2024年12月16日月曜日

第二次世界大戦の太平洋戦争に日本が敗戦後に、オランダ領のインドネシアの収容所で、1945年8月15日に連合軍に降伏して捕虜となった元日本軍将校が1945年11月に切腹した。

第二次世界大戦の太平洋戦争に日本軍が敗戦後に、オランダ領のインドネシアの収容所にて、1945年8月15日に連合軍に降伏して捕虜となった元日本軍将校が1945年11月に切腹をした。日本が降伏した恥ずかしさと、落胆で日本軍将校は悲嘆して切腹して、腹部から多量の出血が流出した。切腹後にうつ伏せながら、目頭を抑えて嗚咽した。切腹は、日本の儀式的自殺の一形態で、武士道によって規定された。切腹は、敵の手に落ちるより名誉ある自殺を行った。

 1941年12月7日の真珠湾への壊滅的な奇襲攻撃は、オランダ領東インドも1945年8月15日まで続く第二次世界大戦に巻き込まれた。オランダは1941年12月8日、日本に宣戦布告した。1942年初頭から日本軍は北セレベスと北ボルネオに侵攻した。1942年2月初旬、スマトラ島への攻撃が始まり、ジャワ島が孤立した。1942年3月1日から、日本軍はジャワ島の攻撃を開始した。1942年3月5日に、日本軍はバタビアに入城して、3月6日にバンドンに突破口を開いた。3月8日についにスラバヤを占領して、ジャワ島は日本軍の手に渡った。3月9日に、バンドン近郊のカリジャティで、オランダ領東インド軍(KNIL)は、降伏に調印した。

 1944年9月15日に、連合軍はモルッカ諸島のモロタイに上陸した。連合軍がオランダ領東インド地域への上陸により、オランダ軍とインドネシア人にとって日本軍から解放が大きく近づいた。1945年5月1日に、連合軍はボルネオ島のタラカンとバリクパパンにも上陸した。インドネシアで最大の島であるジャワ島は、1945年8月15日に日本軍が降伏するまで占領されたままであった。1945年9月2日に、東京湾のアメリカ軍艦ミズーリ艦上で、日本は正式に降伏文書に調印した。

 捕虜となった連合軍兵士の取り扱いは、武士道から恥ずべき劣った存在として扱った。囚人となった連合軍兵士に、日常的に殴打して、飢餓、虐待、斬首、強制行軍、強制労働、拷問、虐殺した。日本軍兵士は、恥ずべき降伏しないで、敵の手に落ちるまでに自殺する武士道によって、欧米の捕虜や住民のその取り扱いを正当化した。




2024年12月15日日曜日

第二次世界大戦後の1951年8月30日に、 アール・ウォーレン・カリフォルニア州知事が広島市内の原爆被爆者病院を訪問した。

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-389518 




























SC-389518    20274

40TH DIV/FEC-51-47199

30 AUG 1951

GOVERNOR OF CALIFORNIA EARL WARREN (LEFT CENTER) VISITS ATOMIC BOMB CASUALTY HOSPITAL, HIROSHIMA, JAPAN,

US ARMY PHOTO BY CPL CLIFFORD BROWN (SK) 40TH SIG CO

Reviewed for Military Security



SC-389518 20274

第40師団/FEC-51-47199

1951年8月30日

アール・ウォーレン・カリフォルニア州知事(中央左)が広島市内の原爆被爆者病院を訪問した。

米陸軍撮影:クリフォード・ブラウン(SK) 第40師団

軍事安全保障のためのレビュー

2024年12月13日金曜日

第一次世界大戦の西部戦線にて1918年に、フランスのセーヌ・エ・マルヌ県を横切るオウルク川の戦いで、バルシーの陥没した道上に、ドイツ軍よって殺害されて戦死したアメリカ軍兵士の死体や軍馬の死体が散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にて1918年に、フランスのセーヌ・エ・マルヌ県を横切るオウルク川の戦いで、バルシーの陥没した道上に、ドイツ軍よって殺害されて戦死したアメリカ軍兵士の死体や軍馬の死体が散乱した。

