2021年12月31日金曜日

1944年9月4日に拉孟の横股で籠城した日本軍は、最後に手榴弾や昇汞で自殺して、籠城内で兵士13体と慰安婦2体の死体が散乱した。

中国雲南省の拉孟にて1944年9月6日に日本軍が全滅して、日本軍兵士の死体の約106体が遺棄された。その中に女性の死体の約6体も含まれた。1944年9月4日に拉孟の横股陣地で籠城して残存していた日本軍は、最終的に手榴弾や昇汞で自殺して、拉孟の籠城内で日本軍兵士の15体の死体が散乱した。15体の死体の中には、2体の慰安婦の女性死体が含まれた。横股陣地では、重傷兵で溢れてうめき喘いだ。毒薬である塩化水銀である昇汞の服薬あるいは手榴弾で自殺した。慰安婦には昇汞が配られた。

 1944年初頭からのインパール作戦で、日本軍が連合軍に惨敗した。連合軍は北ビルマのミチナ方面には5月17日から、雲南方面には5月11日から日本軍に反攻した。連合軍の北ビルマ反攻は、ベンガルからの鉄道の終点である北ビルマのレドから、アラカン山系からミチナ、中国の雲南省に入る騰越、拉孟、保山、昆明に至る補給ルートの再開を目指した。駐インド軍と中国国民党軍が、飛行場があるミチナと雲南の両方面から攻撃した。北ビルマ方面と雲南方面の防御のために、日本軍は北方の騰越と拉孟の周辺で完全に孤立して手薄になった。やがて中国軍の反攻に対して、日本軍は籠城戦をするも、9月8日に拉孟、9月14日に騰越が、最終的に全滅した。

 ビルマロード上の拉孟にて、1944年9月3日に中国国民党軍は4人の朝鮮人女性と2人の日本人女性の6人の日本軍の慰安婦を獲得した。拉孟の近郊で日本軍が最後に立て籠もった松山で、日本軍慰安婦であった4人の朝鮮人の慰安婦は、過酷な戦場にて汚れた着衣、疲労困憊した顔貌、その内の1人は妊娠した大きな腹が撮影された。日本軍慰安婦の年齢は、24歳から27歳であった。1942年4月に日本軍の官憲が朝鮮の平壌で、18人の朝鮮人女性は挺身隊の募集に応募して徴集された。日本軍慰安婦として、ビルマのラングーンから北方の最前線に強制連行された。拉孟の慰安所は1942年末から裏山陣地に設置された。日本軍が拉孟に籠城して全滅に巻き込まれた慰安婦は手榴弾で虐殺された。

 拉孟の横股陣地から、数人の慰安婦が脱走した。その中に、妊娠した朝鮮人女性の朴永心も含まれた。地獄で惨死を逃れて生き延びて、山を下って川の方へ逃げて、とうもろこし畑で、中国国民党軍に保護された。朴永心は、妊娠した大きな腹で流産しかけて切迫流産となり、処置を受けるも死産となった。その後に日本軍慰安婦は昆明捕虜収容所に連行された。収容所では、朝鮮人女性25人のうち23人は慰安婦であった。そのうち約10人の慰安婦が、拉孟の周辺から中国国民党軍に捕獲された。朴永心は北朝鮮に戻るも罪人として恥を忍んで耐えて苦難した。北朝鮮の対策委員会が1992年8月から日本政府に対して朝鮮人慰安婦の補償を訴えた。1993年8月4日に、日本政府の河野洋平内閣官房長官は、慰安婦関係調査結果発表に関する談話で、日本軍の関与を認めて、おわびと反省を表明した。北朝鮮で朴永心は補償もされず85歳で2006年8月7日に死亡した。



1944年9月4日に拉孟の横股陣地で籠城して残存していた日本軍兵士は、最終的に手榴弾や昇汞で自殺して、拉孟の籠城内で日本軍兵士の15体の死体が散乱した。




中国雲南省の拉孟の近郊の松山で、日本軍の慰安婦であった4人の朝鮮人の慰安婦は、過酷な戦場にて汚れた着衣、疲労困憊した顔貌、その内の1人は妊娠した大きな腹が撮影された。


2021年12月30日木曜日

1927年3月に北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。

満州の奉天派の軍閥であった張作霖が1926年12月に北京政府の代表となり、1927年3月から北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、虐待と虐殺をした。斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。北京の群衆も、断頭された頭部を興味と恐怖にかられて見上げた。共産主義者の弾圧と粛清のために、木製の首かせをはめられて、公開のさらし首にされた。張作霖は3月3日に、過激化する共産主義を防ぐ為に国民革命軍と戦闘する意思を国内外に示した。国民党軍も、1927年4月に上海で共産党を弾圧と粛清して、1927年7月からは武漢にても共産党の弾圧と粛清をした。

 1927年4月12日に中華民国にて蒋介石の国民党軍が、労働組合連合である上海総工会の武装労働者が、3月22日に上海で起こした暴動に対して、労働者と共産党員を粛清する四・一二反革命政変と呼称される上海クーデターを起こした。1927年3月下旬に、上海では第3次労働者武装蜂起が勃発した後に、国民党軍は上海に入り、治安上有利な地域を占領した。その後に、蒋介石は上海に赴き、4月上旬に反共秘密会議を開き、直ちに暴力的手段で共産党の粛清を行うことを決定して、共謀して反革命クーデターを準備した。4月11日の夜に、蒋介石は密かに占領した全省にて共産党を粛清せよと命じた。4月12日の早朝に、蒋介石から買収された武装青年団が労働者を装って、各地に駐屯する労働者のストライキを襲撃して対抗した。4月13日の朝、上海総工会は、閘北の青雲路広場で約10万人の労働者を集めて大集会を開いた。労働者の行列が宝山路に達したところで、国民党軍に虐待と虐殺されて、約100人以上が死亡して、無数の人々が負傷した。その後も、蒋介石の国民党軍は共産主義者や革命的大衆を逮捕して、虐殺し続けた。わずか約3日間で、約300人以上が虐殺されて、約500人以上が逮捕されて、約5,000人以上が行方不明になった。上海クーデターにより、共産党と労働者の粛清につながり、統一された南京国民政府が樹立された。

