2022年10月2日日曜日

ウクライナのハリコフ州にて、ロシアとの国境付近のプルディヤンカで、4人のウクライナ軍兵士の死体が横たわっている場所で、ウクライナ軍兵士が、その死体を白袋に入れた。

2022年9月19日月曜日に、ウクライナのハリコフ州にて、ロシアとの国境付近のプルディヤンカで、4人のウクライナ軍兵士の死体が横たわっている場所で、ウクライナ軍兵士が、その死体を白袋に入れた。殺害された4人のウクライナ軍兵士は、草むらに横たわり、寝袋や食料の缶詰(一部は開封済み)が周囲に散らばった。木の下には、彼らの車両が榴散弾によって粉砕され、引き裂かれて、何カ月も前に4人は死んでいた。その他に戦車にひかれた死体もあった。破壊された装甲車にも兵士の死体があり、弾薬の箱や装備品が散乱した。

 ロシア国境に近いプルディヤンカ地域は、_ロシア軍のウクライナ侵攻があった2022年6月頃から、数カ月にわたり激しい戦闘が繰り広げた。高台にあるプルディヤンカ地域は、ロシア軍の大砲がウクライナの第2都市ハリコフを容易に攻撃できる重要拠点にあった。血みどろの熾烈な戦闘で、戦車や砲撃のほか、接近戦も勃発した。ロシア軍は、蟻のように押し寄せた。ロシアの猛攻に遭い、一時ウクライナ軍は、地雷原と沼地を通って退却した。ウクライナ軍の猛烈な反撃により、プルディヤンカ地域を奪還した。ロシア軍は国境を越えて撤退した。

 その後になって、生存したウクライナ軍兵士らが、戦場に散乱したウクライナ軍やロシア軍の兵士の死体を回収できた。ロシア軍の戦車が焼け、車輪からキャタピラが吹き飛ばされ、戦車の中からロシア軍兵士の死体を見つけ、ハリコフの死体公示所に運搬した。だ。兵士の家族には、死体回収が最終的な検死となる。死体の身元がDNA検査で検死できれば、死体の回収を家族に知らせ、生還する希望が失われる。

 9月19日に行われた死体回収作業では、証拠写真を撮り、死体袋を開け、生存しているウクライナ軍兵士たちが周囲や遺体にブービートラップや地雷が監視した。戦死したウクライナ軍兵士の一人の手には手榴弾を持っていたが、迫撃するロシア軍に投下する暇がなかった。爆発物の捜索が終了後に、軍服のポケットから身分証明書や所持品を取り出し、ビニール袋に入れて、腐乱した死体を死体袋に詰めた。死体袋はジッパーで閉じられ、番号が振られ、ぬかるんだ道で待っているトラックまで運搬した。




2022年10月1日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院の外来の診察室には、10月11日になっても多数の被爆者が殺到して来院した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂後から、大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院に、被爆者が殺到した。工作室を代用して、多数の受信した被爆者に、救護者は10月11日に外来診療を施行した。被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。校内では負傷者はでたが、即死者はいなかった。被爆直後から、被爆者が校庭に殺到したために翌日の8月7日から臨時特設病院を開設して、被爆者の救護をした。1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。1926年に大芝尋常小学校として創設されて、1929年に広島市大芝尋常小学校に改称され、1941年に広島市大芝国民学校になった。終戦後の1947年に広島市立大芝小学校と改称され現在に至る。

 広島原子爆弾の爆心地から北方に約2.4kmにある大芝国民学校に、炸裂後に臨時特設救護病院が設置された。広島市大芝1丁目25-18の校舎は大破して、一部が焼失した。大芝国民学校の校庭に被爆者と避難者が、溢れかえって臨時救護病院が設置された。1945年8月6日の原子爆弾が炸裂後に、大芝町の周辺は原子爆弾の熱線により火災に取り囲まれた。救護に当たっていた者は、動かせない重傷患者を残して、一時的に退避しなければならなかった。火災の勢いが鎮まるとともに、救護者らは大芝国民学校に引き返して、再び救護の任務についた。救護者の中には医師約2人、歯科医約3人、薬剤師約2人、助産婦約1人がいた。救護者らは、専門性を越えた不眠不休の医療活動が、切実に被爆死やには必要とされた。

 臨時特設救護病院となった大芝国民学校の校舎の教室には、筵を敷いた床に大勢の被爆者が寝込んでいた。水、水とうめき、血まみれな被爆者もいた。背中一面火傷した被爆者の火傷にウジ虫がわいていた。毎日多数の被爆者が死亡するために、広島市の死体焼場も機能しないで、大芝国民学校の校庭の隅で、火葬に付すも、骨になるまで長時間かかった。親族は、火葬する周りで、悲痛な思いがこみ上げて沈黙した。




2022年9月30日金曜日

暗殺された金玉均の死体は、朝鮮半島に送還された大反逆罪人として、死体を八つ裂きにされて、胴体は河に捨てられ、断頭された頭部が、大逆無道玉均として、さらし首にした。

