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2024年11月26日火曜日

硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。

第二次世界大戦の太平洋戦争末期の硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。地下壕には、洞窟式の地下交通路が連なっていた。日本軍兵士の大半は、このようなトンネル内で絶命した。

 硫黄島一帯に散乱した死体は最大の猛威によって殺戮された。むごたらしくズタズタに切り刻まれた死体の大群が散乱した。多数の死体は胴体を真っ二つに切断されて、遠くにバラバラに散乱した。ある地域では日本軍兵士の死体の燃える悪臭がとてもひどかった。

 硫黄島の戦いは、攻撃側のアメリカ軍が、防御側の日本軍よりも、犠牲者が上回った。アメリカ軍の約7000人が戦死して、戦傷者は約1万9,000人に達した。硫黄島の戦いの、戦死者数と戦傷者数の詳細は『硫黄島作戦』を参照した。アメリカ軍の戦死者は、海兵隊の士官は278人、下士官は5,653人に昇った。海軍の将兵は881人、陸軍の将兵は9人が戦死した。アメリカ軍は合計6,821人が戦死した。日本軍は、陸軍兵士の12,850人と海軍兵士の7,050人が戦死し、合計で約19,900人が戦死した。

  太平洋上に浮かぶ小さな硫黄島に、1945年2月19日から3月26日にかけて、 日本軍とアメリカ軍のあいだで血みどろの戦いがくり広げられた。日本軍兵士2万933人が硫黄島を死守せんと立て籠もった。攻略するアメリカ軍は艦船800隻、航空機4000機、総兵力25万を擁して上陸作戦が開始された。日本軍はすでに8ヵ月前の1944年7月9日にサイパンを失って、1944年10月20日には、レイテ島に上陸して、日本軍の組織的抵抗は崩壊していた。




2024年11月21日木曜日

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害され斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側で、野砲隊員の死体が散乱した。

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害されて斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側に、野砲隊員の死体が散乱した。敵味方入り乱れての殺し合いは再開された。アメリカ軍は多くの死傷者を出しながらも、この二回目の強行上陸で飛行場南西端に約一個連隊の上陸に成功していた。そして夕刻までにはさらに 地歩を拡大、戦車をともなって飛行場の南東端近くまで進出してきた。日本軍の抵抗はすさまじかった。

 ペリリュー島上陸2日目の16日夜から翌17日にかけて、アメリカ軍は飛行場を含む島の南部をほぼ手中にした。両軍の損害も大きく、死傷者の続出は止まなかった。アメリカ軍に橋頭堡を築かれた後に、日本軍の損害は急カーブで上昇し始めた。状況不利と判断して9月16日午後4時30分に日本軍は「第一号反撃計画」の実行を命じられた。第二連隊本部直轄部隊として待機した第一大隊の中から斬り込み決死隊を編成した。海岸陣地で朝から激戦を交えた第二大隊の予備部隊、さらにペリリュー守備の日本軍兵士の唯一の機械化部隊である師団戦車隊を加えて反撃を開始した。

 地上戦は荒れて、アメリカ軍はウムブロゴル稜線への攻撃で多くの死傷者を出した。困難な状況と海兵隊の高い消耗率にもかかわらず、アメリカ軍の増援を受け入れることに消極的であった。同じく膠着状態Ⅱに配属された第81歩兵師団の一部は、9月17日の隣国アンガー島上陸作戦に投入された。ペリリューでの戦術的優位は鈍った。パラオ北部から散発的に増援を受けたペリリュー島北部の日本軍は、ウムルブロゴル山塊の防衛線が海兵隊に包囲されて、じわじわと減らされ、死傷者が増えた。

 ペリリュー島の戦いで、アメリカ軍の死傷者は戦死1,544人、負傷者6,843人に昇った。749人を出したのに対し、第7海兵連隊は46%の死傷者を出した。現在の戦闘力基準では「戦闘不能」とみなされる。日本軍は11,000人近くが戦死したが、捕虜になったのはペリリュー島の日本軍のごく一部である301人だけだった。






2024年11月18日月曜日

1941年6月に、ドイツ軍はクレタ島の戦いで抵抗したギリシア人を銃殺で処刑した。一斉射撃で死刑囚は即死した。武器を持たいクレタ島の民間人は戦いに身を投じた。多くのギリシャ人の民間人が戒厳令下で射殺された。

1941年6月に、ドイツ軍はクレタ島の戦いで抵抗したギリシア人を銃殺で処刑した。一斉射撃で死刑囚は即死した。武器を持たいクレタ島の民間人は戦いに身を投じた。多くのギリシャ人の民間人が戒厳令下で射殺された。クレタ島がドイツ軍に占領され、抵抗に対する報復は容赦なかった。クレタ島がドイツ軍が最初に占領した1941年6月1日から6日で200人が処刑された。

 クレタ島の戦いでの犠牲は、ギリシャ軍の死者は426人、イギリス軍の死者1,742人、戦傷者1,737人、捕虜11,835人、ドイツ軍の死者1,990人、行方不明者は1,995人に及んだ。特にドイツ空挺部隊の精鋭部隊の損失は8,000人を超えた。

 ギリシアのアルゴリスのカラッツァ村でのドイツ軍による残虐行為が1944年6月に勃発した。1944年6月4日、頭を上げて抵抗するトロイゼニア人に激怒したドイツ占領軍は、カラジャの男性全員を一斉検挙し、倉庫に閉じ込めた。翌日の6月5日、ドイツ軍は18歳から55歳までの23人を選び、ニホリ居留地のトラケイア・クラニディ道路近くにある涸れた川に連行し、処刑した。ニホリティカの基幹のクラニディ道路で、18歳のヴァシリス・ブーラスに対する拷問と殺害があり、3日間も絞首刑に処せられた。ドイツ軍の処刑は、この地域でのELASの行動に対する報復として行われた。

