2020年3月31日火曜日

ルソン島の戦いで、日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍が射殺して、手榴弾を手に持ったままで殺害された。

ルソン島の東海岸のポートリアルにあるアメリカ軍の野砲隊の観測地点に対して、1945年7月20日に日本軍兵士が切り込み突撃をした。日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍により射殺された。日本軍兵士は、手榴弾を手に持ったままで、仰向けに転倒して殺害された。ルソン島の戦いだけで、日本軍兵士は約205,538人、アメリカ軍は約10,380人が戦病死した。
 アメリカ軍とフィリピン軍が、水陸両用から攻撃をしてルソン島に上陸した。マニラ北東地区の日本軍部隊は、1945年2月3日からのマニラの戦い中に、1945年2月8日よりマニラ郊外で第一次総攻撃により連合軍と激戦を繰り広げた。アメリカ軍は2月23日から猛砲撃から包囲して攻撃をした。3月3日にマニラの戦いで、マニラはアメリカ軍に制圧された。日本軍部隊は、3月中旬頃にさらにマニラ郊外で第二次総攻撃をした。しかし、3月下旬頃になるとアメリカ軍に圧倒されて、マニラ郊外から撤退した。日本軍部隊は分断されて、6月頃には陣地も失って、分散してのジャングルや山林でのゲリラ持久戦に突入した。その約2ケ月後に、日本が1945年8月15日に連合軍に無条件降伏して終戦した。その後から、9月頃から11月頃にかけて終戦を知って降伏するまで、連合軍とゲリラ戦を行った。その日本軍部隊の生存者は、緒戦の約105,000名のうちで終戦以後に収容された13,000人と、フィリピンの戦いの終結までの捕虜約1,600人のみであった。 


2020年3月30日月曜日

ドイツ共和国軍と義勇軍の部隊が、ルール蜂起した復員兵の労働者を射殺した死体の前で鉄道の堤防からポーズを撮った。

ドイツ連邦議会から派遣された約45,000人の共和国軍と義勇軍の部隊が、1920年4月2日にデュースブルク近郊のメーレンで、ルール蜂起した復員兵の労働者を射殺した死体の前で鉄道の堤防からポーズを撮った。1920年3月31日に共和国軍とルール赤軍の銃撃戦が発生した。4月1日正午に、ハム・ペルクムにて共和国軍と赤軍が激突して、双方に多数の死傷者を出す激戦となった。4月2日に、共和国軍はルール赤軍を駆逐しつつ、西方からベルクカメンに向かった。4月の最初の週だけで約150人から約300人の労働者が死亡した。4月6日に共和国軍がルール赤軍の中枢であったドルトムントに到達して、ルール赤軍は事実上壊滅した。共和国軍は、鎮圧したルール地方からの反抗容疑者を野戦裁判所により大量死刑を執行した。
   第一次世界大戦はドイツは1918年11月11日に休戦協定から1919年6月28日にヴェルサイユ条約を締結した。1920年3月13日に強烈な軍縮に対抗しして右派の義勇軍がベルリンを占領したカップ一揆を、3月17日に左派の復員兵がルール赤軍として撃退した。社会運動を止まらなかったベルリンと中央ドイツを経由して、アッパーシレジアからルール地方まで、経済的および政治的ストライキが多発した。労働者は給与が削減され、賃金は1914年に比べて40%も減少した。失業は巨大になり、ミュンヘンで約4万人、ベルリンで約5万人の失業者に達した。1919年の初めに約300万人以上の失業者に達してより多くの暴動が勃発した。 
 ルール地域では、鉱山労働者と鉄鋼労働者は国有化に向けて、特に労働者の社会運動の参加と決意が高まった。1919年2月から4月にストライキは倍増した。最初の労働組合は、1919年3月30日にルール地域に設立された。ドイツ連邦議会派が労働組合を抑圧と弾圧を主導して破壊した。6月に再建されて、急進的な労働組合に拡大した。1920年には、組合員は約12万人以上にも達して、1920年3月からルール蜂起が勃発した。
 

2020年3月29日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して身体に紫斑が出現して、九州大学病院に入院した。

長崎原子爆弾に被爆した少年が、原爆症が発症して、九州大学病院に入院した。身体に紫斑病が出現して、原爆症が重篤となり、側臥位でベッドに横たわった。原子爆弾の放射線の被爆により、最も早期の原爆症は脱毛から始まり、紫斑は約1週間して出現した。同時期に出血性歯肉炎や口内出血も伴った。被爆後の約1週間から2週間に下痢症状が、3週間まで発熱と口腔内咽頭炎が生じた。多くの被爆者は約17日前後に死亡した。原子爆弾の被爆で、最も深刻な影響を受けた臓器は骨髄と腸粘膜であった。大量に放射線に照射された骨髄は脂肪と白く染色された細胞に置き換えられて、造血細胞の根絶した。放射線に曝された結腸は平坦になり、出血が出現した。病理学的所見では、急性放射線病または急性放射線症候群(ARS)と診断された。
 紫斑病は、血斑または皮膚出血とも呼称されて、紫色に現れた皮膚の斑点である。皮膚だけでなく、反転は口の内側の膜から臓器または粘膜にも出現する。紫斑は、皮膚の小さな血管が破裂して、血液が皮膚の下に溜まる。原爆症にて、血小板の減少、血管障害、凝固障害などの重篤な病態を呈する。身体無いに過度の出血をもたらす。「紫斑、すなわち皮下出血は、急性放射線疾患の症状の一つです。原爆被爆後数日から数週間にかけて、重度被爆者は発熱、吐き気、嘔吐、食欲不振、下痢を伴う血便、脱毛、紫斑または点状出血、のどまたは口内のただれ(鼻咽頭潰瘍)、歯ぐきの衰退および潰瘍(壊死性歯肉炎)を経験しています。これらの症状の発生時期はそれぞれ異なりますが、一般的に、重度被爆者においては早くから発生しました。 (日米共同研究機構、放射線影響研究所;1975年, 元ABCC(原爆傷害調査委員会 ;1947年)」


2020年3月28日土曜日

第二次上海事変で、宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱して日本軍検閲部が掲載不許可にした。

第二次上海事変において、日本陸軍の第11師団の永津部隊兵士と田中隊兵士が、1937年9月20日に中華民国軍と奮闘した。宝山の戦地の中国軍陣地の塹壕下に、多数の中国軍兵士の死体が散乱した。大阪毎日新聞社の写真部が、9月23日に日本軍の新聞掲載の検閲を受けた。中国軍兵士の死体が撮影された写真のために掲載の「不許可」の赤字を左下に印章された。その他に死体の写っていない中国軍からの捕獲品と中国軍陣地の地形は、個人情報を削除した上で、掲載できる「検閲済」の赤字の印章を受けた。日本軍の検閲により報道写真には「検閲済」「不許可」などの印鑑や赤ペンでの修正指示が書き込まれた。毎日新聞社は戦後まで保管した日中戦争などの「不許可写真」を1977年に公開した。
 日本軍の第11師団は、9月末までに戦死者は約1,560人、戦傷者は約3,980人の犠牲を伴った。日本軍は、9月5日に上海から約25kmにある沿岸の中国軍の拠点であった宝山(Luodian)を包囲して占領した。宝山の地帯は悪路に加えて溝が網の目にめぐらされ、砲弾などの補充が困難となり、陣地から侵攻も困難であった。日本軍の砲撃が停止して、日本陸軍の突撃のみ前方に突進して、中国軍の死傷者率は50%にも達した。中国軍は、宝山がもはや保できず、9月15日に敗走した。宝山の周辺地域である羅店における中国軍と日本軍の悲惨な戦闘は「肉と血の粉砕機(血肉磨坊)」とも呼称された。第二次上海事変で、中国軍兵士は、約187,200人が戦死して、約83,500人が戦傷した。日本軍兵士は、約18,800人が戦死して、約35,000人以上が戦傷した。