親清派は、朝鮮の李氏朝鮮の独立党による開化派を組織した。日本軍と結託してクーデターを企図した。1884年12月4日の甲申政変にて、金玉均らは親日派のクーデターを引き起こして、李氏朝鮮の政権を一時的に掌握した。清国軍がクーデターに武力介入して、開化派は頓挫した。日本軍は撤退して、金玉均らは日本に亡命した。1894年に金玉均は日本軍を見放して、上海に潜伏した。上海で、1885年3月28日に清国軍の刺客に暗殺された。暗殺された金玉均の死体は、朝鮮半島に送還された。大反逆罪人として、死体を八つ裂きにされて、胴体は河に捨てられ、断頭された頭部が、大逆無道玉均として、さらし首にした。

 李王朝は、1882年の壬午事変で興宣大院君が清国へ強制連行された。李王朝は、親日派から親清国派に事大政策に転換された。朝鮮の近代化の危機に、親日派の金玉均らの開化派は、密かに日本政財界と密着した。金玉均は、李王朝の国王の高宗を取り込んだ。1884年12月4日の甲申政変にて、一時的に李王朝は清国から独立宣言した。インドシナ半島でフランス軍に敗退すめも、袁世凱の清国軍は王宮を守衛した日本軍を打倒した。わずか3日間でクーデターは頓挫して、親清派の保守派が臨時政権を樹立した。清国と日本との間に1885年4月に朝鮮に軍隊の派遣と駐留を禁止する天津条約が結ばれた。

 甲申政変から約10年後に、1894年1月の東学党の乱が勃発した。清国も日本も事前通告して、李氏朝鮮が依頼した清国軍を派遣をして、6月5日に日本人保護に日本軍を派遣する大本営を設置した。1894年7月25日から1895年11月30日まで、日清戦争が勃発した。日本軍は平壌・大連・旅順などで清国軍を圧倒して、1895年3月までに日本軍は清国の遼東半島を制圧した。休戦を成立させて、4月17日に講和条約である下関条約が締結された。日清戦争の犠牲者数は、日本軍は約17,069人と清国軍は約35,000人に及んだ。




2022年9月29日木曜日

第1次世界大戦が勃発した直後の1914年9月にフランス北東部のレ・エパルジュの町で、見張り役のドイツ軍兵士に見守られながら死亡した一人のドイツ軍兵士の死体が塹壕の周辺に散乱した。

1914年9月にフランス北東部のレ・エパルジュ(Les Eparges)の町で、見張り役のドイツ軍兵士に見守られながら死亡した一人のドイツ軍兵士の死体が塹壕の周辺に散乱した。エパージュの戦いにて、塹壕だった場所で、殺害された一人のドイツ軍兵士の死体を見詰めた。左側には、泥の地面からドイツ軍兵士の胸像が浮かび上がった。塹壕の中に立つ左側のドイツ軍兵士の肩には肩章のようにカットされた羊の皮がかけていた。

 第1次世界大戦の西部戦線のレ・エパルジュの戦いにて、1914年9月にフランスへの最初の侵攻を止められたドイツ軍は再び攻勢に転じた。ヴェルダン南方の約22kmにサンミエイユ渓谷と呼ばれる地域を獲得した。ドイツ軍はレ・エパルジュの町の東にあるエパルジュ山を強力に要塞化した。フランス軍は1915年春に、サンミエル渓谷を占領するためにレ・パルジュを攻撃した。

 第1次世界大戦は初年度の1914年頃は移動戦であったが、次第に1915年には戦場は泥と血の塹壕戦に位置取り代わった。有刺鉄線が生い茂る無人地帯で区切られた塹壕戦となった。塹壕戦では埋葬されない戦死、砲撃で粉々にされる戦死、生き埋めになる戦死、苦悩する戦死、攻撃中止の後に無人地帯で朽ちる戦死に陥った。戦場では、死体の上を歩き周り、死体で欄干を作り、死体にに寄りかかった。膨大な死体を目の前に、死体には何ら感傷も無くなり、苦痛も感じなかった。塹壕の中では、戦死は自然で当たり前で、野蛮さも喪失した。

 塹壕戦で生きることは、死と密接に接することであった。塹壕の戦死は、当たり前のことであり、見慣れたものになって、兵士らは自分の近い終末を自覚した。軍隊の幹部は、塹壕で倒れている兵士を無理やり立たせて、前線に進ませた。従わせた兵士から、何の反応もない、身をかがめ、兵士がただの死体になったことを検死した。兵士は、地上戦で発砲した間に戦死した。



2022年9月28日水曜日

ナチス・ドイツの移動式殺戮部隊であるアインザッツグルッペンが、ロシア系ユダヤ人、共産主義者、ソ連でドイツ軍の長期支配に危険な人々を大量射殺を行った。

アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)が、ロシア系ユダヤ人、共産主義者、ソ連でドイツ軍の長期支配に危険な人々を大量射殺を行った。移動式殺人部隊で、治安警察と保安局の特殊部隊であった。ソ連の占領地に最初に到着したのは移動式殺戮部隊であるアインザッツグルッペンであり、ドイツ占領軍に対する抵抗を組織・実行する容疑者を特定し、殲滅して排除した。大量殺戮は、主にユダヤ人男性、共産党やソ連高官、ロマ人を標的とした。大量のソ連系ユダヤ人を集中的に収容するゲットーやその他の収容施設を設立した。1941年10月15日からドイツ系ユダヤ人を占領下のソ連に強制送還を決定した。