 1928年4月から蒋介石は中国国民党軍を率いて、上海クーデターで頓挫していた北京の軍閥政権を打倒する北伐を再開した。1928年5月の山東省済南で日本軍に武力衝突した。国民党軍は、済南を迂回して北上して、北伐を継続した。6月4日に満州奉天派であった北京政府の張作霖政権は撃破されて、北京から張作霖が逃亡中に日本軍により爆殺された。中国国民党軍は6月15日に北京を占領して、北京政府は消滅して、中国国民党は中国統一を宣言した。 




2021年12月29日水曜日

ボルネオ島のブルネイのラブアン島の戦いにて、オーストラリア軍兵士らのパトロール隊が、日本軍兵士を掃討して殺害した。

 ボルネオ島のブルネイのラブアン島の戦いにて、オーストラリア軍兵士らのパトロール隊が、日本軍兵士を掃討して殺害した。殺害された日本軍兵士の死体が道端に散乱して、連合軍兵士が見回りながら検死した。海からの砲撃と空から爆撃、戦車と火炎放射器からの武力に支えられたオーストラリア軍は、日本軍守備隊を圧倒し、ラブアンに残っていた抵抗勢力を一掃した。ラブアン島の戦いに引き続く数日間に、オーストラリア軍のパトロール隊はラブアン島に残っていた日本軍兵士を殺害したり、捕獲した。ラブアン島での日本軍の戦死者は約389人、捕虜は約11人であった。オーストラリア軍の死傷者は約34人で、負傷者は約93人であった。

 ラブアンの戦いとは、1945年6月10日から6月21日まで、ボルネオ島沖のラブアン島で行われた連合軍と日本軍の戦いである。ラブアン島の戦いは、オーストラリアの北ボルネオ侵攻作戦の一環で、ブルネイ湾を攻略して侵攻拠点とする作戦であった。ラブアン島を占領した6月21日から、連合軍は周辺地域をパトロールして、日本軍を排除した。各部隊はラブアン島の異なる地区に割り当てられて、7月中旬までに任務を完了した。パトロール中に、主に6月24日のBBCAU施設への襲撃を撃退するために、パトロール戦隊は約27人の日本軍兵士を殺害して、1人の囚人を捕らえた。

 太平洋戦争の勃発した直後1942年1月3日に、日本軍はボルネオの戦いで抵抗もなくラブアン島を占領していた。数週間にわたる空爆と短期間の艦砲射撃を経て、1945年6月10日に、アメリカ軍とオーストラリア軍の艦船からラブアン島に上陸した。オーストラリア軍はすぐにラブアン島の港と主要飛行場を占領した。多勢に無勢の日本軍守備隊は、主にラブアン島の内陸部の要塞に集結して、上陸にはほとんど抵抗しなかった。侵攻から数日後に、オーストラリア軍が最初に日本軍の陣地に侵入したが奏功せず、この地域は激しい砲撃にさらされた。日本軍の遊撃部隊も6月21日に連合軍の陣地を攻撃したが、撃破された。6月21日のうちにオーストラリア軍は日本軍の陣地を襲撃した。ラブアン島を確保した連合軍は、ラブアンを重要な拠点として整備していった。オーストラリア軍は6月下旬に、ラブアン島からブルネイ湾の東岸を攻略するのに、飛行場はオーストラリア空軍部隊を受け入れるために修理・拡張された。ラブアン島を占領している間、連合国は島のインフラを再建し、侵攻前の砲撃で家を失った数千人の民間人を支援した。




2021年12月28日火曜日

1945年5月に、フィリピン陸軍ゲリラ部隊とアメリカ軍人員回復野戦部隊がダバオ収容所に解放した際に、アメリカ人兵士またはフィリピン人兵士の白骨化した死体を発見した。

1945年5月に、フィリピン陸軍ゲリラ部隊とアメリカ軍人員回復野戦部隊がダバオ収容所に解放した際に、アメリカ人兵士またはフィリピン人兵士の白骨化した死体を発見した。日本軍が捕虜収容所にした疎開施設で、腐敗の程度が異なる約75体の未埋葬の死体が発見された。ダバオ刑務保留地は、1932年1月21日にフィリピン南部のミンダナオ島に約30,000ヘクタールもの土地に開設された。1941年12月7日に太平洋戦争の勃発した直後に、日本軍が約1,000人の日本人を収容したとフィリピン憲兵隊がアメリカ軍に報告した。1942年12月20日に、日本軍がダバオ市を占領した時に、多くの警備員はただ逃げ出し、多くの囚人が混乱の間に逃げた。日本軍のフィリピン占領期間中に、捕虜収容所として利用された。太平洋戦争のフィリピンの戦い中には、約2,000人のアメリカ軍兵士らがダバオ刑務収容所に拘束された。捕虜は、この時期に日本軍が運営した捕虜収容所で厳しく扱われた。

