2019年10月31日木曜日

スペイン内戦時の首都マドリードの街頭戦で犠牲となったマドリード市民らの死体群が路上に散乱した。

スペイン内戦時の首都マドリードの街頭戦で犠牲となったマドリード市民らの死体群が路上に散乱した。その多数の死体を市民らが、街路から担ぎ出して処理した。マドリード攻防は、1936年11月8日から1939年3月28日まで継続した。
   反乱軍は、最も猛烈な攻撃により首都マドリードを1936年11月8日に侵略した。11月17日に午後には、約2,000発の爆弾がマドリードの中心部に投下された。榴散弾がスペシン広場などで炸裂した。焼夷弾が市民の居住地を炎上した。さらにドイツ群の爆撃機が、火災の焔を手がかりにして、一波に約12機で飛来して、爆弾を大量に投下した。マドリードには、防空壕も対空砲もほとんど皆無であり、甚大な犠牲を伴った。
 1936年7月17日に、左派の反ファシズム派である人民戦線政府に対して、フランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こして、スペインは内戦状態に陥った。右派の反乱軍側がドイツやイタリアと日本などのファシズム政権から軍事援助を受けた。人民戦線側もソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦となった。近代兵器による戦争が、スペイン人同士の内戦によって勃発した。人民戦線側には反ファシズムを支持する約60,000人の国際旅団などの義勇兵も加わった。武力に勝る反乱軍側が有利に戦いを進めて、1939年3月にはマドリードが陥落して、1939年4月1日に内戦は反乱軍側の勝利で終結した。



2019年10月30日水曜日

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。

ナチス・ドイツ軍は、1942年5月7日にベラルーシ共和国の首都ミンスクの路上で、約28人のユダヤ人らを絞首刑にした。インデペンデンス街路とエンゲルス通りとの交差点で、抵抗勢力のユダヤ人らが絞首刑にされた。通りがかったドイツ人市民と役人が、絞首刑されたユダヤ人の死体を見上げた。さらに約250人が射殺された。カジッツ・イサイ・パブロビッチら約28人は武装抵抗による射撃で、数人のゲシュタポ将校を負傷や殺害したが、3月28日に逮捕されていた。
 ドイツ軍は、1941年6月23日に首都ミンスクを空爆して、6月27日に侵入した。建物が燃え上がり崩壊して、市内には死体が散乱した。占領直後にドイツ軍は15歳から45歳までの約40,000人ものすべての男性を登録した。ミンスク郊外のドロッディの畑で、ユダヤ人、赤軍人、非ユダヤ人民間人の3群に隔離された。非ユダヤ人を釈放して、数千人の知識階層のユダヤ人全員を、近くの森に連行して、機関銃で射殺した。1941年11月7日に約12,000人と11月20日に約5,000人のユダヤ人が、トゥチンカに連行されて殺害された。
   ナチス・ドイツ軍が占領しても、ミンスクの住民は、ユダヤ人迫害に関して無関心であった。ミンスクの人口約238,948のうちベラルーシ人は約51.9%で、ユダヤ人は29.7%も占めた。ミンスクはユダヤ人労働運動が発祥し発展した都市の1つでもあった。ベラルーシ人市民自身によるユダヤ人の浄化運動であるポログロムはほとんど発生しなかった。ドイツ軍は、ミンスクの北西部に、少なくとも約85,000人のユダヤ人を隔離居住区として最大のゲットーに強制居住させた。そのゲトー内で、ユダヤ人が抵抗運動の地下組織を結成した。非ユダヤ人とパルチザンとの連携も構築された。



2019年10月29日火曜日

23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴ってしまう。

ハノイ平和村には、ベトナム戦争にてアメリカ軍の枯葉剤散布の後遺症で、2008年に23歳の青年が、ベッド上で寝たきりとなった。全身の奇形と変形、神経障害、臓器障害などで完全な要介護状態となった。23歳のベトナム人の男性は死ぬまで一生を、枯葉剤による病気と障害を伴って過ごす。ベトナムの首都ハノイ郊外のタイスワン地区には、枯葉剤の被害者の治療施設であるハノイ平和村がある。入所希望者が殺到して、定員の約1,000倍にも達する。ベトナムは1975年にベトナム戦争が終結してから約15年経過した1990年頃からやっと枯葉剤の全国調査が開始された。
 ベトナム戦争にて、アメリカ軍はベトナム中部から南部にかけて、非人道的な化学兵器となる膨大な枯葉剤を田畑地域や森林地帯に散布した。およそ約90,000キロリットル、散布面積は約2,400,000ヘクタールにも及んだ。1961年から1971年まで約10年間も散布された枯葉剤によって、植物だけでなく、生態系まで崩壊した。早朝に油の匂い嘔吐する枯葉剤の白煙を散布されると、夕方には植物はすべて枯れ落ちた。無差別な枯葉剤の散布によって、ベトナム人の被害者は約300万人にも達した。遺伝子にも異常な影響を受けて、胎児には先天異常である結合双生児、単眼児、無脳児などの重度の奇形なども伴った。
 アメリカ軍が散布した枯葉剤の主成分はエージェント・オレンジの製造過程で、高濃度の猛毒のダイオキシンが混在する。ダイオキシンは、人類史上で最も毒性が強い合成化合物である。わずか約80gのダイオキシンで、約700万人を殺害される。わずか約10億分の1gでも先天異常や異常出産を誘発させる。ダイオキシンは簡単に分解されず、脂溶性で脂肪に残存する。食物連鎖により、小動物から大動物へと濃縮されて、体内に蓄積する。神経から臓器までも侵害して、悪性新生物の発症、遺伝子までも破壊されて子孫まで悪影響が出る。
 枯葉在の被害者は、ベトナム人だけでなく、ベトナム戦争に従軍したアメリカ人、韓国人、台湾人、オーストラリア人らにも拡散した。アメリカの国内法では、戦争中の被害は国を訴えることが不可能である。1980年代に約16,000人のアメリカ軍帰還兵が、枯葉剤の被害補償を製薬メーカー7社に提訴した。1985年に裁判所が製薬会社に約1億8,000万ドルの和解金を提示して、責任の所在が不明瞭となった。ベトナム枯葉剤被害者の会は、2004年と2007年にニューヨーク連邦地裁に提訴したが、2005年3月と2009年にも却下された。



2019年10月28日月曜日

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放時に、ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱した。

ソ連軍がウクライナの首都キエフを1943年11月6日に解放した。ミハイロフスカ通りにユダヤ人の遺体が散乱していた。ナチス・ドイツ軍は、キエフを1941年9月11日から約2年間も占領してユダヤ人と住民を大量虐殺した。キエフ北西部に約3.2kmのバビ・ヤール渓谷の虐殺は、歴史上で最大のユダヤ人の大量虐殺の地点となった。
 1939年以前にソビエト連邦の地域では、ユダヤ人の大量絶滅は、ナチス・ドイツ軍は、地域の占領後すぐにユダヤ人の大量虐殺が執行された。キエフでは、ナチス・ドイツ軍かが占領した1941年9月19日から29日までのわずか10日間で、ユダヤ人住民は大量絶滅に襲われた。バルバロッサ作戦の前夜に、ドイツが占領したポーランドの領土からの難民を含む約23万人のユダヤ人がキエフに在住していた。1941年9月19日にドイツ軍がキエフを占領した時、多くのユダヤ人が前線に徴兵されて、避難または脱出した後に、都市にはまだ約6万ものユダヤ人が残存していた。ほとんどは、女性、子供、病人、高齢者であった。
 ドイツ軍による占領した数日後の9月24日に、ソ連軍の分遣隊がキエフの中心部であるクレシャティクの建物を爆破した。9月26日に爆破の責任と罰として、キエフのユダヤ人に報復した。キエフとその周辺のすべてのユダヤ人に、1941年9月29日月曜日の午前8時までに指定場所に強制集合を命じた。ユダヤ人に激しい敵意のある地元のウクライナ人警察は、ユダヤ人をキエフ郊外のバビ・ヤール渓谷に連行した。ナチス・ドイツ軍により9月29日と30日の2日間で約33,771人のユダヤ人がバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。潜伏していた約17,000人ものユダヤ人が、10月1日から3日にもバビ・ヤール渓谷で虐殺され埋められた。1941年11月には、セント・シリル精神病院の約300人のユダヤ人患者も、バビ・ヤール近郊の果樹園で虐殺された。
 1943年8月に、キエフでユダヤ人の大量殺人の証拠を隠滅する1005作戦が開始された。シレック収容所の男性囚人のユダヤ人と非ユダヤ人は、バビ・ヤール渓谷で膨大な犠牲者の遺体を掘り起こし焼却した。1943年9月29日に約327人の囚人は反乱を起こし逃亡した。逃げて生き延びたのはわずか約18人で、残りはすべて射殺された。





