2024年12月17日火曜日

アメリカ軍のオカラハン従軍牧師は、1945年3月19日の日本軍爆撃機の攻撃後の爆発で負傷しながらも、むき出しになり斜めの飛行甲板を動き回り、死にゆく人々に最後の儀式を施した。

アメリカ軍のオカラハン従軍牧師は、1945年3月19日の日本軍爆撃機の攻撃後の爆発で負傷しながらも、むき出しになり斜めの飛行甲板を動き回り、死にゆく人々に最後の儀式を施した。アメリカ海軍の従軍牧師であるジョセフ・オカラハン中佐は、手袋をはめた手を合わせて、甲板上で爆発したアメリカ軍のUSSフランクリン号上で、瀕死の負傷者に最後の儀式を執り行っている。空母は1,000人以上の死傷者が出た。格納庫甲板はすぐに爆発するガスタンクと弾薬の地獄となった。オカラハンは、乗艦していた航空母艦への攻撃中および攻撃後の行動が評価され、アメリカ軍最高の勲章である名誉勲章を授与された。

 第二次世界大戦の太平洋戦争にて1945年3月19日に、日本沿岸から約80kmしか離れていない海上で、日本軍の急降下爆撃機は雲を突き破り、フランクリン号の高射砲隊が発砲する前に2発の半徹甲爆弾を投下した。日本軍の急降下爆撃機が550ポンド爆弾2発を投下した。その爆弾は格納庫甲板を貫通した後に、そのうちの1発が爆発した。その後に、アメリカ軍のUSSフランクリンは大きく傾きながらも、アメリカ本国まで生還した。

 アメリカ軍USSフランクリンを襲った爆弾の爆発によって、破片が飛び散った。2万7千トンの空母を揺るがすほどの激しい爆発により、周囲の船の鋼板が共鳴した。31機の爆弾と燃料を積んだ戦闘機のほとんどがすぐに炎上した。搭載された13~16トンの高火薬はすぐに徐々に爆発し始めた。巡洋艦サンタフェなどが、多くの負傷者を救助した。フランクリンは最も損傷の激しいアメリカ空母となり、フランクリンの乗員は924名の戦死者を出して、USSアリゾナに次いで戦死者数は2番目である。




2024年12月16日月曜日

第二次世界大戦の太平洋戦争に日本が敗戦後に、オランダ領のインドネシアの収容所で、1945年8月15日に連合軍に降伏して捕虜となった元日本軍将校が1945年11月に切腹した。

第二次世界大戦の太平洋戦争に日本軍が敗戦後に、オランダ領のインドネシアの収容所にて、1945年8月15日に連合軍に降伏して捕虜となった元日本軍将校が1945年11月に切腹をした。日本が降伏した恥ずかしさと、落胆で日本軍将校は悲嘆して切腹して、腹部から多量の出血が流出した。切腹後にうつ伏せながら、目頭を抑えて嗚咽した。切腹は、日本の儀式的自殺の一形態で、武士道によって規定された。切腹は、敵の手に落ちるより名誉ある自殺を行った。

 1941年12月7日の真珠湾への壊滅的な奇襲攻撃は、オランダ領東インドも1945年8月15日まで続く第二次世界大戦に巻き込まれた。オランダは1941年12月8日、日本に宣戦布告した。1942年初頭から日本軍は北セレベスと北ボルネオに侵攻した。1942年2月初旬、スマトラ島への攻撃が始まり、ジャワ島が孤立した。1942年3月1日から、日本軍はジャワ島の攻撃を開始した。1942年3月5日に、日本軍はバタビアに入城して、3月6日にバンドンに突破口を開いた。3月8日についにスラバヤを占領して、ジャワ島は日本軍の手に渡った。3月9日に、バンドン近郊のカリジャティで、オランダ領東インド軍(KNIL)は、降伏に調印した。

 1944年9月15日に、連合軍はモルッカ諸島のモロタイに上陸した。連合軍がオランダ領東インド地域への上陸により、オランダ軍とインドネシア人にとって日本軍から解放が大きく近づいた。1945年5月1日に、連合軍はボルネオ島のタラカンとバリクパパンにも上陸した。インドネシアで最大の島であるジャワ島は、1945年8月15日に日本軍が降伏するまで占領されたままであった。1945年9月2日に、東京湾のアメリカ軍艦ミズーリ艦上で、日本は正式に降伏文書に調印した。

 捕虜となった連合軍兵士の取り扱いは、武士道から恥ずべき劣った存在として扱った。囚人となった連合軍兵士に、日常的に殴打して、飢餓、虐待、斬首、強制行軍、強制労働、拷問、虐殺した。日本軍兵士は、恥ずべき降伏しないで、敵の手に落ちるまでに自殺する武士道によって、欧米の捕虜や住民のその取り扱いを正当化した。




2024年12月15日日曜日

第二次世界大戦後の1951年8月30日に、 アール・ウォーレン・カリフォルニア州知事が広島市内の原爆被爆者病院を訪問した。

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-389518 




























SC-389518    20274

40TH DIV/FEC-51-47199

30 AUG 1951

GOVERNOR OF CALIFORNIA EARL WARREN (LEFT CENTER) VISITS ATOMIC BOMB CASUALTY HOSPITAL, HIROSHIMA, JAPAN,

US ARMY PHOTO BY CPL CLIFFORD BROWN (SK) 40TH SIG CO

Reviewed for Military Security



SC-389518 20274

第40師団/FEC-51-47199

1951年8月30日

アール・ウォーレン・カリフォルニア州知事(中央左)が広島市内の原爆被爆者病院を訪問した。

米陸軍撮影:クリフォード・ブラウン(SK) 第40師団

軍事安全保障のためのレビュー

2024年12月13日金曜日

第一次世界大戦の西部戦線にて1918年に、フランスのセーヌ・エ・マルヌ県を横切るオウルク川の戦いで、バルシーの陥没した道上に、ドイツ軍よって殺害されて戦死したアメリカ軍兵士の死体や軍馬の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて1918年に、フランスのセーヌ・エ・マルヌ県を横切るオウルク川の戦いで、バルシーの陥没した道上に、ドイツ軍よって殺害されて戦死したアメリカ軍兵士の死体や軍馬の死体が散乱した。

 1918年7月26日午後遅く、アメリカ軍第42レインボー師団の部隊は、オウルク川の南のラ・クロワ・ルージュ農場で厳重に防御されたドイツ軍陣地を攻撃した。ドイツ軍が川の北の要塞に退却する中で、レインボー師団はオウルク川のすぐ南2.74kmの前線に陣取った。絶え間ないドイツ軍の機関銃と砲撃の中で、7月28日にオウルク川を横断した。6日間にわたる激戦で、アメリカ軍は重要拠点を占領した。アメリカ軍レインボー師団は付属部隊を含めて、1410人が戦死して、5049人が戦傷して、合計で6,459名の死傷者を出した。

 オウルク川の戦いでは、ドイツ軍は5人乗りの機関銃を多数配備して、強固な防御を設置した。後に鹵獲された機関銃の約25丁は、毎分10,000発の弾丸を発射し、約0.91kmまで命中した。カモフラージュされ、要塞化された陣地に配備されたドイツ軍は、並木道や小道を覆って、連動する射界は計測され、地図が作られた。樹木には照準のために赤いペンキの印を付けて、狙撃手を配置された。

 ドイツ軍の攻撃は熾烈を極め、アメリカ軍レインボー師団の兵士に多大な犠牲をもたらした。ラ・クロワ・ルージュ農場周辺の林の斜面で、凄まじい戦闘が繰り広げられた。農場の敷地内に大隊を集結させたドイツ軍に対して、アメリカ軍は近接戦闘を手榴弾、ライフル銃、銃剣で戦って、クロワ・ルージュ農場を襲撃して占領した。クロワ・ルージュ農場を通ってオウルク川へ向かうアメリカ軍兵士は、その小川を虹の血で真っ赤に染めて、激流の中をもがき横断した。レインボー師団は、シャンパーニュ防衛とオウルク川への攻撃で、将校184人、兵員5,469人、全兵力の約4分の1の死傷者を出した。




2024年12月12日木曜日

1954年5月25日に、ベトナムのナムディンからタイビンの道上で、ボンディエンとギャーケー間のソンムーケー川付近で、ベトミンゲリラがフランス軍戦車の榴散弾により死亡し、フランス軍兵士が死体を見下した。

1954年5月25日に、ベトナムのナムディンからタイビンへの道上で、ボンディエンとギャーケーの間のソンムーケー川付近で、ベトミンゲリラが、フランス軍戦車の榴散弾により死亡した。仏領インドシナ(現ベトナム)で、ナムディンからタイビンへの途上で、1954年5月25日にフランス軍が路上でベトミン・ゲリラの死体を見下した。(ロバート・キャパ撮影)

