2023年9月30日土曜日

32歳の農業に従事していた女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。8月9日に被爆して3日後の9月11日に四病舎に、全身が衰弱して入院した。

大村海軍病院に収容せる原子爆弾の被爆した患者の惨状として、32歳の農業に従事した女性は、全身を長崎原子爆弾に爆傷して、大村海軍病院に救護された。被爆して3日後の9月11日に四病舎に収容され入院した。右臀部肛門を距る約2cmの部位に、長さ約4cm、幅約2cmの創面があり、全身が衰弱した。25%のブドウ糖約400ccに、ビタミンBCを加えて注射することにした。9月21日に、赤血球沈降速度が一時間約100mmに昇っていた。それ以外は示してなく、記録された記事がなかった。

 長崎原子爆弾の投下されて炸裂した直後に、長崎市の医療機関の活動は、長崎市医師会などの救援隊は爆心地周辺から医療救護活動を開始した。長崎市旧市街地の主な救護所は新光善小学校救護所と勝山小学校救護所であった。対岸地区の救護所は、稲佐小学校、三菱病院(本院)、御真寺であった。長崎北部では、平宗(現在の滑石一丁目)の民家が救護所に利用された。周辺では、ベテラン軍医の家族の救護が目立った。

 長崎原子爆弾の炸裂からわずか1〜2時間後には、長崎医科大学の職員が長崎医科大学病院の裏山で、被爆した負傷者の手当てを始めた。浦上第一病院(神学校跡地)の職員は焼け残った一室で、三菱病院浦上分院の職員は銭座町の防空壕で救護した。4〜5時間後には、諫早海軍病院救護班が第一陣として伊良林小学校で被爆した負傷者の手当てを始めた。大村海軍病院の救護班、国立小浜診療所の救護班(小浜町救護班)も長崎市の爆心地に入り、救護活動を執行した。

 長崎市は被爆直後から爆心地とその周辺で献身的な救援活動が行われた。しかし、その活動範囲は一部に限定された。空襲警報が頻発し、アメリカ軍の戦闘機が飛来するという最悪の状況下で、救援部隊の到着が遅れた。本格的な医療救援活動の開始も、長崎原子爆弾の投下翌日の8月10日にずれ込んだ。8月10日から、多くの海兵隊や陸軍の救援隊、各大学の救援隊を含む長崎県内外の救援隊が被災地に到着して、積極的な救援活動を行うことができた。日本海軍や日本陸軍の救援部隊の組織は、長崎県出身者が将校や衛生官として優先的に抜擢された。その指揮下で働く長崎出身者の兵士も入隊していたようである。壊滅的な被爆を受けた長崎市で活動するために動員された日本海軍と日本陸軍の救援部隊、大学の救援チーム、長崎県内外の救援チームが救護活動を展開した。




2023年9月29日金曜日

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、コレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、致命的なコレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。難民キャンプには、深刻なコレラの伝染病がまん延した。コレラ犠牲者の死体の多くは、アフリカの暑い太陽の下で露出して腐り、荒れ果てた火山荒野に積み重なった。他にも膨れ上がった死体が散乱して、世界史上最悪の疫病を必死で食い止めた。唯一の救援は集団墓地の掘削だけで、危機が終末的な範囲を示した。推定約120万人の難民がザイール国境を越えて流れ込んだ。

 1994年4月7日から7月15日に勃発したルワンダ大虐殺(ルワンダでツチ族に対するジェノサイドとも呼ばれる)では、アフリカ中東部に位置するルワンダの多数派フツ族が、少数派ツチ族を中心に80万人もの人々を殺害した。首都キガリでフツ民族主義者によって勃発した大量虐殺は、衝撃的なスピードと残虐さでルワンダ全土に広がった。一般市民は地元の役人やフツ勢力政府によって、隣人に対して武器を取るよう扇動された。ツチ主導のルワンダ愛国戦線が7月初旬の軍事攻勢によってルワンダを掌握するまでに、数十万人のルワンダ人が死亡し、約200万人の主にフツ族の難民がルワンダを逃れ、本格的な人道危機の事態が悪化した。ジェノサイドに協力し支援したのはルワンダ市民ぶあった。多くのツチ族や穏健なフツ族が、反ツチ感情に燃える隣人たちにより引き渡され、殺害された。難民のほとんどが新たに力を得たツチ反乱政府の報復を恐れたフツ族が、近隣のブルンジ、タンザニア、ウガンダ、旧ザイールの病気だらけの難民キャンプに詰め込まれた。

 1994年7月に、アフリカのザイール東部のゴマに住む約100万人近いルワンダ難民の間に、最悪の伝染病のコレラが流行した。国連難民高等弁務官事務所は、伝染病の流行で約12,000人近くが死亡したと推定した。バングラデシュ国際下痢症研究センターは、医療チームをゴマに派遣した。約2週間の滞在中に、ユニセフとザイール保健省と協力し、疫学的評価を行い、臨時治療センターを運営して、他の保健員にコレラと赤痢症の管理の技術的支援を行った。流行の原因の病原体と薬剤感受性を特定するため、ゴマに微生物学研究所を設置した。医療チームは、5つのキャンプ地のうち2つのキャンプ地にある多くの仮設治療施設を訪れ、医療提供者に技術的助言を行った。推定20万人の難民が流行の影響を受けたゴマ市の治療施設も訪問した。治療センターでもコレラによる死亡者は予想をはるかに上回った。

 治療センターでの全体の症例致死率は15%近くあった。研究所の調査により、初期の流行はテトラサイクリンとドキシサイクリンの抗生剤に耐性を持つコレラ菌と判明した。8月第1週までにコレラ患者数は減少したが、赤痢患者数は急速に増加した。主に赤痢菌1型が原因であり、赤痢菌はメシリナムを除くほとんどの赤痢治療薬に耐性であった。不適切な水分補給療法や保健員の経験不足もあり、死亡を防ぐことはできなかった。医療チームは、症例致死率が最も高い(14.5%)ゴマ市のカティンド臨時治療センターの運営を引き継ぎ、致死率を1%未満に下げた。




2023年9月28日木曜日

アメリカ南北戦争の終盤の1865年4月3日に、北軍に殺害された南軍兵士の死体が、ヴァージニア州ピーターズバーグのマホーン砦の泥だらけの塹壕に横たわった。

アメリカ南北戦争の終盤の1865年4月3日に、北軍に殺害された南軍兵士の死体が、ヴァージニア州ピーターズバーグのマホーン砦の泥だらけの塹壕に横たわった。北軍が市内周囲のロバート・E・リーの防衛線を突破した翌日の4月3日に、トーマス・C・ロシュ(Thomas C. Roche)によって撮影された。約292日間にわたるアメリカ南北戦争終結間近のリッチモンド・ピーターズバーグ作戦の終盤であった。第3次ピーターズバーグの戦いの一環であった北軍の攻撃で、北軍の戦線内にいた南軍兵士が殺害され死亡した。規模がはるかに大きい北軍が、手薄になった南軍に襲いかかった。この戦いで、北軍は約3,936人と南軍は約5,000人以上の兵士が犠牲となった。1865年4月3日に北軍兵士が、リッチモンドとピーターズバーグを占領し、他の北軍兵士は南軍を包囲した。ロバート・E・リー南軍将軍は、アポマトックス・コートハウスの戦いの後に、1865年4月9日に降伏を余儀なくされた。

 1861年から1865年にかけて戦われたアメリカ南北戦争は、アメリカ史上最も血なまぐさい戦争であった。最も死者が出たのは、1863年7月1日から7月3日のペニルバニアのゲティスバーグの戦いだった。この戦いだけで約52,000人が死亡、負傷、行方不明となった。約4年にわたる南北戦争の悲惨な戦場では、死、飢餓、戦場の破壊が展開された。南軍は、病気、飢餓、被曝、処刑を利用して、何千人もの元奴隷を殺害した。1865年4月9日に、南軍のロバート・E・リー将軍は、ヴァージニアで降伏し、血みどろの戦争は終結した。

 アメリカ南北戦争は、1861年から1865年にかけてわずか4年の短期間に約62万人もの命を奪ったアメリカ史上最も血なまぐさい戦争である。死者数は、当時のアメリカ人口の約2%を占めた。アメリカ合衆国が戦った他のすべての戦争を合わせたのとほぼ同数の死者数であった。南北戦争中の死者数は、第一次世界大戦(約116,516人)と第二次世界大戦(約405,339人)の死者数の合計よりも多かった。南北戦争中の静かな死因は病気であった。戦場や負傷で戦死傷した兵士の約2倍以上である。全体として、およそ4人に1人が終戦まで生きられなかった。




2023年9月27日水曜日

普仏戦争にて1871年にドイツのプロイセン軍がパリ近郊のモントルージュを攻撃した際に、2人のフランス人の子供が砲撃により殺害された。

普仏戦争は、1870年7月19日に勃発した。1871年にドイツのプロイセン軍がパリ近郊のモントルージュを攻撃した際に、2人のフランス人の子供が殺害された。スイス人の写真家が、戦争の犠牲者にも意図的に焦点を当て撮影した。普仏戦争にて、1870年9月1日のセダンの戦いでフランス軍が大敗して、皇帝ナポレオン3世が捕虜となった。10月31日に、フランス軍はル・ブルジェへの脱出を試みたが失敗に終わった。1ヵ月後に、セダンでプロイセン軍の捕虜となり首都パリに逃れたデュクロ将軍が、11月30日から12月2日にシャンピニー高原に足場を築くも、2日間の戦闘の後にフランス軍隊はパリ市内に撤退した。

