月7日に暴発して、本格的な日中戦争に突入した。日本軍は中国大陸において終戦に至る15年間も侵略をして、別名で15年戦争とも呼称された。盧溝橋にて偶発的な発砲から、日本軍の現地軍である関東軍が反抗的に突撃して、中国大陸の侵攻が勃発した。日本軍は中国大陸の各地の戦闘に巻き込まれて、中国兵士だけでなく、中国人を無差別に虐待と虐殺を繰り返した。



2019年2月10日日曜日

虐殺されうつ伏せのパレスチナ老人の死体が放置されて、膝の下に手榴弾が隠蔽された。

レバノンのベイルートにあるパレスチナ人の難民収容所にて、親イスラエルのレバノン軍団が多数のパレスチナ人を大虐殺した。1982年9月16日から18日かけて、ベイルートのパレスチナ収容所で殺戮事件が勃発した。キリスト教右派の親イスラエルであるレバノン軍団が、サブラ・シャティーラ難民収容所を完全に包囲して、レバノンの右派民兵も加わり、数千人もの市民を殺害した。
 うつ伏せとなったパレスチナ老人の虐殺死体が放置され、老人の膝の下には、安全ピンを外した手榴弾が隠蔽されていた。死体を動かす人々に対して爆発して、自爆テロの犠牲となる。虐殺と虐待の対象となったのは、多くの老人や子どもや女性など無抵抗なパレスチナ市民が犠牲となった。
  1975年から15年続いたレバノンの内戦も、パレスチナ難民に大きな災禍をもたらしました。内戦に巻き込まれた犠牲者の他、1982年にはイスラエル軍のレバノン侵攻があり、ベイルートの難民キャンプでパレスチナ人とレバノン人の約千人以上が殺害されるなど、合計約2万人以上の犠牲者が出た。難民キャンプの包囲などが起き、パレスチナ人と疑われて多くの市民が殺害された。



2019年2月9日土曜日

第2次リベリア内戦により、テーラー政権に反武装勢力LURDはモンロビアに3度の攻撃をして、身の毛もよだつ残酷な内戦となった。

第2次リベリア内戦が勃発して、1999 年頃から武装勢力のリベリア民主和解連合(LURD)やリベリア民主運動(MODEL) のが蜂起し勢力を拡大した。2003年の初めにLURD から分離したMODEL がリベリア南東部地域を支配した。内戦による新たな虐殺、 略奪、レイプの暴力の嵐が、その地域を席巻した。戦闘は続き首都モンロビアに近づき、2003 年には首都モンロビアへ侵攻した。
 殺人とレイプの渦が巻き起こり、町中で激しい戦闘が勃発した。何日もの砲撃により多くの建物が炎上して、がれきやゴミ、壊れた家具の破片などが歩道に散らばった。どの家も、どの店も、略奪され破壊された。人々は弾丸の薬きょうのカーペットの上を走って逃げ、犠牲者を手押し車や背中に載せて運んだ。シエラレオネとギニアに続く道路、モンロビアから西に向かう道路は封鎖された。
 国連安全保障理事会のアナン事務総長はアメリカに介入を依頼した。8月14日、反政府勢力はモンロビアの包囲をやめ、アメリカ軍がアフリカの平和維持軍を支援するため上陸した。3日後、LURD、MODEL、テーラー政権が「アクラ包括和平合意」を締結した。2003年10月に暫定政府が発足して、2005年に暫定政府の下で11月8日の大統領選で、11月8日にアフリカ初の選挙によるサーリーフ女性大統領が誕生した。