 バターン死の行進の生存者から、アメリカ軍は1942年4月に連合軍が降伏した後に、日本軍が犯した残虐行為を知った。強制行進に強要された人々のほとんどは、ルソン島のさまざまな場所で捕らえた。捕虜はマニラの南からルソン島の北にあるさまざまな収容所まで、熱帯の太陽の下で5日から12日かけて約100km歩かされた。斬首、銃撃、殴打は、バターン死の行進の試練の間に、水や食料をほとんど使用せずに行進されられた連合国の捕虜の多くにとって、その日の日課となった。娯楽のために、日本軍兵士は何人かのフィリピン人に生の埋葬さえ強制した。アメリカ軍兵士の約1,200人とフィリピン軍兵士が約16,000人死亡した。マニラ北部のいくつかの刑務所収容所に配置されて、生存は引き続き困難となった。

 バターン捕虜のほとんどは、カパスのキャンプオドネルとカバナトゥアン周辺の3つのキャンプという2つの収容所に収容された。キャンプオドネルでは、収容が始まってから数週間で、毎日約50人以上のアメリカ人が死亡した。19キャンプカバナトゥアンでは、最初の2か月で約1,200人以上が死亡した。死者を埋葬することは、食料や水がほとんどない状態で存在していた生存者にとって、日常の作業になった。病気で衰弱した状態で、連合軍の捕虜は集団埋葬のために塹壕を掘り、死体を埋葬地に運び、その他のさまざまな仕事に従事することを要求された。オドネルに入った約7,000人のアメリカ人のうち約2,000人が最初の6週間で死亡した。同時に、約28,000人のフィリピン人兵士が死亡した。ほぼ同数のアメリカ人を収容していたいくつかのカバナトゥアン収容所では、状況は良くなかった。カバナトゥアンから移送された約1,000人の囚人は、すでにアメリカ人で埋め尽くされていたダバオ刑務収容所に収容された。




2021年12月27日月曜日

朝鮮戦争中にアメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。

朝鮮戦争中に、アメリカ軍兵士は白い雪原の中の山岳部を北方に侵攻した。アメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。1950年10月19日に中国人民志願軍は凍てついた朝鮮半島に参戦して戦局は再び動いた。約10万人以上の中国軍が奇襲をかけて、アメリカ軍を最も過酷で辺鄙な土地に閉じ込められて、気温は常に氷点下25度まで下がった。極寒の地域で、爆発物やブルドーザーがなければ狐穴を掘ることもできない。戦闘員は土嚢の代わりに凍った死体を積み上げた。ブーツの中で足が凍り、氷の塊になる。弾丸の傷口も凍り、暖房の効いたテントに入るまで出血が止まらなかった。

 朝鮮戦争は、1950年6月25日、北朝鮮(正式には朝鮮民主主義人民共和国)が隣国の韓国(正式には大韓民国)に対して奇襲攻撃を行ったことから始まった。北朝鮮とソ連の予想に反して、米国は直ちに韓国に軍事支援を行い、国連安保理は北朝鮮に38度線までの撤退を要求する決議(国連安保理決議82)を採択した。マッカーサー元帥率いる国連軍は、最初の攻撃から数日のうちに大規模な反撃作戦を計画し始め、1950年9月のインチョン海戦でその頂点に立つ。インチョン攻略後、国連軍は北朝鮮軍を後退させ、首都平壌を占領し、鴨緑江で北朝鮮最北端の国境に到達した。1950年10月から11月にかけて、モスクワの密かな支援を受けて、数十万人の中国軍が北朝鮮に進駐し、韓国軍と国連軍を撤退に追いやった。1951年夏には、地上での争いは膠着状態に陥った。北朝鮮への空爆と局地的な戦闘や小競り合いは続いたが、その後2年間、両者の間で交わされた領土はほとんどなかった。1953年7月27日休戦協定に調印して紛争は終結した。休戦協定は、戦前の朝鮮半島の地理的分断を維持し、北朝鮮軍と韓国軍は軍事境界線の反対側で活発な警戒態勢を維持した。

 1953年の戦争終結後、国防総省は約54,260人、戦死は約33,643人とその他の死約20,617人の合計である。北朝鮮の国勢調査報告は、1950-53年の朝鮮戦争中に人口の20%を失った。人口は1948年の約9,368,592人から1953年には約7,425,939人まで減少した。北朝鮮の民間人死傷者の総数は約120万人であり、爆撃で約282,000人が死亡し、約796,000人が朝鮮南部に逃亡あるいは行方不明となった。残りの約80万人の人口減少は、朝鮮戦争と自然の原因による死亡の総数と朝鮮日報は報告した。朝鮮戦争の犠牲は "忘れられた戦争 "と呼ばれている。

 韓国軍は、戦死者は約227,800人、戦傷者は約717,100、行方不明は約43,500人、総死亡者は約984,400人の犠牲であった。中国軍の犠牲者数に関する広範な推定値は、約180,000人から約900,000人である。朝鮮戦争での中国軍兵士の死者数は、中国政府が公式な死者数を発表していない。朝鮮戦争が民間人に与えた影響は、特に悲劇的だった。朝鮮戦争による民間人の犠牲者は、死者、負傷者、行方不明者を合わせると、約3年間(1950-1953)で約300万から約400万人にのぼった。朝鮮戦争は、1960年、中国はソ連から離脱し、中ソ分裂の事件が起こり、すべての共産主義国の間に緊張が走った。




2021年12月26日日曜日

第一次世界大戦の西部戦線で、ドイツ軍兵士が1918年に殺害された死体が、爆発した強い衝撃波により、陥没した道端に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線末期の戦闘の余波によって、1918年にドイツ軍兵士が殺害された死体が、陥没した道端に散乱した。戦場には常に戦況によっては、戦闘で死亡したドイツ軍兵士の身なりが悪く、ズボンが欠損していた。爆弾が爆発したときに発生する強い衝撃波により、ゆるいズボンを吹き飛ばしたり、きつい軍服を粉々にした。