 ギリシアで1941年から1944年にかけてドイツ占領軍に対するレジスタンスが勃発した。当初は、ギリシャのレジスタンスはすべて同じ目的を持って一緒に始まったが、影響力を得ようとする外国勢力の介入によって次第に分裂した。それがEDES、ギリシャ軍だけでなく、EAM、ELAS、WEAPONSなどのギリシアの国家レジスタンス組織に分化した。




2024年11月15日金曜日

東プロイセンのソ連赤軍によって、ネマースドルフ村のあらゆる年齢の女性や少女が強姦され切断され殺害され、ドイツ軍はその死体を並べて検死して現場を記録した。

第二次世界大戦の東部戦線で、東プロイセンに侵攻したソ連赤軍によって、ネマースドルフ村のあらゆる年齢の女性や少女が強姦され、切断され、殺害された。ナチス・ドイツ軍は、殺害された住民の死体を並べて検死して、ソ連赤軍の戦争犯罪の記録をとった。ネンマースドルフの虐殺は、1944年10月21日に民間人集団の虐殺が勃発した。

 ソ連赤軍は東プロイセンへの最初の侵攻で、ゴルダップの北に位置したネーマンスドルフ村で戦争犯罪である大虐殺を執行した。ネンマースドルフ村を占領したソ連赤軍兵士は、1944年10月21日に、多くの住民や、特に女性や子供を発見した。その24時間後に、ネマースドルフ村はドイツ軍部隊によって奪還した。

 ドイツ軍兵士からの報告では、ネマースドルフ村は死体だらけで散乱した。農家の道の左側に立ったはしご車に、4人の裸の女性が両手を釘付けで磔にされた。アパートでは、合計72人の女性と子供、74歳の老人の1人が殺害された。数人が後頭骨を撃たれて殺害され、その中には幼児の頭蓋骨が粉々に砕けた。8歳から12歳の少女だけでなく、ほんど全ての女性の身体には強姦の跡があった。

 ナチス・ドイツ政権のヨーゼフ・ゲッべルス宣伝省大臣が、ネンマースドルフの犯罪現場に到着し、写真と動画を作成した。1944年11月2日に、ドイツの週間ニュース映画によって、東プロイセンのネンマースドルフ村の戦争犯罪を描いた。ゲッベルスのプロパガンダだけでなく、恐ろしい現実だった。非常に示唆的なプロパガンダに聞こえ、ドイツ国民にソ連赤軍に対する恐怖と憎悪を鼓舞して、さらに狂信的な抵抗を行うよう洗脳した。

 ネンマースドルフの大虐殺は、何百万人ものドイツ人女性にソ連赤軍に対する恐怖と憎悪の想像力をかき立て、一種の殺戮狂に陥った。1945年の冬から春にかけて、何千人ものドイツ人女性が、ソ連赤軍が侵攻する言葉に反応して自殺し、その多くは死ぬ前に自分の子供も殺した。



2024年11月14日木曜日

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領して、米不足がベトナムに広がった。

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領したベトナムに広がり、ますます深刻になり、米不足は田舎から都市部、さらには首都ハノイにまで広がった。多くの地域で、家族全員、近所全体、あるいは村のほぼ全体が死亡した。日本軍兵士に発されないようにヴォー・アン・ニンは、ベトナム人の餓死者をみつめ、ひそかに写真として残した

 5年にわたる日本軍のベトナム支配によっておこったもっとも大きな災難は、食料危機であった半世紀以上におよぶフランス軍の植民地支配と5年間の日本軍の占領で、ベトナムナの生産と生活は悲惨なものになっていた。とりわけ日本軍の占領政策は、ベトナムナを食料や物資の補給基地と位置づけたために、生産された米は剥奪されて、トウモロコシなどの食用作物にかわって、ジュート(袋や綱の原料で麻の一種)の栽培が強制されて、食料不足に苦悩した。

 1994年から1945年にかけてのベトナム北部一帯の冬は、特にに寒さがきびしく、ただでさえ食料難に苦しむ人びとにダブルパンチをくわえた。その結果として膨大な餓死者をだすことになった。その数は一説では200万人ともいわれている。にもかかわらず日本軍の倉庫には、米が山のように積み込まれた。

 特にベトナムでアトダウの年の旧正月(1945年2月13日)に、空腹の隣には寒冬が到来して、首都ハノイでは気温4度まで下がった。泣き叫ぶ老婦人、壁の隅に群がってマットの上に横たわる裸の子供たち、裸で道端に横たわる父親や子供たち、ねじれた死体が散乱した。犠牲者数は、ベトナムの人口1,000万人未満のうち200万人が死亡した。ベトナムの北部山岳地帯では、軍隊と大衆が拠点を攻撃して地区の占拠に対して蜂起したが、人々に配布された穀物や塩の倉庫を破壊して、兵士とゲリラのために保管された。1945年3月から7月にかけて米倉庫の破壊を、ベトミンが扇動した。人々は穀倉を自ら破壊するように促され、税金を支払わないように扇動され、米の分配を要求された。




2024年11月6日水曜日

コルスン・シェウチェンコフスキーの戦いでドイツ軍はソ連赤軍に包囲されて、1944年1月にドイツ軍の伝令が防衛線の隙間とドイツ軍兵士の戦死者の死体を縫って指揮所まで逃走した。

ドイツ軍の伝令が防衛線の隙間とドイツ軍兵士の戦死者の死体を縫って指揮所まで逃走した。1944年1月中旬以降に、ウクライナのドイツ軍戦線も崩壊した。ウクライナ地域での大失敗の前兆が、コルスン・シェウチェンコフスキー(チェルカースィ)近郊でのドイツ軍の10個師団がソ連赤軍に包囲された。1944年1月24日から2月16にかけて、コルスン・チェルカッシーの戦いで、ソ連赤軍の第1・第2ウクライナ戦線の軍団は、ドイツ軍を挟撃する攻勢で、ウクライナのキエフ南方でドイツ軍の南方軍集団の6個師団の58,000人のドイツ軍戦闘員を、コルスン・チェルカシー・ポケットで包囲して壊滅した。