 その写真を撮影したロバート・キャパは、タイの首都バンコクから南ベトナムの首都サイゴンへとインドシナ半島へ渡った。5月24日に、北ベトナムの首都ハノイから南東72kmのナムディン空港に到着した。5月25日にベトナム北部のタイビンにて地雷に抵触して死亡した。右へ流れる小川と、道路へ下るわずかな斜面を登り始めると、ベトミンが夜間に仕掛けた対人地雷を踏んだ。キャパは地雷の爆発で左足がほぼ完全にもぎ取られ、胸に大きな傷ができた。1954年5月25日午後3時10分に、フランス軍のメックリンとルーカスが爆発現場に到着した。キャパは大量に出血して、苦悶の表情を浮かべた。突然に、発火音を聞いたラカペル大佐が到着した。彼はキャパが倒れているのを見て、すぐに救急車を呼んだ。キャパは5km離れたドン・クイ・トーン砦にある最寄りの救護所に運ばれた。そこでベトナム人医師が、ロバート・キャパの死亡を確認した。

 1954年5月7日に、ベトナムにおけるディエンビエンフーの戦いはフランスの敗北に終わった。3月13日に始まったこの戦いは激戦となり、フランス軍は2,200人が死亡し、ベトナム軍8,000人が死亡し、15,000人が負傷した。ヴィエト・ミンの勝利は1954年のジュネーブ協定につながった。ディエンビエンフーの戦いは、ヨーロッパ以外の植民地独立運動が、ゲリラ技術により公然の戦闘で西洋軍隊を破った初めての出来事と評された。




2024年12月11日水曜日

サイパンの戦いにて、サイパン島のタナバク付近の海岸で、日本軍兵士がアメリカ軍にバンザイ突撃をして玉砕して全滅した。アメリカ軍は1944年7月12日に、海岸に散乱した日本軍兵士の死体の検死と死後処理をした。

第二次世界大戦の太平洋戦争のサイパンの戦いにて、サイパン島のタナバク付近の海岸にて、日本軍兵士がアメリカ軍に対して「バンザイ突撃」をした。バンザイ攻撃に対して、アメリカ軍が日本軍兵士を殺害して全滅した。アメリカ軍は1944年7月12日に、海岸に散乱した日本軍兵士の死体の検死と死後処理をした。

   日本にとり絶対国防圏の死守のためは、サイパン島は譲れない要衝だった。サイパン島はアメリカ軍の猛攻により、わずか10日で陥落した。第1次世界大戦後に日本の委任統治領となったサイパンは準国土だった。サイパン島が戦場となり、市民が戦火に巻き込まれ、サイパンをアメリカ軍の基地とするB29爆撃機による日本本土に爆撃を許した。

 1944年6月11日に、サイパン島に対するアメリカ軍機動部隊の空襲が始まった。日本軍の対応は遅れて、地上部隊主力は1カ月前に配置されて、航空隊も内地部隊の転用で準備不足であった。6月15日未明にアメリカ軍の海兵隊8000人が、サイパン島のチャランカノアから上陸開始して、6月18日にアスリート飛行場を占領した。6月19日・20日のマリアナ沖海戦で、日本軍は大敗北となった。6月25日にサイパン島中央部のタポーチョ山をアメリカ軍が占拠して、日本軍はほぼ戦闘不能状態となる。

 7月5日に大本営はサイパン島の全日本軍兵士に玉砕の訓辞を伝達した。7月6日に日本軍の3少将が自決した。7月7日午前3時に「星に七夕」を合言葉に、日本軍の生存兵士約3000人が最後のバンザイ突撃を試みて、ほぼ全滅した。サイパン島の最北部に逃れた市民も、多くがバンザイクリフの断崖から太平洋の海に投身し、あるいは手榴弾で自決した死者が約1000人にも達した。

 7月9日にアメリカ軍総司令官がサイパン島占領を宣言した。兵力総計はアメリカ軍が12万7571人、日本軍は4万3582人であった。アメリカ軍は3,225人が戦死して、日本軍の戦死者は4万1244人、市民の死者も1万人を超え、玉砕も、実際には1062人の日本群兵士が生き残り降伏した。サイパン陥落は直後に国民に知らせずに、 9日遅れで大本営は7月18日に玉砕を発表して、東条内閣が総辞職した。




2024年12月10日火曜日

ノーベル平和賞受賞演説 日本被団協代表委員 田中熙巳 於ノルウェー・オスロ 2024年12月10日

                  ノーベル講演

2024年ノーベル平和賞受賞者

日本被団協   田中熙巳氏による講演

オスロ、2024年12月10日

ノーベル平和賞受賞演説 日本被団協代表委員 田中熙巳 於ノルウェー・オスロ 2024年12月10日

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国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、

ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日日本被団協 を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

私たちは1956年8月に日原水爆被害者団体協議会 (日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「日戦争の被害は国民が受忍しなければならない との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。

この運動は「日核のタブー の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「日核のタブー が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます。

私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました.

1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで

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伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りで東洋一を誇った大きな教会「・上上主主 は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。

麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されている沢山の人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。

もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。

その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当も受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50パーセントは衝撃波として家屋を押しつぶし、35パーセントは熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15パーセントは中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりと推定されます。

生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

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1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が日死の灰 に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被ばくして急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名に結実し、1955年8月日原水爆禁止世界大会 が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日日日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協) が結成されました。

結成宣言で「日自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう との決意を表明し、日核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償 を求めて運動に立ち上がったのです。

運動の結果、1957年に「日原子爆弾被爆者の医療に関する法律 が制定されます。しかし、その内容は、「日被爆者健康手帳 を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。

1968年日原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律 が制定され、数種類の手当てを給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。

1985年、日本被団協は日原爆被害者調査 を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

1994年12月、2法を合体した「日原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律 が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

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私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。

1977年国連NGOの主催で「日被爆の実相と被爆者の実情 に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。

1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が日核兵器の人道的影響に関する会議 の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ日核兵器禁止条約 交渉会議に発展しました。

2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた日核兵器の禁止「・廃絶を求める国際署名 は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122か国の賛同をえて日核兵器禁止条約 が制定されたことは大きな喜びです。

さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。

想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。

一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた

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日NPO法人・ノーモア「・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

世界中のみなさん、日核兵器禁止条約 のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。

人類が核兵器で自滅することのないように!!

核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!

(4468文字)

著作権 © ノーベル財団、ストックホルム、2024年

























Artist: Marie Buskov Calligrapher: Christopher Haanes Bookbinder: Kristine Bekkevold / Merkur Grafisk AS Photo reproduction: Thomas Widerberg Copyright © The Nobel Foundation 2024


2024年12月9日月曜日

第一次世界大戦の西部戦線の第一次マルヌの戦いにて、1914年9月にドイツ軍兵士が殺害されて、その死体群が戦場に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線の第一次マルヌの戦いにて、1914年9月にドイツ軍兵士が殺害されて、その死体群が戦場に散乱した。マルヌの戦いは第一次世界大戦中の2つの戦いで、最初の第一次マルヌの戦いは1914年9月に、第二次マルヌの戦いは1918年に勃発した。どちらの戦いも第一次世界大戦の重要な局面で、ドイツ軍の敗北をもたらした。 

 第一次世界大戦を誘因した第一次マルヌの戦いは1914年9月6日から9月12日まで続いた。フランス北東部とベルギーに侵攻するドイツ軍は、完全に防御していないフランス北東部のマルヌに侵攻した。ドイツ軍はベルギー軍を撃破して、フランス北東部の奥地まで進攻した。侵攻したドイツ軍が、フランス軍とイギリス軍を追撃して、9月8日から9月12日にドイツ軍の侵攻が圧勝して、フランス軍250,000人、イギリス軍12,733人、ドイツ軍298,000人が戦死傷した。ドイツ軍がベルギーを攻撃したため、イギリス軍はベルギーを防御する公約から、第一次世界大戦に参戦した。第一次世界大戦は、ドイツ軍とベルギー軍の2カ国間の第一次マルヌの戦いが、多くの国々を巻き込んだ。

 1918年7月15日から8月5日まで、第二次マルヌの戦いが勃発した。多くのドイツ軍司令官が、ドイツは戦争は敗北したと考えた。第二次マルヌの戦いは、アメリカ軍はすでに参戦して、ドイツ軍の攻撃の態勢は大失敗を喫した。ドイツ軍が突破に大失敗したため、連合国軍最高司令官フェルディナン・フォッホは7月18日に反撃を要求した。これにはフランス軍だけでなく、アメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍も部隊を派遣した。全体として、ドイツ軍はこの第二次マルヌの戦いで多くの優位性を失った。







2024年12月8日日曜日

1946年1月26日に広島におけるアメリカ軍の極東諮問委員会に供覧される広島原子爆弾の被爆者が、長椅子に腰掛けて待機した。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-241253
































SC-241253

These are victims of atomic bomb used for display to the Far Eastern Advisory Commission in Hiroshima, Japan. 1/26/1946

Signal Corps Photo #WPA-46-64693 (Bireda), released by BPR 4/1/46.

orig. neg.

