2024年10月21日月曜日

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。午後にアメリカ軍は死体を撤去して、銃弾の跡だらけのムッソリーニ等のひどく損傷した死体をミラノの死体安置所に運ぶように命じた。アメリカ軍は、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチの死体を互いに並ばせて、不気味なポーズをとらせて撮影した。

 第二次世界大戦にて連合国軍は北アフリカで勝利した後に、1943年夏にシチリア島へ上陸した。イタリア半島を首都ローマへ向かって攻めのぼった。1944年6月5日に首都ローマを解放した。1922年以来に絶対的権力を握ってきたイタリア・ファシスト党の独裁者ベニート・ムッソリーニは、シチリア陥落後政権の座を追われて監禁された。

 1943年後半に、ナチス・ドイツ軍の降下部隊が、アペニン山脈のスキー場に幽閉されたムッソリーニの救出に成功した。ムッソリーニはイタリア全土の権力者に再びに返り咲けなかった。当時イタリア政権はすでに方針を転換して、連合国側で戦っていた。ムッソリーニはヒトラーに命令のままに、北イタリアにイタリア社会共和国を樹立して傀儡の元首におさまった。

 1945年に第二次世界大戦の戦況が、ナチス・ドイツ軍は著しく戦況が不利になるにつれ、ムッソリーニを支える余力はなかった。1945年の4月末に、ムッソリーニの一行はミラノの拠点を脱出した後に、反ファシストのパルチザンがムッソリーニーを追った。極右の指導者たちに対して長年の戦争犯罪を償わせる指令が出された。1945年4月27日にスイス国境近くのコモ湖畔の路上で、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチはともにパルチザンに捕まった。翌日の4月28日午後でヒトラーが自殺する2日前に、2人は略式裁判により機関銃で銃殺された。ミラノのロレート広場に運ばれたムッソリーニとペタッチと、14人のファシストの死体は、群衆の暴徒により文字どおり殴る蹴るの暴行を加えられた後に、ロレート広場のガソリンスタンドで逆さ吊りにされた。それは、ナチス・ドイツの親衛隊によりファシストが、8月前に15人のパルチザンを処刑して死体を公開したロレート広場であった。




2024年10月19日土曜日

2024年4月9日に、ウクライナの首都キエフの独立広場で行われた葬儀で、ロシア軍との戦闘で死亡した2人のウクライナ軍兵士に弔意を表する人々が集結した。

2024年4月9日に、ウクライナの首都キエフの独立広場で行われた葬儀で、ロシア軍との戦闘で死亡した2人のウクライナ軍兵士(セルヒイ・コノバルとタラス・ペトルシュン)に弔意を表する人々が集結した。ウクライナのいたるところで、戦死したウクライナ人の死体が毎日故郷に帰った。首都キエフでは、ウクライナ軍兵士の死体を乗せた2つの木製の棺が、2014年のウクライナの民主化デモの中心地である独立広場に厳粛なパレードで運ばれて、弔問客がひざまずく中で、ウクライナ塀の死体の逝去を見送った。

  人口4400万人のウクライナ国が、隣国のロシアによる全面的な侵攻を2年以上の間は防御してきた。議会の内紛で重要なアメリカの援助が滞って、世界の注目が明らかに弱くなり、深刻な戦争疲れ、すべてがウクライナに大きな犠牲を強いた。最前線では、疲弊したウクライナ軍兵士がロシア軍の進撃をかわしながら、軍民の犠牲とともに不安も高まった。2024年4月頃に毎日、私たち兵士は戦死していると、33歳のマルタ・トマキフは、数日前に東部で戦死したウクライナ西部の故郷の友人を悼んだ。

 戦地から何百kmも離れた首都キエフではあるが、戦死した兵士を追悼する青と黄色の旗が戦争の象徴としてはためいた。国連のウクライナ人権監視団によると、ロシア軍の攻撃で、2024年3月には少なくとも604人のウクライナ市民が死傷した。ウクライナの広大な領土がますます脆弱になる中で、東部の町アブディフカは2024年2月にロシア軍に陥落した。ウクライナ政府は、進行中のイスラエルに対する大規模なイランのミサイル攻撃とドローン攻撃を阻止したイスラエルとアメリカの同盟軍に、公の場で沈黙した。

