2025年8月13日水曜日

太平洋戦争にて1945年6月5日にアメリカ軍の350機の爆撃機B29が神戸市の西宮と垂水の間の空襲により、山手通り市電の敷石上に多数の死体が散乱した。

太平洋戦争にて1945年6月5日にアメリカ軍の350機の爆撃機B29が神戸市の西宮と垂水の間を空襲した。兵庫県警本部から撮影して神戸市の山手通り市電の敷石上に多数の死体が散乱した。空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。神戸大空襲の殺害と被害は甚大で、1945年3月17日、5月11日、6月5日と3回にわたる大空襲で、10数万の焼夷弾が投下されて神戸市内の主な市街は焼き尽くされた。

 神戸の市街地や軍事目標に対する攻撃をアメリカ陸軍航空隊のB-29部隊が行った1945年6月5日の空襲は神戸大空襲と呼称された。神戸は6月5日に攻撃対象となり大きな被害を受けた。神戸大空襲により、の神戸市域に、死者7,524人、負傷者1万6,948人、戦災家屋数14万2,586戸、罹災者53万1,694人の大惨禍を受けた。

 1944年11月1日から、爆撃機B-29がマリアナ基地(サイパン島、グアム島、テニアン島)から日本本土の上空に飛来し、戦略爆撃による本土空襲が本格化した。1945年3月中旬から8月15日まで、アメリカ軍B-29により都市工業地域に対する夜間および昼間の焼夷弾攻撃が執行された。大都市人口密集地域への焼夷弾爆撃(1945年3月中旬から8月15日まで)にて、人口密度の高い地域への焼夷弾投下による住宅の焼尽、無差別空襲で民間市民の都市住民を殺傷した。東京・横浜・名古屋・大阪・神戸への大量焼夷弾による爆撃をした。6月以降は中小都市にも対象が拡大した。広島、長崎の原爆投下も含め、全国の113自治体がアメリカ軍の空襲により殺害と被害を受けた。






2025年8月11日月曜日

パレスチナのカン・ユーニスのナセル医療施設で、27歳のアデル・マディが2025年7月31日に、深刻な飢餓と栄養失調、医薬品と治療の欠如で死亡した。

パレスチナのカン・ユーニスのナセル医療施設で、27歳のアデル・マディが2025年7月31日に、深刻な飢餓と栄養失調、医薬品と治療の欠如で死亡した。ガザ地区では、飢餓と栄養失調による死者は、2023年10月7日以降に89人の子供と幼児を含む154人に達した。イスラエルは3月2日以降から、ガザ地区の飛び地への援助を遮断し続けている。

 統合食料安全保障段階分類(IPC)が7月29日にガザの最悪の飢饉を警告した。ガザ地区の大部分では食糧消費量から飢饉と急性栄養失調に達した。4月から7月中旬までの間に、2万人以上の子どもが急性栄養失調で入院して、3,000人以上が重度の栄養失調にある。病院では栄養失調は7月前半に急増して、5歳未満の飢餓死が急増し、7月17日以降に少なくとも16人の死亡した。9月末までに全人口が高水準の急性食糧不安に見舞われ、46万9500人が壊滅的に陥る可能性が高い。

 100を超える人道支援団体が近日に、イスラエルが4カ月以上の援助物資の入国を阻止し続けて大量の飢餓がガザ全域に広がると警告した。世界保健機関(WHO)は、ガザ市はガザ地区で栄養失調の最悪の被害を受けた地域で、5歳未満の子どもの5人に1人近くが急性栄養失調に陥っている。世界食糧計画(WFP)は、ガザでは壊滅的な飢餓を警告した。ガザ地区当局は、ガザ地区の110万人のうち、5歳未満の65万人以上の子どもたちが、今後数週間に、急性栄養失調の深刻なリスクに直面する。ガザでは約125万人が壊滅的な飢餓状態で、人口の96%が深刻な食糧難である。

