2019年1月31日木曜日

第二次上海事変における南京路の虐殺の惨状が毎日新聞への掲載が不許可写真となった。

第二次上海事変における1937年8月の南京路の惨状が、日本軍により毎日新聞への掲載が不許可の写真となった。多数の上海市民が上海事変に巻き込まれて南京路で虐殺された。日中戦争にて、第二次上海事変が1937年に8月13日から10月26日まで勃発した。
 国民総動員法が新聞報道を完全に発禁させた。その新聞事業令が最悪の言論統制法規であった。言論面と新聞用紙、営業、業務へ全面的な統制から、違反すると「発禁」を超えた「廃止」で脅迫した勅令により、日本の言論統制体制が確立された。
 毎日新聞大阪本社には、他の新聞社にはない戦時中に使用された報道写真が残されている。大量の戦時中の写真が残されているのは大阪毎日新聞社のみである。終戦間際には膨大な写真は空襲などで消失した。さらにアメリカ軍主体の進駐軍の手に渡るのを避けるために、日本軍部は報道資料を含む戦時資料の焼却を命じた。当時の毎日新聞社内は拒否して、危険が迫りながら生駒山に隠した。多数の貴重な戦争写真真が残存した。「不許可写真」は、当時の日本軍部がすべての発行物を検閲する中で、不適当とされた不許可の写真である。「不許可」の印が押され、そのまま社内の倉庫送りとなる。「不許可写真」には、明らかに「不許可」になる写真も多い。「不許可写真集」の写真にも、新聞社と検閲官との駆け引きがあった。

  

2019年1月30日水曜日

シーア派であるイスマーイール派の信徒とされる市民に対して、スンニ派のイスラム国では背教罪で打首の死刑を執行した。

イスラム国では、イスラム教に対する他宗教・他宗派には敵対した。イスラム教に対する背教罪は死刑に相当する。イスマーイール派の信徒とされる市民に対して、イスラム国では背教罪で打首の死刑を執行した。イラク戦争により、イラクはスンニ派政権からシーア派政権に転換された。イスラム国が2014年6月にイスラム教のスンニ派の過激組織がイラクの北部のモスル地域を制圧した。その後12月にイラクとシリアの国境地帯に国家の独立を宣言した。2015年1月に支持者の各地で攻撃を呼びかける声明を出し、世界中にテロが多発した。2017年11月に撲滅された。
  イスラム教社会の約90%はスンニ派と約10%のシーア派構成される。比率ではスンニ派がシーア派を大幅に上回っている。スンニ派は、ムハンマドの死後、その後継者であるカリフが信者から選ばれた。シーア派は、預言者ムハンマドの後継者問題から、多数派のイスラム共同体から分離して第4代目の血脈を導く正統カリフをアリーとした信徒である。第十二イマーム派は、イスラム共同体の指導者である第12代目ムハンマドが、お隠れになり、将来に救世主として再臨する信徒である。シーア派に対して、イスラム国やイラク・シリアのスンニ派の過激組織が激しく嫌悪して敵対した。シリアのアサド大統領派閥は、シーア派の一派であるアラウィー派である。シーア派の一派で、7代目のイマーム以降の継承が異なるのがイスマーイール派である。キリスト教徒は、イラクでは人口の約3%、シリアでは約8%を占める。キリスト教徒しユダヤ教徒は、啓典の民として人頭税で統治した被保護民となり、イスラムの改宗を強要された。イスラム国を撲滅したクルド人は、イラク北部やアナトリア南東部に居住したゾロアスター・マニ・キリスト教やその他の要素も混在したヤジード派である。イスラム国からは、悪魔崇拝として虐待され、迫害を受けた。



2019年1月29日火曜日

ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、重罪人をドラム缶に縛り付ける公開処刑により銃殺した。

ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、1985年2月23日に銃殺刑が執行された。重罪人はドラム缶に縛り付けられて公開処刑により銃殺された。ナイジェリアでは,1960年10月の独立から 1999年5月のオバサンジョ文民政権成立までの38.7年間のうち,文民政権下の期間は9.8年間ほどでしかなく,残りの28.9年間は軍事政権期間となった。第2次軍政では、1983年の選挙で将軍ら軍政派によるクーデターが勃発して、再び軍政に戻った。国民に強圧的な体制を敷いて、経済はさらに悪化した。
 1983年12月31日にナイジェリア軍の中上位将校がクーデターを起こし、腐敗したシャガリ文民政権を打倒して、ブハリが元首となる軍事評議会議長に就任した。軍事政権の奪取を正当化して、無規律との戦いにより、国民に綱紀粛正の運動を強制した。報道を抑圧し、罪状なしでも反対派を拘禁した。労働者や市民のストライキやロックアウトも禁止した。さらにナイジェリア初の秘密警察であるナイジェリアセキュリティ機構を設立した。ブハリ政権は財政均衡のために輸入を抑えて、多くの会社が倒産や閉鎖された。物価は上昇し生活水準は低下した。緊縮政策の失敗、汚職の蔓延、さらに経済の悪化を受け、ブハリ政権は1985年8月27日に中級将校のクーデターで、ババンギダ軍事政権によって打倒された。ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。 



2019年1月28日月曜日

ロシア帝国の1917年2月革命で、ペトログラード市民らは銃殺された犠牲者を死体保管所で取り巻いて検死した。

ロシア帝国の1917年2月革命で、ペトログラード市民らは銃殺された犠牲者を死体保管所で取り巻いて検死した。動乱を起こした兵士や監獄から解放された犯罪者らが、武装してさまざまな暴力行為や略奪、脅迫、無差別な虐待や虐殺により、約1,433人もの犠牲者が出た。
 ロシア帝国の首都であったペトログラードで、国際婦人デーである1917年2月23日に大規模な女性が隊列を組んでデモを挙行した。ヴィボルグ区の繊維工場の女性労働者が、食料パンの不足に抗議のデモ行進をした。氷の張ったネヴァ川を渡った男性労働者と合流した。2月24日にも約15 万人もの市民が市内に集まり膨大なデモに参加した。2月25日には、地域全体のデモとなり参加者が増大した。午後8時30分にロシア皇帝のニコライ2世は、軍隊に対して暴動を2月26日中に鎮圧する命令を出した。2月26日に日曜日に、ペトログラードに厳戒態勢を敷いた。ネフスキー大通りやズナメンスカヤ広場では、軍隊と警察が機関銃でデモ隊を狙って、砲撃をしてペトログラード市民ら約150人以上が銃殺された。2月27日には身内である市民に発砲した兵士らが懺悔して、デモ隊に参加して襲撃を拒否して、市民と兵士らがまず監獄を攻撃した。暴動による略奪や暴力に巻き込まれて多数の市民も犠牲者となった。2月28日に労働者・農民・兵士の評議会であるソビエトが自然発生的に形成された。1917年の10月革命では、10月26日にソビエトには共産主義である独裁政権が樹立された。



