広島原子爆弾が投下された1945年8月6日8時15分から、約2日後の8月8日に、爆心地の川向にある本川国民学校の校庭において、その周辺の死体を大量に集めては火葬した。翌日の8月7日から、外壁が焼け残った校舎は、臨時救護所となり被爆者であふれた。校庭では身元の確認を終えた多くの死体を火葬した。広島県警察部写真班員が、火葬場を撮影した。焼け果てた校舎は、被爆者の救護所にあてられ、校庭には死体の山が築かれた。
広島市内の本川国民学校は、広島原子爆弾の爆心地に最も一番近い小学校であった。原爆ドームから相生橋を挟んで対岸にある。本川国民学校(現 本川小学校)は爆心地から、わずか約410mと最も近い小学校のために、甚大な被害を受けた。校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長ほか10人の教職員と1、2年生の子どもたち約400人のうち先生1人、生徒1人のみが奇跡的に助かった。校長を含む教職員6人と児童218
人は即死した。
翌年の1946年2月に、授業を再開して校舎の建て替えのために、最小限の補修をした校舎で授業が再開された。被爆校舎は、その後も補修・改修を繰り返し利用された。1988年4月に、新校舎の落成とともに、被爆校舎の一部と地下室だけを残して撤去された。被爆校舎の一部と地下室は、平和資料館として整備・保存されて、1988年5月開館した。地下室を中心に当時の焼け跡が残存した。原子爆弾の被害を受けた状態を、被爆の証として保存した。展示品の多くはかつての同校教師が被爆地から集めた物品である。
中沢啓治さんが描いた『はだしのゲン』(1973年刊行)に登場する学校は、この本川小学校である。6歳の時に爆心地から約1.2kmの神崎国民学校に登校する途中に、校門付近で被爆した。自らの被爆体験を基に広島で力強く生きる少年を描いた。1975年3月18日付の朝日新聞夕刊社会面に、原爆劇画、単行本にと題した記事が掲載された。約2カ月後の5月に汐文社から全4巻の単行本が刊行された。記事と単行本により、はだしのゲンは大きく注目を集めた。作者は、2012年12月19日に、肺がんにより死亡した。はだしのゲンは18カ国語に訳され、総発行部数は1千万部を超えた。