Lot 13534 PE


SC-241253

これらは、1946年1月26日に広島における極東諮問委員会に供覧される広島原子爆弾の被爆者である。

通信部撮影 #WPA-46-64693 (Bireda)、1946年4月1日からBPRより公開された。

原本ネガ。

ロット13534 PE


2024年12月8日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
閲覧回数 730,000    (投稿数 3,029)

2024年12月7日土曜日

ガザ地区の空爆の犠牲により、パレスチナのガザ地区のデイル・アル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所の前で、パレスチナ人はイスラエル軍によるガザ地区への砲撃で死亡した親族の子供の死体を悼んだ。

イスラエル・ハマス戦争にて、イスラエル軍の空爆は、5月11日の夜から5月12日朝にかけてガザ北部、中部、南部の一部を襲った。ガザ地区の空爆の犠牲により、パレスチナのガザ地区のデイル・アル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所の前で、パレスチナ人はイスラエル軍によるガザ地区への砲撃で死亡した親族の子供の死体を悼んだ。

 イスラエル軍は5月12日にもガザを攻撃し、イスラエル軍はハマスが支配する領土のいくつかの地域で武装勢力と戦った。エジプトとの国境に位置するガザ最南端の都市ラファでは、クウェートの病院が5月12日の過去24時間のイスラエル軍の爆撃で死亡した18人のパレスチナ人の死体を収容したと発表した。

 パレスチナの保健省は、この24時間で少なくとも63人が死亡し、イスラエルによるガザへの砲撃と攻撃による死者は、パレスチナ・ハマス戦争の勃発以来に、女性や子どもを中心に少なくとも35,034人に上るという。イスラエル・ハマス戦争が勃発して約7カ月以上が経過して、ガザ全域で戦闘激化して、死者3万5000人超に達した。ガザ地区できつ害された犠牲者の約70%近くが、女性と子供であると国連人権事務所が公表した。

 犠牲者の約80%は住宅または同様の住宅で殺害され、そのうち44%が子供、26%が女性であった。確認された死亡者の中で最も多かったのは、5歳から9歳の子ども、10歳から14歳の子ども、そして0歳から4歳の乳幼児であった。 死亡が確認された最年少の被害者は生後1日の男児で、最高齢は97歳の女性だった。




2024年12月6日金曜日

アメリカ南北戦争末期の1865年4月3日に、ピーターズバーグの塹壕で要塞を防御していた南軍兵士が戦死して、無惨な死体が戦場の険しい地形に横たわった。

アメリカ南北戦争末期の1865年4月3日に、ピーターズバーグの塹壕で要塞を防御していた南軍兵士が戦死した。南軍の兵士たちの無惨な死体が戦場の険しい地形に横たわった。アメリカ南北戦争中の南北戦争の痛ましい瞬間を象徴した。有名な写真家であるトーマス・C・ロッシュによって撮影された。 

 1865年4月1日のファイブフォークスでの南軍の敗北により、北軍は4月2日にピーターズバーグ戦線への総攻撃をした。夜明け前の暗闇の中で、北軍の第6軍団が南軍の戦線を突破して、北軍の歩兵は突破口を開いた。南軍のヒル中将は部下に連絡しようとして戦死した。南軍の歩兵部隊はグレッグ砦とウィットワース砦まで後退した。南軍はギボン大将の前進をフォート・グレッグで遅らせて、その夜に、北軍がピーターズバーグに進入するのを阻止した。北軍のライト大将が突破して、追撃部隊は北上し、ピーターズバーグ近郊のサウスサイド鉄道を寸断した。北軍はアポマトックス川を通過できた。

 1865年4月3日には自由にアポマトックス川を渡り、その北側にいる南軍リー将軍の通信手段を脅かした。日没後に、南軍のリー将軍は、ジェファーソン・デイビス連合国大統領に「もうこれ以上持ちこたえられない」と伝えた。ピーターズバーグとリッチモンドから南軍は撤退すると通告した。北軍のグラント将軍は、戦争の主要な軍事目標のひとつであるピーターズバーグの占領をついに達成した。それは南軍の首都リッチモンドの喪失に直結し、4月3日についに陥落した。




2024年12月5日木曜日

フェオドシアの虐殺は、第二次世界大戦の東部戦線にて、1941年12月29日から1942年1月1日にかけて、ソ連赤軍が、約160人の負傷したドイツ国防軍捕虜に対して大虐殺を執行した戦争犯罪である。

フェオドシアの虐殺は、第二次世界大戦の東部戦線にて、1941年12月29日から1942年1月1日にかけて、ソ連赤軍が、約160人の負傷したドイツ国防軍捕虜に対して大虐殺を執行した戦争犯罪である。 この大虐殺は、犠牲者の数が比較的多かったことと、犠牲者を生きたまま氷に凍らせた加害者たちによる「不必要な残酷さ」で注目された。

 11月3日に、クリミア半島の港湾都市フェオドシアは、ドイツ軍の第46師団と第170歩兵師団の部隊によって占領された。12月29日に、ソ連赤軍の海兵隊と正規歩兵がフェオドシアの海岸に上陸して、街を占領した。ドイツ国防軍最高司令部が作成した資料では、「負傷の有無にかかわらず、フェオドシアのドイツ人を一人残らず殺すようにとの命令が出された。」

 1942年1月18日、ドイツ軍はフェオドシアを再占領して、約160人の負傷したドイツ軍兵士の大虐殺を発見した。ソ連赤軍の歩兵はほとんどが酔っ払って、約160人の負傷者を殺した。負傷兵は、ソ連赤軍により病院の窓から投げ出され、重傷兵には水をかけて凍死させ放置された。野戦病院前の浜辺では、殴られ、切り刻まれた後、数メートルの高さの壁から投げ出され、波打ち際に放置された死体が山積みされた。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、黒海の岸辺でクリミア半島にフェオドシアの港町が、1941年11月3日に、ドイツ軍は占領して、ケルチ半島を制圧した後に、セヴァストポリ攻撃に集中させるため、この方面からドイツ軍の撤退を決定した。フェオドシアには防衛のためのドイツ軍小部隊だけが残され、戦闘で負傷した兵士は市内の病院で療養した。

 12月29日の午後に、ソ連赤軍の黒海艦隊から砲撃を受け、ソ連赤軍の海兵隊がフェオドシアに上陸し、ケルチ攻防戦でドイツ軍の防衛を圧倒した。1942年1月18日にドイツ軍によって奪還され、約6,700人のロシア軍兵士を殺害し、10,000人を捕虜にした。港町に入ったドイツ軍兵士は、ドイツ軍兵士のほとんどが惨殺された恐ろしい光景に遭遇した。




2024年12月4日水曜日

1944年9月22日に、アメリカ軍海兵隊員は、ペリリュー島の戦いで殺害された2人の日本軍兵士の死体と機関銃手を見下して、日本軍兵士から略奪した日本刀を持って立った。

太平洋戦争にて、パラオ諸島のペリリュー島の戦いにて、アメリカ軍の海兵隊がペリリュー島に1944年9月15日に上陸した直後に、2人の日本軍兵士を殺害した。その後に1944年9月22日に、アメリカ軍海兵隊員は、殺害された2人の日本軍兵士の死体と機関銃手を見下して、日本軍兵士から略奪した日本刀を持って立った。海兵隊員のポケットは、日本軍兵士から略奪した戦利品で一杯に膨らんだ。その後方の2人の日本軍兵士は、手投げ弾を胸に抱いて爆破させて自決した。右後方で日本軍機のゼロ戦が破壊された。

 1944年9月15日、第1海兵師団がペリリュー島西部の海岸に上陸した。その後の数週間、恐るべき激しさに達した戦闘によって、ペリリュー島には戦争の残骸が散乱した。ジャングル周辺には生きた手榴弾、迫撃砲弾、砲弾、小火器弾が散乱している。ペリリュー島の南西海岸に上陸した第1海兵師団は9月15日から戦闘を開始した。第1海兵隊は約594mの凹状の砂浜であるホワイトビーチに上陸した。区域の一番北端には、海岸線から約13.7m突き出た自然の岩があり、日本軍は機関銃と自動砲を、一連のコンクリート掩体壕に隠して、戦闘初日に第1海兵連隊が苦戦を強いられた。

 約3ヶ月前のサイパン陥落後に、日本軍は無意味な「バンザイ」突撃が、非生産的で無駄であることを悟った。ペリリュー島での日本軍の戦闘は、戦闘を長引かせ、アメリカ軍を可能な限り長時間拘束する消耗戦となった。硫黄島や沖縄でも長期の防衛戦が続いたが、ペリリュー島の戦いで戦略が初めて執行された。1944年11月27日に司令部陣地の日本軍兵士が全員が自決して終結した。




