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2024年10月18日金曜日

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計であり53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計である53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。リッソは机で、レナーテとエバートはソファーで毒薬の青酸カリを服用して自殺した。アメリカ軍兵士による捕縛を避けるため、ライプツィヒ新市庁舎で青酸カリによる自殺を遂げた。リッソは、ドイツ赤十字の腕章をつけた。死の写真に、妻のレナーテ・リッソは夫の向かって座り、赤十字の腕章をつけた娘のレジーナがベンチに座っていた。

 アメリカ軍は1945年4月18日にラートハウスを突破して、4月19日朝から攻撃を開始した。 アメリカ軍の戦車は7時30分から9時10分までラートハウスに向けて砲撃を行って、捕虜となったドイツ軍将校が降伏の最後通牒を持ち込んだ。別の部屋で青酸カリで自殺した市長アルフレッド・フライベルクとその妻、娘、前市長でフォルクススツルム大隊長のクルト・ヴァルター・デニッケとその将校数名も新市庁舎で発見された。アメリカ軍はドイツ軍少将1名、下士官175名、ゲシュタポ13名を捕らえた。アメリカ国旗は正午頃に、ラートハウスに掲げられた。リッソの自殺の現場は、ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、リー・ミラー、アメリカ陸軍信号隊によって特に広範囲に撮影された。

  ソ連赤軍と西側連合軍がベルリンに迫ってくると、自殺者が増えた。1945年春に、何千人ものドイツ人が、占領や勝者による虐待に避けて自殺した。 ベルリンの戦いでは4月中に約3,881人が自殺したと記録された。動機は「ロシア軍の侵攻への恐怖」だけでなく、連合軍によって解放された地域でも自殺は起きた。アメリカ群は、1945年7月にソ連軍との国境線から占領区域の境界まで撤退した。ライプツィヒはソ連赤軍に引き渡された。ライプツィヒは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の主要都市の一つとなった。




2024年4月23日火曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士が手榴弾を握りしめたまま自爆して戦死した。日本軍兵士は、自殺を選んで手榴弾を体に当てて爆発させて自決した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士が手榴弾を握りしめたまま自爆して戦死した。日本軍兵士は、手榴弾を体に当てて爆発させて自決した。先の大戦では大勢の日本勢が自決によって絶命した。1941年に東条英機陸相が説いた戦陣訓に、生きて虜囚の辱を受けず、日本軍兵士は忠実に守り、捕虜を拒み、自決を選んだ。

 アメリカ軍海兵隊が1945年2月19日に上陸後から激しい戦闘が続いた。2月23日15児20分に、アメリカ軍が多大な死傷者が続出する中で、擂鉢山に星条旗が掲げられた。2月23日夜に、日本軍の摺鉢山守備隊の生き残り300人は、北部の日本軍と合流するため陣地を脱出しようとした。しかし、途中で120人が殺害されて120人が倒された。日本軍本隊の混成第二旅団に合流を確認できたのは25人に過ぎなかった。2月24日には、岩場に身を隠した日本軍兵士に対して、容赦なく火炎放射を浴びせた。

 2月23日は、硫黄島の元山飛行場付近では早朝からアメリカ軍と戦闘が始まっていた。摺鉢山の戦闘は終結を告げた。主戦場は元山飛行場に移っていた。アメリカ軍は砲兵八個大隊を含む二個師団の大部隊で、タコ岩ー千鳥集落ー霧島集落ー西集落の線と阿蘇台周辺の日本軍を徹底的に攻撃した。しかし、日本軍の第二旅団を中核とする守備隊は、アメリカ軍歩兵部隊の進撃を辛うじて阻止した。午後3時ごろからになるとアメリカ軍は全線にわたり塹壕を造り始めた。

 硫黄島の戦いで、アメリカ軍兵士は約7,000人が戦死して、戦傷者は約22,000人で、約9割れが重態であった。全体で約21,000人の日本軍兵士がいて、そのうち爆死や病死で約17,000人が犠牲となった。戦闘により戦死したのは、その内の約3割の約5,000人であった。残りの約1割は、投降で後方から撃たれ、上官に嫌われ殺害された。約6割は、水が無くて、焦熱地獄で、手榴弾を使って 爆死した自殺であった。全ての日本軍戦死者は約19,000人で、硫黄島には、まだ約12,000体の遺骨が残存した。




2024年2月14日水曜日

太平洋戦争の末期の沖縄戦にて女性や子供なども、アメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれて犠牲となって、殺害された死体が折り重なって倒れていた。その死体群は、集団自決をした家族に巻き込まれた可能性もある。

沖縄戦にて女性や子供が、アメリカ軍と日本軍の戦闘に巻き込まれて犠牲となって、殺害された死体が折り重なって倒れていた。その死体群は、集団自決をした家族に巻き込まれた可能性もある。家族・親類・友人・知人同志で殺しあった凄惨な集団自決の現場と考えられた。

 太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。アメリカ軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人数が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が全滅して絶命した。沖縄戦では、一般住民が集団で自殺する行為が発生し、集団自決と呼称した。主な集団自決は、伊江村のアハシャガマなどで約100人、恩納村で11人、読谷村のチビチリガマなどで121人以上、沖縄市美里で33人、うるま市具志川で14人、八重瀬町玉城で7人、糸満市のカミントウ壕などで80人、座間味島で234人、慶留間島で53人、渡嘉敷島で329人などが集団自決の犠牲となった。

 1945年3月23日から始まったアメリカ軍の沖縄大空襲と引き続く艦砲射撃は、第二次世界大戦で、日本で唯一の住民を巻き込んだ国内戦の幕明けとなった。慶良間諸島に、アメリカ軍の大艦隊が押し寄せた。慶良間諸島に大艦隊で攻め込んで来るアメリカ軍を見れば、住民は捕虜になる前に集団自決にて自殺することが、すでに用意されていた。

 壕にいた人々は、晴着を付けて集団自決の覚悟を決めて、もう今頃は集団自決で全員が死んだはずであった。たどり着いて壕内を覗き込むと、晴着をつけて、何十人という人々が全員死んで、生存者は一人もいなかった。その後からも集団自決のために、壕に入った住民がたくさんいた。

 老夫婦で、妻を先に殺した時に、夫はアメリカ軍の捕虜になった。夫は、もう妻を死なして、生きていてもしかたがないと言って、約30mほど離れた壕に行った。豪に置いてあった竹槍を取り出し、アメリカ軍兵士にめがけて突撃した。目の前で射殺された。響いた銃声は、その夫が殺された瞬間であった。慶留間島での集団自決の方法は、その他にカミソリを使って集団自決していた。全員が木に首を吊って集団自決した。ネズミを殺すための薬剤であると猫要らずの毒物で集団自決した。




2024年2月12日月曜日

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、兵員輸送船内で治療を受けた。

日本軍の神風特攻機が、1944年10月25日と10月26日に、護衛空母のスワニーに激突して炎上した。護衛空母スワニーのアメリカ軍の乗組員には、大量の死者と悲惨な重度の火傷を伴って、アメリカ軍兵士は兵員輸送船内で治療を受けた。アメリカ軍兵士の乗組員の多くは、爆発で吹き飛ばされていた。船尾に閉じ込められた他の乗組員はガソリンの炎に閉じ込められて絶命した。

