2024年11月26日火曜日

硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。

第二次世界大戦の太平洋戦争末期の硫黄島の戦いにて、地下壕内にてアメリカ軍の火炎放射器と爆弾によって殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。その地下壕は、その後にアメリカ軍の火葬場に使用された。地下壕には、洞窟式の地下交通路が連なっていた。日本軍兵士の大半は、このようなトンネル内で絶命した。

 硫黄島一帯に散乱した死体は最大の猛威によって殺戮された。むごたらしくズタズタに切り刻まれた死体の大群が散乱した。多数の死体は胴体を真っ二つに切断されて、遠くにバラバラに散乱した。ある地域では日本軍兵士の死体の燃える悪臭がとてもひどかった。

 硫黄島の戦いは、攻撃側のアメリカ軍が、防御側の日本軍よりも、犠牲者が上回った。アメリカ軍の約7000人が戦死して、戦傷者は約1万9,000人に達した。硫黄島の戦いの、戦死者数と戦傷者数の詳細は『硫黄島作戦』を参照した。アメリカ軍の戦死者は、海兵隊の士官は278人、下士官は5,653人に昇った。海軍の将兵は881人、陸軍の将兵は9人が戦死した。アメリカ軍は合計6,821人が戦死した。日本軍は、陸軍兵士の12,850人と海軍兵士の7,050人が戦死し、合計で約19,900人が戦死した。

  太平洋上に浮かぶ小さな硫黄島に、1945年2月19日から3月26日にかけて、 日本軍とアメリカ軍のあいだで血みどろの戦いがくり広げられた。日本軍兵士2万933人が硫黄島を死守せんと立て籠もった。攻略するアメリカ軍は艦船800隻、航空機4000機、総兵力25万を擁して上陸作戦が開始された。日本軍はすでに8ヵ月前の1944年7月9日にサイパンを失って、1944年10月20日には、レイテ島に上陸して、日本軍の組織的抵抗は崩壊していた。




2024年11月25日月曜日

1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。

1991年4月に韓国での学生デモの最中に、女性が身体に火をつけて鉄橋から投身自殺をした。全南大学女子学生の朴勝熙は、4月29日14時頃に、全南大学で​​開催された2万学友決議大会に出席し、15時ごろ全南大学本部の龍峰館の後方から投身自殺した。全南大学病院で治療を受け、全身3度の火傷により細菌感染で敗血症が発生した。1991年5月17日に再び敗血症が発生して40度以上の高熱と多臓器不全によって、5月19日に病死した。

 1991年4月26日に韓国では、1987年に韓国大統領に就任した盧泰愚(ノテウ)政権に対する反政府運動のデモに参加した大学生の姜慶大が、警官に殴打され死亡した事件が発生した。それに抗議する学生の焼身自殺が続発して、学生の焼身自殺者が7人も出た。その後に学生や労働者による抗議の焼身自殺がその後約一か月間にわたり全韓国で頻発した。死に対する弔い合戦が激烈なデモとなり、投石、火炎瓶と催涙弾を交えた民主化闘争へ展開された。その最中で抗議の自殺が企てられ、デモの渦中での圧死事件などが起こり、闘争はいっそう過熱し、自死が再生産された。

 韓国南西部の光州市で1980年5月18日に、学生や市民らの民主化要求デモが、韓国軍によって武力鎮圧された光州事件以降も、韓国の軍事政権は学生運動などを徹底的に弾圧した。ソウル大では、1986年4月28日に焼身自殺を決行した。全世鎮が5月5日に、季載虎 が26日に死亡した。反戦・反核闘争のデモで反米スローガンを叫んでいた全世鎮、季載虎という二人のソウル大生が抗議の焼身自殺をした。そこから雪崩を打ったように、自殺を遂げる苛烈な運動が展開されていった。5月20日に季東洙という学生が学生集会のさなかに焼身・投身自殺を遂げた。翌日5月21日には状況に自責の念を抱く 女子学生が入水自殺をとげた。1986年5月の学生運動は、まさに死と傷と苦しみの記憶が塗れた。1980年代以降の民主化運動の現場では、政治的不義に抗議する焼身自殺が頻発した。