 1871年1月5日に、プロイセン軍の砲台がパリを砲撃をした。1月18日に、ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国が樹立された。1月19日にトロチュー将軍が約10万人のフランス軍を率いて、ブゼンヴァルでの血なまぐさい惨事の後に、パリ市民の間には再び反乱が起こった。1月22日に、戦争継続を望むパリ市民の最後のあがきであったが、フランス新政府がプロイセン軍に休戦を要請した。1月23日に、休戦交渉を開始するためヴェルサイユに向かった。1月18日に、ヴェルサイユ宮殿の鏡の回廊で、ウィリアム1世はドイツ全王子に囲まれながら休戦を要請して、1月28日に休戦協定が署名された。パリ市民の苛立ちは頂点に達し、住民の苦難が緊張を高める一因となった。労働者自治政府のパリ・コンミューンが3月26日に樹立されてから、ヴェルサイユ新政府軍に鎮圧された5月28日まで成立した。普仏戦争の犠牲者は、プロシア軍は死者約44,700人、89732人が戦傷した。フランス軍は、約138,871人が戦死して、143,000人が戦傷した。

 子どもたちはパリ・コミューンに参戦した。ヴェルサイユ軍がパリに侵攻する前に、子どもたちが母親と一緒にバリケードを築いた記録は数多く残った。ヴェルサイユ軍がパリに侵攻して、反乱軍を見つけ次第に射殺し始めた。子どもたちは悲惨にも親と一緒に射殺された。パリ・コミューンの後に逮捕された16歳以下の子供は約516人、18歳以下の子供は約643人であった。パリ・コンミューン後に、囚われの身となった子供たちが、シャンティエ刑務所の1階に収容された。ひどい殴打や残酷な仕打ちを受けた。刑務所所長たちは、ある子供たちの服を脱がせ、収容者に殴らせた。子供たちは、刑務所長に殴られた藁の上で死亡することもあった。




2023年9月26日火曜日

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供を虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺して散乱したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供が虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。痩せて骨ばったアルジェリア人の犠牲者の死体が、虐殺現場に散乱した。

 1954年11月1日に、アルジェリアの独立を求めて戦闘するアルジェリア民族解放戦線(FLM: Front de Libération Nationale)が、フランスの植民地統治に対して武装抵抗を開始した。11月1日早朝に、ゲリラは軍事施設、警察署、倉庫、通信施設、公共施設などを複数襲撃した。民族解放戦線の軍隊は民族解放軍と呼称されて、わずか数百人の武装要員で始った。1957年までに約4万人近くの軍隊に拡大した。1956年から1957年にかけて民族解放戦線は、より武装したフランス軍との戦闘を避けて、待ち伏せと夜襲に重点を置いたひき逃げゲリラ戦術を採用した。

 1956年までに、フランスはアルジェリアに約40万人以上のフランス軍を投入した。民族解放戦線を攻撃する戦闘任務は主に植民地の精鋭歩兵空挺部隊とフランス外人部隊によって遂行された。フランス正規軍には約17万人のアルジェリア系イスラム教徒が軍務に就いて、ほとんどが志願兵であった。1950年代後半には、フランスは反乱軍への支援を阻止するため、約200万人以上のアルジェリア人を山地の故郷から平地の強制収容所に強制移住させた。

  アルジェリア戦争により、約30万人から150万人のアルジェリア人、約25,600人のフランス軍部隊、約6,000人のヨーロッパ人が死亡した。フランス軍は約8,000以上の村を破壊し、約200万人以上のアルジェリア人を強制収容所に強制移住させた。1962年のアルジェリア独立と同時に、約90万人のヨーロッパ系アルジェリア人が、民族解放戦線の復讐を恐れて数ヶ月にフランスに避難した。フランス政府は膨大な難民を受け入れる準備ができずに、フランス国内は混乱した。特にフランス軍として戦ったアルジェリア人兵士であるハルキ教徒は、裏切り者とみなされ、多くの者が民族解放戦線によって、リンチ集団によって、拉致され拷問を受けた後に殺害された。約9万人がフランスに脱国した。

 1954年11月1日、フランス系キリスト教入植者とベン・ベラが率いる民族解放戦線との間で戦闘が勃発した。当初は劣勢でも、十分に武装したフランス軍と植民地軍の残虐な行為により、すぐに民族解放戦線は農民大衆の支援がもたらした。民族解放戦線はゲリラ攻撃を1956年末にアルジェに拡大した。その結果、フランス第4共和制政府は入植者に対する制御を失った。第四共和制の崩壊を引き起こして、第五フランス共和国を創設するド・ゴールが復帰した。ド・ゴールは直ちに、サランの軍事秘密組織の抵抗して、彼の個人的権威によりアルジェリアにフランス軍の忠誠を再確立した。ド・ゴールは民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月18日にレマン湖畔でエビアン協定を締結して、戦闘は停止した。アルジェリアの独立は1962年7月3日に宣言された。




2023年9月25日月曜日

マレー半島南部のマラや連邦のマラッカのアサハンで、日本軍が中国人系住民を粛清した大量の遺骨が発掘された。日本軍がマレー半島を占領中に、華人社会で反日分子の容疑者を特定して、排除する大量虐殺を執行した。

マレー半島南部のマラや連邦のマラッカのアサハンで、日本軍が中国人系住民を粛清した大量の遺骨が発掘された。大東亜戦争にて、日本軍がイギリス軍から1942年1月31日にマラヤ連邦を、シンガポールを2月15日に奪取して占領した。粛清(Sook Ching)は、浄化による粛清を意味する中国語である。日本軍がマレー半島を占領中に、大検挙と呼称して、華人社会で反日分子と疑われる人物を特定して、排除する大量虐殺を執行した。日本軍は1942年2月21日から3月4日に、18歳から50歳までの中国人男性が、集団検挙センターに強制連行されて、反日の容疑者は処刑された。日本軍は、中国の国民党と共産党の両勢力を財政的に支援する中国人系の華人を最も嫌悪した。

 1942年2月18日に、日本軍第25軍司令官の山下奉文中将は、中国人内の反日分子の排除を命じた。日本軍の占領軍が、反日容疑者は裁判なしで処刑した。2月7日に、マレー連隊の約70人の生存兵士が、日本軍によりシンガポールのファラーパークの捕虜収容所からパシルパンジャンの戦場に強制連行されて銃殺された。粛清は2月21日にシンガポールで、その後にマラヤ全土で勃発した。脅威と容疑した中国人の華人を一網打尽にして処刑する大虐殺の粛清の勃発であった。日本軍憲兵隊によって推定約5万人以上の中国人系の華人が殺害された。

 1942年2月18日に、山下奉文中将は日本軍第25軍に対して粛清の指令が出した。粛清の指令は、18歳から50歳までの中国人系の華人男性に、指定スクリーニングセンターに出頭を命じた。指令は特に、義勇軍、共産主義者、略奪者、武器所持者、日本軍が管理・配布した反日容疑者リストが選別処刑の対象者であった。

 集団検挙は、1942年2月21日から3月4日まで、日本軍の憲兵隊第2野戦部隊によって、都市部で執行された。各指定スクリーニングセンターの選別は、恣意的かつ無秩序に行われた。ジャラン・ベサールセンターでは、眼鏡をかけた男性は教養があり、抗日活動を行った罪があると選別された。別のセンターでは、柔らかい手は教育の証拠で選別された。テロック・クラウ・スクールのセンターでは、人々は職業に基づいて選別された。不運にも選別された人々は、ローリーに積み込まれて、遠隔地に強制連行された。容疑者は、即刻に機関銃で射殺して処刑された。日本軍は、粛清の殺害をほとんど隠さなかった。日本軍は、約5,000から約6,000人を処刑したと推定された。中国人の華人らは約40,000から約50,000人と推定した。




2023年9月24日日曜日

ウクライナ東部のドネツク州のコスチャーンチニフカで、2023年1月28日にロシア軍のミサイル攻撃により死亡した34歳のミハイロ・コヴァレンコの死体を見て、母親の66歳のニーナ・コヴァレンコが母親がひざまずき、泣きながら息子の死体の脇腹を撫でた。

ウクライナ東部のドネツク州のコスチャーンチニフカ(Kostyantynivka)で、2023年1月28日にロシア軍のミサイル攻撃により死亡した34歳のミハイロ・コヴァレンコ(Mykhaio Kovalenko)の死体を見て、母親の66歳のニーナ・コヴァレンコ(Nina Kovalenko)が慟哭した。コスチャーンチニフカは、激戦地のバフムトの南西約24kmに位置した。住宅街の中庭、残骸と瓦礫に囲まれた地面に上半身をシーツに覆われた息子の死体が横たわっていた。母親がひざまずき、泣きながら息子の死体の脇腹を撫でた。もう一人の死体はシーツに覆われ、男性が衝撃の瞬間に押していたと思われる手押し車の近くに横たわっていた。

 NATO諸国が重戦車の提供をウクライナに約束したニュースの中で、ロシア軍は2023年1月下旬に、ミサイル、爆発する無人機、砲弾でウクライナの各地を砲撃した。その攻撃は1月28日にも続き、ロシア軍のミサイルはウクライナ東部ドネツク州のコスチャーンチニフカ市を攻撃した。ドネツク州はロシア軍とウクライナ軍の支配下にほぼ二分されて、ロシア軍がバフムトを占領するために数カ月間に攻勢して、戦争の震源地となった。

 ロシア軍のミサイルはコスチャーンチニフカの住宅街に落下して、3人の市民が死亡して、14人が負傷した。4棟の高層アパート、ホテル、車庫が損壊した。コスチャーンチニフカはロシア・ウクライナ戦争の前線から比較的には少し遠方の街であったが、それでもロシア軍の攻撃は絶えなかった。コスチャーンチニフカの街に残っている住民は皆、命の危険にさらされた。ロシア軍はウクライナ軍と戦うだけでなく、民間人も標的にした。

 1月28日未明のテレグラムへの投稿では、ドネツク州に対するロシア軍の攻撃により、24時間で4人の市民が死亡して、7人が負傷したと公表した。1月27日夜らは、ロシア軍のロケット弾が、ドネスク州のチャシヴ・ヤールの住宅地を直撃して、2人が死亡し、5人が負傷したと発表した。3階建ての学校の建物が炎上して燃えていた。ロシア軍は1月28日から1月29日朝にかけて、ウクライナ領内で10回のミサイル攻撃、26回の空爆、81回の砲撃を行ったとウクライナ軍は公表した。ロシア軍が一部占領しているヘルソン州で、砲撃により市民2人が死亡した。