 1941年6月22日から、ドイツ軍はバルバロッサ作戦により、1939年8月23日の独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連に電撃攻撃を開始した。1941年暮れに、ドイツ軍は首都モスクワ郊外に数百kmまで侵攻した。ドイツ軍と民間の占領政策は、何百万人ものソ連人捕虜とソ連民間人を大量虐殺した。侵略の目標は、ソ連を軍事力で破壊して、共産主義者を永久に排除して、ソ連国内の一等地を確保し、長期的なドイツ軍の占領を図ることであった。ドイツ軍は1940年7月にドイツ軍はフランスと低地国(ベルギー、ルクセンブルク、オランダ)を征服して、数週間後に1941年中のソ連への攻撃を決定した。1940年12月18日に、ヒトラーはバルバロッサ作戦の指令21号に署名した。1941年の冬から春に、ドイツ陸軍最高司令部と帝国保安本部の幹部は、戦線の背後にアインザッツグルッペンを配置した。

 1941年6月22日から、ドイツ軍は134個師団、さらに73個師団を前線後方に配置して、ソ連に侵攻を開始した。独ソ条約の締結から2年足らずで、ソ連侵攻が始まった。3つの軍集団が、広い戦線からソ連軍を攻撃した。300万人以上のドイツ軍兵士と、ドイツの同盟国軍(フィンランドとルーマニア)の約65万人兵士が侵攻した。後にはイタリア、クロアチア、スロバキア、ハンガリーの軍隊で増強された。戦線は、北はバルト海から南は黒海まで広がった。

 ソ連軍はドイツ軍の攻撃後に、最初の約6週間で壊滅的な軍事的損失を被った。1941年8月中旬から、ソ連軍の抵抗が強まり、1941年9月下旬には、ドイツ軍はレニングラードに到達した。モスクワの南西約320kmに位置するロシアの都市スモレンスク、ウクライナでキエフの南東約320kmに位置するドニエプロペトロフスク(Dnipropetrovsk、現ドニプロ)を占領した。ドイツ軍は南のクリミア半島に侵攻して、12月上旬にはモスクワ郊外に到達した。

 1941年12月6日に、ソ連は戦線のドイツ軍中央部に大攻勢を開始した。ドイツ軍はモスクワから大混乱のうちに撤退した。ドイツ軍が、スモレンスク以東の戦線を安定するのに数週間を要した。1942年夏に、ドイツはヴォルガ川のスターリングラード市とコーカサスの油田に向けて、南と南東への大規模な攻撃を再開した。1942年9月に、ドイツ軍はスターリングラード郊外に到達し、カスピ海沿岸から約200km離れたコーカサス地方のグロズヌイに近づいて、第2次世界大戦中のヨーロッパでドイツ軍の支配が、地理的に最も広大に及んだ。




2022年9月27日火曜日

ライプツィヒ副市長のエルンスト・クルト・リッソとその家族の妻と娘や役人らが、1945年4月18日にアメリカ軍の捕虜になるのを避けて青酸カリで市庁舎周辺で自殺した。

ライプツィヒ副市長のエルンスト・クルト・リッソとその家族が、1945年4月18日にアメリカ軍の捕虜になるのを避けて青酸カリで市庁舎で自殺した。ソ連の赤軍と西側の連合国が首都ベルリンに接近するにつれて、自殺者が増大した。ソ連の赤軍とのベルリンの戦いで、4月に自殺したドイツ人は約3,881人と記録された。戦勝国のソ連軍は、ロシア国民が耐えたナチス・ドイツ軍の蛮行の報いを、無慈悲な強姦作戦を実際に行った。自殺の動機は、ソ連の赤軍の侵攻への恐怖と説明されるも、西側連合軍によって解放された地域でも自殺は起こった。

 ライツィヒの多くの役人が、4月18日に新市庁舎で自殺した。副市長エルンスト・リッソは、アメリカ軍が市庁舎に向う中で、自殺すると同時に、妻と娘も絶命した。死体の写真では、妻のレナーテ・リッソが夫エルンストの向かいに座って自殺した。娘のレジーナは、ベンチに座って自殺した。娘のレジーナは腕章をつけて、自殺にする前にドイツ赤十字の一員としてドイツ軍兵士を援助していた。市長とその妻、娘も同様に、連合軍が占領する前に青酸カリのカプセルで自殺した。

 人口1万5千人の小さな町デミンでは、ロシア軍が到着する前後に約700人ものドイツ人が自殺した。毒を飲む、川に飛び込む、首をつる、手首を切る、銃で撃つなど、さまざまな手段で自殺した。これらの自殺は、ソ連の赤軍が占領したドイツ東部に偏って頻発した。連合軍が占領した西側へ逃れることは可能でも、ソ連の赤軍による敗北は、全体主義のナチズムの絶対的否定、ナチ幻想の抹殺を意識した。ヒトラーを救世主として、ドイツ人は20世紀最大の戦争犯罪に加担した。