2020年3月27日金曜日

グアテマラにて、1996年9月に2人の囚人を銃殺隊が銃撃してから、重態で生存した囚人の頭部に拳銃で射殺した。

グアテマラのエクイントラ市にて、1996年9月に2人の強姦致死罪の囚人を目隠して、銃殺隊が至近距離から銃撃して公開処刑した。一人の銃殺隊員が近づいて検死をすると、一人は即死していたが、もう一人は重態で生存していた。重態で生存している囚人の頭部に拳銃を押し付けた。頭部を直撃する発砲をして銃殺した。公開された残酷な銃殺による虐殺する死刑の執行手段が国内外から批判された。
  グアテマラ内戦でグアテマラ政府と闘った様々な左翼反政府勢力は、マヤ先民族が主体となった。グアテマラ政府軍1960年11月から1996年12月まで農村部の貧困層を内戦中にマヤ人民族と民間市民に対する大量虐殺をした。長期にわたる内戦中に、農村部の貧困層と対立するヨーロッパ系企業や外国企業との土地分配が紛争となった。1944年と1951年のグアテマラ革命民主的選挙は、左翼政府を導いた。冷戦に対抗したアメリカが支援して軍事クーデターを1954年に引き起こして軍事政権を樹立した。その後もアメリカの支援下で一連の右翼的な軍事独裁が続いた。1970年に軍事独裁者は、選挙詐欺を通じて、約12年間グアテマラの政治を支配した。1982年3月23日の軍事クーデターで新たな軍事政権が権力を掌握した。1970年代に社会的な不満が存続して、不平等な土地保有に対して先住マヤ民族や農民らが大規模な集団で反乱を引き起こした。1980年代にグアテマラ軍が約5年間にわたり独裁的な政府権力を握って、すべての社会政治的な反対勢力を排除した。
 内戦中に約20万人が虐殺されるか、行方不明と強制的な失踪と推定された。政府軍と反政府勢力間の戦いがあったが、1960年代半ば以降から、グアテマラ国家による民間市民に対する一方的に大規模な虐待と虐殺が執行された。国家の反対派および反乱分子の容疑者、および諜報機関による殺害および失踪に関与した。グアテマラ国家はラテンアメリカで、最初に広範囲にわたる強制失踪を執行して、1966年から1996年の終結までの失踪者数は約4万人から約5万人と推定された。反乱の拠点となった農村地域は弾圧されて、農民の大虐殺と村民全体の虐殺にまで至った。最初はイザバルとザカパ(1966–68年)の地域から、1978年以降は主にマヤ西部の高地を弾圧した。1980年代の初めには、軍、警察、諜報機関が大量虐殺に関与した。弾圧の犠牲者は先住マヤ民族を含み、政府反対派容疑者、帰国難民、反抗勢力の約93%が政府軍によって、約3%がゲリラによって犠牲となった。



2020年3月26日木曜日

沖縄戦の特攻により、水上機母艦の乗務員が殺害されて、翌日に艦上にて戦死者の死体を国旗に包んで葬儀を挙行した。

太平洋戦争における沖縄戦にて、カーティス(Curtiss)型の水上機母艦(Seaplane Tender)が、1945年6月21日に慶良間沖において日本軍の特別攻撃(特攻)を受けた。その特攻により、多数の水上機母艦の乗務員が爆死あるいは焼死した。その翌日の6月22日に、水上機母艦の艦上にて、戦死したアメリカ軍兵士の遺体を国旗に包んで葬儀を挙行した。海葬で艦上から海に乗組員の死体を投げ込み処分した。水上機母艦のカーティス型は太平洋戦線に、アーバマー型は大西洋戦線に参戦した。カーティス型は、沖縄戦で、日本軍の特攻隊の体当たり自爆攻撃で甚大な損傷と犠牲を受けた。特攻は、爆弾を積んだ攻撃機が標的に命中すること確実にするために若者の命を犠牲にした自殺的な自爆攻撃となった。1944年10月のレイテ湾の戦いで最初に特攻は登場した。
 太平洋戦争の末期の沖縄戦において、アメリカ軍に対して特別攻撃をする菊水作戦を遂行した。カーティス型水上機母艦に、6月21日に最後となる菊水10号の指令で、日本陸軍の特攻隊の「疾風」が激突した。6月23日に日本軍の司令官が自殺して、沖縄本島における日本軍の組織的戦闘は終結した。カーティス型水上機母艦は、約15時間も炎上して、アメリカ軍兵士は約41人と戦傷者約48人の犠牲を伴った。日本軍による1941年12月8日の真珠湾の奇襲攻撃により、カーティス型水上機母艦に爆弾の爆発して破片が格納庫が破壊され、激しい火災を起きた。カーティスの乗組員の約20人は、日本の特攻によって殺害された。1945年4月6日から6月22日の沖縄戦の菊水作戦において、日本海軍兵士の約2,045人、日本陸軍の約1,022人が自爆攻撃により自決死した。菊水作戦に対して、アメリカ軍の犠牲は、約4,907人が戦死して、約4,824人か戦傷した。日本軍の特攻の戦果は、主攻撃の目標であった正規空母を一隻も沈まなかった。日本軍は、菊水作戦の戦果により特攻以外には、アメリカ海軍には対抗は不可能であると覚悟した。


2020年3月25日水曜日

米比戦争にて、カンザス州のアメリカ軍志願兵が銃撃されて、周りの兵士が、止血帯を巻き口から水分を補給した。



アメリカ合衆国とフィリピンの戦いが1899年から1902年に勃発した。カンザス州からの志願兵であるアメリカ軍兵士が銃撃されて重態となった。周りのアメリカ軍兵士が、出血を止める包帯を巻いて、口から水分を補給した。この戦いによって、推定で約20,000人のフィリピン人が殺害された。、その多くが戦闘に巻き込まれたフィリピン人の一般市民が犠牲となった。フィリピンの首都マニラに対抗したアメリカ軍兵士の多くは、ミシシッピ州よりも西部の州からの志願兵であった。
 プロパガンダ映画により、ルソン島のマニラ郊外のカロオカンで戦闘をアメリカ人国民に喧伝した。フィリピン人ゲリラ集団は密集しているジャングルの下草から一斉射撃しながら突撃した。フィリピン人ゲリラは、反乱の最も激しい血の戦いになる地帯で、カンザス州からのアメリカ軍志願兵を警戒していた。塹壕や遮蔽物もないジャングルの中から、猛烈に突撃するアメリカ軍部隊が、フィリピン人ゲリラの前に出現した。アメリカ軍兵士は射撃しては、弾丸を付け替えて発砲するために一時停止した。撤退するフィリピン人ゲリラに対するアメリカ軍兵士の射撃で、周囲に白煙が立ち上り、銃声が鳴り響いて、フィリピン人ゲリラはは鋭気を失って撤退した。白兵戦により両軍は突撃に従軍して、煙と後退する戦いの喧騒で双方に多大な犠牲者が出た。アメリカ軍兵士とフィリピン人ゲリラは、正面に向かって白兵戦で直撃した。


ページリンク: http://www.loc.gov/item/98501192/

(下記の動画は、Edison Manufacturing Co.が、ニュージャージー州警備隊によって再現して映像化した。1899年5月に製作した。画面で行進するアメリカ軍兵士の突撃は非常に興奮させた。最後までとても興味を持たせる衝撃的な戦闘の場面であった。)


2020年3月24日火曜日

エルサルバドルでエル・モソテ大虐殺が起き、エルサルバドル軍兵士が、反左翼ゲリラ作戦で約1,000人の民間人を虐殺した。

エル・モソテの虐殺は1981年12月11日にエルサルバドルのモラサン県エルモソテ村で起き、アメリカ軍から訓練を受けたエルサルバドル軍兵士が、反左翼ゲリラ作戦で少なくとも約1,000人の民間人を虐殺した。エルサルバドルのエル・モソテ村の周辺でアメリカに訓練され武器を供与された一団が虐殺を起こした。1981年3月15日から政府軍は、ゲリラに対する掃討と焦土により、各地で無差別虐殺を執行した。1993年、国連のエルサルバドルのための真実委員会は、エルモソテで約5,000人の市民が「故意にそして組織的に」殺害されたと結論付けた。レーガンの政権下で、エルサルバドルには莫大な武力援助が行われた。その間には、エルサルバトルで破壊と殺戮が続き、死者は7万人に上った。翌年にアメリカの報道機関が虐殺を広報した。レーガン政権と大使館とエルサルバトル政府は直ちに否定した。約20年経過した2011年12月に、エルサルバドル政府は、エル・モソテの虐殺を公式に謝罪した。
 エルサルバトル軍は当日にエル・モソテ村人を町の広場に連行して、男女を分別して、教会と修道院に子供らを閉じ込めた。兵士らは、3日間にわたり、村人全員を無差別に射殺した。少なくとも約143人以上の子供らも弾丸で建物を発火して焼死した。男性は尋問されて、拷問されて虐殺された。若い女性と少女はレイプ後に射殺された。
 エル・サルバドルの社会的経済格差の拡大と隷従などから、1979年10月15日から政府は民族解放戦線(FMLN)と内戦が勃発した。アメリカ政府のレーガン政権は、政府に軍事援助をした。政府軍とFMLNのゲリラ戦に、一般市民が巻き込まれて混乱して対数の犠牲を伴った。政府軍は約20,000人以上、FMLM勢力は約7,00人、市民は約75,000人か死亡した。1992年1月16日に国連を通じてチャプルテペック和平で内戦が終結した。