Warning: Nina Kovalenko, 66, crying over the body of her son Mykhailo Kovalenko, 36, who was killed in a strike on Saturday in Kostyantynivka, in eastern Ukraine.(Lynsey Addario for The New York Times)

2023年9月23日土曜日

長崎原子爆弾で、3歳の日本人の少女が火傷を負った。1945年9月29日に少女の頭部には包帯が巻かれて歩き回った。長崎原子爆弾の爆心地からの南方に約1.9kmの地点にて、破壊された自宅近くで受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に、アメリカ空軍により長崎市に落下して炸裂した爆発で、3歳の日本人の少女が火傷を負った。9月29日に少女の頭には包帯が巻かれていた。長崎原子爆弾の爆心地からの南方に約1.9kmの地点にて、破壊された自宅近くで受傷して、頭部に包帯を巻いて歩き回った。日本人の少女は崩壊した長崎真意の廃墟で遊んでいた(米国国立公文書館、写真番号290036_ボックス570_RG111SC、https://www.nichimyus.jp/)。アメリカ陸軍の空軍部隊が、原子爆弾に被爆した長崎市を視察して撮影して記録した。












 

 原子爆弾の炸裂により、巨大な火球が現れ、火球は太陽の約100倍もの明るさで、中心部分は数百万度であった。強烈な熱線、猛烈な爆風、膨大な放射線を放出して、爆心地を中心として広範囲を一瞬のうちに火襲した。熱線は、爆心地では地表の表面温度が約3,000~4,000度に達した。強烈な熱線によって被爆者は重度の火傷を負って、多くの人が死傷した。その直後からに発生した火災も被害を大きくて壊滅した。

 長崎原子爆弾の被害状況(1945年12月末までの推定)※当時の長崎市内の推定人口約24万人(1945年5月31日時点の配給人口)であり、そのうちに死者は73,884人、負傷者は74,909人に達した。(原爆資料保存委員会報告(1945年7月発表)) 長崎原子爆弾により、頭部に火傷を被爆した少女は、廃墟になった長崎市内の瓦礫の地面中で探索して周囲を物色していた。




2023年9月22日金曜日

北東アフリカのスーダンにて1899年11月25日のウム・ディワカラートの戦いは、イギリスのエジプト遠征軍がマフディスト軍と信奉者を残忍に大量虐殺して、約1,000人以上の死体が散乱してマフディスト国家は滅亡した。

北東アフリカのスーダンにおける1899年11月25日のウム・ディワカラート(Umm Diwaykarat)の戦いは、マフディスト国家の最終的な滅亡を示した。カリファとして知られるアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドが指揮下したマフディスト軍の残党が撃破された。マフディスト軍と信奉者らは残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死体が散乱した。マヒディ国家の後継者であったハリファとして知られるアブダラヒ・イブン・ムハンマドの死体も含まれていた。

 首都オムドゥルマンから撤退したマフディスト軍は、後継者のハリファと約1万人の残りの信奉者たちは、追撃してきた約8000人のウィンゲート将軍の指揮したエジプト遠征軍と立ち向かうことを選択した。武装していたマフディスト軍は残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死者が出た。

 その1年前の1989年9月2日に、スーダンの首都オムドゥルマン(Omdurman)の戦いで、イギリス軍のキッチナー卿が指揮下したエジプト遠征軍に、マフディスト軍は同様に悲惨な敗北を喫した。約52,000人のマディスト軍は、約12,000人が戦死して、約13,000人が戦傷して、約5,000人捕虜になった。約25,800人のエジプト遠征軍は、約48人が戦死して約382人が戦傷して、近代的装備で圧倒した。

 マフディストの反乱軍はオスマン・エジプト政権を打倒し、オムドゥルマンを首都とする独自のイスラム・国家を1885年1月26日に樹立した。イギリスは1898年にスーダンを再征服して、植民地としてスーダンを統治した。イギリスの首相に2回なったウィンストン・チャーチルは、イギリス陸軍の将校として、キャリアアップのために戦闘の経験を求めてオムドゥルマンの戦いに参戦した。チャーチルは、電信、鉄道、新世代の兵器の使用による戦争の機械化を詳しく述べた『河川戦争The River War:スーダン再征服の歴史的記述(1899年)』を敢行した。




2023年9月21日木曜日

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍によるタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設する強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍による泰緬鉄道の強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。手足のしびれ、筋肉の機能低下、嘔吐、精神錯乱などがみられた。脚気は、水腫を引き起こした。体内の水分が足のほうに流れ込み、足と脚が腫脹した。足はひどく腫れており、立ったり歩いたりするのが非常に苦痛である。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

 日本軍は1943年12月5日から、大東亜戦争に必要な物資を供給するため、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を執行した。泰緬鉄道は険しいジャングルの中を約420kmも建設した。約6万人の連合軍の捕虜と約20万人のアジア系労働者のロムシャの俘虜労働力によって建設された。1943年のモンスーンの中で、手工具と筋肉で鉄道を敷設した。全員が日本軍の「スピード」との叫び声に駆り立てられた。致命的な熱帯の環境下、不十分な配給での容赦ない強制労働は、莫大な犠牲をもたらした。1943年10月に鉄道が完成するまでに、少なくとも約2,815人のオーストラリア人と、約11,000人以上の他の連合軍捕虜、約75,000人のロムシャが病死した。

 ビルマ-タイの泰緬鉄道での死因の最たるものは病気であった。過度の労働、栄養失調、粗末な食事、日本軍が十分な医薬品を提供することを拒んだ結果、ほとんどすべての捕虜が病気になった。強制労働させられた捕虜は一度に複数の病気にかかることが多かった。重病人のみが休息を許された。民間人なら重病と見なされても、働き続けた。

 病気では赤痢と下痢で、捕虜の死因の3分の1以上を占めた。便が出続けることで脱水症状を引き起こし、生存に不可欠なビタミンが失われた。栄養に富んだ食事がなかったため、アビタミノーシス(ビタミン欠乏による病気)が蔓延した。その最も頻発する病気は、ビタミンB1の欠乏による脚気とナイアシンの欠乏によるペラグラであった。

 マラリアはビルマ-タイ鉄道での死者の約8パーセントを引き起こした。マラリアは蚊によって媒介され、その症状は悪寒、発熱、衰弱であった。被害者は、戦後も繰り返し発症することがあった。熱帯性潰瘍は、鉄道事故による死者のわずか2%であったが、特に嫌われた。傷口が微生物に感染することで発症し、骨まで肉を食いちぎられた。多くの場合、切断が唯一の選択肢だった。しかし、適切な薬や器具がなかったため、多くの患者が命を落とした。

 その他の病死では、コレラは非常に感染力が強く、死亡率も高いため、囚人の約12%が死亡した。糞便に汚染された食物や水によって蔓延し、便所があふれる雨季に流行した。激しい胃痙攣で二重になって地面に転がり、手足は痙攣し、筋肉が痙攣してピクピク動いた。嘔吐と、腸から米のとぎ汁の白っぽい液体が無理矢理押し出され噴出した。

 1943年半ばの泰緬鉄道の追い立てられた「スピード」の時期には、毎日のように死者が出ていたため、各収容所には粗末な墓地があった。後で遺体を回収して身元を確認できるように、医療関係者は死者の墓場の詳細を記録した。葬式は厳粛に行われ、ジャングルからラストポストの音符が聞こえた。焚き火の刺激臭がキャンプ中に漂った。日本軍は死んだ捕虜の埋葬を許可し、葬儀に立ち会った。生前の捕虜の苦しみには無関心でも、死後は尊重した。




2023年9月20日水曜日

クロアチアのファシスト組織のウスタシュは、1945年3月27日から28日の夜中に、サラエボのマリンドヴォル地区にて55人のサラエボ市民を木や街灯に吊るして絞首刑にした。

クロアチアのファシスト組織であるウスタシュ(Ustaše)は、1945年3月27日から28日かけた夜中に、サラエボのマリンドヴォル地区にて55人のサラエボ市民を木や街灯に吊るして絞首刑にした。「ポグラヴニク万歳!」と書かれた標識が、絞首刑されたサラエボ市民の首にかけられた。サラエヴォ市民の死体は、他の人々への見せしめとして吊るされたまま放置された。死体を回収しようとした人々には発砲された。2月18日から4月4日まで、ルブリッチとウスタシャはサラエボ市民に対して悲惨なテロを実行し、少なくとも783人のサラエボ住民を殺害した。殺人と暗殺に対する絞首刑による報復の処罰が執行された。

 ウスタシュの幹部であるヴィエコスラフ・ルブリッチ(Vjekoslav Luburić)が絞首刑を命じた。ウスタシュによる強制収容所にて、セルビア人、ユダヤ人、ロマ人の同時期の大量虐殺を指揮した。1945年2月に、ウスタシュの独裁者であるパヴェリッチ政権は、ルブリッチをサラエボに派遣し、その後約2ケ月間に、数百人の共産主義者の拷問と殺害を指揮した。3月21日、ウスタシュはルブリッチの暗殺計画を摘発した。その後に4人のウスタシュが、パルチザンにより殺害された。その報復として、容疑者のサラエボ市民55人を見せしめの絞首刑を執行した。最も恐ろしい残虐行為は、ベルコビッチと呼称されたルブリッチの別荘の地下室でホロコーストが執行された。

 ウスタシユは、1929年から1945年にかけて、クロアチアのファシスト組織であった。第二次世界大戦中にユーゴスラビアにて、ウスタシュは、数十万人のセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反体制のクロアチア人を、ホロコーストを執行して大量虐殺した。ウスタシュは、ボスニア人をイスラム教徒のクロアチア人とみなして迫害しなかった。1941年4月10日に、枢軸国の準保護国として、傀儡国家のクロアチア独立国(NDH)として、ユーゴスラビアの一部の統治を任命され、権力を握った。ウスタシュは軍事的に弱く、クロアチア人の支持を欠いた。1945年5月15日に、クロアチア独立国は崩壊した。ルブリッチは、枢軸国以外で唯一クロアチア独立国を承認したスペインに逃亡した。1969年4月21日に、スペインでユーゴスラビア国家保安局(UDBA)の諜報員であるイリヤ・スタニッチにより暗殺された。