2019年10月27日日曜日

ポル・ポト派のクメール・ルージュにより虐殺された骸骨が、チェンエク処刑場博物館で極悪な非情さを展示した。

ポル・ポト派のクメール・ルージュによる罪なき市民らの虐殺された頭蓋骨、骸骨が、チェンエク処刑場博物館で展示されて、極悪な非情さを示した。カンボジアの首都であるプノンペンから南西約15kmに位置するチェンエク村に、クメール・ルージュの秘密刑務所部局S21(mandir S 21)で拷問を受けた囚人たちが、1977年から1979年まで夜間にトラックで運搬された。刀や剣類で、後頭部への鍬の一撃で殺害された。約20,000人ものカンボジアの住民が死刑となり、死体が共同墓地に投げ込まれた。1979年に侵攻したベトナム軍により発掘されて、保護措置された。非行の死の記憶として処刑場博物館が1988年に整備された。共同墓地から死体を掘り出して、約9,000人もの頭蓋骨が、一連の木床に段々に並べて約10mもの高さに及んだ。カンボジアにおける大量虐殺の処刑場は、キリング・フィールドとも呼称された。囚人は24時間待機した後、頭部に一撃で殺害されて、その後喉元が切断された。赤ちゃんは頭を木にぶつけて殺害された。男性用、女性用、子供用に別々の86の集団墓地があり、そこから8,985人の男性、女性、子供がクメールス・ルージュの解放後に発掘された。頭蓋骨、骨、衣服の一部は近くの巨大な仏塔に保管された。外国人の死体は、骨を残さないように焼失した。
 秘密刑務所部局S21(mandir S 21)は、カンボジアのクメール・ルージュの拷問絶滅施設であった。1979年1月に、ベトナム軍がプノンペンに侵入して拷問施設を開放した。切断された死体が、床や金属ベット上に放置されていた。鉄格子、独房、鉄鎖などが虐待と虐殺の痕跡となった。暗号S21の秘密裏な代表的な施設は、地名からトゥール・スレンと呼称されている。1976年から1979年にかけて約20,000人が収容されて、生還者は約12人のみであった。



2019年10月26日土曜日

第一次世界大戦後のギリシア・トルコ戦争にて、トルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。

第一次世界大戦の終結後に勃発したギリシア・トルコ戦争によって、1922年にトルコ軍によって虐殺されたギリシア軍兵士の多数の死体が原野に放置された。トルコ人農民が、荒野に散乱したギリシア人の死体を通り過ぎた。
 第一次世界大戦の終結に1918年10月30日に同盟国であるオスマン・トルコ帝国は、連合国と休戦協定を締結して降伏した。オスマン・トルコ帝国から1830年に独立したギリシアは、降伏後にギリシア人居住地の併合を挙行した。1919年5月15日にギリシア・トルコの戦いが勃発すると、キリスト教徒とイスラム教徒が相互の残虐行為が激化した。トルコの海岸都市のスミルナに上陸したギリシア軍は、武器を持たないトルコ人を大量虐殺した。トルコ軍は、ギリシア正教会の村人を念入りに焼き払い、ギリシア人を虐待して虐殺した。
 1921年3月23日にギリシア軍は、トルコ内陸部のアナトリア侵攻するも、トルコのケマル軍によって直ちに撃退された。ギリシアは6月22日に連合国の調停を拒否した。7月10日にギリシア軍は、トルコに再侵略した。ギリシア軍はサカリア川を渡河すると、補給を絶たれて、9月14日に再撤退した。ギリシア軍は、1922年8月26日にトルコ軍にギリシア軍の南部戦線を撃退されて撤退した。ギリシア軍のトルコからの撤退により、宗教と民俗主義によるトルコ軍の復讐により、特にギリシア人地区とアルメニア人地区で大量虐殺が勃発した。1922年にトルコから約150万人ものギリシア人難民が避難した。10月11日に休戦協定が合意された。11月にトルコ大国民会議がスルタン制を廃止して、約500年間も中東を支配したオスマン・トルコ帝国が崩壊して、1923年にトルコ共和国が建国された。1923年のローザンヌ条約による講和により、宗教と民族の交換をして、トルコからギリシアに約110万人のキリスト教徒、ギリシアからトルコに約38万人のイスラム教徒は、移民交替を強要された。



2019年10月25日金曜日

日本軍による空襲により、広東の多数の子どもが犠牲となり、死体が道端に並べられた。

日中戦争にて、1938年の夏に、日本軍は広東と武漢に猛烈な爆撃をして、市内は崩壊した。日本軍は、広東省広州市を1937年8月31日から10月21日まで、日本軍の爆撃機は約56回に及ぶ爆撃した。1938年初頭には日本軍爆撃機は連続10日間の爆撃を敢行した。広東省広州市の爆撃による死者は約7000余人にも達して、甚大なる爆破を受けて焼失した。無差別な爆撃により、市民を含む多数の死傷者が出た。日本軍による空襲により、広東の多数の子どもが犠牲となり、その死体が道端に並べられた。日本軍による無差別な都市爆撃に対して、日本は列国から国際的非難を受けた。
 1938年4月に大本営は徐州での軍事作戦を命じ,5月19日に徐州を占領,華北と華中をつなぐ要衡ルートをつくりあげた。徐州作戦に続き大本営は武漢と広東を攻略する積極方針をとり,華北,華中から華南へと中国全土制圧に向けさらに踏み込んだ。10月21日には広東を,11月には漢口など武漢三鎮を占領した。この武漢作戦で日本軍は秘密裏に毒ガスを使用した。約50万人にも及ぶ日本軍兵士が中国に送られ,戦死者と戦傷者の数が激増した。日本海軍は香港近海の萬山群島を海上封鎖し、4月に三灶島を占領して第六航空基地を建設し、中国本土に向けて爆撃を繰り返した。10月21日には広東が陥落し、12月には香港に隣接する深圳も陥落して、香港には大量の難民が押し寄せた。1937年12月に日本軍が南京国民政府を侵略するも、ますます戦線が拡大した。1938年10月に広東と11月に武漢を攻略するも、大兵力をつぎ込むほど犠牲者が増す果てしなき日中戦争に陥った。


2019年10月24日木曜日

日中戦争における南京大虐殺の写真は、上海市公文書館により解放日刊紙に掲載された。

日中戦争における南京大虐殺の写真は、上海市公文書館によって提供されて、1982年8月6日の解放日刊紙に掲載された。日本軍の兵士による虐殺、強姦、略奪された。写真は旧フランス租界の監督局のものであると掲載された。撮影された時間と場所の詳細は不明である。1945年に日本が降伏した直後に、南京大虐殺に関する日本の軍事記録のほとんどが破棄された。大虐殺の死者数を正確な推定は不可能となった。極東国際軍事裁判東京では約20万人以上と1946年に推定した。中国は公式に、1947年の南京戦争犯罪法廷に基づき約30万人以上と推定した。1980年代以来、死者数は論争されて、政治問題となり日中関係の障害となっている。日本歴史的否定主義者と日本民族主義者は、中国政府は日本軍による死者数などの虐殺の側面を誇張するプロパガンダと主張している。虐殺を取り巻く論争は、韓国などの他のアジア太平洋諸国との日本の関係にても中心的な問題であり続けている。
 1937年12月13日に日本軍が南京を侵略してから、1938年2月初旬までの南京大虐殺によって、多数の中国人が虐殺された。死体は川の近く、木立の近く、肥溜めの穴の近くにも散乱していた。家の痕跡の中には焦げた死体があった。多数の死体がすべて完全に腐敗して、後から戻った人々は肉親の死体の遺体を回収しながら泣き回った。何もないので、両親の死体を草のマットで巻き上げて、燃え尽きた家の廃墟の近くに埋めた。
 日本軍兵士が突入したとき、部屋の周りには、屋根裏部屋、ベッドの下、ストーブの後ろを除いて、隠れる場所はなかった。ベッド下に身を潜めるも、すぐに銃剣で殺害されて床に転落した。屋根裏部屋の人々も次々と銃剣で殺害された。ストーブの後ろから衝動的に逃げるも、日本軍兵が隠れ場所に戻る姿を見ると背中から刺殺された。日本軍兵士たちは、銃剣で両親の心臓を貫通して刺殺した。息子は頭部と右肩を銃剣で刺されて、意識を失った。息子は、真夜中に意識を取り戻した。彼の頭、首、肩からも出血して、下半身はすでに死んでいた両親の血液でべとついた。日本軍兵はまだ周辺で掃討していた。夜明けを待つ間に、出血を止めるために灰をこすりつけた。銃剣は彼を鎖骨の下に突き刺し、重要な臓器の貫通を逃れて、失血は致命傷にならなかった。部屋を調べると、他の約12人が死んでいるのを見た。



