2018年4月30日月曜日

日本兵は支那兵捕虜を銃剣で突いて、胸部から出血して、銃弾で頭部を粉砕して眉間から脳髄が滴下した。

日中戦争の徐州作戦にて、日本軍は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域であった徐州を1938年5月18日に占領した。その後に河南省商丘市にて、捕虜にした武器を持たない炊事兵を虐殺した。まず銃剣で突かれ胸部から出血して(No.13)、銃弾で頭部を粉砕されて、眉間から脳髄が突出して滴下した(No.14)。日本軍による中国人捕虜を、豚のように遠慮なく虐殺することを、師団長は日本軍兵士に迫った。小林太郎上等兵が、1938年5月28日に支那兵が「一突き後(N0.13)」と「銃殺後(No.14)」と日誌に撮影記録して、戦後に密かに持ち帰り家族が公表した。その後の日誌には、10月8日、敗残兵2名を銃剣で刺殺した。11月20日、トーチカより引き出した16名の支那兵は頭部を切断して、13名の男性市民は銃殺したなど、無差別の虐殺を記録した。




2018年4月29日日曜日

アフガニスタンの10歳の男子も、ソ連の小型爆弾に被爆して、両手が破裂して両目も失明して両下肢に重度の火傷を受けた。

アフガラスタンの抵抗勢力に屈服したアミン政権が軍事支援を要請して、1979年12月にソ連のブレジネフ大統領はアフガニスタンに侵攻した。イスラム原理主義の革命が、ソ連にも波及するために侵攻をした。ソ連は、アミン政権を収拾勢力が無く、KGBが殺害して、新たな大統領を立て、ソ連の親政権を維持した。パキスタン経由でアメリカはパキスタンを経由して、ムジャーヒディーンを支援して、ソ連の侵攻に対して紛争をした。異教徒からの攻撃からイスラム共同体を守るイスラム戦士と民兵組織とソ連の双方が攻撃を過激化した。ソ連軍は苦戦を強いられ、駐留は長期化して犠牲者と財政支出も膨大となり、最終的にゴルバチョフ大統領はソ連軍の1989年2月に完全撤退をした。ソ連邦は2年後に崩壊した。ソ連は、地中に地雷を埋没した上に、玩具様の小型地雷や爆弾も地面に投下した。多くの子どもが、ソ連製の小型地雷や爆弾を拾って被爆した。10歳の男子も、1985年に小型爆弾で、両手が破裂して両目も失明して、両下肢に重度の火傷を受けた。病院にて切断された息子に両親が悲嘆に暮れた。



2018年4月28日土曜日

イギリス海兵隊は、アデン危機でクレイター地区を防御していたアラブ人兵士の10人を射殺した。

イギリスのアデン保護領と南アラビア連邦で1963年12月10日から1967年11月30日の戦闘によるアデン危機から、南イエメンがイギリスから独立した。エジプト及びソ連が、南イエメンの独立軍を支援した。1967年1月19日から20日、NLF(イエメン国民解放戦線)はアデン街頭で抵抗運動を仕掛けた。派遣された保護領のイギリス軍はNLFの抵抗運動を粉砕した。FLOSY(南イエメン解放戦線)がNLFに代わり、抵抗運動とイギリス軍の戦闘は2月まで続いた。1967年6月には第3次中東戦争が勃発して、アデン危機は更に悪化した。6月20日、エジプトに呼応した南アラビア連邦の警察官が、イギリス軍に反旗を翻した。蜂起はアデン武装警察にも広がり、22人のイギリス軍兵士を虐殺して、ヘリコプターを撃墜し、クレイターを獲得した。イギリス海兵隊が高所からアラブ人兵士を10人射殺した。アラブ人兵士は約400人でクレイターを防衛した。 NLFとFLOSY兵士は市街地で銃撃戦を始めたが、放火や強盗、殺人等も発生した。イギリス軍はクレイターの主要な出口を2つ封鎖した。11月下旬、度重なるNLFゲリラの攻撃により、イギリス軍はアデンから撤退して、NLFはイエメン人民民主共和国(南イエメン)を独立した。





2018年4月27日金曜日

日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば徴兵でき、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。