 太平洋戦争にて1944年10月25日にフィリピンのサマール沖で、日本軍による史上初の自爆攻撃まによる初めての組織的な神風特別攻撃を空母スワニーに突撃した。日本軍の神風特攻機が、アメリカ海軍の護衛空母USSスワニー(CVE-27)の前方飛行甲板上に命中した。神風特攻機は10月25日午前7時40分に、6機の零戦がただちに急降下で空母スワニーに突入して、対空砲火で応戦した。午前8時4分に被弾した神風特攻機が、前方の飛行甲板に激突して炎上して、アメリカ軍兵士は71人の戦死者と約82人の戦傷者を出した。

 10月26日正午過ぎに、別の神風特攻部隊の攻撃により、神風特攻機体が12時40時に、空母スワニーの飛行甲板に墜落した。甲板に回収されたグラマン雷爆撃機に激突した。2機は接触と同時に噴火して、飛行甲板上の他の9機も同様に噴火した。その結果、火災は数時間にわたり燃え続けた。10月25日から26日のアメリカ軍の死傷者は、死者107人、戦傷者は160人に上った。神風特攻機の爆弾は、空母スワニーの飛行甲板と格納庫甲板の間で爆発し、艦に約7.6mの傷をつけ、多数の死傷者を出した。10月26日の正午過ぎに、神風特攻機の別のグループが空母スワニーの飛行甲板を墜落させ、回収したばかりの魚雷爆撃機に激突した。2機は飛行甲板上の他の9機とともに炎上して、火災は数時間にわたり燃え続けた。




2024年2月7日水曜日

沖縄戦で殺害された日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍は上陸した翌日の1945年3月27日に座間味島の占拠に向かった。1945年3月26日に座間味島は、慶良間諸島の他の島々とともにアメリカ軍に侵攻された。

沖縄戦で殺害された日本軍兵士の死体を横目に、アメリカ軍は上陸した翌日の1945年3月27日に座間味島の占拠に向かった。1945年3月26日に座間味島は、慶良間諸島の他の島々とともにアメリカ軍に侵攻された。侵攻前に、座間味島の住民は日本軍によって手榴弾による自決を命じられた。アメリカ軍が沖縄戦の初日午前9時に座間味島に上陸して侵攻した。3月23日から座間味島は猛烈な空爆により壊滅した。住民は自分で作った塹壕や山に避難する。3月28日に、座間味島を進撃中のアメリカ軍は、洞窟の中で、首を絞め殺された12人の女性の死体と生き埋めにされた1人の死体を発見した。沖縄戦による住民の惨劇は、早くも始まった。

 3月26日午前9時に、アメリカ軍は座間味島に侵攻して、当初は抵抗を受けなかった。座間味島は、こぶ状の島であった。アメリカ軍は南海岸の低い平地の深い湾に部隊をアムトラックで着けて、徒歩での上陸を余儀なくされた。アメリカ軍の侵攻部隊は、海岸の後方にある座間味の町に到着するまで、散発的な迫撃砲と狙撃兵の銃撃を受けた。

 座間味島では、アメリカ軍は3月26日午後、日本軍と接触することなく高地に押し寄せた。夜半から翌日3月27日の明け方まで、ライフル、ピストル、サーベルで武装した日本軍の集団が、海岸近くのアメリカ軍の境界線に侵入した。攻撃の矢面に立ったアメリカ軍は、自動小銃と迫撃砲の支援を受けて、日本軍の局地的突撃を撃退した。アメリカ軍の機関銃は何度も持ち替えられた。夜間銃撃戦は、野蛮な白兵戦に展開して、アメリカ軍は7人の戦死者と12人の戦傷者を出して、200人以上の日本軍兵士を殺害した。

 慶良間列島への上陸作戦は、3月26日午前8時すぎまず阿嘉島の上陸から始まった。3月29日までに慶良間列島全域は、アメリカ軍の手に陥ちた。アメリカ軍が公式に占領を宣言したのは、3月31日であった。アメリカ軍の攻撃は、慶良間列島に15回にも及び、被ったアメリカ軍の犠牲者は、戦死31人、負傷81人であった。日本守備軍の犠牲者は、戦死530人のほか、121人の将兵と1,195人以上の住民が捕虜にされた。




2023年6月15日木曜日

鄭南榕は平然と編集室で焼身自殺を図り、台湾国民党政府に徹底した最後の抗議を執行した。鄭南栄は編集長室のテーブルの下にガソリン3樽を置き、テープに緑色のライターを貼り付け、雑誌の内外に要塞を築いた。

1989年4月7日午前7時30分に、台湾国民党政府の警察当局は、鄭南榕を逮捕作戦を実施するために、多数の人員を『週刊フリーダム・タイムズ』誌の出版事務所に派遣した。鄭南榕は平然と編集室で焼身自殺を図り、徹底した最後の抗議を執行した。鄭南栄は編集長室のテーブルの下にガソリン3樽を置き、テープに緑色のライターを貼り付け、雑誌の内外に要塞を築いた。4月7日早朝に、国民党軍が厳しく包囲して、軍と警察が実弾で雑誌を取り囲んだ。鄭南栄が引き返して編集長室に入ると、燃え盛る炎が上がった。1989年5月19日の鄭南榕の葬儀日に、台北の総統府ビル前で、詹益樺(Chan I-hua)が同じように焼身自殺した。 
















 鄭南栄は台湾国民党政府によって課された38年間の戒厳令に抗議して、台湾の民主主義と独立を主張した。1947年2月28日に台湾の台北市で抗議デモが発生したニ・ニ八事件が勃発して、その後に台湾全土の戒厳令下で国民党軍による台湾人の武力弾圧が広がった。1988年12月10日に、台湾の鄭南栄(Cheng Nang-rong)は、徐世凱博士の『台湾民国新憲法草案』を自身が創刊した雑誌『自由時報週刊』に掲載した。40日後、台湾高等検察庁は「反乱の疑い」で召喚状を発行した。鄭南栄は出廷を拒否して、「国民党は私の国民を逮捕できない。国民党が逮捕できるのは私の体だけだ」と大胆に宣言した。「自己投獄」を雑誌に71日間掲載した。

 1984年3月12日に、完全なる言論の自由を目指して、自由時報週刊誌(Liverty Times Weekly)シリーズを創刊した。自由時報週刊誌は鄭南栄の焼身自殺から半年後まで刊行されて、5年8か月で302号を発行した。国民党の言論弾圧にも関わらず、政治的暴露し、客観的かつ忠実に報道し、発禁・発行停止回数の最多記録を樹立した。




2022年12月22日木曜日

1945年6月23日(アメリカ軍記録6月22日午前3時40分)に、沖縄戦を断念した第32軍の司令官であった牛島満中将と参謀長の長勇中将は、摩文仁丘の司令部壕で割腹自殺した。

