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2018年9月29日土曜日

カリフォルニア州ブロデリックにおいて、無職の父親と子供兄弟は一緒にホームレスで飢えた困窮の生活に陥った

カリフォルニア州ブロデリックにおいて、1989年にマーレイ家は、無職の父親と子供兄弟は一緒にテントで飢えた困窮のホームレスに陥った。アメリカ合衆国では、果てしない貧困と戦う貧困戦争が頻発している。普通の市民も、アメリカの過去の繁栄から坂を転げる落ちるように、ワーキングプアやホームレスに転落した。貧困戦争により弱肉強食の社会になり、強者に甘く弱者に厳しい格差社会が到来した。どん底の生活で生存しているアメリカ人もまぎれもなくいる。脱工業化時代となったアメリカでは、アメリカ工業時代の普通の市民が犠牲者となった。1960年代には世界で最も豊かな国であったアメリカでも限られた分野に貧困は存在した。特定の地域的に集中した貧困地区を撲滅する諸活動を貧困戦争とした。
  1984年12月5日に、カリフォルニア州サンタバーバラでは、ホームレスで35歳のケネス・パーが虐殺された。その周辺には、高級住宅街・ホームレスの殺人・警察の暴力・自衛団などが混在した。生活の基盤を失った息子らを、貧困徴兵に応じて一兵卒として戦場に駆り出している。長いあいだ貧困に苦しむ普通の市民層は救われず途方に暮れていた。貧困と戦争は切っても切れない関係がある。戦争の根底には貧困問題が潜在している。貧困と汚職が戦争に駆り立てていると「戦争の代償(The Cost of War)」を2009年11月18日に公表された。アフガニスタン戦争の主な要因として70%が「失業」と「貧困」を挙げ、48%が「汚職」と「機能していない政府」と回答した。アメリカ合衆国には、1960年以降に生まれた男子は18歳の誕生日を迎える30日以内に兵役登録の責務がある。



2018年9月24日月曜日

南北戦争の南軍兵士の死体を葬儀するため、1864年にスポットシルベニア郡に集積した。

南北戦争において死んだ南軍の兵士の死体を葬儀するために、1864年5月にバージニア州北東部のスポットシルベニア郡に集積した。
 150人以上の兵士の死体は、整頓するよりもむしろ投げつけて集積することが多った。腐った死体が破裂した悪臭が消滅するまで、致し方なく埋葬の担当者は他の場所で働かされた。南軍兵士たちは銃をならびに、死体の下肢と上肢をまっすぐに伸ばして、できるだけ多くの穴の中埋め込むように踏みつけた。時には、担当者が自力で押し付けて、大量の死体を埋葬することが必要になった。コネチカット州の牧師は戦争の最後の日に約23人関係者が虐殺された絶望的な場面に遭遇した。短期間の滞在でできることは、死者を共通の墓に急いで埋葬することであった。長い道のりを歩いて行こうとすると、役人たちが、近くにいる人々を徴兵していた。それを避けるために、明らかに自らの居住者の名前を抹消した。1862年9月17日のアンティタームの戦いで、虐殺して塹壕に埋葬された「80人の反逆者」を示す簡易な木製の標識つけた。通例では、北軍と南軍の兵士は別々に埋葬をした。軍事病院の戦死者を無差別に埋葬したことが発見された。自らの死亡した勇敢な兵士の墓と、無価値な侵略者の土壌の墓を区別しないと牧師は表明した。兵士の頭を地面に覆うために、金を得るだけの気遣いをしている葬儀屋が原因であると思えて、病院墓地の別々の墓地に埋葬して、南軍と北軍の死体は死体は分離した。疲れた兵士らは、自然の塹壕と既存の斜面を利用した。 2回目のブルランの戦いの後、鉄道発掘で作られた尾根の横に約85人の死者が埋葬された。その後に塹壕を平坦化する埋葬方法で覆った。バージニの戦闘では、死者を1863年の春に、兵士を道路の両側にある深い溝の下に落として、その上を土砂で覆うために掘った。