 ナチス幹部、ナチス信者、軍隊員が戦争末期に自殺した。捕虜になった後にも自殺した。1926年から1945年の間に在職したナチス党(NSDAP)地方指導者約41人のうち約8人、上級親衛隊(SS)および警察指導者約47人のうち約7人、陸軍大将約554人のうち約53人、ドイツ空軍大将約98人のうち約14人、クリーグズマリン提督約53人のうち約11人、その他未知数の下級官僚が含まれた。

 日本と違って、戦争末期に多くの自殺したドイツ人には、恥や不名誉の自殺までは洗脳されていない。しかし、何千人ものドイツ人が、ナチス・ドイツの命令下にない人生はもはや生きるに値しなかった。一種の集団的な実存的危機が起こっていた。敗戦で予想される苦難と窮乏が、戦争中に家族や個人を喪失して、多くのドイツ人の精神を限界に追いやった。銃剣や砲弾などの武力を奪われたドイツ人は、征服者とも良心ともに最も迅速で確実な自殺で決着をつけた。




2022年9月26日月曜日

ヴェレヤ近郊のペトリシチェフで、ドイツ軍はモスクワ出身の18歳のコムソモールの少女、タチアナと名乗るゾーヤ・コスモデミャンスカヤを1941年11月29日に絞首刑した。

第2次世界大戦にて東部戦線からのドイツ軍の圧力が強まり、ドイツ戦線が逆流し始めると、パルチザンの活動はより激しくなった。待ち伏せや建物の爆破といった妨害行為が勃発した。ドイツ軍は、パルチザンに対する報復は、残酷さにて互いに拮抗した。絞首刑にて吊るされたパルチザンであるゾーヤ・コスモデミャンスカヤ(Zoya Kosmodemyanskaya)の首には、家焼きと記した立札を吊り下げた。ヴェレヤ近郊のペトリシチェフで、ドイツ軍はモスクワ出身の18歳のコムソモールの少女、タチアナと名乗る女性を絞首刑した。

 彼女は、1941年11月27日にモスクワも南方のペトリシェフにあったドイツ軍の野戦電話の線を全部切って、直後にドイツ軍部隊の厩舎と馬17頭を崩壊した。リボルバーを手に持ち、バッグからガソリンを流し込み、かがんでマッチに火を点けた。見張りが忍び足で近づき、後ろから腕を回した。ドイツ軍兵士は手から銃をたたき落とし、警報を鳴らした。パルチザンは、将校の小屋に連行されて、その時に初めて、少女であることがわかった。ストラップが宙を舞い、彼女の体を鞭打った。彼女はシャツとニッカーズ姿で、雪の中を裸足で歩かされた。彼女の額や唇に大きな青黒い斑点、足と腕に擦り傷があり、彼女の両手はロープで後手に縛られた。彼女は拳で叩かれ、火のついたマッチを顎に当てられ、ノコギリで背中を切り裂かれた。裸足に下着姿で、真夜中に雪の中で強姦された。

 11月29日の朝になると、ドイツ軍兵士たちは村の真中に絞首台を作り始めた。彼女は上着、ズボン、ストッキングなどを装着された。彼女の胸には、奪ったガソリンの瓶とパルチザンと刻まれたプレートが吊るされて、絞首台のある広場に連行された。絞首台の木箱に載せられて、絞首刑の縄を首にかけられた。待機中に、彼女は見物人に、「勇気を出して、戦え!ドイツ軍を倒せ!燃やせ!毒を盛れ!ロシア軍が私のために仇を討つ。スターリンは我々と共にある!」と叫んだ。処刑人は錬鉄製の靴を箱に押し込み、箱が雪の上で軋んだで、一番上の引き出しが転がり落ち、地面に音を立てて落ちた。彼女は音も立てずに自分の苦しみを伝え、仲間を裏切ることなく、絞首刑された。

 ドイツ軍は彼女の体を絞首台に数週間ぶら下げたままにした。1942年1月1日夜に、酔っ払ったドイツ軍兵士は絞首台を取り囲み、吊るされた彼女の服を脱がせ、裸体を卑劣に罵倒した。隠蔽するために、絞首台を切り倒して、村から離れた凍土に穴をくり抜き埋葬された。




2022年9月25日日曜日

ウクライナの北東部の都市のイジウム周辺の集団埋葬地を捜索している調査官は、手足を骨折した死体や首にロープなど、一部の死体に拷問を受けた証拠などを発掘した。

ウクライナ軍がロシア軍より2022年9月11日に奪還したハリコフ州のイジウム(Izium)地域で、2022年9月16日に調査官が発掘中の死体を検死した。ウクライナ当局は、奪還した都市イジウムの近くで、数百の墓を含む集団埋葬地を発見した。調査官や目撃者によると、死体はロシア軍の射撃、砲撃、地雷、空爆などで殺害された。ロシア国防省は9月10日に、ウクライナ東部ハリコフ州の要衝イジウム周辺のロシア軍に撤退を命じた。