日本帝国の兵役法による召集令状で、膨大な日本国民の男子が徴兵されて、戦場に駆り出された。日本人兵隊は一銭五厘の郵送料で赤紙を送れば補充がきく、兵隊の命は一銭五厘の価値しかないと比喩された。実際は役場の職員が直接に赤紙を持って行くのが原則であった。第2次世界大戦では、召集令状により、実際に約2,500,000人の生命を、南方の洋上と諸島から北方の極寒の大陸で奪い去られた。帝国陸海軍の召集令状等の色から赤紙などと呼ばれた。陸軍省の大半の召集は赤色が使われて、当初は真赤だったが、戦時の物資不足による染料の節約で次第に地色が薄くなり、太平洋戦争ではピンクとなった。海軍省の召集も同じ色が使われたため、陸海両軍の令状を混合して赤紙と呼称された。1873年に陸軍省から発布された徴兵令が、日本国民の男子に兵役の義務を課すために全面改正して、兵役法が1927年4月1日に公布されて12月1日に施行された。兵役法はポツダム命令により、1945年11月17日に廃止された。




2018年4月26日木曜日

ヨルダン川西海岸地区のキリスト生誕地のベツレヘムで、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。

ヨルダン川西岸地区は、1948年5月14日のイスラエルの独立宣言から勃発した第一次中東戦争で、ヨルダンによって占領されて、1950年にはヨルダンは東エルサレムを含む地域を併合した。同地区は1967年までヨルダンの一部を構成していたが、1967年6月の第三次中東戦争でイスラエル軍によって占領された。ヨルダンは1994年に領有権を放棄して、現在はイスラエル軍とパレスチナ開放機構(PLO)の自治政府によって統治されている。ヨルダン川西岸地区は、国際連合からはイスラエル占領地として認められた。ヨルダン川西岸地区にはパレスチナ人やユダヤ人および他の少数民族グループが居住している。同地区の大多数を占めるパレスチナ人は、第一次中東戦争よりイスラエルからの難民あるいは直系の子孫である。キリストの生誕地であるベツレヘムを含む同地区で、1988年に占領軍のイスラエル人兵士が、パレスチナ人によって銃殺された。



2018年4月25日水曜日

日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦により、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。

太平洋戦争にて、フィリピンのルソン島のマニラ戦は1945年2月3日から3月3日の4週間も続き、最も悲惨な犠牲となった。日本軍のマニラ海軍防衛隊と残置陸軍部隊は、建物や民家を陣地化して徹底抗戦をはかった。アメリカ軍が完全に包囲するなか、マニラ地区では成人男性の大多数が日本軍により逮捕拘留され、銃剣や機銃掃射で殺戮され続けた。全地区にて婦女子が組織的に強姦された。アメリカ軍は、狙撃による兵員の損害を抑えるために重砲火の無差別砲撃で街区を次々と破壊した。民間市民被害者の6割を日本軍による殺戮、4割をアメリカ軍の重砲火による死亡と推定された。アメリカ軍記録では、日本軍はほぼ全滅(1万6665名の戦死)、アメリカ軍戦死は1010名であった。最大の犠牲者はマニラ市民で、食糧と水が欠乏する状態と無差別砲撃で民間人犠牲者の総数は約10万人にも達した。日本軍がマニラから完全にアメリカ軍に掃討されるまでアジアで最大の大規模な市街戦によって、マニラ市民は灰燼の犠牲者に帰した。



2018年4月24日火曜日

イランのイスラム法の裁判で、将官に対して死刑が執行され、死体が置き場に集積された。

アメリカに追従していたパフレヴィー朝が1979年1月のイラン革命で倒れた。シーア派ホメイニのイスラム原理主義のイラン=イスラム共和国が1972年2月に成立した。ファギーフ(イスラム法学者)による統治を掲げ、アメリカ文化を否定して厳格なイスラームの規範を復活させた。宗教色の強い、イスラム原理主義の政治が展開された。裁判ではシャリーア(イスラム法)が適用された。イランのテヘランの裁判により、1979年2月に最初の4人の将官に対して死刑が執行されて、死体が置き場に集積された。
 1979年11月14日にはイラン人学生らによるテヘランのアメリカ大使館占拠事件が起き、1981年1月20日まで占拠された。メジャーズ(国際石油資本)が撤退して、イランが石油国有化に踏み切り石油輸出を制限して、石油の国際価格が急上昇し、第2次石油危機をもたらした。