2024年12月3日火曜日

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。国道1号線、正式には国道1Aは、中国とベトナムの国境に近いフー・ギ・クアン国境ゲートからベトナムの主要都市を貫いている。20世紀初頭にフランスの植民者がこの高速道路を建設した。国道1号線の封鎖で、北ベトナム人民軍(PAVN)が、復活祭攻勢中の1972年4月29日から5月2日に、南ベトナムのクァンチーとフエの間にある国道1号線上で、南ベトナムの兵士と民間人の約2000人を殺害した。

 1975年1月6日に、南ベトナム軍は壊滅的な敗北を喫し、北ベトナム軍はフォックロン市とその周辺の州を占領した。この攻撃はパリ和平協定の明白な違反であったが、アメリカ軍からの報復はなかった。

 1975年3月1日に、南ベトナム中部高原地帯で、北ベトナム軍の強力な攻勢が始まる。南ベトナム軍は混乱し、撤退を余儀なくされ、6万人近い兵士が死亡または行方不明となる。1975年3月には、北ベトナム軍の新たな攻勢により、10万人の兵士がクァンチ省、フエ、ダナンの主要都市に侵攻した。強力な機甲部隊と8個砲兵連隊の支援を受けた北ベトナム軍は、クァンチ省を迅速に占領した。3月25日に南ベトナム第3の都市フエが北ベトナム軍に陥落した。

 1975年4月初旬に、北ベトナム軍は作戦開始から5週間後に、目覚ましい進展を遂げた。南ベトナムの12の省と800万人以上のベトナム人が、北ベトナム軍の支配下に置かれた。南ベトナム軍は最精鋭部隊を失って、兵士の3分の1以上、武器のほぼ半分を失った。

 1975年4月29日に、沖合のアメリカ軍の空母から飛び立った海兵隊と空軍のヘリコプターが大規模な空輸作戦を開始した。18時間以内に、1,000人以上のアメリカ市民と7,000人近い南ベトナムの難民がサイゴンから脱出した。1975年4月30日午前4時3分に、サイゴンのタンソンニャット空港でロケット攻撃により2人の海兵隊員が死亡した。彼らはベトナム戦争で亡くなった最後のアメリカ人となった。夜明けとともに、アメリカ大使館を守っていた最後の海兵隊員が撤収した。数時間後に、略奪者が大使館を荒らし、北ベトナムの戦車がサイゴンに進軍し、ベトナム戦争は終結した。約15年間に、北ベトナム軍とベトコンの兵士が100万人近く、南ベトナム軍兵士が25万人死亡して、アメリカ軍兵士が5万8千人が死亡して、数十万人の民間人が命を落とした。




2024年12月2日月曜日

リビアの首都トリポリのマイダン・シュハダ広場で、1911年12月6日に14人の先住民のベルベル人の殉教者がイタリア占領軍によって絞首台上で絞首刑により死刑が執行された。

リビアの首都トリポリのマイダン・シュハダ広場で、1911年12月6日に14人の先住民のベルベル人の殉教者がイタリア占領軍によって絞首台上で絞首刑により死刑が執行された。イタリア軍はオスマン・トルコの支配下にあったリビアの侵略戦争に勝利後に、トリポリでイスラム教徒のベルベル人を絞首刑にした。イタリア空軍の優勢により、キレナイカとトリポリタニアに駐留していたトルコ軍兵士の約8000人だけでなく、約2万人にも及ぶ先住民のベルベル人の非正規軍が、侵略者であるイタリア軍に抵抗して多大の犠牲の代償を支払った。イタリアは、イタリア・トルコ戦争に総勢10万人の兵士を投入した。

 1911年9月29日午後2時30分に、イタリアはトルコに宣戦布告して、イタリア・トルコ戦争が勃発した。約2万人のイタリア軍は、1911年10月10日と12日の2回に分けてトリポリに上陸した。イタリア軍は、トルコ軍の4,000人の部隊、特に先住民のベルベル人騎兵隊から激しい抵抗を受けた。1911年10月23日と26日、トリポリ郊外で先住民にイタリア軍は攻撃されて、数百人が死亡した。イタリア軍は、先住民の攻撃は撃退して、先住民を厳しく処罰し、4,000人以上を殺害した。

 イタリア軍は、オスマン・トルコ本国を砲撃して、1912年5月にはロードス島とドデカネス諸島の占領に至った。1912年10月8日に第一次バルカン戦争が勃発して、両国は10月18日にウチ条約を締結した。イタリア・トルコ戦争の結果、オスマン帝国は弱体化して、バルカン化半島では国家や民族の分裂で内紛が拡大して、第一次世界大戦の内因となった。




2024年12月1日日曜日

アメリカ第10軍外科部隊のジョン・ホール大佐が、被爆者女性の頭部の火傷にポット・アルコールを塗っている。

           非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-228538
















SC-228538

Col. John Hall, Surgeon X Corps, potass to burns of an atomic bomb victim, while Secretary of War Robert P. Patterson and Lt. Gen. C. P. Hall look on with interest, Japan 1/10/1946

Signal Corps Photo #WPA-46-64437 (Mundelius) released by BPR 3/12/1946

orig. neg. Lot 13455  Ref  228538

Ref


SC-228538

アメリカ第10軍外科部隊のジョン・ホール大佐が、被爆者女性の頭部の火傷にポット・アルコールを塗っている。ロバート・P・パターソン陸軍長官とC・P・ホール中将が興味深そうに見守っている。日本、1946年1月10日

通信部隊撮影 #WPA-46-64437 (Mundelius) 1946年3月12日 BPRより公開

原盤ネガ。ロット13455。リファレンス 228538

2024年11月30日土曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年1月28日に、ウクライナのドネツク州シヴェルスク近郊の前線にて、塹壕の周囲にロシア軍兵士の死体が放置された。

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年1月28日に、ウクライナのドネツク州シヴェルスク近郊の前線にて、塹壕の周囲にロシア軍兵士の死体が放置された。最前線で解凍されたロシア軍兵士の悲惨な死体が浮き出てきた。特にワグナー傭兵グループの訓練を受けていないロシア囚人の死体が前線らに放置されていた。冬が終わり、地面が解けるにつれて、最前線では不穏な死体が明らかになりつつある。

 主にワグナーPMCに代表されるロシア軍は、2022年7月以来、ドンバスにおける重要な輸送拠点であり、クラマトルスク、スラビャンスク、トレツク、シヴェルスクへの攻撃ルートをカバーするウクライナの要塞地域であるバフムートの占領を繰り返した。シヴェルスクへの攻撃ルートは、クラマトルスク、スラビャンスク、トレツク、シヴェルスクへの攻撃ルートをカバーしている。シヴェルスク町は、この方角に他の集落同様に、ロシア軍の砲撃の射程圏内にあった。France-Presse通信は、1月28日に撮影されたシヴェルスク近郊の前線の塹壕の周囲で死亡したロシア軍兵士の死体の写真を掲載した。

 ロシアは、ウクライナの擁護者たちをあぶり出すために、捕虜や訓練不足の徴兵の大群の肉弾戦をウクライナ軍に浴びせた。死体は生け贄のようにロシア軍隊が放置した。戦闘行為で手一杯のロシア軍は、棺に入れられたロシア軍兵士をほとんど祖国のロシアに返していない。 ロシア軍兵士の死体は放置されたり、積み上げられたり、移動火葬場や即席の炉で火葬されたり、急いで埋葬されたり、冬の間は腐ったり凍ったりして、放置された。ロシア軍の損害は死傷兵約18万人に近づき始めた。ウクライナ軍の損失はロシア軍ほど大くなく、推定では、ウクライナ軍の兵員は約10万人、民間人は約3万人が損失した。 




2024年11月29日金曜日

日本軍はシベリア出兵にて、1919年11月に日本軍の細野支隊はシベリアのホメヤコフ北方高地で、ポリシェビキ赤軍の襲撃を受けて交戦した。ロシアのポリシェヴィキ赤軍は、仲間の死体を残して退却した

日本軍はシベリア出兵にて、1919年11月に日本軍の細野支隊はシベリアのホメヤコフ北方高地で、ポリシェビキ赤軍の襲撃を受けて交戦した。ロシアのポリシェヴィキ赤軍は、仲間の死体を残して退却した。日本軍とポリシェヴィキ赤軍は、機関銃は100m以内にて射撃して、初期より手榴弾が爆裂して、至近距離での接近戦となった。

 1919年9月から日本軍連隊は、ロシアのポリシェヴィキ赤軍との戦闘に突入した。9月下旬には、激しいバクダットスカヤの戦いが勃発した。ポリシェヴィキ赤軍は、不利になれば森林地帯に逃げ込み、不意に乗じて武器で日本軍を急襲した。バクダットスカヤの戦いでは、日本軍の将校3人、下士官約46人が戦死した。