2019年10月23日水曜日

ナチス・ドイツは、ストラッパド拷問を、強制収容所の囚人に対して執行した。

ナチス・ドイツの親衛隊であったカート・フランツ(Kurt Franz)は、中世の異端審問の拷問室では、逆さ吊りとパレスチナ吊りとも呼ばれるストラッパド拷問を、強制収容所の囚人に対して執行した。被拘禁者の肩に負荷を与え、耐え難い痛み、脱臼、時には神経や靭帯の損傷を引き起こす。長時間に拘束すると肺が収縮し、呼吸困難となる。ポーランドのワルシャワ北東のトレブリンカ絶滅収容所の所長(1943年8月から11月)として安楽死プログラム(Akyion T4)を管理した。彼は囚人をピストルを取り外して、地面で撃って、ホルスターに戻すように見える。1943年8月2日にトレブリンカ絶滅収容所で囚人蜂起が勃発が勃発するも鎮圧されて、カート・フランツが所長となった。
 フランツは1937年に親衛隊髑髏部隊に加わった。最初にテューリンゲン州のワイマールで訓練を受け、その後ブッヘンヴァルト強制収容所で警備員を務めた。フランツは、異常なほどの残酷さとサディズムで知られた。軽微な罰でも囚人を射殺や拳殴した。しばしば馬に乗ってキャンプを回って、彼のセントバーナードの犬であるバリーを連れて行った。フランツの犬への命令により、囚人の性器または、腹部や臀部をしばしば噛ませた。
 1965年のデュセルドルフの戦争犯罪裁判所におけるトレブリン裁判では、フランツは殺人したこと、犬をユダヤ人に噛ませたことを否定し、「私はそれについて何も知らない。」と囚人を一度だけ殴ったと主張した。9月3日に、彼は少なくとも約300,000人の集団虐殺と、少なくとも139人の虐殺に関与した35件の殺人、および殺人未遂で有罪判決され、最低は15年の終身刑を宣告された。79歳の彼は健康上の理由で1993年7月に釈放されて、1998年にヴッパータールで死亡した。ドイツには死刑はなく、戦争犯罪者として裁判を受けれません。法律は1945年以降の連合戦争犯罪法廷によって制定され、ドイツの法律では先例がない。


2019年10月22日火曜日

硫黄島を守備した2人の日本軍兵士は、砲撃弾の炸裂で吹き飛ばされて爆死していた。

太平洋戦争における硫黄島の戦いで、アメリカ軍の硫黄島への上陸前に猛烈な艦砲射撃をした。硫黄島の海岸周辺の日本軍の防御陣地は崩壊した。守備した日本軍兵士は、砲撃弾の炸裂で吹き飛ばされて2人の日本軍兵士が1945年3月1日に爆死していた。その後に上陸用艦船から、アメリカ軍兵士と重装備が陸揚げされた。巨大な人材と物量で、最終的に日本軍を圧倒して全滅させた。特にアメリカ軍は硫黄島に、3月1日にのべ約1,000機に及ぶ飛行機の銃爆撃と、約60隻に上る艦隊の砲撃を加えて、日本軍の海岸陣地は壊滅した。
 戦争の犠牲と悲劇は、戦争に巻き込まれて、戦争に駆り出された兵士や市民を襲った。大量虐殺まで追い込まれた兵士と市民らは、生活も生命も軽視されて、連合軍の膨大な武力で大量虐待と大量虐殺されて、常に最大の被害者となった。家を焼失して、肉親も殺害されて、飢餓状態に追い込まれ、悲惨な悲劇を苦悩して慟哭するのも、常に兵士と市民らである。兵士と市民は、自らが求めて太平洋戦争を引き起こしたのでは決してない。全兵士と市民は、否応なしに致し方なく、無差別に引き起こされた戦争に巻き込まれた。世界大戦に至ると、すべて世界の兵士や市民が無差別に戦争の悲惨と悲劇を耐え忍んだ。
 アメリカ軍は、硫黄島に対して1945年1月までに機動部隊で約12回のべ約1,269機、基地航空部隊で約69回のべ約1,480機による空襲して、海上艦艇でのべ約64隻で攻撃した。上陸直前の2月16日には、機動部隊でのべ約1,000機の空襲と、艦砲射撃により連日猛烈な砲爆撃を加えた。特に2月18日は大規模に海岸陣地と飛行場を破壊した。アメリカ軍は、2月19日午前8月30分に優勢な砲爆撃の援護下に約130隻の舟艇を持って上陸を開始した。午前1100頃には約10,000のアメリカ軍兵士と約200の戦車などを揚陸した。硫黄島の砂は非常に柔らかく、上陸した海兵隊員は膝まで砂に埋もれ硫黄島の戦いに多大な支障を伴った。日本軍の守備隊はアメリカ軍の猛烈な砲爆撃を受けるも、強烈な抵抗と火力反撃を行って。アメリカ軍に多大の損害を与えた。2月20日には海岸の鉄筋コンクリート陣地は全滅し火砲は半減した。硫黄島を海空から完全に包囲し、膨大な鉄量と火薬で日本軍陣地を逐次破壊した。3月3日頃には日本軍は僅かに約3,500人となり、後方陣地を死守して死闘した。3月17日に残兵約800名とともに突撃出撃して全滅して、3月26日に組織的な戦闘は終結した。硫黄島の戦いで、アメリカ軍は戦死傷者約28,686名(戦死者約6,821名)、日本軍は戦死傷者約20,933人(戦死者約19,900人)の犠牲を出して、攻撃側のアメリカ軍側が、防御側の日本軍の犠牲を上回った。



2019年10月21日月曜日

カンボジアのオスオデイ川に向かう途上の道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出した。

2011年8月にカンボジアのオスオデイ川に向かう途上の踏みしめられた道のど真ん中に、地雷の信管が飛び出していた。ジャングルの中にも道なき道に地雷が現れては消えた。地雷の被害は、車両など物体の破壊や人畜が殺傷する直接的な被害と、地雷が埋まった土地が価値を失う膨大な経済被害が出る。地雷には、残虐性、残存性、無差別性の被害を伴う。一度埋められて踏むと殺傷するまで待ち続けて地雷は半永久的に作動し、無差別に住民を苦境に追い込む。 
 カンボジアには1970年代以降の混乱や内戦により多数の地雷・不発弾が埋められままである。特に武力衝突が激しかったカンボジア西部・タイ国境バタンバン州などでも撤去作業が連日続いている。地雷による年間死傷者数は、1996年に約4,320人と過去最多に達した。年々減少や増加を繰り返している。2000年には859人から2013年には111人にまで下がった。しかし、2014年には再び154人(死者21人と負傷者約133人)に増加した。主な要因は農業の近代化でトラクターなどの農機が普及して被害が増えた。カンボジア地雷対策・被害者支援庁によると、2015年に撤去された地雷・不発弾は約23,000個であった。地雷除去された地域は拡大するものの、まだ約1,640平方kmの地雷汚染地があり、除去には今後10年間で約36,000万ドルが必要と算出された。2016年には世界における地雷・不発弾の被害者が8,605人にのぼり、1999年の9,228人に次ぐ犠牲者となった。
 オスオディスとは、タイとカンボジアの国境のジャングルの中にあるポル・ポト直属の秘密司令部であった。ポル・ポト政権は、1975年4月1日から1979年1月7日までの3年8ケ月20日の期間に、約200万人にも達するカンボジア住民が虐殺されて餓死や病死した。ベトナム軍のカンボジアへの侵攻によって、ポル・ポト政権が崩壊した。カンボジアを占領したベトナム軍は、ソ連と傀儡のヘム・サムリン政権を樹立した。ポル・ポト政権は、タイ・カンボジア国境のジャングルに潜伏して、ベトナム傀儡政権と対立した。アメリカ西側諸国と中国が、ポル・ポト派とソン・サン派とシアヌーク派を合体した民主カンボジア連合政府を国境のジャングル一体に樹立した。カンボジアは、ベトナムとソ連、アメリカ西側諸国と中国との代理する内戦に陥った。 