2023年9月19日火曜日

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いのテナル川の戦い後に、日本軍兵士の海岸とココナッツ林に死体が散乱した。一木分遣隊の約917人のうち約800人が戦死した。

太平洋戦争のガダルカナル島の戦いのアメリカ軍側の別称であるテナル川の戦い後に、日本軍兵士の海岸とココナッツ林に死体が散乱した。ガダルカナル島に一部派遣された一木分遣隊は、8月21日に飛行場周辺のテナル川の戦いで上陸したアメリカ軍に突撃した。ガダルカナル島のテナル川の戦いは、日本軍にとり最初の大規模な陸上攻撃であった。一木分遣隊は、アメリカ軍のガダルカナル上陸を受けて、飛行場の奪還の任務を帯びてガダルカナル島に派遣された。日本軍は、上陸したアメリカ軍を過小評価して、大東亜共栄圏各地から集められた日本軍の予備兵員を断片的な投入を繰り返した。

 一木分遣隊は、日本軍の本来の別称であるイル川渡河戦にて、夜間にアメリカ軍陣地への正面攻撃を行った。アメリカ軍の砲撃と機関銃の猛攻により、ほとんどの日本軍兵士はイル川の砂州を渡る際に殺害された。アメリカ軍は戦車を投入して、一木分遣隊を包囲してココナッツ林に追い込んで壊滅した。一木分遣隊の約917人のうち約800人が戦死した。8月21日午後3時に終結するも、負傷した日本軍兵士から銃撃されないように、すべての日本軍兵士の死体に銃撃して、銃剣で刺殺して絶命した。

  太平洋戦争のガダルカナル島の戦いは、雨期にソロモン島をめぐる血なまぐさい長期の戦いは、1942年8月7日に勃発した。部分的に建設された日本軍の飛行場が運用可能になる前に占領するために、アメリカ軍が上陸を実行した。8月9日未明に、日本軍戦艦三河が、サボ島沖の戦いでアメリカ軍の掩護部隊を奇襲し撃破した。8月10日には、日本軍の空襲を警戒して、アメリカ軍の戦艦も積荷の輸送船も撤退した。上陸したアメリカ軍は、8月20日までは予備兵力と補給物資を失って非常に脆弱となった。

 ガダルカナル島に上陸後の数ヶ月間に、ヘンダーソンフィールド飛行場の滑走路を攻防のために、多くの絶望的な悲惨な陸戦が繰り広げられた。アメリカ軍は、次第に予備兵力と補給物資を補強して、徐々に境界線を拡大した。敗走する日本軍兵士は降伏を拒否して、日本軍兵士は戦場で死にかけても、アメリカ軍兵士を殺し続けようとした。




2023年9月18日月曜日

第1次世界大戦の西部戦線にて、ペロンヌ近郊の森でフランス軍歩兵中隊が、1914年8月28日未明にドイツ軍の奇襲を受けて撃墜された。多数のフランス軍兵士が犠牲となった死体が、ペロンヌ近郊の戦場に散乱した。

第1次世界大戦の西部戦線にて、フランス北東部のペロンヌ(Péronne)近郊の森でフランス軍歩兵中隊が、1914年8月28日未明にドイツ軍の奇襲を受けて撃墜された。多数のフランス軍兵士が犠牲となった死体が、多くの戦闘が行われたペロンヌ近郊の戦場に散乱した。フランス軍将校が、散乱した死体を見回した(Illustrated War News, Oct 14, 1914)。

 1914年9月24日付のフランス軍の公式通信にて記録された。「ドイツ軍の分遣隊はペロンヌを占領して、フランス軍の激しい攻撃にもかかわらず、この戦場を維持していた。ドイツ軍は8月27日から9月14日までペロンヌを占領していたが、フランス軍騎兵師団がペロンヌを一時的に再占領した。8月28日に、ドイツ軍は再びペロンヌに侵入した。メール紙の特派員は、隣村から見たその後の戦況を記録した。砲弾は道路にも、その向こうの森にも落ちていた。ある朝11時、フランス軍はドイツ軍からひどい集中砲火にさらされた。フランス軍は一時的に持ちこたえるも、ドイツ軍はフランス軍の陣地を占領した。

 ドイツ軍は8月28日未明に、バポームから侵攻して、ペロンヌ周辺の屯所にいたフランス軍を奇襲した。この攻撃は8月29日まで続き、フランス軍はドイツ軍部隊によってバポームの南西にあるマナンクールから追い返された。さらに東側では、イギリス遠征軍(BEF)の左側にいたフランス軍が、ドイツ軍がペロンヌ郊外に8月27日に到達するのを阻止できなかった。

 フランス軍はソンムの南へ撤退して、8月28日にペロンヌはドイツ軍に再占領された。ドイツ軍の侵攻はアミアンに向かって続いた。8月29日に、フランス軍はアミアンに近いブレイ=シュル=ソンム、シニョール、フラメルヴィルに到達した。ドイツ軍の前衛部隊を反撃した。ドイツ軍の反撃によりプロヤールが奪還されて、フランス軍は南へ後退した。9月11日に、ドイツ軍はアミアンから撤退して、9月12日にフランス軍はルーアンから到着して、数名の残存兵力を捕捉した。フランス軍は、9月17日にペロンヌとフリクールに向けて北東に侵攻した。

  1914年8月に第1号が発行された"Illustrated War News(イラストレイテッド・ウォー・ニュース)"は、イギリスのロンドンのイラストレイテッド・ロンドン・ニュース アンド・スケッチ社が発行した第一次世界大戦中の週刊誌の写真であった。雑誌は48ページの記事、写真、図、地図で構成されて、横長の形式で印刷された。1916年からは縦長の約40ページの出版物が発行された。第一次世界大戦の経過について報道する芸術家特派員が最も多いと評判だった。1918年に出版が中止された。




2023年9月17日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ウクライナの首都キエフ北西のボロディアンカ郊外の墓地に、2023年3月2日に掘り起こされた3体の死体が横たわった。身元不明な3体の死体が入った袋は死体安置所に運搬された。

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年3月2日に、ウクライナの首都キエフ北西のボロディアンカ(Borodyanka)郊外の墓地に、掘り起こされたばかりの3体の死体が横たわった。発掘された直後の3体の死体が入った袋が死体安置所に運搬された。その身元は確認できていない。

 首都キエフ近郊の町や村が、2022年2月24日のウクライナ侵攻の勃発直後から、キエフ近郊に向かって侵攻してきたロシア軍が短期間にボロディアンカを2月28日に占領した。その場しのぎに集団墓地に埋葬された。ウクライナ軍当局は、キエフ郊外を再奪還してからほぼ1年後にも、その場しのぎの墓に急遽埋められた市民の遺体をいまだに掘り起こしている。約200体近くの死体が身元不明のままであり、約280人が行方不明者として登録された。キエフ地方のロシア占領地域で発見された民間人の遺体は約1,373体となり、そのうち約197体はまだ身元が確認されていない。

 ウクライナ軍の救護隊が到着したのは、ウクライナ軍がボロディアンカを奪還した後の2022年4月だった。救護隊は瓦礫を2週間ほど掘り続けて、約15人の死体を発掘した。しかし、アパートなどの建物内にいた数十人の死体の痕跡は見つからなかった。ロシア軍がボロディアンカ住民から約100人以上をベラルーシに強制連行した噂もあった。

 ボロディアンカは、ウクライナ侵攻中にロシア軍によって大規模な2022年3月1日と3月2日に大爆撃を受けた。ウクライナ当局によると、がれきの下から約41体の死体が発見された。3月26日、キエフから撃退されたロシアは、この地域から完全に4月1日に撤退した。5月6日に地元警察は、ロシア軍占領下に埋葬された約300体以上の死体が発見されたと報告した。






















Warning: Men carry bags containing three freshly exhumed bodies in a cemetery on the outskirts of Borodyanka, Ukraine, Thursday, March 2, 2023. Nearly a year after towns and villages near Kyiv were retaken from Russian troops who had seized territory as they raced toward Kyiv at the start of their invasion of Ukraine, authorities are still exhuming the bodies of civilians hastily buried in makeshift graves. (AP Photo/Vadim Ghirda)


2023年9月16日土曜日

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した。爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。

広島原子爆弾が投下されて約2ケ月後の袋町救護病院にて、1945年10月8日の外来被爆患者の診療風景を撮影した(菊池俊吉)。広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mの至近距離にあった袋町国民学校は、原子爆弾投下直後の救護活動で重要な役割を果たした。1937年に増築されて、校舎は広島原子爆弾で完全に破壊された。新築の西校舎の鉄筋コンクリートの建物は外殻が崩れずに残存した。疎開していなかった袋町小学校に残存した児童の約160人のうち157人が原爆死して、教職員の16人も犠牲になり原爆死した。3人の児童は、西校舎内で被爆して、その後地下室に避難して生存した。

 広島原子爆弾が8月6日に投下されて炸裂した翌日の8月7日から、臨時救護所に転換された。約2ケ月を経過した1945年10月5日から救護組織がかわり、日本医療団病院として、 袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も計7ヵ所に整理された。このころには広島市内の居住者も減少して、外来被爆患者の数も峠をこした。救急臨時救護所は戦時災害保護法にもとづくもので その期限は2ヵ月であった。10月5日現在で、広島市内の臨時救護所は11ヵ所、入院被爆患者は約500名、外来被爆患者は1,200名であった。

 菊池俊吉は、被爆直後の広島の惨状を鮮明に写真の撮影をした。撮影のネガフィルムが、良好な状態で現存して、東京都練馬区に住む妻の徳子が保管していた。一人の撮影者による原爆記録写真では、最多の783点に上った。旧文部省が編成した「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の記録映画製作班に同行して、1945年10月1日から10月20日までスチル写真を撮影に当した。広島赤十字病院や広島逓信病院で治療を受けるやけどや放射線障害の患者、救護病院となった大芝国民学校や袋町国民学校で死にゆく親子ら、被爆直後の生々しい光景を克明にとらえた。