  2022年2月24日からロシア軍の全面侵攻以来最大の501人のウクライナ軍兵士の死体をウクライナに返還した、ウクライナ当局が2024年10月18日に発表した。ウクライナの捕虜待遇調整本部は、死体のほとんどはウクライナ東部のドネツク地方、主にアヴディフカの都市周辺で戦死したと述べた。法執行機関と法医学の専門家が、犠牲者の身元を確認して、遺族に引き渡されて埋葬されるという。



















Warning: People pay their respects to two Ukrainian servicemen killed in a battle with Russian troops during the funeral ceremony in Independence Square in Kyiv on April 9, 2024. (Efrem Lukatsky / Associated Press)

2024年10月18日金曜日

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計であり53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計である53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。リッソは机で、レナーテとエバートはソファーで毒薬の青酸カリを服用して自殺した。アメリカ軍兵士による捕縛を避けるため、ライプツィヒ新市庁舎で青酸カリによる自殺を遂げた。リッソは、ドイツ赤十字の腕章をつけた。死の写真に、妻のレナーテ・リッソは夫の向かって座り、赤十字の腕章をつけた娘のレジーナがベンチに座っていた。

 アメリカ軍は1945年4月18日にラートハウスを突破して、4月19日朝から攻撃を開始した。 アメリカ軍の戦車は7時30分から9時10分までラートハウスに向けて砲撃を行って、捕虜となったドイツ軍将校が降伏の最後通牒を持ち込んだ。別の部屋で青酸カリで自殺した市長アルフレッド・フライベルクとその妻、娘、前市長でフォルクススツルム大隊長のクルト・ヴァルター・デニッケとその将校数名も新市庁舎で発見された。アメリカ軍はドイツ軍少将1名、下士官175名、ゲシュタポ13名を捕らえた。アメリカ国旗は正午頃に、ラートハウスに掲げられた。リッソの自殺の現場は、ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、リー・ミラー、アメリカ陸軍信号隊によって特に広範囲に撮影された。

  ソ連赤軍と西側連合軍がベルリンに迫ってくると、自殺者が増えた。1945年春に、何千人ものドイツ人が、占領や勝者による虐待に避けて自殺した。 ベルリンの戦いでは4月中に約3,881人が自殺したと記録された。動機は「ロシア軍の侵攻への恐怖」だけでなく、連合軍によって解放された地域でも自殺は起きた。アメリカ群は、1945年7月にソ連軍との国境線から占領区域の境界まで撤退した。ライプツィヒはソ連赤軍に引き渡された。ライプツィヒは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の主要都市の一つとなった。




2024年10月17日木曜日

ロシア軍は、1905年に奉天会戦でのロシア軍兵士の67人の死体群を集団埋葬地の近くで取り囲んだ。死体群の周囲では、ロシア軍兵士がシャベルで集団墓地を掘った。

ロシア軍は、1905年に奉天会戦でのロシア軍兵士の67人の死体群を集団埋葬地の近くで取り囲んだ。死体群の周囲では、ロシア軍兵士がシャベルで集団墓地を掘った。奉天会戦は、日露戦争の最大の陸上戦の一つであり、最後の終結的な陸上戦闘となった。1905年2月20日、日本軍がロシア軍の左翼を攻撃して勃発した。2月27日、日本軍第4軍が右翼を攻撃し、他の日本軍もロシア軍の前線を攻撃した。同日、日本軍は奉天の北西で広範囲にわたる移動を開始した。1905年2月20日から3月10日にかけて、満州国の奉天(現在の瀋陽)付近で日本軍とロシア軍の間で戦われた。約61万人が参戦して、約16万4000人が戦死傷した。当時の世界史上最大の戦闘でもあった。3月7日までに、クロパトキン将軍は奉天の西側で日本軍から退避するため、奉天会戦から完全撤退し始めた。

 帝政ロシアにてヴィクトル・ブッラは、1904年から05年にかけての日露戦争で、19歳の少尉としてシベリア予備旅団の従軍カメラマンとなった。日露戦争にて、ダリン峠と奉天の戦い、エルダゴウ、ズニオ、サンデプ、ラナファン、プチロフの丘での行動、ミシェンコ将軍の襲撃、その他戦争の重要な事件を撮影した。ヴィクトルの前線レポートは、最も人気のあるイラスト雑誌「ニーヴァ」(戦場)、「イスクリ」(火花)、ロシアの主要新聞に広く掲載され、世界中で再版された。