 第二次世界対戦の東部戦線にて1944年1月に、ドイツ軍の南方軍集団は、ウクライナのドナイパー川沿いの防御陣地に後退した。ドイツ軍の一部は、主陣地から約100kmに及ぶ塹壕を形成した。ソ連赤軍は、ドナイパー川近くのポケットにドイツ軍を閉じ込めた。ソ連赤軍に包囲されたドイツ軍は、脱出するのに、約3分の1が損失して戦死あるいは捕虜となった。その後に、悪天候となり、地面が分厚い泥沼となり、ドイツ軍の車両が立ち往生した。

 コルスン・チェルカッシーのポケットにソ連赤軍に包囲されたドイツ軍は、当初の約58,000人の兵士のうち、約45,000人が脱走して、その内で約36,262人が脱出できた。その他約4,161人の負傷兵が航空機で避難できて、合計約40,423人が脱出できた。ドイツ軍は約19,000人を損失して、ソ連赤軍の損失はドイツ軍を上回って約3週間の戦闘で合計80,188人の死傷者を伴った。




2024年11月5日火曜日

第二次世界大戦中の冬戦争にて、フィンランド軍によるスオムッサルミの戦いの後に、1940年1月20日にソ連赤軍の44師団のロシア人兵士の凍死体が雪道の路傍に横たわった。

第二次世界大戦中のフィンランド、スオムッサルミの戦いの後に、1940年1月20日にソ連赤軍の44師団のロシア人兵士の凍死体が雪道の路傍に横たわった。冬戦争の中で、スオムサルミの戦いはフィンランド軍とソ連軍の間で勃発した。スオムサルミの戦いは1939年11月30日から1940年1月8日まで行われた。厳寒で、優勢なソ連軍の戦力に対するフィンランド軍の勝利となった。スオムサルミの戦いの犠牲は、ソ連軍兵士は35,000人のうち戦死は30,0003人以上、捕虜は2000人である。フィンランド軍は死傷者または行方不明者2000で、フィンランド軍兵士は死傷者または行方不明者は約2,000人となった。 

 ソ連赤軍の第153師団がラドガ湖北部を攻撃するのに唯一の通過経路がスオムッサルミ村にあった。スオムッサルミ村で、ソ連赤軍は、小規模なフィンランド軍の反撃に完全に不意を突かれた。村から追放されたソ連軍は、相当な覚悟と勇気で3日間のフィンランド軍の度重なる攻撃に耐え抜いたが、結局、戦意を失って大量の兵士が退散してしまった。

 フィンランド軍の砲撃と爆撃は、湖の氷を粉砕し、その上を横切って逃走するソ連軍兵士たちを大量に溺死させた。フィンランド軍は、ソ連軍第44師団を道で待ち伏せをした。-43℃の猛烈な寒さで、ソ連赤軍の銃でさえも凍りつき、装備不充分となった。ふたたびソ連軍は無謀で無器用な戦いをして、壊滅した。スオムサルミの戦いは、フィンランド軍にとって偶然のい勝利となり、戦況には影響を及ぼさなかった。

 冬戦争は、ソ連軍とフィンランド軍との間の戦争である。第二次世界大戦勃発の3ヵ月後の1939年11月30日から、ソ連軍のフィンランド侵攻が勃発して、3ヵ月半後の1940年3月13日にモスクワ講和条約で終結した。冬戦争はソ連軍の能力に対する誤った印象をもたらし、ナチス・ドイツのソ連に対する攻撃を増長させる結果となった。 





2024年11月4日月曜日

カティンの森の集団墓地からソ連赤軍により虐殺されたポーランド軍将校の死体が掘り出された。ソ連西部のスモレンスク近郊のカティンの森の集団墓地に、死体を積み上げた。

カティンの森の集団墓地からソ連赤軍により虐殺されたポーランド軍将校の死体が掘り出された。ポーランド軍の代表団が証人としてドイツ軍のプロパガンダの作戦に立ち会った。ソ連西部のスモレンスク近郊のカティンの森の集団墓地に、死体が積み上げられた。

 ドイツ軍が1943年4月13日にカティンの森に8つの大規模の集団墓地を発見して、ソ連赤軍の虐殺を非難した。カティン近郊でポーランド軍将校の約4,000人の遺骨を含む死体が集団墓地から発見された。ドイツ軍が招集した国際赤十字の調査委員会は、犠牲者はドイツ軍の弾薬で処理されたが、虐殺による殺人はドイツ軍がカティンの森の地域に進駐する前の1940年初頭に行われたことを立証した。ロンドンを拠点にしたポーランド亡命政府は以前から、ソ連政府に対して、ナチス・ドイツに連行された捕虜に何が起こったのかを報告するように要求していた。 

 1939年にソ連赤軍がポーランド東部から連行したポーランド人捕虜は、将校が約8,000人、警察官が約6,000人、その他に約8,000人の知識人であった。ソ連秘密警察(NKVD)が、1940年4月と5月にポーランド人捕虜を殺害した。NKVDによる処刑は夜間から夜明けのみ、厳重に秘密裏に行われた。囚人たちは地下室に連行され、孤独な無音の部屋で、抵抗する者は縛られて、後頭部に銃弾を撃ち込まれて殺害された。