2018年9月14日金曜日

ハンガリー国境警備隊が、非武装市民に対する一斉射撃により約100人以上の死亡が特定された。

ハンガリ動乱は、1956年10月23日にハンガリーの市民が政府に対して蜂起した。対抗したソビエト戦車がハンガリーの秘密警察機関である国家保衛庁(ÁVH)の軍隊とともに、共産主義政権の保持の象徴に変わった。15歳あるいは16歳のハンガリー人青年が、首都ブタペストのヴァーツイ通りにバリケードを路上から裂けて舗装された石で交差点に構築した。舗石のバリケードの後ろから反抗して、体制、赤い星、星の紋章が公共の建物から取り除いた。革命は全国的に広がり始めた。ハンガリー北西部モションマジャローヴァールの国境警備隊の兵士たちが、1956年10月26日に非武装市民のデモ隊に発砲した。一斉射撃により約100人以上の犠牲者が特定された。家々には、革命の象徴である中央に穴が開いた国旗と倒れた人を記念する黒旗が掲げた。
   ハンガリー動乱は、1956年にソビエト連邦の権威と支配に対抗する民衆により勃発した。多くの政府関連施設や区域を占拠した。市民らは、守備隊、警察本部、製造工場を攻撃して武器を押収した。ハンガリー軍兵士の一部が武器を市民に渡したり、デモ参加者に加った。10月25日に、ÁVH部隊とソビエト軍隊が非武装の市民に弾丸を発砲して、約50人以上が死亡した。さらに対抗するソ連軍は11月4日から大規模な軍事力で侵略した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命して、ハンガリー人による改革を止めた。蜂起は直ちにソ連軍により鎮圧された。その過程で数千人の市民が殺害され、約25万人のハンガリー人が難民となり国外へ逃亡した。






2018年9月12日水曜日

スーダンのダルフール紛争で、アドワ村にてアラブ系民兵が、大量虐殺した非アラブ系黒人の死体である。

スーダンのダルフール紛争にて、アドワ村の郊外でアラブ系民兵が、大量虐殺した非アラブ系黒人の死体である。死体の付近の50ヤード平方の荒野に、人骨が満杯で散在した。
 スーダン西部のダルフール地方にて、非アラブ系黒人とアラブ系住民の対立から内戦が2003年2月に勃発した。非アラブ系黒人がスーダン解放軍(SLA)など反政府勢力が反乱した。スーダン政府は、政府軍を支援するアラブ人民兵による非アラブ系黒人の虐殺行為を支持した。内戦で約200,000人が死亡して、約2,000,000人が難民となった。ダルフール地方はサハラ砂漠に含まれ、非アラブ系のオアシス農耕民と、アラブ系の遊牧民が混在した。同じイスラーム教徒のアラブ系と非アラブ系の民族が対立した。2003年から「ジャンジャウィード」のアラブ系民兵が非アラブ系黒人の村落を襲撃し、民族浄化の大量虐殺や虐待をくり返した。それに反発した武装グループ(SLA)も反撃して、首都ハルツームを攻撃して内戦が拡大した。国際刑事裁判所(ICC)はスーダン大統領を大量虐殺で告発した。世界最悪の非人道的危機であるダルフール紛争は継続した。2005年からの国連平和維持活動(PKO)などにより、スーダンで2010年4月に総選挙を実施して、民主化と和平を模索中である。



2018年9月11日火曜日

南アフリカのアパルトヘイト撤廃の対立から、アフリカ全国会議の若者がインカタ自由党の青年を虐待して虐殺した。

南アフリカのソウェトで1990年9月15日に、アフリカ全国会議(ANC)の支持者とズールー人のインカタ自由党(IFP)が、1990年9月15日に衝突して銃撃戦となった。ANCの若者が、降参したズールー族のIFPの青年を捕獲した。ANCの若者らは、IFPの青年に石を突き刺すようになって、青年は地面に倒れた。さらにANCの若者の虐待が強まり、最終的に巨大なナイフを奪って、青年の胸に強く刺した。ANCの群衆からの罵声は、青年はIFPのスパイだと叫んだ。ANCの青年は、IFCの若者に残酷な虐待の攻撃を続けた。ズールー人の若者は地面に動けなかった。IFPの若者の体は、炎の中に包まれて、突然ウォーと叫び声を出した。素足の若造の黒人が駆け寄り、この地獄の火だるまの若者の燃える頭骨に長刀を振って粉砕して虐殺した。
 南アフリカでは、冷戦が終結した1990年代から黒人隔離政策であるアパルト体制を撤廃が始まった。1990年2月11日にネルソン・マンデラの釈放された。1990年7月にズール人勢力がインカタ自由党(IFP)が旗揚げした。1990年9月に、ナタール州のANC支持者とIFP支持者間が対立したハウテン州(PWV)へ飛び火した。1992年6月17日にポイパトン大虐殺で、多数のANC支持者が虐殺された。1994年3月28日にANC本部で、インカタ自由党(ICF)支持者とANC警備員が衝突した。1994年4月26日から4月29日に南アフリカの国民議会選挙があり、国民統一政府樹立されて、ネルソン・マンデラが大統領に就任した。