 1918年7月26日午後遅く、アメリカ軍第42レインボー師団の部隊は、オウルク川の南のラ・クロワ・ルージュ農場で厳重に防御されたドイツ軍陣地を攻撃した。ドイツ軍が川の北の要塞に退却する中で、レインボー師団はオウルク川のすぐ南2.74kmの前線に陣取った。絶え間ないドイツ軍の機関銃と砲撃の中で、7月28日にオウルク川を横断した。6日間にわたる激戦で、アメリカ軍は重要拠点を占領した。アメリカ軍レインボー師団は付属部隊を含めて、1410人が戦死して、5049人が戦傷して、合計で6,459名の死傷者を出した。

 オウルク川の戦いでは、ドイツ軍は5人乗りの機関銃を多数配備して、強固な防御を設置した。後に鹵獲された機関銃の約25丁は、毎分10,000発の弾丸を発射し、約0.91kmまで命中した。カモフラージュされ、要塞化された陣地に配備されたドイツ軍は、並木道や小道を覆って、連動する射界は計測され、地図が作られた。樹木には照準のために赤いペンキの印を付けて、狙撃手を配置された。

 ドイツ軍の攻撃は熾烈を極め、アメリカ軍レインボー師団の兵士に多大な犠牲をもたらした。ラ・クロワ・ルージュ農場周辺の林の斜面で、凄まじい戦闘が繰り広げられた。農場の敷地内に大隊を集結させたドイツ軍に対して、アメリカ軍は近接戦闘を手榴弾、ライフル銃、銃剣で戦って、クロワ・ルージュ農場を襲撃して占領した。クロワ・ルージュ農場を通ってオウルク川へ向かうアメリカ軍兵士は、その小川を虹の血で真っ赤に染めて、激流の中をもがき横断した。レインボー師団は、シャンパーニュ防衛とオウルク川への攻撃で、将校184人、兵員5,469人、全兵力の約4分の1の死傷者を出した。




2024年12月12日木曜日

1954年5月25日に、ベトナムのナムディンからタイビンの道上で、ボンディエンとギャーケー間のソンムーケー川付近で、ベトミンゲリラがフランス軍戦車の榴散弾により死亡し、フランス軍兵士が死体を見下した。

1954年5月25日に、ベトナムのナムディンからタイビンへの道上で、ボンディエンとギャーケーの間のソンムーケー川付近で、ベトミンゲリラが、フランス軍戦車の榴散弾により死亡した。仏領インドシナ(現ベトナム)で、ナムディンからタイビンへの途上で、1954年5月25日にフランス軍が路上でベトミン・ゲリラの死体を見下した。(ロバート・キャパ撮影)

 その写真を撮影したロバート・キャパは、タイの首都バンコクから南ベトナムの首都サイゴンへとインドシナ半島へ渡った。5月24日に、北ベトナムの首都ハノイから南東72kmのナムディン空港に到着した。5月25日にベトナム北部のタイビンにて地雷に抵触して死亡した。右へ流れる小川と、道路へ下るわずかな斜面を登り始めると、ベトミンが夜間に仕掛けた対人地雷を踏んだ。キャパは地雷の爆発で左足がほぼ完全にもぎ取られ、胸に大きな傷ができた。1954年5月25日午後3時10分に、フランス軍のメックリンとルーカスが爆発現場に到着した。キャパは大量に出血して、苦悶の表情を浮かべた。突然に、発火音を聞いたラカペル大佐が到着した。彼はキャパが倒れているのを見て、すぐに救急車を呼んだ。キャパは5km離れたドン・クイ・トーン砦にある最寄りの救護所に運ばれた。そこでベトナム人医師が、ロバート・キャパの死亡を確認した。

 1954年5月7日に、ベトナムにおけるディエンビエンフーの戦いはフランスの敗北に終わった。3月13日に始まったこの戦いは激戦となり、フランス軍は2,200人が死亡し、ベトナム軍8,000人が死亡し、15,000人が負傷した。ヴィエト・ミンの勝利は1954年のジュネーブ協定につながった。ディエンビエンフーの戦いは、ヨーロッパ以外の植民地独立運動が、ゲリラ技術により公然の戦闘で西洋軍隊を破った初めての出来事と評された。




2024年12月11日水曜日

サイパンの戦いにて、サイパン島のタナバク付近の海岸で、日本軍兵士がアメリカ軍にバンザイ突撃をして玉砕して全滅した。アメリカ軍は1944年7月12日に、海岸に散乱した日本軍兵士の死体の検死と死後処理をした。