 熾烈な論争が起こり、ソ連とポーランド亡命政府の関係は決裂した。スターリンは、モスクワにポーランド民族委員会を設立し、その協力でポーランド軍の設立を決定した。ナチスのプロパガンダはカティンの森の虐殺を利用して、ソ連の捕虜の運命を非難した。1992年になって、ロシア政府は、ソ連の政治局とNKVDが虐殺と隠蔽に責任があったことを証明する文書を公開した。約2万人以上の犠牲者がいた可能性を示唆した。2010年11月に、ロシア連邦議会の下院は、ヨーゼフ・スターリンと他のソ連指導者がカティンの森のポーランド将校等の処刑を命じた責任があると公式に宣言した。




2024年11月1日金曜日

1945年2月19日、第二次世界大戦中の太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍の砲火に倒れた2人のアメリカ軍海兵隊員が、最初の犠牲者となり倒れたまま死体となつた。















1945年2月19日、第二次世界大戦中の太平洋戦争の硫黄島の戦いで、アメリカ軍が日本の火山島である硫黄島の攻略を開始した際、最初の犠牲者となった日本軍の砲火に倒れた2人のアメリカ軍海兵隊員が、硫黄島で倒れたまま死体となつた。1945年3月30日に、アメリカ軍海兵隊員たちが、日本の硫黄島の戦いで戦死したアメリカ人の仲間のために、第三海兵師団と第四海兵師団の墓地で、共同墓地の準備をした。アメリカ軍海兵隊員は硫黄島の第5海兵師団墓地で、アメリカ軍兵士の死体を埋葬するために墓穴を掘った。

 日本軍兵士は死闘を繰り広げたが、アメリカ軍海兵隊は、硫黄島の戦いでで最も血なまぐさい戦いの一つで、1945年3月26日に最終的に全島を確保した。上陸した74,000人のアメリカ軍海兵隊のうち、3分の1以上が死傷した。2月19日から3月26日までに、約6,800人のアメリカ軍兵士の戦死に加えて、約20,000人近い日本軍兵士が戦死した。

 3月26日に硫黄島の安全が宣言されるまでに約1ヶ月以上続いた戦闘で、約6,800人近くのアメリカ人が死亡して、硫黄島で戦っていた日本軍兵士は事実上全滅した。アメリカ人死者は硫黄島に仮埋葬されるか、沖合の船に移された。死体の所在が確認されたアメリカ軍戦死者は、最終的にはアメリカに全員送還された。

 日本軍兵士は、恐ろしい硫黄島の戦いで約22,000人以上の日本軍兵士が戦死し、そのうち約12,000人は身元が確認されず、回収もされなかった。日本軍の一部は地下の洞窟に閉じ込められ、アメリカ軍工兵が土嚢爆弾で入り口を封鎖したり、戦車や火炎放射器で火を噴き、居住者を焼き殺したり、酸素を奪ったりしたため、洞窟は墓場となった。硫黄島の戦いの後に、何千もの日本人の死体は、アメリカ軍によって集団埋葬地として地図にだけ記された集団墓地に埋葬された。




2024年10月25日金曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、1944年7月24日にソ連軍がマジャダネク強制収容所を解放した。その後に、ポーランドのルブリンにあるマジャダネク強制収容所の敷地には、死亡した人間の人骨と頭蓋骨が散乱していた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、1944年7月24日にソ連軍によりマジャダネク強制収容所が解放された。その後に、ポーランドのルブリンにあるマジャダネク強制収容所の敷地には、死亡した人間の人骨と頭蓋骨が散乱していた。アウシュビッツに次いでポーランドで2番目に大きな死の収容所となった

 ナチス・ドイツの親衛隊は1944年春に、ほとんどの囚人をさらにマジャダネクから西の強制収容所に避難させた。1944年7月下旬に、ソ連軍がルブリンに近づくと、残っていた収容所のドイツ人職員は、収容所を完全に解体することなく、至急にマジャダネクを放棄した。ソ連軍は7月22日から7月23日の夜に初めてマジャダネクに到着して、7月24日にルブリンを占領した。ほぼ無傷で捕獲されたマジュダネクは、解放された最初の主要な強制収容所であった。ソ連当局はジャーナリストを招いて、収容所と恐怖の証拠を視察させた。

 ドイツ占領下のポーランド、ルブリン郊外にあったマジュダネク強制収容所では、ヨーロッパ各地から約8万人の囚人が死亡した。収容されたユダヤ人、ロマ人、シンティ人、同性愛者、身体障害者、反対運動家はガス室で殺害された。その他に銃殺、殴打、火刑、飢餓、労役で死亡した。ソ連軍は1944年7月7月24日に、現在のウクライナとベラルーシの国境の近隣にあった収容所を解放した。その4年間で、50万人近くの囚人が収容所に入った。 推定36万人がそこで、飢餓、病気、銃殺、ガス室で死亡したと推定された。2005年には、78,000人の犠牲者(そのうち59,000人はユダヤ人)という公式に推定された。





2024年10月23日水曜日

太平洋戦争末期の沖縄戦にて戦死した日本兵士の死体は、弔う者もなく、そのまま埋葬もされずに放置されていた。沖縄戦の戦闘は激しく、通常は至近距離で行われた。

太平洋戦争末期の沖縄戦にて戦死した日本兵士の死体は、弔う者もなく、そのまま埋葬もされずに放置されていた。(アメリカ軍通信部隊, 米国国立公文書館、NARA-2)アメリカ軍と日本軍の一進一退の砲撃戦は、昼夜を問わず沖縄を揺るがした。アメリカ第10軍は戦闘中に110万発の105ミリ榴弾砲を発射し、戦争中には最大規模の砲撃を行った。沖縄戦の戦闘は激しく、通常は至近距離で行われた。アメリカ軍と日本軍は多くの丘の斜面で交戦し、洞窟、塹壕、壕、ピルボックスなどで対戦した。アメリカ軍は1945年4月1日から6月22日まで、日本本土からわずか約550kmしか離れていない琉球諸島の約1660平方kmを支配するため、沖縄戦で情け容赦ない戦闘を繰り広げた。