2019年10月20日日曜日

広島原爆で頭部に受傷して、母親と看護師からケアを受け、不安に怯えて見つめた。

広島原子爆弾によって犠牲となった子どものの母親は、広島での原爆の被害者である負傷した子供を世話した。頭部にガーゼを巻いた子どもは、側にいる母親と看護師からケアを受けた。子どもと母親が、不安に怯えながら見つめ合った。広島第一陸軍病院の宇品分院の救護所の看護婦は、子供の頭部の傷をケアした。被爆者の親子は、救護所内で、ござやすのこの上で布団をまとい寝込んでいた。1945年9月中旬に、アメリカ軍海軍が調査のために撮影した。
 広島原子爆弾の人体への影響を研究する米国の調査団が、1945年9月11日に広島市宇品町の広島第一陸軍病院の宇品分院に調査に入った。爆心地から南に約4,200mで達する。マンハッタン管区調査団が、米国の調査団初めて広島市内に入った。被爆地が安全かどうかを確認し、原爆の影響、特に放射線に関する影響を調査するために、多くの情報を収集した。
 大和人絹が1934年10月に、広島市宇品町に広島工場を創業した。1943年2月に陸軍に接収されて、工場の約3分の2が陸軍船舶練習部に使用された。建物の多くは木造であるが、広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂しても、爆心地から約4kmも遠方のため、爆風の被害はガラス窓の破損と屋根瓦の飛来と軽傷であった。被爆直後から被爆者たちは続々と難を逃れて混雑と混乱をした。応急処置をして収容する状況ではなかった。午後4時頃から重傷者たちが、表門からはトラックで、裏門からは舟艇で運び込まれ続けた。停電の中で、ロウソクと懐中電灯で徹夜の救護活動が続いた。8月7日朝には約4,000もの被爆者が集積した。8月9日に臨時陸軍野戦病院に転換して約6,000人以上を収容した。8月25日になって広島第一陸軍病院宇品分院に改組となった。


2019年10月19日土曜日

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、囚人を選別して毒ガス室の監視もした。

親衛隊医師であるヨーゼフ・メンゲレ大尉は、堂々としてアウシュビッツ強制収容所の貨物駅に立って、ガス室送りになる数万人にも及ぶ囚人の選別をして、毒ガス室の監視もした。アウシュビッツに連行された囚人を選別して人体実験を繰り返した。小人症も残酷な研究対象と選別されて、アウシュビッツ強制収容所に強制送還た。1943年5月30日から約13万人を収容したアウシュビッツで勤務したヨーゼフ・メンゲレは終戦後も、1947年にニュルンベルク裁判で、戦争責任の刑事訴追を追求から免れた。1945年7月18日に南アメリカに失踪した。戦犯としてメンゲレは、終生まで国際的に指名手配された。
 親衛隊医師らは、残酷な人体実験を囚人に処置した。女性囚人の子宮を病原菌で汚染して、安上がりに断種と不妊するために、卵巣と清掃に強度のXp線を照射して、生殖能力を奪う実験をした。特にメンゲレは、双子の目に化学薬品を注入、失血死するまで血液を抜き取る。薬剤を注入して殺害した。ユダヤ人、ロシア人、ポーランド人にも強要して、生殖能力を絶滅をさせた。
 人種差別主義を掲げるナチス・ドイツは、ダーウィニズムを由来して、生物学的に欠陥があれば、生きる価値がなかった。生殖過程に関与して、優れた人間のみが生存すべきである。ユダヤ人や障害者は、生殖や生きる価値もないとした。アーリア人以外の人種は劣等であるとした。1934年1月に遺伝的疾病予防法が施行されて、精神障害者・てんかん・盲・聾・身体障害者、知的障害者、アルコール中毒者などに強制不妊、断種手術が処置された。遺伝的疾患患者を抽出するために、警察、医療福祉系書類、カルテが検閲されて、警察権限で強制連行した。人種台帳に登録されるには、少なくとも1950年代以降に純粋なアーリア人である証明が必要であった。


2019年10月18日金曜日

ウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。

1980年のウンデット・ニーの虐殺で、アメリカ先住民であるインディアンが悲惨に殺害された多数の死体が、豪雪の荒野に散在した。非武装のインディアンは、米国騎兵隊の無差別の砲撃と射撃により、約150人が虐殺された。その約150人の犠牲者うちで、約44人の女性と約16人の子供も虐殺された。1870年には、アメリカ合衆国には約4000万人もの入植者や金採掘者らが、農地や猟場を求める約30万人のインディアンを弾圧していた。
 アメリカ合衆国のサウスダコタ州南西部のパインリッジインディアン居留地にあるウンデット・ニーは、北米インディアンと米国政府の紛争地であった。1890年のウンデット・ニーの虐殺により、米国軍とスー族の分派であるラコタ族と最終的な衝突により、約150人のアメリカ先住民のインディアンが殺害された。1890年を通じて、米国政府はパインリッジでのインディアンのゴーストダンス信仰の拡大を懸念した。多くのラコタ族は、ゴーストダンス信仰を実践し、神は新たに世界を創造し、非インド人を含むすべての非信者を撲滅すると信じた。インディアンは伝統的な習慣を維持して居住地に留まった。1890年12月15日に、警察はゴーストダンサーと疑って、有力なラコタ族の首長を逮捕する過程で殺害して、パインリッジの緊張を高めた。約350人のインディアンが、パイン・ブリッジの特別保留地に向かった。その途中で、約500人の米国軍の騎兵隊が野営地をウンデット・ニーに変更させた。12月29日に、インディアンに武装解除をしている最中に、ライフルの発射から虐殺が勃発した。
 1980年12月29日に米国軍の騎兵隊は、ニークリークの近くにあるラコタ族の首長のよるゴーストダンサー運動を囲み、武器の投降を要求した。インディアンと米国騎兵隊の間で戦いが勃発し、砲撃と射撃が勃発した。どちら側から突撃かは不明である。残虐な虐殺が続いて、約150人のインディアンが殺害され、その半数近くが女性と子供であり、米国騎兵隊は約25人が殺害された。悲劇的で回避不可能な虐殺となった。重武装した軍隊に囲まれて、インディアンがが意図的な戦いの可能性はほとんどない。米国騎兵隊が1876年のリトルビッグホーンでの連隊の敗北に対して、意図的に報復したと推測されている。米国騎兵隊には名誉勲章が授与されて、ウンデット・ニーの虐殺をアメリカ国民は好意的に評価した。



2019年10月17日木曜日

南スーダンでは1歳半の男児が横たわり、顔に無数の蝿が追い払えず、瞳に蝿がたかり、涙から水分と栄養を奪い取った。

南スーダンは、2018年2月時点で、人口の約3分の2にあたる約700万人も飢餓状態に達して、5歳未満の子どもの約530万人も急性栄養不良状態に至る緊急事態に陥った。南スダーンの市民は、飢餓下で生活と生命をかろうじて維持している。首都のジュバの貧弱なマハド難民キャンプにス南ダーンの市民がなだれ込んだ。マハド難民キャンプでは、2018年5月には約7,800人が収容された。その難民キャンプには、多くの女性と子どもが収容されていた。テントの前で座り込み困窮した母親が、手を口に運び食糧を求めた。空腹で飢えた母親から母乳も出ない。何もないテントの中で、1歳半のルオーくんが横たわっていた。その顔には無数の蝿がたかり、追い払うことも困難であった。瞳に蝿がたかり、ルオーの涙から水分と栄養を奪い取った。気温40度を超える灼熱の中で、排水で汚染した水で下痢になった。雨期には、マラリアに感染した。いずれも、子どもから直ちに命を奪った。
 1956年にスーダンはイギリス・エジプトから独立した。その後から、イスラム教派のアラブ系住民が多い現在のスーダン共和国とキリスト教や伝統宗教が多い南スーダンは、北部と分離・独立を求める南部の内戦が頻発した。第1次スーダン内戦が1955年8月から1972年3月まで勃発した。第2次スーダン内戦が1983年3月から2005年1月まで勃発した。2011年7月になって、新たな南スーダン共和国が独立したが、内戦が頻発している。2013年12月と2016年7月には、2度にわたる戦闘が勃発した。2013年12月14日に、南スーダンの首都ジュバで、南スーダン人民解放軍の一部が反政府クーデターを引き起こして、内戦状態となった。2016年7月に首都ジュバで、大統領派と副大統領派が衝突して、再び内戦状態となった。



2019年10月16日水曜日

膨れ上がった2人のアメリカ人と1人のフィリピン人の死体が、バターンの死の行進に沿った排水路に散乱していた。

2人の膨れ上がった2人のアメリカ軍兵士と1人のフィリピン人民兵の死体が、1942年4月16日にオリオン市にてバターンの1つの排水路の中に、バターンの死の行進に沿って散乱していた。バターンからオーストラリアまで逃げ延びた3人のアメリカ兵が、「バターン死の行進」と名づけ惨状を伝えて日本軍の残虐性を示した。
 日本軍は、1941年12月22日にフィリピンのルソン島に上陸した。アメリカ軍とフィリピン軍は、1942年4月9日に日本軍に正式に降伏した。日本軍は占領したフイリピンのバターン半島から、1942年4月に降伏した約76,000人の捕虜(約10,000人のアメリカ軍兵士と約66,000人のフィリピン軍兵士)を約106km(約66マイル)も灼熱の中を強制的にバターンの死の行進をさせた。主にバターン半島の南端のマリベレスから1942年4月9日から行進が始まり、サンフェルナンドまで強制的に行進した。その後に不衛生な狭苦しい列車に乗って、北のカパスまで鉄道で移動した。さらに約11km(約7マイル)も歩いた。アメリカ人とフィリピン人の捕虜を抑留する元フィリピン陸軍訓練センターがあるオドネル強制収容所まで連行した。捕虜が連行した地点に応じて5〜10日間続いたバターンの死の行進中に、水や食糧も与えられず死亡した。水や食糧を要求した捕虜の中には、打撲され、射殺され、縛られて、銃剣で斬首された。強制収容所にたどり着いた多くの捕虜は、後に飢餓と病気で死亡した。強制収容所に到着した捕虜はわずか約54,000人である。行進中に約500人のアメリカ人と約2,500人のフィリピン人が死亡した可能性がある。さらに約1,500のアメリカ人と26,000人のフィリピン人が強制収容所オドネルで死亡した。