2018年9月5日水曜日

黒人は1919年9月にネブラスカ州オマハで首を吊り下げられ、白人の群衆たちは黒人の死体を焼却した。

黒人であるウィリアム・ブラウンは1919年9月に、ネブラスカ州オマハで首を吊り下げられ、その後に白人の群衆たちが黒人の死体を焼却した。
 アメリカ合衆国では1925年頃に、黒人(ネグロ)への虐待とリンチは娯楽の一形態となっていた。白人の見物人の群衆を引き寄せて、リンチはプロの写真家も引き付けた。融通の良いカメラの助けを借りて、広く配布された黒人リンチの写真は、悲惨な出来事を奨励する重要な要素となった。記録するだけでなく、黒人リンチのニュースを広範囲に流した。
  1919年9月に黒人であるウィリアム・ブラウンはネブラスカ州のオマハで首を吊り下げられた。その後に、白人の群衆たちは黒人の死体を焼却した。この写真などの画像は、はがき、立体図、お土産として再現されて販売された。白人優位の教義を映像的に回覧するための媒体となり、リンチ側にとって不可欠となった。ロマンチックな白人の映像、白人の読者と白人の映画観客の人気が上がり、アメリカ合衆国の人種差別化の象徴を明らかにした。当時の白人が国家権力を握った実際の恐怖が、黒人リンチの流行を正当化した。1882年から1930年の間に実施されたリンチ被害者約3,000人のうち、約88%がアフリカ系アメリカ人の男性であった。そのほとんどは起訴されても、証拠はほとんど全く消滅していた。暴力の印象や虐待の写真は、視覚文化に加えて、凶悪な殺人事件の記念碑の中に新たに邪悪なマスコミが登場した。殴打と殺人はしばしば暗闇の外套の下で行われた。


2018年9月2日日曜日

北アイルランド紛争で、カトリック教会の神父が、西ベルファストで虐殺されたイギリス軍兵士2人に葬儀を捧げた。

北アイルランド紛争により、白髪のカトリック教会の神父は、1988年3月19日に西ベルファストで脱着され虐殺されたイギリス軍兵士2人のうちの1人に最後の葬儀を捧げた。1988年3月6日にイベリア半島にある英領ジブラルタルで、アイルランド共和軍(IRA)の3人が、特殊空挺部隊(SAS)により射殺された。彼らの遺体が北アイルランドに帰り、3月16日に西ベルファストで行なわれた葬儀には一万人以上の市民が参列した。埋葬場所となるミルタウン墓地に葬列である「IRAの葬儀」に、非番で私服姿の英軍人伍長2人の車はが急発進した。不審な行動をとる車に、人々は車を取り囲み、2人を車から引きずり出して、殴る蹴るの暴行をした。虐待を受けた伍長2人は、服を脱がされ、通行証でイギリス本国軍人と判明した。IRAの3人を射殺したSASの容疑者となった2人は、近くのゴミ捨て場の空き地の脇の駐車場に、車で連れ去られ情け容赦なく、何発も撃たれ何度も刺されて路地に放置された。
  IRAと社会民主労働党(SDLP)の会合で、1994年のIRAと王党派の停戦から、1998年の包括和平合意(GFA)となった。カトリック教会の方針は、1920年代の内戦以前から反(IRA)であった。暴力の最も激しい地域だった西ベルファストのカトリック神父の「平和」とは「人を死なせてはならない」ことであった。北アイルランドの神父は平和の市民として2013年11月22日にダブリンの病院で死去した。