第二次世界大戦の太平洋戦争のサイパンの戦いにて、サイパン島のタナバク付近の海岸にて、日本軍兵士がアメリカ軍に対して「バンザイ突撃」をした。バンザイ攻撃に対して、アメリカ軍が日本軍兵士を殺害して全滅した。アメリカ軍は1944年7月12日に、海岸に散乱した日本軍兵士の死体の検死と死後処理をした。

   日本にとり絶対国防圏の死守のためは、サイパン島は譲れない要衝だった。サイパン島はアメリカ軍の猛攻により、わずか10日で陥落した。第1次世界大戦後に日本の委任統治領となったサイパンは準国土だった。サイパン島が戦場となり、市民が戦火に巻き込まれ、サイパンをアメリカ軍の基地とするB29爆撃機による日本本土に爆撃を許した。

 1944年6月11日に、サイパン島に対するアメリカ軍機動部隊の空襲が始まった。日本軍の対応は遅れて、地上部隊主力は1カ月前に配置されて、航空隊も内地部隊の転用で準備不足であった。6月15日未明にアメリカ軍の海兵隊8000人が、サイパン島のチャランカノアから上陸開始して、6月18日にアスリート飛行場を占領した。6月19日・20日のマリアナ沖海戦で、日本軍は大敗北となった。6月25日にサイパン島中央部のタポーチョ山をアメリカ軍が占拠して、日本軍はほぼ戦闘不能状態となる。

 7月5日に大本営はサイパン島の全日本軍兵士に玉砕の訓辞を伝達した。7月6日に日本軍の3少将が自決した。7月7日午前3時に「星に七夕」を合言葉に、日本軍の生存兵士約3000人が最後のバンザイ突撃を試みて、ほぼ全滅した。サイパン島の最北部に逃れた市民も、多くがバンザイクリフの断崖から太平洋の海に投身し、あるいは手榴弾で自決した死者が約1000人にも達した。

 7月9日にアメリカ軍総司令官がサイパン島占領を宣言した。兵力総計はアメリカ軍が12万7571人、日本軍は4万3582人であった。アメリカ軍は3,225人が戦死して、日本軍の戦死者は4万1244人、市民の死者も1万人を超え、玉砕も、実際には1062人の日本群兵士が生き残り降伏した。サイパン陥落は直後に国民に知らせずに、 9日遅れで大本営は7月18日に玉砕を発表して、東条内閣が総辞職した。




2024年12月10日火曜日

ノーベル平和賞受賞演説 日本被団協代表委員 田中熙巳 於ノルウェー・オスロ 2024年12月10日

                  ノーベル講演

2024年ノーベル平和賞受賞者

日本被団協   田中熙巳氏による講演

オスロ、2024年12月10日

ノーベル平和賞受賞演説 日本被団協代表委員 田中熙巳 於ノルウェー・オスロ 2024年12月10日

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国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、

ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日日本被団協 を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

私たちは1956年8月に日原水爆被害者団体協議会 (日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「日戦争の被害は国民が受忍しなければならない との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。

この運動は「日核のタブー の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「日核のタブー が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます。

私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました.

1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで

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伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りで東洋一を誇った大きな教会「・上上主主 は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。

麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されている沢山の人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。

もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。

その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当も受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50パーセントは衝撃波として家屋を押しつぶし、35パーセントは熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15パーセントは中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりと推定されます。

生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

3

1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が日死の灰 に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被ばくして急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名に結実し、1955年8月日原水爆禁止世界大会 が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日日日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協) が結成されました。

結成宣言で「日自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう との決意を表明し、日核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償 を求めて運動に立ち上がったのです。

運動の結果、1957年に「日原子爆弾被爆者の医療に関する法律 が制定されます。しかし、その内容は、「日被爆者健康手帳 を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。

1968年日原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律 が制定され、数種類の手当てを給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。

1985年、日本被団協は日原爆被害者調査 を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

1994年12月、2法を合体した「日原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律 が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

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私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。

1977年国連NGOの主催で「日被爆の実相と被爆者の実情 に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。

1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が日核兵器の人道的影響に関する会議 の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ日核兵器禁止条約 交渉会議に発展しました。

2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた日核兵器の禁止「・廃絶を求める国際署名 は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122か国の賛同をえて日核兵器禁止条約 が制定されたことは大きな喜びです。

さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。

想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。

一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた

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日NPO法人・ノーモア「・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

世界中のみなさん、日核兵器禁止条約 のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。

人類が核兵器で自滅することのないように!!

核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!