2023年9月15日金曜日

アフリカのアンゴラ独立戦争によりポルトガル領アンゴラでは、1961年3月15日に白人のポルトガル人の雇い主に忠誠を誓い続けるアフリカ人をアンゴラ人民同盟が殺害した。

アフリカのアンゴラ独立戦争によりポルトガル領アンゴラでは、1961年3月15日に白人のポルトガル人の雇い主に忠誠を誓い続けるアフリカ人をアンゴラ人民同盟(UPA)が殺害した。1961年3月15日から7月8日までのアンゴラ戦争の最初の数か月間に、ホールデン・ロベルトの武装勢力のUPAによって引き起こされた残忍なテロ攻撃によって、大量虐殺された。

 オラシオ・カイオ(Horácio Caio)が『アンゴラ、絶望の日々(1961年10月)』に出版してアンゴラの植民地戦争が公開された。UPAが白人、黒人、女性、子供、高齢者、無防備な人々の民間人に対して行った大量虐殺の残酷な写真が掲載された。UPAは、解放の名の下に解き放たれた盲目で抑制のないテロ攻撃となった犠牲者の多くの死体の写真が公開された。アンゴラ独立戦争により、1961年2月4日から1974年4月25日まで植民地戦争が勃発した。

 1961年3月15日に、アンゴラ人民同盟(UPA)はホールデンの下で、約4000人から約5000人のアンゴラ人の武装勢力を率いて拠点のザイールからアンゴラ北部に侵攻した。アンゴラ人民同盟の軍隊は農地や政府の前哨基地、交易センターと植民者居留地、商業地域を奪って占領した。民間市民や公務員の役人などを殺害した。その犠牲者の殆どは、中央高地から来たオヴィンブンド人の契約労働者だった。UPAの武装勢力は、ザイール州、ウイゲ、クアンザ・ノルテ、ルアンダのアンゴラ地区を襲撃し、侵攻中に民間人を虐殺し、1,000人の白人と6,000人の黒人(女性や子供もその中に含まれた)を殺害した。ヨーロッパ系白人やアフリカ系黒人の女子供も含んだ。殺戮だけでなく、UPAの武装勢力は家屋、農場、道路、橋などのインフラを破壊し、全体的な混乱とパニックを引き起こした。恐怖に怯えた住民は森に避難したり、近隣地域やコンゴ・レオポルドヴィルに逃亡した。

 アンゴラ独立戦争の起点である1961年2月4日に、アンゴラのルアンダで約50人のアンゴラ解放人民運動が、警察署と聖パウロ刑務所を襲撃して、約40人の襲撃者が死亡して、7人のポルトガル人の警察官が殺害された。2月5日のポルトガル人警察官の葬儀で、ポルトガル人の復讐は凄まじかった。警察は夜間にルアンダのスラムで市民を虐殺をするのを手伝った。白人達は、アフリカ人を脆い家から引きずり出し、約300人を射殺した後に路上に死体を放置した。UPAが3月15日にアンゴラ北部の全体を壊滅させる戦争の最初の起点となった。




2023年9月14日木曜日

ライハルト・ハイドリヒ総督を暗殺した容疑者が、1942年6月18日にチェコスロバキアのプラハのキュリロス・メトディオス教会にドイツの国家秘密警察であるゲシュタポに追い込まれた。親衛隊が突入した直後に暗殺者と容疑者ら全員が銃殺された。

ライハルト・ハイドリヒ総督を暗殺した容疑者の集団が、1942年6月18日にチェコスロバキアの首都プラハのキュリロス・メトディオス教会にナチス・ドイツ軍の国家秘密警察であるゲシュタポに追い込まれた。カール=ヘルマン・フランクの命令を受けた親衛隊(SS)が突入した。その直後に暗殺者と容疑者ら全員が銃殺された。その後に、教会から死体が外地に引きずり出され、秘密警察や親衛隊が取り囲んで見下した。

 1939年9月に、ハインドリヒはナチ警察の部署を統括して、強力なテロ機関である国家保安本部(RSHA)に変貌させた。1941年12月27日にハイドリヒは、プラハの総督に赴任した。12月15日に、プラハ聖堂横の広場で、抵抗運動者を機関銃で公開処刑した。ハイドリヒは、プラハの虐殺者と呼称された。チェコ首相のアロイス・エリアスを、1942年6月6月19日に死刑を執行した。

 1942年5月27日に午前10時32分にプラハの地下グループは、クビスの所持していた爆弾が、ハイドリヒの乗用車を爆破した。ガブツィクのステン銃は作動しなかった。トラックの荷台で、負傷したハイドリヒが搬送された。6月4日にハイドリヒは負傷による感染症で死亡した。8人の暗殺者と抵抗運動者は、ギリシア正教のキュリロス・メトディオス教会の地下室に潜伏していた。6月18日に親衛隊の戦闘部隊が、地下室に突入した。銃撃された血まみれの死体や自害した死体が散乱した。

 ゲシュタポは、ハイドリヒ暗殺事件後にチェコスロバキア全土に戒厳令が施行され、ゲシュタポは、ハイドリヒの暗殺に対するチェコ市民に復讐するために、約13,000人を大量逮捕して、そのうち約600人を武器の不法所持で処刑した。プラハ北西のリディツェ村は6月10日に、男性と15歳以上の少年を合わせて約199が処刑され、女性はラーヴェンスブリュックの強制収容所に送還された。6月24日に、レジャキ村が破壊され、成人の33人の男女全員が射殺された。






2023年9月13日水曜日

ペリリュー島の戦いで日本軍兵士は戦車隊と、飛行場を占拠するアメリカ軍陣地の爆破を狙うも、アメリカ軍の反撃を受け、日本軍兵士の死体と壊滅した戦車隊が散乱した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いにて、アメリカ軍は1944年9月15日午前8時30分に2回目の強行上陸した。日本軍兵士らは日本軍14師団戦車隊とともに、飛行場を占拠しようとするアメリカ軍第1海兵師団と第1海兵隊連隊G中隊の陣地の爆破を狙った。逆に、アメリカ軍の反撃を受けて、日本軍兵士と戦車隊は壊滅した。アメリカ軍は2回目の上陸には、1回目の数倍の兵力と物量を駆使した。アメリカ軍は多大の犠牲を伴って、飛行場の南西端に上陸した。戦車を伴って、飛行場の南東端の付近まで侵攻した。

 アメリカ軍は、広大な飛行場に突撃する日本軍の戦車隊を、37m砲で狙い撃った。アメリカ軍は、対戦車砲で日本軍の戦車隊を撲滅した。さらに、戦車から脱出しようとする日本軍兵士を、火炎放射を浴びせて焼き殺した。焼けただれて、日本軍の戦車隊の死体が転げ落ちた。

 ペリリュー島に上陸したアメリカ軍は9月15日の1回目の午前6時15分からの強行上陸は頓挫して、午前8時すぎに一時的に撤退した。日本軍は9月15日は3回突撃をして、1回突撃する度に、日本軍兵士の約3分の1ずつ損失した。海岸では、どこが陣地かもわからないほど入り乱れた白兵戦となった。ペリリュー島に上陸したアメリカ軍の第1海兵師団の兵士は、浜辺の陣地に潜む日本軍兵士からの猛攻が予想外の脅威となった。アメリカ軍は、ペリリュー島の上陸前の絨毯爆撃で、日本軍の陣地は壊滅したと思い込んだ。日本軍兵士は、地底から湧き出るように、次々にアメリカ軍に突撃した。

 オレンジ・ビーチと呼称したペリリュー島西地区の海岸線には、椰子の林の中では、日本軍が、1回目に上陸したアメリカ軍と対峙して狙撃した。日本軍は、隆起した珊瑚の山をくり抜いた洞窟の陣地に潜伏しては一斉射撃した。アメリカ軍兵士は、進退も困難となり、前線の陣地に釘付けとなり、多大の犠牲を伴った。アメリカ軍は、ペリリューの戦い後に、1回目に上陸した西海岸をオレンジ・ビーチと呼称した。アメリカ軍兵士の血で白い珊瑚の海面がオレンジ色に変色した。アメリカ軍は2回目強制上陸は、飛行場の南西端から次々に上陸して、日本軍陣地を迂回して天山方面から攻略した。




2023年9月12日火曜日

第一次世界大戦の西部戦線の1915年にベルギーの第二次イーペルの戦いにて、イギリス軍やドイツ軍の死体が散乱した。イギリス軍兵士が、ズアーブ・ウッドの塹壕にて、イギリス軍兵士の死体を捜索して検死した。

第一次世界大戦の西部戦線の1915年にベルギーの第二次イーペルの戦いにて、イーペル峡谷(Ypres salient)に戦死者のイギリス軍兵士やドイツ軍兵士らの死体が散乱した。イギリス軍兵士が、ズアーブ・ウッド(Zouave Woods)の塹壕にて、イギリス軍兵士の死体を捜索して検死した。ドイツ軍のズアーブ・ウッドの塹壕に対して、イギリス軍第6師団が襲撃した。イギリス軍は反撃したズアーブ・ウッドの戦いで殺害されて倒れた男たちの死体を発見した。イーペル峡谷のサンクチュアリの森の西にある小さな森はズアーブ・ウッドと呼称された。ズアーブとはフランス軍のズアーブ連隊の兵士の名称であった。ドイツ軍は、メニン街道の北から森を流れる小川をズアーブと呼称した。

 フーゲ村はイーペルの東約5kmで、第一次世界大戦の初期段階で、悪名高い突出部の真中に位置した。突出部はイーペルの戦いの全期間を通して、イギリス軍が執拗に保持し続けた。1915年4月22日から5月25日にかけて戦われた第二次イーペルの戦いに続いて、ドイツ軍による毒ガス攻撃が初めて執行されて、新たな前線が再編された。南方のベルワルデ尾根、フージ村、ズアーブ・ウッド、サンクチュアリの森が戦線に突入し、突出部全体の東端となった。同盟軍の強制的な撤退により、前線はフーゲ村をほぼ南北に走った。