2019年2月8日金曜日

被爆した少女は16歳になって、広島原爆病院で、顔面から頸部のケロイドの形成術を9回以上もの植皮手術を受けた。

広島原子爆弾により、4歳の少女が爆心地から約2kmの福島町の自宅の外で被爆した。被爆して気がついた時は、家の下敷きになっていた少女は、ご近所に助けられた。家内にいた家族は無傷であった。
 16歳の思春期になって、広島原爆病院に1957年5月12日に入院して10月21日までに顔面から頸部にかけたケロイドの形成術に9回もの植皮手術を受けた。手術して麻酔から覚める夜中になると、痛がって悲鳴を上げて暴れた。手術から帰ると、絶対安静させるために、帯紐で彼女はベッドに縛られた。8回目の手術の時に、彼女は「今夜はあばれないから、しばらないでね」と懇願した。我慢できずにあばれ始めて、植皮した左頬に出血したあざとなった。植皮のために、両大腿から皮膚を剥ぎ取り、傷だらけとなった。再々の手術を受けて12月14日に退院した。被爆しなかったら美しい少女が、原子爆弾により見るも無残な姿になり、被爆を人知れずに一生悩み恨み続けることになりましょう。



2019年2月7日木曜日

サンタクルス事件は、東ティモールの首都ディリで勃発して、インドネシア国軍が独立を求める市民のデモ行進に無差別発砲して大量の死傷者を出した。

サンタクルス事件は、1991年11月12日にインドネシア占領下の東ティモールの首都ディリで大虐殺が起きた。インドネシア国軍が、独立を求める市民のデモ行進に対して無差別に発砲して大量の死傷者を出した。死者はサンタクルス墓地に埋葬された。その殺害から2週間後に墓へ花を捧げる儀礼に参列していた群集が独立を求めてデモ化した。インドネシア国軍がデモの群集に向かって発砲した。多くの死傷者はディリ南部のウィラフサダ陸軍病院に運ばれた。インドネシア国軍は証言者を消すために虐殺した。
 東ティモールは、インドネシア・バリ島の東方にティモール島東部に位置する。国土は約1万4000平方km、人口は約106.5万人で、ほとんどがキリスト教徒である。1人あたりGDPは368.8ドルと低く、アジアの最貧国である。ポルトガルは1974年、自国の政権の崩壊で、東ティモールの植民地支配を放棄した。東ティモールでは独立に向けて、1975年に東ティモール独立革命戦線が独立を宣言した。直後にティモール島の不安定化に、インドネシアが東ティモールに軍事侵攻した。1976年に27番目の州として併合され、東ティモールではインドネシア政府から独立の活動が途絶えなかった。東西冷戦の終結過程へと突入し、小さな島の独立を巡る闘争が国際社会の注目は少なくなった。1991年に首都ディリのサンタクルス墓地で、若者の葬儀から独立派の抗議集会にインドネシア軍が介入し、多数の住民が殺害されました。国際社会ではインドネシアの人権侵害を強く非難した。流れを一気に加速させたのが、1991年のインドネシアのスハルト政権の崩壊から、東ティモールの自治・独立を容認に転換した、1999年に、東ティモールで独立の住民投票が実施され、住民の約8割が分離・独立を選択した。東ティモールは2002年5月20日に独立を達成して、21世紀最初の独立国家となった。





2019年2月6日水曜日

イラクのハラブジャ事件に化学兵器が使用されて、多数の子供たちを含めて約5,000人のクルド人が虐殺された。

ハラブジャ事件により、イラクのクルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われて、1988年3月16日に多数の子供たちを含めた約5,000人のクルド人が虐殺された。空軍が化学兵器を用いてハラブジャの町を爆撃した。
 イラン・イラク戦争の末期、クルド人が多数を占めるクルディスタン地域のハラブジャ住民に対して、イラクのサッダーム・フセイン政権が化学兵器を使用して住民を殺害したと報道された。化学兵器は、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の大量の毒ガスが使用された。毒ガスは空気より重いので、その場で倒れて折り重なって死亡した。
 アメリカ陸軍大学の戦略研究所は、イラクではなくイランがハラブジャ事件の主犯と1990年に報告した。シアン塩化物ないしシアン化水素の化学兵器は、イラクは製造する能力もなく、決して使用できなかった。イラン軍兵士はガスマスクと防護服を着用していた。逆にアメリカは化学兵器と大量破壊兵器として、毒ガス事件を湾岸戦争とイラク戦争に仕掛けた。