沖縄戦の終末期に摩文仁の洞窟で自決した49歳の長勇参謀長と57歳の牛島満司令官とされる写真がある。手前が長勇参謀長、奥が牛島満司令官らしい。1945年6月23日(アメリカ軍記録6月22日午前3時40分)に、沖縄戦を観念した第32軍の司令官であった牛島満中将と参謀長の長勇中将は、摩文仁丘の司令部壕で割腹自殺した。剣道5段の坂口勝大尉が、日本刀で両将軍の着座の瞬間に首をはねた。死体と伝えられる写真や日時は、目撃者等による自決時の証言と死体の状況が異なっている。沖縄憲兵隊副官の萩之内清の6月25日の目撃証言では、摩文仁司令部壕の下方約30mの窪地に石を積んで埋葬した。牛島満の死体には首がなく、略章をつけた軍服に白い手袋を装着していた。長勇の死体は、敷布2枚をつなぎあわせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ていた。肌着には墨で「忠即盡命 盡忠報國 長勇」と記載された。第32軍の両将軍の頭部は、大混乱の中で行方不明となった。

 6月23日を持って、沖縄戦の日本軍の組織的戦闘が終結した。アメリカ軍占領下の琉球政府が、1961年に6月23日を慰霊の日と定めた。1972年5月15日に本土復帰後も、沖縄県が条例を制定して、沖縄県民を上げて沖縄戦の全ての犠牲者に対する追悼日となった。

首里から摩文仁への撤退の決断は、住民を戦場に巻き込んだ。都市部からは、日本軍を追うように多くの沖縄住民たちが南部へ避難した。アメリカ軍の攻撃の巻き添えになり、日本軍兵士から壕から避難した住民が追い出され、艦砲射撃の犠牲になるなど多くが絶命した。首里撤退後に、約46,000人の住民が撤退後の1か月で死亡した。

  沖縄方面防衛のために創設された第32軍は、圧倒的な戦力を誇る連合軍に対して沖縄本島の南部に主防御陣地を構築して、首里に司令部を構築した。アメリカ軍の猛攻を受けて1945年5月27日に首里司令部を撤退し、沖縄本島南端の現糸満市にある摩文仁に5月30日に最期の司令部の拠点を構築した。日本本土への攻撃を1日でも遅延させる捨石となり、増援もないまま全滅した。6月23日に司令官である牛島満中将と参謀長の長勇中将などが自殺した。残る日本軍部隊も玉砕して全滅した。組織的な抵抗が終結して、アメリカ軍はその後も生存する日本軍兵士に対する掃討作戦を続けて、7月2日に作戦の終了を宣言した。






2022年10月26日水曜日

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、日本軍の守備隊兵士らは、1943年5月29日未明に無残な万歳突撃をして、集団自殺して全滅した。

太平洋戦争のアッツ島の戦いにて、アメリカ軍の圧倒的な武力に対抗できなかった日本軍の守備隊兵士団らは、1943年5月29日未明に万歳突撃して、集団自殺して全滅した。5月11日に霧が晴れると、朝日が無惨な光景を現出させた約500体以上の日本軍兵士の死体がアッツ島の荒野に無残に切り刻まれて横たわった。さらに数百体のアメリカ軍兵士と日本軍兵士の死体が、頂上と稜線の長い斜面に散らばった。

 太平洋戦争のアリューシャン列島の主戦場となったアッツ島で、1943年5月11日から30日まで、北太平洋のアラスカ列島の最西端にある不毛な小島で悲惨な戦闘が勃発した。日本軍は、1942年6月7日にアメリカ領土であるアッツ島と隣のキスカ島を占領した。アメリカ軍は、1943年5月11日にランドグラブ作戦で、約1万1000人の兵士をアッツ島の南北端に上陸した。樹木のない荒野の火山島であるアッツ島は、厳しい気候と険しい地形で、悲惨な戦闘が勃発した。5月末には、アメリカ軍はアッツ島の高台を占拠して、5月末には日本軍を小さな丘陵地帯に閉じ込めて、食料と弾薬は底をついて損失した。残存した日本群兵士は、降伏は最大の恥として、最後まで必死の抵抗を始めた。敗北に直面した日本軍兵士は、アメリカ軍の大砲を奪って、丘の上から援軍を待とうと奇襲反撃した。

 1943年5月28日に、日本軍は危機的状況に陥って、残存した約1,400人の日本軍兵士のうち、戦闘可能な兵士は約800人以下であった。食料、弾薬、医薬品も枯渇した。5月28日夜中に、残存した日本軍兵士は酒に酔って飛び跳ね、大声で叫び、酒瓶をガブ飲みした。狂乱した日本軍兵士は、負傷兵をモルヒネ注射や銃撃して、自殺するのを幇助した。5月29日未明午前3時頃に、残存した最後の約800人の日本軍兵士は、大集団で万歳攻撃をして、正面からアメリカ軍陣地に突入した。アメリカ軍兵士は、叫びながら拳、ライフル、銃剣で突進してくる日本軍兵士を迎え撃った。アメリカ軍の圧倒的な軍事力に圧倒されて、多数の日本軍兵士が殺害された。万歳攻撃で、殺害されずに生き残った日本軍兵士は、絶望して手榴弾を腹部や胸部などの身体で爆発させて自爆で自殺した。アッツ島を駐留していた約2400人の日本軍兵士のうち約2,371人が戦死した。捕虜となって生き残った約29人以外は、全員が殺害あるいは自殺した。アメリカ軍兵士は約11,000人がアッツ島に上陸して、アッツ島の戦いで約600人が戦死して、約1,200人が戦傷した。




2022年9月27日火曜日

ライプツィヒ副市長のエルンスト・クルト・リッソとその家族の妻と娘や役人らが、1945年4月18日にアメリカ軍の捕虜になるのを避けて青酸カリで市庁舎周辺で自殺した。

ライプツィヒ副市長のエルンスト・クルト・リッソとその家族が、1945年4月18日にアメリカ軍の捕虜になるのを避けて青酸カリで市庁舎で自殺した。ソ連の赤軍と西側の連合国が首都ベルリンに接近するにつれて、自殺者が増大した。ソ連の赤軍とのベルリンの戦いで、4月に自殺したドイツ人は約3,881人と記録された。戦勝国のソ連軍は、ロシア国民が耐えたナチス・ドイツ軍の蛮行の報いを、無慈悲な強姦作戦を実際に行った。自殺の動機は、ソ連の赤軍の侵攻への恐怖と説明されるも、西側連合軍によって解放された地域でも自殺は起こった。

 ライツィヒの多くの役人が、4月18日に新市庁舎で自殺した。副市長エルンスト・リッソは、アメリカ軍が市庁舎に向う中で、自殺すると同時に、妻と娘も絶命した。死体の写真では、妻のレナーテ・リッソが夫エルンストの向かいに座って自殺した。娘のレジーナは、ベンチに座って自殺した。娘のレジーナは腕章をつけて、自殺にする前にドイツ赤十字の一員としてドイツ軍兵士を援助していた。市長とその妻、娘も同様に、連合軍が占領する前に青酸カリのカプセルで自殺した。