(4468文字)

著作権 © ノーベル財団、ストックホルム、2024年

























Artist: Marie Buskov Calligrapher: Christopher Haanes Bookbinder: Kristine Bekkevold / Merkur Grafisk AS Photo reproduction: Thomas Widerberg Copyright © The Nobel Foundation 2024


2024年12月9日月曜日

第一次世界大戦の西部戦線の第一次マルヌの戦いにて、1914年9月にドイツ軍兵士が殺害されて、その死体群が戦場に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線の第一次マルヌの戦いにて、1914年9月にドイツ軍兵士が殺害されて、その死体群が戦場に散乱した。マルヌの戦いは第一次世界大戦中の2つの戦いで、最初の第一次マルヌの戦いは1914年9月に、第二次マルヌの戦いは1918年に勃発した。どちらの戦いも第一次世界大戦の重要な局面で、ドイツ軍の敗北をもたらした。 

 第一次世界大戦を誘因した第一次マルヌの戦いは1914年9月6日から9月12日まで続いた。フランス北東部とベルギーに侵攻するドイツ軍は、完全に防御していないフランス北東部のマルヌに侵攻した。ドイツ軍はベルギー軍を撃破して、フランス北東部の奥地まで進攻した。侵攻したドイツ軍が、フランス軍とイギリス軍を追撃して、9月8日から9月12日にドイツ軍の侵攻が圧勝して、フランス軍250,000人、イギリス軍12,733人、ドイツ軍298,000人が戦死傷した。ドイツ軍がベルギーを攻撃したため、イギリス軍はベルギーを防御する公約から、第一次世界大戦に参戦した。第一次世界大戦は、ドイツ軍とベルギー軍の2カ国間の第一次マルヌの戦いが、多くの国々を巻き込んだ。

 1918年7月15日から8月5日まで、第二次マルヌの戦いが勃発した。多くのドイツ軍司令官が、ドイツは戦争は敗北したと考えた。第二次マルヌの戦いは、アメリカ軍はすでに参戦して、ドイツ軍の攻撃の態勢は大失敗を喫した。ドイツ軍が突破に大失敗したため、連合国軍最高司令官フェルディナン・フォッホは7月18日に反撃を要求した。これにはフランス軍だけでなく、アメリカ軍、イギリス軍、イタリア軍も部隊を派遣した。全体として、ドイツ軍はこの第二次マルヌの戦いで多くの優位性を失った。







2024年12月8日日曜日

1946年1月26日に広島におけるアメリカ軍の極東諮問委員会に供覧される広島原子爆弾の被爆者が、長椅子に腰掛けて待機した。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-241253
































SC-241253

These are victims of atomic bomb used for display to the Far Eastern Advisory Commission in Hiroshima, Japan. 1/26/1946

Signal Corps Photo #WPA-46-64693 (Bireda), released by BPR 4/1/46.

orig. neg.

Lot 13534 PE


SC-241253

これらは、1946年1月26日に広島における極東諮問委員会に供覧される広島原子爆弾の被爆者である。

通信部撮影 #WPA-46-64693 (Bireda)、1946年4月1日からBPRより公開された。

原本ネガ。

ロット13534 PE


2024年12月8日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟  
閲覧回数 730,000    (投稿数 3,029)

2024年12月7日土曜日

ガザ地区の空爆の犠牲により、パレスチナのガザ地区のデイル・アル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所の前で、パレスチナ人はイスラエル軍によるガザ地区への砲撃で死亡した親族の子供の死体を悼んだ。

イスラエル・ハマス戦争にて、イスラエル軍の空爆は、5月11日の夜から5月12日朝にかけてガザ北部、中部、南部の一部を襲った。ガザ地区の空爆の犠牲により、パレスチナのガザ地区のデイル・アル・バラにあるアル・アクサ病院の死体安置所の前で、パレスチナ人はイスラエル軍によるガザ地区への砲撃で死亡した親族の子供の死体を悼んだ。

 イスラエル軍は5月12日にもガザを攻撃し、イスラエル軍はハマスが支配する領土のいくつかの地域で武装勢力と戦った。エジプトとの国境に位置するガザ最南端の都市ラファでは、クウェートの病院が5月12日の過去24時間のイスラエル軍の爆撃で死亡した18人のパレスチナ人の死体を収容したと発表した。