 1945年4月1日、米第10軍が沖縄に侵攻して、太平洋戦争の最後の水陸両用上陸作戦が行われた。アメリカ陸軍4個師団とアメリカ海兵隊3個師団からなるアメリカ第10軍は、日本本土への侵攻に備えて、沖縄本島を占領するため、アイスバーグ作戦を実行した。アメリカ軍の兵士と海兵隊員は82日間戦闘をして、大日本帝国軍と戦いながら、途上にて欧州戦線の終結した1945年5月8日の欧州戦勝記念日(VEデイ)を知った。アメリカ軍は1945年6月22日に、ついに沖縄を占領して、ほとんどの日本軍の抵抗勢力を壊滅した。

 沖縄戦は、太平洋戦争で最も激しい戦闘の一つであった。沖縄戦は英語では "typhoon of steel"(鋼鉄の台風)、日本語では"tetsu no ame(鋼鉄の雨)"または"tetsu no bōfū(鋼鉄の暴風)と呼称された。ニックネームは、戦闘の激しさ、日本軍の神風攻撃の激しさ、沖縄島を襲撃した膨大な連合軍の艦船や装甲車を象徴した。

 沖縄戦は、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いの一つで、連合軍5万人以上、日本軍8万4166~11万7000人以上、日本の軍服を着た徴兵防衛隊員を含む約16万人の死傷者を出した。沖縄戦にて、アメリカ軍兵士が7,374人が戦死して、約31,807人が戦傷した。約149,425人の沖縄県民が死亡、自決、行方不明となり、沖縄戦の戦前の推定人口300,000人のおよそ半分を占めた。沖縄戦争の日本人の戦没者数は、日本軍兵士は94,208人、沖縄県民は約94,000人とアメリカ軍は約12,520人と推定された。




2024年10月21日月曜日

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。

ファシストによりイタリアを戦争に引きこんだベニート・ムッソリーニの脳味噌が、1945年4月30日にミラノ中心部のきたないロレート広場の汚泥の上に流れ出た。午後にアメリカ軍は死体を撤去して、銃弾の跡だらけのムッソリーニ等のひどく損傷した死体をミラノの死体安置所に運ぶように命じた。アメリカ軍は、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチの死体を互いに並ばせて、不気味なポーズをとらせて撮影した。

 第二次世界大戦にて連合国軍は北アフリカで勝利した後に、1943年夏にシチリア島へ上陸した。イタリア半島を首都ローマへ向かって攻めのぼった。1944年6月5日に首都ローマを解放した。1922年以来に絶対的権力を握ってきたイタリア・ファシスト党の独裁者ベニート・ムッソリーニは、シチリア陥落後政権の座を追われて監禁された。

 1943年後半に、ナチス・ドイツ軍の降下部隊が、アペニン山脈のスキー場に幽閉されたムッソリーニの救出に成功した。ムッソリーニはイタリア全土の権力者に再びに返り咲けなかった。当時イタリア政権はすでに方針を転換して、連合国側で戦っていた。ムッソリーニはヒトラーに命令のままに、北イタリアにイタリア社会共和国を樹立して傀儡の元首におさまった。

 1945年に第二次世界大戦の戦況が、ナチス・ドイツ軍は著しく戦況が不利になるにつれ、ムッソリーニを支える余力はなかった。1945年の4月末に、ムッソリーニの一行はミラノの拠点を脱出した後に、反ファシストのパルチザンがムッソリーニーを追った。極右の指導者たちに対して長年の戦争犯罪を償わせる指令が出された。1945年4月27日にスイス国境近くのコモ湖畔の路上で、ムッソリーニと愛人クラ・レッタペタッチはともにパルチザンに捕まった。翌日の4月28日午後でヒトラーが自殺する2日前に、2人は略式裁判により機関銃で銃殺された。ミラノのロレート広場に運ばれたムッソリーニとペタッチと、14人のファシストの死体は、群衆の暴徒により文字どおり殴る蹴るの暴行を加えられた後に、ロレート広場のガソリンスタンドで逆さ吊りにされた。それは、ナチス・ドイツの親衛隊によりファシストが、8月前に15人のパルチザンを処刑して死体を公開したロレート広場であった。




2024年10月18日金曜日

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計であり53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。

ドイツのライプツィヒの副市長兼市会計である53歳の夫のエルンスト・クルト・リッソが机で、50歳の妻のレナーテ・ステファニーと20歳の娘のエバートが1945年4月18日に執務室で自殺した。リッソは机で、レナーテとエバートはソファーで毒薬の青酸カリを服用して自殺した。アメリカ軍兵士による捕縛を避けるため、ライプツィヒ新市庁舎で青酸カリによる自殺を遂げた。リッソは、ドイツ赤十字の腕章をつけた。死の写真に、妻のレナーテ・リッソは夫の向かって座り、赤十字の腕章をつけた娘のレジーナがベンチに座っていた。

 アメリカ軍は1945年4月18日にラートハウスを突破して、4月19日朝から攻撃を開始した。 アメリカ軍の戦車は7時30分から9時10分までラートハウスに向けて砲撃を行って、捕虜となったドイツ軍将校が降伏の最後通牒を持ち込んだ。別の部屋で青酸カリで自殺した市長アルフレッド・フライベルクとその妻、娘、前市長でフォルクススツルム大隊長のクルト・ヴァルター・デニッケとその将校数名も新市庁舎で発見された。アメリカ軍はドイツ軍少将1名、下士官175名、ゲシュタポ13名を捕らえた。アメリカ国旗は正午頃に、ラートハウスに掲げられた。リッソの自殺の現場は、ロバート・キャパ、マーガレット・バーク=ホワイト、リー・ミラー、アメリカ陸軍信号隊によって特に広範囲に撮影された。