 人口1万5千人の小さな町デミンでは、ロシア軍が到着する前後に約700人ものドイツ人が自殺した。毒を飲む、川に飛び込む、首をつる、手首を切る、銃で撃つなど、さまざまな手段で自殺した。これらの自殺は、ソ連の赤軍が占領したドイツ東部に偏って頻発した。連合軍が占領した西側へ逃れることは可能でも、ソ連の赤軍による敗北は、全体主義のナチズムの絶対的否定、ナチ幻想の抹殺を意識した。ヒトラーを救世主として、ドイツ人は20世紀最大の戦争犯罪に加担した。

 ナチス幹部、ナチス信者、軍隊員が戦争末期に自殺した。捕虜になった後にも自殺した。1926年から1945年の間に在職したナチス党(NSDAP)地方指導者約41人のうち約8人、上級親衛隊(SS)および警察指導者約47人のうち約7人、陸軍大将約554人のうち約53人、ドイツ空軍大将約98人のうち約14人、クリーグズマリン提督約53人のうち約11人、その他未知数の下級官僚が含まれた。

 日本と違って、戦争末期に多くの自殺したドイツ人には、恥や不名誉の自殺までは洗脳されていない。しかし、何千人ものドイツ人が、ナチス・ドイツの命令下にない人生はもはや生きるに値しなかった。一種の集団的な実存的危機が起こっていた。敗戦で予想される苦難と窮乏が、戦争中に家族や個人を喪失して、多くのドイツ人の精神を限界に追いやった。銃剣や砲弾などの武力を奪われたドイツ人は、征服者とも良心ともに最も迅速で確実な自殺で決着をつけた。




2022年8月31日水曜日

太平洋戦争のタラワの戦いで、ベティオ島の丸太の壁の小屋の中に、日本海軍の特殊上陸部隊の日本人兵士2人は降伏よりもライフル銃で自殺した死体が残存した。

太平洋戦争のタラワの戦いで、ベティオ島の丸太の壁の小屋の中に、日本海軍の特殊上陸部隊(SNLF)の日本人兵士2人がライフル銃で自殺した死体が残存した。アメリカ軍の公式の写真説明欄には、「日本帝国軍隊は降伏よりも自殺を好む。ギルバート諸島、タラワ環礁。1943年11月20日」と記載された。

 ハワイの南西約3,860kmにあるギルバート諸島のタラワ環礁の小島群は、第二次世界大戦中の1941年から1943年まで日本軍に占領された。1943年11月20日から約76時間にわたる血生臭いタラワの戦い後に、アメリカ軍が陥落した。アメリカ軍が中部太平洋を経てフィリピン諸島に侵攻する際の基点であった。タラワの戦いは、アメリカ軍は計画準備不足で、干潮時に枯れた火力下で、鋭い珊瑚上を延々と海岸まで泳ぎ続けた。日本軍の狙撃を避けるために、海岸から離れた突撃艇から上陸した。深海では弾薬ベルトの重みで溺れた。11月20日に戦艦はタラワ環礁のベティオ島に大規模な砲撃攻撃を行った。ピルトーチカ、バンカー、飛行場を守る有刺鉄線など日本軍は強固な要塞で、約4,700人の日本軍兵士と建設労働者が占拠した。午前5時過ぎに、ベティオ島海岸への最初の砲撃がアメリカ艦船から発射された。砲撃は、空一面を照らし大爆発となった。アメリカ軍兵士は、甲板に集まり、海岸線の花火を眺め、火粉からもう敵の日本軍はほとんど残存しないと誤解した。轟音と数十機の魚雷爆撃機、急降下爆撃機、戦闘機が、再び攻撃を開始した。上陸用舟艇は、干潮時で岩礁上で急停止した。岩礁は海岸から約450mも離れて、同時に日本軍は猛烈な砲火を浴びせた。多くの船は下船する間もなく破壊された。第一陣は海岸にたどり着けたのはわずか数人だった。海岸からわずか約90m、水際から約6mの砂浜の一部を確保した。

 一方で、通信手段を失った日本軍は、死ぬまで戦場で戦うか、戦場で自殺する自決かと洗脳して教え込まれた。戦死する決意で、アメリカ軍と激しく戦った。日本軍の翼下に爆弾を装備した水上戦闘機は、眼下に爆弾を投下して岩礁に捕捉された無謀な船を攻撃した。11月21日午前6時に、ベティオ島周辺の小さな浜辺を占領したアメリカ軍は、日本軍に対する発砲命令が下された。アメリカ軍兵士約800人のうち海岸にたどり着けたのは約450人だった。その450人がベティオ島の内陸部の空軍基地を占領した。11月21日朝に満潮には、上陸用舟艇が岩礁の上を通過し、多くの戦車を運び込んだ。戦車は海岸に転入して、トーチカに砲撃を加えた。夕刻に、隣接するマキン島を占領した後に、ゴムボートで岩礁を乗り越え、ベティオ島西側の海岸に上陸して合流した。

 11月22日から日本軍に大規模な攻撃をして、多くの残存する要塞を破壊して、多数のトーチカを一掃した。残存する攻撃は日本軍の狙撃手と残りのトーチカであった。11月22日夜に、日本軍は最後に全滅するバンザイ攻撃を行った。アメリカ軍は、バンザイ攻撃で突撃する日本軍兵士の人波に対して、陣地を死守した。11月22日夜のバンザイ攻撃は、ベティオ島の日本軍の最後のあがきであった。残存したのは、散り散りの日本軍の狙撃兵と、朦朧と混乱した少数の守備兵だけであった。3日以上に及ぶ地獄のような戦闘の末、アメリカ軍は約3,000人近い死傷者を出した。日本軍はそれ以上の犠牲を払って、約4,700人の守備隊員のうち、生存はわずか17人であった。最後の一人まで戦うという日本軍の死守の意志は、今後起こる他の戦闘の悲惨な犠牲を予見させた。




2022年8月30日火曜日

イラク北部のキルクークで、クルド人の自爆テロ犯が爆発物を積んだ車が警察署に突入して、大爆発して大炎上し、イラク人警官は約7人以上が死亡して、約35人が負傷者が出た。

2004年2月23日に、イラク北部のキルクークで、自爆テロ犯が爆発物を積んだ車が警察署に突入して、大爆発して車や店舗が大炎上した。イラク人警官約7人が死亡して他と併せ約10人が死亡して、約35人が負傷者が出た。この自爆は、キルクークのクルド人地区で発生した。負傷者の中には、近くの学校の少年と少女4人が含まれた。

 イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、イラクの治安状況を確認のためにバグダットを訪問した直前に、キルクークで自爆テロが発生した。テロ犯人は警察署が最も無防備になる午前8時45分に、ラヒマワ駅の外に約20人の警官が、命令を受けるために集合した交代時間帯に爆発した。警官たちが車列を組んで出勤すると、民間人の車が追いかけて、車列の最後の車に突っ込んで爆発した。

 テロ実行犯は、警官を監視して、警官のシフトの手順を知っていた。周辺の建物にも大きな損傷を与え、車による自爆テロであった。自爆テロ犯が、車を警察詰所の門に突っ込んで爆発した後に、血の池の塊で覆われた。自爆犯人の足や手の一部が警察署内に散乱した。キルクークの病院関係者によると、少なくとも10人が死亡し、約45人が負傷した。