 1917年のロシアの二月革命と十月革命で12月3日にドイツは休戦協定を結び、東欧の大部分を獲得して、東部戦線から解放されたドイツ軍は、春にフランスに対して大規模な攻勢をかけた。1918年3月21日からドイツ軍は、西部戦線で春の大攻勢を開始した。ドイツ軍はアラスの南側約80kmの戦線で進撃を遂げ、連合軍を約60km後退させた。戦線が伸びきったドイツ軍は、アメリカ軍が大量に参戦して攻勢を持続できなかった。1918年7月からアメリカ軍の援軍を受けた連合軍は、百日攻勢により一連の持続的に攻勢した。7月18日に、フランス軍は約8万5千人のアメリカ軍の支援を受け、マルヌ河畔でドイツ軍を撤退させた。1918年8月に、連合軍はアミアンで奇襲攻撃を開始した。一連の戦闘でドイツ軍はさらに東方に押しやられ、ドイツ軍幹部は敗戦を認めていた。連合軍がドイツに侵攻する直前の1918年11月11日に、休戦協定が締結されて、西部戦線は終結した。フランス北部のコンピエーニュの列車車内で、ドイツ軍は降伏して、フランスとベルギーからドイツ軍の撤退に休戦した。多くのドイツ軍兵士は幹部に裏切られたと感じた。1918年11月11日午前11時に第一次世界大戦は終結した。1919年6月18日のベルサイユ条約は、ドイツに戦争の責任を認めさせ厳しい条件を課して、第二次世界大戦の遠因となった。

 第一次世界大戦において、連合軍兵士約42,612,810人のうちで、戦死者は約5,211,809人、戦傷者は約13,003,004人、行方不明は約7,754,719人、総死傷者数約22,165,219人が犠牲となった。中央同盟軍兵士約65,462,009人のうち、戦死者約8,598,009人、戦傷者約21,391,452人、行方不明は約7,754,719人、総戦傷者は約37,569,768人が犠牲となった。最も戦死者数が多くなったドイツ軍約11,000,000のうち、約1,773,700人が戦死して、約4,216,058人が戦傷して、約1152,800が行方不明者、総戦傷死者約7,142,558人の犠牲となった。




 

2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月24日金曜日

太平洋戦争の沖縄戦で沖縄南部に撤退して、射殺されて死ぬまで戦った日本軍兵士死体を、アメリカ軍兵士が検死した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月24日と5月29日の撤退命令により沖縄南部に撤退していた日本軍兵士をアメリカ軍兵士が銃殺した。日本軍兵士が射殺されて死ぬまで戦った死体を、アメリカ軍兵士が検死した。殺人的となった日本軍兵士は死ぬまで死闘して自ら全滅した。戦傷者は負傷で死亡あるいは最前線に戻って殺害された。6月10日にも日本軍兵士は死ぬまで戦線を守り続けるよう命じられた。沖縄戦場は混乱状態となり、すべての日本軍兵士は上官の命令に従い、アメリカ軍兵士を巻き込んで死ぬまで戦った。6月22日に洞窟に閉じ込もって、狂気的に防御した日本軍兵士の生存者を一掃して、沖縄戦は終結した。

 沖縄戦にて、1945年6月前後からの日本軍は首里から退却は、アメリカ軍からの砲撃を受けながらも、豪雨に紛れて、夜間に沖縄南部に向けて脱出した。日本軍軍は、喜屋武半島の最後の防衛線に、約3万人近くの戦闘員を投入することが可能となった。これが不幸にも、数千人の沖縄民間人の死亡含む、沖縄戦の末期における最大の大量虐殺につながった。さらに、約9,000人の日本軍と約1,100人の民間兵士が援護した。約4,000人の日本軍兵士が飛行場の東側、小禄半島の沖縄海軍基地を見下ろす丘の中腹にある地下司令部に立てこもった。

 6月4日に、アメリカ軍が喜屋武半島への水陸両用の攻撃を開始した。6月13日に、地下司令部の手作りトンネルの中に立て籠こもった日本軍兵士約4,000人が全員が自殺して自決した。6月17日に、日本軍の残党が、糸満の南東にある島の最南端の小さな洞窟に押し込まれた。6月21日には一部の日本人が潜伏していたが、最後の抵抗は終わった。戦闘終了後、89号地の司令部で日本軍幹部は切腹して自殺した。「お前が死ねば、沖縄戦の真実を知る者は誰もいなくなる。一時の恥を忍んで耐えてくれ。これは君の陸軍司令官からの命令だ」幹部の矢原大佐のみが、沖縄戦で生き延びた最も上級な将校となり、後に『沖縄戦』という本を執筆した。6月22日に、アメリカ軍は、沖縄戦での組織的抵抗が終わったことを示す旗揚げ式を行った。6月23日には掃討作戦が開始されて、6月30日に終結した。