 ウクライナの北東部の都市のイジウム周辺の集団埋葬地を捜索している調査官は、手足を骨折した死体や首にロープをかけられた死体など、一部の死体に拷問を受けた証拠を発掘したと2022年9月16日に公表した。イジウムでは約440以上の集団墓地が見つかるも、犠牲者数は不詳である。イジウムのピシャンスケ(Pishchanske)墓地付近で、兵士だけだなく、民間人の大人や子供が、拷問や砲撃などで殺害された。拷問された1人の男性は両手を縛られ、顎を骨折し、背中に2つの刺し傷があった。9月24日時点で、約447人の死体が発掘され、約22人だけが軍人で、約215人が女性、約194人が男性、約5人が子供であった。

 イジウム近くの森林で、作業員が集団墓地の砂地から次々と死体を発掘した。頭から足先までスーツとゴム手袋で保護した作業員は、死体の腐敗した跡を検死した。その墓の一部には、木製の十字架や花束が突き刺された。ウクライナ軍兵士は、発掘する前に金属探知機で爆発物を探索して、赤白のビニールテープを木々の間に張った。イジウムでの死体数は、ブチャの約448人の死体数の数倍に及ぶと予想された。ウクライナ警察は、イジウム地域で、拷問部屋も発見した。民間人だけでなく、埋葬された約17人のウクライナ軍兵士の死体数が記された標識があった。















Warning: GRAPHIC CONTENT - An expert examines a body during an exhumation in the recently retaken area of Izium, Ukraine, Friday, Sept. 16, 2022. Ukrainian authorities discovered a mass burial site near the recaptured city of Izium that contained hundreds of graves. It was not clear who was buried in many of the plots or how all of them died, though witnesses and a Ukrainian investigator said some were shot and others were killed by artillery fire, mines or airstrikes. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

2022年9月24日土曜日

広島原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、爆心地から約1500離れた広島日赤病院で残存した本館に殺到して、外来受診した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後から、原子爆弾に被爆して負傷した被爆者らが、広島日赤病院に殺到した。その日赤病院に受信した被爆者に対する診療の状況が撮影された。

 爆心地から約1500m離れた広島赤十字病院の瓦礫の中に、死者と瀕死の人々が散乱した。ほとんどの医療施設が破壊された中で、広島日赤病院は約69名の職員が戦死して、爆発後の数日で数千人の死傷者を出した。猛烈な消火活動で本館は助かったが、中庭の木造建築は失われた。当初は食料も水もほとんど手に入らず、圧倒された職員は何日も眠れず、自分の傷を無視する職員もいた。重傷者は、廊下や玄関、外の畳の上に寝かされ、そのまま瓦礫の中に放り込まれた。1945年10月に、国策医療が終結し、無料診療が終了するまで残っていた患者もいた。原爆病が続く中で、広島県民は医療の充実を訴えた。年、被爆者援護施設を開設した。1993年に取り壊された本館は、1995年に原爆の被害を受けた部分が慰霊碑として奉納された。チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため、広島赤十字病院の医師が1990年代に旧ソ連に派遣された。

 1945年9月に日本赤十字社は、後に赤十字国際委員会(ICRC)の支援を受けて、広島と長崎の原爆患者、死亡者、負傷者、障害者などを救済するために、最初の組織の一つとなった。広島の日本赤十字病院はほぼ壊滅状態だったが、石垣は残っており、何千人もの人々が救護と安全を求めて殺到して集まった。病院職員の約85%が負傷して、約10%近くが死亡した(約554人中約51人)。生き残った赤十字職員は、できる限りの治療を施した。しかし実際には、保管装置が破損して、ほとんどの薬品が爆風で汚染されたために、病院はもはや十分な機能を果たせなかった。献血者も死亡または失踪しており、輸血できる可能性は少なかった。初日に避難してきた1,000人の患者のうち、約600人が急速に直後に死亡した。

 1945年9月8日に赤十字国際委員会の新しい日本代表団長となったマルセル・ジュノー(Marcel Junod)博士が来日した。広島原子爆弾の惨状を知っていた彼は、直ちに日本政府の厚生省と交渉して、9月8日に、アメリカ軍から提供された約15トンの医薬品や医療器具を携えて、自ら広島市に入った。ジュノー博士は約4日間にわたり広島市に滞在して、救援活動に従事した。1956年9月に、広島赤十字病院の構内に、「日本赤十字社広島原爆病院」(現・広島赤十字病院・原爆病院)を設立した。診療科:内科・外科・放射線科、病床数:120床にて、原爆被爆の後遺症に苦しむ被爆者への提供する専門的医療サービスを開設した。




2022年9月23日金曜日

日中戦争の南京事件が1937年12月13日に勃発した。南京大虐殺が頻発して、中国民間人は薪を積み上げてに油をかけて焼かれて殺害された黒焦げの死体が散乱した。

日中戦争の南京事件が1937年12月13日に勃発した。南京大虐殺が頻発して、中国民間人は薪を積み上げてに油をかけて焼かれて殺害された黒焦げの死体が散乱した。焼け残った者の服装は民間人のものばかりだった。南京の長江川辺で、日本軍に殺害された後に、焼かれた南京市民の死体が散乱した。(村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線)。写真は、元日本陸軍自動車第17戦隊第2級の村瀬守保が、南京事件が勃発して、約1週間から10日以内に撮影した。