 ラムズフェルド国防長官がイラクの首都バグダッドに到着し、アメリカ軍からイラク人への政権移譲を前に治安を見直す直前にに、爆弾テロが起きた。イラクの士官候補生たちに、イラクに駐留するアメリン軍と他の連合軍の兵力が約13万人と告げた。警察察、国境警備隊、民間防衛隊を含むイラク軍は、合計20万人以上である。

 アメリカ政府は2004年6月30日にイラク軍に政権を譲る準備を進めるが、クルド人は、将来のイラク政府下で、クルド人民兵による北部の自治を維持するよう圧力をかけた。アメリカ政権は、いかなるクルド人の地方民兵の自治にも反対した。アメリカ軍の空軍力に守られて、クルド人はサダム政権の最後の10年間は、イラクの北部国境に沿った地域でほぼ独立を享受した。イラク統治評議会は、クルド人居住区の自治権に意見の相違が生じた。クルド人はキルクークの都市部をクルドの中心地とみなした。アラブ人、トルコ人などの住民も含まれ支配権と主導権を争っている。




2022年6月20日月曜日

太平洋戦争の終戦を宣言した玉音放送同日に、宇垣纏は特攻隊員に決別の訓示をして、大分基地から自ら彗星に搭乗して沖縄方面に特攻をするために滑走した。 

太平洋戦争の終戦を宣言した玉音放送後の同日1945年8月15日に、自らの特攻死を直前に宇垣纏は特攻隊員に決別の訓示をして、大分基地から彗星に搭乗して沖縄方面に特攻をするために滑走した。 

 日本海軍司令官の宇垣纏(うがい まとめ)は、陣中日誌である『戦藻録(せんそうろく)ー大東亜戦争秘記』(The Diary of Admiral Matome Ugaki)を記載した。1941年10月16日から、最後の特攻攻撃にて1945年8月15日の戦死する直前までの陣中録である。1945年9月24日の真珠湾攻撃の図上演習後の特別討議にて、山本五十六の真珠湾攻撃の決行に向けて10月16日から、『戦藻録』を書き始めて、55歳で特攻死する終戦日まで書き続けらた。

 1945年8月15日の終戦の直前の8月14日深夜に、対ソ・対沖縄の積極的攻撃の中止を命令された。8月15日真夜に、8月10日まで第五航空艦隊長官であった宇垣纏は戦闘機・彗星5機に、沖縄方面のアメリカ艦隊を特攻を命じた。宇垣纏自身が、特攻する攻撃準備を命じた「七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機を以って沖縄敵艦隊を攻撃すへし。本職これを直率す。— 第五航空艦隊司令長官 海軍中将 宇垣纏」の起案を発出した。8月15日正午に、大分基地にてラジオから無条件降伏する天皇陛下の玉音放送を拝聴した。「一六〇〇幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉ず」と記して、『戦藻録』は閉じた。参謀に、「抱夢 征空」と遺墨を書き残した。 

 8月15日16時15分に、大分基地の飛行場に到着した。戦闘機・彗星5機から彗星11機と搭乗員22人の増機と増員が待機した。「命令を変更する。彗星艦爆十一機をもって、只今より沖縄の敵艦隊を攻撃する。」して宇垣纏は最後の特攻となる彗星に搭乗した。8月15日17時すぎに、各800kg爆弾を搭載した彗星11機と搭乗員23人が、大分基地から沖縄方面に出撃した。20時25分に宇垣纏より「ワレ奇襲ニ成功セリ ワレ突入ス」と入電し、次いで突入を意味する「ツー」という長符(突入電)が15秒ほど続いて、通信は途絶えた。宇垣纏を含めて18人が特攻死して、5人が彗星で生還した。玉音放送後の出撃で17人の部下を犠牲にしたと、停戦命令後の理由なき戦闘行為から、大本営と遺族からの非難も受けた。戦後しばらくは靖国神社は合祀しなかったが、宇垣纏は祭神として合祀され、太平洋戦争を聖戦として正当化した。戦藻録は、将来ナニガシカの戦争の為に必要とされると考へられた。
















2022年3月25日金曜日

2002年4月12日に、イスラエルの首都エルサレムのマハネ・イエフダ青空市場の入口のジャファ通りのバス停付近で、17歳のパレスチナ人女性が自爆テロを犯行した。

2002年4月12日、イスラエルの首都エルサレムのマハネ・イエフダ青空市場の入口のジャファ通りのバス停付近で、パレスチナ人女性が自爆テロを犯行した。強力な爆薬を自爆させて、6人が死亡して、104人が負傷した。エルサレム中心部の混雑した市場近くのバス横で、パレスチナ人女性の自爆テロが発生し、6人が死亡、104人以上が負傷した。現場のジェファ通りに、殺害されたイスラエル人女性を含む多量の出血した死体が散乱した。パレスチナのPLO指導者ヤセル・アラファトとアメリカ国務長官のコリン・パウエルの会談が流会となった。その首謀者としてアル・アクサ殉教者旅団が自爆テロを公表して、ヨルダン西岸地区のパレスチナ人武装集団の連合体で、テロ組織と指定された。

 2002年4月12日金曜日に、パレスチナの17歳の女性である自爆テロ犯人のアンダリブ・スレイマンが、午後4時過ぎに、混雑していた青空市場の入口にあるバス停で身体に隠した爆発物を自爆させた。バスに乗る前に、イスラエル人犠牲者に最大限の損害を与えるために釘を詰めた爆弾を爆発させた。爆発物を入れた3本のプラスチックパイプと釘を入れた黒いハンドバッグを、身体に付けた。彼女は、最後の映像では、黒い服を着てコーランを持ちながら、イスラエル占領に対する女性の戦いの象徴として自爆した。

 自爆テロ犯の女性は、ベツレヘムの南16kmにあるベイト・ファジャール村に居住した。彼女の2人のいとこは、エルサレムのマハネ・イエフダ市場で自爆テロを行う準備で、イスラエルの治安部隊に逮捕され、イスラエルの刑務所に連行され、家族の家はイスラエル軍によって取り壊された。アンダリブは未婚であるも、ファタハの工作員に妊娠させられ、彼女に強要した妊娠に対する感情的と社会的影響から、自爆テロを実行する決断に陥った。武装集団は、繰り返し殉教者を賞賛している。

 パレスチナの武装集団が、イスラエルの民間人を標的にする自爆テロを実行した。1993年9月から2000年9月下旬にパレスチナ人とイスラエル人が激突した事件に、パレスチナ人武装集団はイスラエルの民間人に14回の自爆攻撃を行い、主に1996年から1997年にかけて、約120人以上を殺害して、約550人以上を負傷させた。自爆テロは、逃げ場がなく恐怖に怯える。イスラエル人の日常生活のショッピングモール、人気のカフェやレストラン、宗教を守る静かな地域、通勤バスなどを標的にした。国際法の原則は、支配下にある人々が戦争犯罪または人道に対する罪を犯した場合、強要する権力者が犯罪責任を問われる。犯罪を命じたり、合理的な予防措置を講じなかったり、加害者を罰しないと、指導者にも犯罪責任を負う。




2022年3月2日水曜日

ベトナム戦争が終結日の首都サイゴンにて、拳銃により自殺した南ベトナムのロング警部補の死体が横たわり、頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。