2019年1月27日日曜日

ベトナム軍がカンボジアに侵攻した途上の様々な場所にて、カンボジア軍に殺害された膨大なベトナム人の死体が散乱していた。

カンボジア領内に居住するベトナム人に対して、カンボジア軍が膨大なベトナム人の虐待と虐殺を繰り返した。1977年4月からカンボジア軍がさらにベトナム領内にも侵攻した。ベトナム人の殺害に対する報復のために、1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻した。カンボジア政権勢力であるクメール・ルージュが多地域に多様な収容所や処刑センターを構築していた。ベトナム軍がカンボジアに侵攻した途上の様々な場所にて、ベトナム人の死体が散乱していた。
 1975年4月17日に、クメール・ルージュが首都のプノンペンを占領して、ロン・ノル政権が崩壊した。その直後の4月30日に南ベトナムのサイゴンが陥落してベトナムが統一した。1976年からクメール・ルージュのポル・ポト独裁政権が樹立した。カンボジア人の民族主義を誇張した。ベトナムが独立を犯して脅かしているとして、ベトナムと敵対した。親ベトナムの容疑者は、全て処刑された。カンボジアの少数民族や国境付近のベトナム人を攻撃して虐待と虐殺を繰り返した。1977年4月にクメール・ルージュ軍がベトナム領内に侵攻した。



2019年1月26日土曜日

長崎原子爆弾により、30歳の女性が左側頸部と右頬部に介達弾片創を受傷して、大村海軍病院に収容された。(長崎)

長崎原子爆弾により、30歳の女性が左側頸部と右頬部に介達弾片創を受傷した。大村海軍病院の八病舎に1945年9月6日に収容された。女性は左側頸部に斜めに約2cmと右頬部に約2cmの介達弾創部を認めた。右頬部の上方に弾創部の瘢痕があった。弾創部の周囲は、びまん性に膨隆した。リバノールガーゼを創部に貼付した。収容されてから、溢血斑や脱毛が約3日目の9月9日から認められた。
 長崎原子爆弾の炸裂により、瞬時に建造物が崩壊して、被爆者は建築材の破片が飛弾して弾片創を受傷した。



2019年1月25日金曜日

ノルマンディ戦闘中に、連合軍兵士がドイツ軍により射殺されて放置された死体に、ライフル銃と木片で十字架の目印を付けられた。

第2次世界大戦において、1944年6月6日にアメリカ軍・イギリス軍・フランス軍・カナダ軍の連合軍が、フランス北部のノルマンディ海岸に上陸を敢行した。ノルマンディに上陸する戦闘中に、連合軍兵士がナチス・ドイツ軍により射殺された。海岸にうつ伏せまま放置された死体に、ライフル銃と木片で十字架の目印を付けられた。
 連合軍はノルマンディの海岸に夜明けに上陸を開始した。特にオマハビーチに上陸したアメリカ軍兵士は瞬時に、崖の上方から下方に猛烈なドイツ軍の射撃を受けて、約100人以上が戦死した。上陸用舟艇のタラップがおりた瞬間、先導の中隊は活動不能、指揮官不在、任務遂行不能となり、指揮をとる全ての士官と下士官はほぼ死亡もしくは負傷したと公式記録された。部隊は、生存と救出のためもがいていた。ノルマンディに上陸したD-DAYの初日だけで、戦死者は約2500人と行方不明・捕虜等は約10,000人にも達した。特にアメリカ軍兵士が最も犠牲となり、戦死者は約1,456人、行方不明は約1,928人、戦傷者は3,184人にも達した。



2019年1月24日木曜日

グアテラマの街角に座っていた13歳の男児に、突然に軍警察が襲いかかっり、虐待して虐殺した。

グアテマラ内戦が、グアテマラ軍内の親米派と反米派及び左派勢力などの間で1960年から1996年まで内乱が継続した。 1990年3月4日にグアテマラの首都であるグアテマラ・シティにて、数千人もの子供たちが身寄りもなく路頭の困窮生活をしていた。仲間と街角に座っていた13歳の男児に、突然に軍警察が襲いかかった。13歳の男児だけ捕まり、道路に押し付け、蹴り上げて虐待を受けて絶叫して意識を失って虐殺された。2本の指、肋骨骨折、頭皮切傷など全身の虐待を受けていた。
 アメリカから支援をうけてホンジェラスから軍事侵攻した武装勢力から、1958年に成立した軍事政権の親米的政策に対して、不満を抱いた軍若手将校が1960年に反乱を起こした。同反乱は鎮圧されたものの,その指導者グループが山中に潜伏して,ゲリラの源泉となり,以後36年間にわたり内戦が継続した。1965年改正憲法により,1966年の大統領選挙で民主的に政権が交替したが、しかしながらテロ活動が活発となった。1970年以降は,軍人大統領が政権を掌握した。1986年に20年振りの民政移管を達成して、1987年に中米和平合意に署名した。1991年1月,軍部の影響を受けた文民政権となるも、1993年6月に自主クーデターを行って、国内外の強い反発を招き、崩壊して国外に亡命した。1993年6月に人権擁護官が大統領に就任して,政府・ゲリラ間の和平交渉,貧困対策,人権改善等を積極的に推進した。1996年12月29日に政府・ゲリラ間で最終和平合意が成立し,中米最後の内戦が終了して、和平プロセスが開始された。1997年5月に国連軍事監視団の下,ゲリラの武装解除が完了した。1997年12月に軍警察が解体されて,国家文民警察に移行した。