  ソ連赤軍と西側連合軍がベルリンに迫ってくると、自殺者が増えた。1945年春に、何千人ものドイツ人が、占領や勝者による虐待に避けて自殺した。 ベルリンの戦いでは4月中に約3,881人が自殺したと記録された。動機は「ロシア軍の侵攻への恐怖」だけでなく、連合軍によって解放された地域でも自殺は起きた。アメリカ群は、1945年7月にソ連軍との国境線から占領区域の境界まで撤退した。ライプツィヒはソ連赤軍に引き渡された。ライプツィヒは東ドイツ(ドイツ民主共和国)の主要都市の一つとなった。




2024年10月14日月曜日

1941年12月5日のソ連軍のジューコフ総司令官の反攻は、ドイツ軍に大打撃を与えた。1941年から1942年の凍てつく寒さと降雪で冬戦争における戦闘地域に死体が散乱した。

ドイツ軍の装備の不備と冬服の不足は、最終的にモスクワの戦いは、ドイツ軍にとって致命的となった。 1941年12月5日のソ連軍のジューコフ総司令官の反攻は、ドイツ軍に大打撃を与えた。1941年から1942年の冬戦争における戦闘地域に死体が散乱した。1941年12月に、凍てつく寒さと降雪でドイツ軍兵士は撤退を余儀なくされた。 

 1941年6月22日にソビエト連邦に侵攻した。ヒトラーは1941年10月にドイツ軍にモスクワへの進撃を命じた。10月7日に初雪が降り、すぐに溶けて道路や空き地が泥沼と化した。泥沼の戦いの後に、厳しい霜がさらなる前進を阻止した。10月15日の夜に、ドイツ軍はモスクワの主要な防衛線を突破した。10月20日にソ連軍の前線を粉砕した。1941年11月には、零下40度にもなる恐ろしいロシアの冬が始まった。冬の戦いにまったく適応していないドイツ軍は、凍傷による大きな損失を被った。極東から投入されたソ連軍の反撃にも苦しめられた。ドイツ軍の攻撃力は、首都モスクワから35~40kmの地点でついに崩壊した。モスクワのドイツ軍戦線は、北部および南部においても撤退を余儀なくされた。1941年12月19日にヒトラーはドイツ軍のブラウヒッチュ将軍を解任して、国防軍を個人的に指揮した。

 ロシアでの戦いでは、双方にとってこれまでにないほどの残酷さで遂行された。多くのロシア人捕虜が輸送中に死亡した。ヒトラーは、とりわけ、ロシアの各部隊に必ず存在する共産主義の政治委員をその場で射殺するように命令した。占領地域では、ドイツの文民当局がロシア人をひどく扱った。1942年1月にドイツ国防軍の公式死傷者日報によると、1941年10月1日から1942年1月10日までの間に、ドイツ中央軍全体の戦死者35,757人、負傷者128,716人、行方不明者9,721人となっている。1941年10月から1942年1月までのソ連軍の死傷者数は653,924人としている。




2024年10月9日水曜日

第二次世界大戦の太平洋戦争で、東京大空襲に出動した警防団員が、死亡した東京都民をトラックに収容し公園に集めて仮埋葬した。

第二次世界大戦の太平洋戦争にて、出動した警防団員が東京大空襲にて死亡した東京都民をトラックに収容して仮埋葬した(内外タイムス社の提供写真)。死体の収容と仮埋葬には、各区から人数割りで出勤を命じられた警防団員が当たった。まず死体をトラックに収容して、猿江公園や隅田公園の浅草側と本所側や錦糸公園に集めて、人名住所が明らかと不明者を区別した。近親の捜索に応じて、2から3日後に仮埋葬を行った。日本国民の士気に関わる死体は、早急に路上から人目に触れないように仮埋葬した死体数は、大体しか判明しなかった。

 1944年11月より開始されたアメリカ軍による東京空襲は、最初はその希望が小さかったために、被害は爆弾透過した際に死傷者を出した以外は、焼夷弾による被災者は出ても死者はあまり出なかった。1944年末から焼夷弾による火災地区が増大して、火災による死者が出るようになった。

 死体の収容の問題があったが、最も大規模で悲惨となったのは、1945年3月9日夜から3月10日にかけた東京大空襲であった。江東区から浅草、日本橋の隅田川近くの一帯に膨大な死者が発生した。東京都民には、火災した自宅に留まって防火して、家財を捨てて逃避はあまりしなかた。じゅうたん爆弾が、隅田川をはさんだ下町の一帯は火の海と化し、防火していた多くの東京市民は、殆ど煙にまかれて焼死や窒息した。白髭橋から吾妻橋にかけて道路から川辺に死体があふれて、両隅田公園や明治座に死体が散乱した。






2024年10月4日金曜日

ソ連軍兵士らや市民らが、白ロシア共和国であったベラルーシのモギレフの街の白兵戦で死亡した第27歩兵連隊第1大隊の3人のドイツ軍兵士の死体を横目に無視して通り過ぎた。

ソ連軍兵士たちや市民らが、白ロシア共和国であったベラルーシのモギレフの街角での白兵戦で死亡した第27歩兵連隊第1大隊の3人のドイツ軍兵士の死体を横目に無視して通り過ぎた。この都市は、1944年6月28日にI.D.チェルニアホフスキー少将が率いる第2白ロシア戦線によって解放された。ドイツ軍の第4軍の一部である第39軍団が防御するモギリョフ市は、ソ連軍の大規模な夏季攻勢である「バグラチオン作戦」によって圧倒された。ドイツ軍の中央軍集団は、この作戦で30個師団以上を失い、第二次世界大戦におけるドイツ軍最大の敗北となった。

