2025年4月29日火曜日

日露戦争の鴨緑江会戦(1904年4月30日から5月1日)にて、名誉ある第34連隊の戦死者を埋葬した。日露戦争の戦場では、戦没者を追悼する公式儀式である「戦没者追悼式」が神道儀式に従って行われた。

日露戦争の鴨緑江会戦(1904年4月30日から5月1日)にて、名誉ある第34連隊の戦死者を埋葬した。第34連隊は、その後に日露戦争の遼陽会戦で最大の首山堡の激戦地で戦った連隊であった。さらに、沙河会戦、黒溝台会戦を経て、奉天会戦に参戦した。

 1904年5月14日に、埋葬の全作業が完了し、砂利道の先に鳥居を立てた記念碑が建立された。5月15日に、橋頭司令官が出席した除幕式が行われ、記念演説が朗読された。「本日、日本帝国衛兵第八予備輸送部隊の兵士たちの協力により、楡の木立の丘の上に建設された記念碑の除幕式を執り行います。これは、戦没した兵士たちの愛国精神を鎮めるためです。この場所は敵であるロシア軍の砲兵基地があった場所で、私たちの日本軍の勇敢な兵士たちが進軍した山脈には、狭い川を隔てて日本軍の後ろにそびえ立つ山脈が遠くに連なっています。私たちの前側と両側には、兵士たちが流した血から生えた緑の草が特に鮮やかで美しく、長い間亡くなった愛国者の魂の仕業なのかと不思議に思わせます。」記念演説の詩的な表現は、その場の悲しみをさらに強調していました。

 日露戦争の戦場では、戦没者を追悼する公式儀式である「戦没者追悼式」が神道儀式に従って行われた。招魂とは、死者の霊を招き求めること、特に戦没者の霊を招き求めることを意味した。この儀式は必ず別個の仏教式追悼法要が続いて行われた。1905年4月13日に開催された日本軍連隊の戦没者追悼式典の例は、田多開造兵士の日記に記載された。4月13日午前9時50分、連隊旗の掲揚で式典が始まり、僧侶による仏典の朗読が続いた。その後、連隊長による追悼演説が朗読された。続いて、以下の順で将校が整列した:歩兵旅団長、大隊長、中隊長、少尉、少尉補、下士官、兵曹長、最後に兵士の代表。日本軍兵士は順番に仮設の祭壇へ進み、連隊の戦没者に敬意を表した。戦乱の満州では神職が不足して、神道儀式に多少の知識のある将校や兵士が白装束を着用し、神職の役目を代行することが多かった。