 イーペルの戦いを通じて衰えることなく続いた多くの野蛮な戦闘の中心地であった。フージ村は1914年10月の第一次イーペルの戦いから継続的に砲撃を受けた。尾根は1915年4月以来に5回占領されて、奪還された。第二次イーペルの戦いが終わり、ドイツ軍が、ベルワルデ尾根やフーゲ城を含む勝利を収めて以来、イギリス軍は明らかに不利な立場にあった。戦闘の終わりまでに、イギリス軍はイーペルから約3マイル離れた新たな戦線まで後退し、周囲の突出部を圧縮した。

 ドイツ軍は、イギリス軍に対して塹壕クレーターを越えて発射された液体炎の巨大な塩素毒ガス噴流が、瞬間的に地獄を作り出した。西部戦線の第二次イーペルの戦いでドイツ軍による毒ガス大規模攻撃は連合国軍を驚かせた。毒ガスによる負傷者約7,000人が野戦救急車で搬送され、負傷者収容所で治療を受けた。英国では5月と6月に約350人のガス中毒による死亡が記録された。双方ともガス兵器と対抗手段を開発し、毒ガス戦争の戦況を変えた。




2023年9月11日月曜日

第二次世界大戦の西部戦線のフランスのカレンタン戦いの戦場を、1944年6月14日にアメリカ軍空挺部隊が侵攻した。ドイツ軍の狙撃兵によって、殺害されたアメリカ軍部隊の兵士の死体とすれ違った。

第二次世界大戦の西部戦線のフランスのカレンタン(Carentan)戦いの戦場の野原を警戒しながら、1944年6月14日にアメリカ軍空挺部隊が侵攻した。ドイツ軍の狙撃兵によって、殺害されたアメリカ軍部隊の兵士の死体とすれ違った。アメリカ軍兵士の死体がカレンタン近郊の野原に散乱した。死体の周辺には、低い木の列が生垣をなした。

 1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦は、ほぼ2ケ月半に及ぶ非常に長い戦闘の始まりとなった。連合軍は、特殊な地形を最大限に利用したドイツ軍と戦闘した。ノルマンディ地方北東部のカレンタンを解放し、ユタ・ビーチとオマハ・ビーチの上陸地点の接点を確保した6月6日から6月13日まで苛烈な戦闘が勃発した。湿地帯に囲まれたカレンタンの町は、唯一の横断地点で、ドイツ軍は陣地を維持するように厳命された。アメリカ軍とドイツ軍の双方に多大な犠牲が生じた。アメリカ軍兵士とドイツ軍兵士は、敵の話し声や武器を構える音が聞こえるほどの接近戦となった。いたるところに死体が散乱して、負傷者が助けを求める声が聞こえた。アメリカ軍は6月10日と11日に土手道を越えてカレンタンへの通過を強行した。ドイツ軍は、弾薬不足のため、6月12日に撤退を余儀なくされた。ドイツ軍は6月13日に反撃するも撤退した。

 カレンタンの生垣は、アメリカ軍の空挺部隊や歩兵部隊が、ノルマンディ地方をフランス内陸に向かって侵攻する際に直面した非常に困難な障壁の一つとなった。地元ではボカージュと呼称するフランスの生垣は、高さ約3m以上の土塁の上に、何百年も生い茂った樹木や低木、灌木を植えた生垣であった。連合軍は、生垣の防衛上の危険性を認識していなかった。ドイツ軍防衛隊は狙撃兵や機関銃を生垣に配置した。自然の生垣の障壁が、壊滅的な効果をもたらし、連合軍を鈍化させて、西部戦線の内陸に侵入を一時的に阻止した。カレンタンの戦いで、アメリカ軍が約400人とドイツ軍は約800人が戦死した。
















2023年9月11日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年9月10日日曜日

ウクライナのドンバス州のリマンの路上で、2022年10月4日にロシア軍の徹底後に、多数のロシア軍兵士の死体が放棄された。無惨なロシア軍兵士の多数の死体が、シトニアキーの道路にロシア軍に放置されて横たわった。

ウクライナのドンバス州のリマンの路上で、2022年10月4日にロシア軍の徹底後に、多数のロシア軍兵士の死体が放棄された。無惨なロシア軍兵士の多数の死体が、シトニアキーの道路に横たわった。リマンは、ウクライナ軍が反撃してロシア軍から10月1日に奪還した。

 ロシア独立系新聞ヴェルストカは2022年11月5日に、約570人のロシア軍兵士は、ウクライナ軍の大砲によって3日間砲撃を受け続けて、生残者はわずか40人だったと述べた。最前線に放り出され、塹壕を掘れと命令され、支援もなかった。大砲、ロケット弾、迫撃砲、ヘリコプターが容赦なく爆撃してきたと生存者は語った。

 ウクライナ国防省は、2023年から約3週間も経たないうちに、ロシア・ウクライナ戦争でさらに8,000人以上のロシア軍兵士が戦死した。1月1日から1月13日までに、約8,170人のロシア軍兵士が死亡した。2022年2月24日に勃発して約11ヶ月間の戦争で、死亡したロシア軍兵士の総数は約145,930人に上る。1月13日だけで、約740人のロシア軍兵士の戦死者数を報告した。2023年1月期は1日平均約628人のロシア軍兵士が死亡した。

 ロシア軍が、人口わずか1万人のウクライナの塩鉱山の町であるソレダルの戦いで、最も血なまぐさい戦いの一つで勝利した1月13日に、戦死者数の合計が算出された。ロシア国防省は1月13日の声明で、ドネツク州方面での攻撃作戦を成功させ続けるために、非常に重要なソレダルの町が解放されたと述べた。ロシア軍は、ソレダルの町を制圧することで、南西部アルチョモフスクにおけるウクライナ軍の補給路の遮断が可能になる。ロシア軍の地上攻撃隊、陸軍航空隊、ミサイル部隊、大砲によるウクライナ軍への絶え間ない砲撃攻撃を、ソレダル制圧に繋げたと公表した。

 ワシントンを拠点とする戦争研究所(ISW)は1月12日に、ロシア軍の情報工作はソレダルの重要性を誇張しすぎていると述べた。ホワイトハウスのジョン・カービー国家安全保障報道官も、バフムトとソレダルの両方がロシア軍に陥落しても、戦争に戦略的な影響を与えない。1月12日、ソレダルのキリレンコ市長は、十数人の子供を含む559人近くの民間人が町に閉じ込められたと述べた。ロシア軍が攻撃を強めているため、ソレダル市民は流血の中で生き延びようとしていると語った。





















Warning: Bodies of Russian soldiers were abandoned by their troops after their retreat, on a street in Lyman, Donbas, Ukraine, on October 4, 2022. (ADRIEN VAUTIER / LE PICTORIUM POUR)


2023年9月9日土曜日

広島原子爆弾に1945年8月6日に被爆して2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mの横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋のバラックが現れ始めた。

広島原子爆弾に1945年8月6日に炸裂して被爆してから2ヵ月後の1945年10月15日に、爆心地から約1,800mに位置した横川駅付近に復興の兆しが出現した。焼け焦げた瓦礫の中に木とトタン板で作られた仮設小屋であるバラックが現れ始め、横川駅前など人が集まりやすい場所には闇市が出現した。仮設小屋や闇市は治安や衛生の問題を伴っていたが、復興の始まりを象徴するものでもあった。横川駅周辺の光景の中に、広島市の被爆した街とそこに住む市民が復興しつつある兆しを撮影した。

 戦時災害保護法が打ち切られた後、被爆者への特別な援護はなく、生活保護法など一般的福祉制度しか頼るものはなかった。焼け残った資材を集めて造ったバラックに住み、物資不足に悩まされながら、その生活は困難を極めた。バラックは、空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物を呼称した。困窮した被爆者が空き地などに建てた小屋程度の住居をバラックと呼んだ。 

 横川駅は、原子爆弾の熱線により駅構内の一画から火の手があがり、数時間後には駅舎も焼失した。待合室では約10人が生き埋めとなり4人だけが救出されたといわれた。8月6日当日には線路の枕木がくすぶる中、被災者を運ぶ列車が運転された。被爆して2日後の8月8日に、国鉄の山陽本線は、広島駅と横川駅間の運転を再開した。広島市民は原子爆弾の炸裂の直後に、爆心地から遠い方向に避難した。横川駅付近の市民は北へ、広島駅付近の市民は東や北へ、比治山周辺の市民は南や東に、家族や職場の事情などで、違う方向に向かった市民もいた。

 原爆投下後75年間は、広島市内には何も育たないと噂されていた。しかし、広島は死ななかった。交通、通信、電力のライフラインはすぐに回復した。人も物資も輸送された。情報とエネルギーの供給も確保された。被爆者の実態が十分に伝わらず、被爆者に対する差別や偏見が生まれた。被爆者は、厳しい生活環境に耐たえながら、懸命に生きていこうとしていた。







2023年9月8日金曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて1940年5月25日にドイツ軍はダインゼのシプドンク運河を渡河した。ベルギー軍とドイツ軍の砲撃戦中に、約150人の民間人の人質がいる中でドイツ軍の砲弾が爆発して、38人が死亡した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、1940年5月25日にドイツ軍はベルギーのダインゼ(Deinze)のシップドンク(Schipdonk)運河を渡ろうとした。ダインゼ都市の男性住民は生きた盾としてドイツ軍に人質に捕らえられた。ドイツ軍はダイゼン男性住民を、戦略的に重要な運河交差点を占領するための生きた盾にした。ベルギー軍とドイツ軍の間で、ファールトブルグ(Vaartbrug)川周辺にて激しい砲撃戦が行われた。5月25日の午後4時30分から午後5時の間に、ドイツ軍の砲弾がダイゼン住民の人質約150人の中央で爆発した。爆発でダイゼン民間人がなぎ倒された。その結果、約38人のダイゼン住民が砲弾の爆発に巻き込まれて死亡した。