 第一次世界大戦末期の1917年10月に、ロシアで革命が起こり、世界初の社会主義政権が誕生した。連合国は、いち早く軍事干渉を起こした。日本は、中国のみならずシベリア・沿海州にも手を伸ばそうとする日本軍の大兵力を送った。日本軍のシベリア出兵は1918年1月12日から1922年6月24日まで、ロシア内戦中のボリシェヴィキ赤軍に対抗する白系ロシア軍を支援した。日本軍は1,399人が死亡し、さらに1,717人が病死した。ボリシェヴィキ赤軍は、2,887人が死亡し、1,421人が戦傷した。シベリアの凍土で孤立した日本陸軍は、ロシアから手痛い撤退を喫した。




2024年11月28日木曜日

日露戦争の1904年の旅順攻囲戦において、旅順郊外の丘の中腹で、日本軍に殺害されたロシア軍兵士の死体は集積されて共同墓地に埋葬されるのを待っていた。

日露戦争の1904年の旅順攻囲戦において、旅順郊外の丘の中腹で、殺害されたロシア軍兵士の死体は集積されて埋葬されるのを待っていた。旅順の郊外の地上に散乱したロシア軍兵士の並べられた死体は、共同墓地に埋葬されるのを待機した。1904年8月中旬に、旅順港一帯に対する日本陸軍の総攻撃が開始された。日本の攻撃部隊が約5万人で、ロシア軍の旅順守備部隊は約4万人であった。両軍ともに膨大な死傷者を出し、激しい砲撃と銃撃によって多数の兵士が犠牲になった。

 旅順攻防戦は1904年8月19日から1905年1月1日まで日露戦争の開戦を告げた。旅順は満州の遼東半島の先端にある深水港であり、ロシア海軍の基地であった。旅順港は当時、世界で最も強固に要塞化された陣地のひとつであった。日露戦争で最も長く、最も激しい陸戦であった。旅順攻防戦の過程でロシア陸軍は31,000人の死傷者を出し、うち15,000人が死亡、負傷、行方不明となった。

 旅順攻囲戦の過程でロシア陸軍は31,306人の死傷者を出し、うち少なくとも6,000人が死亡した。15,000人の死者、負傷者、行方不明者と低い数字も主張された。旅順攻防戦の最後に、日本軍はさらにロシア軍の878人の陸軍将校と23,491人のその他の階級を捕虜にした。さらに、ロシア軍は旅順港を拠点とする艦隊をすべて失い、撃沈されるか抑留された。日本軍は8,956人の船員を捕虜にした。日本軍の死傷者は57,780人(死者、負傷者、行方不明者)うち14,000人が死亡したと公式に発表された。さらに33,769人が包囲中に病気になり、そのうち21,023人が脚気となった。日本海軍は、2隻の戦艦と4隻の巡洋艦を含む16隻の船を失った。日本軍の死傷者数は、94,000から110,000とより高い見積もりになった。




2024年11月27日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線のソンムの戦いにて、イギリス第4軍の突撃戦線で、最南端のカルノワとモントーバンの間の砲弾の穴の中に、多数のドイツ軍兵士の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にてソンムの戦いにおいて、イギリス第4軍の突撃戦線により、最南端のカルノワとモントーバンの間の砲弾の穴の中に、多数のドイツ軍兵士の死体が散乱した。ソンムの戦いの初日である1916年7月1日に、イギリス軍のモントーバンの攻略が勃発した。塹壕に砲弾が直撃すると、瞬時に10人以上の兵士が殺傷された。死体が埋められないままで放置され、埋めても以後の戦闘で掘り返された。死体の傍で、兵士らは連続して何週間も過ごした。ソンムの戦いの間、兵士たちは繰り返し大量殺戮の光景に直面した。

 イギリス軍は、ドイツ軍陣地を破壊する膨大な量の砲弾を装備した。24kmにわたり60m以下の間隔で重砲と迫撃砲を並べて、鉄条網を破壊する野砲も用意した。当時の戦闘は、歩兵は砲撃後に前進して敵を掃討した。突破口の中央部で前進する部隊が側面から射撃を受けないよう、攻撃をかける戦線の幅は以前よりも広く取られた。しかしイギリス軍には、攻撃正面の敵の防衛部隊を圧倒できる火砲と砲弾がなかった。砲弾で、鉄条網を散乱させるだけで、歩兵が通り抜ける間隙を作り出すことは困難だった。鉄条網の間隙が少なく狭過ぎて、イギリス軍の攻撃部隊自らが鉄条網を排除する必要があり、前進する際の深刻な障害になった。

 イギリス軍の攻撃側の歩兵部隊は、射撃と移動を繰り返しながら可能な限り迅速に前進することが求められた。部隊は少し前進するごとに地面に伏せるか遮蔽物に隠れて射撃を行い、前進中の他の部隊を援護した。ソンムの戦いでイギリス軍部隊は、肩と肩が触れるほど密集して横一列に並び、ゆっくりとした歩速で前進した。戦線全域で高地を占拠したドイツ軍が有利な状況にあり、連合軍の攻勢に対して防御態勢を強化した。砲撃がやんで、ドイツ軍が9mの深さまで掘った地下壕から這い出し、機関銃を定位置に設置して射撃すると、緩慢な速度で前進したイギリス軍の攻撃部隊は、立ち往生した。




 

2024年11月26日火曜日

硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。

第二次世界大戦の太平洋戦争末期の硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。地下壕には、洞窟式の地下交通路が連なっていた。日本軍兵士の大半は、このようなトンネル内で絶命した。

 硫黄島一帯に散乱した死体は最大の猛威によって殺戮された。むごたらしくズタズタに切り刻まれた死体の大群が散乱した。多数の死体は胴体を真っ二つに切断されて、遠くにバラバラに散乱した。ある地域では日本軍兵士の死体の燃える悪臭がとてもひどかった。

 硫黄島の戦いは、攻撃側のアメリカ軍が、防御側の日本軍よりも、犠牲者が上回った。アメリカ軍の約7000人が戦死して、戦傷者は約1万9,000人に達した。硫黄島の戦いの、戦死者数と戦傷者数の詳細は『硫黄島作戦』を参照した。アメリカ軍の戦死者は、海兵隊の士官は278人、下士官は5,653人に昇った。海軍の将兵は881人、陸軍の将兵は9人が戦死した。アメリカ軍は合計6,821人が戦死した。日本軍は、陸軍兵士の12,850人と海軍兵士の7,050人が戦死し、合計で約19,900人が戦死した。

  太平洋上に浮かぶ小さな硫黄島に、1945年2月19日から3月26日にかけて、 日本軍とアメリカ軍のあいだで血みどろの戦いがくり広げられた。日本軍兵士2万933人が硫黄島を死守せんと立て籠もった。攻略するアメリカ軍は艦船800隻、航空機4000機、総兵力25万を擁して上陸作戦が開始された。日本軍はすでに8ヵ月前の1944年7月9日にサイパンを失って、1944年10月20日には、レイテ島に上陸して、日本軍の組織的抵抗は崩壊していた。




2024年11月25日月曜日

1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。

1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。全南大学女子学生の朴勝熙は、4月29日14時頃に、全南大学で​​開催された2万学友決議大会に出席し、15時ごろ全南大学本部の龍峰館の後方から投身自殺した。全南大学病院で治療を受け、全身3度の火傷により細菌感染で敗血症が発生した。1991年5月17日に再び敗血症が発生して40度以上の高熱と多臓器不全によって、5月19日に病死した。

 1991年4月26日に韓国では、1987年に韓国大統領に就任した盧泰愚(ノテウ)政権に対する反政府運動のデモに参加した大学生の姜慶大が、警官に殴打され死亡した事件が発生した。それに抗議する学生の焼身自殺が続発して、学生の焼身自殺者が7人も出た。その後に学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。死に対する弔い合戦が激烈なデモとなり、投石、火炎瓶と催涙弾を交えた民主化闘争へ展開された。その最中で抗議の自殺が企てられ、デモの渦中での圧死事件などが起こり、闘争はいっそう過熱し、自死が再生産された。

 韓国南西部の光州市で1980年5月18日に、学生や市民らの民主化要求デモが、韓国軍によって武力鎮圧された光州事件以降も、韓国の軍事政権は学生運動などを徹底的に弾圧した。ソウル大では、1986年4月28日に焼身自殺を決行した。全世鎮が5月5日に、季載虎 が26日に死亡した。反戦・反核闘争のデモで反米スローガンを叫んでいた全世鎮、季載虎という二人のソウル大生が抗議の焼身自殺をした。そこから雪崩を打ったように、自殺を遂げる苛烈な運動が展開されていった。5月20日に季東洙という学生が学生集会のさなかに焼身・投身自殺を遂げた。翌日5月21日には状況に自責の念を抱く 女子学生が入水自殺をとげた。1986年5月の学生運動は、まさに死と傷と苦しみの記憶が塗れた。1980年代以降の民主化運動の現場では、政治的不義に抗議する焼身自殺が頻発した。




2024年11月24日日曜日

広島市内で、原子爆弾による被害状況を視察するアメリカ軍従軍記者を、1948年9月12日に日本軍の兵士と民間人らが見守った。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-212342





