 当時の南京の現場では、「新聞掲載事項許否判定要領」という陸軍の検閲制度が実施された。四、左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵又は支那人逮捕尋問等の記事写真中虐待の感を与うる虞れあるもの (14)惨虐なる写真 但し支那兵又は支那人の惨虐性に関する記事は差支なし――とあり、一般人は虐殺現場の写真など撮影できる状況ではなかった。日本軍の兵站自動車第17中隊の村瀬守保氏が撮影した。彼は報道カメラマンではなく同中隊の非公式な写真班という立場で、検閲を受けずネガを保持できる状況にあり、信憑性の高い写真である。その状況下でも、当時識字率の低かった中国国民に事態を知らせる国民党等が、中国側からはいわゆる「ヤラセ写真」が出てくる結果となった。

 南京事件により、膨大な死体が南京周辺に残された。死体の処理と埋葬が遅延すれば、死体が腐敗して膿瘍化した死体の悪臭が漂う。さらに長い間放置すれば、地域の水道を汚染して飲水など環境汚染が、深刻な事態になる。日本軍は南京事件の死体を適時に処理するために、薪に油を注いで火葬した。




2022年9月22日木曜日

ドイツ軍のレニングラード包囲戦にて、ネフスキー通りが1942年10月25日にドイツ軍からの砲撃を受けて、殺害されたロシア民間人の死体が通りに散乱した。

ドイツ軍によるレニングラード封鎖は 1941年9月8日から1944年1月27日まで続いた。ネフスキー通りに、1942年10月25日にドイツ軍から砲撃を受けて、殺害されたロシア民間人の死体が通りに散乱した。レニングラード包囲戦は、第二次世界大戦で最も悲劇的な犠牲を伴った。死、飢え、寒さ、爆撃、絶望、街の住人が耐え抜いた約900日間もの戦場となった。都市は他にない。

 1941年6月22日に、レニングラードの全領域に戒厳令が敷かれた。6月23日の夜、ナチス戦闘機がレニングラードへ初めて空襲を試みたが、ドイツ軍戦闘機は到達できなかった。6月24日に、レニングラード軍管区はロシア軍の北方戦線となり、8月23日にレニングラード戦線とカレリア戦線に分割された。レニングラードは、海からバルチック艦隊の基地の一つであるクロンシュタットに覆われた。7月10日に、レニングラード地域からのドイツ軍撤退に伴って、レニングラード包囲戦の防衛が開始された。9月6日に、レニングラードに最初にドイツ軍の爆弾が投下された。ドイツ軍戦闘機の組織的な空襲を受けた。ドイツ軍は、ソ連軍の防衛網を突破できずに、都市を包囲して破壊を決定した。

 8月20日、ドイツ軍はチュドヴォの町を占領し、レニングラードからモスクワ間の鉄道を切断した。ドイツ軍はレニングラードを襲撃できず、前線は接近した。9月4日、野蛮な組織的な砲撃が始まった。ドイツ軍がシュリセルブルクを占領した9月8日からレニングラードと本土との地上連絡は途絶え、1944年1月27日までの約900日間にわたる封鎖が勃発した。

 約40万人の子供を含む約250万人以上の住民が、包囲されたレニングラードの都市に潜伏した。包囲戦が始まり、十分な食糧が供給されなかった。1941年9月12日には、パンと穀物と肉は約30-35日、脂肪は約45日、砂糖と菓子は約60日の在庫であった。石炭は11月まで、液体燃料は9月末まで、配給制度による食糧の規範が崩れ始めた。深刻な飢餓で、膨大な人々が死亡していた。レニングラード封鎖における飢餓の頂点は、1941年11月20日から12月25日の期間であり、防衛前線の兵士に与えるパンの量は1日約500グラムに、高温作業場の労働者は約375グラムに、産業や技術者の労働者は約250グラム、雑務、召使い、扶養家族、子供たちは約125グラムに減らされた。パンの約半分は食べられない腐敗物となり、小麦粉の代わりになって。他の食料品の流通はストップした。

 レニングラードでは毎日4,000人以上の住民が死亡し、平時の約100倍以上の餓死者が出た。男性は女性の死亡率を大幅に上回り、100人中の死亡者の平均で男性約63人、女性約37人であった。包囲戦の終末頃には、女性が都市人口の大部分を占めた。




2022年9月21日水曜日

トライアングル工場火災により、62人の女性らがニューヨークの高層ビルの窓から飛び降りて死亡する女性を救助隊員は見上げた。若い女性と少女で移民の娘たちだった。

トライアングル工場火災により、62人の女性がニューヨークの高層ビルの窓から飛び降りて死亡した女性を救助隊員は見上げた。ほとんどが若い女性と少女で移民の娘たちだった。ニューヨーク市マンハッタンのグリニッチビレッジ地区でビル工場火災が発生した。