ベトナム戦争が南ベトナムの首都サイゴンの陥落により、1975年4月30日に終結した。陥落を知った56歳の南ベトナムの警察官は、ベトナム戦争に悲観して絶望してサイゴンの議会の国会議事堂の下院前で自殺した。自殺した警察官の死体の周囲に、サイゴンの市民らが取り囲んで呆然と見下ろした。1975年4月30日の正午、ラジオが南ベトナム大統領が降伏を放送される直前に、一発の銃弾が爆発し、ロング警部補は自殺した。

 ベトナム海兵隊の記念碑の手前で拳銃により自殺したロング警部補の死体が横たわり、彼の頭部から血が噴出して地面に染み込んだ。ロングは警部補の勲章を身に着けて、青い制服を着て、胸ポケットにロングの名前が刺繍された。サイゴンの人々は自殺したロング警部補を偲んで静かに立ち並んだ。その周辺から北ベトナム軍の革命歌と解放軍の歓声を聞いて、全員は黙っていた。ロングは1975年4月30日正午頃にサイゴン市内の公園に現れた。石のベンチに座って、思慮深く周囲を見渡して、彼の頭上に手を置き、突然に、彼は立ち上がり、記念碑の手前をゆっくり歩いた。ロングは銃口を頭部に押し付けて、コルトの引き金を引いて、銃殺により自殺した。サイゴンの城塞を守ったのは、見捨てられた国家警察官であった。ロングは脱走もせずに、北ベトナム軍に降伏もせず、南ベトナムと祖国を悲観して自殺を選択した。

 サイゴンが陥落する直前に、南ベトナムの官僚や市民らがサイゴンから逃避した。サイゴンに混乱、不安、パニックが発生した。戒厳令が発令されて、アメリカ軍のヘリコプターは、南ベトナム人、アメリカ人、外国人を市内の各所とアメリカ大使館から避難させ始めた。サイゴンを保持できるとしてヘリコプターによる避難はぎりぎりまで延期された。 サイゴンが陥落する前日の1975年4月29日には、興奮して叫び合う南ベトナム人の集団が、絶望的な逃避の機会を奪い合った。サイゴン近郊の防衛戦を、北ベトナム人民軍(PAVN)の戦車が突破した。4月30日早朝には、最後のアメリカ軍のヘリコプターでアメリカ大使館から避難した。南ベトナム民間人が大使館の周辺に押し寄せて、敷地内になだれ込んだ。ベトナム戦争が終結する4月29日から30日までに、サイゴンのさまざまな場所から約7,000人以上がヘリコプターで避難した。

 北ベトナム人民軍は1975年4月30日に、サイゴン市内に侵入して、瞬く間にすべての抵抗物を退けて、主要な建物や施設を占領した。ベトナム独立記念館の門を突き破り、ベトナム時間で午前11時30分に、大統領宮殿上に北ベトコン国旗が掲げられた。その2日前にフオンの後を引き継いだズオン・バン・ミン大統領は、北ベトナム人民軍のブイ・ヴァン・トゥン中佐に降伏した。ミンはその後に、ラジオサイゴンで降伏宣言が14時30分から放送された。





2022年1月19日水曜日

1963年6月11日以降に僧侶が南ベトナム政権に抗議する焼身自殺をして、人体が身体から火炎が放出して身体は黒く焦げていった。

1963年6月11日以降の数週間で、南ベトナムでは約10人もの僧侶が南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に抗議する焼身自殺をした。首都サイゴンにて、僧侶の人体が身体から火炎が放出して、徐々にしなびれてしぼんでいき、身体は黒く焦げていった。周囲には人体の肉が焼ける匂いが立ち込めた。人体は驚くほどあっという間に焼け焦げた。焼身自殺して正座して身体を屈めた僧侶の死体に、集まったベトナム人たちが拝みながら取り巻いた。焼けている途中で、僧侶は身体を微動だにせず、うめき声も挙げなかった。背筋をまっすぐに屈曲した姿勢は、周囲に集散した市民らとは対照的であった。1963年代半ばから1971年にかけて、アメリカ軍がベトナムに駐留するようになると、ベトナム戦争に反対した僧侶の焼身自殺が増えて約100人の焼身自殺があった。ある1週間で13人もの僧侶が焼身自殺をした。

 僧侶の焼身自殺の起点となったのは、1963年6月11日にティック・クアン・ドック(66歳)が焼身自殺をした。サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らにガソリンをかぶせて焼身自殺した。当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権は、ローマ・カトリック式の統治を強要して、仏教徒に対する高圧的な弾圧に抗議した。僧侶の支援者たちが拝跪する中で、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続けて、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿が、画像を通じて世界中に放映されて、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな衝撃を与えた。1963年11月2日に発生した軍事クーデターにより、ゴ・ディン・ジェム大統領と秘密警察長官は、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。

 焼身自殺(Self-immolation)とは、自分の身体を自分で焼いて自身を焼死させ、自殺することである。しばしば政治的、あるいは倫理的な抗議として特に言論の自由の無い、または制限されている状態下で行われる。仏教やヒンドゥー教では、焼身自殺は、何世紀にも行われてきた。サティー、政治的抗議、離婚、絶縁などさまざまな理由がある。キリスト教やイスラム教は焼身自殺は禁忌の一つとされる。最後の審判の日まで自らの肉体は土葬などの手段により、死後も適切に保全された状態とする宗教である。焼身自殺して一命を取りとめた後は死ぬより辛い痛みが待ち受けている。2010年12月18日に露天商のモハメド・ブアジジがチュニジア政府に抗議した焼身自殺がアラブの春を発火させた英雄から、逆に民主化の後退で批判と中傷の対象になった。




2022年1月6日木曜日

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイで、日本軍の神風特攻攻撃で殺害された乗組員の死体は厚地の平織りの白布に包まれて海への投入の埋葬を待機した。

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイ(Callaway)の乗組員である沿岸警備隊員が神風特攻で殺害された。その死体は、死体を包む厚地の平織りの白布に包まれて重くなっており、海への埋葬する投入を待っている。彼らは、フィリピン・ルソン島のリンガエン湾に侵攻した際に、1945年1月8日に日本軍の神風特攻隊の自爆突撃を受けて、29人が死亡したアメリカ軍水兵人の死体群である。その他22人が戦傷した。太平洋戦争で海の勝利の代償を払ったアメリカ軍水兵たちの墓には、白い十字架の列はない。深海で死んだ者は、深海で死体から眠っている。

 フィリピン・レイテ湾の戦いでは、神風特攻機が初めて登場した。1944年10月19日に、大西瀧治郎副司令官はフィリピンのマバラカット戦闘機の基地で上級司令官と会談して、「戦闘機の数が少ないので、特攻でなければ成功を保証できない。一機の戦闘機に約250kgの爆弾を搭載して、片道の燃料で空母の甲板に不時着させなければならない」。これが神風という特攻の起源である。神風の言葉は、中世に日本を侵略しようと出撃したモンゴル軍の艦隊を吹き飛ばした台風のことを指している。