2019年10月15日火曜日

セルビア人武装勢力がボスニア人と呼ばれるボスニア人イスラム教徒を民族浄化のためとして大量虐殺した。

東ボスニアでは、1992年冬にセルビア人武装勢力兵士が処刑した約6人のボスニア人の死体が雪上に転がっていた。正統派キリスト教徒であるセルビア人武装勢力がボスニア人と呼ばれるボスニア人イスラム教徒を民族浄化のためとして大量虐殺した。セルビア人武装勢力は、村に潜入していたボスニア政府軍の斥候部隊のスパイと疑わった村のボスニア人を、雪上戦が勃発するまでに虐殺した。セルビア人兵士を防衛するためとして、村のボスニア人は斥候部隊のスパイとして虐殺された。但し、処刑されたボスニア人が斥候部隊のスパイであるとは確証されていなかった。その中にスパイ容疑をかけられて、処刑された無実の村人も含まれる。
 ボスニア戦争は1992年に始まり、1995年まで続いたが、ボスニア戦争の原因は第二次世界大戦に由来して、その影響はまだ2017年にも継続している。戦争は約10万人の市民と兵士の死をもたらした。ボスニア人とも呼ばれる少なくとも25,000人のボスニア人イスラム教徒の大量虐殺を引き起こした。1992年4月から、セルビア人はすべてのボスニア人イスラム教徒を体系的に排除するで、ボスニア領土を「民族的に浄化」することが勃発した。セルビア人は旧ユーゴスラビアの軍事装備で、ボスニア人を攻撃して、首都サラエボを包囲した。多くのボスニア人は強制収容所に追い込まれ、女性と少女は組織的に強姦され、他の市民は拷問され、飢え、殺害された。ボスニア政府軍は、1992年冬に東ボスニアのセルビア勢力地を攻撃した。ボスニア軍兵士が最前線を越えて突撃して、雪上戦を果敢に戦闘した。しかし、精強なセルビア人武装勢力が、ボスニア軍兵士を一網打尽にして、ほとんどひとり残らず射殺した。セルビア人武装勢力の兵士たちは、雪上の死体群から意気揚々と引き上げた。




2019年10月14日月曜日

沖縄戦における南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱と備品が発掘された。

沖縄戦の南風原陸軍病院の穴壕から死体の8柱が1989年3月3日に発掘された。その他に注射液のアンプルや薬品瓶、印鑑、万年筆等も発掘された。それらを新たに埋葬した。
 沖縄戦に至るまでに、1944年10月10日の大空襲により那覇は壊滅した。沖縄陸軍病院も巻き込まれて、琉理後方の南風原国民学校に移転した。国民学校を活用して、軍医と衛生兵と看護婦の約350人体制で開設した。
 1945年4月21日からのアメリカ軍の上陸を防衛する準備のために、黄金森に横穴壕を掘削して、三角舎をを丘に整備した。アメリカ軍の空襲が猛烈になるに従って、戦傷者が増大した。さらに黄金森に本部壕、第一外科壕、第二外科壕、第三外科壕などが掘削されて、約20横壕が貫通した。約4,000人もの戦傷者が収容できた。3月24日にアメリカ軍による沖縄本島への艦砲射撃が勃発した。その直前に、師範学校女子部とひめゆり学園の併設校である県立第一女学校の女学生の約200人が配属された。3月29日に、女学生の卒業式を挙行してから、各分院に配属された。県下の女学生を徴収して、約550人が従軍して、そのうち死亡率が約62%に達する約339人が戦死した。
 横穴壕にはの二段ベット上で、戦死傷者のうめき声と血・海の匂いと死臭が充満した。アメリカ軍の戦勝が近づくと、激増した戦死傷者で郷内は膨れ上がった。女学生は、看護、糞尿の処理、死体の埋葬、水汲み、食事運搬などを強要された。5月25日に、日本軍の撤退とともに、南風原陸軍病院も撤退が指令された。戦傷者を運搬する余裕も、食糧も医薬品も枯渇していた。沖縄群司令部から、重度の戦傷者に対して、青酸カリや手榴弾などで自決させて、横穴壕を埋没させた。



2019年10月13日日曜日

虐殺記念日の1937年5月30日に、シカゴでシカゴ警察が10人の非武装デモした製鉄工場の男性労働者を虐殺した。

1937年5月30日に「虐殺記念日(Memorial day massacre) 」事件が勃発して、イリノイ州シカゴの最南端でシカゴ警察が10人の非武装の男性市民を虐殺した。虐殺された10人の男性は、製鉄工場の約1,000人のストライキ労働者とデモ行進していた。それは世界最大の鉄鋼工業の1つであり、全米製造業協会、商工会議所、および半ファシスト組織と、ルーズベルト政権の強力な議員連盟であった。デモ労働者は、全国労働関係法またはワーグナー法を弱体化させる必要があり、ニューディール立法の中心であった。1937年4月に最高裁判所で憲法制定を宣言して、団体交渉のストライキおよび関与の権利を保護する法的許可を与えた。議員連盟にも支えられて、リトルスチールなどの鉄鋼工業は、反撃を解き放った。ワグナー法を無視して、議員連盟の組織化に応えて、何百人もの組合支持者を解雇、脅迫、攻撃し、組合との交渉を断固として拒否した。
 弾圧がストライキを引き起こし、1937年5月26日に始まり、産業中心地に拡大する約30の鉄鋼工場の約7万人の労働者が参加した。ストライカーは、企業がワグナー法に基づく権利を要求した。約1,500人がシカゴの製鉄工場を行進し、抗議する権利を宣言して、ルーズベルトとニューディールへの支持をしたリトルスチール会社を非難した。工場に大量のピケットラインを設置し、内部で労働者の約千人ほどの男性を引き抜いた。企業と政府にとって労働者の生活はあまり重要ではなかった。大恐慌時代だけでも、数百人の労働者が警察、国家警備隊員、および会社、フォード・モーター、フェルプス・ダッジなどの企業で数百人に上る企業警備員との衝突で、虐殺されていた。労働問題の犠牲者は幹部の労働組合員であり、暴力に対する刑事告発に直面するだけで、虐殺者はほとんど起訴されなかった。
 武装していたシカゴ警察の約250人のメンバーは、工場の門の近くで衝突して、デモ行進者を止めて、脅迫し、解散を命じた。労働者からの挑発もなくて、警察は突然と群衆に発砲した。拳銃から約100発以上を発射した。負傷してつまずいた犠牲者に手錠をかけた。重傷者を打撃した。死にかけている男性を地面に沿わせた。救急車からも引きずり出して、病院で致命傷を負った男性など多くの人々を逮捕した。4人の男性が午後に死亡し、その後6人がさらに死亡した。すべて労働者または賛同者であり、ほとんどすべてが後方から撃たれた。別の約100人が負傷して、数十人が銃で、数人が頭蓋骨への打撃で負傷した。警察は、マリファナの麻薬と共産主義の武装勢力による敵対的な攻撃から自衛したと主張した。上院小委員会による調査と、パラマウントの写真家が撮影した映画によって検証された。ほとんどの政治家は事実を無視し、小委員会と記録動画写真がは、デモ行進幹部を刑務所から釈放したが、シカゴ警察と製鉄工業は、刑事告発を免れました。