2018年4月23日月曜日

アメリカ軍曹の「死の日記」から、ベトコンの1人を殺害した死体は冷たく、濡れて、血まみれであった。

20歳のブルース・F・アネロ( Bruce F. Anello ) 3等軍曹は1968年5月31日にベトナムで殺害された。彼の日記は戦場で拾われ、ハノイに捕獲された。彼の日記は反戦運動家を介して米国に戻り、国民解放戦線(National Liberation Front)により、アメリカで「死の日記」が公表された。

1967年12月29日: 私たちは3日間戦闘に出ようとした。私たちは全面的に狙撃兵の射撃を受けた。私はベトコンの1人を殺し、もう一人を創傷した。死体は冷たく、濡れて、血まみれであった。上官がヘリコプターから現れても、「残念だが、天気が悪いので、どんなやつも乗せれない」彼は飛び去って私たちに新たな命令を残した。

2月12日: このベトナム戦争はおそらくニュースに合うでしょう。マスコミを満足させるために十分な人々が死んだ。ヘリコプターが身体を運ぶのを見ていると、嫌な思いです。しかし、私は北ベトナム人の精神に感心します。誰も精神を持っていないのでしょうか? 彼らには死の目的がある。それは彼らの国だから。私たちには何も得られません。我々はベトナムを望んでいない。だから何もないときに勝つことは何ですか?




2018年4月22日日曜日

ナチス親衛隊員が、ラトビアのリーガで、5人のユダヤ人女性と少女も服を脱いだ直後に撃ち殺されて穴に埋められた。

ドイツの支配地域からユダヤ人の排除は,第2次世界大戦の戦前から戦中を通じて,ナチス・ドイツの目標であった。ラトビアの首都リーガの南郊外区にゲットーの設置が1941年8月に決まり,ユダヤ人は10月25日から鉄条網で囲まれたゲットーの以外に住むことを禁止され,完全に外界から隔離されて消滅した。ヒトラーは,1941年9月に大ドイツ国家領域のユダヤ人を東方のリーガに移送した。収容できる施設はないため、11月30日と12月8日の2日間に,リーガのゲットーのユダヤ人をルンブラの森で殺害した。労働力として約250人のユダヤ人以外,残りの約2万780人のユダヤ人が殺害された。12月8日にユダヤ人がゲットーから引き出され,リーガから約10キロ離れた大きな穴に,全員男も女も子供もナチス親衛隊員により約2,700人が撃ち殺され埋められた。5人のユダヤ人の女性と少女は服を脱がされて、その直後に射殺された。




2018年4月21日土曜日

ドイツ軍によるレニングラードに対する包囲戦では、中心街の空襲や砲撃などで膨大なソビエト市民らの死体が道端に散乱した。

第2次世界大戦で、ナチス・ドイツは1941年6日22日にソビエトとの不可侵条約を破棄して、ドイツ軍は東部戦線でソビエトと戦闘が勃発した。ドイツ軍は、ソビエトの第2番目の都市であるレニングラード(旧名 サンクトペテルスブルグ)を、1941年9月8日から1944年1月18日までの872日間にわたり完全に包囲した。ドイツ軍によるレニングラードに対する包囲戦の緒戦では、1941年10月には中心街に対する空襲や砲撃の炸裂の被爆などで膨大なソビエト市民らの死体が道端に散乱した。市民の死体、死体、死体が市内の街路や雪だまりに放置された。ドイツ軍の包囲戦の期間には補給が途絶して厳しい生活環境や激烈な飢餓と砲撃や空襲などによって、人口約319万人のうち約67万人以上のソビエト市民が虐殺された。



2018年4月20日金曜日

太平洋戦争のガダルカナル島では、つるはしやスコップだけを背にしてアメリカ軍に惨殺された日本兵士の死体が散在した。

太平洋戦争にて、日本軍が侵略したガダルカナル島に、アメリカ軍は1941年8月7日から侵攻した。川口支隊は、飢餓状態に陥りながら、険しい山岳地帯を抜けるために、装備を捨てつるはしとスコップで侵攻した。ヘンダーソン飛行場の奪還を目指して、「ガス・アタック、ガス・アタック」と叫びながら、全兵士がアメリカ軍に突撃した。圧倒的なアメリカ軍の武力により、集中砲火と射撃を受けて壊滅した。つるはしやスコップだけを背にした惨殺された日本兵士の死体が散在した。日本軍の残存兵が、9月12日夜には第2次攻撃を加えるも血染めの嶺となり、約600人以上が戦死した。ガダルカナル島のジャングルでは、激しい雨季とマラリア、朝晩の寒暖と栄養失調で飢餓島となった。日本軍はアメリカ軍に圧倒的に撲滅されたが、大本営は国民に戦況の悪化を「転進」と情報捜査した。