 ロシアに帰国後に、ロシア皇帝の宮廷、政府、軍事活動の公式写真を独占的に制作する権利を持つカール家の写真代理店に入社した。ヴィクトルは、第一次世界大戦、ロシア革命、内戦の大規模な写真ギャラリーを制作し、事実上、初期のソビエト政府の公式写真家となった。要注意として、1935年までに写真約20万点が政府公文書館に接収された。1938年6月23日には冤罪で逮捕され、拷問によりソ連に対するスパイ活動を自白させられ、1938年10月に銃殺された。ヴィクトルの名前は、1980年代後半のゴルバチョフのペレストロイカまで、すべての公式資料から抹消された。






2024年10月16日水曜日

1945年9月5日にカナダに亡命したウクライナ人のイゴール・グゼンコは、防護服を着用して、カナダで活動するソ連のスパイ・ネットワークを証言して暴露した。

ウクライナ人のイゴール・グゼンコは、防護服を着用して、カナダで活動するスパイ・ネットワークを証言して暴露した。スパイ以外では知ることのできない核兵器の原子力の秘密を盗み出した。カナダのオンタリオ州の首都のオタワ大使館で、暗号担当職員を務めていたウクライナ人のイゴール・グゼンコは、1945年9月5日にカナダに亡命した。ソ連のクレムリン当局は第二次世界大戦直後にかつての第二次世界停戦の同盟国と表面上は友好的な関係を保ちつつ、慎重にスパイ活動を活性化させた。グゼンコ事件はオタワの世論から世界の冷戦が勃発した。

 首都ワシントンのFBIは、アメリカにおけるナンバーワンの赤のスパイとしてゲルハルト・アイスラーを摘発した。彼はポーランドの客船に密航して、イギリスで引きずり降ろされて尋問を受けた。その後にモスクワに送還された。ワシントンFBIはまた、国務省高官であったアルジャー・ヒスを含む数人のアメリカ政府職員を破壊活動家と断定し、ヒスは偽証罪で投獄された。

 エセルとジュリアス・ローゼンバーグ夫妻は、マンハッタンの機械工で、デビット・グリーングラスの義理の兄弟が、ロスアラモスで原子爆弾開発に携わっていた。夫妻は裁判で、有罪判決を受けて、最高裁判所への上告を経て、死刑が確定して電気椅子で処刑された。

 ロシアでは、鉄のカーテンの中でスパイ行為を行ったとして多くの人物を告発し、投獄したり、即決で処刑した。無実の罪で有名な2つの事件は、ハンガリーのヨセフ・ミンデント枢機卿と、プラハにいたAP通信のウィリアム・オアティス特派員がいた。

 ソ連のクレムリンは1946年にアメリカのミズーリ州フルトンで行った有名な演説で、ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテン」と名付けた国境の壁を構築した。バルト海から黒海にわたる新たな国境に沿って延びる構造物を構築した。ソ連の内務人民委員部(MVD)やその他の特殊部隊によって警備され、物理的には、監視塔、サーチライト、地雷、機関銃、警察犬と警備員が配備され、無人の土地に張り巡らされた電流の流れた有刺鉄線が設置された。鉄のカーテンは、西側の思想に対するイデオロギーの障壁でもあった。



2024年10月15日火曜日

1911年9月に、エフライム・ハーンが率いるペルシア帝国軍に敗北して捕らえられた後に、元国王のシャーの有名な将軍アルシャドゥッダウラは反逆者として処刑された。

1911年9月に、エフライム・ハーンが率いるペルシア帝国軍に敗北して捕らえられた後に、元国王のシャーの有名な将軍アルシャドゥッダウラは反逆者として処刑された。銃殺で処刑された直後に、アルシャドゥッダウラの死体の周囲にはペルシア帝国軍兵士が取り囲み見下した。

 1911年9月5日火曜日朝11に時、エフライム指揮下のペルシア帝国軍は、アルシャドゥッダウラ率いるトルコ人とペルシャ人の約2,000人からなる約1400人が騎乗した元国王のモハマド・アリー・シャー・カジャールの軍を攻撃した。ペルシア帝国軍は、バクティヤール人約500人、アルメニア人志願兵および憲兵約180人、シュナイダー砲3門、マキシム機関銃1門で構成された。バクティヤール騎兵隊は、他のサルダリ・バハードゥルとサルダリ・ムタシェムの直接指揮下にあった。アミール・ムジャーヒド率いるペルシアペルシア帝国軍は、イマームザーデ・ジャッファル近辺のアルシャドゥード・ダウラと対峙する地点からさらに南に3.2kmの地点にいた。ペルシア帝国軍はバフティアリー兵約400人と数名の憲兵で構成された。正午の午後1時間前に、アルシャドゥード・ダウラは、4門の大砲で守られた約800m四方の丘に陣取った。300人のトルコ人をベラミン村に送り込み、パニックを引き起こした。その朝早く、エフライム率いるペルシア帝国軍がその近辺に到着したとき、アミール・ムジャヒド軍とトルコマン軍の間で銃撃戦が起こった。