2024年11月24日日曜日

広島市内で、原子爆弾による被害状況を視察するアメリカ軍従軍記者を、1948年9月12日に日本軍の兵士と民間人らが見守った。

 非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-212342





























SC-212342

Japanese soldiers and civilians watch American war correspondents as they inspect damage done by atomic bomb in Hiroshima, Japan. 9/12/1945

Signal Corps Photo WPA-45-33510 (Lt. Camp) 

released by BPR 10/3/1945

orig.neg. Lot 12495 gef


SC-212342

広島市内で、原子爆弾による被害状況を視察するアメリカ軍従軍記者を、1948年9月12日に日本軍の兵士と民間人らが見守った。

アメリカ軍通信部が撮影した。WPA-45-33510(キャンプ中尉)

1945年10月3日に、BPRにより公開された。

原本ネガ、ロット番号は12495 gef

2024年11月23日土曜日

2024年5月14日に、パレスチナ人の死体の上半身が瓦礫に埋まり、身体が逆転して下半身が飛び出した。ガザ地区のヌセイラートで、イスラエル軍の空爆で破壊された。

2024年5月14日に、ガザ地区のヌセイラートで、イスラエル軍の空爆で破壊された建物の瓦礫の中から、パレスチナ人の救助隊員は男性の死体を掘り起こした。パレスチナ人の死体の上半身が瓦礫に埋まり、身体が逆転して下半身が飛び出した。

 ラファとガザ北部におけるイスラエルの軍事作戦の激化により、ここ数日で50万人以上のパレスチナ人が避難したと国連が発表した。2024年5月14日の1週間、ガザ南部の2つの主要国境交差点には食料が入って来ていない。国連によれば、約110万人のパレスチナ人が壊滅的な飢餓に直面している。特に北部では「本格的な飢饉」が起きている。パレスチナ難民のための国連機関が5月14日に発表したところによると、この1週間で約45万人のパレスチナ人がガザ南部のラファから追放された。イスラエル軍は、ハマスの最後の砦として、ラファの街に押し寄せている。パレスチナのガザ北部では、イスラエル軍の避難命令により、これまでに少なくとも10万人が避難したとファルハン・ハク国連副報道官が5月13日に記者団に語った。イスラエル軍はパレスチナ武装勢力と戦闘している。ガザ地区の保健当局者によれば、7ヶ月間にわたるイスラエル軍のガザへの砲撃と地上攻撃によって、3万5000人以上が死亡して、そのほとんどが女性と子どもだという。

 イスラエル国民は2024年5月14日に、例年では国中の公園でバーベキューをして独立記念日を祝った。独立記念日はいつもは賑やかなパーティーも、2024年はパレスチナのガザ地区での戦争のために小規模で静かなものとなった。イスラエル・パレスチナ戦争は2023年10月7日、パレスチナのハマス武装勢力がイスラエル南部を攻撃して、イスラエル民間人を中心に約1200人が死亡して、約250人が拉致されたことから勃発した。イスラエルによれば、武装勢力は現在も約100人の人質と30人以上の遺体を拘束している。 










Warning: Palestinians rescuers dig around the body of man in the rubble of a building destroyed in an Israeli airstrike in Nuseirat, Gaza Strip, Tuesday, May 14, 2024. (AP Photo/Abdel Kareem Hana)

2024年11月22日金曜日

1940年冬に、中国山西省・北岳区での中国共産党の八路軍と日本軍の戦闘で、中国共産党初の従軍写真家である沙飛が、被弾して崩れ落ちる八路軍兵士の連続写真を撮影した。





1940年冬に、中国山西省・北岳区での中国共産党の八路軍と日本軍との戦闘にて、中国共産党初の従軍写真家である沙飛が、被弾して崩れ落ちる八路軍兵士の連続写真を撮影した。日本軍の銃弾を受けて、中国共産党八路軍兵士がひざを屈して崩れ落ちた。