SC-212342

Japanese soldiers and civilians watch American war correspondents as they inspect damage done by atomic bomb in Hiroshima, Japan. 9/12/1945

Signal Corps Photo WPA-45-33510 (Lt. Camp) 

released by BPR 10/3/1945

orig.neg. Lot 12495 gef


SC-212342

広島市内で、原子爆弾による被害状況を視察するアメリカ軍従軍記者を、1948年9月12日に日本軍の兵士と民間人らが見守った。

アメリカ軍通信部が撮影した。WPA-45-33510(キャンプ中尉)

1945年10月3日に、BPRにより公開された。

原本ネガ、ロット番号は12495 gef

2024年11月23日土曜日

2024年5月14日に、パレスチナ人の死体の上半身が瓦礫に埋まり、身体が逆転して下半身が飛び出した。ガザ地区のヌセイラートで、イスラエル軍の空爆で破壊された。

2024年5月14日に、ガザ地区のヌセイラートで、イスラエル軍の空爆で破壊された建物の瓦礫の中から、パレスチナ人の救助隊員は男性の死体を掘り起こした。パレスチナ人の死体の上半身が瓦礫に埋まり、身体が逆転して下半身が飛び出した。

 ラファとガザ北部におけるイスラエルの軍事作戦の激化により、ここ数日で50万人以上のパレスチナ人が避難したと国連が発表した。2024年5月14日の1週間、ガザ南部の2つの主要国境交差点には食料が入って来ていない。国連によれば、約110万人のパレスチナ人が壊滅的な飢餓に直面している。特に北部では「本格的な飢饉」が起きている。パレスチナ難民のための国連機関が5月14日に発表したところによると、この1週間で約45万人のパレスチナ人がガザ南部のラファから追放された。イスラエル軍は、ハマスの最後の砦として、ラファの街に押し寄せている。パレスチナのガザ北部では、イスラエル軍の避難命令により、これまでに少なくとも10万人が避難したとファルハン・ハク国連副報道官が5月13日に記者団に語った。イスラエル軍はパレスチナ武装勢力と戦闘している。ガザ地区の保健当局者によれば、7ヶ月間にわたるイスラエル軍のガザへの砲撃と地上攻撃によって、3万5000人以上が死亡して、そのほとんどが女性と子どもだという。

 イスラエル国民は2024年5月14日に、例年では国中の公園でバーベキューをして独立記念日を祝った。独立記念日はいつもは賑やかなパーティーも、2024年はパレスチナのガザ地区での戦争のために小規模で静かなものとなった。イスラエル・パレスチナ戦争は2023年10月7日、パレスチナのハマス武装勢力がイスラエル南部を攻撃して、イスラエル民間人を中心に約1200人が死亡して、約250人が拉致されたことから勃発した。イスラエルによれば、武装勢力は現在も約100人の人質と30人以上の遺体を拘束している。 










Warning: Palestinians rescuers dig around the body of man in the rubble of a building destroyed in an Israeli airstrike in Nuseirat, Gaza Strip, Tuesday, May 14, 2024. (AP Photo/Abdel Kareem Hana)

2024年11月22日金曜日

1940年冬に、中国山西省・北岳区での中国共産党の八路軍と日本軍の戦闘で、中国共産党初の従軍写真家である沙飛が、被弾して崩れ落ちる八路軍兵士の連続写真を撮影した。





1940年冬に、中国山西省・北岳区での中国共産党の八路軍と日本軍との戦闘にて、中国共産党初の従軍写真家である沙飛が、被弾して崩れ落ちる八路軍兵士の連続写真を撮影した。日本軍の銃弾を受けて、中国共産党八路軍兵士がひざを屈して崩れ落ちた。

 山岳地帯でゲリラ戦による限定的な戦闘した八路軍は、日本軍に対して大攻勢をした百団大戦が1940年8月から12月に河北省と山西省で勃発した。八路軍は重火器が乏しく、人海戦術により約2万人もの犠牲者が出た。日本軍は対抗する掃蕩作戦で、10月中旬から11月末まで八路軍に反撃を強化した。その戦闘にて、沙飛が、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の瞬間を撮影して、中国の「のロバート・キャパ」と呼称された。

 中国共産党初の従軍写真家であった沙飛は、中国の晋察冀軍区と辺区の抗日活動を撮影した。中国共産党の指導に従って中国共産党に写真迎合を提示した。1926年に通信兵として北伐に参加した。1936年9月に24歳の沙飛は、上海美術専門学校に入学して、魯迅など港湾労働者や上海の下町生活を撮影した。1937年9月に、沙飛は全民通信社の写真家として八路軍を取材して、その従軍専属となった。沙飛は写真が現実を暴露する最も有力な武器の一種に捉え、常に社会の諸現状を描写する写真として利用した。

 1937年12月に、沙飛は聶栄臻将軍によって八路軍に従軍を許可されて、晋察冀軍区の政治部宣伝部初代の編集科長に任命された。『抗敵報』の副主任を兼務して、1941年に晋察冀画報社を設立し、1942年7月7日に、中国共産党初の画報『晋察冀画報』を創刊した。1947年6月、沙飛は中国共産党に加入申請書を提出して、11月22日に共産党党員となった。1948年12月に肺結核で石家荘平和病院に入院して、1949年12月15日に沙飛は主治医である日本人の津平勝医師を射殺した。1950年2月24日に華北軍区政治部軍法処は沙飛に死刑判決を言い渡して、同時に中国共産党を除名処分された。3月4日、沙飛に対して銃殺刑が執行された。1986年になって共産党の党籍を回復した。 



2024年11月21日木曜日

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害され斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側で、野砲隊員の死体が散乱した。

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害されて斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側に、野砲隊員の死体が散乱した。敵味方入り乱れての殺し合いは再開された。アメリカ軍は多くの死傷者を出しながらも、この二回目の強行上陸で飛行場南西端に約一個連隊の上陸に成功していた。そして夕刻までにはさらに 地歩を拡大、戦車をともなって飛行場の南東端近くまで進出してきた。日本軍の抵抗はすさまじかった。

 ペリリュー島上陸2日目の16日夜から翌17日にかけて、アメリカ軍は飛行場を含む島の南部をほぼ手中にした。両軍の損害も大きく、死傷者の続出は止まなかった。アメリカ軍に橋頭堡を築かれた後に、日本軍の損害は急カーブで上昇し始めた。状況不利と判断して9月16日午後4時30分に日本軍は「第一号反撃計画」の実行を命じられた。第二連隊本部直轄部隊として待機した第一大隊の中から斬り込み決死隊を編成した。海岸陣地で朝から激戦を交えた第二大隊の予備部隊、さらにペリリュー守備の日本軍兵士の唯一の機械化部隊である師団戦車隊を加えて反撃を開始した。

 地上戦は荒れて、アメリカ軍はウムブロゴル稜線への攻撃で多くの死傷者を出した。困難な状況と海兵隊の高い消耗率にもかかわらず、アメリカ軍の増援を受け入れることに消極的であった。同じく膠着状態Ⅱに配属された第81歩兵師団の一部は、9月17日の隣国アンガー島上陸作戦に投入された。ペリリューでの戦術的優位は鈍った。パラオ北部から散発的に増援を受けたペリリュー島北部の日本軍は、ウムルブロゴル山塊の防衛線が海兵隊に包囲されて、じわじわと減らされ、死傷者が増えた。

 ペリリュー島の戦いで、アメリカ軍の死傷者は戦死1,544人、負傷者6,843人に昇った。749人を出したのに対し、第7海兵連隊は46%の死傷者を出した。現在の戦闘力基準では「戦闘不能」とみなされる。日本軍は11,000人近くが戦死したが、捕虜になったのはペリリュー島の日本軍のごく一部である301人だけだった。






2024年11月19日火曜日

イラン人質事件の救出作戦が中断された1980年4月25日に、アメリカ軍のヘリコプターが輸送機に衝突して墜落して炎上した。アメリカ軍兵士8人とイラン民間人1人が死亡した。

イラン人質事件の救出作戦が中断された1980年4月25日に、アメリカ軍のヘリコプターが輸送機に衝突して墜落して炎上した。その結果、火災が両機を破壊して、アメリカ軍兵士8人とイラン民間人1人が死亡した。炎上して焼死した死体が、破壊された両機の周辺に散乱した。

 アメリカ大使館の人質を、1980年4月25日に解放しようとしたアメリカ軍の作戦は、完全に失敗した。アメリカ軍のコマンド部隊が、8機のヘリコプターでペルシャ湾の空母から出発した。イランの砂漠の所定の地点で、輸送機と合流する予定だった。すでに2機のヘリコプターが途中で技術的なトラブルに見舞われ、作戦の中断を余儀なくされた。救出作戦は中断されて給油後に、午後2時40分頃にヘリコプターが輸送機に衝突して墜落して炎上した。