2019年1月23日水曜日

日中戦争にて南京郊外で、日本軍兵士が得意げに中国人兵士の背中を銃剣で突き刺して刺殺した。

日中戦争にて、日本軍は1937年12月に中華民国の首都であった南京に侵攻した。南京郊外にて、日本軍兵士が得意げに中国人兵士の背中を銃剣で突き刺して刺殺した。場所は南京郊外で撮影された写真を、日本軍の自動車輸送大隊所属の1等兵が、極秘に日本に持ち帰り公表した。
 1937年12月13日に、日本軍は南京を占領した。12月14日から少なくとも約6週間にわたり、日本軍が膨大な中国兵から南京市民の殺害から虐殺、虐待、捕虜、暴行、強姦までの猛威を奮った。
 1946年8月に、終戦後の東京裁判で、南京大虐殺が取り上げられれた。日本軍の大将が組織的虐殺を命令を下したと判決を受けて絞首刑となった。判決では、約12,000人の非戦闘員である南京市民、約20,000人の中国軍兵士、約30,000人の捕虜が虐殺され、総犠牲者数は約20万人と推計された。
 1970年代から日本では南京大虐殺の肯定派、少数派、否定派と諸説が対立した。中高校の歴史検定や記載に対しても批判や格差を伴った。中国人側では南京大虐殺は89.3%も肯定して、日本との見解が断絶している。その争点の一つは、主に中国人の犠牲者数の信頼性でああ。南京虐殺は虚構としているが、完全なる無視まではされていない。



2019年1月22日火曜日

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に南ベトナムのアンケ周辺の戦闘でアメリカ軍と北ベトナムの解放戦線の戦死体が散乱した。

ベトナム戦争にて、1965年9月18日に南ベトナムのアンケ周辺の戦闘で戦死した死体が散乱した。中部高原地帯のアンケで、アメリカ軍と北ベトナムの解放戦線が激突した。アメリカ軍兵士約200人が戦死して、10月10日から14日までに約363人が戦死して、10月27日には約583人が戦傷して、10月30日から11月18日で約1,700人が戦死した。
 アンケの周辺の散乱した死体には、アメリカ軍兵士だけでなく、北ベトナムの解放戦線の兵士も含まれていた。ベトナム戦争までは、軍隊に所属したカメラマンのみが、戦死した死体の撮影は許可された。ベトナム戦争になってから、軍隊のカメラマンだけなく、民間のカメラマンにも撮影が許可された。ベトナム戦争では、戦死した死体の公開には全く制限がなかった。
 第1次世界大戦から太平洋戦争等まで、全ての戦争が終結するまでは戦死あるいは虐殺の写真は厳重に秘蔵されて不許可となった。朝鮮戦争になって、初めて戦死あるいは虐殺の死体が公開された。しかし、1960年代から戦死あるいは虐殺の公開は、戦闘における敗北であり、死者の冒涜と国民的な非難を受けた。それ以後も地球上で多数の戦争や紛争が勃発しているが、戦死や虐殺の死体の公開は漸減した。人間として最も悲惨で、隠したい悪、不正義な倫理と道徳などに蓋をして自覚することを避けた。日本平和の市民連盟は、悲惨な戦争を繰り返さないために、思い出の戦争の真実を直視して市民に公開している。


2019年1月21日月曜日

イラク戦争後に、イスラム教の宗派対立とテロ等とアメリカ軍の掃討の内戦に巻き込まれて多数のイラク市民が虐殺された。

イラク戦争後に、2005年1月に内戦に巻き込まれて、多数のイラク市民が虐殺された。アメリカ軍が2003年3月の開戦からフセイン政権が崩壊して、5月1日に戦闘集結宣言した。しかし、イスラム教スンニ派とシーア派の宗派対立と、国外から流入したテロリスト等によるイラク市民への虐待と虐殺も増大した。多国籍軍やイラン治安部隊への攻撃も激化して、イラクは内戦状態となった。
 イラクの国内は、シーア派・スンニ派間の宗派対立、反米・反政府勢力による攻撃、国際テロ組織の活動、シーア派の内部抗争などの複雑な内戦となった。アメリカ軍は、イラク人口の約60%を占めるシーア派政権に転換して、2004年6月に暫定政府を樹立した。政権の移行にて各宗派・民族が利益や権力を確保する対立が激化して、治安が悪化して、武力を伴う内戦となった。
 イラク国内の民間人死者数は2007年3月28日には約65,880 人にも達した。アメリカ軍も死者約3,191人、戦傷者23,924人に達して、イラク国内でテロの発生数やアメリカ軍兵士の戦死者数が増大し続けた。イラク暫定政府の下で 2005 年1月の移行国民議会選挙が実施され、シーア派主導下でイラク政権が樹立されると強い反動が勃発した。



2019年1月20日日曜日

ボーア戦争にて南アフリカのモダー川の主戦場で、イギリス軍兵士は射殺された犠牲者の側から銃撃をした。

ボーア戦争において南アフリカのモダー川の主戦場にて、イギリス軍兵士は1900年12月18日で射殺された犠牲者を伴い銃撃をした。
 イギリス連合王国は、1815年のウィーン会議にて、オランダから南アフリカのケープ植民地を獲得した。1652年からケープ植民地に移住して植民地化していたオランダ系ボーア人らと対立した。ボーア人は北隣のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に侵攻した。トランスヴァール共和国からの金鉱とオレンジ共和国のダイヤモンドが発見された。イギリス連合王国は、両国の併合と植民地政策に乗り出した。
 イギリス軍の露骨な侵略政策により、ついに1899年10月11日から南アフリカで本格的なボーア戦争が勃発した。ボーア人の原住民による抵抗により、ボーア戦争は長期化した。近代で初めてイギリス軍は強制収容所を設置してボーア人の少年少女を含めて約34,000人を強制収容して、約20,000人が虐殺した。最終的には、イギリス帝国が膨大な犠牲を伴って1902年5月31日にボーア人が降伏して終結した。ボーア戦争の緒戦には、ナタール植民地のレディスミスにて、イギリス軍はボーア軍に包囲されて、甚大な犠牲を伴いながら、1900年2月28日に撤退させた。イギリス軍は、トランスヴァール共和国のヨハネスブルグを撃破した。ボーア人の多くは困窮して、敵国人であるイギリス人と協調して、人種隔離政策であるアパルトヘイトによりアフリカ黒人からの徹底的な収奪を通して困窮を脱出した。