 エフライムは、マキシム機関銃とサルダール・イ・バハードゥルと騎兵隊を率いて、アルシャドゥッダウラ軍の右翼の周辺の高台に向かわせた。ペルシア帝国軍は誰にも見つからずに有利な位置に到達して、マキシム機関銃でトルコ人たちに発砲した。後に捕虜となったアルシャドゥッダウラ自身の話では、マキシム機関銃のけたたましい銃声にトルコ人たちはひどく怯え、指揮官たちは混乱に陥った。秩序を回復できず、サルダール・イ・バハードゥル率いるバクティヤール族の騎兵隊が突撃すると、混乱のなかで崩れ去り逃げ出した。アルサドゥッダウラは足を負傷し、逃げることができず、バクティアリーの部隊に捕らえられて処刑された。エフラム・ハーンは1912年5月19日、ケルマンシャーハン州のシュルチェでの戦闘の最中に殺された。




2024年10月14日月曜日

1941年12月5日のソ連軍のジューコフ総司令官の反攻は、ドイツ軍に大打撃を与えた。1941年から1942年の凍てつく寒さと降雪で冬戦争における戦闘地域に死体が散乱した。

ドイツ軍の装備の不備と冬服の不足は、最終的にモスクワの戦いは、ドイツ軍にとって致命的となった。 1941年12月5日のソ連軍のジューコフ総司令官の反攻は、ドイツ軍に大打撃を与えた。1941年から1942年の冬戦争における戦闘地域に死体が散乱した。1941年12月に、凍てつく寒さと降雪でドイツ軍兵士は撤退を余儀なくされた。 

 1941年6月22日にソビエト連邦に侵攻した。ヒトラーは1941年10月にドイツ軍にモスクワへの進撃を命じた。10月7日に初雪が降り、すぐに溶けて道路や空き地が泥沼と化した。泥沼の戦いの後に、厳しい霜がさらなる前進を阻止した。10月15日の夜に、ドイツ軍はモスクワの主要な防衛線を突破した。10月20日にソ連軍の前線を粉砕した。1941年11月には、零下40度にもなる恐ろしいロシアの冬が始まった。冬の戦いにまったく適応していないドイツ軍は、凍傷による大きな損失を被った。極東から投入されたソ連軍の反撃にも苦しめられた。ドイツ軍の攻撃力は、首都モスクワから35~40kmの地点でついに崩壊した。モスクワのドイツ軍戦線は、北部および南部においても撤退を余儀なくされた。1941年12月19日にヒトラーはドイツ軍のブラウヒッチュ将軍を解任して、国防軍を個人的に指揮した。

 ロシアでの戦いでは、双方にとってこれまでにないほどの残酷さで遂行された。多くのロシア人捕虜が輸送中に死亡した。ヒトラーは、とりわけ、ロシアの各部隊に必ず存在する共産主義の政治委員をその場で射殺するように命令した。占領地域では、ドイツの文民当局がロシア人をひどく扱った。1942年1月にドイツ国防軍の公式死傷者日報によると、1941年10月1日から1942年1月10日までの間に、ドイツ中央軍全体の戦死者35,757人、負傷者128,716人、行方不明者9,721人となっている。1941年10月から1942年1月までのソ連軍の死傷者数は653,924人としている。




2024年10月13日日曜日

ロシア軍の捕虜になる前となった後、ウクライナ軍兵士のオレクサンドル・ヒリツィウクの生前は身長180cmで体重は110kgから50kgに衰弱した死体が2024年1月に返還された。

ロシア軍の捕虜になる前となった後、ウクライナ軍兵士のオレクサンドル・ヒリツィウクの生前と身長180cmに対して体重は110kgから50kgに衰弱した死体が2024年1月に返還された。ウクライナ西部のヴォリン州出身のオレクサンドル・ヒリツィウクは、建設業者で働いて、2022年に全面的なロシア軍の侵略と戦うためにウクライナ軍に志願した。2022年4月に、ドネツク州のノボバフムチフカ近くで捕らえられ、ビャズマ収容施設に連行された。2023年11月にロシア軍の捕虜となって死亡し、2024年1月に骨と皮の痩せた死体が返還された。