 山岳地帯でゲリラ戦による限定的な戦闘した八路軍は、日本軍に対して大攻勢をした百団大戦が1940年8月から12月に河北省と山西省で勃発した。八路軍は重火器が乏しく、人海戦術により約2万人もの犠牲者が出た。日本軍は対抗する掃蕩作戦で、10月中旬から11月末まで八路軍に反撃を強化した。その戦闘にて、沙飛が、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の瞬間を撮影して、中国の「のロバート・キャパ」と呼称された。

 中国共産党初の従軍写真家であった沙飛は、中国の晋察冀軍区と辺区の抗日活動を撮影した。中国共産党の指導に従って中国共産党に写真迎合を提示した。1926年に通信兵として北伐に参加した。1936年9月に24歳の沙飛は、上海美術専門学校に入学して、魯迅など港湾労働者や上海の下町生活を撮影した。1937年9月に、沙飛は全民通信社の写真家として八路軍を取材して、その従軍専属となった。沙飛は写真が現実を暴露する最も有力な武器の一種に捉え、常に社会の諸現状を描写する写真として利用した。

 1937年12月に、沙飛は聶栄臻将軍によって八路軍に従軍を許可されて、晋察冀軍区の政治部宣伝部初代の編集科長に任命された。『抗敵報』の副主任を兼務して、1941年に晋察冀画報社を設立し、1942年7月7日に、中国共産党初の画報『晋察冀画報』を創刊した。1947年6月、沙飛は中国共産党に加入申請書を提出して、11月22日に共産党党員となった。1948年12月に肺結核で石家荘平和病院に入院して、1949年12月15日に沙飛は主治医である日本人の津平勝医師を射殺した。1950年2月24日に華北軍区政治部軍法処は沙飛に死刑判決を言い渡して、同時に中国共産党を除名処分された。3月4日、沙飛に対して銃殺刑が執行された。1986年になって共産党の党籍を回復した。 



2024年11月21日木曜日

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害され斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側で、野砲隊員の死体が散乱した。

ペリリュー島の浜街道を進撃してくるアメリカ軍を必死に食い止めようと日本軍兵士は野砲退院と77ミリ野砲で反撃に出た。日本軍兵士はアメリカ軍に殺害されて斃れた。崩壊した77ミリ野砲の側に、野砲隊員の死体が散乱した。敵味方入り乱れての殺し合いは再開された。アメリカ軍は多くの死傷者を出しながらも、この二回目の強行上陸で飛行場南西端に約一個連隊の上陸に成功していた。そして夕刻までにはさらに 地歩を拡大、戦車をともなって飛行場の南東端近くまで進出してきた。日本軍の抵抗はすさまじかった。

 ペリリュー島上陸2日目の16日夜から翌17日にかけて、アメリカ軍は飛行場を含む島の南部をほぼ手中にした。両軍の損害も大きく、死傷者の続出は止まなかった。アメリカ軍に橋頭堡を築かれた後に、日本軍の損害は急カーブで上昇し始めた。状況不利と判断して9月16日午後4時30分に日本軍は「第一号反撃計画」の実行を命じられた。第二連隊本部直轄部隊として待機した第一大隊の中から斬り込み決死隊を編成した。海岸陣地で朝から激戦を交えた第二大隊の予備部隊、さらにペリリュー守備の日本軍兵士の唯一の機械化部隊である師団戦車隊を加えて反撃を開始した。

 地上戦は荒れて、アメリカ軍はウムブロゴル稜線への攻撃で多くの死傷者を出した。困難な状況と海兵隊の高い消耗率にもかかわらず、アメリカ軍の増援を受け入れることに消極的であった。同じく膠着状態Ⅱに配属された第81歩兵師団の一部は、9月17日の隣国アンガー島上陸作戦に投入された。ペリリューでの戦術的優位は鈍った。パラオ北部から散発的に増援を受けたペリリュー島北部の日本軍は、ウムルブロゴル山塊の防衛線が海兵隊に包囲されて、じわじわと減らされ、死傷者が増えた。