2019年1月19日土曜日

広島原子爆弾により成人男性が特に身体の露出部があった顔面から両上肢に重度の熱傷を被爆して、比治山国民学校で救護された。

広島原子爆弾に被爆して、熱戦と放射能による熱傷により比治山国民学校の救護所に収容された。比治山は爆心地から東に約1.8kmに位置して、爆心地側の西側は壊滅したが、東側は比治山が遮って被災が少なかった。成人男性が、特に身体の露出部があった顔面と両上肢に重度の熱傷を被爆した。左顔面から頸にかけて重度の熱傷も伴った。両前腕の被爆創に包帯が巻かれていた。被爆者は、安全な場所となる救護を求めて比治山の救護所に避難や護送された。比治山に救護所が設置されるも、すぐに被爆者で詰まった。
 1941年に国民学校令が施行され小学校は国民学校になる。同年、広島市永年防空計画により広島市内の国民学校33校が、300 人から 5,000人を収容とする救護所にされた。 近隣の多聞院には1945年8月6日の当日に壊滅した広島県庁が臨時に避難した。1949年から比治山の頂上付近にアメリカ合衆国が開設した原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casuality Comission)が移設され、原爆症の長期的調査研究が行われた。



2019年1月18日金曜日

カンボジア人の母親が、タイに向かう列車から転落死して、息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。

カンボジアのポル・ポト政権が崩壊して逃亡した。まもなくベトナムの影響下のヘン・サムリン政権によるカンボジア人民共和国が成立した。経済政策の転換により、プノンペンからタイ国境のバッタンバンに列車やトラックで群衆が大挙した。その喧騒にて、カンボジア人の母親が、列車から転落死した。息子が母親の死体の側で悲嘆して呆然となった。
 ベトナム国内に避難していたカンボジア人により結成されたカンプチア救国民族統一戦線がベトナム軍と、1978年12月25日にカンボジア国内に侵攻した。クメール・ルージュのポル・ポト政権は、国民の粛清と弾圧の影響による混乱により、わずか2週間で崩壊した。カンボジアはベトナム軍によって、大量虐殺を招いたポル・ポト政権からやっと解放された。1979年1月7日に、ベトナム軍がプノンペンに入り、ベトナムの影響を受けたヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国が樹立された。ベトナムはカンボジアを長期間にわたり影響下に置いた。クメール・ルージュ軍およびポル・ポト政権はタイの国境付近のジャングルへ逃れて潜伏した。



2019年1月17日木曜日

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウランによる放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。

イラクに対する湾岸戦争で使用された劣化ウラン(DU: Depleted Uranium)による放射能汚染が、弱者である幼児に被爆症を引き起こした。2ケ月前までは健常に家族と暮らしていた5歳の男児が、突然に死に至る重症の白血病を引き起こした。サダム中央教育病院の小児科病棟では、アメリカ軍が湾岸戦争で甚大な劣化ウラン弾による被爆により、多数の小児に癌や肉腫から特に白血病を発症していた。
 劣化ウラン弾に含まれるウラン238の放射能の半減期は約45億年である。劣化ウラン弾で貫通して破壊されて放置されていた戦車の穴からは、放射線測定器が極大値を示した。湾岸戦争直後から、特に小児に癌から肉腫の白血病、さらに異常児の出産が多発した。発症した。湾岸地域だけでなく、それ以外の非武装地域に放置された劣化ウラン弾に被爆した戦車や装甲車の車輪などの部品が、戦後の貧困の代償として各地で使用され劣化ウランの被爆がイラク各地に分散した。
 劣化ウラン弾は湾岸戦争、イラク戦争などで使用され、戦後に市民だけでなく、アメリカ軍兵士にも、癌、白血病、免疫不全など湾岸戦争症候群を発症した。劣化ウランの放射線毒性や化学毒性による危険性を指摘されている。しかし、世界保健機関(WHO)やアメリカ国防省などは科学的根拠が不十分と否定的主張をしている。



2019年1月16日水曜日

文学作家である小林多喜二は、特別高等警察に治安維持法で逮捕され、拷問と虐待で虐殺された。

文学作家である小林多喜二は、1933年2月2日に東京の赤坂の街頭で警察庁スパイからの通報により特別高等警察に逮捕された。直ちに、東京築地警察署に勾留された。官憲による拷問と虐待によって29歳の若さで虐殺された。同日には、獄中の囚人らは小林多喜二の虐殺を察知した。拘置所にて裸にした全身が強打されて、遺体には特に両方の大腿部には青黒い大量内出血が認められ、両足には刺し傷があった。通夜や告別式に参列した市民らも検挙された。
 小林多喜二は、1928年頃からプロレタリア文学作家として代表作『蟹工船』で、家畜のように弾圧される船員の実態から、国家権力の本質を暴露した。1928年3月28日に日本全国で数千人の反戦主義者を弾圧するために逮捕された。「一九二八年三月十五日」を執筆した。1930年8月には治安維持法による不敬罪で逮捕されて勾留された。1932年3月頃から文化団体は特別高等警察から狙われて思想犯として大弾圧を受けた。逃避して、潜伏して非合法な活動と執筆を継続していた。拷問から虐殺されてからも、太平洋戦争中も、市民が小林多喜二の作品を所持しただけで検挙された。



2019年1月15日火曜日

太平洋戦争にてアンガウル島の海岸の水際に、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵死士の死体が波打ち際を漂った。

太平洋戦争にて、パラオ=マリアナ諸島では最後にアンガウル島に侵攻して、アメリカ軍は1944年9月17日に上陸した。持久戦となるも10月19日になって、日本軍兵士が全員が玉砕して全滅した。アンガウル島の海岸の水際にて、アメリカ軍兵死士は殺害されて死体が波打ち際を漂った。
 アウンガル島に配置された日本軍は約1250人に対して、アメリカ軍は約21,000人と圧倒的な武力差があった。アメリカ側の海から艦砲射撃と空からも爆撃も日本側には犠牲を伴った。水際作戦による障害物や地雷もアメリカ軍に対して一部の被害を与えた。広範囲にわたる空爆や艦砲射撃により多くの犠牲が出た。アメリカ軍の武力を前に多くの日本兵が戦闘不能になった。日本軍は生存兵を再編した夜襲をかけたが、戦車や爆撃等で、日本軍の攻撃部隊は全滅した。残りの守備部隊は持久戦に変更、島の洞窟壕に籠って抵抗を続けた。10月9日に最後の斬り込みを行って玉砕された。日本側の犠牲は戦死 1,191人と捕虜 59名、アメリカ側の犠牲は戦死 260人と負傷 2,294人にも達した。アンガウル島で行った水際作戦から持久戦に持ち込む作戦が後の硫黄島や沖縄戦へも継続された。



