中国国民党(KMT)の警察が、1927年4月12日の上海クーデター(四・一二事件)を引き起こした共産主義の何百人もの容疑者が逮捕され、拷問を受けて、虐殺された。逮捕された女性学生の囚人を残酷に拷問して死刑を執行した。4月13日には、中国国民党からの弾圧に抗議した共産主義の労働者や上海市民らの約20万人のデモに対して発砲して約100人を虐殺した。4月14日までの3日間で、約3,000人が虐殺されて、約5,000人が行方不明となった。中国国民党は「清党」と中国共産党は「四・一二革命政変・惨案」と喧伝した。その後、江蘇、浙江などの地域で「清党」の名のもとに、大規模に共産党員などを虐殺した。広東省だけでも約2000人余りが犠牲になった。中国国民党は共産主義者を弾圧するホワイトテロを執行して、共産主義者を逮捕して裁判もなく死刑を執行した。中国国民党と中国共産党の内戦が勃発した。
中国国民党軍は、4月12日の早朝に、何百人もの武装集団と秘密諜報員が、青い短パンと、白い布と黒い作業腕章にを身に包んだ。多数の車によりフランス租界から飛び散り出撃した。午前1時から5時まで、上海の各地区の労働者の監視隊員を襲撃した。多数の軍警察が労働者の監視隊員の周りを事前に待ち伏せした。抵抗する労働者らを内部紛争の名目で銃器を強制的に押収した。約120人以上もの労働者が殺害されて約180人が負傷して、約2,700人以上もの武装した監視隊員が逮捕された。外国の軍事警察が約1,000人以上の共産主義者と労働者を捜査して逮捕して、中国国民党の軍警察に引き渡した。
中国国民党軍の弾圧に抗議するために、上海の各地区の労働者らは約10万人を動員してデモを4月13日に挙行した。デモが上海の宝山路に近づいたときに、中国国民党軍は機関銃で銃撃して、その場で約100人が射殺され、多数の負傷者と約200人以上もの労働者が逮捕された。大雨により、上海の宝山路には、川のように流血した。上海南市でも、デモ行進が中国国民党軍により射撃されて数人が殺害された。4月12日から15日までの3日間で、上海で約300人以上が虐殺され、約1,000人以上の共産党員が逮捕され、約5,000人以上が亡命した。
中国は第一次世界大戦に参戦し、ロシアの革命思想が中国に浸透し、1919年5月4日に学生運動と大衆運動が勃発した。5月4日運動は、袁世凱の親日政府に対する北京学生運動から名付けられた、学生や知識人の全国的な政治的解放運動となり、伝統的な儒教の拒絶、公民権および国家内の社会改革を要求した。中国共産党(CCP)は、五四運動のマルクス主義研究集団から1921年に登場した。 ソビエトの援助により、CCPは強力な勢力となった。
上海クーデターからの中国国民党軍による絶滅作戦を回避するために、中国共産党軍は中国の北部に移動を余儀なくされた。毛沢東らの共産主義者は、1934から1935年に中国の西部を通って延安へと続く長征でなんとか脱出し、延安を中心基地に築き上げた。中国共産党は日中戦争中に支配を着実に拡大した。1945年にソビエト連邦が満州を占領したとき、中国共産党は満州に権力を掌握した。1949年までにソビエトの支援を受けて、共産主義政権は1949年10月1日に中華人民共和国を宣言した。