 イスラエルとアメリカのガザ人道財団(GHF)は、援助をガザ南部と中央部に限定した援助しか提供しない。GHFの援助場所では傭兵により大量殺戮が発生した。イスラエルは飢餓のパレスチナ人を妨害して、援助物資はわずかなトラックのみである。20世紀のエチオピアやナイジェリアのビアフラで起きた飢饉を彷彿とさせた。




















Warning: Another Palestinian Dies of Starvation Amid Israeli-Made Famine in Gaza (Quds News Network)

2025年8月10日日曜日

ウクライナ軍とロシア軍の両軍は、2025年6月17日に死体を本国に帰還させるための困難な任務で、双方で最大規模の6000体の戦死した兵士の死体の交換を行った。

2025年6月10日にドネツクで、ウクライナ軍の遺体発掘団体がロシア軍兵士の死体を検死した。両軍で死亡した兵士を死体を本国に帰還させるための困難な任務で、戦死した兵士の最大規模の交換を行う。ウクライナ軍部隊は、死体を避難させるの約20%の地上ドローンに頼っている。無人機は遠隔操作で、前線の最先端陣地まで運搬して、死亡と負傷した兵士を乗せて後方に戻る。

 ウクライナのドネツク州の丘の上に7人のロシア兵が横たわった。3人は黒焦げで、4人は腐敗した。頭蓋骨の空洞からはウジが這い出し、ハエが完全に体を覆った。腐敗臭に圧倒される。死臭とは腐敗した生物の臭いである。最悪なのは、防衛陣地で倒れた仲間から死臭が漂ってきて、何日も避難できない状態で生活することだ。日が暮れ始め、ドローンの飛行条件が悪い日に、倒れた仲間の死体を回収する。ロシア軍は前線で侵攻して、戦死したウクライナ軍兵士の死体を手に入れやすい。

 2025年6月17日に、ウクライナとロシアはイスタンブールでの直近の二国間会議で、双方の6000体の遺体の交換をした。過去2年間、両軍間の遺体交換は月に2回程度行われた。国防省のデータでは、2024年5月の時点で、ロシア軍からは公表はないが、ウクライナ軍は8000人以上のウクライナ軍兵士の遺体を回収した。遺体収集チームは、死体の灰に脊椎の断片からDNAを抽出した。別の遺体には、遺族が身元を確認するネックレスがあった。両陣営の何万という家族が、戦闘で失われた親族の運命を知らずにいる。











Warning: Experts from the Ukrainian body exhumation group Platsdarm analyze dead Russian soldiers, June 10 in Donetsk.

Cristian Segura

2025年8月9日土曜日

日中戦争の1944年9月に中国のビルマ国境地帯の壕には、朝鮮人従軍慰安婦の女性の死体で埋っていた。そのほとんど朝鮮人女性だったと記録にある。

日中戦争の1944年9月に中国のビルマ国境地帯の壕には、朝鮮人従軍慰安婦の女性の死体で埋っていた。そのほとんど朝鮮人女性だったと記録にある。

 日中戦争に朝鮮人男性だけではなく女性も動員された。朝鮮総督府は1938年から各種土木工事や従軍看護婦に女性を動員した。そして、戦争の敗色が濃くなり、労働者が不足してくると、「女子挺身隊」を結成して、朝鮮内の軍需工場などに動員した。「日本の内地」にまで連行してきて働かせた例もある。12歳から16歳くらいの少女が、朝鮮から名古屋の三菱重工工場や富山県の不二越工場に動員された。

 「労務協会」あるいは「労務報国会」の役人や警察が、有無をいわさず連行したり、日本軍と結んだ業者や募集人が「軍隊で掃除・洗濯をしてくれれば高い給料を払う」などとだまし 連れだしたりして10万人以上もの従軍慰安婦にしたと推定される。彼女たちは沖縄・中国・東南アジア・南洋群島に送りこまれた。敗退にさいして日本軍が虐殺した例もある。

