2023年5月17日水曜日

第二次世界大戦の西部戦線で1944年12月6日に、フランス北東部グランエスト県のドイツ国境近辺のフォルクスベルグ地区にて、アメリカ軍兵士が殺害したドイツ軍兵士の死体に、トランプを投げつけて死体を冒涜した。

第二次世界大戦の西部戦線で1944年12月6日に、フランス北東部グランエスト県のドイツ国境近辺のフォルクスベルグ地区にて、アメリカ軍兵士が殺害したドイツ軍兵士の死体に、トランプを投げつけて死体を冒涜した。その冒涜されたドイツ軍兵士の死体を、アメリカ陸軍信号部隊の撮影隊が写真撮影した。アメリカ軍当局は、アメリカ軍兵士がドイツ軍兵士の死体を不遜に扱ったり軽蔑する可能性を示唆する写真は検閲して戦争中は非公開にしていた。

 第二次世界戦争中は、検閲にてほとんど公開されなかった資料の一例である。この写真は、戦争疲れと宣伝的な行動喚起に過剰な露出で対抗するために、特例として戦争末期にのみ一般公開された。検閲する官憲は、アメリカ軍兵士が自制心を失っている写真はすべて検閲して非公開にしていた。まれに戦争疲れの心理的影響を喚起する写真を公開することがあった。

 写真の説明文は、戦時中に検閲された画像と公開された画像を明確にした。ビジュアル・エッセイに登場する検閲された画像のほとんどは、CEと指定された国立公文書館のファイルから入手した。知る限り、CE識別番号を持つ画像はすべて、何年も、ほとんどの場合、何十年も検閲された資料のファイルに残存した。現在では、国立公文書館の静止画部門にいる研究者がアクセスできる。CEファイルにはなかったが、当局がその画像の公開を制限した他の証拠がある場合は、説明文や本文に制限の内容や証拠を示した。

 アメリカ軍は1944年9月から12月中旬まで、フランス戦線にてドイツ軍をロレーヌから追い出し、ジークフリートラインの背後から追放するために戦った。モーゼル川の横断とメッツ要塞の占領は、ドイツ軍は増援、補給不足、悪天候に直面して、アメリカ軍の防御は困難なものであった。1944年9月から10月にかけて、連合国第6軍集団(アメリカ第7軍とフランス第1軍)は、ヴォージュ山脈を舞台にして、ドイツ軍の執拗な抵抗と侵攻の遅れを象徴とる困難な作戦で戦った。しかし、11月に入ると、ドイツ軍の戦線は連合軍の圧力に耐え切れず、連合軍の急激な侵攻により、ベルフォール、ミュルーズ、ストラスブールは解放されて、連合軍はライン川沿いに配置された。ドイツ軍はライン川西岸、コルマール市を中心とする大規模な橋頭堡を保持できた。11月16日に、連合軍はクイーン作戦と呼称する大規模な秋季攻勢を開始した。ヒュルトゲンの森を再び主戦場とした攻勢は、連合軍はルール川まで追い込んだが、ルールダムの攻略とライン川への道筋をつける主要目的は果たせなかった。連合軍の作戦はその後、ドイツ軍のアルデンヌ攻勢に向けて引き継がれた。





2023年5月16日火曜日

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズの軽機関銃の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引張り出して検死した。

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズ付近の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引きずり出した。アメリカ軍兵士は、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、戦死した多数の日本軍兵士の死体を、日本軍の軽機関銃の陣地から引張り出して検死した。 

 日本陸軍第4歩兵連隊は、ガダルカナル島のポイント・クルーズ地区を防御した。日本軍第4歩兵連隊は戦死者や負傷者、熱帯病、栄養失調のために疲弊した。アメリカ軍は1942年11月1日から攻撃を開始して、11月3日までにポイント・クルーズ地区を防御した日本軍を壊滅した。そのマタニカウ攻勢にて、アメリカ軍はマタニカウ川を渡り、ガダルカナル海岸北部のポイントクルーズまでの日本軍部隊を1942年11月1日から4日まで攻撃した。アメリカ軍は約71人が死亡して、日本軍兵士は約400人以上が死亡した。11月1日にアメリカ軍海兵隊は、戦艦の支援を受けながら、マタニカウ川を渡って侵攻を開始した。

 11月2日にアメリカ軍は、ポイントクルーズの西海岸に到達し、日本軍を包囲した。日本軍の防御陣地には、ポイントクルーズの西海岸沿いの小道、珊瑚、土、丸太の壕、洞窟や狐穴があった。アメリカ軍砲兵は11月2日の終日に、日本軍陣地を砲撃して、日本軍守備隊には甚大な死傷者を出した。北部の日本軍には固定銃剣の正面攻撃を行って、日本軍の防衛隊を制圧して殺害した。

 11月3日には、アメリカ軍はポイントクルーズを越えて侵攻した。11月3日に、日本軍一部が塹壕の脱出を試みたが、海兵隊に殺害された。アメリカ軍は、小銃、迫撃砲、爆薬、直接・間接砲火を使用して、ポイントクルーズ付近の日本軍陣地の破壊した。ヤシの木の間に約300人ほどの若い日本軍兵士の引き裂かれ、粉々になった死体がずらりと並び、生存者は一人もいなかった。