2019年1月14日月曜日

無差別爆撃による報復で空襲が泥沼化して、1943年のベルリン空襲で悲惨な市民ら親子が死亡した。

ドイツ空軍は1940年8月24日にロンドンに対して無謀な市民への無差別爆撃をした。イギリス空軍は直ちに報復として8月25日にベルリン空爆をした。被害は軽微であったが、市民への無差別爆撃を激怒して空襲が泥沼化した。
 1943年にベルリン大空襲が勃発した。ベルリン爆撃は1943年3月24日の夜に開始され、1944年3月24日に終わるまで約16回にも達した。イギリス空軍が1943年3月1日夜にベルリンを空襲して甚大な被害を与えた。悲惨な空襲により、約500名を越す市民が犠牲となった。イギリス空軍は3月27日夜と29日夜にも、再びベルリン空襲を行った。
 ベルリンの攻防における1943年の最後の2ヶ月は8回にも渡る空襲で、イギリス空軍は延べ3,656機から約14,074トンの爆弾をベルリンに投下した。この空襲によるベルリン市民の死者は約6,000名で、約470,000人を超す人々が家を失った。1944年には連合軍の空襲も新たな凶悪な段階へと至り、ドイツ全土に爆弾が通り雨のように降り注ぐことになった。



2019年1月13日日曜日

広島原子爆弾の被爆者の収容者名簿の掲示板に、被爆者の親族や関係者が群がり名前を捜した。(広島)

広島原子爆弾で、行方不明になった肉親をや被爆者を捜すために、焼け残った日本銀行のビル前に親族が群がった。そこには多数の収容者名簿が掲載されていた。そこで抹消されていた我が子の名前を見出して、その場に泣き崩れる母親の姿も多かった。肉親の名前が見い出せなかった親族は、その他の焼け残りのビルや、国民学校などの収容所や救護所の掲示板や収容所内に肉親の名前や生存を捜し巡った。
    焼跡には親類や縁故者の安否を探ねる多く人々が、広島市街から広島市内に入って来て、収容所はいずこも混雑をきわめた。収容所でも、発見できずむなしく帰っていく人々も多くあった。原爆爆発直後に被災者が避難するだけでなく、家族や親族の安否を気遣って逆に爆心地に向かった。救援と救護のために被害の中心地へ赴いた人々もあった。



2019年1月12日土曜日

ボスニアのNATOから支援されたムスリム人は中東の聖戦として、ボスニア人の首断して虐殺して頭部を右足で押さえつけた。

ボスニア紛争にて民族浄化の名目のもとに、敵対する民族が他の民族の虐殺が横行した。ボスニアの西部から支援されたムスリム人は中東のムジャヘディーン(聖戦)として、1992年にボスニア人の囚人の首を切断して虐殺して、その頭部を右足で押さえつけた。NATO軍はセルビア人を囚人と悪魔化して戦闘行為を正当化した。
 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、1991年からユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで内戦が継続した。1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。ユーゴスラビアは約430万人が、約44%がボシュニャク人(ムスリム人)で、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と異なる民族が混在した。セルビア人は反対し分離を目指した。ボスニア内戦で、クロアチア内戦と同様に厳しい民族浄化が勃発した。セルビア勢力・クロアチア勢力・ムスリム勢力の3つの民族が、各々に民族浄化で対立した。市町村で、勢力の多い民族が、支配してその他の民族を追放・虐待・虐殺が頻発した。プリエードルでは、セルビア勢力が幹線を挟んだムスリム勢力を追放・虐待・虐殺した。逆にムスリム人が支配するゴラジュスやスレブレニッッツアなどではモスリム人によってセルビア人が追放・虐待・虐殺された。ムスリム人の傭兵や私兵部隊も民族浄化を遂行した。ムスリム人から逃避できなかったセルビア人は、民族浄化による追放・虐待・虐殺を受けた。
 民族浄化するために、セルビア人の人家には☓印、クロアジア人には十字架を、イスラム教徒には緑の印章が付けた。ボスニア内戦の緒戦では、その印章を目印に民族浄化による追放・虐待・虐殺が横行した。ボスニアの北東部の町でも、セルビア勢力にイスラム教徒が共存した。セルビア勢力が反乱分子と決め付け、イララム教徒も反抗して。敵対攻撃をした。オジャッツ町では、クロアチア勢力が突然にセルビアの人家を襲撃して焼き尽くした。




2019年1月11日金曜日

イラク戦争後にもアメリカ軍はサマラ北東部の無差別攻撃をして、子供や女性を含む一族11人のイラク人が機銃掃射された。

イラク戦争にて、アメリカ軍はバクダット北方約100kmのサマラ北東部に対して2006年5月16日に猛烈な無差別の攻撃をした。手始めに子供や女性を含む一族11人を集めて機銃掃射した。その虐殺された子供の死体を父親が悲しみながら抱いた。「イラクを解放するのに、何人の子供が死なねばならないのか?}とイラーキ・リーグが6月28にに広報した。アメリカ軍は、攻撃はアルカイダの外国人同士を連絡調整する幹部の拘束と対抗した。
 皆殺しにあった家族の隣人のムハンマド・ムジユマイは、「アメリカ軍のヘリコプターに援護されたアメリカ軍部隊が2006年5月16日午前1時半に、イスハーキ小学校の教員のファイーズの自宅を急襲した。周辺の自宅も制圧し、家族をしばり、殴打した。主人夫妻と子供3人、主人の妹とその子供3人、主人の父親、親族の女性の1族を全員を射殺した。子どもたちの年齢は2ケ月から6歳であった。」一族殺害後にアメリン軍部隊は、この自宅に爆発物を仕掛けて犠牲者もろとも爆破は、ヘリコプターが爆撃した。
 駐留部隊がアメリカ人軍兵士にイラク人に対する蔑視、暴力的傾向と差別感を助長した。サマラ事件に対して、4人のアメリカ軍兵士が有罪となった。当初に、民家の窓ぎわに立っていた老人を虐殺した。民家の中の3名を外で殺害した。殺害を実行した兵士が、公報すると殺すとアメリカ兵を脅迫した。