 1992年、日本の歴史学者である吉見義明氏が、日本帝国陸軍が従軍慰安所の設置・運営に関与した証拠書類を発見した。宮沢首相は韓国国民に公式に謝罪し、2つの正式な調査を開始した。1993年、河野洋平官房長官は声明を発表し、日本軍が「慰安所」の設置・管理に直接的・間接的に関与を認め、さらに多くの場合、女性たちは本人の意思に反して集められたことを認めた。さらに戦後50年の1995年8月村山内閣の談話、戦後60年の2005年の小泉内閣の談話、2015の年の安倍内閣の談話にて、先の大戦の行為に「痛切な反省」と「心からのおわびの気持ち」を表明した。今年は前後80年を迎える2025年の石破内閣の談話が注目されている。




2025年8月8日金曜日

リベリアの浜辺に一斉射撃の音が響きわたり、兵士たちは前に進み、自動小銃が空になるまで銃弾を死体に撃ちこんで、群衆の歓声が上がった。

アフリカのリベリアの砂浜に、電柱ほどの太さの杭が、砂浜に突き立てられていた。トルバート政権の閣僚13人が街中を引き回された後、9人が杭に結わえた。近くには武装した兵士たちが、 兵士らが所定の位置につれて、一斉射撃をした。自動小銃が空になるまで銃弾を死体に撃ちこんだ。群衆の歓喜の声があがった。トルバート政権の閣僚13人がを引き回された。銃殺隊の背後では、見物人がほとんどお祭り騒ぎだった。

 リベリアは、アメリカとの南北戦争の前に解放されたアメリカの黒人奴隷たちが航海の末にリベリアにたどりついた。黒人入植者たちはやがて支配階級を形成し、古くの人々を支配した。1980年4月12日の夜更けに、サミュエル・ドウ上級曹長らが大統領官邸の敷地内にに侵入して、ウィリアム・トルバート大統領をクーデターで射殺した。ドウと同様、抑圧された階級出身の他の軍人たちも反政府勢力を支持して蜂起した。劇的な政府転覆から約10日後にドウが初めて開く記者会見で、浜辺で処刑を発表された。 

 トルバート政権の閣僚たちは誰も何も言わず、もがく者もいなく、ただ黙って一斉射撃を受けた。その合図てせ、突然、群衆が歓喜の声をあげた。残りの4人の大臣たちが杭のところへ連れて行かれ、杭に結わえつけられた。 再び浜辺に一斉射撃の音が響きわたり、またしても群衆の歓喜の声があがった。兵士たちは前に進み、自動小銃が空になるまで銃弾を死体に撃ちこんだ。その10年後、ドウ上級曹長もまた銃殺隊の銃弾に倒れた。

(1981年 [ニュース速報部門]ヒューリッツァー賞: 浜辺での処刑:撮影 ラリー・プライス (フォート・ワース・スター=テレグラム紙)














Warning: 1981 [Breaking News Category] Pulitzer Prize: Execution on the Beach: Photographed by Larry C.Price (Fort Worth Star-Telegram from Liberia)

2025年8月7日木曜日

第一次世界大戦の1917年10月1日に、フランスのヴェルダンで、フランス軍兵士が戦死した戦友の遺体を回収した。1916年のドイツ軍の敗北も、戦いの終結にならなった。

1917年10月1日、フランスのヴェルダンで、フランス軍兵士が戦死した戦友の遺体を回収した。1916年のヴェルダンの戦いでドイツ軍の敗北も、ヴェルダン地区の戦闘の終わりを告げなかった。1917年1月から8月には、ヴェルダンの方面は比較的静かな状態が続いくも、ヴェルダンの戦争にはまだ2年にわたり戦闘が続いた。