 ロシア軍は、組織的に餓死、殴打、釘抜きなどで、ウクライナ軍捕虜を死ぬまで拷問していた。ロシア軍と捕虜となっていたウクライナ人の死体を返還された死亡証明書には、通常は死因として結核や心臓発作が記載された。ロシア軍の捕虜となったウクライナ人の死体には拷問や飢餓の兆候が目に見えて、ロシア軍の捕虜生活を生き延びたウクライナ人の目撃証言では、ロシア軍の非人道的な扱いと屈辱を証明した。オレクサンドルは背が高く、ウクライナ西部出身で、ロシア語を話すことを拒否して、最悪の拷問を受けた。ウクライナ人の囚人たちは1日に何度もロシア国歌を聴かされ、過酷な肉体労働を強制され、不十分な食事と定期的な殴打を受けて、多くの者が意識を失った。

 ウクライナの官僚システム内の問題にも焦点をあてて、ウクライナの役人は、ロシア軍の拷問による死因を認める一方で、結核や心臓発作など、ロシア軍が捏造したウクライナ人捕虜の医学診断を受け入れることが多かった。オレクサンドルを見れば、拷問を受けたのは明らかである。ロシア軍の死因を病死とするウクライナ当局に、彼の妻は同意できず、死亡診断書は受け入れないと訴えた。ロシア軍の文書には、オレクサンドルは結核で死亡したと記載され、ウクライナの法医学的検査でも結核が死因とした。ウクライナ人囚人に対する虐待や虐待は、ビャズマ第2拘置所に限らず、ロシアの42の拘置所全体に広がった。
















Warning: Comparison of Oleksandr Hrytsiuk before capture (left) and his deceased body after Russian captivity (right). Photo: Twitter/Special Kherson Cat

2024年10月12日土曜日

広島への原子爆弾投下の犠牲者である被爆者が、1945年9月12日に広島赤十字病院で、 頭部、肩、腕などの火傷の治療を受けている 。

          非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-212341



















SC-212341

A victim of the atomic bomb raid on Hiroshima, Japan

is treated at the Hiroshima Red Cross Hospital 

for burns on head, shoulders and arms. 9/12/1945

Signal Corps Photo WPA-45-33514 (Lt. Camp) 

released by BPR 10/3/1945

orig.neg.  Lot 12495 gef


SC-212341

広島への原子爆弾投下の犠牲者である

被爆者が、1945年9月12日に広島赤十字病院で

頭部、肩、腕などの火傷の治療を受けている。

通信隊撮影 WPA-45-33514(キャンプ中尉)

BPRにより1945年10月3日に公開

原本ネガ  ロット12495 gef


2024年10月11日金曜日

2024年のノーベル平和賞を「核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が再び使用されてはならないことを証言によって示したこと」を理由に、日本被団協に授与することを2024年11月11日に公表しました。

ノルウェー・ノーベル委員会

2024年のノーベル平和賞を「核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器が再び使用されてはならないことを証言によって示したこと」を理由に、日本被団協に授与することを2024年11月11日に公表しました。

 広島と長崎の被爆者による草の根運動、通称「ヒバクシャ」は、核兵器のない世界を実現するための努力と、二度と核兵器を使用してはならないことを証言によって示したことが評価され、ノーベル平和賞を受賞する。日本被団協をはじめとする被爆者代表の並々ならぬ努力は、核兵器の使用が決して許されないという「核のタブー」の確立に大きく貢献しました。

 日本被団協 ノーベル平和賞 2024 設立:1956年 受賞時の居住地:日本、東京

授賞理由:「核兵器のない世界を実現するための努力と、核兵器は二度と使われてはならないことを証言で示したこと」 賞金:1/1

 証言を通じて、核兵器が二度と使われてはならないことを示したことに対して。

1945年8月に広島と長崎に投下された2発の米国の原子爆弾により、約12万人が死亡した。同数の人々が、やけどや放射線障害により後に死亡した。原爆投下から生き延びた人は65万人と推定されている。これらの生存者は日本語で「被爆者」と呼ばれる。

