2021年1月12日火曜日

ヨルダン川西岸で、パレスチナ人の18歳の少女マナールがイスラエル軍に、胸部を銃撃され銃弾が胸部から背中まで貫通した。

1988年7月にヨルダン川西岸の最大の都市であるナブルスで、パレスチナ人のインティファーダに対して、イスラエル軍の銃撃が続いた。17歳の少年ジャマールと助けようとした18歳の少女マナールが銃撃された。すぐ側に救護車が到着するも、イスラエル軍のジープが阻止した。そのジープ対して、パレスチナの若者が、アッラー・アクバル(神は偉大なり)と叫びながら投石した。イスラエル軍はさらに若者に銃撃した。少年と少女は、劣悪な病院に救護された。その病院にパレスチナ人が密集していた。少女は胸部を銃撃されて手術を受けた。銃弾が胸部を貫通して重態となり、失血して蒼白になった。約20cm以上もの縫目があり、弾丸が乳房の横から背中まで貫通した。少女の胸部から背中に抜けた傷口は瘢痕となり、傷口は一生残存する。
 イスラエルのパレスチナ占領は、19世紀の後半に東欧からユダヤ人がパレスチナに移民し始めた。第二次世界大戦後に、ナチス・ドイツに迫害から虐待と虐殺を受けたユダヤ人がパレスチナに国家を樹立することが戦勝国の思惑と重なった。1947年に、国連はパレスチナ人の国土に、ユダヤ人の国家の樹立を認可した。1948年に、ユダヤ人側が一方的にイスラエル国家の樹立を宣言した。その結果として、約100万人ものパレスチナ人は国土を略奪されて難民となった。その約半数は、レバノン、シリア、ヨルダンなどに逃亡した。その後の約半数は、ヨルダン川西とガザ地区に移住した。逃亡したパレスチナ人は、飢餓から病気などで、途上で死亡した。
 1967年にイスラエルがヨルダン川西岸からガザ地区を占領した。その後から、パレスチナ人には社会的な人権から生存権を喪失した。反イスラエル紛争は、1864年5月8日に設立されたPLO(バレスチナ解放機構:Palestine Liberation Organization)が占領地外から、ゲリラ闘争した。しかし、PLOは1970から1971年のヨルダン内戦、1975年から1976年のレバノン内戦、1982年のレバノン侵攻により壊滅状態に陥って、レバノンが撤退した。
 1987年12月8日に、イスラエルが占領する地中海沿岸とエジプトの国境に介在するガザ地区で、イスラエルのタンクローリーとパレスチナの乗用車が衝突した。パレスチナ人の4人が死亡して、5人が負傷した。その事故が、出口のない10歳台以下から20歳台の若いパレスチナ人の屈辱が爆発して、第一次インティファーダ(蜂起: First Intifada,1987年12月8日– 1993年9月13日)が勃発した。12月9日に、ジャバリア難民キャンプからインティファーダが暴発した。大規模な抗議活動に激化してヨルダン川西岸に連鎖して、イスラエルの抵抗活動からインティファーダはイスラエル占領地全体に拡大した。但し、若いパレスチナ人は、武器もなく石のみで致し方なく闘争した。