 パレスチナの保健省は、この24時間で少なくとも63人が死亡し、イスラエルによるガザへの砲撃と攻撃による死者は、パレスチナ・ハマス戦争の勃発以来に、女性や子どもを中心に少なくとも35,034人に上るという。イスラエル・ハマス戦争が勃発して約7カ月以上が経過して、ガザ全域で戦闘激化して、死者3万5000人超に達した。ガザ地区できつ害された犠牲者の約70%近くが、女性と子供であると国連人権事務所が公表した。

 犠牲者の約80%は住宅または同様の住宅で殺害され、そのうち44%が子供、26%が女性であった。確認された死亡者の中で最も多かったのは、5歳から9歳の子ども、10歳から14歳の子ども、そして0歳から4歳の乳幼児であった。 死亡が確認された最年少の被害者は生後1日の男児で、最高齢は97歳の女性だった。




2024年12月6日金曜日

アメリカ南北戦争末期の1865年4月3日に、ピーターズバーグの塹壕で要塞を防御していた南軍兵士が戦死して、無惨な死体が戦場の険しい地形に横たわった。

アメリカ南北戦争末期の1865年4月3日に、ピーターズバーグの塹壕で要塞を防御していた南軍兵士が戦死した。南軍の兵士たちの無惨な死体が戦場の険しい地形に横たわった。アメリカ南北戦争中の南北戦争の痛ましい瞬間を象徴した。有名な写真家であるトーマス・C・ロッシュによって撮影された。 

 1865年4月1日のファイブフォークスでの南軍の敗北により、北軍は4月2日にピーターズバーグ戦線への総攻撃をした。夜明け前の暗闇の中で、北軍の第6軍団が南軍の戦線を突破して、北軍の歩兵は突破口を開いた。南軍のヒル中将は部下に連絡しようとして戦死した。南軍の歩兵部隊はグレッグ砦とウィットワース砦まで後退した。南軍はギボン大将の前進をフォート・グレッグで遅らせて、その夜に、北軍がピーターズバーグに進入するのを阻止した。北軍のライト大将が突破して、追撃部隊は北上し、ピーターズバーグ近郊のサウスサイド鉄道を寸断した。北軍はアポマトックス川を通過できた。

 1865年4月3日には自由にアポマトックス川を渡り、その北側にいる南軍リー将軍の通信手段を脅かした。日没後に、南軍のリー将軍は、ジェファーソン・デイビス連合国大統領に「もうこれ以上持ちこたえられない」と伝えた。ピーターズバーグとリッチモンドから南軍は撤退すると通告した。北軍のグラント将軍は、戦争の主要な軍事目標のひとつであるピーターズバーグの占領をついに達成した。それは南軍の首都リッチモンドの喪失に直結し、4月3日についに陥落した。




2024年12月5日木曜日

フェオドシアの虐殺は、第二次世界大戦の東部戦線にて、1941年12月29日から1942年1月1日にかけて、ソ連赤軍が、約160人の負傷したドイツ国防軍捕虜に対して大虐殺を執行した戦争犯罪である。

フェオドシアの虐殺は、第二次世界大戦の東部戦線にて、1941年12月29日から1942年1月1日にかけて、ソ連赤軍が、約160人の負傷したドイツ国防軍捕虜に対して大虐殺を執行した戦争犯罪である。 この大虐殺は、犠牲者の数が比較的多かったことと、犠牲者を生きたまま氷に凍らせた加害者たちによる「不必要な残酷さ」で注目された。

 11月3日に、クリミア半島の港湾都市フェオドシアは、ドイツ軍の第46師団と第170歩兵師団の部隊によって占領された。12月29日に、ソ連赤軍の海兵隊と正規歩兵がフェオドシアの海岸に上陸して、街を占領した。ドイツ国防軍最高司令部が作成した資料では、「負傷の有無にかかわらず、フェオドシアのドイツ人を一人残らず殺すようにとの命令が出された。」

 1942年1月18日、ドイツ軍はフェオドシアを再占領して、約160人の負傷したドイツ軍兵士の大虐殺を発見した。ソ連赤軍の歩兵はほとんどが酔っ払って、約160人の負傷者を殺した。負傷兵は、ソ連赤軍により病院の窓から投げ出され、重傷兵には水をかけて凍死させ放置された。野戦病院前の浜辺では、殴られ、切り刻まれた後、数メートルの高さの壁から投げ出され、波打ち際に放置された死体が山積みされた。