 ガダルカナル島の激戦は、1942年8月7日から1943年2月3日まで継続した。陸・海・空で戦闘が繰り広げられた。ガダルカナルの戦いでは、次第に食料が枯渇して、日本軍兵士は戦争で殺害されるよりも、栄養失調にて餓死あるいは病死する兵士数が急増した。日本軍は約31,000人、アメリカ軍は約7,100人の兵士、船員、飛行士、海兵隊員が犠牲になった。




2023年5月15日月曜日

文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、1980年2月8日に銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。

中華人民共和国の黒龍江省のハルビン郊外の南東約30kmの雪原の野原で、1980年2月8日にトラックから降ろされた。ハルビン郊外に広がる雪の野原に強制連行された王守信は、死刑の執行を待った。文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。




 黒龍江省の党支部書記と賓県燃料公司の社長であった52歳女性の王守信が、約10万ドルの金を横領したと、1979年に文化大革命で迫害されたノンフィクション作家の劉賓雁が人妖の間の暴露記事で告発した。王守信は、文化大革命以前は単なる出納係であった。文化大革命にて造反派を組織して、急進的な政治権力を掌握した。中国全土に蔓延る斡旋収賄と汚職の象徴となる横領犯として裁判された。ハルビンの工人体育館でわずか3日間の公開裁判で、王守信は無実を叫ぶも、拷問して沈黙させた。有罪して死刑の判決を受けた。その他の暴力犯罪と比較しても、あまりにも死刑の判決は重大すぎた。1980年2月8日に、死刑は執行された。

 毛沢東は、1966年から腹心の林彪や四人組の共産党幹部らと、紅衛兵と呼称された若者たちを扇動した。旧来の社会主義に市場経済の導入を図った走資派の政権幹部を暴力的に迫害した。文化大革命をスローガンに、紅衛兵が全中国に暴走して、伝統文化や市民に甚大な被害を伴った。紅衛兵の暴動はしだいに毛沢東にも制御不能になった。1976年に、毛沢東の死と四人組の逮捕によって国家的騒乱が終結した。  

 1966年の秋までに、ほとんどの中国人にとって、毛沢東は生き神様になっていた。毛沢東は、1958年2月に中国を大躍進に導いた毛沢東は、2000万人以上の死者を出す壊滅的な飢饉をもたらして1959年に失脚した。毛沢東は、1966年の文化大革命の最初の数年間、天安門広場で約1100万人以上の紅衛兵を出迎えた。人々は、地主、金持ちの農民、反革命分子、悪い人物という4つの要素に属した市民が非難され、即座に処分された。文化大革命での推定死者数は間接も含めると、総計約2,000万人と推定された。




2023年5月14日日曜日

2023年4月28日のロシア軍の20発以上の巡航ミサイル攻撃とドローン2機の中の2発の巡航ミサイルがウクライナ中部のウマンのアパートに激突して、消防士は死体を運搬して、犠牲者の約23人はほぼ全員が死亡した。

2023年4月28日のロシア軍の20発以上の巡航ミサイル攻撃とドローン2機の中の2発の巡航ミサイルがウクライナ中部のウマンのアパートに激突した。住宅ビルの瓦礫から、消防士は回収された死体を運搬した。約23人の犠牲者のほぼ全員が死亡した。その23人の死者の中に、6人の子供が含まれた。



    Warning: Firefighters carry a body recovered from the rubble of a residential building that was hit during a Russian attack in Uman, central Ukraine, Friday, April 28, 2023. (AP Photo/Bernat Armangue)

   弟6歳のミハイル・シュルガ(Mykhayl Shulha)は、4月30日の葬儀で11歳の姉ソフィア・シュルガ(Sofia Shulha)の棺の横で、親族と泣きながら抱き合った。その他に参列者は17歳のピサレフ・キリウシャ(Pysarev Kiriusha)少年に哀悼を表した。弔問客がロウソクを手にして賛美歌を歌う中、イコン教会の司祭は、棺の上で線香の容器を振り回した。




 







Warning: Mykhayl Shulha, center, cries next to the coffin of his sister Sofia Shulha during a funeral prayer in Uman, central Ukraine, Sunday, April 30, 2023. Sofia Shulha, 11, and Pysarev Kiriusha, 17, were killed during a Russian attack on a residential building early Friday morning. (AP Photo/Bernat Armangue)


   ロシア・ウクライナ戦争の戦闘は、戦場以外の場所でも長距離ミサイルで多くの命が奪われた。ウクライナ中部のウマンへのロシア軍のミサイル攻撃で死亡した子供やその他の市民を葬儀して、4月30日に親族や友人は棺の前で泣いた。ウマンの被災した建物の近辺に、市民が花や犠牲者の写真を持ってきた。9階建てアパートへの攻撃は、キエフから南に約215kmに位置する都市ウマンで発生しました。

