アメリカ軍がフィリピンの田舎を掃討して、村の穀物や米や家畜の貯蔵庫などを焼き払った。 フィリピン人の水牛であるカラバオは戦前の数の10分の1に減った。アメリカ軍は、先住民を強制連行しないで、大量に虐殺したフィリピン人の死体が野原に散乱した。フィリピン人から秘密情報を洗い流すために、スペイン軍の残酷さとアメリカ軍の巧妙さを兼ね備えた水責めを活用した。フィリピン人の犠牲者の喉から約15リッターもの水を流し込み、胃腸を圧迫して極秘情報を絞り出した。ロープ処刑は、稀ではあるが、捕虜の首と胴体を結び、次にロープを家畜でひねって拷問して、同時に窒息させて、犠牲者を絞首刑にした。(アメリカ軍は、ベトナム戦争でも、同様な虐待と虐殺をした)
スペインとアメリカとの戦争でスペインは敗北後に、1529年から長年にわたるフィリピンの植民地を、1898年12月10日のパリ条約でアメリカ合衆国に譲渡した。植民地支配者の変更ではなく独立を求めたエミリオ・アギナルドが率いるフィリピン人民族主義者とアメリカ軍の間で戦いが
アメリカ政府はそれを反乱と呼び、少数のフィリピン人だけがアメリカの植民地支配の受入を拒否したと主張した。フィリピン人は準備もなく、戦争の武器が整なわず、アメリカ軍は、反乱は数週間しか続かないと予想した。しかし、アメリカ軍は反乱の鎮圧には約7年もかかった。反乱を鎮めるのに、約126,458人のアメリカ軍のうち約4,234人が戦死した。アメリカ政府は、1902年7月4日に暴動が正式に終了したと宣言した。植民地化の克服は困難となり、1903年までにほとんどのフィリピン革命指導者たちは、アメリカ政権と和解した。
それでも反乱は1906年まで続き、フィリピン人はアメリカ軍の残虐行為に対して猛烈なゲリラ戦術を繰り広げた。アメリカ国民を警戒させないように、フィリピン戦線からのニュースは厳しく検閲された。若いアメリカ軍兵士が、フィリピン人の女性、子供、負傷した囚人を虐殺したことを隠蔽した。フィリピンの人口の約6分の1は、アメリカ軍が介入した最初の戦争で殺害された。戦争が進むにつれ、約5人近くのフィリピン人が1人のアメリカ軍兵士の戦傷して約5人近くのフィリピン人が殺害された。1人のアメリカ軍兵士の殺害で約16人のフィリピン人が殺害された、異常な死亡率、戦争の残酷と悲惨を示唆した。第二次世界大戦でのアメリカ軍と日本軍のフィリピンの戦いに巻き込まれて、フィリピン人市民が約100万人の犠牲者よりも流血した。