 ペリリュー島の戦いで、アメリカ軍の死傷者は戦死1,544人、負傷者6,843人に昇った。749人を出したのに対し、第7海兵連隊は46%の死傷者を出した。現在の戦闘力基準では「戦闘不能」とみなされる。日本軍は11,000人近くが戦死したが、捕虜になったのはペリリュー島の日本軍のごく一部である301人だけだった。






2024年11月19日火曜日

イラン人質事件の救出作戦が中断された1980年4月25日に、アメリカ軍のヘリコプターが輸送機に衝突して墜落して炎上した。アメリカ軍兵士8人とイラン民間人1人が死亡した。

イラン人質事件の救出作戦が中断された1980年4月25日に、アメリカ軍のヘリコプターが輸送機に衝突して墜落して炎上した。その結果、火災が両機を破壊して、アメリカ軍兵士8人とイラン民間人1人が死亡した。炎上して焼死した死体が、破壊された両機の周辺に散乱した。

 アメリカ大使館の人質を、1980年4月25日に解放しようとしたアメリカ軍の作戦は、完全に失敗した。アメリカ軍のコマンド部隊が、8機のヘリコプターでペルシャ湾の空母から出発した。イランの砂漠の所定の地点で、輸送機と合流する予定だった。すでに2機のヘリコプターが途中で技術的なトラブルに見舞われ、作戦の中断を余儀なくされた。救出作戦は中断されて給油後に、午後2時40分頃にヘリコプターが輸送機に衝突して墜落して炎上した。

 その結果、火災が両機を破壊して、アメリカ軍兵士8人とイラン民間人1人が死亡した。EC-130に搭乗した14人のアメリカ空軍乗組員のうち5人と、RH-53Dに搭乗した5人のアメリカ海兵隊乗組員のうち3人が死亡した。EC-130は、シングルエンジンの軽実用ヘリコプターでRH-530は重輸送ヘリコプターファミリーであった。さらに救出作戦がイランに知られるやいなや、アメリカ大使館の人質は、イランの秘密の場所に分散されていた。

 イラン人質事件は1979年11月4日に、約3000人の過激派イラン人学生がテヘランのアメリカ大使館を襲撃して、60人近いアメリカ外交官を人質に取った。1980年9月22日には、イラクがイランに侵攻して、イラン・イラク戦争が勃発した。1980年11月4日のアメリカ大統領選挙で、ジミー・カーター大統領は地滑り的敗北した。アメリカ大使館人質はロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任して数分後の1981年1月20日に解放された。約444日間にわたり人質になった。




2024年11月18日月曜日

1941年6月に、ドイツ軍はクレタ島の戦いで抵抗したギリシア人を銃殺で処刑した。一斉射撃で死刑囚は即死した。武器を持たいクレタ島の民間人は戦いに身を投じた。多くのギリシャ人の民間人が戒厳令下で射殺された。

1941年6月に、ドイツ軍はクレタ島の戦いで抵抗したギリシア人を銃殺で処刑した。一斉射撃で死刑囚は即死した。武器を持たいクレタ島の民間人は戦いに身を投じた。多くのギリシャ人の民間人が戒厳令下で射殺された。クレタ島がドイツ軍に占領され、抵抗に対する報復は容赦なかった。クレタ島がドイツ軍が最初に占領した1941年6月1日から6日で200人が処刑された。

 クレタ島の戦いでの犠牲は、ギリシャ軍の死者は426人、イギリス軍の死者1,742人、戦傷者1,737人、捕虜11,835人、ドイツ軍の死者1,990人、行方不明者は1,995人に及んだ。特にドイツ空挺部隊の精鋭部隊の損失は8,000人を超えた。