2019年10月14日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 310,000回

2019年10月12日土曜日

グライフ作戦で捕囚されたドイツ軍曹は、ベルギーのアンリ・シャペルでスパイ容疑者としてアメリカ軍兵士により銃殺された。

ナチス・ドイツ軍のグライフ作戦で捕囚されたドイツ軍曹であった23歳のマンフレート・ペルナスは、ベルギーのアンリ・シャペルで1944年12月23日にスパイ容疑者としてアメリカ軍兵士により銃殺された。彼らはスパイとしてパリの連合軍の最高司令部の暗殺を示唆した。
 マンフレート・ペルナスだけでなく、同様にグンター・ビリング、ウィルヘルム・シュミットのナチス・ドイツ軍兵士も、1944年12月21日にアンリ・シャペルで軍事裁判を受けて、スパイ容疑で即刻に死刑判決を受けた。12月23日にアメリカ軍の射撃隊は、それぞれ3名を木柱に縛り付け、左胸に目印を付け、目隠しをして同時に3人を銃殺して処刑した。さらに3人のドイツ人が12月23日に軍事裁判にかけられて即刻死刑の判決を受けて、12月26日にアンリ・シャペルで銃殺された。7人のドイツ人が12月26日に軍事裁判にかけられて即刻死刑の判決を受けて、12月30日にアンリ・シャペルで処刑された。さらに3人が12月31日に軍事裁判にかけられ死刑の軍事判決を受けて、1945年1月13日に銃殺で処刑された。連合軍の最高司令部は、捕らえられたドイツ軍兵士の扱いが特に激しかった。アメリカ軍兵士は「彼ら全員のアメリカの制服を脱がせないように」と指示された。死刑判決を受けた16人の囚人の上訴は即却下された。軍事裁判では、ハーグ陸戦条約(1899年創設)の第23条:特別の条約により規定された禁止事項 : 6. 「軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服または特殊徽章を濫りに使用すること。」の極刑に軍事判決した。
 グライフ作戦(ドイツ語: Unternehmen Greif)とは、バルジの戦いの最中に偽装軍服のナチス・ドイツ武装親衛隊が連合軍の後方に侵入して破壊と混乱させて、ミューズ川に掛かる橋を破壊しようとした。1944年12月16日からグライフ作戦に参戦したドイツ軍兵士は捕虜となったアメリカ軍とイギリス軍から盗用した軍服を着用して、略奪した連合軍車輌を用いて、戦線の後方に侵入して、連合軍に混乱を引き起こそうとした。最終的には車輌の不足や軍服や車輌の偽装に基づく制約から、連合軍は一時敵に混乱するも、ミューズ川の橋の爆破は失敗した。










2019年10月11日金曜日

セルビア人は、洞窟から発掘された親族や罪なき子供たちの骸骨を棺桶に入れて埋葬されるのを見守った。

数百人のセルビア人は、約半世紀を経て洞窟から発掘された親族や罪なき子供たちの約100の骸骨を棺桶に入れて埋葬されるのを見守った。第2次世界大戦中にウスタシャによって虐殺されたセルビア人の死体が、ヘルツェゴビナのカルスト台地の洞穴から地下の洞穴に投げ込まれた。社会主義政権は、死体の発掘を禁止して、多数のカルスト台地の同穴を、コンクリートで密閉した。ウスタシャ体制の崩壊してから、親族らによって一部の洞穴から引き揚げた。
 1941年から45年まで、クロアチアのファシズム政党であるウスタシャが、セルビア人を大量虐殺をした。生きたままカルスト台地の洞穴に投げ込まれた。1990年の夏から1年間に、ヘルツェゴビナの石灰岩の台地から発掘された。数百メーターのち地下に一面に、セルビア人犠牲者の変色して無残な骸骨が散乱していた。セルビア民族主義者は、社会主義の下でセルビア人の死体が無慈悲の扱われた事を憤慨した。
 突如に共産主義のソビエト連邦体制が崩壊してから、右派のクロアチア政党がセルビア人を弾圧した。1992年6月に南ヘルツェゴビナにて、クロアチア軍が少数のセルビア人を粉砕して、村々を占領した。在住のセルビア人を虐殺して、家々を焼き払って、爆撃で大量虐殺の痕跡を消滅した。主に女性と子供たちの約800もの遺骨を安置した納骨堂が大爆破されて、飛散して散乱した。クロアチアの人種差別は、第二次世界大戦の終結後も残存して、20世紀後半まで続き、セルビア人は1991年に迫害されて殺害された。アメリカでさえクロアチアの人種差別に加担した。アメリカは、ユーゴスラビア紛争の開始時に、セルビア人がユウゴスラビア戦争を始めた見解を表明した。
 ウスタシャ虐殺の標的は、主にセルビア人、ユダヤ人、ジプシーであった。ナチス・ドイツのホロコーストの主要な標的でもあった。当初、クロアチアのファシスト勢力であるウスタシャは、1941年にクロアチアのアイデンティティを脅かすと感じた非クロアチア人に対する人種法を制定した。さらに、ウスタシャは民族浄化する強制収容所を設立した。最も多くの死者数は、ウスタシャによって虐殺されたセルビア人である。約300,000〜400,000のセルビア人が殺害されたと推定された。セルビア人の約3分1を殺害し、約3分1をカトリックに改宗させ、約3分1の追放を目標にした。さらに、クロアチアに在住の約40,000人のユダヤ人が殺害され、約30,000人のジプシーも殺害された。ウスタシャははるかに残忍な手段で無差別に行われ、クロアチアのセルビア人、ユダヤ人、ジプシーは斬首され、溺死、拷問で殺害された。



2019年10月10日木曜日

シリア軍は反体制側に大規模な無差別の空襲をして、約400人が急性の呼吸困難を訴えて、化学兵器の使用が断定された。

2018年4月4日に、内戦が継続しているシリアの北西部において、シリア軍は反体制側の拠点に対して大規模な無差別の空襲をして、約400人以上が死亡した。さらに約400人が急性の呼吸困難を訴えた。アメリカ軍はシリアのアサド政権が化学兵器の使用を断定して、4月7日にシリア政府軍の基地にミサイル攻撃をした。国際医療団体が化学兵器の使用を疑って、現地調査をして、4月19日に、シリア軍によるサリン類の毒ガスの使用を公表した。
  シリアのアサド政権に、2011年3月にアラブの春が飛び火した。アサド政権は、市民による民主化運動を、軍・治安部隊で厳しく弾圧した。弾圧を受けた民主化運動から、革命闘争が勃発した。2011年9月に武装組織である自由シリア軍が結成された。その結果、シリアの民主化運動は、アサド政権の軍事的な打倒を目指す革命闘争へと変質した。シリアの政権軍の精鋭部隊は、アサド家産化された軍であった。政権が革命の危機に瀕したとき、防衛のために無差別に市民に躊躇なく銃口を向ける私兵部隊と化した。
 湾岸諸国は、独裁者であるアサド大統領の退陣を求め、反体制諸派を支持した。過激なイスラム主義者が世界中からシリア国内の反体制諸派に合流した。逆に、ロシアと中国、イランとレバノンは、アサド政権を支持して、シリアが内戦化した。アサド政権と反体制派の荒廃した内戦から、イスラム過激派によるイスラム国が台頭した。イスラム国は、2014年6月にシリア北東部のラッカを首都とする独立を宣言した。国際社会は、次第にイスラム国の打倒するために、シリアのアサド政権を有利な正当化に傾倒した。2014年8月に、アメリカ軍主導の有志連合でイスラム国に軍事介入した。2018年12月19日にアメリカ軍はイスラム国を撃破を宣言して、シリア北部のクルド人地域からの突然の撤退を開始した。トルコ軍は2019年10月9日、シリア北部のクルド人勢力に対する攻撃して、民間人を含む少なくとも約15人が死亡した。


2019年10月9日水曜日

スペイン内戦の緒戦で、混迷した共和派のスペイン市民らが、反乱軍のマドリードのモンターニャ兵舎を制圧して虐殺した。

スペイン内戦が勃発したマドリードの市街地で、1936年7月17日にモロッコで蜂起した民族独立主義派の反乱軍に対抗して、共和派のスペイン市民らは1939年3月31日に反乱軍に制圧されるまで最後まで戦い抜いた。1936年7月18日には、反乱軍はスペインの北部を中心に約3分の1を支配した。
 スペイン内戦の初戦で、共和派のスペイン市民らと警察官や兵士の約10,000人が、約2,500人の反乱軍が立てこもるマドリードのモンターニャ兵舎を包囲した。立て籠もる反乱軍に1936年7月20日にスペイン市民らが乱入して反乱軍を虐殺した。狂乱した共和派の市民らは、白旗で武装解除した反乱軍の兵士を無差別にリンチにかけて虐殺した。市民らはモンターシャ兵舎を制圧してから銃器や鉄砲などの武器などを獲得して、反乱軍による首都の制圧を阻止した。マドリード市内では、その直後から絶え間ない反乱軍の猛撃を受けた。反乱軍は機関銃で射撃して手榴弾を群衆に投げ込んだ。マドリードは、激しい砲撃や空爆により、ほとんど廃墟となり、膨大な虐殺されたスペイン市民らの死体が市内に放置された。
 1936年7月17日に、共和派のスペイン人民戦線政府に対してフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こし、スペインは内戦状態に陥った。反乱軍側が、ドイツ、イタリアなどのファシズム政権から軍事援助を受ける一方で、人民戦線側はソ連から武器を供与され、第2次世界大戦の前哨戦がスペイン人同士による内戦が展開された。
 人民戦線側には反ファシズムを支持する組織として国際義勇軍が加わった。武力と物量に勝るフランコ側が有利に戦いを進めて、1939年3月31日にはマドリードが陥落して、4月1日に内戦は反乱軍側の勝利に終わった。