 第二次世界大戦の東部戦線にて、黒海の岸辺でクリミア半島にフェオドシアの港町が、1941年11月3日に、ドイツ軍は占領して、ケルチ半島を制圧した後に、セヴァストポリ攻撃に集中させるため、この方面からドイツ軍の撤退を決定した。フェオドシアには防衛のためのドイツ軍小部隊だけが残され、戦闘で負傷した兵士は市内の病院で療養した。

 12月29日の午後に、ソ連赤軍の黒海艦隊から砲撃を受け、ソ連赤軍の海兵隊がフェオドシアに上陸し、ケルチ攻防戦でドイツ軍の防衛を圧倒した。1942年1月18日にドイツ軍によって奪還され、約6,700人のロシア軍兵士を殺害し、10,000人を捕虜にした。港町に入ったドイツ軍兵士は、ドイツ軍兵士のほとんどが惨殺された恐ろしい光景に遭遇した。




2024年12月4日水曜日

1944年9月22日に、アメリカ軍海兵隊員は、ペリリュー島の戦いで殺害された2人の日本軍兵士の死体と機関銃手を見下して、日本軍兵士から略奪した日本刀を持って立った。

太平洋戦争にて、パラオ諸島のペリリュー島の戦いにて、アメリカ軍の海兵隊がペリリュー島に1944年9月15日に上陸した直後に、2人の日本軍兵士を殺害した。その後に1944年9月22日に、アメリカ軍海兵隊員は、殺害された2人の日本軍兵士の死体と機関銃手を見下して、日本軍兵士から略奪した日本刀を持って立った。海兵隊員のポケットは、日本軍兵士から略奪した戦利品で一杯に膨らんだ。その後方の2人の日本軍兵士は、手投げ弾を胸に抱いて爆破させて自決した。右後方で日本軍機のゼロ戦が破壊された。

 1944年9月15日、第1海兵師団がペリリュー島西部の海岸に上陸した。その後の数週間、恐るべき激しさに達した戦闘によって、ペリリュー島には戦争の残骸が散乱した。ジャングル周辺には生きた手榴弾、迫撃砲弾、砲弾、小火器弾が散乱している。ペリリュー島の南西海岸に上陸した第1海兵師団は9月15日から戦闘を開始した。第1海兵隊は約594mの凹状の砂浜であるホワイトビーチに上陸した。区域の一番北端には、海岸線から約13.7m突き出た自然の岩があり、日本軍は機関銃と自動砲を、一連のコンクリート掩体壕に隠して、戦闘初日に第1海兵連隊が苦戦を強いられた。

 約3ヶ月前のサイパン陥落後に、日本軍は無意味な「バンザイ」突撃が、非生産的で無駄であることを悟った。ペリリュー島での日本軍の戦闘は、戦闘を長引かせ、アメリカ軍を可能な限り長時間拘束する消耗戦となった。硫黄島や沖縄でも長期の防衛戦が続いたが、ペリリュー島の戦いで戦略が初めて執行された。1944年11月27日に司令部陣地の日本軍兵士が全員が自決して終結した。




2024年12月3日火曜日

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。

ベトナム戦争の終末直前の1975年3月に、ベトナムの重要な南北物流のライフラインである国道1号線上に、殺害された一人の若いベトコンのゲリラの死体が仰向けになった。国道1号線、正式には国道1Aは、中国とベトナムの国境に近いフー・ギ・クアン国境ゲートからベトナムの主要都市を貫いている。20世紀初頭にフランスの植民者がこの高速道路を建設した。国道1号線の封鎖で、北ベトナム人民軍(PAVN)が、復活祭攻勢中の1972年4月29日から5月2日に、南ベトナムのクァンチーとフエの間にある国道1号線上で、南ベトナムの兵士と民間人の約2000人を殺害した。

 1975年1月6日に、南ベトナム軍は壊滅的な敗北を喫し、北ベトナム軍はフォックロン市とその周辺の州を占領した。この攻撃はパリ和平協定の明白な違反であったが、アメリカ軍からの報復はなかった。

 1975年3月1日に、南ベトナム中部高原地帯で、北ベトナム軍の強力な攻勢が始まる。南ベトナム軍は混乱し、撤退を余儀なくされ、6万人近い兵士が死亡または行方不明となる。1975年3月には、北ベトナム軍の新たな攻勢により、10万人の兵士がクァンチ省、フエ、ダナンの主要都市に侵攻した。強力な機甲部隊と8個砲兵連隊の支援を受けた北ベトナム軍は、クァンチ省を迅速に占領した。3月25日に南ベトナム第3の都市フエが北ベトナム軍に陥落した。