 沖縄戦の1945年4月1日から1945年6月22日まで続いた82日間の戦闘は、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いとなった。沖縄戦で判明した死者は、沖縄県立平和祈念資料館にある「平和の礎」の碑に記載された。第2次世界大戦中に沖縄戦で死亡した一人一人の名前が記載された。平和の碑には約240,931人の名前が記された。内訳は、沖縄県民が約149,193人、日本軍兵士約77,166人、アメリカ軍兵士は約14,009人、その他、韓国人は約365人、イギリス人は約82人、北朝鮮人は約82人、台湾人は約34人となった。犠牲者数は、1945年3月26日のアメリカ軍の慶良間諸島への上陸から1945年9月2日の日本の降伏調印までの沖縄戦での死亡者に加えて、さらに満州事変から約15年間の太平洋戦争での全ての沖縄人の死亡者、太平洋戦争の前年と降伏した翌年まての戦争に関連した事件で沖縄で死亡者も記載された。除幕までに約234,183人の名前が刻まれ、毎年新しい名前が追加された。沖縄の民間人の死者のうち約4万人は、日本軍に徴兵されたり、洗脳されたため、戦死として統計された。



2021年12月23日木曜日

スーダンのウム・ディワカラートにて、イギリス・エジプト軍が手前にカリファ・アブダラ匕首長と右手にアフマド・ファディル将軍を殺害してスーダン軍の死体が散乱した。

スーダンのウム・ディワカラートにて1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍が手前に首長のカリファ・アブダラ匕と右手に将軍のアフマド・ファディルを殺害してスーダン軍兵士の死体が散乱した。処刑する戦いとなり、死体は広大な土地に均等に散らばっていた。イギリス軍のレジナルドウィンゲートとエジプト軍は、カリフとコスティの南西にいる約10,000人の軍隊を追い詰めた。その後の戦闘で、カリフは約1,000人の部下と共に殺害された。イギリス・エジプト軍は、わずかに約3人が死亡して、約23人が戦傷した。 

 1896年に、イギリス・エジプト軍がスーダンの再征服を開始した。アブダラヒは2年近く抵抗した。イギリス軍の攻勢により、1898年9月2日に新首都でのオムドゥルマンの戦いで、約52,000人のスーダン軍が壊滅して、撤退を余儀なくされた。イギリス軍の機関銃と一斉射撃により、スーダン軍の約12,000人が殺害されて、約13,000人が戦傷した。イギリス・エジプト軍側は、わずかに約48人の戦死と第382人が戦傷した。スーダン軍の残党を率いて南方に逃亡を続けた。1899年1月のコンドミニアム協定により、スーダンはほぼイギリスの保護領となった。多くのスーダン人はこれに憤慨して、1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍がマフディスト残党と交戦して、アブダラヒは殺害された。 

 アブダラヒは、1885年6月にマフディの突然の死後、ムハンマド・アフマドが創設したマフディ派の指導者の地位を継承した。自らをカリファト・アル・マフディ、すなわちマフディの後継者と宣言した。アブダラヒは、1885-1886年、1888-1889年、1891年に数回の反乱を鎮圧し、唯一の指導者になった。当初、マハディヤはジハード国家として、イスラム主義の軍事カリフ制で運営して、裁判はシャリーア法とマハディの戒律で執行した。その後に、アブダラヒはカリファとして、より伝統的な行政を確立した。マハディヤは、スーダン部族間の不和を乗り越えてスーダンを統一するために、自称イスラム主義の軍事カリフ制を維持するために、エチオピアとエジプトの一部にも侵略した。1899年からスーダンは、再びイギリス・エジプトの共同統治となった。1924年から再びスーダンの独立運動が勃発して、1954年に自治政府が発足して、1956年にスーダン共和国が独立した。






2021年12月22日水曜日

スターリングラード攻防戦を降伏して、何十万人ものドイツ軍兵士の犠牲の中で、一人のドイツ軍兵士の死体が横たわっていた。

ドイツ軍はスターリングラード攻防戦を降伏して、何十万人ものドイツ軍兵士の犠牲の中で、一人のドイツ軍兵士が死体となって横たわっていた。1942年11月23日に自らを史上最高の将軍と考えていたヒトラーは、次のようなメッセージを受け取った。「スターリングラードの南と西から攻めてくるソ連軍を、総力を結集して壊滅的に倒さなければ、ドイツ軍は最短で全滅に向かう。」と在留ドイツ軍総司令官パウルスから発信された。約30万人のドイツ軍兵士を従えて、スターリングラードでソ連軍に包囲された。しかし、ヒトラーはスターリングラードからの撤退を禁止した。1943年2月2日には、ドイツ軍兵士がソ連軍からの砲射撃を受けて、約30万人以上ものドイツ軍兵士が、戦死傷したり、捕虜になり命を落とし、かなりの人数のドイツ軍兵士が自殺した。ナチス・ドイツの独裁政権の軍事的な終焉が見えてきた。

 1939年9月1日にポーランドへの侵攻により、ドイツ軍は第2次世界大戦を勃発させた。ドイツ軍の戦車部隊がポーランドのドゥナジェック川を渡った。戦争が始まったばかりの頃、ヒトラーと将軍たちは、家畜商が一日の稼ぎを記録するように、軍事的勝利を記録した。総統は、帝国陸軍の2等兵だったにもかかわらず、自分が史上最高の指揮官であると考えた。ドイツ軍はポーランドで容赦なく侵略した。その後にドイツ軍はソ連に侵攻し、勝利の誇りを胸に、1942年8月23日からスターリングラードの攻防戦が勃発した。1942年11月23日に、ロシアにおけるドイツ軍司令官パウルスは、助けを得られなければ軍は消滅に向かうと発信した。スターリングラードで、ソ連の赤軍に包囲され、ロシア軍兵士がひたすら攻撃してきた。ヒトラーはドイツ軍の撤退を禁じた。ソ連の赤軍の砲撃で、何十万人ものドイツ軍兵士が死亡した。スターリンググラード攻防の敗戦により、ナチス・ドイツの終わりの始まりが迫った。 