2018年4月19日木曜日

第4次中東戦争で涙の谷にてシリア軍との戦闘で、イスラエル機甲師団は戦死した兵士の死体を、戦車から引き出して確保した。

第4次中東戦争が、エジプトとシリアが第3次中東戦争の失地回復のため、1973年10月6日にイスラエルに先制攻撃をかけて勃発した。イスラエルは贖罪日(ヨム・キプール)で、対抗が後手になった。エジプト軍はスエズ運河とシリア軍はゴラン高原から侵略した。イスラエル空軍と機甲師団は大打撃を受けた。イスラエル軍は10月9日から反撃をして、シリアとの北部戦線から集中的に侵略した。イスラエル軍は、シリア軍とモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を撃退して、ゴラン高原を再占領した。その涙の谷の戦闘で、イスラエル機甲師団は戦死した兵士の死体を、戦車から引き出して確保した。イスラエル軍はシナイ半島も10月15日からの反撃で、16日にはスエズ運河を逆渡河して西岸の一部を占領した。国際社会による調停で10月23日に停戦となった。10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助する非友好的な西側諸国に石油供給の段階的削減を決定して、原油価格が急騰して第一次オイルショックに至った。両国の平和認識に変化が生じて、エジプトとイスラエルは交渉して1978年9月のキャンプ・デービッド合意の平和に繋がった。





2018年4月18日水曜日

日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。

1917年11月にロシア革命が勃発して、第1次世界大戦の捕虜となったチェコ軍が、1918年5月に西シベリアを占領した。チェコ軍がソ連軍と戦闘となり、連合国がソ連にシベリアに出兵して、軍事干渉をした。ロシアの労働者や農民などの市民が、パルチザンとして闘争して、激烈な抵抗をした。日本軍は約70,000人も増員して、11月に強引に東シベリアにも侵略を企てた。日本軍兵士は、シベリア鉄道の列車の前で線路上で虐殺した多数のパルチザンの死体に対して銃を構えた。日本軍だけは、日本人の保護を名目に軍事占領を継続した。1920年5月の尼港事件で、パルチザン部隊がニコラエフスクにて約6,000人を無差別に大量虐殺をした。さらにパルチザンとの戦闘が激烈となり、連合国は1920年6月までにシベリアから撤兵した。日本軍だけ残留するも、約3,500人の戦死者を出して1922年10月になって撤兵した。



2018年4月17日火曜日

イギリス軍は、解放した強制収容所で死亡したユダヤ人の死体を、ナチス・ドイツ親衛隊の看守たちに手で運ばせて処理させた。

ベンゲル・ベンゼン(Bergen-Belsen)収容所は、第1次世界大戦中は戦争捕虜収容所であった。東部戦線のロシアやソ連兵士を収容して虐待と虐殺していた。1943年4年以降は、ナチス・ドイツにより強制収容所に改変された。当初はドイツ以外の国籍も持つユダヤ人を強制収容した。次第にユダヤ人の収容者が約50,000にも達して、食事の配給が欠乏して、栄養失調による衰弱と感染症で死亡した。「アンネの日記」のアンネ・フランクも絶命した。1945年4月15日になってイギリス軍により解放された。しかし、チフスの大流行により、6月20日までに約15,000人も感染死した。イギリス軍はユダヤ人の死体をナチス・ドイツ親衛隊の看守たちに手で運ばせ処理させていた。大量に積まれた死体、道端に転々と転がる死体、野原一面を埋め尽くす死体、疫病の蔓延を隔離するため、ブルドーザーで死体を投棄して、収容所を焼き払った。