 その結果、火災が両機を破壊して、アメリカ軍兵士8人とイラン民間人1人が死亡した。EC-130に搭乗した14人のアメリカ空軍乗組員のうち5人と、RH-53Dに搭乗した5人のアメリカ海兵隊乗組員のうち3人が死亡した。EC-130は、シングルエンジンの軽実用ヘリコプターでRH-530は重輸送ヘリコプターファミリーであった。さらに救出作戦がイランに知られるやいなや、アメリカ大使館の人質は、イランの秘密の場所に分散されていた。

 イラン人質事件は1979年11月4日に、約3000人の過激派イラン人学生がテヘランのアメリカ大使館を襲撃して、60人近いアメリカ外交官を人質に取った。1980年9月22日には、イラクがイランに侵攻して、イラン・イラク戦争が勃発した。1980年11月4日のアメリカ大統領選挙で、ジミー・カーター大統領は地滑り的敗北した。アメリカ大使館人質はロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任して数分後の1981年1月20日に解放された。約444日間にわたり人質になった。




2024年11月18日月曜日

1941年6月に、ドイツ軍はクレタ島の戦いで抵抗したギリシア人を銃殺で処刑した。一斉射撃で死刑囚は即死した。武器を持たいクレタ島の民間人は戦いに身を投じた。多くのギリシャ人の民間人が戒厳令下で射殺された。

1941年6月に、ドイツ軍はクレタ島の戦いで抵抗したギリシア人を銃殺で処刑した。一斉射撃で死刑囚は即死した。武器を持たいクレタ島の民間人は戦いに身を投じた。多くのギリシャ人の民間人が戒厳令下で射殺された。クレタ島がドイツ軍に占領され、抵抗に対する報復は容赦なかった。クレタ島がドイツ軍が最初に占領した1941年6月1日から6日で200人が処刑された。

 クレタ島の戦いでの犠牲は、ギリシャ軍の死者は426人、イギリス軍の死者1,742人、戦傷者1,737人、捕虜11,835人、ドイツ軍の死者1,990人、行方不明者は1,995人に及んだ。特にドイツ空挺部隊の精鋭部隊の損失は8,000人を超えた。

 ギリシアのアルゴリスのカラッツァ村でのドイツ軍による残虐行為が1944年6月に勃発した。1944年6月4日、頭を上げて抵抗するトロイゼニア人に激怒したドイツ占領軍は、カラジャの男性全員を一斉検挙し、倉庫に閉じ込めた。翌日の6月5日、ドイツ軍は18歳から55歳までの23人を選び、ニホリ居留地のトラケイア・クラニディ道路近くにある涸れた川に連行し、処刑した。ニホリティカの基幹のクラニディ道路で、18歳のヴァシリス・ブーラスに対する拷問と殺害があり、3日間も絞首刑に処せられた。ドイツ軍の処刑は、この地域でのELASの行動に対する報復として行われた。

 ギリシアで1941年から1944年にかけてドイツ占領軍に対するレジスタンスが勃発した。当初は、ギリシャのレジスタンスはすべて同じ目的を持って一緒に始まったが、影響力を得ようとする外国勢力の介入によって次第に分裂した。それがEDES、ギリシャ軍だけでなく、EAM、ELAS、WEAPONSなどのギリシアの国家レジスタンス組織に分化した。




2024年11月17日日曜日

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-241242

















SC-241242 

Maj. Gen. Percy W. Clarkson, CG, 10th Corps, (left) and Maj. Gen. Frank R. McCoy, Chairman of Far Eastern Advisory Commission (right) and members of the Commission look over ruins of Hiroshima.

1/26/1946

Signal Corps Photo #PA-46-64692 (Direda), released

by BPR 4/1/1946.

orig. neg.

Lot 13534

Pg



SC-241242

左から、第10軍団のパーシー・W・クラークソン中将(CG)、極東諮問委員会のフランク・R・マッコイ委員長(右)、および委員会のメンバーが広島の廃墟を見下ろす。

1946年1月26日

通信隊撮影 #PA-46-64692(ディレダ)、

BPR 1946年4月1日公開。

原本ネガ。

ロット13534

ページ

2024年11月16日土曜日

2024年5月25日に、ウクライナの第2の都市ハリコフにあるショッピングセンターの爆心地にロシア軍の誘導爆弾2発が命中した後に、警察官が駐車場で死体を検死して登録した。

2024年5月25日に、ウクライナの第2の都市ハリコフにあるショッピングセンターの爆心地にロシア軍の誘導爆弾2発が命中した後に、警察官が駐車場で死体を検死して登録した。死体の側で女性が呆然と悲嘆に暮れた。その後に警察官が死体の搬送の処置をした。

 ロシア軍は2024年5月25日に、ウクライナ第2の都市ハリコフに2発の滑空爆弾を投下し、最も混雑していた時間帯のエピツェントル建設のハイパーマーケットを直撃した。ウクライナ当局によると、爆弾が直撃したとき、建物内には200人ほどの人がいた可能性がある。衝撃の直後、ショッピングセンターで火災が発生して、ショッピングセンター全体が火災で包囲された。このロシア軍の爆撃で19人の死亡が確認されて、さらに54人が負傷した。ハリコフ市のイホル・テレホフ市長は、市中心部に対する2回目のロシア軍の空爆を、純粋なテロと呼称した。

 最初の衝撃波は、ホームセンターの商品が天井近くまで積まれた通路を粉々にした。次のロシア製爆弾は、その数秒後に彗星のごとく落下し、メガストアを灰燼に帰す炎を放った。この攻撃の直後に、ロシア軍は再びハリコフを攻撃し、今度はハリコフ中心部の住宅街を標的にし、14人が負傷した。第3の爆弾は、ハリコフの複合ショッピングセンター「エピセンター」の裏手に着弾したが、爆発に失敗した。ロシアは毎月3000発以上の爆弾を発射して、5月だけで3200発が使用された。

 ロシア軍はハッキングされた爆弾と拡張された空軍基地ネットワークでウクライナの最前線の町をより早く消滅させた。ロシア軍はウクライナから100kmも離れていない場所に滑走路を建設し、ロシア国境内の複数の基地から日常的にウクライナに爆弾を発射した。ウクライナの支配地域から600km以内にロシア軍が使用している基地は51カ所あり、ウクライナ東部占領地域に3カ所、クリミア半島に6カ所、ロシア国内に32カ所ある。













Warning: A police officer registers a dead body after two Russian guided bombs hit the Epicenter shopping complex in Khakiv, Ukraine, Saturday, May 25,2024. Andrii Marienko, AP 

2024年11月15日金曜日

東プロイセンのソ連赤軍によって、ネマースドルフ村のあらゆる年齢の女性や少女が強姦され切断され殺害され、ドイツ軍はその死体を並べて検死して現場を記録した。

第二次世界大戦の東部戦線で、東プロイセンに侵攻したソ連赤軍によって、ネマースドルフ村のあらゆる年齢の女性や少女が強姦され、切断され、殺害された。ナチス・ドイツ軍は、殺害された住民の死体を並べて検死して、ソ連赤軍の戦争犯罪の記録をとった。ネンマースドルフの虐殺は、1944年10月21日に民間人集団の虐殺が勃発した。

 ソ連赤軍は東プロイセンへの最初の侵攻で、ゴルダップの北に位置したネーマンスドルフ村で戦争犯罪である大虐殺を執行した。ネンマースドルフ村を占領したソ連赤軍兵士は、1944年10月21日に、多くの住民や、特に女性や子供を発見した。その24時間後に、ネマースドルフ村はドイツ軍部隊によって奪還した。

 ドイツ軍兵士からの報告では、ネマースドルフ村は死体だらけで散乱した。農家の道の左側に立ったはしご車に、4人の裸の女性が両手を釘付けで磔にされた。アパートでは、合計72人の女性と子供、74歳の老人の1人が殺害された。数人が後頭骨を撃たれて殺害され、その中には幼児の頭蓋骨が粉々に砕けた。8歳から12歳の少女だけでなく、ほんど全ての女性の身体には強姦の跡があった。

 ナチス・ドイツ政権のヨーゼフ・ゲッべルス宣伝省大臣が、ネンマースドルフの犯罪現場に到着し、写真と動画を作成した。1944年11月2日に、ドイツの週間ニュース映画によって、東プロイセンのネンマースドルフ村の戦争犯罪を描いた。ゲッベルスのプロパガンダだけでなく、恐ろしい現実だった。非常に示唆的なプロパガンダに聞こえ、ドイツ国民にソ連赤軍に対する恐怖と憎悪を鼓舞して、さらに狂信的な抵抗を行うよう洗脳した。

 ネンマースドルフの大虐殺は、何百万人ものドイツ人女性にソ連赤軍に対する恐怖と憎悪の想像力をかき立て、一種の殺戮狂に陥った。1945年の冬から春にかけて、何千人ものドイツ人女性が、ソ連赤軍が侵攻する言葉に反応して自殺し、その多くは死ぬ前に自分の子供も殺した。



