2024年9月17日火曜日

1994年12月11日から勃発した第一次チェチェン紛争で、ロシア連邦軍兵士が、殺害された仲間の死体を運んだ。

1994年12月11日から勃発した第一次チェチェン紛争で、ロシア連邦軍兵士が、殺害された仲間の死体を運んだ。当初はエリツィン大統領は短期間でチェチェンを制圧できると考えていた。ロシア連邦軍は意外なもろさを見せ、ロシア連邦軍兵士が大量にチェチェンの武装勢力の捕虜になるなど、苦戦をした。

 チェチェン紛争でも、人質事件は相次いだ。1996年6月には、武装勢力がロシア軍の軍事行動中止を求めて、チェチェンに隣接するロシアのスタブロポリ地方にある病院を占拠した。患者や市民200人を人質にして立てこもった。エリツィン政権は、治安部隊を病院に強行突入させるも、制圧に失敗した。銃撃戦の巻き添えになった市民121人が死亡する悲劇になった。さらに1996年1月にも、チェチェンに隣接するダゲスタン共和国のキズリャルの病院を、武装勢力500人が占拠した。市民2000人を人質に取りました。このときもロシア軍が総攻撃をかけ、市民と兵士の83人が死亡した。軍事力でロシア連邦軍に劣るチェチェンの武装勢力は、しばしば人質作戦を展開してきたのです。

 1999年8月26日から勃発した第二次チェチェン紛争では、チェチェンの武装勢力が隣のダゲスタン共和国に侵入した。ダゲスタンとチェチェンを合わせた「イスラム国家」の樹立を目標に掲げた。ロシア連邦軍は、これを攻撃した。するとチェチェンの武装勢力は、9月に、モスクワなどロシア国内で計5件の連続爆破テロ事件を引き起こした。コンクリート製のアパートが崩壊する威力の強い爆弾が使われた。このテロ事件で、合わせて300人以上が死亡した。この時は、ロシア連邦の首相は、エリツィン大統領に指名されて就任したプーチンであった。プーチンは、この連続爆破事件を「チェチェン人の仕業だ」と断定して、直ちにチェチェン掃討作戦を展開した。

 罪もない民間人が大量に犠牲になったこの事件に怒りを募らせていたロシアの国民は、チェチェン掃討作戦を支持しました。今度は、ロシア連邦軍も、第一次チェチェン紛争のようなお粗末な行動はとらず、当初、快進撃を見せたことから、プーチンに対するロシア国民の支持が高まった。2000年2月には、ロシア連邦軍がチェチェンの首都グロズヌイ制圧を宣言した。武装勢力は、南部の山岳地帯に逃走した。プーチンの断固たる方針を、ロシア国民は歓迎した。エリツィンの引退を受けて2000年3月のロシア大統領選挙で プーチンの圧勝をもたらした。