韓国の朴正煕大統領が1979年10月26日に暗殺されて18年にわたる軍事独裁政権が幕を下ろした。しかし1979年12月12日に軍事クーデターで、全斗煥は政権の実権を握った。軍事政権の復活を警戒する学生らと市民の民主化デモは韓国全土に拡大した。
1980年5月17日に軍の実権を握っていた全斗煥は、非常戒厳令を全国に拡大した。金大中や金泳三ら有力政治家を拘束した。1980年5月18日に南部の光州市では民主化を求める学生デモはさらに激化した。南部の光州市に空挺部隊が投入され、市民への発砲などで多くの死者、行方不明者が出た。5.18記念財団によれば、犠牲者は死者154人、行方不明者70人、負傷者1628人の計4,362人に上った。5月27日には戒厳軍は市内を制圧した。光州市内の電話がこの日まで不通になり、マスコミも情報統制され、光州市内の真相は長く隠蔽された。ドイツのシュピーゲル誌は、光州事件で虐殺された若い学生らの死体を「韓国の血まみれの反乱」と掲載した。
戒厳令が下された5月18日の全南大学前では、学生と戒厳軍の間に最初の衝突が起きた。戒厳軍は、学生を無慈悲に鎮圧した。戒厳軍は、学生が光州市内に行進した街頭デモ隊と市民に向かって銃剣と鎮圧棒を振り回した。これに激怒した光州市民は5月19日朝から綿南路に集まった。人波はますます増えて、5月20日午後になると数万人にも増えた。デモ隊の規模が大きくなると、戒厳軍は5月21日に市民に向けて一斉射撃を加えて、数多くの死傷者を出した。衝撃と怒りに包まれたデモ隊は、警察署で奪取した武器で武装して、戒厳軍と銃撃戦を繰り広げた。光州市民は自らの秩序維持と治安を担当して、市民収拾委員会を設けて戒厳軍と交渉を行う一方で、市民軍の武器を回収するなど、無政府状態を収拾するために努力した。しかし、戒厳軍は5月27日未明に、光州市に再入して包囲して残って抗争していた市民を電撃的に鎮圧した。