被爆者の運命は長い間隠蔽され、無視されてきました。1956年、地元の被爆者団体と太平洋核実験の被害者が合同し、日本被団協(にほんひだんきょう)が結成されました。この草の根運動は、すぐに日本最大の被爆者団体となり、最も幅広い被爆者を代表する組織となりました。

 日本被団協には2つの主な目的があります。1つ目は、日本国外に住む被爆者も含む、すべての被爆者の社会権および経済権の促進です。2つ目は、被爆者が経験したような惨禍を二度と誰にも経験させないようにすることです。

日本被団協は、被爆者の証言を通じて、核兵器の使用がもたらす悲惨な人道的影響について広範な啓発活動を実施してきました。「ノーモア・ヒバクシャ」というモットーは、ここから来ています。


The Nobel Peace Prize 2024

A powerful international norm stigmatising nuclear weapons

 The grassroots movement of atomic bomb survivors from Hiroshima and Nagasaki, also known as Hibakusha, is receiving the Nobel Peace Prize for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again. The extraordinary efforts of Nihon Hidankyo and other representatives of the Hibakusha have contributed greatly to the establishment of a nuclear taboo.

   The Norwegian Nobel Committee has decided to award the Nobel Peace Prize for 2024 to Nihon Hidankyo “for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again”

Nihon Hidankyo

The Nobel Peace Prize 2024

Founded: 1956

Residence at the time of the award: Tokyo, Japan

   Prize motivation: “for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again” Prize share: 1/1

   For demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again.

  The two American atomic bombs that were dropped over Hiroshima and Nagasaki in August 1945 killed approximately 120 000 people. A comparable number died later of burn and radiation injuries. It is estimated that 650 000 people survived the attacks. These survivors are known as Hibakusha in Japanese.

 The fate of the survivors was long concealed and ignored. In 1956, local Hibakusha associations along with victims of nuclear weapons tests in the Pacific formed The Japan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers Organisations, shortened in Japanese to Nihon Hidankyo. This grassroots movement soon became the largest and most widely representative Hibakusha organisation in Japan.

  Nihon Hidankyo has two main objectives. The first is to promote the social and economic rights of all Hibakusha, including those living outside Japan. The second is to ensure that no one ever again is subjected to the catastrophe that befell the Hibakusha.

  Through personal witness statements, Nihon Hidankyo has carried out extensive educational work on the catastrophic humanitarian consequences of the use of nuclear weapons. Hence the motto “No more Hibakusha”.

2024年10月10日木曜日

ナチス・ドイツの残虐行為を調査する議会委員会の上院議員アルベン・W・バークレーは、1945年4月24日にドイツのワイマール州のブッヘンヴァルト強制収容所で残虐行為の犠牲となった収容者の死体を見詰めた。

ナチス・ドイツの残虐行為を調査する議会委員会のメンバーであるケンタッキー州選出の上院議員アルベン・W・バークレーは、1945年4月24日にドイツのワイマール州のブッヘンヴァルト強制収容所で直接に残虐行為の犠牲となった収容者の死体を見詰めた。死体は、ブッヘンヴァルトの火葬場の中庭に全裸の死体が山のように積み重なった。4月24日に、アメリカの上院と下院の議員10人が、ブッヘンヴァルト強制収容所に到着した。1949年から1953年まで、ハリー・S・トルーマン大統領の下で第35代アメリカ合衆国副大統領を務めた。 

 ブッヘンヴァルトはアメリカ軍が解放した最初の主要な強制収容所であった。1945年4月中旬以降に、アメリカ軍が遭遇した悲惨なナチス・ドイツによる残虐行為を記録した写真やレポートが西側諸国に広まった。連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍の提案で、腐敗した死体を埋葬せずに、大勢のジャーナリスト、政治家、アメリカ軍メンバーにナチス・ドイツのホロコーストを解放した。

 ブッヘンヴァルト強制収容所の記録によると、収容所には少なくとも30カ国から24万人の囚人が収容された。少なくとも10,000人が絶滅収容所に送られ、約43,000人が収容所で死亡した。1945年4月6日に、ブッヘンヴァルト強制収容所から約28,500人の囚人が避難して、死の行軍で4人に1人が死亡した。1945年4月11日に、アメリカ軍(アメリカ第6機甲師団のパトロール隊)が解放する直前に、ドイツ軍の看守と将校は逃げ去って、収容者たちが後を引き継いだ。受刑者たちは、4月11日のうちに解放されたアメリカ軍を出迎えた。アメリカ軍は収容所の管理を引き受けた。まもなく、収容所は赤軍に引き渡された。収容所はソビエトに占領されるドイツの領域内にあった。第2強制収容所と改名されたブッヘンヴァルトは、1945年から1950年の間に、ドイツ人捕虜を収容し、そのうち7,000人が死亡した。




