バングラディッシュの首都ダッカにて、生活困窮で致し方なく児童を大木の下に置き去りにした。母親が幼児を抱いて無心に懸命に食糧を探しに徘徊した。1980年8月2日から1981年2月28日までの湾岸戦争の影響により、経済が行き詰まり極度の貧困状態に陥った。
ナチス・ドイツ軍が、第2次世界大戦の1941年4月6日から17日にユーゴスラビアを侵攻した。ユーゴスラビアの国民は抵抗するレジスタンスとなるも、強制収容と投獄されて、処刑の犠牲者になった。クロアチアはアンテ・パーヴェリチ政権は、ファシスト的ウスタシャ団体で第三帝国に協力した。
ベトナム戦争にて1968年1月30日に北ベトナムの解放戦線によるテト攻勢が始まった。サイゴンのアメリカ大使館が20名の北ベトナム軍兵士により占拠された。約6時間の銃撃戦により北ベトナム兵の19名とアメリカ兵の憲兵隊(MP)の4名が射殺された。
太平洋戦争にてマリアナ諸島のサイパン島で、アメリカ軍が1944年6月15日に上陸して日本軍が7月9日に日本軍は全滅した。6月15日の上陸に対抗して、水際から約50mの塹壕で日本軍の全滅した遺体が散在した。水際で日本軍が全滅して、アメリカ軍の約20,000名が上陸して占領した。
《閲覧注意》イスラム国では、イスラム教のアッラーの御言葉を最高にするために、ジハードは自分の創造主に対する愛の究極の義務となる。剣による斬首と戦闘での弾丸の爆発に直面しても、アッラーを憎む敵を虐殺しようする。アラーの主の愛を完全に明示し維持するために、賛美者と呼ばれるイスラム宗教の義務であった。
【閲覧留意】
ソ連が1979年にアフガニスタン内乱に侵攻してから完全に撤退する1989年まで悲惨な紛争が勃発した。アフガニスタン人の息子と甥がソ連のロケット弾の爆撃で、胸部と下肢の貫通と大量出血して殺害された。16歳と20歳の2人の青年の遺体を並べて、その周りをとり囲んで簡潔な葬式をした。
太平洋戦争にて、アメリカ軍はクウェゼリン環礁北部のロイ・ナムル島を1944年2月14日には日本軍を1日間の戦闘で制圧した。全滅する戦闘の玉砕のために、生き残る日本兵士は塹壕で自決した。右軍足を取り、銃を胸に向け、右親趾で引き金を引いて自殺した。
ロシア帝国内で1917年のロシア革命から1922年にかけて残酷なる内戦が勃発した。赤軍(共産)と白軍(保守)に英国・フランスなどの列強派遣軍が介入して内乱となった。白軍のテロに対抗して、赤軍の人民委員会もテロを宣言した。軍隊だけでなく政治的警察も加わった内乱の混乱中で多くの国民が惨殺されて、死体が散乱した。
スペイン内戦が1936年7月から1939年3月まで勃発した。左派の人民戦線と右派の反乱軍が戦闘した。当初の1936年7月19日には、バルセルナでは反政府軍を鎮圧したスペイン人住民らが犠牲者となった。人民戦線はわずかなソ連・メキシコ・義勇軍らしか支援がなかった。最終的には、ドイツとイタリアが参戦したフランシスコ・フランコの反乱軍が勝利して、内戦が終結して独裁政権となった。
イラク軍がクルド人に対して1988年3月16日にハラブジャにて化学兵器である不詳な毒ガスにより、多数の住民が虐殺された。その毒ガスでクルド人の母親とその子供が死亡した。第1次世界大戦でドイツ軍が初めて毒ガスを使用し、大戦後残酷なために毒ガス等の化学兵器を禁止したジュネーブ議定書が国際連盟で1924年10月5日に採択されていた。
太平洋戦争にて、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に1944年6月15日から7月9日まで侵攻して、日本軍は全滅した。アメリカ軍は、大兵力の武力と物量などで日本軍を圧倒した。日本軍も民間人も砲爆撃などで、北部に追い詰められて、海にも飛び込み自決した。日本軍兵士が末期にサイパン島の波打ち際にうつぶせになり戦死していた。
陸軍将校らが昭和維新を訴えて、1936年2月26日に1483名の青年兵士に軍事的クーデターをさせた。官邸・私邸・警察庁など占領して要人を暗殺した。靖国神社付近の九段坂より反乱軍を車中から隠し撮りがされた。反乱軍として2月26日から鎮圧されて3月4日で終結となった。その後の廣田弘毅首相が、思想保護観察法で治安維持法を強化して軍事政権に移行して、第2次世界大戦の起因となった。
武装した海軍の青年兵士らが1932年5月15日に立憲政友会の犬養毅首相を銃殺した。1932年2月の総選挙で大勝した憲政の常道に反発して、昭和維新を訴えて天皇親政を求めて政治的暗殺をした。「問答無用」と叫ぶ中尉らに「話せばわかる」と絶命した首相の祭壇前で納棺式
を官邸で挙行した。
南アメリカのエルサルバトルの内戦により、1981年12月1日に山間部のエル・モソテの住民の約800名以上が、アメリカ軍に支援されたアトゥラカトゥル大隊の政府軍により虐殺された。一方的にゲリラ組織に加担しているとして、将来のゲリラ抑止のために多数の子供達も幽閉されて虐殺された。
満州事変にて、1931年9月18日の日本軍の関東軍が、満州の柳条湖にて満州鉄道の爆破事件から満州に侵攻した。1933年5月31日に中華民国との協定で満州を占領した。関東軍は満州の住民を捕虜にして、中国人の抵抗者を集めては、多数の見せしめの公開処刑をした。