2020年3月23日月曜日

関東大震災により朝鮮人が日本人により大虐殺されて、東京の墨田川にかかる永代橋の付近に水死体が浮いていた。

関東大震災により朝鮮人が大虐殺されて、東京の墨田川にかかる永代橋の付近に朝鮮人と示唆された水死体が浮いていた。死体が杭に縛りつけられていた。虐殺が大きくなるほど、東京の隅田川や荒川の支流に血染めの水死体が浮かんだ。(2013年8月22日の北東アジア歴史財団が公開した。広島原子爆弾による太田川の死体ではない。爆心地から約2km以内は陸軍の暁部隊により極秘に完全に封鎖された。)
 1923年9月1日午前11時59分に、東京を震源地とした関東地域に最大7.5級の超強力な大地震が発生した。ちょうど昼食時に当たり、地震の余波で、直ちに大火災に引火した。東京は約6割から横浜は約8割など関東地域を中心壊滅した。日本気象庁は、死者は約99,331人、行方不明が約43,476人、被災者は約340万にも及び大規模な災害となった。家屋の全壊は、約128,266棟、半壊は約126,233棟、焼失は約447,128棟、流失は約860棟に達した。
 災害中に、日本政府の内務省から戒厳令が発令されて、警察署に治安維持を指令した。社会不安が高まり、恐怖で関東地域に噂やデマが飛び交った。そのデマの中に、「朝鮮人が暴動を起こす」「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が略奪した」「朝鮮人が日本人を襲撃した」「朝鮮人が爆弾を仕掛けた」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人の背後は、社会主義者である。」などの根拠もないデマが拡散した。さらに複数の新聞が、在留の朝鮮人に関する過激な敵意を掲載してあおった。日本人団体ら警察組織や自警団にも浸透して、容疑を掛けられた朝鮮人や中国人が虐待と虐殺された。組織された自警団により、約3,689人の朝鮮人が虐殺したと示唆された。竹槍、こん棒、拳銃、刃物などで執行した。警察は、自警団による朝鮮人の虐殺を消極的に対処して傍観してた。韓国併合により、特に日本に移民して来た朝鮮人労働者や留学生が犠牲となった。日本政府は関東大震災を、安全地帯をを求めて、積極的に中国を侵略する口実とした。


2020年3月22日日曜日

第一次世界大戦のカポレットの戦いで、ドイツ軍とオーストリア軍の突撃により殺害されたイタリアの兵士の死体が散乱した。

第一次世界大戦のカポレットの戦い(Battle of Caporetto)が1917年10月24日から、チヴィダーレ近隣の山で、ドイツ軍とオーストリア軍の突撃により殺害されたイタリアの兵士の死体が散乱した。ギターを含む持物が、死体の周辺に散在した。ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍は、イタリア北部で11回も繰り返し戦闘したイゾンツォの戦いは、イタリア軍はオーストリア軍の防衛線を破れず、戦争は西部戦線と同様に血まみれの膠着状態となった。次いで近隣の小さなカポレット町(現スロベニアのコバリード)で、カポレットの戦いが勃発した。ドイツ軍とオーストリア軍は、毒ガスと砲撃などにより占領した後地に、塹壕の中にはイタリア軍兵士の死体が満載した。11月9日には、最後にはイタリア軍は崩壊してピアベ川を越えて後方に撤退した。約20万人以上のイタリア軍兵が塹壕から登り、ドイツ軍とオーストリア軍に向かって、白い旗で降伏した。イタリア軍の大敗は、イギリスとフランスの共同司令部にとり非常事態となった。イタリア軍が救護に間に合わないと、イタリア軍は戦争から撤退する可能性があった。イギリス軍とフランス軍は、ドイツ・オーストリア同盟の攻撃に耐えるように、激烈な西部戦線からイギリス軍5師団とフランス軍6師を増援した。
 カポレットの戦い全体で約17日間継続して、イタリア軍兵士は約13,000人が殺害され、約30,000人が戦傷し、約265,000人は同盟軍に降伏した。この割合は、人類の戦争の全歴史において非常にまれです。ドイツ軍とオーストラリ=ハンガリー軍は、犠牲はより軽微で、約5,000人が殺害あるいは行方不明で、約45,000人が戦傷した。第一次世界大戦において、イタリアは1915年5月23日にオーストリア=ハンガリー帝國に宣戦布告した。1917年後半までに、戦争の進展に変化がなく、死傷者は多くなり、相互の経済はひどく落ち込んだ。


2020年3月21日土曜日

新興善国民学校の職員室で、9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。新興善小学校は解体され救護所メモリアルに変貌した。

新興善特設救護病院における外来診察室は、かつて新興善国民学校の職員室であった。9月24日に長崎原子爆弾の被爆者に外来診療を行った。1945年8月9日に長崎市へ原爆が投下されて炸裂した。8月9日被爆直後の原爆による甚大な被害により、長崎医科大学本部と附属病院が、新興善国民学校を仮収容所として患者診療を開始した。10月6日に、新興善救護病院が長崎医科大学附属病院となった。11月上旬に長崎医科大学本部が長崎経済専門学校から新興善国民学校に復帰した。
 1946年2月9日に、新興善国民学校の児童数約495名は、晧台寺に移転した。新興善国民学校を長崎医科大学附属第一医院として診療開始した。1947年4月1日に、学制改革(六・三制の実施)により、新興善国民学校は、長崎市立新興善小学校と改称した。1949年1月22日に新興善小学校は、大学校舎の裏手に仮校舎が完成して、晧台寺から移転した。1950年10月2日から、長崎大学医学部附属病院各科が10月6日までの4日間に、約6年ぶりに浦上の旧構内に復帰した。10月20日に、長崎大学本部が諫早から新興善小学校に附属外来診療所の一部を移転した。1951年12月25日に長崎大学本部と附属外来診療所が興善町35番地へ移転し、新興善小学校が復帰した。


 1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校して、123年の歴史に幕を下ろす。2004年5月に長崎原子爆弾の最後の被爆遺跡が存続されずに解体された。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館した。被爆の遺跡の一部を複製して「救護所メモリアル」に再現した。
  救護所メモリアルは、その場所にあった新興善小学校では、かつて原子爆弾による多くの被爆者が救護を受けた。旧長崎市立新興善小学校の正門のみが僅かに残存した。長崎原子爆弾の象徴を残していた浦上天主堂も1958年3月18日から解体されて幻の人類遺産になった。長崎市内の原爆の遺跡は、数多く解体された。1980年代後半に、建物の老朽化で、多くの被爆建造物が解体された。爆心地の近隣の山里小学校の被爆校舎も、解体されて新校舎に変貌した。1992年には、旧長崎刑務所の浦上元刑務所の遺跡も、平和公園の改修で大部分が解体された。新興善小学校を、被爆関係者から救護所の現物保存による記憶よりも、校区住民が慰霊祭と平和学習の生活が優先された。
 原爆記憶は真実の象徴があれば、世界平和に向けて発信できる。特に視覚による画像は、戦争記憶を継続するためにもより発進することが重要となっている。戦争の視覚は、文字の視覚よりも、社会的な平和思想と戦争思想が到来して蘇生する。


2020年3月20日金曜日

第一次世界大戦のソンムの戦いで、ルージュの森でドイツ軍兵士が殺害され残骸中に腐敗して横たわったドイツ人の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて、1916年10月にソンムの戦いで、ルージュの森でドイツ軍兵士が殺害されて、残骸中に腐敗して横たわったドイツ人の死体が散乱した。ルージュ・ゾーン(レッド・ゾーンの危険地域)は、第一次世界大戦では、1916年2月21日から農耕地の小さな村が散在したフランス北東部ムーズ川周辺の地域で、第一次世界大戦のヴェルダンの戦いが勃発して303日間と最長となる12月19日に終結した。近隣のフランス北部のピカルディ地方を流れるソンム河畔で、7月1日からのソンムの戦いが11月18日に終結した。フランス軍・イギリス軍とドイツ軍が大量に弾薬や銃などの兵器を、ルージュ・ゾーンに投棄したことで環境が破壊された。非常に危険な地帯となり、未だに約170平方キロメートルが立ち入り禁止区域として制限されている。土地が非常に荒廃して、村の再建と再定住が不可能となった人跡未踏の地域となった。ルージュ・ゾーンには、弾薬、不発弾、死骸、鉛、ヒ素、水銀、酸、ガスなどの化学物質が地面に潜在して、2012年にフランス政府は、レッド・ゾーンから住民を強制排除した。
 1916年7月1日からのベェルダンの戦いの初日には、イギリス軍は約わずか平方マイルの占領のために、1日だけで約19,240人が戦死して、約57,470人が戦傷した。1916年9月15日にはイギリス軍は、史上初の戦車(MarkⅠ)をわずか5台投入して、フレール方面の戦場に突撃したが、占領地域は幅8kmと奥行き2kmのみであった。ヴェルダンの戦いで、フランス軍は約200,000人、イギリス軍は約456,000人、ドイツ軍は約500,000人が犠牲となった。ソンムの戦いでは、フランス軍は約約200,000人、イギリス軍は約420,000人、ドイツ軍は約750,000人が犠牲となった。ドイツの作家であるエーリヒ・マリア・レマルクの小説「西部戦線異常なし、報告すべき件なし。」は、ヴェルダンの戦いに従軍した経験から誕生した。