 1916年8月からフランス軍がヴェルダンで大規模な反攻を開始して、ティアモン堡塁と農場、ドゥーモン砦、その他いくつかの重要拠点を占領した。1916年9月2日に、ドイツ軍将軍のヒンデンブルクは、ヴェルダンでのすべての攻撃作戦の中止を命じる。10月19日に、フランスの砲兵隊がヴェルダンのドイツ軍陣地への大規模な砲撃を開始した。10月24日に、フランスの大規模な攻勢が始まり、初日に3km前進し、ドゥーモン砦を奪回する。11月2日に、フランス軍がヴォー砦を奪還した。12月15日に、ヴェルダンでのフランス軍の新たな攻勢により、ドイツ軍は1916年2月から勃発したボワ・ド・ショームの陣地までほぼ後退して、ドイツ軍はヴェルダンで獲得した領土をほぼすべて失った。

 1916年のヴェルダンでのドイツ軍の敗北は、ヴェルダン地区での戦闘の終わりを告げなかった。戦争にはまだ2年の苦悩が待ち受けて、ヴェルダンはさらなる苦しみを免れなかった。1917年1月から8月に、ヴェルダンの方面は比較的静かな状態が続いた。1917年8月20日に、フランス軍は8個師団を投入して再び大攻勢に転じ、レグネヴィル、サモジュー、ヒル304など、1916年2月からドイツ軍のほぼすべての拠点を奪還した。最終決戦は1918年9月26日、フランス軍は、1917年4月6日にドイツに宣戦布告したアメリカ軍の支援を受けた。戦いは戦争末期まで続き、フランス軍は休戦の5日前、11月6日にセダンを占領した。11月11日に終結して、ヴェルダン地域はようやく平和を享受した。






2025年8月6日水曜日

太平洋戦争のビルマ戦線には、1944年7月にミッチーナー北部にて、連合軍兵士が撃ち殺して殺害した日本軍兵士の死体の側でタバコを吸った。タバコを吸いながら得意げな顔で、撮影者にポーズを見せた。

太平洋戦争のビルマ戦線には、1944年7月にミッチーナー北部にて、連合軍兵士が撃ち殺して殺害した日本軍兵士の死体の側でタバコを吸った。タバコを吸いながら得意げな顔で、撮影者にポーズを見せた。

 1944年のビルマ戦線にて、日本軍のビルマからインドのインパール攻略が発動された。背後の北ビルマには連合軍の空挺部隊が侵攻した。圧倒的な物量の連合軍に対して、日本軍側は、軽装備であった。3月8日に、補給や増援もなく、日本軍は、インパール攻略を開始した。日本軍がひと足先にチンドウィン河を渡った。チン山地の英印軍を撃破し、南からインパールを目指した。日本軍の両師団がチンドウィン河を渡るのは、3月15日である。

 強力な連合軍空挺部隊は、北ビルマのミートキーナ(ミッチーナ)とマンダレーの中間あたりの地カータに降下した。3月6日にも大型輸送機とグライダーで兵員、多数の砲、武器弾薬、燃料、機材、糧食が運ばれ、3月7日には早くも滑走路が出現した。

 連合軍の空挺部隊に危機感を抱いた日本軍将校が軍司令官に延期を具申するも、一蹴した。 インパールへの進撃は、作戦開始当初は、日本軍は順調に進撃を続けた。連合軍側の鉄壁の防衛体制を敷いたインパールへ日本軍を誘い込んだ。当初はゲリラ戦により日本軍の守備隊側が優勢であったが、連合軍側との物量差に加え、増援部隊の派遣がままならなり次第に窮地に陥り、8月3日に最終的に制圧された。日本軍の戦死者790人とアメリカ軍の戦死者207人を伴った。