2019年2月5日火曜日

ベトナム戦争の起点におけるナム・ドンの戦闘で、アメリカ軍が多数の北ベトナム兵士とゲリラを殺害した。

ベトナム戦争におけるナム・ドンの戦闘において、アメリカ軍が多数の北ベトナム兵士とゲリラを殺害した。アメリカ軍は、散乱した死体を集積して地面に並べた。
 ナム・ドンの戦闘は、アメリカ軍がベトナム戦争に大規模に軍事介入する起点となった1964年8月2日と4日のトンキン湾事件の直前に暴発した。1964年7月6日に南ベトナム北部のナム・ドク基地で勃発した。ラオス国境付近のナム・ドン基地は、国境に沿う北ベトナムのホーチミン・ルートを妨害した。アメリカ軍は、午前2時頃に、基地内で大爆発が突然に起こった。北ベトナム兵士とゲリラが基地に侵攻した。猛烈なアメリカ軍の攻撃で、大多数の犠牲を伴って北ベトナム兵とゲリラは撤退した。アメリカ軍と南ベトナム軍兵士は、約55人が戦死して、約65人が戦傷した。
 ナム・ドンはチュオンソン山脈の山岳地帯で、地形が複雑な地域である。ナム・ドン山岳地帯は、ベトナム戦争では、南ベトナム解放軍とゲリラ拠点であった。ベトナム戦争時に多数の山岳地帯に、アメリカ軍は数万トンの爆弾や枯葉剤を投下した。ナムドンの戦闘は、アメリカ軍が南ベトナム政府軍やベトナムの中央高地に住む少数民族に軍事訓練の起点に、北ベトナム軍とゲリラの約900人がナム・ドン基地を侵略した。人数で圧倒的に劣るアメリカ軍のナム・ドン部隊が勝利して、ベトナム戦争に軍事介入の士気を誘発した。



2019年2月4日月曜日

日中戦争にて、日本軍は河北省北坦村で毒ガスにより村民を無差別に殺害した

日中戦争にて、日本軍は1942年5月27日に、河北省北坦村で毒ガスにより子供たちを殺害した。
 日本軍は、抗日根拠地と容疑した中国の河北省北坦村を、1942年5月27日に襲撃した。日本軍の侵攻された約1,227人が居住した中国人の村民は、掘りつないでいた坑道に逃避した。日本軍は毒ガスを坑道に投入して無差別に村民を虐殺した。坑道内では約800人以上の村民が毒ガスの中毒死、刺殺や銃殺により虐殺された。
 北坦村事件を引き起こした指揮官であった大江芳若少佐による回想録には、毒瓦斯と銘記された。「2 定縣南方召村附近の川に添ふ地区特に安國縣境に添ふ地区は治安殊に悪く、民衆は日本軍に親しまず。再々附近を掃蕩せるも空室清野戦法にて敵の姿を見ずに終われり。3 斯くする内に南坦、北坦二両村に敵の大部隊あり。當部落には坑道を掘りある状況を知り、大隊は現駐屯地より夜間行動を起し特に道路を避けて行動し払暁同村を包囲攻撃せり。4 午前五時頃同村を完全に包囲し敵の銃声と共に射撃戦を開始し、漸次包囲圏を圧縮し部落に突入せり。然るに今迄猛烈射撃ありし敵の敵の姿全然なし。部落中にて屋根より手投弾を受け又入り口にて地雷の爆発を受く。直ちに部落外周の坑道を捜索せしめ又部落中の井戸其他坑を捜索せしめ毒瓦斯を投入せしむ。然る所漸く共産軍の騒く声聞きぬ。村より隣村に通ふずる坑道を遮断せしめ坑道内にて共匪の約百名を窒息殲滅せしめ、小銃軽機等約百二十丁鹵獲し、我方にも特曹以下数名の死傷ありたり。爾来定縣南方河川流域の治安急速に良好となれり。之かやかて縣政にも極めて良好結果を来たしたり。」(日本防衛省戦史研究所は2003年から大江回想録を閲覧不可とした。)