2020年3月19日木曜日

日本軍がサイパン島のアスリート飛行場に突撃するも、多数の朝鮮人の強制労働者が、戦闘に巻き込まれ殺害された。

1944年6月26日夜中に、日本軍がサイパン島で占領されたアスリート飛行場へ突撃するも敗退した。突撃で、多数の朝鮮人の強制労働者が、戦闘に巻き込まれて殺害された。アメリカ軍のスパイ活動に対抗するための対敵情報活動部隊が死亡した朝鮮人の強制労働者の死体を検死した。日本による国家総動員法の1939から1941年までに、韓国人強制労働者の約5,800人がサイパン島など太平洋諸島に強制連行された。大多数の朝鮮人強制労働者は犠牲となった。その後1941年から1945年の終戦までさらに多くの朝鮮人強制労働者は連行されて、太平洋諸島はアメリカ軍の侵略に巻き込まれて犠牲となった。
 アスリート飛行場への突撃で、日本軍兵士は約143人が戦死して、アメリカ軍は約33人が戦死した。サイパン島に連行された2,000人ほどの朝鮮人軍属の半数近くが死亡して、約1,300人が生存した。日本はこれまでサイパンの軍事力を継続的に強化するも、アメリカ軍の攻撃に直面して、日本軍を強化するためにサイパン島で兵士と民間人を徴兵した。太平洋戦争でのサイパンの残酷な戦いの一つは、マリアナ諸島のサイパンでの戦いであり、サイパン島を占領するための戦いでした。サイパンでの戦闘は、戦闘全体が重傷を負ったため残酷であり、日本軍と海軍は41,000人以上の死傷者を出し、2,000人近くに捕えられました。アメリカ軍も16,000人以上の犠牲者を出しました。
 1944年6月11日に、アメリカ軍はサイパン島に対する地上攻撃から、地上要塞のほとんどを破壊した。直後から、サイパンの西海岸に上陸した。6月17日夕方まで、日本軍は反撃を繰り返すも、すぐに撃退された。6月19日から20日にかけて、アメリカ海軍と日本海軍はマリアナの海で激闘となった。サイパンでの戦いの結果、日本海軍は敗北し、日本軍は完全に孤立した。その後、アメリカ軍は高所を占領し、北方全土に攻撃した。20日間の激しい戦いの後、日本人は重傷を負い、わずか約4,000人しか生存しなかった。1944年7月7日に、残りの4,000人の日本軍がアメリカ軍に反撃したが一掃された。7月8日にはアメリカ軍がサイパン島全体を占領した。サイパンの戦いは日本軍の敗北をもたらし、アメリカ軍は島全体を占領しました。日本軍と海軍は合計約41,000人以上の死傷者を出し、約2,000人近くが捕虜になった。アメリカ軍も、戦闘中に16,000人以上の死傷者が出た。サイパンの戦いの後、アメリカ軍はサイパン島を占領し、マリアナ諸島を占領す拠点を作り、日本本土へのさらなる直接攻撃の基地を築いた。


2020年3月18日水曜日

三島由紀夫が自衛隊総監室で切腹自殺をした死体と、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総監室で切腹自殺をした直後の制服をかけた死体と、切腹自殺の時に介錯されて断頭されて、鉢巻を締めた生首が縦に置かれた。総監室に持ち込んだ日本刀や短刀などが散在していた。赤絨毯の上が血の海となった。国内外ともに、憶測と論争から騒然となった。
 著名な作家であった45歳の三島由紀夫は、1970年11月25日に、自分が主宰する「楯の会」のメンバー4人と、防衛庁(現防衛省)自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で、午前11時に総監を拘束し人質にして、自衛隊員と乱闘して総監室に立てこもった。自衛隊員を集め、憲法改正のため自衛隊の決起いわゆるクーデターを呼びかけた。しかし賛同を得られないと判断した後に、自ら切腹自殺をした。三島由紀夫は、1968年頃から軍事的な侵略に備える軍隊的な規律を持った民間防衛組織である楯の会を結成していた。
 総監を人質にして、市ヶ谷駐屯地にいる自衛官全員と、市ケ谷会館に待機している「楯の会」の会員を、駐屯地に集合させて、三島由紀夫に演説をすることを自衛隊に強要した。午前11時40分に約800人の自衛隊員が本館前に集合した。12時に三島由紀夫が、バルコニーに立ち、スピーカーも無く演説を始めた。三島由紀夫は自衛隊員に向かって、「自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略) 諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫し、憲法改正などを目的としたクーデターの決起を促した。ヘリコプターの騒音と、自衛隊員の怒号やヤジなどによって、演説はほとんど聞けなかった。12時10分に、演説を諦めて「天皇陛下万歳」を3回繰り返して、総監室に戻った。総監室に戻り、上半身を裸になり、正座して切腹して自殺するために、短刀を左脇腹に突き刺し、右へ引き切腹した。楯の会のメンバーが、三島由紀夫の首を日本刀で断頭して、身体が前面に倒れた。楯の会のメンバーの25歳の一人が切腹して、残った3人のメンバーが日本刀で断頭した。12時30分に、残った楯の会3人は、総監室で現行犯で警察に逮捕された。3人は嘱託殺人等で、懲役4年の実刑判決と裁定された。
 東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部には、「大いに共鳴した」という回答であった。海外は、日本軍国主義の象徴と復活の恐れを議論して注目した。



2020年3月17日火曜日

ダッハウ強制収容所の親衛隊員が、銃弾を数発を受けて、運河に飛び込んだ水死体が浮き沈みした。

ダッハウの強制収容所が、アメリカ軍によって1945年4月29日に開放された。アメリカ軍によるダッハウ強制収容所の開放に抵抗したドイツ軍親衛隊員が、1945年4月30日に射殺された。逃避した親衛隊員は、銃弾が数発の射撃を受けた。銃撃されたドイツ軍親衛隊員が、運河に飛び込んで水死した。水死した死体が、水の流れの中で浮き沈みをした(@Lee Miller)。アメリカ軍は強制収容所を解放してからも、降伏を試みた親衛隊員、降伏が受理された後の親衛隊員も虐殺した。その他に、解放された囚人も、親衛隊員を虐殺した。アメリカ軍や囚人の虐殺者は戦後に軍法会議で告発を受けるも、組織的な犯罪を否定して無罪となった。
 ナチス・ドイツは、ドイツ南部のミュンヘン近郊のダッハウに最初の強制収容所である。アドルフ・ヒトラー(1889-1945)が1933年1月30日に首相になった直後の1933年3月22日に開設した。ナチス・ドイツ軍の親衛隊の将校が管理して運営した。ダッハウに当初は、政治犯の収容所であった。1938年11月9日に、ユダヤ教の会堂が焼却されて、ユダヤ人は約30,000人が逮捕されて、約11,000人がダッハウに強制収容された。約6,000人の定員に、約30,000人の囚人が強制収容された。最終的には数千人のユダヤ人が栄養失調、病気、過労で死亡して、死刑の強制収容所に悪用された。1935年のニュルンベルグ法で人種差別が合法化されてから、ユダヤ人だけでなく、強制収容所の囚人には、芸術家、知識人、身体的および精神的障害者、同性愛者など、ナチス・ドイツに適合しない容疑者を含めた。第二次世界大戦(1939-45)の到来により、一部のダッハウの囚人は、ドイツの戦争の武器や材料を製造する強制労働を強要して拷問と虐待をした。さらに、一部のダッハウ被拘禁者は、ナチス・ドイツによる残忍な医学実験材料となった。