2019年1月11日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 190,000回

2019年1月10日木曜日

発煙煙で演出された映画で上海南駅で泣き叫ぶ赤ん坊の虚偽写真が世論形成による対日反抗宣伝となった。

中華民国政府の宣伝担当者が、1937年8月の上海付近の片田舎の駅のプラットホームで焼けただれた1歳半の赤ん坊の写真を世界に向けて発信した。中華民国の一片の騙し写真による騙し視覚的対外宣伝の活動が拡充された。真実は発煙煙で演出された映画の1シーンであった。視覚的喧伝に特に注意すべきは、虚偽の写真は、真実を解明して暴露する必要がある。
  "LIFE"の1937年10月4日号に、日中戦争の状況を示す写真が掲載された。「海外からの写真: 上海南駅を約1億3600人が見聞した。その写真の中に、日本軍によって空襲された後の駅で、1人泣き叫ぶ赤ん坊が報道された。膨大な人々が見聞した写真は、「ニュース映画」の1シーンと記事に記載され、ニュース映画の35mmフィルムの1コマを転写した。それに反応して、日本の大量虐殺を停止せよ、対日ボイコットのために、日本製品の輸入制限、日本とドイツを侵略国家の非難する隔離演説と喧伝された。中華民国は、反日宣伝で日本に対抗した。
  1936年1月23日にアメリカで絶大な人気を誇ったグラフ週刊雑誌"LIFE"が創刊された。報道写真と戦争は、物語を語り納得させる報告の位置を示した。報道写真と戦争は世論の革命だけではなく、世論の形成され方の革命となった。日本平和の市民連盟は、わずかな戦争の真実と虚偽の写真を暴露することで解明する。 


2019年1月9日水曜日

アーカンソー州のジェローム日系人収容所に収容された23歳男性が悲観して鉄道自殺にて列車により頸が切断された。

第2次世界大戦にて、アメリカの日系人は強制収容された。父親、継母、結婚した姉とともに、アーカンソー州のジェローム日系人収容所に収容されていた23歳男性のジョン・ヨシダが悲観して鉄道自殺にて、列車により頸が切断された。
 1941年12月7日の真珠湾攻撃に引き続いて、アメリカ合衆国は8日にルーズベルト大統領は宣戦布告した。直後からアメリカ西海岸に居住していた4万人以上もの日系人は、アメリカ市民であった7万人子供達とともに、自宅から追放されて、転住収容所に収容された。ル1942年2月9日に日系人の西海岸からの強制退去の行政命令9066に大統領は署名した。日系人種だけは、世代を超えても薄まらない敵国人種と宣告した。西部防衛軍司令部はすべての日系人を、市民権の有無に関わらず、西海岸から退去を命令した。3月19日に議会は、日系人に刑事罰を下す公法503を成立させた。
 日系人全体の共同体はショック状態に陥った。日系人は静かに長い列に整列して、首に家族を特定する番号札をぶら下げて、子供をあやし、軍司令部に身を任せて、列車で未知の収容所に移送された。強制収容所には最小は約8,000人を、最大は約20,000人を収容させた。1943年初頭から陸軍が10ケ所の収容所での日系人を軍隊に入隊させる命令に反動が勃発した。
 1944年12月に連邦政府は日系人の集団退去命令を撤回したが、1945年8月の終戦時になお約44,000人の収容者が残存した。財産を喪失した日系人には帰るべき土地もなく、外界での敵対行為を恐れるも、強制的に望まれていない地域社会に押し戻された。



2019年1月8日火曜日

日露戦争の奉天会戦で、ロシア軍が敗退した満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。

日露戦争における奉天会戦で、ロシア軍が敗退して後に、満州の荒野に散在したロシア人兵の膨大な死体群が集積した。果てしない荒野には、見渡すかぎりの死体の山、焼け落ちた民家、煙がくすぶり続ける物資が散乱した。
 日露戦争の奉天会戦が1905年3月に行われた日露戦争最後の大規模な陸上戦となった。1905年1月に日本軍が旅順攻略したのち、日本の満州軍総司令部は日本軍兵士の約250,000人を終結し、ロシア軍を殲滅して戦局を決定することを意図した。現在の瀋陽である奉天を拠点とするロシア軍も約320,000人のロシア人兵士を集結して対峙した。3月1日に両軍は全線で戦闘が勃発した。戦局は容易に進展しなかったが、ロシア軍は3月7日までに約8,705人の戦死者と約51,438人の戦傷者と総計で約90,000人もの死傷者を出したた。次期に反撃できるロシア軍兵士を保持するために伝統的な戦略的撤退をした。3月10日に日本軍は奉天を占領した。日本軍も約15,892人の戦死者と59,612人の戦傷者と総計約70,000人もの犠牲を受けた。追撃の戦力を失って、特に戦闘の前線の先頭を侵攻する下級将校が犠牲となり、ロシア軍の追撃は達成できなかった。奉天会戦の犠牲で、日本軍は戦力の低下から、これ以後大規模な会戦は困難となった。ロシア軍も打ち続く敗戦が、ロシア革命の機運を醸成した。奉天会戦を機に日露講和が議論に上るも頓挫した。日本軍は戦勝を記念して奉天占領の3月10日を陸軍記念日とした。


2019年1月7日月曜日

日中戦争にて、日本軍が占領した南京城内で虐殺した大量の遺棄した死体が南京城内に散在した。

日中戦争にて日本軍が南京城内で虐殺した大量の死体が遺棄されて城内に散在した。日本軍は1937年12月13日に中華民国の首都である南京を陥落した。12月14日に南京郊外の幕府山の付近だけで、南京城内から敗走した中華民国兵士の約14,777人を捕虜にした。12月18日には南京攻略の総合的な戦果を、「遺棄死体は約80,000万人から90,000人を下らず、捕虜は数千を算する」と公表した。12月13日以降は、籠城した中国軍の戦闘行為は喪失した。
 戦闘行為による戦死者は限定された。籠城して戦闘行為を喪失した中華民国兵士の捕虜や敗残兵は約50,000人以上と推定された。日本軍の南京城内で戦闘行為を喪失した大半の捕虜や敗残兵中華民国兵士を完全に掃討した。南京城の捕虜や敗残兵は数千のみとなり、無抵抗のままに虐殺や抹殺された遺棄死体が80,000万人から90,000人にも達した。遺棄死体数には、南京城内に居住した一般市民も多く含まれた。南京城内だけでなく、揚子江の投棄死体、親族や地域住民の埋葬死体、城外の燕子磯など多数の虐殺なども想定された。無差別な地域住民だけでなく、子供女性の虐待、略奪、放火などの残虐行為も勃発した。
 日本軍が占領した当初に、約5人の外国人記者が南京城内に残存して惨状を海外に報道した。南京虐殺には、偶発的な戦闘なのか、軍指令による組織的虐殺であるのか、虐殺された兵士や住民の総数の隔たりなどが争点になった。約45年も経過して、1987年の教科書検定において、中国政府と日本政府との南京虐殺に関する見解の不一致が表面化した。