2018年8月26日日曜日

台湾の国民党軍とビルマに介入していた3人のアメリカ人がビルマ内戦に巻き込まれて1953年に虐殺された。

台湾の国民党軍とビルマに介入していた3人のアメリカ人が1953年にビルマ内戦に巻き込まれて虐殺された。

   アウン・サンが1942年にビルマ独立義勇軍を率いてイギリス軍を駆逐して、1943年にビルマ国を建国した。1945年3月27日に日本軍に蜂起して独立した。 1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、1948年にイギリス連邦から離脱してビルマ連邦は独立した。独立直後からカレン人の独立闘争など、ビルマ政権は当初から不安定な状態にあった。1949年に国共内戦に敗れた台湾の国民党軍がシャン州に侵入してゲリラ闘争を行った。アメリカの中央情報局(CIA)が国民党軍を援助した。ビルマ政権は国連で中華民国と米国の策略に抗議した。ビルマ政権は中華人民共和国と連携して、シャン州に中国人民軍およびビルマ国軍を展開して、1950年代半ばまでに台湾の国民党軍を一掃した。国民党軍や共産党勢力との武力闘争の過程で、ビルマ国軍が徐々に力を獲得し、1962年に軍事政権が支配した。ベトナム戦争が1955年11月から1975年4月30日まで勃発して、軍事政権は瀬戸際の中立政策を保ち、ビルマ連邦を保持した。ビルマ民族のビルマから軍事政権は1989年6月18日に全民族のミャンマー連邦に国名を改名した。軍事政権が2008年5月に新憲法が制定されてから、民主化が改革を始めた。2015年11月8日の総選挙で、アウン・サン・スーチーが国民民主連盟(NLD)政権を樹立した。




2018年7月30日月曜日

エチオピアの小作人は農作物の半分以上を地主に納め、極貧で最下層の農民は1973年の旱魃と内乱で約200,000人以上は餓死した。

エチオピアの最後の皇帝となったハイレ・セラシエは、1972年から1973年の大飢餓に対して、市民の窮状を救わず、無責任にも飢餓を厳しく統制した。エチオピアの8割が農民で、大半が小作人であった。小作人の農作物の半分以上は地主に納め、残りの農作物で極貧に陥った。最下層の農民は、慢性的貧困から、飢餓状態で生きていた。1972年から73年には大干魃に襲われ、農作物は全滅して約200,000人以上が餓死して、エリトリア州で内戦が勃発した。世界的な石油ショックで食品価格が急騰した。貧困の市民は食物を買えず、約2,000,000人以上が飢餓状態に陥った。アディスアベバでデモ騒乱が発生して内乱に陥った。皇帝が宮殿のライオンに肉を与える写真が公表され、深刻な食糧難に苦しむ市民を激怒させた。1974年年9月に陸軍が反乱を起こして、ハイレ・セラシエ皇帝を逮捕して強制的に廃位さした。軍部は12月にエチオピア連邦民主共和国を宣言し、1977年2月にメンギスツ・ハイレ・マリアムが共産主義の軍事独裁政治を始めた。約20年間で反対勢力の数十万人を粛清した。マリアム政権は共産主義を実行して、農地を国有化し小作制を廃止して、土地を再配分しても、飢餓民の大移動が、部族間の対立を煽り、内戦をさらに深めた。マリアム政権は、飢餓民救済より政権維持を優先し、軍事費を増大して中間層に重税を課した。1984年から1985年にエチオピア北部で大旱魃が発生して、約2,000,000人以上が餓死し、飢餓難民が周辺諸国に避難して、国際社会はがエチオピアの深刻な飢餓を知った。セラシエ派は、マリアム政権の共産主義を非難して内乱を起こした。エチオピアは、前皇帝派と共産主義派の戦いと部族間の紛争で複雑な内戦状態に突入した。市民が殺し合う内戦が飢餓を深刻化して膨大な餓死者を排出した。





2018年6月28日木曜日

ニカラグアの1人の若い男性は、1978年9月にソモサ独裁の国家警察隊により、マサヤのモニンボ地区にて血まみれで虐殺された。

ニカラグアでは、ソモサ (Somoza)一族 は、アメリカ合衆国の武力干渉により1909年から創設された国家警備隊の基で、3代にわたり1936年から1979年まで独裁政権を継続した。ニカラグアの国内総生産の約半分をソモサ一族の系列企業などが独占した。ソモサ政権の抑圧的な国家警備隊により、多くの人々の犠牲者となった。1人の若い男性は、1978年9月に国家警察隊により、ニカラグアのマサヤのモニンボ地区にて、血まみれで虐殺された。左壁の落書きからモニンボから国家警備隊は出て行け」、右壁の落書きから「ソモサ一族のために人々は虐待と虐殺される」と読めた。ソモサ一族は、1979年のニカラグア革命で倒された。1961年のキューバ革命から結成されたサンディニスタ民族解放戦線(FSLM)は、1979年7月19日にソモサ一族をマイアミに追放して政権を樹立した。アメリカ合衆国は対抗するために、反政府勢力に軍事参入して1979年から1989年までコントラ内戦を主導した。アメリカ合衆国でイラク・イラン戦争へ武器売却した資金を、コントラ内戦の秘密裏の転用が発覚した。1990年に国連監視団の基での選挙で、ビオレータ・チャモロ女性大統領が誕生した。