2018年4月16日月曜日

第2次世界大戦のソ連軍の東部戦線にて、イタリア軍は膨大な戦死者の遺体を豪雪の中に遺棄と放置してドン河から撤退した。

第2次世界大戦にて、ソ連軍によるドン河流域における第3次攻撃を1943年1月から受けて、イタリア第8軍の山岳軍団はドン河流域から数日内に崩壊した。当初は10万人の兵力を擁していたイタリア第8軍は、約1か月間の戦闘で約8万5000人の将兵を戦死または行方不明として失った。東部戦線のドン河流域から離脱して、イタリア軍は戦死者の遺体を豪雪の中に遺棄と放置しながら撤退した。イタリアの補充兵など含めた約3万人が凍傷などで戦線から撤退した。豪雪により、ソ連軍の攻勢はさらに勢いづき、ソ連軍により包囲されたドイツ軍は重装備を放棄しながら西方に脱出した。ドイツ軍が1942年6月から占領したロシア南部地域の大部分を3月間にソ連軍の攻勢で失った。




2018年4月15日日曜日

日本人作業員が強制連行された朝鮮人を矢作村で襲撃して、死者3人を虐殺して重軽傷者22人を暴行した。

岩手県の矢作村で、1932年5月4日に日本人作業員が強制連行された朝鮮人作業員を襲撃して虐殺した矢作事件が勃発した。国鉄大船渡線の建設工事現場で、日本人が朝鮮人を襲撃して、死者3人を虐殺して重軽傷者22人を虐待した。不良な下請業者が不当な要求を次々と朝鮮人作業員に対して過酷な労働を強制した。過重労働に対して、朝鮮人作業員が土木業者に抗議行動を起こして、要望を受け入れさせた。工事に重大な支障をきたす日本人業者と日本人作業員らは日頃の朝鮮人に対する反感から、虐待と襲撃を共謀した。日本人の約100人が、朝鮮人作業員の飯場など6ヶ所を襲撃した。盛警察署が直ちに81人を検挙して、1933年1月に盛岡地方裁判所は53人に対して、わずか懲役2年以下の有罪判決をした。





2018年4月14日土曜日

南アフリカのアパルトヘイト反抗者が、裸で枷で尋問を受け、頭部を殴打され脳挫傷で虐殺された。

南アフリカのアパルトヘイトに対抗するために、スティープ・ピコは、1968年に南アフリカ学生機構(SASO)を結成した。1969年には、SASOの初代代議長に選出された。1972年にダーバンで黒人共同体プログラム(BCP)の活動して、名誉議長に任命された。BCP東ケープ支部の活動制限処分を受けたが、BCP東ケープ支部で社会運動した。1975年にテロリズム法により、有罪判決もなく101日間勾留された。さらに1977年8月18日に再び拘禁された。収容所では、裸で枷をはめられで尋問を受けた。9月12日の頭部を殴打されて、脳挫傷で虐殺された。妻と2人の子供を残して膨大な黒人市民らに葬儀された。全世界からアパルトヘイト不正に抗議が勃発した。1994年に南アフリカの大統領となるネルソン・マンデラ大は、南アフリカ全土で光輝いた野火と呼称した。




2018年4月13日金曜日

アメリカ軍の爆撃機が、砂嵐の強風でリビア砂漠上に不時着して、脱出途上の白骨の死体と墜落機が偶像化された。

第2次世界大戦中に、アメリカ軍は爆撃機にて、各都市部を無差別爆撃をした。リビアから離陸してイタリアのナポリに爆撃をしたB-24が、1943年4月4日に戦闘して帰還中にリビア砂漠上で消息不明となった。ナポリ港湾への連続爆撃するための9名の乗務員が搭乗した「善良なる貴婦人(Lady Be Good)」と呼称されていた。砂嵐の強風のために編成隊に合流できずに、単独の爆撃機となり、夜間飛行となり、燃料が切れてアフリカのリビア北岸のリビア砂漠上に不時着した。リビアのスルーク基地から探索されたが未発見となり、乗務員らは地中海方面にむけて灼熱の砂漠上から脱出を試みた。極限の疲労すと脱水により、全員が砂漠に埋もれて死亡した。1958年に偶然に現場の上空から墜落機かぜ発見されて、アメリカ軍は1962年から本格的に大規模な遺体の捜索をして8名の白骨が発見された。搭乗員を英雄化して、航空機をは名誉化するために、敵の対空砲火により墜落したと根拠もなく偶像化されて各地空軍博物館に展示されている。