2020年3月16日月曜日

第一次世界大戦のソンムの戦いで、ドイツ軍の塹壕が爆撃されて土砂で埋まり、塹壕を放棄して退却した。

第一次世界大戦におけるソンムの戦いで戦闘によりドイツ軍部隊が塹壕を放棄して退却した。ドイツ軍の塹壕が爆撃されて、土砂で埋まりほぼ平らになった。撤退した後に、壊滅した塹壕とその溝にドイツ軍の死体から装備まで埋まっていた。砲撃がドイツ軍の防御にかなりの損傷をを与えた。地面に掘られた長く狭い塹壕は、第一次世界大戦の兵士を機関銃と空からの砲撃から保護するように構築された。イギリス軍は、ソンムの戦いの初日だけで、最も血なまぐさい約57,470人のイギリス人の犠牲となり、約19,240人が死亡した。ソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日まで、フランスのソンム川で戦闘が起こり、9月15日にイギリス軍の戦車が登場した。死傷者は、ドイツ軍が約434,500人、イギリス軍が約414,690人、フランス軍が約202,567人にも達した。
  第一次世界大戦は、西部戦線は血まみれの泥だらけの戦場となった。おびえた若い男性兵士がひざの深い泥の中に立って、頭上への突撃を待機して、機関銃、有刺鉄線、迫撃砲、銃剣、白兵戦などに直面した。単純にただ前進することが困難であった。殺害された男性兵士は驚異的な数となった。西部戦線の膠着状態は4年間も続き、新しい兵器の過激な進歩を余儀なくされ、戦国の資源を枯渇させ、て周辺の田園地帯を破壊した。
 1917年の初頭には、イギリス軍とフランス軍は、ベルギーとフランスのドイツ軍に対して無益な攻撃を開始した。大きな犠牲を受けた。相互に防御の機能を構築して、限定された攻撃を開始した。毎月に数千人の命を奪う膠着状態を続けてた。1918年には、ロシアと中欧諸国間の条約によりドイツに資源が解放された。アメリカ軍がフランスに到着し始め、連合軍の指揮はより統一されて、攻撃的になった。1918年7月に潮流が決定的に変わり始めて、アミアンの戦いから始まり、百日攻勢が続いた。連合軍は、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍をヒンデンブルクラインを越えて追い出して、停戦を求めた。1918年11月11日に、緒戦から4年後になってすべての戦闘が西部戦線で停止した。


2020年3月15日日曜日

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験をした。

ソビエト連邦は、カザフスタンのチャガン川の付近にあるセミパラチンスク核実験場で、1965年1月15日に地下核実験をした。核出力は、TNT140Ktに相当した。チャガン実験により、乾燥床が炸裂させてクレーターとなり、チャガン川から流入してチャガン湖が形成された。クレーターは直径約408m, 深さ約100mに達して、チャガン川から流入する人工湖を形成した。
   アメリカと日本の両国で放射能が検出された。核実験から放射能が放出して、1963年の部分的核実験禁止条約(PTBT)に違反した。アメリカはソ連に核爆発を非難して、偶発的させた高収量兵器試験による放射能の発散と抗議した。ソ連は、PTBTは地下核実験に該当せず、核爆発は地下深くで行ったと反論した。ソ連は、大気中に漏れた放射性残骸の量はごくわずかであり、領土制限外での放射性物質の降下物の可能性を否定した。その後のいくつかの相互交渉の後に、放射能の問題はそれ以上のソ連の説明は無く隠蔽された。
 セミパラチンスク核実験場は、かつて旧ソビエト連邦の主要な核実験場であった。カザフ共和国(現・カザフスタン)の北東部、セメイの西方約150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km2にも達する。1949年から1989年の40年間に合計で456回もの核実験場に使用された。核実験場は1991年8月29日に正式に閉鎖された。カザフスタン市民の放射能被曝による影響は、ソ連政府によって1991年の実験場の閉鎖まで隠蔽された。ソ連の最初のプラトニウム型の原子爆弾の核実験であるRDS-1は、1949年8月29日にセミパラチンスク核実験場が行われた。周辺地域に放射性物質物が降り注いだが、カザフスタン市民への避難警告はなかった。水素爆弾は、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37などが試行された。セミパラチンスク核実験場の周辺住民を滞在させた人体実験となり、放射能被爆の被害を受けた。




2020年3月14日土曜日

朝鮮戦争において、内戦により奪還されたソウルのある地域で北朝鮮軍によって大韓民国の民間住民が虐殺された。

朝鮮戦争において、内戦により奪還されたソウルのある地域で北朝鮮軍によって大韓民国の民間住民が虐殺された。 女性の死者も含まれていた。北朝鮮軍は、ソウル市民の数十万人を「反共産主義の反動分子」として無差別に大量虐殺した。特に北朝鮮人民軍の民間人虐殺は非常に残酷であった。人民軍は左翼勢力と一緒に占領地域ごとに人民裁判と処刑を敢行した。主にキリスト教徒、役人と軍人・警察の家族、知識階層、右翼などが最優先で虐殺されて、婦女子や赤ちゃんにも例外なく処刑した。
 朝鮮戦争は国全体が廃墟になる3年の戦争中に多くの死傷者が発生した。韓国国防軍研究所によると、韓国軍は約13万7899人、主なアメリカ軍が約5万4246人、中国軍が約14万8600人、北朝鮮軍は約50万〜52万人が殺害されたと推算した。している。戦争によって死亡した民間人は約99万968人にも達った。朝鮮戦争当時の両両軍の戦死者よりも多かった。その中で軍隊の兵士による虐殺で命を失った民間人は約12万8936人に及んだ。
 1950年6月25日午前4時に、約10万人にも及ぶ北朝鮮軍の砲撃から侵攻が開始されて、北朝鮮軍が38度線を越えて、宣戦もなく朝鮮戦争(6.25戦争)は突然に勃発した。1950年6月28日午前1時頃に、ソウルの最終防衛線は崩壊して、北朝鮮軍が市内に突入した。ソウル市内、とくに漢江北岸はソウル避難民や韓国軍兵士によって大混乱に陥って、市街地の通行は極めて困難となった。漢江橋の爆破命令を受けて、6月28日2時20分にごろ、爆破命令が下達され、人道橋、続いて3本の鉄橋が爆破された。漢江人道橋爆破事件によって約500から約800人のソウル避難民が犠牲となった。北朝鮮軍がソウル市内の中央部に突入したのは、28日の11時30分ごろであった。ソウル市街戦は、撤退してきた韓国軍が展開した。北朝鮮軍は約10時間で、漢江戦線まで侵攻した。
 退路である漢江人道橋の爆破で、韓国軍主力部隊は退路を遮断された。複線鉄橋と単線鉄橋が完全に破壊されず、北朝鮮が漢江を渡河した。漢江の橋梁が爆破されて、韓国軍は、依然としてソウルの外郭防衛線において戦闘で残存していた。しかし、橋梁が爆破されて、北朝鮮軍がソウル市内に突入して、韓国軍の各部隊は、雪崩を打ったように後退を開始した。韓国軍主力は退路が遮断されて、北朝鮮軍の突撃により崩壊した。韓国軍は分散して漢江の渡河を余儀なくされて、北朝鮮軍の攻撃を受けて渡河時に甚大な犠牲を伴った。ソウル市内から撤退できた韓国軍は、6月29日朝には概ね完了した。しかしその後も、ソウル市内には、脱出の機会を逸して潜伏した多数の韓国軍とソウル避難民が、北朝鮮軍に捕らえられ虐待あるいは虐殺された。
 韓国軍と国連軍は、1950年9月28日にソウルを奪還した。北朝鮮と10月19日から参戦した中国軍は1951年1月24日にソウルを再度に奪還して、さらに韓国と国連軍は3月15日に再奪還した。その後も約3年間も引き続く内戦で、多数の軍人と民間人が犠牲となった。民間人の虐待と虐殺もその報復も繰り返されて、敵対的な対立が深刻となった。朝鮮戦争で、双方が壊滅して疲弊して、1953年7月22日22時に休戦協定で休止した。


2020年3月13日金曜日

沖縄戦で家屋に潜伏していた日本軍兵士が、アメリカ軍から飛び出して逃避する間に射殺された。

1945年4月に家屋に潜伏していた日本軍兵士が、アメリカ軍から飛び出して逃避する間に射殺された。家屋の前に戦死して仰向けに転倒したしたいが横たわった。住人は既に民家からは逃避していた。再び潜伏できないように、アメリカ軍兵士が、わら箒の先端に火をつけた。木造わら屋の民家のわら屋根に、引火したわら箒引で周囲から焼き払って焼滅した。
  沖縄の戦いは、太平洋戦争の最後の大規模な戦闘となった。太平洋戦争の他のどの戦いよりも、より多くの軍隊が上陸し、より多くの物資が輸送され、より多くの爆弾が発射して投下された。広島原爆と長崎原爆の被爆死よりも、人々が沖縄の戦いで死亡した。アメリカ軍の死傷者は、約12,000人が死亡または行方不明になり、約38,000人以上のアメリカ兵士が戦傷した。約107,000人以上の日本軍兵士と沖縄の徴集兵が死亡して、おそらく約100,000人の沖縄市民が戦闘に巻き込まれて死亡した。
 沖縄の戦いは、太平洋戦争で最も悲惨で残酷な戦闘となった。主に神風の特攻隊により、約34隻の戦艦が沈没し、約368隻の船と船が破損した。アメリカ艦隊は約763機の航空機を失った。沖縄戦で、アメリカ軍の総死傷者数は12,000人を超えて、死者は約5,000人、海軍と陸軍は約8,000人が死亡し、約36,000人が負傷した。約26,000人以上の非戦闘員の死傷者を伴った。沖縄の戦いでは、戦闘ストレスによる戦闘損失の割合は、戦闘による負傷の割合として表され、約48%にも達した。(朝鮮戦争では全体の割合は約20〜25%で、ヨムキプール戦争では約30%であった)。沖縄戦でのアメリカ軍の損失は非常に多かったので、議会が軍事司令官の行為の調査を求めた。沖縄の戦いの過大な負担から、わずか6週間後に日本に対して原子爆弾を使用する決定に影響を及ぼした。
 特に日本軍の人的損失は莫大であった。約107,539人の日本軍兵士が殺されて、約23,764人が洞窟に埋められたか、日本軍自身に埋められた。約10,755人が捕虜または降伏した。日本軍は約7,830機の航空機と約16隻の戦艦を失った。多くの沖縄住民が洞窟に逃げた後に、埋葬されたので、民間人の正確な人数の犠牲者は明確にならない。最低の推定は約42,000人が殺害された。沖縄住民の10分の1から3分の1が死亡したと推定された。アメリカ軍の記録では、沖縄には約30万人の民間人が住んでいたが、沖縄戦の終結時には、約196,000人の民間人生存した