2018年6月21日木曜日

マルコス政府軍は権力を掌握して鎮圧するため反対派のフクバラハップの4人を虐殺した。

フィリピンは1946年にアメリカから独立をした。1940年代末から50年代に、中部ルソンで1942年に結成された抗日ゲリラ軍であったフクバラハップ(Hukbalahap)が反乱した。フクバラハップは農民を取り込み、共産主義勢力を拡大して、国内は不安定となった。フェルディナンド・マルコスはフィリピン大統領に1965年に初当選し、69年には再選された。戒厳令を発布して強引に3選の新憲法を制定して74年に3選を果たした。マルコス独裁政権は、反対派を沈黙させ権力を掌握するために、政府軍がフクバラハップの4人を小戦して虐殺した。ベトナム戦争中のアメリカも巧妙に利用し、基地提供等から体制を固めた。政権の長期化で腐敗と貧困が進行するも、マルコス夫妻はマラカニアン宮殿で豪華な生活を謳歌した。マルコスは1971年に学生の反マルコスデモの戒厳令からベニグモ・アキノを逮捕し裁判で死刑を宣告した。国際世論からアメリカ出国を認めた。1970年代には北部では共産党系の新人民軍の反政府活動、南部のミンダナオ島でイスラム教徒のモロ民族解放戦線の分離独立活動が激化した。1983年にアキノは帰国したマニラ国際空港で暗殺された。一気にマルコス体制への反発が強まり、1986年に未亡人のコラソン・アキノが大統領に当選して、ピープルパワー革命が勃発して、マルコス夫妻はハワイに亡命して独裁体制は崩壊して、マルコスは1989年亡命先のハワイで死亡した。



2018年6月17日日曜日

バングラディッシュ解放軍のゲリラ主導者は、西パキスタン協力者も容赦なく即決裁判により公開処刑で銃剣で刺殺した。

バングラデシュ解放戦争は、東パキスタンのベンガル人の民族主義の台頭により武力紛争が勃発した。解放戦争は西パキスタンの軍事政権が1971年3月25日に、東パキスタンのべンガル民族を配下にした。西パキスタン軍は、イスラム教主義者の支持を得て、地元住民の襲撃に急進的な宗教民兵も動員した。西パキスタン軍隊と支援民兵は、数々の大量殺人、追放、 大量虐殺をした。約1,000万人のベンガル人難民がインドに避難し 、約3,000万人が国内難民となった。西パキスタンからバングラデシュへの独立宣言は 、ベンガル軍、準軍事 や民間人により形成されたバングラディッシュ解放軍であるムクティ・バヒニ解放軍により宣言された。バングラデシュ解放軍は、 西パキスタン軍に大量ゲリラ戦を行って、紛争の最初の数か月で数多くの町や都市を解放した。ゲリラ主導者は、西パキスタン協力者も容赦なく即決裁判により公開処刑で銃剣で刺殺した。 バングラデシュの暫定政権は 1971年4月17日にムジブナガルで形成され、亡命政府はカルカッタに撤退した 。インドは、バングラデシュに外交的、経済的、軍事的な支援を提供した。 東パキスタンが北インドでの先制攻撃を開始した後に、インドは1971年12月3日に解放戦争に加担した。バングラデシュとインドの連合軍の急激な侵攻により、西パキスタンは 1971年12月16日にダッカで降伏した。 国連の加盟国の大部分は、1972年にバングラデシュを主権国家として認識した。




