第一次世界大戦で、1915年6月30日にドイツ国境に近いフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。塹壕の中を前進すると、不毛な戦いでボロボロに疲れて負傷して倒れたフランス軍兵士が現れた。
フランス軍だけでも、1914年から1918年の間に1日に約900人近くが死亡して、ドイツ軍は約1,300人が死亡した。その死亡者の約86%は戦場で、約14%は病気や捕虜に起因した。戦場にて、自力で帰れない戦傷者は、疲労や新たな傷、圧迫などにより、ほぼ確実に死に至る運命となった。胸部、胃部、頭蓋骨への銃弾の貫通などで悲惨な戦死傷であり、戦傷者の一人は、下顎を砕かれて血の玉のような顔となった。傷口には血液を固定するヨウ素が塗られた。静脈内輸液や輸血も処置されなかった。傷口を洗浄した後に、大きな既製の軍用包帯が巻かれた。泥だらけの手を洗うための水もろくになかった。
戦傷者の多くは、夜間にしか救護できない。フランス軍の陣地近くにいた戦負傷者の一部を連れ戻すにも、約4日間の夜と多大な負担が必要であった。塹壕に取り残されたほとんどの兵士は既に死亡していた。
兵士たちは約30キロの弾薬と食料を抱えて、夜中に音もなく第一陣で塹壕を登った。何時間もかけて行軍した後に、数キロに渡って塹壕が伸びて繋がった。塹壕は砲弾で穴だらけとなり、戦傷者の泣き声と爆弾の悲鳴が漂った。敵の塹壕の前で何の前触れもなく道に迷うと、機関銃に頭や胴体、足を差し出すことになった。
塹壕の中でフランス軍兵士の主要な武器は小銃であった。銃剣付きで1.80メートルの銃剣は、陣地戦の狭い塹壕の中ではとても実戦的でなかった。兵士に最も恐ろしい試練である徒手格闘では、銃剣で撃てと命令が鳴り響くと、恐怖に慄いた。塹壕に到達したとき、歩兵たちは銃剣を操作することは至難であった。銃剣は手だで持って使えないので、兵士たちは塹壕用のシャベルと鉄木製のヘッドブレーカーで代用した。銃弾が飛び交う平原を横断しなければならない。敵に近づき、ひどい手打ちの戦いが始まった。ライフルはもう役に立たないので、シャベルで攻撃した。千鳥足となり、見覚えのない男たちの渦に飛び込み、もう聞き取れない。鼻と耳から血が出て、頭がおかしくなり、もう危険も見境なく、何も考えられなくなり、自分の生命を差し出しては途絶えた。