 ワシントン・スクエア・パークのすぐ東に今も残る工場の8階、9階、10階にあったトライアングル・ウェイスト・カンパニー(Triangle Shirtwaist Factory)では、約500人を超える女性従業員が働いていた。彼女らは、1日約9時間から約16時間、週6日という過酷な低賃金の労働環境の中で、「シャツウエスト」と呼ばれる女性用ブラウスを製造した。1911年3月25日に、この工場で火災が発生し、約123人の女性や少女、約23人の男性を含む約146人の衣料労働者が、火災、煙吸入、転落または飛び降り自殺により死亡した。犠牲者の多くは14歳から23歳の英会話も不自由なイタリアまたはユダヤ系移民の女性と少女であった。年齢が判明している犠牲者のうち、最年長は43歳から最年少は14歳であった。

 労働者の無断休憩を防ぎ、盗難を減らすためにビル工場の階段室や出口のドアが施錠されて犠牲者が増大した。多くの労働者が燃え盛る建物から逃げることができず、扉は上司の意向で、わずかな布切れも持ち出せないように鍵がかけられた。エレベータ4つのうち3つも故障して、エレベータシャフトから飛び降りた。多くの女性従業員らが閉じ込められ、生きたまま焼死したり、高い窓から飛び降り自殺に陥った。消防隊の梯子も届かず、ある女性は非常階段が倒れて、鉄柵の上に落ちて死んだ。何百人ものニューヨーク住民の前で、ただただ恐怖のどん底のビル下に突き落とされた。

 トライアングル火災から、工場の安全基準の改善を求める法律が制定された。搾取工場で働く労働者の労働条件改善を求めて戦う国際婦人服労働組合(ILGWU)が結成された。社会正義の叫びとなり、労働条件の改善を促し、命を救い、国の変革を促した。火災は、アメリカ中の労働者に適切な条件と基本的人権を勝ち取るための人的災害となった。非常口や消火設備も刷新されたが、落ち度のある管理者側は裁判で有罪とならなかった。

















警告: 2011年9月21日に、ロシア連邦大統領のウラジミール・プーチンは、ロシア・ウクライナ戦争に部分動員に関する政令はすでに署名した。部分動員は、予備役とりわけ軍隊に所属し、一定の軍事的専門性や関連する経験を持つ国民のみが徴兵の対象となる。もしロシア連邦の領土保全が脅かされれば、核兵器を含むあらゆる手段を講じるだろう。

2022年9月20日火曜日

第一次世界大戦の第2次シャンパーニュの戦いは、メイン・ド・マシーンの東端の丘から悲惨な戦闘が勃発して、わずかな陣地獲得にも膨大な両軍の死体が周辺領域に散乱した。

第一次世界大戦の第2次シャンパーニュの戦い(Second Battle of Champagne)は、1915年9月25日から11月6日フランス北東部のシャンパーニュ地方でドイツ軍に対するフランスの会戦で、アルトワ北東部でイギリス軍との膨大な犠牲と重なって、フランス軍が11月6日に撤退した。

 メイン・ド・マシーン(La main de Massiges)は東端の丘であり、エーヌ渓谷を要する自然の要塞から悲惨な戦闘が勃発した。わずかな陣地獲得にも、膨大な両軍の死体が周辺領域に散乱した。9月25日に、フランス軍の中央軍集団(GAC)が、午前9時15分に約1,400m-約1800mの前線で、ドイツ軍に攻撃を開始した。ドイツ軍は、前線と予備陣地(Rückstellung、予備陣地)に位置し、反対側の戦線を保持した。フランス軍の砲兵隊は9月24日と25日夜に大雨が降って機能不全に陥った。

 フランス軍は、ドイツ軍の前線を4箇所で破壊して、予備陣地まで侵入するも、切断されない有刺鉄線が侵攻を阻止した。フランス軍はドイツ軍約14,000人の捕虜と数門の大砲を奪ったが、フランス軍はそれ以上の犠牲を伴った。ドイツ軍はフランス軍を占領下にある高台から砲撃した。ドイツ軍の防御の予備陣地で、その背後には野戦砲兵の大部分が対峙していた。ドイツ軍の予備軍が、フランス軍の戦線の隙間に入り込んだ。

 9月26日に、フランス軍は再び攻撃を開始し、約12.1kmの前線でドイツ軍の予備陣地まで迫った。さらに約2,000名のドイツ軍を捕捉した。9月27日から29日にかけてのドイツ軍の予備陣地に対する攻撃は、9月28日に突破するも、フランス軍は武器と弾薬が供給されるまで攻撃を中断した。侵攻した地点を整理しながら騎兵部隊を撤退させた。さらに9月30日から10月5日に、ドイツ軍の塹壕に対する小規模な突撃を繰り返した。

 フランス軍のエシュロン攻撃も、ドイツ軍の予備兵力を剥奪して急襲する間のみ、迅速に侵攻した。フランス軍は約145,000人の死傷者を出し、ドイツ軍は約72,500人の死傷者を出した。イギリス軍は9月25日から10月16日までのアルトワで死傷者は約56,812人でにも及んだ。フランス正史はシャンパーニュ地方とアルトワ地方の戦闘で合計で約191,795人の死傷者を記録した。