 ヒトラーはあきらめようとは思わなかった。ドイツ帝国の宣伝大臣であるヨーゼフ・ゲッベルスが総力戦を宣言した。しかし、モロッコ、アルジェリア、シチリアには、すでに連合軍の部隊が上陸していた。資本主義のアメリカは、共産主義のロシアの連合軍となった。アメリカはソビエト連邦に軍需物資を提供した。当時、アメリカ軍とロシア軍が連合をして、大戦後には殴り合ったことが、東西ドイツの運命となった。ドイツの都市への空襲が頻繁に行われ、防空壕での恐怖と、戦争と経済物資の不断の生産が、家庭の人々の生活を追い込んだ。逆に、国内でも前線でも総力戦を目指す若者たちは、「ユダヤ人の体に包丁を忍ばせる。血は三角巾のように厚く流れなければならない、我々はユダヤ共和国の自由に糞をする。因果応報の時が来れば、どんな大量殺人にも対応できます」と、下品なナチスの叙情詩を臆面もなく享受していた。



2021年12月21日火曜日

第2次世界大戦のバルカン侵攻からクロアチア人のウスタシャ民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。

1941年にクロアチアの住宅の中に横たわる虐殺された家族全員の死体が散乱した。テロリストであるクロアチア人のウスタシャ(Ustaše: 蜂起する者)民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。その他にユダヤ人やジプシーも標的にした。ウスタシャは、徴兵年齢の男性だけでなく、特に無力な老人、女性、子供たちに対しても虐待と虐殺した。村全体が破壊され、セルビア人の犠牲者を切り刻むために使用された肉切り包丁、フック、斧なども使用された。

 ウスタシャは、1930年に設立されたクロアチアの超国家主義者、テロリスト、革命運動で、第2次世界大戦中は極めて活発に活動し、1945年に解散した。彼らは、何十万人ものセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反ファシスト、反体制派のクロアチア人とボスニア人を強制送還、強制移住、拷問、殺害した。彼らは猛烈な民族主義者で、ローマ・カトリック教徒であり、異質なものは誰でも迫害した。ナチスと違ったのは、ローマ・カトリックへの改宗を強制したり、国外追放や死を予告した。ウシュタシェは、正統派キリスト教とキリスト教を正しい宗教と考えた。多くのカトリック大司教らは、暴力に直接参加しなくとも、ウスタシャを賛美して、クロアチアの繁栄を確保する非情な措置に同意した。

 第2次世界大戦前にはテロ組織として宣言したが、1941年4月6日からの枢軸国軍のバルカン侵攻に伴い、ウスタシャは独立クロアチアとしてユーゴスラビアの大部分を支配するナチス・ドイツ傀儡国家となった。ウスタシャは占領軍であるドイツ軍やイタリア軍に進んで協力した。ナチスやイタリアのファシストと協力して、ユダヤ人、セルビア人(正統派キリスト教徒)、ユーゴスラビアのパルチザン、ロマなど、反体制派のグループを迫害した。1941年4月17日の国民と国家の保護法により、大量虐殺が正当化された。ウスタシャは、ナチスの幹部から野蛮とされ、特にウシュタシェは管理する収容所や虐殺で、残虐性と殺人欲に倒錯した。ウスタシェによって約30万人のセルビア人、約3万人のユダヤ人、約29,000人のジプシーをして、約30万人近くを国外追放して、約20万人が強制的に改宗させられた。

 大量虐殺は、バルカンのアウシュビッツと悪名の高いヤセノヴァッツ強制収容所で発生した。これは、ザグレブの南にある5つの収容所で、バルカン半島最大の絶滅収容所であった。この地域では最も悪名高い強制収容所であった。いくつかの収容所や虐殺は、司祭が指揮していた。ヤセノヴァツ強制収容所は、食料はほとんどなく、汚いバラックには害虫や排泄物があり、辺りには腐敗した死体が散乱した。囚人たちは死体を捨てていたサヴァ川から飲水させられた。ウスタシャは、第2次世界大戦末期の1945年5月9日にオーストリア国境近くでパルチザンと戦闘した。降伏したウスタシャ約40,000人を、ユーゴスラビア人民解放軍のパルティザンが銃殺して死体を溝に捨てた。




2021年12月20日月曜日

ルソン島パンガシナン州北部ビナロナンで、アメリカ軍の砲撃で日本軍の戦車兵士は戦車から飛び散って殺害されて炎上した死体がジャングルに散乱した。

太平洋戦争のルソン島の戦いにて、アメリカ軍が上陸したリンゲ湾近隣であるパンガシナン州北部ビナロナンの西方約2kmで、日本軍とアメリカ軍の戦闘が1944年1月23日に勃発した。アメリカ軍の約100台の戦車が攻撃して、日本軍の戦車約40台が車体もろともに大破した。日本軍の戦車兵士は戦車から飛び散って殺害されて炎上した死体がジャングルに散乱した。日本軍の戦車の砲弾は、アメリカ軍の戦車の装甲を貫通できなかった。逆にアメリカ軍の砲弾は、日本軍の戦車の装甲を溶かすように貫通して炎上した。さらに、アメリカ軍の艦隊と戦闘機からも、襲撃された。連日のアメリカ軍の激しい攻撃から、1月下旬には日本軍は北方のバギオ山麓に撤退した。疲れ切った日本軍兵士は、這うようにジャングルの狭い道を上った。