2018年4月12日木曜日

オデッサで地域住民がユダヤ市民を破滅するポグロムによる死体を、生存者のユダヤ人を悲嘆しながら見守った。

ロシア帝国の市民らが、ウクライナ地方のオデッサにて、1821年にユダヤ住民に対して破滅的な暴力や虐待をする「ポグロム」と呼称される暴動をした。それ以後にロシア南部の広範囲にわたり、ユダヤ人に対してポログムが執行された。宗教的反ユダヤ主義を許容して強化するために、地元の役所や警察署や軍隊までもが、ユダヤ市民に対するポログムをロシア市民に奨励して誘導した。1905年にはオデッサで市民によるユダヤ市民に対するポログムが再発して勃発した。多数のユダヤ人が虐殺されたユダヤ人の死体を、生き延びたユダヤ人が集積して呆然と悲嘆しながら見守った。ロシアの内戦や革命中にもポログムが全域に拡大した。1938年11月9日にはドイツ各地までポログムが波及した水晶の夜が暴発して、先導したナチス・ドイツによる組織的な大量虐殺するホロコーストに繋がった。



2018年4月11日水曜日

太平洋戦争のテニアン島では、約81,00人の日本軍兵士が戦死して絶滅して、日本は敗戦期に突入した。

第2次世界大戦における太平洋戦争の戦死者数は、約1,751,400名にも達したと推定される。民間市民の戦死者数は、海外日系市民は約30万人、日本国内の市民は約50万人と良さうされた。その過半数は、1944年6月以降のマリアナ沖と諸島の陥落して、ずるずると敗北に向けた抗戦期に死亡した。アメリカ軍も、太平洋戦争の日本軍の敗戦期に全死傷者数の約100,000人のうち53%を占めた。その過半数に、補給が途絶して、食糧難から栄養失調による餓死が主な死因となった。マリアナ諸島では、1944年7月24日から8月2日にかけて、テニアン島で約81,00人の日本軍が戦死して絶滅した。8月2日に、最後に残存した日本軍と市民兵士が、無謀な突撃をして、アメリカ軍の猛烈な砲火で全滅した。1945年8月6日の広島原子爆弾と1945年8月9日の長崎原子爆弾を投下したB-29爆撃機がテニアン島から発着した。



2018年4月10日火曜日

私服のセルビア人警察官が、ムスリム人に狙撃兵の容疑をかけ、背後から頭部に発砲により銃殺で虐殺しようとした。

ユーゴスラビア紛争が1991年6月から勃発して、ユーゴスラビア連邦が分裂した。1991年8月にはクロアチアが独立宣言をした。1992年3月にはボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言して、その人口約430万人の構成は、ムスリム人が44%、セルビア人が33%とクロアチア人が17%と多民族が混在した。ムスリム人とクロアチア人は分離独立を訴えて、セルビア人が対抗して反対して内戦となり、1992年から1995年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。各民族が権力の勢力の拡大のために異民族を排除して、単一民族にする民族浄化を強要した。ボスニア・ヘルチェゴビナにて、私服のセルビア人警察官が、ムスリム人に狙撃兵の容疑をかけて、背後から拳銃で頭部に向けて発砲して銃殺で虐殺しようとした。スプレニザでは1995年7月にセルビア人勢力が、約8,000名のムスリム人の民族や人種を消滅させる大量虐殺のジェノサイドが執行された。





2018年4月9日月曜日

第1次世界大戦で、タンネンベルグの平原には、ドイツ軍に虐殺された膨大なロシア兵士の死体が散乱して埋め尽くした。

第1次世界大戦の緒戦にて、東プロイセン内のにてドイツ帝国軍とロシア帝国軍の東部戦線が1914年8月17日から勃発した。ヒンデンブルグ将軍が率いたドイツ軍の第8軍団は、ロシア軍の第1軍団と第2軍軍団をタンネンベルグにて撃破した。 8月30日にドイツ軍に包囲されたロシア第2軍団は、戦死者と行方不明を合わせて約30,000人、捕虜が約92,000人もの膨大な犠牲となり、わずか約10,000人のみが生存した。タンネンベルグの平原地帯には、ドイツ軍に虐殺された膨大なロシア兵士の死体が散乱して埋め尽くした。「タンネンベルグ村近くで勝利」と打電して、ヒンデンブルグ将軍は最大の名誉を賞賛され英雄化された。第1次世界大戦に敗北したドイツ帝国は、1918年11月11日に敗北を受諾した。ワイマール共和国が1919年7月31日に成立して、ヒンデンブルグはタネンベルグの勝利で英雄化され1925年5月12日に大統領に就任した。アドルフ・ヒトラーを1935年7月31日に首相に指名してナチスに政権を譲渡した。



