第2次世界大戦で、ユーゴスラビアの民族対立と枢軸国に対するパルチザン闘争により虐殺されたパルチザンの死体が溝に投げ込まれて散乱した。1945年5月の全土開放まで継続した。クロアチア独立国内では、セルビア人とジプシーのユダヤ人が虐殺された。ユーゴスラビア全土でセルビア主義的な抵抗組織であるチェトニクによって、クロアチア人とムスリムが虐殺された。
ユーゴスラビアは1941年3月25日に日独伊3国同盟に加入した。その直後の3月27日に反ドイツ軍クーデターで新政府が樹立された。4月5日にユーゴスラビアはソ連と不可侵条約を締結するも、その直後にはドイツ軍は4月6日に首都のベオグラード爆撃しながら国境を越えて侵攻した。ユーゴスラビア軍はわずか10日間で壊滅した。国王と政府は、イギリスのロンドンに亡命した。枢軸国により分割して占領して、民族対立を引き起こし、分裂統治した。クロアチアのみクロアチア独立国として承認されて、イタリアが引き立てたファシストのウスタシ・グループに支配させた。ドイツに対する抵抗運動を粘り強く継続したのは汎民族主義のパルチザンであった。東欧の諸国で唯一ソ連軍の占領を受けずに、ユーゴスラビアの自力で解放を成し遂げた。