 アメリカ軍は、ルソン島のパンガシナン州の近隣のリンガエン湾に1945年1月9日に上陸した。激戦は地元住民から家や田畑、家畜など財産を根こそぎ奪い去っていた。日本軍が突撃するも全滅を繰り返した。アメリカ軍は、戦車、迫撃砲、火炎放射器などで日本軍兵士を掃討した。アメリカ軍は空からナパーム弾を投下してジャングルの森林を焼き尽くして、露出した日本軍自治を砲撃して崩壊した。日本軍は、ゲリラ戦による夜間の切り込みや手榴弾するも犠牲を重ねた。

 ルソン島の戦いの末期に、首都マニラを脱した日本軍は、北方の尾根付近や谷に点在する台地に陣地を築きながら、パンガシナン州方面から攻め上ってくるアメリカ軍軍を迎え撃った。激しい局地戦が1945年2月から6月まで約4カ月間続いて、日本軍兵士約4600人、アメリカ軍兵士約3,200人が死亡した。1日平均の戦死者数は双方合わせて約70人にも達した。1945年3月4日に、ルソン島バタンガス州リパ市ルンバンの全住民約1000人が、川土手や斜面においてリパ大虐殺をされた。アメリカ軍の侵攻を迎えて、自暴自棄になった日本軍兵士が突然狂気のような住民虐殺が勃発した。住民には逃げる場所も防御もできなかった。日本軍につくか、アメリカ軍につくかという二者択一で、住人同士がお互いに銃を向け合って生き残る手段となった。日本軍がルソン島北部へ去った1945年4月には、周囲の住民の大部分が殺害された故郷は、敗走する際に日本軍兵士が放った火炎とアメリカ軍の爆撃により、多くの家々が焼失した。敗走した多くの日本軍兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまって、負傷や伝染病にて死亡した。




2021年12月19日日曜日

ソ連のグラーク内の病室で、多くの囚人たちは重度の飢餓や病気に陥って死亡して、木の板をベッドにして厳寒の気候から身を守る毛布をかけただけの生活環境であった。

ソ連の強制労働収容所であるグラーク内の病室で、多くの囚人たちは重度の飢餓や病気に陥ってほとんどが死亡した。木の板をベッドにして、厳寒のシベリアの気候から身を守るために毛布をかけただけのひどい生活環境であった。毎日の食事は、不潔でネズミの糞にまみれたボウルのお粥と、たまに硬い黒パンが少しあるだけだった。グルーグ収容所の囚人たちは、大規模な建設、鉱山、工業に強制労働させられた。囚人には粗末で簡単な道具で、木を切ったり、凍った地面を手鋸やつるはしで掘ったりした。石炭や銅を素手で採掘する人も多かった。収容所の囚人たちは、氷点下の気温に直面して、過酷な天候の中で、食料の配給も少なく、労働時間も長かった。収容所の生活環境は、寒く、過密で、不衛生であった。自暴自棄になって、お互いに暴力で食料やその他の物資を盗み合う者もいた。多くの労働者は疲労困憊して死亡し、収容所の警備員に暴行され、銃撃されて、毎年、グラーク収容所の少なくとも約10%が死亡した。

 ソビエト連邦の独裁者であったジョセフ・スターリンの時代に設立された強制労働収容所(Glavnoe Upravlenie Lagerei)はグラーク(Gulag)と略称された。19219年からスターリンの死後間もない1953年まで、約1,800万人を投獄した悪名高い収容所である。最盛期には、約2,000人から約10,000人を収容する数百の強制労働収容所が存在した。1940年3月には約53の個別の収容所と約423の労働コロニーが、北は北極から東はシベリア、南は中央アジアにて運用された。囚人たちは1日に約14時間もの労働を強制された。多くの囚人は、飢えや病気、疲労で死亡して、その他の囚人は処刑で殺害された。グラークの囚人は、当初は犯罪者や集団農業に反旗した裕福な農民であった。スターリンの粛清により、政治犯、反対派の共産党員や軍人、政府高官などがまず対象となった。その後、医師、作家、知識人、学生、芸術家、科学者など、知識階級や一般市民も収容所に送られた。

 第二次世界大戦の直前の1939年には、クラーグ収容所とコロニーを合わて、約160万人を収容した。ドイツ軍のポーランド侵攻の後、ソ連は第二ポーランド共和国の東部を侵攻し併合して、1940年には数十万人のポーランド国民とその他の併合地の住民が逮捕されて,収容所に送還された。約30万人のポーランド人捕虜が、その後に殺害されるか(カティンの虐殺)あるいは収容所に送還された。1940-41年にコリマに送還された約10,000-12,000人のポーランド人捕虜のうち、わずか583人が生き残った。大祖国戦争中の1942年から1943年にかけて収容所の死亡率が急上昇して、収容人口は急激に減少した。1941年の冬には収容所の人口の4分の1が餓死した。1941年から1943年にかけて約516,841人の囚人が過酷な労働条件とドイツの侵攻による飢饉が重なって収容所で死亡した。1943年には、当初はナチスの協力者を対象としていたが、1943年以後、他の政治犯も最も過酷な体制の収容所であるグラーグに送られて、その多くが死亡した。 

 1953年にスターリンが死去した直後から、グラーク収容所は弱体化し始めました。1970年代から1980年代にかけて、一部の収容所は犯罪者や民主主義活動家、反ソビエトの民族主義者のための刑務所として再編成された。ゴルバチョフが、1987年にグラーク収容所を完全に廃止した。1991年にソ連の公文書が封印されるまで、ホロコースト強制収容所とは異なり、グラーグ収容所の記録は一切公開されなかった。1973年、ロシアの歴史家で収容所の生存者であるソルジェニーツィンが『収容所群島』を欧米で出版した。1970年にノーベル文学賞を受賞し、1974年にソ連から追放されて、1994年にロシアに帰国した。