2025年8月5日火曜日

1934年3月1日から成立した満州国を支配した日本軍の関東軍により、多数の中国人の匪賊が処刑された。殺害された多数の匪賊の死体が満州の荒野に散乱した。

1934年3月1日から成立した満州国を支配した日本軍の関東軍により、多数の中国人の匪賊が処刑された。殺害された多数の匪賊の死体が満州の荒野に散乱した。

 匪賊(ひぞく)とは、集団により略奪や暴行などの犯罪行為を行う盗賊である。特に日本では、近代中国における非正規の武装集団を意味することが多い。「匪」という漢字には「人でなし」や「悪党」などの意味が含まれている。匪賊は多くの場合、一般的に公権力が及びにくい農村や辺境の山岳地域などで活動して、経済的に破産した農民や没落した地主・知識人、敗残兵などが集まった集団である。

 歴史的には、19世紀以降の中国では中央の統治力が不十分なため、地方でさまざまな武装集団が現れ、その中で反体制的、反社会的な集団が匪賊と呼ばれた。匪賊は数十人から千人規模の集団で農村を襲い略奪を行った。政府軍として再編されて軍閥となった者もいる。匪賊は単なる盗賊ではなく、社会的・歴史的背景を持つ非正規の武装集団として位置付けられた。

 満洲国は、満洲事変により日本軍の関東軍が占領した満洲(現在の中国東北3省遼寧省、吉林省、黒竜江省)、内蒙古、熱河省を領土として、1932年9月15日の日満州議定書により成立した国家である。一般に日本の傀儡国家と見做されている。首都は新京(旧長春)で、日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとした。清朝の廃帝愛新覚羅溥儀を執政に迎えて、1934年3月1日から溥儀を皇帝とした帝制へ移行して、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官の元で日本人が掌握した。




2025年8月4日月曜日

2024年7月19日に、ウクライナの南部のミコライフ市でロシア軍のミサイルが運動場に爆発して、子供1人と高齢の大人2人の3人が死亡して、14人が負傷した。

 2024年7月19日に、ウクライナ南部のミコライフ市でロシア軍のミサイルが運動場に爆発して、3人が死亡して、14人が負傷した。ウクライナ南部の都市ミコライフにある子供の遊び場では、ロシア軍のミサイルが命中して、子供1人と高齢の大人2人が死亡し、5人が負傷した。空襲警報が作動した後に、ミサイルが爆発した。

 ウクライナ当局は、地面に横たわる2つの死体を映した現場の画像を投稿した。一つの死体はひどく切り刻まれた子供の死体で、血と埃と瓦礫にまみれた。一つの死体は建物の入口の瓦礫の下に横たわった。もう一つの死体は住宅近くの森林地帯に横たわった。その写真には、担架で運ばれる一人の人間と、吹き飛んだ住宅の窓も写っていた。傍らにはロシア軍のミサイルの一部が横たわった。ミコライフ市などウクライナ南部地域は、定期的にロシア軍の攻撃を受けている。ミコライフ市は、ケルソン州の前線から約60km北西に位置した。

 7月19日未明には、ドニエプル川対岸からのロシア軍の砲撃により、ウクライナのケルソン地方にあるビロゼルカの集落で高齢の女性が死亡した。北東部ハリコフ州のチュフイエフの町へのロシア軍の空爆により、少なくとも7人が負傷した。ロシア国防省は、西部のクルスク地方とベルゴロド地方、占領しているクリミアの上空で、19機のウクライナ軍の無人機を撃墜したと発表した。ロシア当局は、ウクライナへの侵攻にて民間人や民間インフラを標的にしたことを否定している。












Warning: The body of a local resident killed in a Russian missile strike lies covered on a playground at an apartment building damaged during a Russian missile strike on Mykolaiv on July 19. Three people were killed, including a child. (Reuter)

2025年8月3日日曜日

日中戦争が勃発した1937年に、大阪朝日新聞社の現地特派員であった岡部さんの死体がリヤカーに乗せらていた。日本軍の写真の検閲では「不許可」とされた。

日中戦争が勃発した1937年に、大阪朝日新聞社の現地特派員であった岡部さんの死体がリヤカーに乗せられていた。「大朝 岡部君の死骸」とメモがあった。日本軍兵士の死体ではなく、従軍していた特派員の新聞記者の死体写真であった。その死体はリヤカーの上に死体が横たわっていた。タオルうつ伏せの頭部にかぶせていた。車輪の陰にもなって、死体の全体像は見えない。同じ従軍記者が、悼む角度から撮影した写真である。メモがなければ、リヤカーの上であたかも昼寝していると思わせる写真である。日本軍の写真の検閲では「不許可」とされた。