2019年1月6日日曜日

日本軍若年兵は、アメリカ軍の戦車に体当たりして自爆する直前に射殺されて、戦車に胴体を踏まれて横断されて即死した。

太平洋戦争にて日本軍が劣勢になるにつれて、南方諸島の日本軍への資源の補給が断絶した。アメリカ軍の攻勢により、日本軍は近代的武器や食糧も失った。大本営は日本軍に対して降伏を拒絶して全滅する玉砕の指令を出した。日本軍若年兵士は最終的な玉砕に追い込まれて、爆弾を抱いてアメリカ軍の戦車に体当たりした。肉弾特攻して自爆する直前に射殺されて、横倒しになり、戦車に胴体を踏まれて横断されて即死した。
 太平洋戦争のフィリピン戦末期や沖縄戦末期には、フィリピンの戦いのバギオのイリサン谷では、日本軍の戦車は1945年4月17日にアメリカ軍の戦車に体当たりする特攻を敢行した。直前にアメリカ軍の集中砲火を受けて、日本軍の戦車は爆発して散々となった。さら沖縄では鉄血勤皇隊という14~17歳の少年による学徒兵が組織化され、日本軍の敗退に追い込まれた末期の沖縄戦では、補給もなく装備も十分ではなく、十分な軍事訓練もなく、知識や実践もなく、日本軍少年兵が爆薬を背負って敵陣地や敵戦車の前に飛び込んで自爆する攻撃をかけた。勝ち目もなく戦車1台を壊すために走行用ベルトであるキャタピラーにめがけて、下っ端の少年兵は爆弾を抱えて体ごと突っ込んた。無駄死にとなり、ほとんど戦果もなく、虚しく絶命した。終戦直前の満州では、爆薬の詰まった木箱を抱いてソ連軍の戦車に突っ込んで行って、爆発してこっぱみじんになっるも、ソ連の戦車はなにごともなく前進し続けた。日本本土は、若年兵士が体当たりする肉弾特攻は、戦略だけで終わった。
 



2019年1月5日土曜日

生存したウクライナ人の家族らが、ドイツ軍の特殊部隊により土中から掘り起こして焼却された肉親の死体を悲嘆しながら検証した。

ドイツ軍による東部戦線では、ウクライナ中央部におけるキーロボグラードにて民間市民を含めた大量虐殺をした。ソ連軍が1944年にドイツ軍を敗退させて解放した時に、生存したウクライナ人の家族らが、ドイツ軍の特殊行動部隊により土中から掘り起こして焼却された肉親の死体を悲嘆しながら検証した。
 ウクライナのリボフ市のソ連秘密警察(NKVD)は、1941年6月22日にドイツ軍の侵攻を受けた。撤退する前に、主にウクライナ人のウクライナ主義者である囚人を約4,000人を大量処刑した。ドイツ軍は6月30日に大量の死体を検知したが、主犯者をユダヤ人であると喧伝した。地域ウクライナ住民だけでなくドイツ軍も7月3日にユダヤ人を約11,000人を大量虐殺した。
 ドイツにとっては、ソ連のボリシェヴィキは第一義的にロシアの共産主義者であり、帝政ドイツからナチス時代まで、社会民主主義よりさらに急進的な左翼過激派であった。ソ連のボリシェヴィキは、ユダヤ人と同様に大量殺戮による絶滅の対象となった。第2次世界大戦にて、ナチス・ドイツ軍は1942年から1943年におけて、東部戦線を突破して、ウクライナからソビエトに侵攻した。ソ連侵攻には。親衛隊・保安警察から編成された特殊行動部隊(Einsatzgruppen)が、大量殺戮のために随行した。ポリシェビキやユダヤ人から地域住民を、地域外に行進させて、土中に自らの深い塹壕を掘らされた後に、射殺されて土中に埋められた。1944年からソ連軍の攻勢により、ドイツ軍が東部戦線まで全面撤退した。特殊行動部隊は殺戮現場に戻りながら、死体を掘り起こして、焼却して痕跡を消滅した。


2019年1月4日金曜日

朝鮮戦争の直後に、韓国軍は思想政治犯を射殺して死体を塹壕下に捨て、死体の検証して生存した囚人たちを直ちに処刑した。

朝鮮戦争が勃発した1950年6月25日の勃発時には、韓国政府は大田刑務所に左翼系の国民保導連盟員、左翼事件の関係者や被疑者らが約2,000を拘束していた。特に国防警備法・特別措置令・布告令違反で逮捕された者は、全て思想政治犯人として、1950年7月8日から10日の間に処刑にて直ちに虐殺された。トラックから思想政治犯を引きずり下ろして、射殺された多くの死体は塹壕下に捨てられた。死体の検証して、射殺後に生き残っていた囚人たちは直ちに処刑にて虐殺された。
 朝鮮戦争が勃発した直後から、戒厳令下にて、大韓民国の韓国軍も北朝鮮の人民軍も、軍事裁判にて処刑執行人となった。両国家権力は、敵対国の協力者や容疑者となった民間市民を、反逆者として虐待と虐殺をした。戦争下における軍事的対決の危機の防衛のために、民間市民ら自国に服従と隷従に導いた。韓国軍あるいは人民軍は、占領した地域で、軍事裁判や人民裁判によって、反対勢力や左・右翼の関係者や容疑者を処刑した。朝鮮戦争の直後から、北朝鮮の人民軍が南下して押し寄せて来た。大田などの南下領域でも、韓国軍は7月8日から16日の間に人民軍に同調する思想政治犯人や民間市民らを急遽に虐殺して抹殺した。アメリカ軍と韓国軍は9月16日に仁川から上陸して、9月28日にソウルを奪還して。人民軍を以北まで撤退させた。韓国軍が朝鮮半島の南部を再占領した時には、人民軍に付随した容疑者や民間市民らを摘発して報復的な虐殺をした。