2019年10月8日火曜日

金鉱の荒野で無差別にデモ行進の労働者に射撃して、約250人のレナの労働者が虐殺されて約500人以上が負傷した。

ロシア帝国軍の憲兵隊が1912年4月17日に、ナデディンスキー金鉱の荒野で、無差別にデモ行進の労働者に射撃して虐殺して、少なくとも、約250人のレナの労働者が虐殺されて、約500人以上が負傷した。死体安置所だけでは、処刑された死体を収容することができなかった。
 シベリア南東部のレナ川に沿った巨大な金鉱地は、ロシア帝国で最も収益性の高い地域であった。地域の大部分の金鉱は、レナ・ゴールド・マイニング合資会社が所有して、(レンゾロト)は、年間約7,000,000ルーブルの利益で経営した。経営者の利益のために、レナの鉱山労働者とその家族は厳しい生活に耐えなければならなかった。約16時間の労働を強要された、鉱山労働者の事故は約1000人ごとに約700件の外傷事故が多発した。鉱夫が乏しい仕事と監視されると、多くのお金が罰金として搾取された。鉱山労働者に腐った食肉を配給したことから、1912年2月29日にストライキが勃発した。3月中旬には、他に約6,000人もの労働者も加わった。約30%の賃上げ、罰金の廃止、1日約8時間労働、食事の改善を要求するも、3月22日に経営者と決裂した。
 鉱山労働者のストライキを撲滅するために、4月17日にロシア帝国軍から憲兵隊が派遣されて、ストライキの指導者が逮捕された、約2,500労働者が、検察庁にデモ行進して釈放を要求した。レナ金鉱の労働者に対する残酷な弾圧と大虐殺の情報は、ロシア国内に拡散した。ペトログラード、モスクワ、そのほか産業地帯でも大規模な抗議ストライキが勃発した。約30万人もの労働者を巻き込み、大規模なデモが1912年5月にロシアの都市を包囲した。ペトログラードだけでも、約1,000回ものストライキが発生した。レナ金鉱の虐殺は、ロシア市民の怒りと不満を強めで、1912年にはストライキの数が約1,918件と、1911年の約468件から約4倍にも達した。8月末には、レナ金鉱から約9,000人の労働者と家族が避難した。



2019年10月7日月曜日

大学から勃発した8888蜂起は、武装したビルマ軍によってビルマ国民まで集結した抗議デモは弾圧された。

1948年にイギリス連邦から独立したビルマ連邦では、1958年から継続する軍事政権に対して民主化を求めて1988年に8888蜂起が勃発した。ビルマ連邦は、1988年に経済が破綻して、後発開発途上国(LLDC)にまで転落した。ビルマの軍事政権に対して、1988年8月8日に大学から勃発した8888蜂起は、ビルマ国民まで集結して抗議デモを挙行した。武装したビルマ軍によってビルマ市民は弾圧された。人々が篤い尊敬を寄せる僧侶の青年の隊列が最も注目された。僧侶の青年たちは、軍人や家族が営む宗教儀礼では読経を拒否して、布施や托鉢を拒否して抵抗を続けた。1988年8月から9月の1ケ月間に約600人の僧侶が殺害された。1988年の1年間では、約10,000人の死者に達した。海外では、犠牲者数は数千人のみと報道された。
 1988年8月25日から9月18日にかけて軍事政権が混乱をした。8月8日に蜂起したビルマ市民の多数を拘束して投獄した。暴動の指導者して容疑者が、逮捕されて長期間の勾留と拷問による殺害が示唆された。8月27日は、軍事政権はヤンゴンの中央刑務所に拘束された受刑者を一部開放した。1989年6月18日に軍事政権は、ミャンマー連邦に国名を改変した。1988年9月18日には、将校らが軍事クーデターを挙行して、改変した軍事政権は戒厳令を宣告した。軍隊は、デモ抗議者を殺害するために殺害すると警告をした。新たな軍事政権は、民主的選挙を公約するも、1990年5月に圧倒的に勝利した国民民主連盟(NLD)には、2011年3月まで権力の譲渡を履行しなかった。2011年3月まで軍事政権下でミャンマーを統治した。


2019年10月6日日曜日

第1次世界大戦でドゥナジェツの悲惨な野戦病院に護送されたロシア軍兵士を老司教が見舞った。

第一次世界大戦。ロシア軍兵士がドゥナジェツで戦死傷者が野戦病院に護送された。カトリック教会の老僧が戦死傷者を慰めた。司教が戦地の野戦病院を見舞った。東部戦線の両側に塹壕が掘られ、戦局は膠着して固定化した。新兵器である航空機の空爆、毒ガスによる虐殺が塹壕戦に犠牲を拡大した。1916年末からのロシア革命によりる完全なる危機に直面した。
 ロシア帝国ニコライ2世は、1914年7月20日に第1次世界大戦の詔書を読み上げた。皇帝は、神につかわされた専制君主であり、絶対的な長であり王であった。ロシア軍は、総動員令により、1914年に約311万5000人から1915年末に約830万3000人も動員させた。皇帝は、家族から父と息子を奪い、戦場で残酷な運命に追い込んだ。ドイツ帝国の東プロイセンに速攻で侵攻した。ドイツ軍は、8月17日にタンネンベルクの戦いで、ロシア軍を分離させて包囲して壊滅した。ロシア軍には、約3万人が戦死傷と約9万2000人の捕虜の犠牲が出た。
 ロシア軍は第1次世界大戦の開戦から1915年末までに、約12万4987人が戦死して、戦傷者は約61万2119人、捕虜・行方不明は約44万4996人で、総計119万2102人が犠牲となった。1914年末には、あらゆる物資の補給が滞り、戦場は悲惨な墓場に陥った。ロシア軍は、1915年4月19日にガリツィア、5月20日にプシェミシル、6月9日にリヴォフ、7月23日にワルシャワ、8月5日にコヴノ、8月19日にグロドノから完全に大撤退した。1915年5月から7月だけで、戦死者は約6万3519人、戦傷者は約27万7110人、捕虜・行方不明は約5万2231人、総計約39万2906人の犠牲が昇った。さらに8月の1月間だけで、戦死者は約3万3054人、戦傷者は約14万6820人、捕虜・行方不明は約40万5057人で、総計は約58万4931人の犠牲となった。開戦以来からの犠牲者総数は、約216万9939人の犠牲に達した。ロシア軍には、悲惨で残酷な大量犠牲を強要した。ロシア軍が撤退したポーランドとガリツィアに残されたロシア人は、ドイツ軍から避難して難民化した。
 

2019年10月5日土曜日

テト攻勢が勃発して、アメリカ大使館内で殺害されたベトコン2人のテロリストの死体が、壁に横たわった。

ベトナム南部のサイゴンでテト攻勢が勃発した。アメリカ大使館内で殺害されたベトコン2人のテロリストの死体が、アメリカ大使館の壁に横たわった。 テロリストは大使館の周囲の壁に穴を開けて、敷地内を突破して占領した。ヘリコプターで大使館の屋根に上陸したアメリカ陸軍の空挺部隊が、彼らが殺害されるまでに約6時間にわたりベトコンは大使館を占領した。侵入して殺害された18人のベトコンの死体は、大使館のコンクリートの箱庭などに転倒した。負傷した1人のベトコンが捕囚された。アメリカ側は、4人のアメリカ軍の警備兵と1人の国会議員が死亡した。
 1968年1月末に、ベトナムの旧正月であるテトの休暇中に、北ベトナム軍と共産主義のベトコン軍は、南ベトナムの多くの標的に対して、奇襲して攻勢を挙行した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、テト攻勢を終結するまでに、多大な犠牲を伴った。1月30日と31日から、南ベトナム開放戦線(NLF)が、人口の多い地域やアメリカ軍が駐留している地域を同時に攻撃した。南ベトナム解放戦線は、サイゴンにあるアメリカ大使館の外壁を破壊して侵攻した。第2期は、5月4日から小規模な都市や町に同時多発の攻撃が、6月まで継続した。第3期は8月に開始されて、約6週間継続した。その後の数ヶ月で、南ベトナム解放戦線が占領した地域を完全に排除して確保した。最終的に、36州都、5自治体、72地方都市、約100以上もの町を攻撃した。1968年3月31日に、ジョンソン大統領は2期目の立候補を辞退した。1966年から1967年までに、北ベトナムは、大規模な死傷者、戦場での膠着状態、およびアメリカ軍の空爆により北部経済は破綻して追い詰められていた。