 ギリシアのアルゴリスのカラッツァ村でのドイツ軍による残虐行為が1944年6月に勃発した。1944年6月4日、頭を上げて抵抗するトロイゼニア人に激怒したドイツ占領軍は、カラジャの男性全員を一斉検挙し、倉庫に閉じ込めた。翌日の6月5日、ドイツ軍は18歳から55歳までの23人を選び、ニホリ居留地のトラケイア・クラニディ道路近くにある涸れた川に連行し、処刑した。ニホリティカの基幹のクラニディ道路で、18歳のヴァシリス・ブーラスに対する拷問と殺害があり、3日間も絞首刑に処せられた。ドイツ軍の処刑は、この地域でのELASの行動に対する報復として行われた。

 ギリシアで1941年から1944年にかけてドイツ占領軍に対するレジスタンスが勃発した。当初は、ギリシャのレジスタンスはすべて同じ目的を持って一緒に始まったが、影響力を得ようとする外国勢力の介入によって次第に分裂した。それがEDES、ギリシャ軍だけでなく、EAM、ELAS、WEAPONSなどのギリシアの国家レジスタンス組織に分化した。




2024年11月17日日曜日

非公開の日本原爆被爆者の写真

ーアメリカ軍原爆調査団ー

アメリカ国立公文書館 2024年2月23日

(The National Archives College Park, Maryland) 

SC-241242

















SC-241242 

Maj. Gen. Percy W. Clarkson, CG, 10th Corps, (left) and Maj. Gen. Frank R. McCoy, Chairman of Far Eastern Advisory Commission (right) and members of the Commission look over ruins of Hiroshima.

1/26/1946

Signal Corps Photo #PA-46-64692 (Direda), released

by BPR 4/1/1946.

orig. neg.

Lot 13534

Pg



SC-241242

左から、第10軍団のパーシー・W・クラークソン中将(CG)、極東諮問委員会のフランク・R・マッコイ委員長(右)、および委員会のメンバーが広島の廃墟を見下ろす。

1946年1月26日

通信隊撮影 #PA-46-64692(ディレダ)、

BPR 1946年4月1日公開。

原本ネガ。

ロット13534

ページ

2024年11月16日土曜日

2024年5月25日に、ウクライナの第2の都市ハリコフにあるショッピングセンターの爆心地にロシア軍の誘導爆弾2発が命中した後に、警察官が駐車場で死体を検死して登録した。

2024年5月25日に、ウクライナの第2の都市ハリコフにあるショッピングセンターの爆心地にロシア軍の誘導爆弾2発が命中した後に、警察官が駐車場で死体を検死して登録した。死体の側で女性が呆然と悲嘆に暮れた。その後に警察官が死体の搬送の処置をした。

 ロシア軍は2024年5月25日に、ウクライナ第2の都市ハリコフに2発の滑空爆弾を投下し、最も混雑していた時間帯のエピツェントル建設のハイパーマーケットを直撃した。ウクライナ当局によると、爆弾が直撃したとき、建物内には200人ほどの人がいた可能性がある。衝撃の直後、ショッピングセンターで火災が発生して、ショッピングセンター全体が火災で包囲された。このロシア軍の爆撃で19人の死亡が確認されて、さらに54人が負傷した。ハリコフ市のイホル・テレホフ市長は、市中心部に対する2回目のロシア軍の空爆を、純粋なテロと呼称した。

 最初の衝撃波は、ホームセンターの商品が天井近くまで積まれた通路を粉々にした。次のロシア製爆弾は、その数秒後に彗星のごとく落下し、メガストアを灰燼に帰す炎を放った。この攻撃の直後に、ロシア軍は再びハリコフを攻撃し、今度はハリコフ中心部の住宅街を標的にし、14人が負傷した。第3の爆弾は、ハリコフの複合ショッピングセンター「エピセンター」の裏手に着弾したが、爆発に失敗した。ロシアは毎月3000発以上の爆弾を発射して、5月だけで3200発が使用された。

 ロシア軍はハッキングされた爆弾と拡張された空軍基地ネットワークでウクライナの最前線の町をより早く消滅させた。ロシア軍はウクライナから100kmも離れていない場所に滑走路を建設し、ロシア国境内の複数の基地から日常的にウクライナに爆弾を発射した。ウクライナの支配地域から600km以内にロシア軍が使用している基地は51カ所あり、ウクライナ東部占領地域に3カ所、クリミア半島に6カ所、ロシア国内に32カ所ある。