 ロシア・ウクライナの戦争は、同4月30日に、他の場所でも多くの死者をもたらした。ウクライナの国境を接するロシア地域は、ウクライナ軍のロケット弾攻撃で、4人が死亡した。ロケット弾がウクライナとの国境から約9km離れたスゼムカ村の家屋を直撃した。ロシアのベルゴロド州では、戦争中散発的に国境を越えた砲撃を受けた。3月には、ウクライナの破壊工作員によるブリャンスク地方への侵攻で、2人が死亡した。

 同4月30日には、ウクライナのケルソン地方で過去24時間に約27回のロシア軍の砲撃を受けて、市民1人が死亡した。ウクライナ北部のブリャンスクとベルゴロドに接するスミ州とチェルニヒフ州は、同4月30日の夜間に約11回の砲撃を受けた。ドニプロペトロフスク州では、ロシア軍の砲撃でニコポルの48歳の住民が死亡し、2人が負傷した。6棟の多層ビルと6棟の民家が被害を受け、その他数棟の建物、ガスパイプライン、送電線が破損した。

2023年5月13日土曜日

1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。

 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に広島市内に落下して炸裂した。1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。広島の中心商店街であった本通商店街は一瞬にして瓦礫と化した。写真の右側にはキリンビールホールと爆風で変形して倒壊した下村宝石店、左奥には中国新聞ビルなどが見えた。広島市民が、廃墟となった焼け跡の広島市内の街路を、大八車などを引きながら移動した。 

 佐々木雄一郎は、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。日本の敗戦により、退職金の代わりのフィルムを携えて、1945年8月18日に広島市に帰省した。母や兄家族、姉、妹ら親族の約13人が死亡や行方不明となった。最初は肉親の死亡した場所だけを写真撮影する予定が、再度に撮影したい場所が見つかった。次第に広島原子爆弾による広島市の復興から変貌の写真撮影に深入りした。元宇品町(南区)に住み着くと、観光の写真撮影で生計を立てながら、被爆都市の広島市を記録し続けた。被爆者の苦痛を知り、物言わぬ墓標を一徹に撮影した。シャッターをきるうちに、約10万枚を撮影した。職業病である眼病を乗り越えて、組織に属さず市民のカメラマンを貫いて記録し続けた。『写真記録 ヒロシマ25年』(朝日新聞社)を、1970年7月30日に出版した。原爆はヒロシマの地上に存在するあらゆるものを破壊した。だが、その大地までは消し去ることはできなかった。

 佐々木雄一郎は、広島原子爆弾の爆心地からの距離をあらわす円周にむかって、8本の線と2個の点を図示した。放射状に8本の線をのばした。この8本の線が円周上に鋭く突刺さり停止した点が、彼の肉親約13人が被爆した地点である。13人は全員が爆死あるいは行方向不明となった。行方不明で未だに線の引けなにい迷える1個の点も含めた。被爆図が、一片の生の匂いもとどめぬ、完璧な原爆死を証明した。広島市の戦後は原子爆弾の被爆後からはじまった。





2023年5月12日金曜日

日本軍が広東攻略戦で広州を1938年10月に陥落した後に、広州市街のあちこちに死体が散乱していた。日本軍の爆撃機による無差別爆撃により、広州は激しい爆撃を受けた。

日本軍が広州を1938年10月に陥落した後に、広州市街のあちこちに死体が散乱していた。日本軍の爆撃機による無差別爆撃により、広州は激しい爆撃を受けた。街中は瓦礫だらけで、市民は防空壕に避難をして、死体を木箱に乗せて引きずられた。日本軍の爆撃機は、表向きは軍事戦略の旗印のもとで、一般人や公共施設にも砲弾を向けた。官舎や要塞を除けば、鉄道駅や空港、商店、民家はどこも被害は免れなかった。日本軍は広東省政府を占領して、門に日の丸を立てた。日本軍が広州を占領後に、野原には死体が散乱した。

 広東攻略戦において1938年10月初旬、日本軍の約4万人以上が、大亜湾に上陸して広州の占領を開始した。中国革命軍の約8万人は、大亜湾から広州までの広東省と珠江東岸を防御した。10月12日未明に、日本軍は大亜湾に上陸した。中国革命軍の守備隊は抵抗した後、広州市街を放棄して夜退却した。日本軍の爆撃を受けて、多大な犠牲を出した。日本軍は13日に平山を、10月14日に恒里を占領し、日本軍は優勢な戦力で恵州への猛攻撃を開始した。10月17日、日本軍部隊を撃破し、中国革命軍は保呂に退却させた。10月18日、日本軍は縣港と石澳を包囲して攻撃し、中国革命軍は大きな損害を被った。日本軍は戦車で猛攻して、中国革命軍は敗走した。10月20日日本軍は防衛線を突破し、曾城県を占領した。10月21日に、日本軍は沙河を占領し、広州市を占拠した。10月23日に太平倉とに従化を占領した。10月23日に虎門要塞、10月25日に三水、10月26日に佛山を攻略し、10月29日には広州市南郊に到達した。日本軍は広州と周辺の要衝を支配下に置いた。広州の戦いで中国軍は約10,000人、日本軍は約2,500人が犠牲となった。