 モギレフは、ひどく破壊され、すべてが死滅した。主要な通りにはドイツ軍兵士の死体が溢れた。パニックに陥ったドイツ軍兵士たちは、目の前を通り過ぎて後退した。救急車から、ドイツ軍の負傷者の叫び声やうめき声が発した。道路沿いの都市の廃墟で、道路に死体が散乱して、踏みつけられ、絶望的な叫び声が聞こえた。ヒトラーはモギレフを最後の一人まで守り抜くよう命じていた。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、ソ連赤軍のモギレフ攻勢はベラルーシ戦略攻勢の一環であり、バグラチオン作戦と呼称された。ベラルーシのモギレフの都市を占領して、ドイツ第4軍の大部分を圧倒した。モギレフ攻勢は6月23日朝に、ソ連赤軍によるドイツ軍の防衛線に対する激しい砲撃で勃発した。バグラチオン作戦は、1944年にソ連のベラルーシ戦略攻勢作戦のコードネームである。1944年6月22日から8月19日にかけて勃発した。第二次世界大戦の東部戦線のバグラチオン作戦が、西部戦線のノルマンディ上陸作戦から2週間余り後に、ドイツ軍は開戦以来初めて2つの主要戦線を同時に遭遇した。ソ連赤軍はドイツ陸軍集団中央の34個師団のうち28個師団を破壊して、ドイツ軍の前線を完全に粉砕した。全体的な交戦はドイツ軍史上最大の敗北であり、約45万人のドイツ軍死傷者を出した。一方、他の30万のドイツ軍兵はクールランド・ポケットで断絶した。

 1944年6月22日、ソ連赤軍はベラルーシのドイツ陸軍集団中央を攻撃し、その主要構成軍を包囲して破壊して、6月28日までに、ドイツ軍の第4軍は、第3パンツァーと第9軍の大部分とともに崩壊した。ソ連赤軍はドイツ軍前線の崩壊から、ミンスク近辺のドイツ軍陣形をミンスク攻勢で包囲して、ミンスクは7月4日に解放された。ベラルーシにおけるドイツ軍の有効な抵抗が終結して、ソ連赤軍の攻勢は7月から8月にかけてリトアニア、ポーランド、ルーマニアへと続いた。




2024年10月2日水曜日

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るして公開した。共産党ゲリラの死体の周りに無言の群衆が集まっていた。

中国国民党の保安隊は、1948年2月に中国共産党のゲリラ指導者である42歳の丁西山の首を城壁に吊るす準備をした。保安隊はゲリラのリーダーであった丁西山の首を切り落として、城壁に吊るして公開した。丁西山など共産党ゲリラの死体の周りには無言の群衆が集まっていた。共産ゲリラ部隊の一部が捕らえられて銃殺されて、死体が上海の城壁の外の川の浜辺に公開された。国民党による中国共産党員の処刑を撮影した写真である。

 1948年2月13日に中国人民解放軍は、蘇州・浙江国境地帯のゲリラ隊長の丁西山が60人以上のゲリラを率いて南下した。上海市奉賢県前橋の胡佳ドックに到達した時に、裏切り者の密告により国民党軍に包囲された。丁西山大尉が率いる共産党率いるゲリラ部隊は、上海の松江県庁所在地への武力攻撃に失敗した。ゲリラは捕らえられて、主要メンバーは松江駐屯の保安隊によって死刑で殺害された。リーダーの丁西山は公衆の面前で斬首されて、頭部は城壁に吊るされて公開された。上海解放後に、丁西山の遺骨は上海龍華烈士墓地に埋葬された。

 1927年に、中国国民党の蒋介石は党内掃討の名目でクーデターを起こして、共産党員を追い詰めて殺害し始めた。1940年7月15日には日本軍の傀儡の王景偉政権がクーデターを起こし、共産党との協力体制は完全に崩壊して、両者の長い内戦が始まった。1945年の日本軍に対する抵抗戦争終結後に、中国共産党と再び内戦状態に陥った。相互の敵対期間中に、国民党は何度も中国共産党員を逮捕し、公開処刑して殺害した。中国内戦の中国共産党革命で国民党に勝利した中国人民共和国の毛沢東は1949年10月1日、正式に中華人民共和国を宣言した。




2024年10月1日火曜日

ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。

ドイツ軍は、ソ連のピャチゴルスクで約200人のソ連軍の捕虜を射殺した。ドイツ軍は通常に、親族が死体を埋葬に来るようにと、それまでソ連軍の捕虜の死体を寝かせたままにした。ドイツ軍は、ソ連軍がピャチゴルスクに接近した時に、ドイツ軍はドイツに避難させるという口実で捕虜にした数百人のソ連軍兵士や指揮官、民間人を街の外に連れ出して、機関銃で射殺した。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年8月9日にドイツ軍は、ロシア南部の北コーカサス地方に位置するピャチゴルスクを占領した。アインザッツグルッペ Dの本部は1942年にピャチゴルスクにあった。ドイツ軍の占領はこの地域の多くのユダヤ人住民の殺害をもたらした。1943年1月11日にソ連軍が、ピャチゴルスクを解放した。

 1942年8月9日、ドイツ軍の第一パンツァー軍は2週間足らずで480km以上侵攻して、コーカサス山脈のふもとのマイコップに到達した。マイコップ近郊の西部油田は8月8日から9日にかけてのコマンド作戦で占領された。ソ連赤軍は、油田を十分に破壊して、修復には約1年を要した。その直後の8月9日に、ピャチゴルスクが占領された。8月12日にはクラスノダールが占領され、ドイツ軍の山岳部隊がコーカサスの最高峰エルブルス山にナチスの旗を掲げた。

 1942年7月末に、ドイツ軍の夏の攻勢の間に、第3軍がドン河下流から南、南東へと侵攻した。第1パンツァー軍がロストフ南方のマイコップまで侵攻する一方で、第4軍と第17軍はピャチゴルスクまで侵攻して、コーカサスまで達した。1942年12月の時点で、ドイツ軍は征服された領土と通行不可能な山岳地帯から撤退した。約13万人のドイツ軍兵と約34万人以上のソ連軍兵士とソ連市民が、恐ろしい攻撃の犠牲になった。行方不明の兵士の多くは、コーカサス山脈での行軍や戦闘で戦死した。