2018年4月9日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 600回

2018年4月8日日曜日

南北戦争のアンティタームは、アメリカ合衆国の歴史で1日の戦闘で最大数の死者を出した戦場となった。

アメリカ合衆国の南北戦争にて、1864年9月17日にメリーランド州のアンティタームの戦いが、犠牲者が最も悲惨で最大となった。アンティタームは、アメリカ合衆国の歴史で1日の戦闘において最大数の死者を出した戦場となった。アンティータムの戦場で、北軍は約50,000人のうち死傷者12,401人のうち戦死2,108人、南軍36,000人のうち死傷者が10,316人のうち戦死1,546人にも達した。早朝の地獄のような砲撃を受けた南軍スタークのルイジアナ旅団の兵士が犠牲者となった。ダンカー教会の北方の台地にあるヘイガータウン・ターンパイクに多数の横倒しの死体が散在した。多大な戦力を失った南軍は、9月18日夕刻から、夜陰に紛れて後退して、ポトマック川を渡って、バージニア州へ撤退した。南軍の北部侵略を阻止した5日後に、北部連邦のエブラハム・リンカーン大統領は9月22日に奴隷解放を宣言した。



日本平和の市民連盟は2018年4月8日にBloggerの投稿数は600回に達した。

2018年4月7日土曜日

オウム真理教の新興宗教集団が、東京の地下鉄にて同時に多発に猛毒な毒ガスによる無差別な殺戮をした。

日本にて、麻原彰晃を開祖とするオウム真理教の新興宗教集団が、1995年3月20日午前8時頃に東京の営団地下鉄にて同時に多発にサリンの毒ガスにより無差別の市民を殺戮した。地下鉄サリン事件は、猛毒のサリンを地下鉄社内に散布して、13名の市民が死亡した。多くの被害者の市民は、路上に仰向けに寝かされたまま、呼吸困難な状態から危篤に陥った。教団は、1990年頃から生物科学兵器を準備して、細菌から放射性物質や科学物質の生物実験を展開していた。社会と軋轢が増し、布施と過激化が図られ、、教団内部に信者同士の監視、密告、締め付けも強くなった。過激化した教団は猛毒のサリンを、1989年11月4日の弁護士一家殺害事件や1994年6月27日に松本サリン事件などにも使用された。1995年3月22日に、山梨県上一色村の教団本部に強制捜査により、教団の開祖と幹部の信者らが次々と逮捕されて、殺人犯として死刑や重罪が宣告された。



2018年4月6日金曜日

NATO軍の空爆などで多くのセルビア系市民の生活圏が崩壊して、犠牲者に対する長く悲惨な葬儀が行進した。

米軍を主力とする北大西洋条約機構(NATO)軍は、1999年からユーゴラビア自治州であったコソボ紛争に介入した。ユーゴスラビア政府があった首都ベオグラードを集中的に空爆した。空爆などにより多くのセルビア系市民の生活圏が悲惨にも崩壊した。多くの市民の犠牲者に対して長く悲惨な葬儀が行進した。国連は1995年にユーゴスラビアで、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認した。セルビア共和国が各地のセルビア人難民を強制的にコソボ自治州へ移民させた。そこで多数を占めたアルバニア系住民たちも残虐な虐待された。2006年にはモンテネグロが独立して、セルビア共和国は単一国家となり、ついにユーゴスラビア連邦は消滅した。

 

2018年4月5日木曜日

北アイルランドで、血の日曜日事件が勃発して、デモ行進中の市民14名がイギリス陸軍落下傘連隊に無差別に銃殺された。

北アイルランドにて、1972年1月30日に血の日曜日事件(Bloody Sunday)が勃発した。北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された。北アイルランド市民14名が死亡して、13名が負傷した。事件のあった地区の名から、ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)とも呼ばれた。長年にわたるイギリスからの弾圧から、北アイルランド共和軍(IRA)は1969年から暫定派が分裂して、北アイルランドのイギリス統治からの独立紛争をした。イギリス軍が無実の非武装の市民を殺傷して、北アイルランド史における悲惨な虐殺な事件となった。1997年にはIRAの暫定派から真のIRAが分離して、北アイルランドにて車爆弾を用いた無差別テロを繰り返した。