 日本軍の広州爆撃では、約100回近い空襲で、爆撃機は900機以上の出撃があった。約6000人以上が死亡して、約8000人近くが負傷して、約4000軒以上が破壊され、約100隻近い船が破壊された。繁栄した広州はその後7年間に日本軍の支配下に置かれた。日本軍が広州を占領した後、彼らは焼き討ちと略奪を開始した。何十本もの通りに火をつけ、賑やかな商業地区を瓦礫の原に変えた。市内の商店は略奪され、地方の民間工場はすべて日本軍に占領されるか移転させられ、民家も、食料、家具、寝具までも略奪された。




2023年5月11日木曜日

北ベトナム軍のイースター攻勢により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入し、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミス病院で、治療を受けるのを待機した。

北ベトナム軍のイースター攻勢(Easter Offensive)により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入して、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミスの病院で、治療を受けるのを待機した。戦闘が続く中で、北ベトナムのベトナム人民軍から絶え間ない砲撃にさらされ、何度も戦車に突撃された。毎日の砲撃で瓦礫と化した町には、腐敗した死体の臭いが充満した。

 北ベトナム軍の1972年3月30日からのイースター攻勢により、南ベトナムの最北中部沿岸のクアンチー市北部の戦線が崩壊した。南ベトナム(ARVN)軍と市民が国道1号線に殺到しパニックに陥った。ドンハの住民はほぼ全員が逃げ出し、デビッド・エリオットは廃墟と化した。大量の難民がフエに到達すると、フエの住民もパニックに陥った。ハイヴァン峠の南方のダナンに避難するために国道1号に住民が流入し始めた。1966年4月6日に、ベトナム人民軍(PAVN)部隊はロック・ニンを占領して、サイゴン北部のアンロックに攻め込んだ。サイゴン市内に残存した予備軍は、攻勢に対応するため国道13号線を急行した。サイゴンのアメリカ軍ラジオは、爆撃機の戦闘機をカンザスからベトナムに派遣することを発表した。

 北ベトナム軍のイースター攻勢は、ベトナム戦争中の1972年3月30日から10月22日まで、北ベトナム正規軍(PAVN)が南ベトナム正規軍(ARVN)とアメリカ合衆国軍に対する軍事攻勢である。北ベトナム軍は、3つの戦線を同時に攻撃した。規模と激しさに南ベトナム防衛側はバランスを崩した。北ベトナム軍が、1968年のテト攻勢以来初めて南ベトナムに侵攻した。北ベトナム軍は約1ヶ月に及ぶ第一戦線で、南ベトナムの防御陣地を制圧し、クアンティ市を占領した。その後に南下してフエの占領を攻勢した。北ベトナム軍は第ニ戦線で辺境防衛部隊を排除して、州都コンツムに侵攻した。サイゴンの北東の第三戦線で、北ベトナム軍はロック・ニンを制圧し、ビン・ロン州の州都アン・ロックを侵攻した。

 北ベトナム軍が侵攻の4月、停滞の5月、6月から7月は南ベトナム軍の反撃、9月のクアン・チ市の奪還に達した。3つの戦線で、北ベトナム軍は多くの死傷者と無能な戦術により頓挫した。イースター攻勢の結果、1968年11月以来、アメリカ軍は初めて北ベトナムに持連続的な北爆が開始された。南ベトナム軍はイースター攻勢による北ベトナムの侵攻を阻止した。北ベトナムは、装甲や装備の多くを失い、約10万人もの兵力を失う。南ベトナムの死傷者は約43,000人、うち約10,000人が死亡した。アメリカ軍兵士は、約10,000人が戦死して、33,000人が戦傷した。イースター攻勢の結果、約25,000人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。




2023年5月10日水曜日

第一次世界大戦の東部戦線で1918年4月に、オーストリア=ハンガリー軍兵士が、ウクライナのドニプロ市のエカテリノスラフスク通りで、ウクライナ人の労働者をポール方式による公開の絞首刑で大量虐殺した。

第一次世界大戦の東部戦線で1918年4月に、オーストリア=ハンガリー軍兵士が、ウクライナのドニプロ市のエカテリノスラフスク通りで、ウクライナ人の労働者をポール方式による公開の絞首刑で大量虐殺した。第一次世界大戦中に、オーストリア=ハンガリー軍は、パルチザンや反抗者など、現実の敵あるいは想定される敵を相手に略式の処刑で、死刑を頻繁に執行した。

 ドニプロ市は侵略が繰り返されて、2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争の激戦地域であるドンバス州の北部に隣接する。ドニプロ市は、ドンバス州の北部に隣接するドニプロペトロフスク州の州都である。ドニプロ市は二月革命後の1917年11月に、ウクライナ人民共和国に属した。1918年1月9日に、ソ連からボリシェヴィキの部隊が侵攻して、ドニプロ市を占領した。それから1918年4月まで、ドネツク・クリウォイ・ログ・ソビエト共和国に併合された。1918年4月以降は、ドニプロ市はドイツ軍の占領区に属した。1919年1月から6月29日までは赤色・ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に属し、その後に、白色運動の支配地域の白色南ロシアに属した。