2024年9月27日金曜日

1945年3月10日に、アメリカ軍の空襲により火災で死亡した一般市民の膨大な黒焦げの焼死体が、浅草の花川戸の道路上や避難所や壕の中に取り残された。

1945年3月10日に、アメリカ軍の空襲により火災で死亡した一般市民の膨大な黒焦げの焼死体が、浅草の花川戸の道路上や避難所や壕の中に取り残された。

 約6,019kmの航続距離がのB-29爆撃機が、日本軍の防御が弱い高度約9km以上の高空から東京空襲した。サイパン島とテニアン島に飛行場からB-29が日本への爆撃が可能となった。爆撃範囲を広げ、被害を拡大する爆撃機が約1,400~2,400mを飛行し、焼夷弾を投下して木造・紙造りの建物を燃やした。暗闇の至る所で、夜空高く炎を掲げ、地に舞い降りる閃光が走った。爆撃開始から15分後に、火の手が日本の木造都市の密集地帯を炎上した。

 東京の住民たちは、爆弾が投下されても留まり、各家庭が防御する命令に従った。火風が吹き荒れる中、数千発の爆弾が降り注いだ。ナパーム弾は、爆弾が落下する中、円筒形まき散らし、屋根を伝って落ち、すべて燃やし、踊る炎の波を拡大した。人々を倒し、触れたものを燃やしていった。悲鳴を上げる家族が逃げ出すも、すでに手遅れだった。

 煙が濃く立ち込め、風が熱風が肺を焼く中、もがき苦しみ、炎に包まれ、焼死した。荷物を抱えた避難民は、交差点や庭、公園など数少ない空地に集合した。荷物は衣類よりも早く燃え上がり、群衆は内側から炎に包まれた。数百人が脱出を諦め、避難の穴の中で焼け焦げて、死体は空襲後に発見された。家屋は頭上で崩れ落ちて燃え上がり、穴の中で焼死した。河川では、水の中に身を投げた。風と火は、至る所で巨大な白熱渦が、渦を巻いて、家屋全体を火の渦に吸い込んだ。溺死ではなく、燃える空気と煙で窒息死した。河川は隅田川に直接流れ込んで、潮位が上昇して、身を寄せ合って溺れ死んだ。浅草や本所では、橋から川に落ちて流れた。隅田川の両岸に並ぶ公園や庭園には数千人が押し寄せた。

 東京の狭い土地に押し寄せて、壁が崩れ落ち、深い水中に消えた。隅田川の河口から数千人の溺死体が回収された。第二次世界大戦で最大の被害をもたらしたこの空襲では、330機のB-29爆撃機が東京に焼夷弾を投下し、火災が発生して、10万人以上が死亡し、市街地の4分の1が焼け野原となり、100万人が家を失った。戦略爆撃調査団は、空襲による死者は8万7793人、負傷者は4万918人、家を失った人は100万8005人に上ると推定した。死者数は男女や子供を含め10万人以上と推定し、負傷者は100万人、家を失った人は100万人に上ると述べた。東京消防庁は死者9万7000人、負傷者12万5000人と推定した。東京警察は死者と負傷者を合わせて12万4711人、建物と家屋の損壊は28万6358棟と発表した。




2024年9月19日木曜日

アメリカ軍の従軍記者で、1944年度のピューリッツア賞の受賞者であるアーニー・パイルは、1945年4月18日に、沖縄戦の伊江島で日本軍兵に狙撃されて戦死した。

アメリカ軍の従軍記者のアーニー・パイルは、1945年4月18日に、沖縄の伊江島で日本軍兵に狙撃されて戦死した。アーニー・パイルは、伊江島での他の戦死者に混じって、アメリカ軍の歩兵二等兵と戦闘工兵の間にヘルメットをかぶって埋葬された。

 アメリカ軍のアーニー・パイルは、1945年4月17日にアメリカ陸軍第305歩兵部隊とともに沖縄の伊江島に上陸した。パイルは、第77歩兵師団歩兵第305連隊とともに、沖縄本島の北西にある小さな伊江島に上陸した。連合軍は伊江島を捕捉したが、まだ完全に日本軍兵士を排除していなかった。4月18日になって、現地の敵対勢力であった日本軍を無力化していた。パイルは、ジョセフ・B・クーリッジ中佐とジープで伊江島を移動していた。パイルは305部隊の指揮官であるクーリッジ中佐と3人の将校とともに、クーリッジの新しい司令部に向かってジープで移動していた。

 伊江村の近くで前方の交通を避けるためにジープが減速したとき、3分の1マイルほど離れたサンゴの尾根に隠れていた日本軍兵士が南部機関銃で発砲した。炸裂弾が頭上から道路を直撃して、彼らははすぐに近くの溝に隠れた。少し経過して、パイルとクーリッジは辺りを見回すために立ち上がった。日本軍兵士がまた発砲して、銃弾をかわしたクーリッジが振り返ると、パイルが倒れていた。銃弾がパイルの左のこめかみを直撃した。クーリッジは、従軍記者のアーニー・パイルを見ると被弾して死亡していた。

 1944年6月6日はDデー(攻撃開始日)に、連合軍の「史上最大の作戦」によるフランスのノルマンディー上陸が開始された。上陸の初日は、僅かな地域しか占領できず、全域を制圧するには20日を要した。ノルマンディ上陸作戦はおおむね達成したものの、犠牲となった兵士も多い。従軍記者アー二ー・パイル(1900-1945)は、Dデイ艦隊に乗船し、部隊に続いて直後に上陸した。彼は爆撃を受けて負傷して、あやうく死からのがれられた。この際の記事で、アニー・パイルは1944年度のピューリッツア賞を受賞した。