 空母タフィー3号が日本海軍と戦っている間に、10月25日にその近隣の護衛空母サンティーが特攻機の攻撃を受けた。これが神風による最初の神風の突撃墜落船となった。午前7時40分、すぐに別の神風が同じ勢いで午前8時4分にスワンニー号に命中した。護衛空母軍(タフィー3は損傷を数えていた午前11時前に、特攻攻撃を受けた。5機の神風は撃墜されて空母に軽微な損傷を与え、6機目の神風は10時47分に護衛空母セントローの飛行甲板を突き破り、爆弾と魚雷の爆発を起こして、セントローが沈没したのである。日本群は後に最も恐ろしい兵器の一つとなる特攻初めて試行した。

 神風特攻隊員たちは、執拗なまでに執拗な特攻攻撃を行った。この時から戦争が終わるまで、日本軍の若い飛行士の間では、この片道飛行に志願することは大きな特権とされていた。パイロットたちが家族に宛てた別れの手紙が集められている。ある手紙にはこう書かれている。「私のことを親切に思ってくれて、立派なことができたのは幸運だったと思ってください」。別の手紙には、「人は誰でも運命づけられている。"人は皆、やがて自分の道を歩む運命にある "と。また、あるパイロットは日記の最後のページをこう結んでいる。"春の桜のように、私たちは清らかに輝きながら散っていこう。" いずれも20代前半であった。

 神風特攻は戦争の流れを変えることはできなかった。艦船と連携したアメリカ軍の対空砲火の攻撃によって大量に撃墜された。神風特別攻撃は、その後に硫黄島や沖縄で大きな被害をアメリカ軍にもたらした。1945年8月15日に太平洋戦争が終わるまでに、神風特別攻撃隊は約300隻以上のアメリカ軍の艦船を撃沈または損傷させて、アメリカ軍水兵の約18,772人(死者約8064人、負傷者は10,708人)の死傷者を出した。日本側の特攻戦死者は、(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると海軍約2,531人、陸軍約1,417人、計約3,948人であった。




2021年9月29日水曜日

アッツ島の戦いが5月30日に終結する戦闘の瞬間に、数百人の日本軍兵士が手榴弾を胸部や腹部に握りしめて自爆による集団自殺をして、薪の山のように互いに重なり合った。

太平洋戦争のアッツ島の戦いが5月30日に終結する戦闘の瞬間に、数百人の日本軍兵士が手榴弾を胸部や腹部にしっかりと握りしめて自爆による集団自殺をした。引き裂かれた死体は、強風によって吹き飛ばされた薪の山のように互いに重なり合った。最後に残った約500人ほどの日本軍兵士は敗北を悟り、エンジニア・ヒルの麓まで後退して自爆死した。掘り起こされた墓地のように見え、殺害された日本人兵士がいたるところに散らばっていた。

 1942年6月3日から7日にかけて、日本軍はアラスカのアリューシャン列島を攻撃し、ウナラスカ島のダッチハーバーを爆撃し、アッツ島とキスカ島に侵攻した。アメリカの国土が占領されたのは初めてであった。アメリカ軍兵士は、再占領するために1943年5月11日に、約12,500人のアメリカ軍兵士はアッツ島の北端と南端に上陸しました。多くの兵士が悪天候に露出の犠牲となり、凍傷や熱病に苦しんだ。死んだ敵軍に遭遇したとき、時々優れたブーツとコートを取り替えた。アメリカ軍上陸時には、日本軍し2600人の健常者を抱えていたが、5月28日には800人しかいなかった。

 「最後の攻撃が実行される。病院内の患者は全員自殺することになっている。たった33年しか生きていないのに、私はここで死ぬことになる。18:00に手榴弾ですべての患者を始末した。」と辰口信夫衛生兵は1943年5月28日に記録した。1943年5月29日の夜明け前の暗闇の中で、日本軍兵士は自殺攻撃をした。5月29日午前3時に、突然に日本軍は山からの叫び声を上げて狂信的な突撃をした。戦闘の多くは白兵戦となり、銃撃と悲鳴が谷全体に響き渡った。天皇陛下の名の下に行われた全員が名誉の自殺攻撃をする「玉砕」の最初の公式なバンザイ攻撃となった。日本軍がアメリカ軍に勝ち目がなく、補給や援軍もなく、唯一の選択肢は突撃することであった。日本の軍隊は、"武士道 "の規範に従っていた。武士道は、降伏は非常に不名誉なことであり、兵士は捕らえられるよりも自決を指示された。兵士が降伏すると、不名誉は家族に及び、妻の中には、恥から逃れる自殺する者もいた。

 アッツ島の戦いでは、アメリカ軍は上陸した約12,500人死者は549人で、戦傷者は1,148人を超えた。日本軍兵士は、駐屯していた約2,500人のうち、約2351人が死亡して約28人を除いて全て死亡し、死亡率は約99%に及んだ。





2021年8月22日日曜日

太平洋戦争でフィリピンのルソン島のバヨンボンにて、救護所に残存した日本軍兵士の重傷病人は致し方なく自殺して自死した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにおいて、ルソン島のバヨンボン近隣にて、日本軍の野戦救護所に収容されて生存していた重症の戦傷者あるいは重態の重病人は戦場では歩行困難となった。取り残された多数の人軍兵士の戦傷者あるいは戦病者らは、アメリカ軍に掃討されて殺害あるいは拉致される前に、致し方なく自殺して自死した。救護所の日本軍兵士は降伏することもなく、銃殺あるいは毒殺によって自殺した。1945年6月8日にアメリカ軍は、自殺して自死した救護所の床あるいはベッド上に散乱していた日本軍兵士の死体を検死した。日本軍兵士の死体群の周囲には、ハエがたかり死体が腐敗して死臭による悪臭が漂っていた。

 1945年6月上旬から中旬にかけて、日本軍はアメリカ軍に追撃されて、バヨンボン盆地は豪雨の中を北上して撤退していた。戦場の修羅場を、日本軍兵士や民間日本人が敗走した。歩行できない日本軍兵士や民間日本人の戦傷者や戦死者は周辺に取り残された。歩行できる日中はジャングルの中で隠遁して潜伏して、夜間にルソン島の北部に向けて敗走した。日本軍は、北部のキアンガンを最終の逃避場として、6月下旬にイフガオ州の山間に集結していた。

 1945年6月上旬からアメリカ軍は、ルソン中部から北上してバヨンボン盆地に突撃した。6月5日にアリタヨ、6月6日にバンバン、6月7日にバヨンボンに侵攻した。日々に刻々と、バヨンボン盆地の周辺地域の日本軍を掃討した。6月中旬には、アメリカ軍はバンバンの西側の山中のサリナスに集結した。6月下旬には、アメリカ軍は山中を北上してアンチポロに侵攻した。アメリカ軍は、日本軍を追撃して、アシン川周辺に追撃した。アシン川周辺に逃走した日本軍と民間日本人は、物資や食糧が減少して戦力も低下し、栄養失調による飢餓と伝染病にも襲われた。フィリピンの戦いの末期には、日本軍兵士と日本民間人は前途には戦場の地獄に追い込まれて、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって太平洋戦争の終戦を迎えた。日本軍の最終的な降伏は、終戦後の1945年9月3日に公式に降伏した。1945年1月6日からのルソン島の戦いだけでも、日本軍兵士の約217,000人は戦死あるいは戦病死して、約9,050人が降伏して捕虜になった。フィリピン人はマニラ市街戦にも巻き込まれて約150,000人以上が死亡した。アメリカ軍兵士は、戦死者は約8,310人と戦傷者は約29,560人に及んだ。