2024年10月9日水曜日

第二次世界大戦の太平洋戦争で、東京大空襲に出動した警防団員が、死亡した東京都民をトラックに収容し公園に集めて仮埋葬した。

第二次世界大戦の太平洋戦争にて、出動した警防団員が東京大空襲にて死亡した東京都民をトラックに収容して仮埋葬した(内外タイムス社の提供写真)。死体の収容と仮埋葬には、各区から人数割りで出勤を命じられた警防団員が当たった。まず死体をトラックに収容して、猿江公園や隅田公園の浅草側と本所側や錦糸公園に集めて、人名住所が明らかと不明者を区別した。近親の捜索に応じて、2から3日後に仮埋葬を行った。日本国民の士気に関わる死体は、早急に路上から人目に触れないように仮埋葬した死体数は、大体しか判明しなかった。

 1944年11月より開始されたアメリカ軍による東京空襲は、最初はその希望が小さかったために、被害は爆弾透過した際に死傷者を出した以外は、焼夷弾による被災者は出ても死者はあまり出なかった。1944年末から焼夷弾による火災地区が増大して、火災による死者が出るようになった。

 死体の収容の問題があったが、最も大規模で悲惨となったのは、1945年3月9日夜から3月10日にかけた東京大空襲であった。江東区から浅草、日本橋の隅田川近くの一帯に膨大な死者が発生した。東京都民には、火災した自宅に留まって防火して、家財を捨てて逃避はあまりしなかた。じゅうたん爆弾が、隅田川をはさんだ下町の一帯は火の海と化し、防火していた多くの東京市民は、殆ど煙にまかれて焼死や窒息した。白髭橋から吾妻橋にかけて道路から川辺に死体があふれて、両隅田公園や明治座に死体が散乱した。






2024年10月8日火曜日

第4次中東戦争にて1973年にイスラエル軍に対抗するパレスチナ人テロリストは、ゴラン高原を越えてイスラエル軍に持ち込んだ爆発物が誤って爆発した際に死亡した。

第4次中東戦争にて1973年にイスラエル軍に対抗するパレスチナ人テロリストは、ゴラン高原を越えてイスラエル軍に持ち込んだ爆発物が誤って爆発した際に死亡した。砂漠上にパレスチナ人の死体が散乱した。1972年の夏に、パレスチナ人のテロリストがミュンヘン・オリンピックに潜入して、11人のイスラエル人選手を殺害した。パレスチナのテロリスト集団が中東以外のイスラエルを標的とした大規模で注目度の高い攻撃力を示した。1970年代から80年代に、1974年のマアロット学校襲撃事件、1978年の海岸道路虐殺事件、1985年のアキレ・ラウロ号ハイジャック事件などが勃発した。

 第4次中東戦争は、ユダヤ教で最も神聖な日であるヨム・キプール(贖罪の日)に1973年10月6日に、イスラエル軍に対して、エジプトとシリアが率いたアラブ諸国連合が奇襲した。イスラエル軍は、1973年10月10日までに北部のシリア軍を撃退し、シナイ半島に駐留するエジプト軍を食い止めた。スエズ運河の橋やシリア・エジプト軍を攻撃する際には、ソ連製ミサイルには脆弱性があったが、イスラエル軍の戦闘機は、当時はエジプト軍とシリア軍の空軍を自由に攻撃できた。シリア軍に対して強力な反攻が開始されて、シリア軍の防衛線は押し戻された。シリアの後援者であるソ連が参戦する懸念があったために、シリアの首都ダマスカスへの脅威は回避された。

 シリア軍の戦力を減弱化したイスラエル軍は、次にスエズ戦線に向けて全力を傾けた。エジプト軍の戦車部隊は東進し、特にミトラ峠を確保しようとした。イスラエル軍の戦車と戦闘機による大規模な戦車戦でエジプト軍は撃退された。この勝利は、普段は意見が一致しないイスラエル軍の将軍たちを勇気づけ、決定的な反撃を開始させた。その狙いは、ビター湖の地域でスエズ運河を渡り、状況を一変させることだった。いくつかの困難にもかかわらず、スエズ運河の東側で予想外に強力なエジプト軍の抵抗に遭遇したが、橋頭堡を確保し、徐々に拡大していった。その結果、エジプト第3軍はほぼ孤立状態となった。エジプトが全面的な敗北に直面したことを理解したソ連代表団は、アメリカとソ連の支援を受けて、国連安全保障理事会は1973年10月24日に停戦を決定した。