  大本営報道部に検閲係がある。言論統制に加担して、功をきそった。検閲には、決った担当者がいなかった。写真は内容に合わせて陸軍省海軍省(大本営検閲部)や内閣情報局へと持参する。情報局の検閲をパスして発表されても、陸軍報道部からクレームをつけられた。

 不許可事項の14番目に当たる。 兵士の「死骸」が転がっている写真は、日本軍兵士や中国軍り敵兵問わず、100%不許可である。戦場の死者の死体を撮った写真は、戦意喪失、厭戦反戦気分を煽るものとして「不許可」となった。死体写真は、論外の「不許可」となるのは、綺麗な戦争というものはないからである。「不許可」にして、死体なきが如く綺麗事に見せるのが、戦争宣伝である。死者の姿を撮った写真は、戦意喪失、厭戦反戦気分を煽るものとして「不許可」となった。

 「但シ支那兵又ハ支那人ノ惨虐性ニ関スル記事ハ差支ナシ」から、日本軍の兵士の死体をほとんど撮らない、中国軍の敵兵の写真は、不許可を覚悟で、かなり多く撮影した。時代の空気がかわらなければ(反戦思想やエログロナンセンスの流行)、陽の目を見ることはない。アメリカ軍の従軍カメラマンは、敵味方なく戦死体を撮影する。発表の実態は不明だが、戦死体も、時に戦意昂揚に役立つと考えた。死体写真は、カメラを握るものも、その倫理を問われた。一切の批判を引き受けるだけの覚悟が必要である。




2025年8月2日土曜日

1943年6月30日にアメリカ軍がレンドバ島に午前7時頃に上陸してから、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵士の死体が担架上に乗せられて、顔をヘルメットで隠されて横たわった。

太平洋戦争にて、1943年6月30日にアメリカ軍がレンドバ島に午前7時頃に上陸してから、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵士の死体が担架上に乗せられて、顔をヘルメットで隠されて横たわった。レンドバ島は、太平洋のソロモン諸島の西部、パプアニューギニアの東に位置した。

 レンドバ島は、日本軍兵士の290人によって防衛された。1943年6月30日未明に、アメリカ軍は、レンダバ島に上陸した。海岸から90m内陸に防衛線を張って不意をつかれた日本軍守備隊は約4分の1をアメリカ軍に殺害された。日本軍はすぐに海岸から撤退した際に、50から69人が殺害され、4人のアメリカ軍兵士を殺害されて、5人が負傷した。アメリカ軍が内陸へ侵攻する際に、車両が地面を深い泥に巻き込まれ狭い浜辺に置き去りにされた。

 15時30分に49機体の日本軍の戦闘機の深刻な空襲が探知された。そのうち10機が突破してアメリカ軍の艦隊を攻撃した。7月2日には、日本軍の戦闘機がレンドバ島の東海岸からアメリカ軍を奇襲した。日本軍の戦闘機は、海岸で密集していたアメリカ軍兵士の59人を殺害して、77人を戦傷して、野戦病院を破壊した。7月4日には、日本軍は100機の戦闘機を投入するも、16機のみレンドバ島に到着するも、アメリカ軍の対空砲火で12機が撃墜された。レンドバ島は、アメリカ軍が完全に占領した。