2021年8月2日月曜日

サイパン島の北端に追い詰められた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時にタナバク海岸で悲惨な最後のバンザイ攻撃で全滅した。

サイパン島の北端に追いつめられた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時に猛烈で悲惨な最後のバンザイ攻撃に参戦した。約5,000から6,000人の自暴自棄な人間が、玉砕の栄光に洗脳されて、哀れな武器を手に取り、タナパグ海岸でアメリカ軍歩兵に向かって真っ直ぐに走ってバンザイ突撃した。体力のある日本人は真っ先に死に、負傷者は死の後を追おうとした。アメリカ軍は一切の妥協を許さず、日本軍を全滅させた。タナバク海岸には無数の日本軍兵士の死体が散乱して、死体の側にはアメリカ軍兵士から奪った銃が放棄された。

 日本軍のバンザイ攻撃は、狂信的で自殺的攻撃は、常に暗闇の中で行われ、アメリカ軍陣地に正面か攻撃した。日本軍兵士は、殺されるのは目に見えていた。日本軍兵士は、アメリカ軍に向かってまっすぐ突撃することを要求された。みんな突撃しているじゃないか。みんな突撃したぞ!突撃しろ!日本刀を抜いて激しい姿勢をとり、再び突撃せよと叫んだ。死んでも構わず、広い浜辺でバンザイ攻撃をした。

 日本軍兵士は、いずれは死ぬと真に信じていた。生け捕りでは、家族に顔向けできない。バンザイと見送られて、家に帰れない。バンザイ攻撃は自殺攻撃である。動けない者は、手榴弾あるいは青酸カリで死ねと言われた。女性や子供は青酸カリを飲んだ。あるいは崖から飛び降りた。洞窟で殺されるよりは、アメリカ軍兵士を道連れで死ぬことを選択した。日本軍は、アメリカ軍の戦線を突破し、支配した支援地域を奪還し、アスリート飛行場を破壊してナフタン・ポイントで再編成する見栄で無謀なバンザイ攻撃をした。

 日本軍は死の谷と呼ばれた窪地に、数百人の日本軍が集結した。走れる者、歩ける者、よろける者、這える者は攻撃に参加し、動けない者には手榴弾を渡して死ねと指示された。日本軍兵士は、祈り、泣き、歓声を上げ、酒を飲んで、声はタナパグ平原に響き渡り、アメリカ軍のる尾根にまで聞こえた。アメリカ軍兵士よ、お前は今夜死ぬんだ。日本男児はアメリカ人の血を飲むと叫んだ。次第に、天皇万歳!とっつぁん!と掛け声した。

 夜は最悪であり、日本軍は前線を突破して、照明弾があっても、何も見えない。の暗闇から狂人の大群が現れた。バンザイと叫び声が響き渡り、日本刀を抜いて頭上でぐるぐると振り回している。武器を撃ち、バンザイと叫んでアメリカ軍に突撃した。アメリカ軍は、迫撃砲と機関銃が絶え間なく発射した。目の前に日本軍兵士の死体が積み重なっても、その死体を轢いて突撃した。攻撃のたびに犠牲者が出ても、続々と突撃した。弾丸は周りを飛び交い、悲鳴は耳をつんざき、辺りは死の臭いが漂い、日本人の死体と火薬の臭いが空気中に漂った。日本軍兵士は、恐怖と憎しみに満ち、殺意を持って、野蛮な野獣となり、悪魔となり、全く人間性を失い、ただ殺す、殺す、殺すと叫んだ。アメリカ軍兵士は、一旦、接触して接近戦が始まると、恐怖を忘れて、至近距離で短い間隔にて両手で射撃した。バンザイ攻撃で約4,000人以上のほぼ全員の日本軍兵士が死亡した。約12時間に及ぶ戦闘で、約1,000人のアメリカ軍兵士が死傷した。




2021年7月25日日曜日

沖縄戦で日本軍の義烈空挺隊によりアメリカ軍の読谷飛行場に空襲したが全滅した死体は、戦闘機の残骸の周りに散らばった。

日本軍による沖縄戦への空襲は5月後半の最終週に最強化された。1944年5月25日の夜中に、日本軍の義烈空挺隊により沖縄中西部のアメリカ軍の読谷飛行場に空襲したが全滅した。日本軍の義烈空挺部隊の死体は、戦闘機の残骸の周りに散らばっていた。左の背景には爆撃機サリーの胴体が破壊されていた。日本軍兵士の義烈空挺部隊は、かなりの数のアメリカ軍の爆撃機を破壊した後に、全員が殺害された。義烈空挺部隊の死体の周りを、アメリカ軍兵士が取り囲んで見守った。地上に着陸したら、義烈空挺部隊は最後に殺害されるまで多くのアメリカ軍の戦闘機と補給品を破壊または損傷する自滅作戦であった。

 爆撃機5機が熊本県の健軍飛行場から出撃した。1944年5月24日の22時30分頃に、伊江島方面から飛来した。高射砲台は直ちにサリーズと呼称した低空飛行の日本軍の5機の爆撃機と交戦した。そのうち4機は対空砲撃により撃墜されて、雲丹飛行場付近で炎上した。最後の5機目が読谷飛行場に飛来して、車輪を上げて龍潭の北東から南西方向の滑走路に腹ばいで胴体着陸した。義烈空挺部隊と呼称される少なくとも8人の重装備の日本軍兵士が戦闘機から飛び出した。読谷飛行場の滑走路沿いに駐機していたアメリカ軍の爆撃機に手榴弾や焼夷弾を投げ始めた。義烈航空隊員はコルセア2機、C-54輸送機4機、プライベーター1機を破壊した。他にもリベレーター爆撃機1機、ヘルキャット3機、コルセア22機の計26機が損傷した。

 日本軍の義烈空挺部隊が上陸した後の混乱の中で、約2人のアメリカ軍兵士が死亡して、約18人が負傷した。日本軍兵士は約33機の飛行機を破壊しただけでなく、約7万ガロンのガソリンが入った約600ドラム缶の燃料タンク2基を点火して破壊した。直ちに生存していた義烈空挺隊員を全員を掃討して全滅した。約10人の日本軍兵士が読谷飛行場で死亡し、他の3人は戦闘機の中で対空砲火によって死亡した。義烈空挺部隊の脅威は5月25日の午前1時に、近くの森に隠れている間に最後の日本軍兵士が殺害されて終結した。

 その他の4機のサリーズにはそれぞれ約14人の日本軍兵士が搭乗していたが、全員が炎上して死亡して、全部で約69人の日本軍兵士の死体を検死した。読谷飛行場は、滑走路上の瓦礫のため、5月25日の午前8時頃まで使用できなかった。これは沖縄戦中に、日本軍が沖縄に空挺部隊を着陸させようとした唯一の自滅戦闘となった。