2018年6月15日金曜日

ソビエトの赤軍は熾烈な内戦で、反革命の白軍を虐待と虐殺した死体に群がり、内戦は3年にも及び約700万人も死者を出した。

第一次世界大戦前年の1917年10月に、ロシア帝国内で労働者や農民らのロシア革命が勃発し、帝政ロシアは崩壊した。ソビエト連邦でレーニンが主導したボリシェヴィキ勢力は拡大した。レフ・トロツキーが徴兵制で新軍隊である赤軍を創設して、武力革命により中央独裁政権を樹立した。反抗するコサック人らの白軍は反革命闘争をした。赤軍は熾烈な内戦により、反革命の白軍を虐待と虐殺して、白軍も過激に対抗した。赤軍は、虐殺した膨大な白軍の死体に参集した。内戦は3年にも及び、約700万人もの死者を出した。革命政府は反体制派の粛清を強めて、KGBとなる秘密警察が、4年間で約12,000人以上を殺害した。白軍も連合国側からの援助を受けて、各地で独立政権を樹立した。1919年に第1次世界大戦が終結して連合軍の援助が途絶えた白軍は勢力が急速に低した。赤軍は約500万を超え、南部の白軍は虐殺されて、クリミア半島からトルコに脱出した。東部では約25万人がシベリアを徘徊して、バイカル湖で絶命した遺体は湖底へ沈んだ。白軍の敗北でソ連は統一されたが、国内は混乱と荒廃を極めて、共産党の独裁体制となった。




2018年6月7日木曜日

北軍の兵士や市民らがヴァージニア州の荒野の戦いにて、南北戦争の戦死者の死体を集積して呆然と埋葬する準備をした。

ヴァージニア州の荒野にアメリカ合衆国の南北戦争による北軍の犠牲者の死体が散乱した。特に南北の境界に近いヴァージニア州が主戦場となり、人海戦による突撃により、一陸上戦で万人単位の兵士が死亡する虐殺戦となった。1864年5月にヴァージニア州のフレデリックバークスの荒野の戦いにて、北軍の兵士や市民らが荒野に戦死者の死体を集積して埋葬する準備をした。彼らは、膨大な死体を見つめて呆然とした。1861年4月13日に、南軍が北軍のサムター要塞を侵攻して、南北戦争が勃発した。ヴァジニア州では最初の約1ケ月間の南北戦争だけで、北軍の約60,000人が戦死あるいは戦傷した。南北戦争による犠牲者数は驚異的に増大した。1865年4月9日に南軍が北軍に対して降伏して終結した。アメリカ合衆国の戦史上、最悪の死者数と犠牲者となった唯一の内戦となった。公式の北軍の戦死者数は約364,511人であり、南軍の陸軍憲兵司令官の報告書には約133,821人で、総計で戦死者数が約498,332人と推測された。



#Japan_No_War #日本平和の市民連盟 #JapanNoWar #JNW #Nonfiction

2018年6月3日日曜日

ハイチ軍兵士達は、暗黒の独裁政権を排除する選挙の投票所で、虐殺された市民たちを検視した。

ハイチ軍兵士達は、ハイチの首都であるポートープランスの投票所で、虐殺された14人の市民のうちの2人を1987年11月29日に検視した。ナミフィー暫定政権は無力であり、デュヴァリエ独裁政権を排除する1987年11月選挙の有権者を、マルコス特殊部隊が虐殺した。1988年1月の選挙でレザイレ・マニガット政権が選出された。
 アメリカ軍は1915年にフランスから独立を口実にハイチを占領して、世界恐慌から1934年に撤退した。1946年のクーデターでデュマルセ・エスティメが黒人大統領となった。ムラートと黒人の国内混乱を招き、1950年の軍事クーデターで、ポール・マグロワール政権が1957年まで軍事独裁した。9月の総選挙で黒人多数派のフランソワ・デュヴァリエが大統領に就任して、1958年から国家を私物化し個人崇拝させて、独裁体制を構築した。秘密警察トントン・マクートを創設して、多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年に父親は死亡し、1986年まで息子19歳のジャン=クロード・デュヴァリエが1986年まで引き継いだ。デュヴァリエ父子主導で、トントン・マクート秘密警察の暗黒時代が続いた。



2018年5月22日火曜日

南アフリカ北部のジンバブエにて、黒人警察官が虐殺した7人の黒人国粋主義者の死体の側に立って見下した。

南アフリカ北部のジンバブエにて、1977年に黒人警察官が虐殺し7人の黒人国粋主義者の死体の側に立って見下した。ローデシア地域の治安部隊の兵士や警察の多くは黒人であり、しばしばジンバブエのZANU(アフリカ民族同盟)とZAPU(アフリカ人民同盟)勢力と戦闘した。1979年には総計で約25,000人の黒人と約2,000人のイギリス系白人が、10年間の独立戦争で虐殺された。1965年にはイギリス系白人はローデシア共和国の独立を宣言して、アパルトヘイトを強制した。黒人側は黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開した。1979年に黒人に参政権が付与されたが、イギリス系白人体制が実権を持ち続けた。1979年末にイギリスの調停により議席中のイギリス系固定枠でローデシア紛争は終結した。1980年にジンバブエ共和国が成立して、1987年にロバート・ムガベが1987年から大統領制に移行し、93歳となる2017年まで独裁した。