Warning: A police officer registers a dead body after two Russian guided bombs hit the Epicenter shopping complex in Khakiv, Ukraine, Saturday, May 25,2024. Andrii Marienko, AP 

2024年11月15日金曜日

東プロイセンのソ連赤軍によって、ネマースドルフ村のあらゆる年齢の女性や少女が強姦され切断され殺害され、ドイツ軍はその死体を並べて検死して現場を記録した。

第二次世界大戦の東部戦線で、東プロイセンに侵攻したソ連赤軍によって、ネマースドルフ村のあらゆる年齢の女性や少女が強姦され、切断され、殺害された。ナチス・ドイツ軍は、殺害された住民の死体を並べて検死して、ソ連赤軍の戦争犯罪の記録をとった。ネンマースドルフの虐殺は、1944年10月21日に民間人集団の虐殺が勃発した。

 ソ連赤軍は東プロイセンへの最初の侵攻で、ゴルダップの北に位置したネーマンスドルフ村で戦争犯罪である大虐殺を執行した。ネンマースドルフ村を占領したソ連赤軍兵士は、1944年10月21日に、多くの住民や、特に女性や子供を発見した。その24時間後に、ネマースドルフ村はドイツ軍部隊によって奪還した。

 ドイツ軍兵士からの報告では、ネマースドルフ村は死体だらけで散乱した。農家の道の左側に立ったはしご車に、4人の裸の女性が両手を釘付けで磔にされた。アパートでは、合計72人の女性と子供、74歳の老人の1人が殺害された。数人が後頭骨を撃たれて殺害され、その中には幼児の頭蓋骨が粉々に砕けた。8歳から12歳の少女だけでなく、ほんど全ての女性の身体には強姦の跡があった。

 ナチス・ドイツ政権のヨーゼフ・ゲッべルス宣伝省大臣が、ネンマースドルフの犯罪現場に到着し、写真と動画を作成した。1944年11月2日に、ドイツの週間ニュース映画によって、東プロイセンのネンマースドルフ村の戦争犯罪を描いた。ゲッベルスのプロパガンダだけでなく、恐ろしい現実だった。非常に示唆的なプロパガンダに聞こえ、ドイツ国民にソ連赤軍に対する恐怖と憎悪を鼓舞して、さらに狂信的な抵抗を行うよう洗脳した。

 ネンマースドルフの大虐殺は、何百万人ものドイツ人女性にソ連赤軍に対する恐怖と憎悪の想像力をかき立て、一種の殺戮狂に陥った。1945年の冬から春にかけて、何千人ものドイツ人女性が、ソ連赤軍が侵攻する言葉に反応して自殺し、その多くは死ぬ前に自分の子供も殺した。



2024年11月14日木曜日

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領して、米不足がベトナムに広がった。

ベトナム人の餓死者は、死体が山のように積み上げて、車で運ばれて処理された。1944 年冬から1945年に飢餓が日本軍が占領したベトナムに広がり、ますます深刻になり、米不足は田舎から都市部、さらには首都ハノイにまで広がった。多くの地域で、家族全員、近所全体、あるいは村のほぼ全体が死亡した。日本軍兵士に発されないようにヴォー・アン・ニンは、ベトナム人の餓死者をみつめ、ひそかに写真として残した

 5年にわたる日本軍のベトナム支配によっておこったもっとも大きな災難は、食料危機であった半世紀以上におよぶフランス軍の植民地支配と5年間の日本軍の占領で、ベトナムナの生産と生活は悲惨なものになっていた。とりわけ日本軍の占領政策は、ベトナムナを食料や物資の補給基地と位置づけたために、生産された米は剥奪されて、トウモロコシなどの食用作物にかわって、ジュート(袋や綱の原料で麻の一種)の栽培が強制されて、食料不足に苦悩した。