 ロシア内戦の間は、ドニプロ市は戦闘や破壊を免れた。1918年12月27日から31日までと1919年11月9日から12月9日までの2回、ウクライナ革命反乱軍兵士が占領した。1918年に、ウクライナ人民共和国とウクライナ国家の連合軍は追放された。1919年にドニプロは、白軍の部隊が追放された後に、ウクライナ革命反乱軍の首都となった。1919年12月30日にロシア赤軍がドニプロ市を占領し、ロシア内戦に最終的に勝利した。1933年のホロドモールの際には、ウクライナでは数百万人が餓死した。第二次世界大戦中、ドニプロ市は甚大な被害を受けた。1941年9月に、ドイツ国防軍が占領した。1943年10月に、ドイツ軍は撤退を余儀なくされ、ソ連が占領した。




2023年5月9日火曜日

太平洋戦争のサイパン島の戦いで、日本軍兵士が歩哨の隙をうかがって、アメリカ軍兵士に奇襲した。直後に、アメリカ軍兵士から逆襲されて、射殺されて殺害された。

太平洋戦争のサイパン島の戦いで、日本軍兵士が歩哨の隙をうかがって、アメリカ軍兵士に奇襲した。直後に、アメリカ軍兵士から逆襲されて、射殺されて殺害された。殺害したアメリカ軍兵士が、日本軍兵士の死体に近づいて検死した。サイパンの戦いでの極限の接近戦により、日本軍兵士の突撃の勢いが、海兵隊員を数インチまで追い詰めた。海兵隊の圧倒的な防衛である機関銃は、侵入する日本軍兵士の格好の標的となった。音と銃口の閃光は、日本軍兵士の注意を引きつけて、日本軍兵士は、短時間の偵察で忍び寄り、手榴弾を投げたり、ナイフで銃座に飛び込んだ。サイパン島の戦いは、1944年6月15日から7月9日に勃発した。日本軍は陸軍約22,702人と海軍約6,690人が、頑強に悲惨に奮戦した。

 サイパン島の戦い初日である1944年6月15日は、日本軍は海岸でアメリカ軍を撃破できず、殲滅を目的とした日本軍兵士はラッパを吹き、旗を振って突撃した。アメリカ軍の武力にに蹂躙され撤退し、戦場には約700人近い死者を残した。塹壕の中は、日本軍兵士の死体でいっぱいなった。最初のサイパン島の民間人が戦線になだれ込んで、苦しみ、不潔になり、病気になり、負傷した。敵対する日本軍兵士と怯えた民間人を見分ける術はなかった。動くものはすべて銃撃した。やがて、生き残った日本軍は尾根を越えて退却した。 

 サイパン島の標高約474mのタポチョ山は、サイパン島の中央部にそびえた。長い山道を登りながら激戦をかさねた後に、ちょうどアメリカ軍はサイパン上陸後の11日目にタポーチョ山を占領した。山頂よりアメリカ軍は島の北端のマルビ岬まで一望の中に眺めることができた。アメリカ軍は、しだいに日本軍をサイパン島の北端へ押し込め始めた。6月30日にはタポチョ山一帯の日本軍は掃討され、残存部隊はガラパン方面に撤退した。日本軍が北部へ転進した後に、アメリカ軍が追撃した。タポチョ山制圧までに、アメリカ軍海兵隊はかなり甚大な死傷者を出して、未訓練の陸軍部隊にさまたげられた。上陸軍の司令官は、同名の師団長ラルフ・スミス陸軍少将を解任した。陸軍側は大憤慨を起して、太平洋戦線でアメリカ軍は最悪の陸海軍間の抗争に発展した。




2023年5月8日月曜日

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。イギリス軍医師が、ボーア戦争のモンテ・クリストの戦いで、銃剣傷を負った被害者のボーア人兵士の手当てをした。加害者のイギリス軍兵士は、被害者に気がついた。「被害者のボーア人兵士の具合は悪いのですか」とイギリス軍医師に尋ねた。「はい、かなり悪いです」と医師は返事をした。「まあ、できる限り優しくやったよ。実際、ボーア人に銃剣を押し込むよりも、銃剣を引き出して傷ついた!」と、加害者のイギリス軍兵士のコックニーは言った。「その後、ボーア人に水筒から飲み物を飲ませたんだ。被害者のボーア人が私に出会ったのは、ちょっとした幸運だったと思わないか」

 ボーア戦争にてハイデルベルク近郊で、2人の特殊隊員がイギリス軍将校を驚かして重傷を負わせた。特殊隊員は、イギリス軍将校の傷の手当てをして、最も近いイギリス軍キャンプに連れて行った。特殊隊員の人道的行為は非常に高く評価された。キャンプを出る前に夕食と風呂が与えられた。ボーア戦争後に、将校の両親は、息子であるイギリス軍将校の命を救ったことに感謝するため、特殊隊員の一人であるレナード・ビュイスを訪問した。