2020年3月12日木曜日

ドイツ軍は、国際特派員にドイツ系住民がポーランド人によって虐殺されたドイツ民族の死体だけを特定して見せた。

1939年9月3日にポーランドで血の日曜日と呼称されるブロムバーグ虐殺が勃発した。ドイツ軍は、国際特派員にドイツ系住民がポーランド人によって虐殺されたドイツ民族の死体だけを特定して見せた。ドイツ国防軍兵士がジャーナリストにドイツ人犠牲者の死体を示した。写真は、ナチス・ドイツの宣伝で使用された。この画像には編集者のトリミングマークが付いており、公開に使用することを目的としていた。
 ビドゴシュチュ(ドイツ名: Bromberg, ブロムベルク)を通じて、撤退していたポーランド軍隊は、ドイツ系住民によって撃たれた。 その後の戦闘で約40〜50人のポーランド人と約100〜300人のドイツ人が殺害された。その殺害に続いて、ナチス・ドイツ軍の甚大で悲惨な報復と弾圧が行われ、虐待と虐殺ならびに強制収容所に収監した。ナチス・ドイツ軍は、1939年9月1日にポーランド侵攻を突発した。ポーランドのビドシチ(ドイツ名: Bromberg)において、直後の9月3日にポーランド軍とポーランド人住民と、ドイツ人系住民との間で殺害事件が起こった。ポーランド側に約238人、ドイツ系住民の側に約223人が殺害された。戦時中のナチス・ドイツ軍は、9月3日の事件を、無実のドイツ系住民に対するポーランド人の卑劣な虐殺である「ブロンベルグ血の日曜日事件」として国内外に喧伝と非難をした。
 ドイツ軍ならびに自衛団や警察部隊は、その1週間後に9月9日から10日にかけて、ブロンベルグ血の日曜日事件の復讐と称して、ポーランドのブルンベルグにて市内や周辺の各地で約3,000人のポーランド人を無作為に選抜しては広場で銃殺する様々な無差別に虐殺さた。ドイツ軍はさらに1939年末までに約13,000人のポーランド人を、ポーランド北部の絶滅収容所となるシュトゥットホーフ強制収容所へと強制送還した。総計約10,500人のポーランド人がビドゴシチとその周辺で殺害された。
  ナチス・ドイツはポーランド侵攻時から1939年11月までのドイツ系ポーランド人の死者数を約5,437人と強調して、国内外へ向けて反ポーランド感情を煽るプロパガンダの喧伝した。さらに1940年2月にはの死者数は約58,000人と誇張した。最終的には約60,000人以上が殺害されたと宣伝した。しかし現在では、ドイツ系住民はポーランド全土で約5,000人程度と推定された。



2020年3月11日水曜日

第一次世界大戦において、3人のドイツ軍兵士がベルギーのゾンネべーケ近くのトーチカの外壁で殺害された。

第一次世界大戦において、1917年9月23日に3人のドイツ軍兵士がベルギーのゾンネべーケ近くのトーチカの外壁で殺害された。殺害された3人のドイツ人の死体が、トーチカの下で積み重なって腐敗していた。多数のトーチカ、砲兵陣地、地雷源などが、有効的に防御する要塞となっていた。トーチカは、鉄筋コンクリート製の防御陣地となった。戦車や航空機といった初期の近代兵器が登場した第一次世界大戦当時までは、人間が接近して銃撃から爆薬を投げ込むといった攻撃方法しかなかった。しかし、各種兵器がより強力に発達した第二次世界大戦からは、いくつかの悲惨で残虐な大規模攻撃が編み出された。
 第一次世界大戦の西部戦線のゾンネべーケ近郊のパッシェンデール(Passchendaele)の戦いにて、連合軍とドイツ帝国軍が激闘した。1917年7月21日から、ベルギーの西部の都市イーペルに対する三度目の戦闘が、周辺のパッシェンデール村を主戦場として会戦が勃発した。ドイツ軍の塹壕ならびにトーチカ群に対して、イギリス軍やカナダ軍などの混成の連合国軍が突撃した。双方ともに約1m進撃するのに約20名の兵士の殺害された。非常に激しい悲惨な多大な犠牲を伴った。ドイツ軍は、イペリットと戦場から呼称された毒ガスのマスタードガスを初めて連合軍に投入した。びらんと炎症を起こして、細胞分裂を阻害して失明にも至った。約3ヵ月にも及ぶ長期間の戦闘により、犠牲者は連合軍が約44,8000人、ドイツ帝国軍は約260,000人にも達した。11月6日に戦闘が停止したとき、結局は連合軍が奪回できたのは都市イーペルの峰東のみであった。都市は大砲や銃撃の砲弾によってほとんど壊滅した。パッシェンデール村は両軍の絶え間ない砲撃で皆無なきまで破壊し尽された。 今でも地面を掘り起こすと多数の人骨が残存している。パシェンデールとは、近代兵器による残虐な戦争による虐殺を示唆した。


2020年3月10日火曜日

東京初空襲により荒川区尾久で一家が焼死して、4歳の子どもの焼死体が焼トタンの上に並んで黒い骸と化していた。

太平洋戦争において、東京がアメリカ軍の爆撃機により初空襲された。まき散らした爆弾と焼夷弾により、家屋内で焼死した死体が散乱した。荒川区尾久で一家が焼死して、4歳の子どもの焼死体が並んで黒い骸と化した。死体を焼きトタンの上に並べた。身元が判別できないほど黒化した焼死体が散乱していた。一気に殺害されて、まっ黒い死体となった。
 1942年4月18日に、アメリカ軍の爆撃機B-25が東京都内を初めて空襲して、爆弾と焼夷弾などが投下されて炸裂した。日本本土に対する初めてのドーリットル(Doolittle Raid)空襲となった。月島から品川に向けて爆撃機体が通過した後には、日本軍による高射砲弾の弾幕が立ち昇った。既にアメリカ軍の爆撃機が飛来して空襲して通過してから、その後に空襲警報は鳴った。爆撃機は、航空母艦より発進して、東京の上空に侵入した。13機体のB-25の爆撃機が編隊を組んで、超低空より爆撃をした。大井方面は大規模な火災が発火した。空襲による爆撃で、大井から品川区方面の工場一帯なとが壊滅した。さらに、荒川区、王子区、小石川区、牛込区などに爆弾と焼夷弾を振りまいた。荒川区の尾久では、広範囲に家屋もが倒壊して燃え上がった。爆弾の炸裂ににより、直径約10mと深さ約2mの掘穴に達した。4月18日の東京初空襲では、約39人が殺害された。川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸も同じ4月18日に空襲された。日本人は、それぞれ約87人が死傷と約466人が軽傷を負い、262軒の家屋が破壊された。「東京大空襲」とは、死者数が10万人以上となった1945年3月10日の東京下町に対する夜間空襲(下町空襲)により、罹災者は約100万人を示唆した。