2019年1月3日木曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム解放民族戦線のテト攻勢により、北ベトナム兵士がサイゴンのアメリカ大使館を約6時間も占拠して、1人の捕虜以外の全員が銃殺された。

ベトナム戦争にて南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のテト攻勢により、北ベトナム兵士が1968年1月31日にサイゴンのアメリカ大使館に侵入して約6時間も占拠して、1人の捕虜以外の全員が銃殺された。
 南ベトナム解放戦線兵士が1968年1月31日午前3時を期して、南ベトナムの首都サイゴンなど主要都市、軍事基地にいっせいに攻撃を仕掛けて、サイゴンではアメリカ大使館のほか、大統領宮殿、タンソンニャット空港の空軍基地、サイゴン川に面した海軍基地、放送局など7ヵ所が攻撃された。午前3時ごろ約20人のベトコン・ゲリラが、正門と塀に対戦車ロケット砲を打ち込んで破壊して、機関銃を撃ちながら大使館に乱入した。テトの旧正月のために、アメリカ大使館には海兵隊の警備兵6人とベトナム人警官の数人、宿直のアメリカ人職の員数人だけが残っていた。アメリカ大使館側は、不意を衝かれて劣勢となり、1階から4階へと追い詰められた。アメリカ軍の救援がヘリコプターで屋上に降下して、地上からのアメリカ軍兵士と憲兵らが、アメリカ大使館内に突入したベトコン・ゲリラを攻撃した。ベトコン・ゲリラは上からと下から挟み撃ちにされ、ついに捕虜1人を残して他は全員射殺された。アメリカ側も海兵隊員と憲兵隊員にも数人の犠牲者が出た。
   テト攻勢が最初に終結するまでに約1か月かかった。態勢を立て直したアメリカ軍や南ベトナム政府軍の反撃で、推定約67,000人のベトコンの兵力は3分の2が壊滅した。水面上に姿を現した秘密工作員たちや民間市民らも、南ベトナム政府の秘密警察や公安当局、米軍特殊部隊に、鎌で刈り取られる芦のように次々に攻撃と摘発されて処刑された。南ベトナムの戦場では、テト攻勢から立ち直ったアメリカ軍と南ベトナム政府軍が、ベトコンに巻き返した。
 アメリカ合衆国では政府への不信、ベトナムから手を引く反戦機運が一気に噴き出した。大統領、リンドン・ジョンソンは大統領選挙の再選をあきらめ、北ベトナムに和平交渉を申し入れた。大統領選挙では、ベトナムからの撤退を旗印にした共和党のリチャード・ニクソンが勝った。



2019年1月2日水曜日

第1次世界大戦でドイツ軍はイーペル戦線で毒ガスを初めて使用して、ゾンネベーケの塹壕内で多数のイギリス人兵士が毒ガス死した。

第1次世界大戦にて、西部戦線のベルギーの国境付近のイーペル地域のゾンネベーケにて激しい戦闘が勃発した。ドイツ軍は1915年4月22日にイーペル戦線で毒ガスを初めて使用した。5月1日には塹壕内で多数のイギリス人兵士が毒ガス死した死体が散乱した。
 塹壕戦は、敵の小火器砲撃から防御して、 砲兵から実質的に保護される。第一次世界大戦の西部戦線で塹壕戦が最も駆使された。武力と機動力が一致せず塹壕戦は行き詰まり、損耗 、包囲、戦闘には無益も示唆した。防御者が優位に立った過酷な戦争が起こった。1914年から1918年にかけて西部戦線では、両陣営は互いに複雑な溝、地下、掘り出し、有刺鉄線、地雷、障害物による攻撃から保護された。向かい合った塹壕線の間の地域は、両軍から完全に砲撃にさらされた。 攻撃は侵攻してもしばしば深刻な犠牲者を伴った。毒ガスにより、守備側の損害が攻撃側よりも遥かに大くなった。
 塹壕戦では、ほぼ確実な死をもたらす銃撃の中へ、塹壕を越えて敵の塹壕線を攻撃した。ソンムの戦いで、イギリス軍は約6万人近くの犠牲者を出した。ヴェルダン戦でフランス軍が約38万人の犠牲者を出した。第一次世界大戦は大量虐殺となり、塹壕戦は、すべての戦闘兵士の約10%が殺害された。第2次ボーア戦争で5%、第二次世界大戦で4.5%の死亡率の倍にも達した。西部戦線でイギリス軍と英国連邦軍の死亡率は12.5%であり、死傷者の合計は約56%にも達した。



2019年1月1日火曜日

少女がロシア飢饉のため飢餓に陥り、頬が落ち込み顎がせり出し、顔や四肢が痩せ細り腹部が腫れて死期が近づいた。

   ロシアの大飢饉により、ペトログラード(レニングラード)では食糧と燃料不足のために、1921年に抗議デモが発生して戒厳令が敷かれた。少女が飢饉のために極度の栄養失調に陥り、頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、顔や四肢が痩せ細り、腹部が腫れて死期が近づいていた。
 第1次世界大戦で、ロシア帝国は約1,600万人もの兵士を戦線に駆り出して、兵士と市民らが約1,600万人も死亡した。ロマノフ王朝は1917年2月に崩壊して、10月にレーニン政権が樹立した。1918年5月から1920年まで諸外国の14ケ国は約130,000人を参戦させて内戦となった干渉戦争が勃発した。ロシア西部の最大の穀倉地帯が戦場となり、強制的に農民は食糧などを徴収された。干渉戦争の前後で、播種耕地は約31%、家畜は約40%も減少した。内戦の終結時に、気温が上昇して降雨量が低下する干ばつの悪天候となり、穀物生産が激減した。大部分の市民は、食糧価格の高騰で購入が困難となった。ロシア全土にわたり飢饉の規模と程度が拡大して深刻化した。
 深刻な飢饉により、約2,800万人以上の市民が栄養失調となり飢餓に陥った。特に弱者である約700万人の14歳未満の子供と約539万人の乳幼児が飢餓に陥った。栄養失調による飢餓と伝染病で、死亡率は約16%にも達した。両親が捨てたり死亡して約100万人前後の孤児や浮浪化から餓死を招いた。頬が落ち込み、顎がせり出し、眼が濁り、死期が近づくと顔や四肢が腫れて、全身が浮腫んで死亡した。最悪の場合は、餓死した幼児の死体を、親族らが食べ合う人食いも横行した。