2025年8月1日金曜日

イスラエルのハデラの市場で、2005年10月26日にパレスチナ過激派の自爆テロ犯が爆発物を爆発させて、イスラエル人5人が死亡して30人が負傷した。

2005年10月26日に、パレスチナのガザ地区からの撤退後に、初の自爆テロより、イスラエルのハルデの町で5人が死亡した。イスラム聖戦は、指導者の一人が殺害されたことへの復讐だと主張した。自爆テロ犯は、多くの人が集まっていた市場で自爆した。犠牲者の死体はガラスや金属の破片にまみれて地面に倒れた。爆弾犯はヨルダン川西岸のカバティエ出身のハッサン・アブ・ゼイド(20歳)と判明した。

 イスラム聖戦は、イスラエルの沿岸都市で起きた爆弾攻撃の犯行を主張して、先週に軍事指導者の一人殺害への報復だと主張した。イスラエルの警察当局によると、10月26日にイスラエルの沿岸都市ハデラにある市場で自爆攻撃が発生し、5人が死亡、30人が負傷した。10月25日午前中に、パレスチナ人過激派がイスラエル南部にロケット弾を発射した。イスラエル軍はガザ北部の地域を激しく攻撃した。このパレスチナ人の攻撃は、パレスチナ過激派組織の幹部が死亡したことに対する報復の一環であったとも伝えられている。

 過激派パレスチナ組織によるイスラム聖戦は、先週西岸で同組織の軍事指導者のルアイ・サアディを殺害した報復だと暫定的に回答した。主要なパレスチナ武装組織は2005年末までに停戦を維持する約束をした。しかし、10月25日のルアイ・サアディ殺害後に、イスラム聖戦は報復した。現場に駆けつけたイスラエル人が重傷者を救助した。














Warning: At this market in Hadera, a suicide bomber blew himself up, killing five Israelis, 26 October, 2005. Here, people rush to help the seriously injured. Photo: George Ginsberg/AFP

2025年7月30日水曜日

桂林の中国軍洞窟陣地の中で、遺棄された中国人の洞窟に散乱した洞窟内の死体は、口を開けた顔や足は真っ黒に変色して、日本軍による毒ガス攻撃の犠牲者と想定された。

1944年に、日中戦争の中国戦線で、大規模な日本軍の攻勢作戦である大陸打通作戦が執行された。従軍カメラマンであった別所弥八郎が桂林の中国軍洞窟陣地の中で、遺棄された中国人の死体が洞窟に散乱していた。洞窟内の死体は、口を開けた顔や足は真っ黒に変色して、状況証拠から日本軍による毒ガス攻撃の犠牲者と想定された。

 大陸打通作戦の先陣部隊として参加した兵士たちは、コレラや赤痢に倒れ、弾薬が尽きるなか突撃した。東南アジアから南太平洋まで勢力を広げていた日本は、アメリカ軍の攻勢で資源の豊富な南方との海上交通路を失なうおそれを抱いた。陸軍参謀本部が考えたのが大陸打通(だつう)作戦により、中国大陸を貫く陸上交通路の確保である。参加する将兵は五十万人で、戦局を一気に打開することを目指した陸軍最大の作戦であった。

  日中戦争中の1944年4月17日から12月10日にかけて、日本陸軍により中国大陸で行われた作戦であった。連合国軍の空軍基地を占領するも戦略的には困難であった。国民党軍は大打撃を受けて国共内戦時に影響を受けた。日本軍は、10万人戦死・戦病死した。中国軍は75万人戦死・負傷した。














2025年7月29日火曜日

ニューギニアで、日本軍が占領していたホランディアへの攻撃中に、1944年4月27日にアメリカ軍部隊が海岸沿いを進軍する途上で、破壊された日本軍の装備の間に、死んだ日本軍兵士の死体が横たわっていた。

太平洋戦争にてオランダ領ニューギニアで、日本軍が占領していたホランディアへの攻撃中に、1944年4月27日にアメリカ軍部隊が海岸沿いを進軍する途上で、破壊された日本軍の装備の間に、死んだ日本軍兵士の死体が横たわっていた。