2019年10月4日金曜日

第1次世界大戦の東部戦線にてポスタウィの戦いが勃発し、ナロク湖の小道に、多大なロシア軍の死体が散乱した。

第1次世界大戦の東部戦線において、1916年3月18日から28日まで北ポーランドのナクロ湖北部でポスタウィの戦いが勃発した。ロシア軍は、ドイツ軍の陣地への攻撃したが、ロシア軍は大敗した。リトアニアとベラルーシの国境地帯にあるナロク湖の小道に、ロシア軍の死体が散乱した。ドイツ軍は劣勢にも関わらず、ロシアの攻撃が破滅的に敗退した。ロシア軍は、解凍したナロク湖を取り巻く低地の泥だらけの溝、沼地、沼地、および森林で壊滅した。ポスタウィの戦いは、数日間の温暖の気候と大雨により、ナロク湖の氷結が融解して解凍した。泥沼と湿地の戦いから死者の戦いとなり、ロシア軍を甚大な損失を被った。ロシア軍は、最初の約8時間で約15,000人、約3日間で約40,000人、3月30日の終結では約100,000人もの戦死傷者が犠牲となった。ドイツ軍は、約20,000人もの犠牲を伴ったが、ロシア軍はより損害を受けた。
 フランス軍は、西部戦線にて1916年2月21日からのヴェルダンの戦いを軽減するために、皇帝ニコラス2世からロシア軍に対して東部戦線のナロク湖攻勢を要求した。ロシア軍にどのような犠牲を払っても、連合国を支援することを命じた。大撤退に伴う大敗によって、ロシア軍は第1次世界大戦の開戦時から1915年末までの間に、約200万人は下らない犠牲者を出した。ロシア軍の作戦全体が完全な失敗であり、広く知られた第一次世界大戦の方法である人間の波の犠牲を強制した。敵の前線の同じ場所に、大量の人々が何度も何度も戦いに送り込まれた。最終的に3月30日にも決定的な終結に至らず、ロシア軍は、沼地領域のドイツの陣地への攻撃は中止した。



2019年10月3日木曜日

アフガニスタンのナジブラ元大統領は、去勢され、射殺され、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。

1996年9月26日は、アフガニスタン共産党大統領のナジブラ医学博士の人生の最後の日没となった。タリバン派はカブールを制圧すると、国連事務所に入りナジブラ元大統領を捜索して、彼を連れ去った。ナジブラは、去勢され、射殺され、通りのトラックの後ろに連れて行かれた。9月27日朝、弟と一緒に、街灯柱に吊るして公開の絞首刑にされた。ナジブラと弟の死体の横で、タリバン派の民兵らが喜びのポーズを取った。2日間にわたり、大統領と弟の死体はカブールの中心部の街灯柱に吊るされた。タリバン派はカブール制圧後にアフガニスタン・イスラム首長国として独立宣言をして、1998年8月には、アフガニスタンの約90%を制圧した。ナジブラは1980年に秘密警察長官に任命され、残忍で冷酷な手法でイスラム聖戦士ムジャヒディーンのゲリラ活動を封じて、タリバン派に恨みで報復された。
 ソビエト連邦が1979年にアフガニスタンに侵攻して、1989年にアフガニスタンから8万人ほどの軍隊を撤退させた。ナジブラのマルクス主義政府はすぐに崩壊すると予想された。ナジブラは権力の獲得によって粘り強く体制を維持した。1987年から1992年までアフガニスタン大統領であった。即時の没落しないで、ソビエト連邦が支援して体制は3年続いた。1992年4月15日にイスラム教のムシャヒデーィンのクーデターにより、体制から追放されて、カブール市内の国連事務所に留置された。イスラム教スンニ派の原理主義者のタリバン派は、1994年11月頃にアフガニスタン南部のカンダハルで派生した。ソ連は人民民主党政府を支援したが、パキスタンとアメリカは対抗して政府を打倒するタリバン派を支援した。タリバン派は1996年にアルカイダを保護することで、アルカイダは2011年9月11日にアメリカに対して同時多発テロを実行した。2001年10月から連合軍によるアフガニスタン攻撃で、タリバン政権は2001年12月に崩壊した。


2019年10月2日水曜日

長崎原爆が大炸裂した瞬間を上空から捉えて、きのこ雲をカラーフィルムで約3分50秒の撮影された。

長崎原子爆弾は、1945年8月9日午前11時2分に、長崎市内の浦上天主堂の約500m付近の上空で大炸裂した瞬間を上空から捉えた。きのこ雲を16mmのカラーフィルムで、約3分50秒の映像として記録された。原爆搭載機のB-29(ボックス・カー)は、高度約9,600メートルの上空から、広島原爆に次ぐ約1.5倍の威力のある第2号の原子爆弾となるプラトニウム239型(ファットマン)を長崎市内に投下した。第1目標の小倉上空が空爆の煙などに覆われて、第2目標の長崎上空に変更して、雲量のために目視でなくレーダーによる爆弾投下を迫られた。示された照準点への爆弾投下まであと約30秒に、トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと25秒のとき、雲の切れ間から長崎市街の浜口町と芝里町の一部をわずかに目視できて、急遽に投下する目標地点となった。爆心地は、目標地点より約500m北方にずれて、松山町171番地のテニスコートの上空約503mで炸裂した。キノコ雲は、一瞬にして長崎市内の全域を覆った。炸裂の瞬時に、数千万度の火球が出現して、体積が急激に拡大した。1万分1秒で直径約30m、温度は30万度に達して、火球は0.01秒から1秒の間に直径約280mにも達した。炸裂による巨大なエネルギーは、地上を吸い上げ、巻き上げて原子雲が刻々と変色しながら立ち上った。
 原子爆弾による被害と犠牲者は、想像を絶するほど甚大となった。死者は約73,884人、重軽傷者は約74,909人、被災人員は約120,820人(4km以内の全焼全壊の世帯員数)、被災戸数は約18,409戸に昇った。爆心地より1km以内は、強烈な爆風と熱線によってほとんど即死した。建物と木柱は粉砕して、爆心地は瞬時に焼失して、周囲の各所から強烈な火災を発生した。2km以内は、一部は即死し、大部分は重軽傷の原爆症を受けた。木柱は約80%倒壊して、次第に燃え移り火災が拡大した。4km以内は、輻射した熱線で一部は火傷、爆風による飛散物で一部は重軽傷を受けた。建物は半壊、一部の建物と木柱が焼失した。8km以内では、飛散物により一部重軽傷を受けた。建物は半壊あるいは一部損壊した。爆風は、風速約15kmで、窓ガラス・扉・障子などを損壊した。



2019年10月1日火曜日

イスラエネ軍は、アメリカ大使館の移転に抗議デモをしたパレスチナ人に対して、無差別に狙撃と銃撃をして約60人も虐殺した。

2018年5月14日に、エルサレムに移転したアメリカ合衆国大使館の開設式を挙行した。同日は、1948年5月14日にイスラエルが建国されて、パレスチナ人が追放されて難民となったナクバの大災厄の日でもあった。2017年12月にアメリカは、エルサレムを正式なイスラエルの首都と認定していた。今までの中東政策を転換して、現在のイスラエル大使館を、テルアビブからイスラエルの首都であるエルサレムに移転した。3大宗教の聖地であるエルサレムをイスラエルの首都として認定した。アメリカ大使館の移転に対して、イスラム教徒でエルサレムを追い出されたパレスチナ人が猛反発した。強制撤去されたガザ地区では、約4万人にも達する大規模な抗議デモが勃発した。それに対抗して、イスラエル軍兵士は、抗議デモに無差別に狙撃と銃撃をした。少なくとも約60人のパレスチナ人が射殺されて、約27,00人が負傷した。銃殺されたパレスチナ人の死体の周りに集まり慟哭した。
 聖地エルサレムは、1948年のイスラエル建国に伴う第1次中東戦から紛争の地域となっている。イスラエルは第一次中東戦争で西エルサレムを占領した。さらに1967年の第3次中東戦争では、パレスチナ人が大半を占めて三大宗教の聖地がある東エルサレムを占領して併合した。第一次中東戦争でパレスチナ人はガザ地区に避難と追放された。1980年に、イスラエルの国会はエルサレムを首都とするエルサレム基本法を制定した。しかし、国連は、イスラエルがエルサレムを首都と宣言するのは、国際法に違反するという国連安全保障理事会決議第478号を採択した。アメリカ連邦議会は1995年にエルサレム移転法案を可決していた。2017年12月6日にアメリカは、エルサレムをイスラエルの首都とすることを承認した。2018年3月からアメリカ大使館のエルサレム移転に対して、パレスチナ人による帰還の大行進である抗議デモが頻発していた。