 ボーア戦争にてメシュ―エン将軍は、まともな状態でボーア軍に捕らえられた唯一のイギリス軍の将軍であった。逆に致命傷を負ったペン・シモンズ少将は、ダンディーで一時的にボーアの捕虜となって死亡した。デラリー将軍は、トウィーボッシュの戦いで大腿部を負傷し、同じダンディーで捕らえられた。デラリー将軍は抗議にも関わらず、クラークス・ドロップのイギリス病院に送り込まれた。戦後、メシュ―エンとデラリーの二人は友人となり、1915年にデラリーの死亡を聞いたメシュ―エンは「戦争では勇敢な敵のボーア人を、平和では真のイギリス軍の友を失った」と言った。

 ボーア戦争のゲリラ段階にて、ボーア人は重態の死傷者をイギリス軍の救急車に残した。イギリス軍の農場焼き討ちや民間人狩りなどの残酷な行為の中で、1つだけ救われる点があった。イギリス軍兵士が、将校も男性も、ゆるぎない人道的な態度をとっていた。傷病者を部隊の慈悲にためらいもなく委ねた。人道的な態度が、戦争の厳しいさを和らげた。

  ボーア戦争は1899年10月11日から1902年5月31日まで、約50万人のイギリス軍は南アフリカでボーア人を相手に厳しい植民地戦争であるボーア戦争(Anglo-Boer War)を繰り広げた。多勢に無勢とはいえ、約88,000人のボーア人は熟練した強い敵だった。最初の挫折と長いゲリラ戦の後に、イギリス軍は最終的に勝利を収めて南アフリカを占領した。イギリス軍は約2万人以上、ボーア軍は約1万4千人以上が戦死した。




2023年5月7日日曜日

ウクライナ軍兵士は、2023年1月12日にハリキウ州のクリリブカ近郊にて2022年9月下旬の戦場で、凍った泥のプールから砲撃により殺害されたロシア軍兵士の死体を回収した。

ウクライナ軍兵士の死体回収チームは、2023年1月12日にハリキウ州のクリリブカ(Kurylivka)近郊の2022年9月下旬の戦場で、凍った泥のプールから殺害されたロシア軍兵士の死体を回収した。ロシア軍兵士の死体は、2022年9月下旬の戦場でウクライナ軍により破壊されたロシア軍の装甲車の近くで発見された。ウクライナ軍の死体回収チームは、砲撃のために殺害された死体の8体のうち3体を回収できた。ロシア軍がハリキウ州から撤退した後には、ロシア軍が破棄して捨て去った死体や戦車が散乱した。

 ハリキウ州のクリリブカでは、2022年9月25日に、ウクライナ北東部のロシア領内での戦闘から逃れようとした約31人を乗せた車両が襲撃され、7人が死亡した。イギリスは2023年9月期に、ロシア軍の戦死者数は約2万5000人以上、捕虜や負傷者を含める戦死傷者数は、約8万人に上ると推定した。ロシアの国防相は2023年9月期に、約5,937人のロシア軍兵士が戦死したと発表した。ノルウェー軍は2023年1月22日に、ロシア軍は約18万人の死傷者を出し、ウクライナ軍兵士の戦傷者は約10万人、民間人は犠牲者約3万人であると推定した。アメリカ軍も、ロシア軍の死傷者は10万人を超えて、ウクライナ軍も同程度の死傷者が出たと推定した。ロシア軍もウクライナ軍も、数ヶ月間、信頼できる犠牲者数の公表していない。

 2022年9月12日にロシア軍は、ハルキウ市近郊で占領した地域の大部分を明け渡して撤退した。9月13日に、ハルキウ州から撤退した初期段階で、ロシア軍部隊は甚大な犠牲を出し、ウクライナ軍の反撃を前に完全に再編成できなかった。プーチン大統領は、9月21日に職業軍人だけでなく、予備役などのロシア国民を部分的に約30万人以上も動員する大統領令に署名した。ロシアは9月23日から9月26日に併合するためにウクライナ南部と東部の4州の住民投票を強行した。9月30日にロシア議会の決議を経て、併合の手続きが強行されて、4州は併合条約に署名した。


















Warning: Ukrainian servicemen recover the remains of Russian soldiers from frozen pools of mud on the frontline on January 12, 2023 in Kurylivka, Ukraine. The bodies were discovered near a destroyed Russian armoured vehicle in late September 2022. The recovery team was able to retrieve 3 of the 8 bodies due to artillery shelling. (CNBC, The Atlantic, Photo by Pierre Crom/Getty Images)

2023年5月6日土曜日

広島原子爆弾に被爆した似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。左の下顎、口から首に、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。

広島原子爆弾の炸裂により重度の被爆者は、広島湾沖の似島臨時救護所に搬送された。似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。表面的な火傷でも巨大なケロイドが形成された。左の下顎から、口から首にかけて、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。瘢痕組織の肥厚とは異なり、蟹の甲羅や脚に類似した不規則な形態の膨隆を形成するために、ケロイド(Keloid, ギリシャ語で蟹の意)と呼称された。ケロイドは、被爆後の火傷後に形成される瘢痕組織の繊維状の過形成で、皮膚への放射線熱傷を伴った。