2021年12月18日土曜日

広島赤十字病院にて、聴診している小児科医が看護婦とともに、傷つき泣いている広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。

広島赤十字病院にて、小児科医が看護婦とともに広島の原爆症の乳児を診察して手当をした。戦争に何ら関係もない幼い児童の身体が、悲惨にも被爆して傷つき苦しみながら泣いた。原爆被爆者調査により、大人より子どものほうが放射線から受ける影響は大きい。数百ミリシーベルト以上の被ばくでは10歳以下の子どもは大人と比べて死亡リスクが約2〜3倍も高い。子どもは成長期にあり、大人と比較して細胞分裂が盛んで、成長時期は細胞分裂を繰り返す。細胞分裂が盛んな細胞や細胞分裂の回数が多い細胞は、放射線の影響を受けやすい。子どものほうが大人よりも放射線の影響を受けやすいが、100ミリシーベルト以下の低線量の被ばくでは、他にも要因が多くあり有意差は認めらなかった。

 広島赤十字病院は、被爆直後から破壊されたまま診療を休まず被爆者を診たので、被爆者は廊下だけでなく、屋外の庭園まであふれた。水を求める被爆者、家族を呼ぶ被爆者、痛みを訴える被爆者、声も出せない被爆者、すでに被爆死している死体で混在して、歩く隙間も少なかった。広島市内の強制疎開により残存した建造物の木材を用いて、被爆死した死体を火葬した。重度の原爆症では、全身の倦怠感が著明となり、呼吸するのが精一杯となった。広島市内では、ほとんどの身内や身近な被爆者の死傷を伴った。広島市近郊では、ピカッと発光して、ドンと爆発が響いたので、原子爆弾をピカドンと名付けた。

 8月15日に戦争の終結した無念と不安感と脱力感が交錯した。しかしその後に、被爆者の病態がますます遷延して重度化した。通院できない被爆者は、身内が荷台に乗せて運搬した。身体に突き刺さった異物により、化膿が反復した。熱線が皮膚表面に対して垂直ほど強く火傷した。広島日赤病院は、被爆後に約1カ間しても、障子や硝子はほとんど破損して、鉄枠は折曲がり、敷地に張り巡らされたコンクリート壁が倒れた。玄関脇の庭木は全て爆心地から南方に傾いた。10月4日までに病院職員の死亡者数は約55人に及んだ。大群の蝿が発生して、広島市内の汚物や死体を自然浄化していた。約1カ月しても放射性の粉塵を肺内に吸引していた被爆者は、肺壊疽を引き起こして、咳発作して吸気困難となった。白血球数が減少して、高熱を伴って多数の被爆者は急死した。火傷の少ない被爆でも、原子爆弾の炸裂後も、市内を広範囲に活動している内に放射能被爆を受けて白血球減少に陥って重態になった。救護や治療は、対症療法のみで根本的な治療は無かった。人災である原爆症の予防は、地球上にて決して核兵器を使用しない事に尽きる。



2021年12月17日金曜日

日中戦争の第二次上海事変から、中国国民党軍を追討して蘇州に侵攻した日本軍は多数の蘇州市民を殺害して死体が散乱した。

第二次上海事変から蘇州に侵攻した日本軍に無差別に殺害された蘇州市民の死体が散乱した。1937年8月中旬から11月15日にかけて、日本軍は蘇州市に約4,200個以上の爆弾を投下し、数千人の中国人の死傷者を出した。平門駅はほぼ完全に爆撃されて、一回の爆発で約300~約500人が死亡して、衛生列車や難民用のワゴンも破壊された。大人や子供があちこちで吹き飛ばされていた。さらに日本の爆撃機が天門の外に焼夷弾を落とし、約三日三晩燃え続けて、天門の周りは焦土と化した。日本軍は、掃討しては銃剣で刺殺したり、銃殺した。多くの女性は強姦され、少しでも抵抗すると銃剣で撃たれた。

 1937年8月13日から上海で勃発した日中戦争にて最も激しい戦闘である第二次上海事変(淞沪会战)が、11月12日まで続き、日本軍による上海の占領で終結した。1937年11月5日に、日本軍は杭州湾北岸の金山衛などから上陸を開始して、上海の情勢は中国国民党軍にとって非常に劣勢となった。11月9日から、中国国民党軍は上海から撤退を始めた。日本軍は上海を占領すると、すぐに太湖の北岸と南岸から中国国民党軍を追いかけて、退路を断つために蘇州などを攻略した。

 1937年11月19日に日本軍は蘇州に侵入して、蘇州の街はすべて陥落して日本軍に占領された。占領後の3日間が最も多くの火傷と殺害をした。東中市の地家橋から長門石道まで、昼夜を問わず火災がした。1937年11月21日付の朝日新聞によると、19日午後2時に日本軍が楼門から市内に入り、市内に散らばっていた中国国民党軍兵士約2,000人が日本軍の捕虜になった。 日本の上海派遣軍の司令部が、「囚人は全員殺せ」という密命に従って、全員が処刑された。退却していた中国国民党軍約2,000人が日本軍に捕らえられて殺害された。日本軍は、攻撃した蘇州の地域で、血みどろの殺害、略奪、焼き討ちなどの三光作戦による戦争犯罪を実行した。日本軍の恐怖政治に苦しむ中、多くの蘇州市民は衣食住に困窮し、生活の糧を得れなかった。蘇州の街では、あちこちでボロボロの服を着た蘇州の市民が道端で物乞いをした。日本が蘇州を占領した後に、通りには死体があふれて、約10日間放置された。蘇州市の都市部で約3,738人、田舎で約6,774人が殺害された。