2023年10月25日水曜日

太平洋戦争のブーゲンビルの戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル(Bougainville)の戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

 連合軍と日本軍のブーゲンビル島の戦いは1943年11月1日に勃発して、1945年8月21日に終結した。ブーゲンビル島はソロモン諸島にて約1万平方kmと最大である。日本軍は、ガダルカナル島から撤退した第十七軍の司令部を置いた。その兵力は第六師団、第十七歩兵団、南海第四守備隊などを中心に、最終的には約6万人から約8万人も駐留した。   

 1943年10月27日に、ニュージーランド軍がモノ島(トレジャリー島)に上陸して、日本軍の海軍陸戦隊の約200人を掃討した。10月27日にチョイセル島にアメリカ軍が上陸し、同島の日本軍守備隊約1,000人強との戦闘後に、11月4日には撤収した。11月1日、連合軍の第三海兵師団が、ブーゲンビル島のタロキナ海岸から上陸した。ラバウルの日本海軍航空隊が出撃して、タロキナ海岸付近のアメリカ軍艦船をブーゲンビル島沖海戦で攻撃した。上陸地点に最も近くのモシゲタに布陣した日本軍歩兵第二十三連隊は、約2,200人の兵力でタロキナ海岸に侵攻して、戦闘が11月8日に勃発した。約150対1もの格差があるアメリカ軍の火力に遭遇して、戦闘よりも虐殺に等しいと判断した日本軍の浜之上俊秋連隊長は、独断で撤退した。

  日本軍の歩兵第二十三連隊がタロキナ海岸上陸軍への攻勢を、中止して撤退した後に、日本軍の第十七軍は兵力を集中させて、攻撃の再開を準備した。その矢先に、ラバウルの日本軍の第八方面軍は、攻勢の延期を大本営から指示された。大本営は陸海軍部と早期攻撃を希望したが、第八方面軍は十分な兵力を集中した攻撃でないと、制空権も制海権も連合軍に握られた現状では、効果がないと延期で押し切った。攻撃の3日目で撤退した日本軍第二十三連隊長は、負傷して更迭された。一時は第八方面軍では、第二十三連隊長は敵前逃亡で軍法会議にかけるべきと強硬意見もあった。踏みとどまり攻撃を続行すれば早々に玉砕の全滅も予想されて、日本軍の方面軍の攻勢一時中止は当然だった。

  日本軍の第六師団はブイン地区から百数十kmもあり、一翼を担う第四十五連隊などは反対側、密林で覆われた山脈のタロキナ海岸の反対側キエタに布陣していた。3カ月余りをかけて、第六師団ほかに、在ブーゲンビル島の全兵力をタロキナ付近に集結させた第十七軍は、1944年3月8日、総攻撃を開始した。峻険なジャングルを切り開いて侵攻に時間がかかった。対する連合軍は、第14軍の約62,000人、そのうち第一線は第3海兵師団とアメリカル師団の計約27,000人だった。日本軍は、絶え間ない砲弾のなかで死守敢闘しが、1944年3月末に撤退のやむなきに至った。ブーゲンビル島の戦いの犠牲者は、日本軍は戦死その多くが餓死や病死で約2から3万人に上り、アメリカ軍は約1,243人が戦死した。日本軍は、終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないままに、国から見捨てられた多くの部隊が全滅した。