2020年3月9日月曜日

第一次上海事変で、激しい日本軍と中国軍の戦闘に巻き込まれて殺害された子供らの死体が横並になった。

第一次上海事変における日本軍と中国軍との激しい戦闘に、上海の民間市民が巻き込まれた。多くの上海の中国人の子どもらも犠牲となった。殺害された子供らの死体を空き地に横並びにして死後処理をした。
 1932年1月28日から3月3日に中華民国の上海共同租界の周辺で、日中両軍の第一次上海事変が勃発した。中国では一·二八事変と呼称する。1932年1月28日の真夜中に、日本軍は突然とライフルと機関銃で、警護として外国人居留地であった上海共同租界を攻撃した。日本軍の爆弾により上海地区が破壊された。煙が立ち込めた上海の通りでは、第一次世界大戦以来で、最も激しい戦闘が始まった。1月28日の午後には、中国軍兵士が潜伏しながら、戸口に登り、銃を発砲し始めた。上海の街路は、排水溝のように空となった。家屋の鉄フェンスのドアは、川の貝のように閉じた。3月3日に中国軍が撤退して終結するまでに、日本軍は約679人が戦死して、約2,322人が戦傷した。中国軍は約4,000人が戦死して、約9,000人が戦傷した。上海市民が第一次上海事変に巻き込まれて、死者は約6,000人、負傷は約2,000人、行方不明が約14,000人にも達した。
 日本軍による銃撃、連行、虐殺などの残虐行為が引き続き発生した。一部の中国人は連行されて、家族も襲撃されて、多くの民間人が殺害された。ある中国人の老女を家から引きずり出し、足で顔を蹴った。 中国人が始めたテロ行為は、何日も止められないほどに拡大した。恐ろしいテロ行為は、在留日本人らは動揺して、ショックを受けて恐怖を来した。一部の日本の領事館の職員は、介入する権利さえなかった。1931年9月18日に、鉄道車両が日本の侵略軍によって破壊された満州事変から、反抗日運動が激化していた。



2020年3月8日日曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾による被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。

広島原子爆弾の炸裂により、爆心地から約1.4kmにある東は白島町の広島逓信病院は、爆風で窓枠も吹き飛んだ。広島逓信病院にて、被爆者に対して一日中わたり懸命な救護活動が行われた。広島逓信病院の眼科の勤務医が、左腕を被爆しながら医療関係者らと救護活動に専念した。翌日の8月7日早朝から病院に出勤した。相当の放射線を浴びて、ひどい倦怠感を伴った。8月8日から地方から救援の一部の医療者と合流した。一時的に緊急事態となり収容者の記録、姓名、住所、年齢も不詳となった。
 広島逓信病院では多数の被爆者が廊下の一面に横たわって呻いた。一部の被爆者は病院にすら入りきれずに絶命した。本来の2階の病室が、鉄筋以外は焼失した。8月8日には病院に、収容者の氏名の一覧表を掲載すると、肉親がなだれ込んだ。病床には各被爆者の氏名を枕元に置いた。多量の放射線を浴びた被爆者は、出血傾向となり体内出血した。8月9日には隣の広島逓信局に駐在していた江田島から救援する暁部隊の青年兵が、宇品から資材を運搬して、広島逓信病院の南側にバラックを急造した。出血傾向の被爆者をバラックに隔離した。バラックは炎天下では、灼熱するために被爆者は救護を求めた末に脱水死も誘発した。多数の息が絶えた被爆者の死体が病院の前に放置された。連日に庭の片隅に死体を運搬して、焼け跡の残木などを集めては火葬して死体処理をして、白骨を土中に埋めた。一部の遺骨は、薬びんに入れては、遺族に引き渡した。
 常磐橋を越えると、満潮で水流が止まり多数の被爆死した死体が川面に浮いていた。饒津神社の鳥居の脇に、死体の一部は丸太のように引き上げられた。悲惨な倦怠感を伴い、死に無関心となっていた。戦時になると人間性も失って、失神状態となり、限度を超えた悲惨や残酷も、何らの虐待や虐殺を感じなくなっていまう。


2020年3月8日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 370,000回 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟
2020年3月8日にBloggerの投稿数は1,300回に達した。

2020年3月7日土曜日

フィンランド軍兵士が狙撃して射殺されたソビエト軍兵士の多数の死体が凍結した雪山に放置された。

フィンランド軍のスキー大隊の兵士はほとんどは狙撃兵とあった。冬雪の中をスキーで素早く動きながら、ソビエト軍兵士を襲撃して殺害した。 彼らは無人の森で、白いカモフラージュで身を包み、湖の周りのソビエト軍に突撃して狙撃した。フィンランド軍兵士が狙撃して射殺されたソビエト軍兵士の多数の死体が凍結した雪山に放置された。フィンランド軍兵士は、倒れた赤軍兵士を視察して検死した。フィンランドは、気温は約−43°Cにも達してソビエト軍の侵略を約3か月以上も対峙して、両軍はかなりの犠牲を伴った。
 1939年11月30日に、ソビエト・フィンランド緒戦となる冬戦争(Winter War)が勃発して、ソビエト連邦軍はフィンランド領土に大規模な侵攻を開始した。ソビエト連邦は、フィンランド国境から約32kmのレニングラードの防衛として、フィンランドの国境地域の占領を宣告した。フィンランドが拒絶してソ連は侵略した。フィンランド軍は約25,904人が戦死、ソビエト軍は約126,875人の戦死の犠牲者に達した。ソビエト軍は再編成して異なる戦略で、1940年2月から侵攻を再開して、フィンランドのマンネルハイム防衛線を突破した。1940年3月にモスクワ平和条約の調印で敵対行為は止まった。ソ連はフィンランドの領土の11%を占領して、2番目に大都市ヴィボルグを有して、ラドガ湖とフィンランド北部に相当な領土を獲得した。約430万人のフィンランド人が家や土地を失い、奥深くに移動して、多くの社会問題を引き起こした。ソ連の宣戦布告は、1939年12月に軍事侵略者としてソ連は国際連盟から追放された。
 その後に引き続くフィンランドとソ連との継続戦争(Continuation War)が東部戦線で勃発した。1940年8月のドイツとフィンランドは非公式協定を1940年9月に正式に成立した。ドイツはノルウェー北部の軍隊の派遣を名目に、フィンランドにて鉄道で軍隊を送る権利を許可された。1940年12月にさらなる協定を結んで、フィンランドにドイツ軍が駐留できた。1941年の春までに、フィンランド軍はドイツ軍のロシア侵攻に参戦した。1943年2月にスターリングラードでドイツが惨敗してから、1944年6月にソ連はフィンランドのカレリア地峡とラドガ湖地域に侵攻した。1944年9月にモスクワでソビエト連邦とフィンランドの間で予備的な和平協定が締結された。フィンランドはソ連に2度目の敗北を喫したが、ソビエト連邦による占領から逃避できた。


2020年3月6日金曜日

アメリカ軍は、ルートヴィヒスルスト住民に命令しヴェッベリン強制収容所に連行して囚人の量虐待と虐殺を注視させた。

ベルリンから北西に約190kmのルートヴィヒスルストのドイツ人住民が、1945年5月7日にアメリカ軍の命令で近くのヴェッベリン(Wöbbelin)強制収容所の内部に連行して囚人に対するナチス・ドイツ親衛隊の虐待と虐殺を視察させた。ナチの囚人服を着たままの死体が、土の床上に放置されていた。強制収容所の囚人の犠牲者の約300人以上の死体を土中に埋葬された。アメリカ軍は1945年5月3日に、収容所とその背後の土中に埋められた積み木のような約500体以上の死体を発掘した。アメリカ軍は、地図に記録されていないヴェッベリン強制収容所を偶然に発見して5月2日に解放した。
 ドイツ国内のルートヴィヒスルストの近くにあるヴェッベリン強制収容所は、ノイエンガンメ強制収容所の支部強制収容所であった。ナチス・ドイツ親衛隊は隠蔽のために、他地域の強制収容所から連行するために、1945年2月12日にヴェッベリン強制収容所を最後として設置した。1945年5月2日に連合軍がヴェベリン強制収容所を解放した時に、絶頂期には約5,000人の囚人を収容していた。多くの囚人は飢餓と栄養失調による衰弱と重病に陥った。アメリカ軍がルートヴィヒスルストに到着して解放した時点では、強制収容所の生活環境は悲惨であった。食料や水などもほとんどなく、一部の囚人は共食いの弱肉強食に陥った。到着した時点で、収容所で約1,000人の囚人の死体を発見した。アメリカ軍は、5月7日にルートヴィヒスラスト市民のドイツ人に強制収容所を訪問させて、約300人もの囚人の死体を埋葬することを命令した。埋葬した墓場には十字架と、ユダヤ人にはダビデ像、追悼するための石碑を設置した。


2020年3月5日木曜日

ベトナム戦争においてアメリカ軍兵士が、ベトコンの容疑があるベトナム人青年を、泥水の中で水漬めを繰り返した。

ベトナム戦争においてアメリカ軍兵士が、ベトコンの容疑があるベトナム人青年を、泥水の中で水漬め(waterboarding)を繰り返した。さらにベトコンであると自白させるために、殴る蹴るなどの虐待をして自白を迫った。逆さまの状態で、水を口や鼻の穴に注ぎ込むと、気管からの咽頭反射で、肺から空気が放出されて、直後に溺水状態に追い込んで、溺れ死ぬ残酷な苦痛が再現できる。溺死する状態に追い込むと、水死する心理的な恐怖を実感させる拷問である。その他に、身体を拘束した状態で、頭部の口と鼻の上に多孔性の布を置いて、顔に多量の水を断続的に注いで、窒息させ仮死状態に陥らせた。窒息させた布を上下させて水漬めを繰り返した。水漬めでは、身体に傷口や出血も少なく、虐待や虐殺の証拠が身体に残らない。
 アメリカは、水漬めは身体を損傷しないので、拷問ではなく尋問として、ジュネーブ協定の拷問禁止の違反でないと主張していた。ベトナム戦争では、1968年1月21日に、ワシントンポストはダナン近郊で、ベトナム人捕虜をアメリカ軍兵士2人と南ベトナム軍兵士1人による水漬めを暴露した。その直後の軍法会議で、除隊の刑罰を受けた。水漬めは軍法会議で違反と裁定されて、アメリカ軍から除隊させた。2005年12月に拘留者処遇法で、アメリカ軍による水漬めなどの拷問を禁止した。2009年1月に大統領令で、政府警察機関における水漬めの拷問を禁止した。


