2024年2月10日土曜日

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウは、広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で1945年10月11日に、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。

広島原子爆弾による原爆症に苦悩した娘の12歳の少女の竹内ヨウの両下肢である。広島市の大芝国民学校に設置された臨時特設救護病院で、1945年10月11日に菊池俊吉が撮影した。娘の竹内ヨウは、右股関節脱臼、右膝外側、左足に外傷、潰瘍状の挫傷を受傷した。




  竹内ヨウは、爆心地より南西約2km付近で被爆した。冷蔵庫が倒れて、その下敷きとなり、一時的に失神した。そのために右股関節が脱臼して、右膝と左足内側に外傷を受けた。その傷が化膿して重篤となった。後頭部にも、そいだ傷を受けていた。母も娘も原爆症が発現した9月18日から大芝国民学校に入所した。被爆後約2ケ月経過して、原爆症を呈した。脱毛、下痢、発熱が続いた。母親の竹内ヨネは10月14日に原爆症で死亡して、娘の竹内ヨウは1945年11月に原爆症により死亡した。

 大芝国民学校に臨時特設救護病院が設置され、爆心地から北2.4kmにあり、広島市西区大芝1丁目に位置した。校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたため臨時救護病院に転換した。被爆した8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、医療関係者は引き返して再び医療活動の任務に付いて、医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人が配置された。