 毛包のない火傷は治癒が長期化しやすく、治癒後もケロイドが形成されやすい。原子爆弾のケロイドは、形状が大きい傾向があり、治癒が遅れた傷が、厚く深いケロイドを形成した。創傷閉鎖後も、ケロイドの再発を示す傾向があった。ケロイドの傷跡は、被爆者の皮膚が原子爆弾の炸裂の初期閃光の熱に直接にさらされた部位に形成された。被爆者の火傷の治癒に際して過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向があった。

 原爆による火傷や傷の傷跡が厚くなり、ケロイドの瘢痕の増殖が見られた。ケロイドは、爆心地から約2km以内で被爆して熱線を浴びた被爆者の約50~60%に見られた。ケロイドは放射線とも関係性があった。ケロイドは、被爆者の心と体にも永続的な傷跡を残した。特に、顔面に発生したケロイドには精神的な苦痛を伴った。背中や肩にできたケロイドは、肌を見せるのを避けた。

 1955年5月には、広島から25人の被爆してケロイドを顔貌などに発現した若い女性の原爆乙女が、顔と体の形成外科手術のためにアメリカに連れて来られた。彼女たちは原爆乙女(Hiroshima Maidens)と呼ばれて、約18ヵ月間のアメリカ滞在で形成手術を受けた。アメリカ国民が、出会った最初で唯一の原爆被爆者として当時はとても有名になった。




2023年5月5日金曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士は南部式軽機関銃をかかえたままアメリカ軍海兵隊隊員に殺害された。硫黄島の火山灰の海岸には、殺害された日本軍兵士が倒れ込んだ悲壮な死体が散乱した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士は南部式軽機関銃をかかえたままアメリカ軍海兵隊隊員に殺害された。硫黄島の火山灰の海岸には、殺害された日本軍兵士が倒れ込んだ悲壮な死体も散乱した。

 1945年2月19日初日に、アメリカ軍海兵隊は北太平洋に浮かぶ火山島である硫黄島の海岸に上陸した。上陸用舟艇のタラップが下がると、海岸は混沌とした納骨堂に変貌した。日本軍の砲撃と機銃掃射により、身動きがほとんど不可能となった。海岸の全長は、日本軍の砲撃で、アメリカ軍の車両の残骸と、海兵隊の死傷者の無残な死体が四方八方に無差別に散らばり、海岸は、この世の地獄となった。最終的には第二次世界大戦中最大の水陸両用軍を集結させた。約8万人の海兵隊が、硫黄島の日本軍を直接攻撃した。

 アメリカ軍を待ち受けたのは、日本帝国でも屈指の兵力を擁する要塞であった。硫黄島の日本軍守備隊は21,000人で、ほとんどが歩兵で、砲兵と高射砲が加わった。装甲部隊、工兵や補給部隊を含む海軍の支援部隊もいた。硫黄島分は、迷路の地下道で結ばれ、厳重に要塞化され、十分に隠蔽された。

 最初の装甲LVT(水陸両用A)は午前8時59分に海岸に到着した。上陸地点の砂浜は粗く黒い火山性の結晶で、人も車も通れない状態で、車両は泥沼化した。海岸は海兵隊員で埋め尽くされた。日本軍の大砲、迫撃砲、小銃の猛烈な砲撃が、混雑した浜辺に突然降り注いだ。砲撃の恐ろしい轟音が上陸地点に押し寄せると、海岸線はたちまち納骨堂と化し、地面には死屍累々の海兵隊員と破壊された車両が散乱した。日本軍の機銃掃射が鳴り止まない中、海兵隊は、日本軍の防御を横断して、海兵隊員は塹壕を攻撃し、手榴弾を投げ込み、爆風に耐えて生存した日本軍兵士を殺害した。海兵隊は日本軍の砲火を浴びながら、甚大な犠牲を払って、次々に倒れ、孤独に苦しみながら死亡した。

 日本軍の砲撃が海岸線を襲い続ける中、海兵隊員は堤防を登り、内陸へ侵攻した。戦車や車両が続々と上陸し、海岸線は残骸で詰まっていた。夕闇が迫る中、日中の戦闘で疲労した海兵隊員たちは身を固め、日本軍の反撃の脅威の中で夜を迎えた。上陸作戦は、3万人の兵員を、装甲車と砲兵によって硫黄島へ正面から上陸した。硫黄島の初日の戦いは、血の犠牲を伴った。熾烈な戦場の中で、すべての負傷者の収容は不可能であった。日中に約1,000人の兵士が避難したが、海岸には恐怖におののき、骨折し、必死に治療を必要とする無力な海兵隊員の戦死傷者が散らばった。日本軍の迫撃砲は無差別に降り注ぎ、救護所を2度も直撃した。




2023年5月4日木曜日

太平洋戦争にてグロスター岬の戦いが、1943年12月26日から1944年1月16日まで勃発した。グロスター岬に上陸したアメリカ軍は、直ちにジャングルを踏破して日本軍の飛行場に侵攻して、日本軍は甚大な犠牲を伴った。