 1940年5月10日の命令で、ドイツ軍がベルギーとオランダに侵攻が同時に開始された。ベルギー軍は抵抗するも、後退を余儀なくされた。5月24日には前線はシップドンク運河周辺まで侵攻した。5月25日に、ドイツ軍兵士はダインゼのシプドンク運河を渡河した。ベルギー軍とドイツ軍の砲撃戦の最中に、16時30分から17時の間に、約150人の人質がいる中でドイツ軍の砲弾が爆発して、38人が死亡した。 

 5月26日から侵攻は過激化し、報復攻撃が続いた。ドイツ軍兵の間では、民間ベルギー人がドイツ軍に発砲したという噂が流れた。メイゲムでは、住民が教会に追いやられ、人質として拘束された。1940年5月27日は、ヴィンクトとメイゲムにとって悲劇的な日となった。メイゲムの教会では、5月26日から数十人がドイツ軍兵の捕虜となって、午後の激しい爆発で、合計約27人の捕虜が殺害された。教会は戦列にあって、ベルギー軍の砲弾で犠牲となった。5月27日には、ドイツ軍はヴィンクト村を占領した。民間ベルギー人の攻撃の容疑の報復として、村の広場で合計38人が殺害れされた。5月27日に、ドイツ軍の砲撃や処刑によって合計約111人の市民が殺害された。5月28日にベルギー軍の降伏によって、18日間戦役のベルギー侵攻作戦は正式に終結した。べルギー侵攻のベルギー軍の死傷者は死者6,090人、捕虜200,000人、負傷者15,000人と推定された。ドイツ軍は死者約10,232人、行方不明者約8,463人、約42,500人の兵士が負傷した。






2023年9月7日木曜日

満州事変後に、日本軍の関東軍は1931年11月5日に大興付近の激戦にて、日本軍兵士が戦死した死体を収容した。関東軍は、日の丸の国旗を掲げて死体を取り囲んで検死した。

満州事変の直後に、日本軍の関東軍は1931年11月5日に大興付近の激戦にて、日本軍兵士が戦死した死体を収容した。関東軍は、日の丸の国旗を掲げて死体を取り囲んで検死して見詰めた。大興高地にて関東軍は、チチハルの攻略を侵攻するために、中国軍に破壊された嫩江鉄橋の修理の援護を名目に、11月1日にチチハル南の大興に出兵した。1931年11月4日に中国軍とは大興にて激突した。中国軍の激しい抵抗に合って、11月5日には関東郡は全滅の危機に瀕した。日本軍歩兵大16連隊の支隊長は、切腹を部下に止められた。日本軍の増援部隊が派遣された11月5日に危機を脱した。

 1931年9月18日の満州鉄道を爆破した柳条湖事件を発端として,1933年5月31日の塘沽停戦協定まで、満州事変が勃発した。その後には日中戦争の起点となる1937年7月7日に蘆溝橋事件の勃発によって、日中戦争が全面化した。満州事変が勃発すると、中国軍の黒竜江省軍は嫩江の鉄道橋を破壊して、チチハルから洮南を経て四平街に通ずる鉄道は不通となり輸送が途絶した。日本軍の関東軍は、満州鉄道を修復する名目のために、大興付近に派遣された。チチハルは、中国の黒竜江省省都ハルビンの北西約270kmに位置した。

 11月2日に大興駅を中心に中国軍は陣地を構築されていた。11月4日に、関東軍は大興駅南方にて、川岸台上陣地から中国軍との戦闘が発生した。11月5日には、関東軍は弾薬や弾丸が欠乏して、戦線は膠着して死傷者が続出した。関東軍は、側方や腹背から中国軍の攻撃を受けて、戦線は動揺して前線から後退した。11月5日午後3時に関東軍は援軍の派遣を伝令された。夜になっても、中国軍の攻撃は止まず、戦傷者が続出して悲惨な戦場となった。11月6日には関東軍の増援から、中国軍は続々と北走して撤退を開始した。関東軍は追撃をして大興北地区を制圧した。




2023年9月6日水曜日

1925年8月20日、48歳の廖仲凱と32歳の陳秋林は、国民党中央党本部に会議に行く途中に、廖仲凱は車から降りたとたんに顔面を撃たれて死亡した。厳重な警備が敷かれた国民党中央党本部の前で暗殺された。

1925年8月20日に、中国の民主主義の革命家である廖仲凱が、広州で国民党右派に暗殺された。1921年4月に孫文は広東革命政府を樹立し、廖仲凱は財政副大臣に任命した。1924年に国民党が改造された後に、孫文によって中央実行委員会の常務委員に選出された。労働者部と農民部の部長、黄埔仕官学校の国民党代表、広東省の省主席、財政長官、軍需総監などを歴任していた。蒋介石は廖仲凱の暗殺に乗じて、広東国民政府の軍事的、政治的権力を掌握した。中央党本部の正門を警備していた警官もなく、暗殺犯は跡形もなく逃げ去った。暗殺された廖仲凱が死亡後に、病院に搬送されて入院した時点である。1925年8月20日、48歳の廖仲凱と32歳の陳秋林は、中央党本部に会議に行く途中に、廖仲凱は車から降りたとたんに顔面を撃たれて死亡した。厳重な警備が敷かれた国民党中央党本部の前で暗殺された。

 廖仲凱の暗殺事件の後に、国民党中央執行委員会と国民党政府軍事委員会は、暗殺事件を調査する特別委員会を組織することを決定した。特別委員会に招聘された蒋介石は、王景偉、徐重志らと、政治と軍事から警察の権限を掌握した。蒋介石は広州駐屯地の司令官に任命された。調査の結果、胡漢民と徐崇芝らが、この廖仲凱夫妻の暗殺事件に関与していると容疑されて、広東省を追われた。

 暗殺(assassination)は,殺人とは区別され適用の範囲が限定される。政治的要人を,政治的目的のために,非合法的手段で殺害することが暗殺とされる。暗殺は,主体によって,権力者側が広義の政敵を殺害する場合と,反権力・反体制派が,権力者を殺害する場合とに大別される。政敵であった国民党左派の理論家である廖仲凱は、1925年8月20日に国民党内右派に銃殺されて、権力側の蒋介石が後継者とされた。それ以前にも、国民党の要人である陳其美が、1916年5月18日にフランス租界の山田純三郎宅で、袁世凱政権の刺客により暗殺されて、権力側の蒋介石が後継者とされた。



2023年9月5日火曜日

フランス軍の外人部隊の空挺部隊は、インドシナ紛争で1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケで、ベトミンのゲリラ部隊を掃討し殺傷した。

フランス軍の外人部隊の空挺部隊の兵士たちは、インドシナ紛争にて1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケ(Mao Khê)で、ベトミンのゲリラ部隊を掃討して殺傷した。ベトミンは約2,000人から約3,000人が殺害され、フランス軍は約40人が殺害され、約150人が戦傷した。ベトナム人ゲリラの死体が、マオ・ケの野原に散乱した。1949年にフランス人徴集兵の海外派遣が禁止されて、外国人部隊はナチス・ドイツ親衛隊(SS)などの退役軍人などで構成された。元親衛隊員は、第二次世界大戦の東部戦線にて、パルチザンと戦った経験があった。フランス領インドシナでは効果的な戦闘員となったが、但し外国人部隊はフランス本国では政治的には受け入れられなかった。

 ベトナム沿岸部では、膨大な数のフランス軍兵士がゲリラ部隊の待ち伏せの多い道路や河川で命を落とした。空からの補給が不可欠となり、フランス軍はAAC-1輸送機で、1952年以降はアメリカ軍から供与された輸送機に頼った。ベトミンとベトナム人民軍がより高性能の対空兵器を手に入れると、補給源も危険で頼りなかった。

 フランス軍には、対反乱戦の経験者はほとんどいなかった。フランス軍の戦術は、敵地を碁盤の目状に分割し、正方形に攻撃部隊をかき集めた。フランス軍は、北部一帯に、1951年にド・ラトル線を形成する数百の鉄筋コンクリート製の要塞を建設した。戦術の問題点は、ベトミンは土地にも縛られず、後退したり攻撃した。防衛要塞は、孤立した脆弱な場所に大勢のフランス軍兵士を縛り付けた。フランス軍には、陸軍と海軍の河川突撃師団や空挺コマンド集団は、迅速な展開戦術を駆使した。優秀な軍団兵士と空挺部隊は、戦闘が最も激しい戦場で精鋭として継続的に活用された。

 ベトミン(Vietmin)は、1941年5月19日に結成され、フランスによる植民地支配からの独立を求めて、第一次インドシナ戦争で戦闘に従事したベトナムの独立運動組織である。ベトミンは通常の軍隊として建設され、PAVNの拡大は急速で、1951年までに約154個大隊が編成された。ベトナムの地形と人民を熟知して、人民の支持を得れた。フランス軍は致命的に失敗し、ベトナム人民軍は限られた資源で生き延びて、戦うことができた。何千人もの志願兵がいて、物資は確実に戦闘員に手渡しで運ばれた。政治的意思や戦略的大胆さを弱めずに、膨大な数の死傷者を吸収できた。フランス軍の失敗を指摘する際に、ベトミンは革命軍であった。ベトナム人民軍(PAVN)は、後にベトナム戦争では、対アメリカ軍とのベトナム戦争中は、北ベトナム軍(NVA)と呼称された。




2023年9月4日月曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、連合軍のノルマンディー侵攻の2日目の6月7日には、ノルマンディーのサン=メール=エグリーズ街へ続く道路近くの側溝にて、殺害されたドイツ軍兵士の死体が放置されていた。

第二次世界大戦の西部戦線で1944年6月6日のD-dayに、連合軍はフランス西北部におけるノルマンディー上陸作戦を実行した。連合軍のノルマンディー侵攻の2日目の6月7日には、ノルマンディーのサン=メール=エグリーズ(St. Mere-Eglise)街へ続く道路近くの側溝にて、殺害されたドイツ軍兵士の死体が放置されていた。アメリカ軍が、ドイツ軍兵士の死体を捜索した検死した。右手にライフルが倒れて、ジャケットのポケットのボタンは外されて、お腹には軍用帽子と書類が置かれていた。ドイツ軍兵士の足元には2つの箱と不明な装備品があった。ヘルメットには、カモフラージュするために葉を取り付ける金網が付着した。 