 1994年から1945年にかけてのベトナム北部一帯の冬は、特にに寒さがきびしく、ただでさえ食料難に苦しむ人びとにダブルパンチをくわえた。その結果として膨大な餓死者をだすことになった。その数は一説では200万人ともいわれている。にもかかわらず日本軍の倉庫には、米が山のように積み込まれた。

 特にベトナムでアトダウの年の旧正月(1945年2月13日)に、空腹の隣には寒冬が到来して、首都ハノイでは気温4度まで下がった。泣き叫ぶ老婦人、壁の隅に群がってマットの上に横たわる裸の子供たち、裸で道端に横たわる父親や子供たち、ねじれた死体が散乱した。犠牲者数は、ベトナムの人口1,000万人未満のうち200万人が死亡した。ベトナムの北部山岳地帯では、軍隊と大衆が拠点を攻撃して地区の占拠に対して蜂起したが、人々に配布された穀物や塩の倉庫を破壊して、兵士とゲリラのために保管された。1945年3月から7月にかけて米倉庫の破壊を、ベトミンが扇動した。人々は穀倉を自ら破壊するように促され、税金を支払わないように扇動され、米の分配を要求された。




2024年11月13日水曜日

ハンガリー革命の指導者であるクン・ベーラ政権の赤色テロのなかで、反革命の容疑者の数百人が1919年5月に死刑となり、レーニン少年が死体にポーズをとった。

ハンガリー革命の指導者であるクン・ベーラによるクン政権の「赤色テロ」のなかで「反革命」の容疑をかけられた数百人が1919年5月に死刑で処刑された。1919年春に、赤色のテロの犠牲者の死体と革命テロ集団であるレーニン少年はポーズをとった。1919年春にクン政権はルーマニア軍による侵攻で打倒されて短命に終わった。

 1918年11月にクンはソ連の支援を受けて、ハンガリー共産党を設立した。ミハーイ・カーロイの政府に反抗する運動を展開した。1919年3月にクンは釈放されるとクーデターを成功させ、共産主義政権であるハンガリー・ソビエト共和国の樹立を宣言した。新政権は4ヵ月後に、ルーマニア軍の進撃に直面し崩壊した。クン政権の失脚後に、反革命部隊は同様の虐殺の報復を行った。1930年代後半のスターリンの大粛清に、クンは裁判にて死刑で処刑された。

 ハンガリーの赤色テロは、1919年3月21日から8月1日まで存続したハンガリー・ソビエト共和国のハンガリー共産党が、約4ヶ月間に行った抑圧的な暴力と弾圧である。主に反共産主義勢力が国家の敵とみなした人々を虐殺した。ハンガリー・ソビエト共和国はソ連のボリシェヴィキ方式に従って、レーニン少年などの革命テロ集団を設立した。赤色テロにより、最大590人が殺害された。

 第一次世界大戦の余波で、1918年にドイツが西部戦線で敗北する中で、オーストリア=ハンガリー王政は崩壊した。1918年11月16日に、オーストリア=ハンガリー君主国のシャルル1世が政権から離脱した直後に、ミハーイ・カーロイは自らを臨時大統領とするハンガリー民主共和国を宣言して、1919年1月11日に大統領に就任した。カーロイは、1919年3月21日に共産党のハンガリー・ソビエト共和国の新政権に逮捕された。





2024年11月12日火曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて1942年11月に、ドイツ軍はユーゴスラビア愛国者を絞首刑で処刑した。最初のパルチザンの抵抗行為に対する報復として、ドイツ軍は1941年秋に大量虐殺を執行した。

第二次世界大戦の東部戦線にて1942年11月に、ドイツ軍はユーゴスラビア愛国者を絞首刑で処刑した。ドイツ軍の侵攻により、ユーゴスラビアは内部分裂により崩壊した。1941年から1945年にかけて、ユーゴスラビアの共産主義者、クロアチアのファシスト、セルビア王党派とドイツ占領軍の3者間の内戦の紛争によって、占領国は引き裂かれた。少なくとも100万人が死亡した。