2018年4月4日水曜日

フィリピンのネグロス島スマッグの内戦で、多くの国内難民の児童が飢餓で死亡した。

フィリピンの4番目に大きなビサヤ地方のネグロス島は、スペインによる植民地化以来、約6割も占める砂糖農園だけに依存する経済が200年以上も続いた。1980年代前半、砂糖の国際価格が暴落して、ネグロス島では深刻な困窮から飢餓が発生した。農園地主が砂糖価格が上昇するまで砂糖キビ生産を中止して、農民の仕事がなく食料も買えず、約15万人以上もの子どもが飢餓になった。農村部には新人民軍(NPA)が結成されて、ネグロス島では1986年2月からのアキノ政権の国軍とネグロス島では、反政府勢力NPAと全面内戦が1988年から勃発した。山間部の農民たちは国軍の軍事化によって強制退去となり、国内難民が続出した。ネグロス島スマッグの国内難民の児童が飢餓となり、麻疹と気管支炎にて1989年12月24日に死亡していた。



2018年4月3日火曜日

フジモリ大統領は、ペルー日本大使公邸内で銃殺されたMRTAのテロリーダーらの死体をらせん階段から見下した。

ペルーのリマで1996年12月7日に日本大使公邸のパーティを左翼ゲリラであったトゥパク・アマル革命運動(MRTA) が襲撃した。約700人以上もの参加者と大使館関係者を人質に占拠した。 MRTAは獄中の仲間の釈放,戦争税 (身代金) などを要求しながら、人質の大部分は釈放した。最終的には日本大使職員,ペルー政府高官,日本企業駐在員など 72人を抑留した。ペルー政府は、MRTAの武装グループの海外亡命の予備的交渉を開始した。日本政府は事件直後の1997年2月1日に橋本龍太郎首相はアルベルト・フジモリ大統領とトロントで会談して武力行使の自制を求めた。占拠事件は長期化し,交渉対も決裂した。特殊部隊140人が4月22日に公邸に突入を決行して,MRTAの 14人全員を銃殺して、その他に人質1人と特殊部隊員2人が死亡した。翌日4月23日にフジモリ大統領は、公邸内のらせん階段で銃殺されたMRTAリーダーのネストロ・セルパとテロリストメンバーらの死体を見下した。

 

2018年4月2日月曜日

ペール・ラシェーズ墓地でコミューン市民らは全滅して、変わり果てた悲惨な市民の死体が、墓地の埋葬前に集積された。

普仏戦争は1870年9月のスダンで皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、プロイセンは1871年1月にヴェルサイユからドイツ帝国軍として3月1日パリに入城した。国民軍の武装解除に激高したパリ市民が3月18日に蜂起した。臨時政府はパリを放棄してヴェルサイユに逃走した。パリ市庁舎前に3月27日に約20万の市民が集まり、コミューン政権を樹立した。その政権には、急進派や無政府主義派、共産主義派が混在した。パリ以外の都市や農村部の保守ままでパリは孤立した。ヴェルサイユ臨時政府軍はパリを4月2日から攻撃して、激しい市街戦から5月21日突入した。パリ市街に火を放ち抵抗するも、ペール=ラシェーズ墓地に追いつめられたコミューン市民らは5月28日に全滅した。変わり果てた悲惨な市民の多数の死体が、墓地の埋葬前に集積された。コミューン市民には弾圧が続き、約4万人が逮捕されて約270名が死刑となり、その他は強制労働、禁固、流刑で虐待された。



2018年4月1日日曜日

満州に南下したロシア軍は、中国人の捕虜を虐待して、身体の傷口から異臭すると、頸を切断して虐殺して見せしめにした。

ロシア帝国は、1891年からシベリアから満州への鉄道を敷設を開始した。義和団と清国軍が、1900年3月から反抗して鉄道の敷設を妨害した。それらを防御するためにロシア軍とコサック軍が南下し、6月に衝突して武力に劣る数百人の中国人を虐殺した。8月に黒竜江を渡ると、切り裂かれたロシア軍の捕虜を発掘して、周辺の地域を延焼した。中国人らは、満州北部に避難して、9月には南部の中国人軍は敗北して粉砕された。ロシア軍は、収容した中国人の捕虜を虐待して、身体の傷口から異臭して来ると、頸を切断して虐殺した。中国人の頭部を壁に貼り付けて見せしめにした。切り裂かれた身体からは、蝿がたかり、腐敗した。