2024年11月14日木曜日

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領して、米不足がベトナムに広がった。

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領したベトナムに広がり、ますます深刻になり、米不足は田舎から都市部、さらには首都ハノイにまで広がった。多くの地域で、家族全員、近所全体、あるいは村のほぼ全体が死亡した。日本軍兵士に発されないようにヴォー・アン・ニンは、ベトナム人の餓死者をみつめ、ひそかに写真として残した

 5年にわたる日本軍のベトナム支配によっておこったもっとも大きな災難は、食料危機であった半世紀以上におよぶフランス軍の植民地支配と5年間の日本軍の占領で、ベトナムナの生産と生活は悲惨なものになっていた。とりわけ日本軍の占領政策は、ベトナムナを食料や物資の補給基地と位置づけたために、生産された米は剥奪されて、トウモロコシなどの食用作物にかわって、ジュート(袋や綱の原料で麻の一種)の栽培が強制されて、食料不足に苦悩した。

 1994年から1945年にかけてのベトナム北部一帯の冬は、特にに寒さがきびしく、ただでさえ食料難に苦しむ人びとにダブルパンチをくわえた。その結果として膨大な餓死者をだすことになった。その数は一説では200万人ともいわれている。にもかかわらず日本軍の倉庫には、米が山のように積み込まれた。

 特にベトナムでアトダウの年の旧正月(1945年2月13日)に、空腹の隣には寒冬が到来して、首都ハノイでは気温4度まで下がった。泣き叫ぶ老婦人、壁の隅に群がってマットの上に横たわる裸の子供たち、裸で道端に横たわる父親や子供たち、ねじれた死体が散乱した。犠牲者数は、ベトナムの人口1,000万人未満のうち200万人が死亡した。ベトナムの北部山岳地帯では、軍隊と大衆が拠点を攻撃して地区の占拠に対して蜂起したが、人々に配布された穀物や塩の倉庫を破壊して、兵士とゲリラのために保管された。1945年3月から7月にかけて米倉庫の破壊を、ベトミンが扇動した。人々は穀倉を自ら破壊するように促され、税金を支払わないように扇動され、米の分配を要求された。




2024年11月13日水曜日

ハンガリー革命の指導者であるクン・ベーラ政権の赤色テロのなかで、反革命の容疑者の数百人が1919年5月に死刑となり、レーニン少年が死体にポーズをとった。

ハンガリー革命の指導者であるクン・ベーラによるクン政権の「赤色テロ」のなかで「反革命」の容疑をかけられた数百人が1919年5月に死刑で処刑された。1919年春に、赤色のテロの犠牲者の死体と革命テロ集団であるレーニン少年はポーズをとった。1919年春にクン政権はルーマニア軍による侵攻で打倒されて短命に終わった。

 1918年11月にクンはソ連の支援を受けて、ハンガリー共産党を設立した。ミハーイ・カーロイの政府に反抗する運動を展開した。1919年3月にクンは釈放されるとクーデターを成功させ、共産主義政権であるハンガリー・ソビエト共和国の樹立を宣言した。新政権は4ヵ月後に、ルーマニア軍の進撃に直面し崩壊した。クン政権の失脚後に、反革命部隊は同様の虐殺の報復を行った。1930年代後半のスターリンの大粛清に、クンは裁判にて死刑で処刑された。

 ハンガリーの赤色テロは、1919年3月21日から8月1日まで存続したハンガリー・ソビエト共和国のハンガリー共産党が、約4ヶ月間に行った抑圧的な暴力と弾圧である。主に反共産主義勢力が国家の敵とみなした人々を虐殺した。ハンガリー・ソビエト共和国はソ連のボリシェヴィキ方式に従って、レーニン少年などの革命テロ集団を設立した。赤色テロにより、最大590人が殺害された。

 第一次世界大戦の余波で、1918年にドイツが西部戦線で敗北する中で、オーストリア=ハンガリー王政は崩壊した。1918年11月16日に、オーストリア=ハンガリー君主国のシャルル1世が政権から離脱した直後に、ミハーイ・カーロイは自らを臨時大統領とするハンガリー民主共和国を宣言して、1919年1月11日に大統領に就任した。カーロイは、1919年3月21日に共産党のハンガリー・ソビエト共和国の新政権に逮捕された。





2024年11月12日火曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて1942年11月に、ドイツ軍はユーゴスラビア愛国者を絞首刑で処刑した。最初のパルチザンの抵抗行為に対する報復として、ドイツ軍は1941年秋に大量虐殺を執行した。

第二次世界大戦の東部戦線にて1942年11月に、ドイツ軍はユーゴスラビア愛国者を絞首刑で処刑した。ドイツ軍の侵攻により、ユーゴスラビアは内部分裂により崩壊した。1941年から1945年にかけて、ユーゴスラビアの共産主義者、クロアチアのファシスト、セルビア王党派とドイツ占領軍の3者間の内戦の紛争によって、占領国は引き裂かれた。少なくとも100万人が死亡した。

 1941年春にドイツ国防軍がユーゴスラビアを占領して、多民族国家が崩壊した。その後に、民族主義者グループが、第二次世界大戦にて最初のパルチザン部隊となった。パルチザンは弱武装の民兵は山岳地帯に退却して、占領ドイツ軍と戦った。最初のパルチザンの抵抗行為に対する報復として、ドイツ軍は1941年秋に大量虐殺を執行した。パルチザンは大規模な抵抗運動を控えた。1943年にドイツ親衛隊によるギャング狩りにより、民間人の犠牲者の数は数ヶ月でかなり増大した。パルチザンの包括的な武装蜂起は、占領ドイツ軍が疲弊して、全般的な戦況が不利に転じてから宣言された。

 枢軸国占領軍であるドイツ軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍の占領軍はユーゴスラビアの住民に対して残虐行為を行った。パルチザンの攻撃や抵抗に対する報復として、民間人や人質の大量殺戮の虐殺した。有名な事件として、ドイツ軍によるクラグジェヴァツ虐殺があり、アルバニア人のヴァッフェン親衛隊SS部隊が、アンドリエヴィツァで400人以上の正統派キリスト教徒を殺害した。ハンガリー軍によるノヴィ・サド虐殺により、南部バチュカ地方で3,000~4,000人の市民が殺害された。イタリア軍によりポドゥムの虐殺により、1942年7月12日にポドゥムの村で、パルチザンの襲撃に対する報復として、イタリア占領軍がクロアチア人の91人の民間人を殺害した。

 パルチザンによる復讐行為は隠蔽され、パルチザンに積極的に参加しなかった多くの人々や捕虜をドイツ軍の協力者とみなして、恣意的に処罰して、収容、抑留、追放、殺害、弾圧した。ファシストのユーゴスラビア人戦闘員に対するブライブルクの虐殺、ゴットシェール人やドナウ・シュヴァーベン人の少数民族の虐殺した。ユーゴスラビアのパルチザンが、1943年秋と1945年春に、イタリア住民に対して、フォイベの虐殺を執行した。戦後も虐殺した地域は、制限された軍事エリアとして一般人から遮蔽された。




2024年11月11日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月13日に、北朝鮮の朝鮮人民遊撃隊の指導者である李昊濟は、韓国軍警察部隊による討伐隊との戦闘中に戦死して、李昊濟の死体から頭部が断頭された。

朝鮮戦争の直前の1950年4月13日に、北朝鮮の朝鮮人民遊撃隊の指導者である李昊濟(イ・ホンジェ, 이호제)は、韓国軍の警察部隊による討伐隊との戦闘中に戦死した。その時に、李昊濟の死体から頭部が断頭された。1949年8月には、李昊濟の朝鮮人民遊撃隊は38度線に近い五台山で、小規模の野山隊を取り込んで、遊撃隊は約400人の部隊となり、慶州の北方の宝峴山まで侵攻した。韓国軍警察部隊による討伐それて、李昊濟の朝鮮人民遊撃隊は1949年12月頃に崩壊していた。

 李昊濟は、アメリカ軍による朝鮮半島の統治期初期の1945年12月に、北朝鮮の全朝鮮青年団体総同盟中央委員長として、清銃を率いた。その直後に北朝鮮の金日成の社会主義青年同盟の前身の南朝鮮民主青年同盟の委員長として、左翼青年運動の指導者として活動した。左翼活動が韓国で違法化される過程で、北朝鮮に脱北して、工作員養成機関である江東政治学院長になった。

 江東政治学院は、北朝鮮の工作員である朝鮮人民遊撃隊を養成する機関として、南朝鮮労働党の軍事的基盤となった。李昊濟は1948年4月3日に勃発した済州島四・三事件に参入した。麗水・順天事件にて、1948年10月19日に勃発して、軍隊が反乱して、民間人が殺害された。李昊濟は、1949年6月には、北朝鮮の祖国統一民主主義戦線の命令を受けて、江東政治学院で養成した遊撃隊員の360余人を率いて太白山脈に沿って南下した。麗水の軍隊反乱軍の一部を取り込んで、38度線に近い五台山地区を陣地としていた。