太平洋戦争にて、グロスター岬の戦い(Battle of Cape Gloucester)が、1943年12月26日から1944年1月16日まで勃発した。グロスター岬に上陸したアメリカ軍海兵隊は、直ちにジャングルを踏破して日本軍の飛行場に侵攻した。日本軍守備隊は荒涼たるジャングルの中で猛烈に抵抗するも、圧倒されて甚大な犠牲を伴った。多数の殺害された日本軍塀士の死体が、ジャングルの中に散乱した。アメリカ軍兵士が、日本軍兵士の支隊を見回して検死した。

 アメリカ軍は、12月26日にニューブリテン島の最西端にあるグロスター岬に上陸を敢行して、その近隣の飛行場を占領した。グロスター岬は、ニューギニア本土の北東で、ニューブリテン島の半島北部の西端にあり、近隣の村の名前からツルブと呼称された。日本軍の反撃で、一時的にアメリカ軍の侵攻が鈍化するも、1943年12月下旬までに飛行場はアメリカ軍海兵隊によって占領された。日本軍は、機関銃、迫撃砲、砲撃で攻撃したが、銃撃戦で撃退されて、日本軍はほとんどが撤退した。アメリカ軍兵士は、約310人が戦死しても約1,083人が戦傷した。日本軍兵士は、約2,000人が戦死した。

 日本軍守備隊は、海上輸送船団や沿岸輸送に対する空爆と潜水艦の攻撃のために、物資と医薬品が枯渇した。海岸線に沿う原始的な小道網も不十分で、雨季を通して浸水して、樹木でジャングルが構成された。車両は、グロスター岬の泥の中で身動きが取れなかった。日本軍は猛烈に陣地を守備したが、侵攻するアメリカ軍海兵隊を失速させるも、日本軍守備隊には人員も武力も衰弱した。

 1943年には連合軍の攻勢により日本軍は2月7日にガダルカナルを失って、東部ニューギニアでも敗退を続けた。ダンピール海峡をのぞむニューブリテン島西部のグロスター岬(ツルブ)は、連合軍の北上を食い止める要衝として、約6000人が防衛で送り込まれた。すでに制空権がほぼ連合軍に奪われていたため、部隊の輸送はニューブリテン島の北東端の拠点にラバウルから駆逐艦などで行われた。約2万人の連合軍は12月26日から猛烈な艦砲射撃と空襲を加え、グロースター上陸を開始した。ジャングルの山中に潜伏して持久戦をした日本軍は、ツルブからの後退を開始して、司令部から2月24日にラバウルまでの後退を命令された。過酷な持久戦と1,000kmに及ぶ撤退の途上で、約2,300人以上が死亡して、約7,000人が行方不明となった。




2023年5月3日水曜日

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmのアル・マハウィルの集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰り、無残な遺体を抱きながら泣いた。

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmにて、アル・マハウィル(Al-Mahawil)の集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、見つかった身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰った。イラク人男性は、無残な遺体を抱きながら泣いた。1991年のシーア派の蜂起が鎮圧されて以来、行方不明になっている人々の親族は、トラクターや素手で土を掘り起こしながら、親族の遺体を必死で探した。

 イラク戦争が2003年5月1日のアメリカ軍の戦闘終結宣言した後から、イラクの法医学チームは2003年5月14日に、バグダッドの南約90kmのアル・マハウィル近郊の農場近くの集団墓地に埋められた推定約1万5000体もの死体を発掘し始めた。アル・マハウィルの集団墓地には、行方不明のイラク人が数百人集まり、親族の死体を探した。湾岸戦争が1991年3月1日に終結した直後の3月5日から4月5日までサダム政権に対するイラク蜂起が勃発した。1991年3月に首都バグダッドにいたフセイン大統領は、シーア派の反乱を鎮圧するために、イラク南部の地方に分散した決死隊を南部に素早く集結させた。サダム・フセイン政権は、ヘリコプター、長距離砲、装甲地上部隊を集結して暴動に残忍に反撃した。南部で約30,000~約60,000人のシーア派イラク人、北部で約20,000人のクルド人を殺害した。イラク人権省は、アメリカ軍主導の侵攻以来に約3年間に登録した約200の集団墓地の大半は南部にあったと公表した。

 犠牲者は、1991年3月頃に、フセインがイラク南部で起きたシーア派の反乱を鎮圧した際に殺害された。イラクの裁判所は、1991年の弾圧で少なくとも約10万人、おそらく約18万人のシーア派が殺害された文書証拠と目撃者の証言を持っていた。イラクの1991年の殺人者たちは、蜂起の責任者を追い詰めるのに時間をかけず、戦闘年齢に達した若者を無作為に捕らえて、裁判なしで死刑を執行して、恐怖政治であった。犠牲者たちは、後ろあるいは横に投げ出され、互いの上に倒れ、足が下敷きになり、銃弾が胸部や腹部を打った跡が、衣服の裂け目から検証できた。銃撃で足の骨が粉々になり、死体は身を寄せ合って横たわった。出土した死体の多くは、手首の骨が背中で合わせ結ぶためのロープや布の破片が土にまみれた骨に混じった。