日露戦争において中国の遼東半島の金州・南山の戦いでは、約500人ものロシア軍兵士が戦死傷した。戦場に多数のロシア軍兵士が銃殺あるいは刺殺された死体が捨てられたまま散乱した。遼東半島のロシア軍の主力が大連と旅順から北西の金州と南山に向けて1904年5月10日から侵攻した。旅順と大連は、要塞化した金州と南山を通じて中国大陸と連結した。日本軍は、5月25日から26日まで金州・南山の戦いが勃発した。5月25日に金州城内に侵攻して、ロシア軍は撤退して南山の主力に合流した。5月25日から26日まで南山にも突撃する日本軍兵士は、南山には遮蔽物が少なく、ロシア軍からの攻撃の犠牲になり戦死傷者が続出した。日本軍司令部は、いかなる困難があっても、突撃と前進を命じた。重なり合う死体を乗り越えて突進する日本軍に対して、ロシア軍兵士には突然の退却の命令が出された。退却の命令も届かず、陣地に留まったロシア軍兵士は殺害された。
ロシア軍は旅順の戦いに向けて、深夜に山間路を総退却した。戦場に放置されてままで遺棄されたロシア軍兵士の死体は約500人で、戦死傷は約1,000人に留まった。膨大な日本軍の戦死傷者数は約3,500人から、さらに約4,500人にも達した。5月25日と26日の金山・南山の戦いでは、日本軍兵士の犠牲は、戦死者数は約749人で、戦傷者は約3,458人となり、総計の戦死傷者数は約4,207人となった。両軍ともに次第に戦争の拡大とともに、犠牲者数が増大した。近代戦争となった日露戦争は、金州・南山の戦いから、さらに犠牲者数が数倍もの膨大となる旅順攻防戦に展開された。