 1941年春にドイツ国防軍がユーゴスラビアを占領して、多民族国家が崩壊した。その後に、民族主義者グループが、第二次世界大戦にて最初のパルチザン部隊となった。パルチザンは弱武装の民兵は山岳地帯に退却して、占領ドイツ軍と戦った。最初のパルチザンの抵抗行為に対する報復として、ドイツ軍は1941年秋に大量虐殺を執行した。パルチザンは大規模な抵抗運動を控えた。1943年にドイツ親衛隊によるギャング狩りにより、民間人の犠牲者の数は数ヶ月でかなり増大した。パルチザンの包括的な武装蜂起は、占領ドイツ軍が疲弊して、全般的な戦況が不利に転じてから宣言された。

 枢軸国占領軍であるドイツ軍、イタリア軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍の占領軍はユーゴスラビアの住民に対して残虐行為を行った。パルチザンの攻撃や抵抗に対する報復として、民間人や人質の大量殺戮の虐殺した。有名な事件として、ドイツ軍によるクラグジェヴァツ虐殺があり、アルバニア人のヴァッフェン親衛隊SS部隊が、アンドリエヴィツァで400人以上の正統派キリスト教徒を殺害した。ハンガリー軍によるノヴィ・サド虐殺により、南部バチュカ地方で3,000~4,000人の市民が殺害された。イタリア軍によりポドゥムの虐殺により、1942年7月12日にポドゥムの村で、パルチザンの襲撃に対する報復として、イタリア占領軍がクロアチア人の91人の民間人を殺害した。

 パルチザンによる復讐行為は隠蔽され、パルチザンに積極的に参加しなかった多くの人々や捕虜をドイツ軍の協力者とみなして、恣意的に処罰して、収容、抑留、追放、殺害、弾圧した。ファシストのユーゴスラビア人戦闘員に対するブライブルクの虐殺、ゴットシェール人やドナウ・シュヴァーベン人の少数民族の虐殺した。ユーゴスラビアのパルチザンが、1943年秋と1945年春に、イタリア住民に対して、フォイベの虐殺を執行した。戦後も虐殺した地域は、制限された軍事エリアとして一般人から遮蔽された。




2024年11月11日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月13日に、北朝鮮の朝鮮人民遊撃隊の指導者である李昊濟は、韓国軍警察部隊による討伐隊との戦闘中に戦死して、李昊濟の死体から頭部が断頭された。

朝鮮戦争の直前の1950年4月13日に、北朝鮮の朝鮮人民遊撃隊の指導者である李昊濟(イ・ホンジェ, 이호제)は、韓国軍の警察部隊による討伐隊との戦闘中に戦死した。その時に、李昊濟の死体から頭部が断頭された。1949年8月には、李昊濟の朝鮮人民遊撃隊は38度線に近い五台山で、小規模の野山隊を取り込んで、遊撃隊は約400人の部隊となり、慶州の北方の宝峴山まで侵攻した。韓国軍警察部隊による討伐それて、李昊濟の朝鮮人民遊撃隊は1949年12月頃に崩壊していた。

 李昊濟は、アメリカ軍による朝鮮半島の統治期初期の1945年12月に、北朝鮮の全朝鮮青年団体総同盟中央委員長として、清銃を率いた。その直後に北朝鮮の金日成の社会主義青年同盟の前身の南朝鮮民主青年同盟の委員長として、左翼青年運動の指導者として活動した。左翼活動が韓国で違法化される過程で、北朝鮮に脱北して、工作員養成機関である江東政治学院長になった。

 江東政治学院は、北朝鮮の工作員である朝鮮人民遊撃隊を養成する機関として、南朝鮮労働党の軍事的基盤となった。李昊濟は1948年4月3日に勃発した済州島四・三事件に参入した。麗水・順天事件にて、1948年10月19日に勃発して、軍隊が反乱して、民間人が殺害された。李昊濟は、1949年6月には、北朝鮮の祖国統一民主主義戦線の命令を受けて、江東政治学院で養成した遊撃隊員の360余人を率いて太白山脈に沿って南下した。麗水の軍隊反乱軍の一部を取り込んで、38度線に近い五台山地区を陣地としていた。