 アラブ諸国は、1973年10月の初期の成功によって正当性を感じた。一方イスラエルは、第4次中東戦争の成果にも関わらず、将来のイスラエル軍による支配の不確実性を認識した。第4次中東戦争の影響からイスラエルとパレスチナの和平プロセスに貢献した。イスラエルがシナイ半島をエジプトに返還した1978年のキャンプ・デービッド合意にから、アラブ諸国として初めてイスラエルを承認したエジプト・イスラエル和平条約につながった。




 

2024年10月7日月曜日

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。トラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。

キブンバ難民キャンプの道端にフツ族のルワンダ難民の死体が捨てられた。この後にトラックがきて、死体を積んで行って捨てられた。推定で約120万人のルワンダ難民が、自国での内戦勃発後に、ザイール共和国へ避難した。ザイール共和国のキブンバ難民キャンプはゴマから北へ40分ほど、ルワンダとの国境に近く、ルワンダ難民キャンプの廃墟の上に建てられた。約10kmほど離れたルガレや約40kmほど離れたトンゴから難民が集まった。ギブンバ難民キャンプは、難民自身によって運営され、国連やNGOが難民委員会と協定を結び、難民キャンプ内でサービスを提供した。

 ルワンダ共和国にて、16世紀から少数部族のツチ族と多数部族のフツ族が対立した。1990年には、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)で内戦が勃発した。1993年8月に停戦合意したが、1994年4月に、ハビヤリマナ大統領の搭乗機が撃墜されて、内戦が再発して激化した。内戦で発生した大量の難民が、ザイール、タンザニア、ウガンダに流入した。1994年7月にルワンダ新政権が樹立されて、特にザイール共和国のゴマとブカブ地区を中心に約140万人を超えるルワンダ難民が流入した。その結果、ゴマとブカブ地区の難民キャンプは、コレラ、赤痢等が伝染病が流行して、一時は1日に約2,000人近い多数の死者が発生して、悲惨な危機的状況に陥った。

 約80万人を虐殺した側のフツ族側は、ルワンダで敗北したした事実を深く刻んだまま大量の難民が、コンゴ共和国に敗北の中に避難した。ルワンダ共和国内で政権を奪取した勝者のツチ族(RPF)は、殺害された側はフツ族を追及した。フツ族の殺人者たちを求めて深くコンゴ領内へと侵入した。敗者となったフツ族は、追われた祖国のルワンダへの帰還を信じて、コンゴ領内にできた難民キャンプからルワンダへの越境攻撃を仕掛けた。ルワンダ虐殺が1994年から1999年にかけてコンゴ戦争に変貌した。




2024年10月6日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した長崎高等商業学校(長崎経済専門学校, 爆心地から約3km)の中等度の損壊を1946年12月6日に撮影した。

                              非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団

アメリカ国立公文書館 2024年2月22日

(The National Archives College Park, Maryland) 

                                           SC-273263































SC-273263

487

FEC-47-70154

6 DECEMBER 1946

WRECKAGE AT THE COMMERCIAL SCHOOL IN NAGASAKI.

PHOTOGRAPHER: DR. PS. HENSHAW

Atomic Bomb DESTRUCTION DAMAGE 

RELEASED FOR PUBLICATION,BUREAU OF PUBLIC RELATIONS, WAR DEPARTMENT, WASHINGTON

Photograph by Signal Corps US. ARMY

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SC-273263
487
FEC-47-70154
1946年12月6日
長崎原子爆弾に被爆した長崎高等商業学校(長崎経済専門学校, 爆心地から約3km)は中等度に損壊した。
写真家: PS.ヘンショウ博士
原子爆弾による破壊の被害
ワシントン、戦争省報道局、公開用にリリース
写真: 米国陸軍通信隊
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追記: 校舎は中破程度の損壊に止まり、被爆者の救護所に充てられた。1945年9月以降は爆心地近くで壊滅的打撃を受けた長崎医科大学(長崎大学医学部の前身)の臨時本部がここに移転された。10月には新興善国民学校に移転された。