2018年5月19日土曜日

強制的にペルシャ改革のために、ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。

ペルシャ人の囚人を足を丸太に縛って、公開にて拷問して虐待しながら処刑した。パフラヴィー王朝の1代目は、強制的なペルシャの変革を、1934年からイランに国名を変更することを含めて、しばしば厳罰的な処刑によって強要した。 イスラム教会も砲撃することを命じて、イランをイスラム教徒の聖職者が支配する教育制度と法制度を攻撃して廃止しようとした。2代目のモハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi)は1979年1月16日までパフラヴィー朝イランの最後の2代目皇帝となった。「白色革命」を推進して、イランの近代化を進めた。フランスに亡命していたルーホッラー・ホメテニーが引導するイラン革命で失脚して脱国した。ホメイニーは、2月11日にイスラム革命評議会を唯一の政権として、4月1日に「イラン・イスラム共和国」の樹立をして独裁者となった。1980年から死去する1989年まで、イラク・イラン戦争を主導した。



2018年4月8日日曜日

南北戦争のアンティタームは、アメリカ合衆国の歴史で1日の戦闘で最大数の死者を出した戦場となった。

アメリカ合衆国の南北戦争にて、1864年9月17日にメリーランド州のアンティタームの戦いが、犠牲者が最も悲惨で最大となった。アンティタームは、アメリカ合衆国の歴史で1日の戦闘において最大数の死者を出した戦場となった。アンティータムの戦場で、北軍は約50,000人のうち死傷者12,401人のうち戦死2,108人、南軍36,000人のうち死傷者が10,316人のうち戦死1,546人にも達した。早朝の地獄のような砲撃を受けた南軍スタークのルイジアナ旅団の兵士が犠牲者となった。ダンカー教会の北方の台地にあるヘイガータウン・ターンパイクに多数の横倒しの死体が散在した。多大な戦力を失った南軍は、9月18日夕刻から、夜陰に紛れて後退して、ポトマック川を渡って、バージニア州へ撤退した。南軍の北部侵略を阻止した5日後に、北部連邦のエブラハム・リンカーン大統領は9月22日に奴隷解放を宣言した。



日本平和の市民連盟は2018年4月8日にBloggerの投稿数は600回に達した。

2018年4月6日金曜日

NATO軍の空爆などで多くのセルビア系市民の生活圏が崩壊して、犠牲者に対する長く悲惨な葬儀が行進した。

米軍を主力とする北大西洋条約機構(NATO)軍は、1999年からユーゴラビア自治州であったコソボ紛争に介入した。ユーゴスラビア政府があった首都ベオグラードを集中的に空爆した。空爆などにより多くのセルビア系市民の生活圏が悲惨にも崩壊した。多くの市民の犠牲者に対して長く悲惨な葬儀が行進した。国連は1995年にユーゴスラビアで、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認した。セルビア共和国が各地のセルビア人難民を強制的にコソボ自治州へ移民させた。そこで多数を占めたアルバニア系住民たちも残虐な虐待された。2006年にはモンテネグロが独立して、セルビア共和国は単一国家となり、ついにユーゴスラビア連邦は消滅した。

 

2018年4月5日木曜日

北アイルランドで、血の日曜日事件が勃発して、デモ行進中の市民14名がイギリス陸軍落下傘連隊に無差別に銃殺された。

北アイルランドにて、1972年1月30日に血の日曜日事件(Bloody Sunday)が勃発した。北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された。北アイルランド市民14名が死亡して、13名が負傷した。事件のあった地区の名から、ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)とも呼ばれた。長年にわたるイギリスからの弾圧から、北アイルランド共和軍(IRA)は1969年から暫定派が分裂して、北アイルランドのイギリス統治からの独立紛争をした。イギリス軍が無実の非武装の市民を殺傷して、北アイルランド史における悲惨な虐殺な事件となった。1997年にはIRAの暫定派から真のIRAが分離して、北アイルランドにて車爆弾を用いた無差別テロを繰り返した。