2020年3月4日水曜日

韓国の釜山にある難民収容所には、多くの日本人の引揚者が飢餓となり栄養失調から病気を併発した。

朝鮮半島の38度線を突破した日本人難民は、ほとんど飲まず食わずで北朝鮮から脱出した。特に苦痛と悲惨を極めたのは、満州及び北朝鮮から引揚げ者であった。満蒙開拓移民団は引き揚げの途中で多くの死者、行方不明者、収容所での病死者を出した。1946年9月の韓国の釜山にある難民収容所には、多くの日本人の引揚者が、飢餓となり栄養失調から病気を併発した。引揚船を待機している間にも、多くの日本人難民が死亡した。1945年8月9日に、ソ連軍が突然に不可侵条約を一方的に破棄して、満州国への侵攻が勃発した。満州各地に取り残された満蒙開拓移民団の日本人は、ソ連軍と武装した中国人集団の両者に襲われて、虐待と虐殺を受けた。ソ連により捕虜になった日本軍兵士らは、1956年も長期間にわたりシベリアに抑留された。
 終戦後に海外からの日本人移民の引揚者は、約350万人に及び、当時の日本人口の約7,200万人の約4.8%にも達した。その他に大陸や太平洋からの帰還した日本人兵士は約300万人以上であり、人口の約1割が日本に引き上げた。引揚者は、第二次世界大戦の敗戦にり、海外や入植者を送った満州、内地に居住した日本人で、日本軍の降伏に伴って日本本土に引き揚げる海外在留者の民間人である。戦地での日本軍兵士は、戦場から帰還した復員者と呼称された。
 日本政府は、満州とモンゴルには肥沃な土地が多くあり、税金を払わない王室の土地だと言った。その結果、多くの人々が満州の北東に移住した。最初は男性だけが先頭に立ち、後に妻と子供を迎えた。その後、多くの10代の若者も募集された。男性の数が増えると、個人的な問題を解決することが難しくなり、いわゆる「大陸の花の結婚」(本土の花嫁)が北東に徴集された。最初に採用された先駆者は33歳未満の退役軍人の男性であった。当時、日本は深刻な経済危機の影響を受けて、日本政府が提供する優遇条件は、土地を失った失業者や農民を引き付けた。日露戦争後の1909年に日本政府は、朝鮮半島と満州の植民地に一方面に送り込みを提唱した。1932年から本格的な満州に開拓移民を拓務省が展開した。当時の日本の中山間地域の過酷な貧困と小作人らが、募集に殺到した。開拓民移住事業は、移民を満州国民と対外陣地に送り込んだ。


2020年3月3日火曜日

義和団と清国の正規軍に殺害と戦傷された多数の日本軍兵士が天津城の南壁に横たわった。

天津城の南壁近くで義和団と清国の正規軍に殺害あるいは戦傷した多数の日本兵士が横たわった。清国の正規軍と日本軍兵士は、天津城の南壁で肉弾白兵戦を行った。連合軍は殺害した中国人を川に投げ入れた。天津城ま南門上には、約4,000人の義和団と清国の正規軍の死体が散乱した。1985年に日清戦争で勝利した日本軍は、天津での戦争の教訓を無視して、中国軍兵士は軟弱と幻想したまま1937年の日中戦争に突入した。 
   第二次アヘン戦争後に1895年に締結した天津条約で、キリスト教の布教が認めらた。中国内陸部の一般民衆と欧米の宣教師に闘争や事件が多発した。1898年に中国内陸部の自警団が、次第に反キリスト教団体と統合し、義和団となる強力な武装集団となった。北京の日本公使やドイツ公使が殺害される事件が勃発した。1900年6月7日に、義和団の反抗暴力に抗議した連合軍は、清国の正規軍が守備する天津から約50kmの大沽砲台を宣戦布告なしで襲撃して砲台を占領した。義和団は、6月17日に天津の英仏米日独5か国が租界に攻撃を開始した。清国の正規軍も6月19日に租界を砲撃して、清朝政府も列強の連合軍に宣戦布告して、戦争状態となった義和団事件が勃発した。
  当初は劣勢だった連合国が、6月23日以降に、ロシア軍から各国軍が次々と天津租界に入り、6月29日には日本軍が到着した。対する中国軍側の兵力は、約25,000人に達した。天津での戦闘は、6月17日から7月8日は、兵力に勝る中国側が租界の天津停車場攻防戦でやや優勢だった。7月9日〜7月14日に連合国側が天津城攻防戦で盛り返した。天津城攻防戦の連合国の兵力は、約17,000人の大軍に達した。最後の激戦となった7月14日の天津城南門総攻撃ので、中国軍側の猛烈な抵抗で、近代装備の連合国側の死傷者数が参戦者の約7分の1に達した。8月4日から、連合軍は北京に向けて侵攻した。



2020年3月2日月曜日

イギリス植民地支配に対する反抗者らは、血染の服で引き回されて公開の絞首刑にされ虐殺された。

イギリス植民地支配の反抗者らは、血で染まった服を着て引き回されてからコレクターコククレーンの下で近くの川の土手で公開の絞首刑にされて虐殺された。イギリスの東インド会社は、東インド会社による植民地でインド人を弾圧した。反抗するインド人は殺人者と強盗と呼ばれ、初期のイギリスの支配者により容赦なく虐殺された。インドの人々から土地と税金を強制的に徴収した。多くのインド人は反乱を恐れ、一部のインド人が闘争した。
 ヒンズー社会で高位を奪われたウヤラワダ・ナラシンハ・レディ(Uyyalawada Narasimha Reddy)らが1846年6月10日、コイラクントラの金庫を襲撃してイギリス人を斬首して、アーンドラ・プラデーシュ州のカンバムを侵攻した。1846年10月6日の真夜中に、密告者からイギリスの軍隊がチップオフに突入し、彼と仲間を逮捕した。1847年2月22日に血で染まった服を着て引き回されて、コレクターコククレーンの下で近くの川の土手で公開の絞首刑にされ42歳で殺害された。1877年まで頭蓋骨を砦の壁に放置された。その約10年後に1957年にインド独立戦争であるセポイの乱が勃発した。インド独立運動は約90年後にガンジーらによって1947年にイギリス植民地から独立した。
 イギリス東インド会社(EIC)は、1600年12月31日にエリザベス女王による王室憲章で、東・東南・南アジアから代理に支配して搾取した。1798年から1805年にかけて、ポリガー戦争が勃発して、インド人のポリガーがイギリス軍と闘争した。イギリスの東インド会社は、ビンズー社会で領地を管理して支配するポリガーの権利を剥奪していた。長期間に反抗するポリガーの戦争を1805年にイギリス軍は打倒して、反抗者を斬首や絞首刑に処刑した。


2020年3月1日日曜日

長崎原爆で家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。

長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分頃に投下されて炸裂した。長崎市内は、ほとんど壊滅状態となった。原子爆弾による爆心地からの激烈な爆風、熱射、放射線の暴発により、ほとんどの長崎市の市街地は炎上して壊滅した。家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。散乱する多数の白骨の中で、肉親の遺骨も同定が困難であり、せめて居住していた家屋の付近に一つの木製の墓標だけを土中に立て掛けた。原子爆弾の被爆後から長崎市内の各地に原子爆弾で被爆死した被爆者を弔う致し方ない粗末な墓標が見られた。被爆後の49日頃には慰霊の法要を行う地区もあった。


 長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に、原子爆弾による被爆死した不詳や行方不明の遺骨、故人が同定されるも引き取り手がない無縁死没者の遺骨を奉納している。1947年に城山町の有志により、駒場町に「原爆殉難死者納骨堂」が設置された。爆心地の周辺に散乱した多数の被爆死者の遺骨を収集し奉納した。その後に長崎県の各地などに散在した無縁仏の遺骨を引き取った。1958年に長崎市が岡町に「原子爆弾死没者慰霊納骨堂」を建立した。1994年に平和公園の工事により、岡町に現在に至る新たな長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に建て替えられた。