 太平洋戦争のニューギニア作戦は1942年1月23日から1945年8月15日の終戦まで続いた。 1942年初頭の第一段階では、大日本帝国は1月23日にニューギニア領に、7月21日にパプア領に侵攻し、3月29日からはオランダの植民地であったニューギニア西部を制圧した。第2段階は1942年後半から日本軍が降伏するまで続き、連合軍は主にオーストラリア軍から構成され、まずパプアから、次にニューギニアから、そして最後にオランダの植民地から日本軍を掃討した。日本軍は大敗を喫し、多大な犠牲と損害を被った。病気と飢餓が連合軍の攻撃よりも多くの日本人の命を奪った。ほとんどの日本軍は連合軍と接触も少なく、連合国海軍による封鎖にさらされた。日本軍守備隊は包囲され、食料や医薬品の輸送を拒絶された。日本軍の死因の97%は非戦闘によった。

 ホランディアはニューギニアの北中部沿岸、フンボルト湾に面した港で重要な停泊地であり重要な拠点となった。 連合国南西太平洋司令部は、ホランディアの占領を決定した。連合国はニューギニアの西部に侵攻を1944年初頭に開始して、1944年3月にアドミラルティ諸島を占領して、航空基地を確保した。アメリカ第一軍団が1944年4月22日に西部作戦を開始した。ホランディアへの上陸作戦はニューギニアのオランダ領で最初の目標だった。日本軍は準備不足で、この地域を保持できなかった。日本軍は西の防衛線に撤退して、すべての陣地を放棄した。 孤立した日本軍部隊は断絶後も抵抗を続けた。降伏する部隊はなく、ニューギニア西部での戦闘は終戦まで続いた。孤立した日本軍は非常に残酷な状態で、多くは餓死寸前だった。




2025年7月28日月曜日

1人のアメリカ軍兵士が、1945年4月4日に沖縄戦の戦場において、日本軍に殺害された3体の覆われ担架に乗せられたアメリカ軍兵士の死体の列に、悲しみに暮れてかがみ込んだ。

1人のアメリカ軍兵士が、1945年4月4日に沖縄戦の戦場において、日本軍に殺害された3体の覆われ担架に乗せられたアメリカ軍兵士の死体の列に、悲しみに暮れてかがみ込んだ。1945年4月1日にアイスバーグ作戦により嘉手納海岸に上陸したアメリカ軍を相手に、日本軍の総員1,233人の賀谷支隊(独立歩兵第12大隊)が4月4日までの4日間の遅滞戦闘を行って、日本軍が待ち構える嘉数陣地までアメリカ軍を誘導した。日本軍の戦死者は、242人であった。

 賀谷支隊は、アメリカ軍の進撃をわずか1,000人で数万のアメリカ軍を遅滞した。賀谷支隊は、日中は既設の陣地に侵入してアメリカ軍と戦い、夜に移動して後方の新たな陣地に入って、翌朝に進撃するアメリカ軍を足止めした。賀谷支隊は4月5日朝には日本軍第62師団の主陣地隊まで戻った。半数の兵士を失って、アメリカ軍の戦車10輌を撃破して約600人のアメリカ軍兵士を殺害した。沖縄戦南部の戦いの序盤は、賀谷支隊が圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜5日まで、沖縄の野嵩と新垣の戦線で、アメリカ軍の進撃を阻止して遅滞させた。

 その過程で、アメリカ軍は1,500人以上の戦死者を出し、日本軍は約4,500人の戦死者を出した。アメリカ軍に対戦したのは特設第一連隊と賀谷支隊であった。特設第一連隊には、建設施設管理部隊で武器装備もなく、沖縄人や学徒で構成された。賀谷支隊にも、地元の少年が青年学校から動員された。地元の沖縄人を盾として捨て石にした遅滞支隊であった。賀谷支隊は消耗激しく161.8高地へ撤退した。4月5日の夜明けまでに161.8高地に撤退を完了した。4月5日には旅団命令により、首里司令部方面へ撤退した。