2020年7月3日金曜日

ベトナム中部山岳地帯のポリクロンの戦闘で、被抑圧民族統一戦線の山岳少数民族兵士が戦死して、同僚が3人がかりで、戦死した死体の四肢を持ち上げ運搬した。

ベトナム中部山岳地帯におけるポリクロンの戦闘で、被抑圧民族統一戦線(FLURO)である山岳少数民族兵士が戦死した。同じ山岳民族兵士が3人がかりで、同一兵士の死体の四肢を持ち上げながら運搬した。
 多民族国家ベトナムにて少数民族は総人口の約1割を占める。デルタ地帯を除く山間部・高原地帯が居住地域であり、ベトナム国土の約3分の2の地域に居住している。特に、南部ベトナムの中部山岳地帯に、通称モイと呼ばれてきたマライ・ポリネシア語系の少数民族が集結していた。ベトナム中部高原タイグエン地方の少数山岳民族が、フルロ(FLURO:Front Unifie pour la Lutte des Races Opprimes)の被抑圧民族闘争統一戦線を1964年に結成した。
 1958年6月に親フランス的傾向を持つ植民地時代に軍人や官吏であったベトナム中部高原タイグエン地方の山岳少数民族が集結して、バザラカ(BAJARAKA:バナ族Bana、ザライ族Jarai、ラデ族Rhada(エデ族Edeh)、カホ族Kaho)を結成した。1955年に成立した南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権の同化政策に反対して、自治を認めることを要求した。ベトナム労働党が、ジェム政権とタイグエンの山岳少数民族との矛盾を拡大した。1960年10月には、タイグエン自治運動を組織した。その自治運動は、北ベトナムの南ベトナム解放民族戦線に参加した。南ベトナム解放戦線は、綱領で山岳少数民族の自治区の設置を提唱した。この動向に対抗して、バザラカに反共産主義的傾向をもつ中部山岳民族によってフルロが1964年に結成された。
 フルロは、連邦制の導入による高原連邦の設置、山岳少数民族の土地所有権の承認、政治参加の機会拡大などを要求した。政治的には反南ベトナムのサイゴン政権であり、反北ベトナムの南ベトナム解放戦線の立場をとった。アメリカ政府とは密接な結びつきをもった。南ベトナムのサイゴン政権は、反共産主義的傾向をもつフルロとの妥協を図った。1968年12月には南ベトナム・サイゴン政権とフルロの間に一応の和解が成立した。しかし、フルロの一部はこの和解に応じず、引き続き反キン族(ベトナム総人口の9割を占める多数民族)に基づき、反南ベトナムのサイゴン政権と反北ベトナムの南ベトナム解放戦線と武装闘争を継続した。
 ベトナム戦争の終結後に、統一されたベトナム社会主義共和国では、少数山岳民族に自治区は設置されず、タイグエン地方にも新経済区建設などで大量のキン族の多数民族が入植した。ベトナムの少数山岳民族の不満は、ベトナム戦争後もフルロの一部が統一ベトナム政府に対する武装抵抗を継続した。カンボジア領の高地ジャングルを拠点に、統一ベトナムへの反政府運動を続けて、カンボジアのポル・ポト派との提携も生まれた。
 国連暫定統治機構(UNTAC)が、カンボジア和平の達成で、パリ和平協定にもとずき、カンボジア内の非カンボジア人であるフルロの外国軍の徹底査察を行った。ベトナム社会主義共和国への送還あるいは武装解除しか選択できなかった。1992年5月にはカンボジアのプノンペン政府の特殊部隊にフルロは攻撃された。フルロのゲリラ数人がベトナムへ強制送還された。フルロの武装抵抗も限界となり、1992年縫わ付き10日に、ベトナム中部山岳少数ゲリラである被制圧民族闘争統一戦線のフルロの約398人がカンボジアのUNTACに投降して、武器を引き渡して武装解除した。事実上の難民としてプノンペンへ大型ヘリコプターで移送して、アメリカ合衆国ノースカロライナ州フォートブラッグに強制移住した。