2022年9月19日月曜日

フィンランド白軍は1918年にソ連赤軍を侵攻して、ソ連の赤軍領内のカレリア地方のマルセガ住人を残酷に虐殺して民族浄化をした。

フィンランド白軍の侵略者は、1918年にソ連領内のカレリア地方のマルセガ住人を残酷に虐殺して民族浄化をした。フィンランド白軍は、ソ連赤軍がサンクトペテルブルクを防衛するイノ砦を攻撃し、ヴィボルグを攻略した。ヴィボルグでは、反ロシアのドイツ軍養成イェーガー部隊が占領して、ロシア人系住民を数日で約800人ほどを虐殺した。残酷な虐殺による民族浄化は、ドイツ軍には理解されないが、フィンランド軍には、国内の結束を維持する方策として、民族浄化を執行した。1918年5月には、フィンランド白軍はレニングラード州北部のラウタ(現在のソスノボ)を占領した。

 第一次世界大戦の煽りを受けて1917年ロシア革命が起こると、フィンランド議会は1917年12月6日に独立を宣言した。新フィンランド国家では、ロシア赤軍とフィンランド白軍との間で内戦が勃発した。フィンランドの白軍は、1918年1月15日にフィンランド民族主義者から結成された。ドイツ軍はフィンランド白軍に十分な兵器を供給した。フィンランド白軍は、地元赤軍の主力部隊を打ち破った。

 フィンランドをめぐる内戦の一方で、ロシアでの内戦が壮絶な様相を呈した。赤軍、白軍、国民党が広大な国土を二分して、情勢が変化した。カレリアは結局フィンランドに占領された。カレリア人の民族運動があり、ロシアの情勢が悪化すれば、カレリアはフィンランドに加わると宣言した。フィンランド人義勇軍がソ連領内深くまで入り、ソビエト連邦に正式に宣戦布告した。フィンランド白軍はカンダラクシャとケムに侵攻して、フィンランド内戦で白軍が勝利した後、赤軍の多くが東方に逃亡した。ソ連には約1万〜1万3千人のフィンランド人難民がいた。ソ連軍が武装させたフィンランド赤軍の義勇軍が、フィンランド白軍の侵攻を阻止した。西方から来た侵略者は、大フィンランド構想は村々で朽ち果て、カレリア人の間で急速に失望された。第一次世界大戦後に、カレリアでは食料が不足し、悲惨な状況が続いた結果1921年11月に、カレリアではフィンランドに対する本格的な蜂起が始まった。




2022年9月18日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は2022年9月7日に、ロシア軍から解放されたハリコフ州のグラコボ村で、ロシア軍に殺害されて集団墓地に埋められた身元不明の死体を掘り起こす作業が9月9日に実施された。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナ軍は、ハリコフ州のグラコボ村を2022年9月7日に、ロシア軍から解放された。グラコボ村で、ロシア軍に殺害されて集団墓地に埋められた身元不明の死体を掘り起こす作業が、9月9日に実施された。グラコボ村には、約753人が住んでいた。ロシア軍の占領下で生存した者には、半年以上の地獄だった。目の前に巨大な血の水たまりが見えた。ロシア軍が撤退するとき、ウクライナ軍に取り囲まれないように破壊と荒廃の痕跡を残した。ロシア軍によって多数の民間人が殺害された集団墓地が残存した。9月8日には、ウクライナ軍はハリコフ地方の30以上の集落を取り戻した。

 ロシア国防省は9月10日に、ウクライナ東部ハリコフ地方の2つの地域から部隊を撤退させると発表した。ウクライナの第2の都市ハリコフの南側に、ウクライナ軍が侵攻した数日後に発表された。2月24日にロシア・ウクライナ戦争が始まった当初、首都キエフを侵略するロシア軍を阻止して以来、ウクライナ軍に最大の戦果となった。ロシア国防省は、バラクリヤとイジウム地域から東部のドネツク地区へ部隊を撤退させて再編成すると述べた。

 ロシア国防省は、ドンバス解放のための特別軍事作戦の目標を達成するための撤退とした。ドンバスは、ロシア軍が主権を宣言している西のドネツク州と東のルガンスクの2つの分離主義がある東部地域である。ドネツクに集中するための撤退という主張は、ロシアが今年初め、首都キエフ地域から軍を撤退させた正当化と類似した。9月9日に、ウクライナ軍は、ハリコフ地方のイジウム周辺の供給源を断った。イジムへの主要供給ルート沿のクピアンスクを奪還した。イジウムから北に73kmの鉄道の拠点クピエンスクを占領した。東部の突破口により約2,500平方kmを奪還した。

 イジウム当局は、住民をロシア軍から避難させ始めた。ウクライナ東部での戦闘は、南部のヘルソン周辺での攻防が続く中で発生した。東部からロシア軍兵士が南部に連行されて、ウクライナ軍が弱体化した東部前線を攻撃した。東部のロシア軍は補給線を断ったために、物資も食料も欠如した。











Warning: Ukrainian police work during the exhumation of unidentified bodies of people killed by the Russian troops in the village of Grakovo freed by the Ukrainian army two days ago in the Kharkiv region, Ukraine, Friday, Sept. 9, 2022. (AP Photo/Andrii Marienko)