 1975年4月初旬に、北ベトナム軍は作戦開始から5週間後に、目覚ましい進展を遂げた。南ベトナムの12の省と800万人以上のベトナム人が、北ベトナム軍の支配下に置かれた。南ベトナム軍は最精鋭部隊を失って、兵士の3分の1以上、武器のほぼ半分を失った。

 1975年4月29日に、沖合のアメリカ軍の空母から飛び立った海兵隊と空軍のヘリコプターが大規模な空輸作戦を開始した。18時間以内に、1,000人以上のアメリカ市民と7,000人近い南ベトナムの難民がサイゴンから脱出した。1975年4月30日午前4時3分に、サイゴンのタンソンニャット空港でロケット攻撃により2人の海兵隊員が死亡した。彼らはベトナム戦争で亡くなった最後のアメリカ人となった。夜明けとともに、アメリカ大使館を守っていた最後の海兵隊員が撤収した。数時間後に、略奪者が大使館を荒らし、北ベトナムの戦車がサイゴンに進軍し、ベトナム戦争は終結した。約15年間に、北ベトナム軍とベトコンの兵士が100万人近く、南ベトナム軍兵士が25万人死亡して、アメリカ軍兵士が5万8千人が死亡して、数十万人の民間人が命を落とした。




2024年12月2日月曜日

リビアの首都トリポリのマイダン・シュハダ広場で、1911年12月6日に14人の先住民のベルベル人の殉教者がイタリア占領軍によって絞首台上で絞首刑により死刑が執行された。

リビアの首都トリポリのマイダン・シュハダ広場で、1911年12月6日に14人の先住民のベルベル人の殉教者がイタリア占領軍によって絞首台上で絞首刑により死刑が執行された。イタリア軍はオスマン・トルコの支配下にあったリビアの侵略戦争に勝利後に、トリポリでイスラム教徒のベルベル人を絞首刑にした。イタリア空軍の優勢により、キレナイカとトリポリタニアに駐留していたトルコ軍兵士の約8000人だけでなく、約2万人にも及ぶ先住民のベルベル人の非正規軍が、侵略者であるイタリア軍に抵抗して多大の犠牲の代償を支払った。イタリアは、イタリア・トルコ戦争に総勢10万人の兵士を投入した。

 1911年9月29日午後2時30分に、イタリアはトルコに宣戦布告して、イタリア・トルコ戦争が勃発した。約2万人のイタリア軍は、1911年10月10日と12日の2回に分けてトリポリに上陸した。イタリア軍は、トルコ軍の4,000人の部隊、特に先住民のベルベル人騎兵隊から激しい抵抗を受けた。1911年10月23日と26日、トリポリ郊外で先住民にイタリア軍は攻撃されて、数百人が死亡した。イタリア軍は、先住民の攻撃は撃退して、先住民を厳しく処罰し、4,000人以上を殺害した。

 イタリア軍は、オスマン・トルコ本国を砲撃して、1912年5月にはロードス島とドデカネス諸島の占領に至った。1912年10月8日に第一次バルカン戦争が勃発して、両国は10月18日にウチ条約を締結した。イタリア・トルコ戦争の結果、オスマン帝国は弱体化して、バルカン化半島では国家や民族の分裂で内紛が拡大して、第一次世界大戦の内因となった。




2024年12月1日日曜日

アメリカ第10軍外科部隊のジョン・ホール大佐が、被爆者女性の頭部の火傷にポット・アルコールを塗っている。

           非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-228538
















SC-228538

Col. John Hall, Surgeon X Corps, potass to burns of an atomic bomb victim, while Secretary of War Robert P. Patterson and Lt. Gen. C. P. Hall look on with interest, Japan 1/10/1946

Signal Corps Photo #WPA-46-64437 (Mundelius) released by BPR 3/12/1946

orig. neg. Lot 13455  Ref  228538

Ref


SC-228538

アメリカ第10軍外科部隊のジョン・ホール大佐が、被爆者女性の頭部の火傷にポット・アルコールを塗っている。ロバート・P・パターソン陸軍長官とC・P・ホール中将が興味深そうに見守っている。日本、1946年1月10日

通信部隊撮影 #WPA-46-64437 (Mundelius) 1946年3月12日 BPRより公開

原盤ネガ。ロット13455。リファレンス 228538