  6月6日未明に、約16万のアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、フランス軍の軍隊がノルマンディー南部の海岸線80kmにわたり上陸した。ノルマンディー上陸作戦の地域は、5つの海岸のセクターに分けられた。ユタ海岸にアメリカ軍、オマハ海岸にアメリカ軍、ゴールド海岸にイギリス軍、ジュノ海岸にカナダ軍、ソード海岸にイギリス軍と一部のフランス軍が上陸した。オマハ海岸とその隣のレンジャー上陸地点のポイント・ド・ホックは、連合軍の死傷者が最も多かった。カナダ軍のジュノ海岸は、ドイツ軍の護岸に沿って掩体壕が網の目のように張り巡らされて、ほぼ同程度の多くの被害を伴った。アメリカ軍のユタ海岸は連合軍の死傷者が最も少なかった。

 ドイツ軍は、ノルマンディのユタ海岸とオマハ海岸へ連合軍の上陸作戦に反撃するために使用したルートN13の途中に、サン=メール=エグリーズは位置した。6月6日早朝、アメリカ軍空挺師団がサン=メール=エグリーズを占領し、ドイツ軍の後方に降下した空挺師団も、非常に高い死傷率を出した。ノルマンディ侵攻作戦で最初にアメリカ軍の空挺部隊が解放した町の一つとなった。6月6日の後半から6月7日にかけて、ドイツ軍の激しい反撃が始まった。軽武装のドイツ軍部隊は、6月7日の午後にユタ海岸からアメリカ軍の戦車が増援するまで防御した。サント=メール=エグリーズの住民は、1944年5月から8月までに43人の市民が殺され、ノルマンディー解放の際に大きな犠牲を払った。




2023年9月3日日曜日

ウクライナ領土防衛の志願兵で、3人のうち最年長の52歳だった息子のユリイ・シキリスキーが戦死した死体の棺の傍らでは、78歳の母親ウリアナが悲しみに打ちひしがれ、何度も何度も屈んで磨き上げられた木に顔を寄せていた。

ロシアのウクライナ侵攻で、激戦地のバフムト近郊で戦死したウクライナ軍兵士の葬儀が2023年6月22日に挙行された。ウクライナ領土防衛の志願兵で、3人のうち最年長の52歳だった息子のユリイ・シキリスキー(Yuriy Sikyrynsky)が戦死した死体の棺の傍らでは、78歳の母親ウリアナ(Uliana)が悲しみに打ちひしがれ、何度も何度も屈んで磨き上げられた木に顔を寄せていた。















Warning: Uliana rests her head on the casket of her son. (Marcus Yam / Los Angeles Times)

   

   葬儀は6月22日にウクライナのリヴィウの聖ペテロ・パウロ駐屯教会にて、無言の弔問客が列をなしして、石畳の道を、喪主によって4つの棺が運ばれた。教会の中で、薄明かりに照らされた反響の中で、4人の名前が唱えられた。4つの新しい死者の墓が、古い死者を押しのける墓地に、粘土のような土から切り出された。郊外の18世紀のネクロポリスのリチャキフ墓地は、あらゆる時代の死者で埋め尽くされた。2022年4月以降で、約417基の墓の列が増設された。

 ウクライナ軍のロシア軍の侵攻に対する反攻は、両軍に多大な犠牲を強いた。犠牲者数は公表されず、戦闘がすぐに終わらない。4人の死者はもちろん大海の一滴にすぎない。国家の存亡をかけて、逃げ出すことのできない戦いで、終りが見えない。

 ウクライナ西部リヴィウ州の州都リヴィウは、何世紀にもわたり支配者が変わった。オーストリア=ハンガリー帝国の前哨基地で、後に隣国ポーランドの一部となり、第二次世界大戦後にソ連の支配下になり、1991年にウクライナとして独立した。リヴィウの部隊は、最も激しい戦闘のウクライナ南部や東部に配備された。遠くの戦闘で戦死した兵士の死体は、帰還までに数日、数週間、数カ月かかった。傷ついた死体は、DNA鑑定で身元を確認した。遠隔地や激戦地で、死体の輸送が遅れた。さらに死体を回収するために、ロシア軍とウクライナ軍で定期的に死体交換が行われた。

 ウクライナ東部ドネツク州のバフムトの戦いで戦死したウクライナ軍兵士のドミトロ・レベディエフ(Dmytro Lebediev)とスタニスラフ・シュモルグン(Stanislav Shmorgun)の葬儀はリヴィウの聖ペテロ・パウロ駐屯教会で行われた。ウクライナ人の弔問客は、戦死したウクライナ軍兵士に弔意を表した。











Warning: Mourners pay their respects to soldiers Dmytro Lebediev and Stanislav Shmorgun, both of whom were killed near Bakhmut. The funeral was held at Saints Peter and Paul Garrison Church in Lviv. (Marcus Yam / Los Angeles Times)

2023年9月2日土曜日

広島原子爆弾に被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mの広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長から、火傷した両目にピンセットで消毒を受けた。

広島原子爆弾が投下して炸裂により被爆した男子中学生は、顔面から両手を火傷した。8月10日頃に、爆心地から約1,500mに位置した広島市千田町の広島赤十字病に通院して治療を受けた。永田幸一産婦人科医長により、火傷した両目の火傷にピンセットで消毒を受けた。男子中学生は、両目の火傷により、視覚障害により失明の恐れがあった。医薬品も乏しく、消毒液を塗る程度の処置に留まった。焼け残った広島赤十字病院には被爆直後から多くの被爆者が運び込まれた。

  広島赤十字病院は、当時は陸軍病院であったが、外来では一般市民の治療も行なっていた。医薬品の備蓄があるも、あまりの多くの被爆者が殺到してたちまちに使い果たした。中学生の少年は、広島赤十字病院本館の正面玄関前で外来治療を受た。少年の両手は重度の火傷により、皮膚が剥けて、水疱が生じていた。火傷の治療も、消毒薬やマーキュロ、オリーブ油などを塗り、包帯で拭く塗り巻く手当に留まった。少年は顔面の正面から広島原子爆弾の熱線を浴びていた。額から頬、手の甲に火傷を追った少年が、広島赤十字病院で外来処置を受けた。近くで近親の男性にに右腕を支えてもらった。

 少年は、爆心地から約1,790mに位置した県立広島第二中学校の生徒であった。2年生ならば、8月6日に爆心地から約2.5kmの東練兵場に集合して、学校の芋畑の草取りをせよと指示があり、東練兵場に集合した全員は生存して、直後の原爆死没者は無かった。

 広島県立広島第二中学校の6学級からなる1年生は8月6日朝、爆心地から約500mの旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員された。整列し、引率教師の訓示が終わる直前に、広島原子爆弾が投下されて炸裂した。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。水際に至る迄重なるように重傷の子供充ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあった。7日朝に父親は、屍は既に膨張し、同じ様な容貌となった。全身の火傷で自宅にたどり着き、救護所に搬送された少年たちは、瀕死状態から全員が原爆死没者に陥った。中島の動員現場にいた生徒約344人、教職員8人が、本川左岸にある広島県立広島第ニ中学校の原爆死没者の慰霊碑に刻まれた。




2023年9月1日金曜日

アフリカ北東部の第2次マサワの戦いで、1990年2月にエリトリアのマサワの路上に、エチオピア軍の大破した戦車BMP-1とエチオピア軍兵士の死体が放置されて散乱した。

アフリカ北東部の第2次マサワの戦いにて、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、エチオピア軍に対するフェンキル(Fenkil)作戦にて  1990年2月10日から17日にかけて、紅海の港湾都市のマサワをめぐる1週間にわたる戦闘が勃発した。エリトリアのマサワの路上には、エチオピア軍の大破した戦車BMP-1とエチオピア軍兵士の死体が放置されて散乱した。戦車は、ソ連からデルグ政権に供与された戦車であった。

 フェルキン作戦により、1990年2月8日から2月10日の3日間の激戦の末に、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、エチオピア軍から港湾都市マッサワの解放をもたらした。EPLFによるフェンキル作戦で、エリトリアにおけるエチオピアの植民地主義の終焉を告げた。エチオピア軍は、数百人のマッサワ住民を人質に取り、穀物の袋を隠れ蓑として降伏を拒否した。EPLFは海と陸の連携して攻撃した。マサワがEPLFの手に落ちた後に、エチオピアのデルグ政権は、人的・物的資源の残骸と撤退しながら、マサワの民間住民に対してナパーム弾とクラスター爆弾を10日間にわたり無差別空爆をした。マサワに多くの死者、負傷者、トラウマを残して、地面に破壊されたインフラが散在した。

 1988年3月に、エチオピア軍はソ連の軍事顧問ともに、エリトリア北部のアルファベットの戦いで、EPLFに敗北してアルファベットは陥落して撤退した。ソ連はエチオピアとの関係を事実上終わらせて、ソ連の軍事機構は引き揚げた。エチオピアの空軍は約30年もの間、エリトリアを摂氏800度から1200度の温度を発生するナパーム弾で空爆し続けた。ソ連軍の引き上げてから、エチオピア軍は、ファラーシャ(エチオピアのユダヤ人)とイスラエルのクラスター爆弾の取引を始めた。クラスター弾は、爆発と同時に小さな爆弾粒を放出し、広範囲に拡散して、エリトリア市民に壊滅的な打撃を与えた。

 エチオピア・エリトリア国境紛争は、1998年5月6日から2000年6月18日まで勃発した。発端は国境紛争ではあるが、互いの首都を空爆して、規模は極めて大きく、犠牲者も多かった。第二次世界大戦以降に勃発した国家間紛争のうち、死者数が10万人を超えたのは、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、エチオピア・エリトリアとロシア・ウクライナ戦争のみである。