2019年2月3日日曜日

タイ王国にて28歳の女性がデモ行進で路上の瓦礫の中に、催涙ガスで吹き飛ばされ即日に死亡した。

 タイ王国では政変や軍事クーデターによる政情不安、軍による民主化運動の弾圧などが多発していた。冷戦後の1992年以降は一時安定したが、軍が政治関与を再開して2006年に軍事クーデターが発生して、タクシン・チナワット首相は失脚した。親タクシン派で農村部が支持する反独裁民主戦線(UDD、赤服軍団)と反タクシン派で都市部で王室を養護する民主市民連合(PAD、黄服軍団)の2つの政治集団が形成され、鋭く対立するようになり情勢は極めて不安定な状態となった。 
 2008年10月7日にソムチャーイ首相の就任に対して、PADが国会議事堂に向けて抗議デモを行進してバリケードを構築した。警察隊が、解散しないPADに対して催涙ガスを投げ込み爆発させた。催涙ガス弾は、密集したデモ隊には衝撃力と殺傷能力が高まった。PADの数人は下肢を吹き飛ばされて切断された。PADはデモ行進を止めて、警察隊はゲートを開いた。警察隊は催涙ガス弾を、デモ隊はパチンコ弾を投げあった。28歳の女性であるノーン・バーンが路上の瓦礫の山の中に、催涙ガスで吹き飛ばされて、即日に死亡した。彼女の遺体は、デモ隊と警察が激突した前線で、埋もれていた。法医学の検死では、直接的な死因は催涙ガス弾の直撃であったが。2009年月2日に、警察は催涙ガスによる死亡原因を否定した。
 2011年の総選挙でタクシン元首相の妹インラック・シナワトラが首相に就任して、UDDとPADの活動も沈静化した。2014年5月にインラックが親族登用で退陣して、政治情勢の混迷して、直後に16度目の軍事クーデターが勃発した。タイ王国軍が全土に戒厳令を発令し、憲法を停止して基本的人権を制限する軍政に移行した。軍政は国王の支持を得て、プラユット陸軍総司令官が首相に任命された。 


2019年2月2日土曜日

多数の日本軍兵士が、関東大震災の混乱に乗じて橋の上で虐殺された朝鮮人を見下した。

多数の日本軍兵士が、混乱に乗じて橋の上で虐殺した朝鮮人を見下した。大震災に伴う大火災に関連して、在日朝鮮人が混乱に乗じて放火して井戸に毒を投入していると奇怪なデマが新聞から流布された。 
 関東大震災が、1932年9月1日午前11時58分32秒頃に関東大地震により甚大な自然災害が勃発した。その犠牲者は、約190万人が被災して、約105,000人が死亡あるいは行方不明に上った。内務省は9月7日に戒厳令を発して、警察と日本軍隊が出動して朝鮮人を虐待と虐殺をした。内務省は「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」と下達した。それらに同調して、地域市民の自衛団が民兵化して、大量虐殺するホロコーストを朝鮮人に処刑した。約6,700人もの在日朝鮮人が虐殺された真相は隠滅された。




日本平和の市民連盟は2019年2月2日にBloggerの投稿数は900回に達した。

2019年2月1日金曜日

フランスのサンナゼールに対する襲撃には、着岸が困難となり帰還する船艇が壊滅してイギリス軍は多数の犠牲者を伴った。

第2次世界大戦にて、イギリス王国海兵隊員は1942年3月28日に、フランスのサンナゼールにあるドイツ軍が占領した船舶ドック施設を襲撃した。サンゼナールは、イギリス本土から最も近いフランスの港町であった。ドイツ海軍のテルピッツ戦艦の基地の使用を不可能にした。約622人の襲撃には、着岸が困難となり帰還する船艇が壊滅して多数の犠牲者を伴った。イギリス軍兵士の約169人が戦死して、約215人と捕虜となり、生還は約215人のみであった。サンナゼールの犠牲者に勲章された。兵士たちは、ドイツ軍に決して降伏しないことを厳命された。上陸と帰還するための多数の機動艇は炎上して沈没していた。1940年6月17日にサンナゼール港からランカスタ船で約9,000人が撤退するも、ドイツ軍により撃沈されて、約4,000人が犠牲者となった。