朝鮮戦争にて、咸興虐殺事件は1950年10月に、咸興で起きた北朝鮮軍による集団虐殺である。1950年10月19日に、北朝鮮の咸興(Hamhûng)で、北朝鮮軍により井戸に捨てられた政治犯65人の死体を取り出した。韓国軍憲兵隊(ROK)に見張られた捕虜の北朝鮮軍兵士たちが、井戸から多数の死体を取り出した。国連軍は、北朝鮮の咸興近郊で、1950年10月16日に北朝鮮軍が民間人を大虐殺した死体を発見した。坑道から約300人の死体が運び出された。300人余りの政治犯が洞窟に不法監禁されて窒死した。北朝鮮の中東部の咸興市にて、北朝鮮軍から反動とされた多くの朝鮮人市民は防空壕に収容されて、爆発されて虐殺されていた。
朝鮮戦争にて、北朝鮮に占領されたソウルが1950年9月28日に解放された直後から、北朝鮮の不穏な残虐行為が発覚され始めた。北方に進軍する国連軍部隊は各地で残虐行為の証拠を発見した。北朝鮮は退却する前に、監獄に収容された政治犯や軍人を急いで虐殺した。ソウルの南約56kmにある楊柳の北朝鮮軍の殺人収容所で、子供を含む700人の朝鮮民間人が虐殺された。昆山近郊の忠孝で、竹槍や棍棒で武装した北朝鮮軍兵士が村の食糧を奪った後に、約82人の男性、女性、子供を突き刺して殺害した。
大田(Taejŏn)の大虐殺では、北朝鮮軍が機関銃で殺戮する前に、まず自分らの墓を掘らせ縛り付けて射殺した。北朝鮮兵士と地元の左翼は、何千人もの民間人を無残に虐殺した。10月3日の務安郡での虐殺事件では、死刑を選択された家族が縛られて海岸に連れて、大人がナイフ、棍棒、竹槍、農具で殺され、海に投げ込まれた。10歳以下の子どもは、深い井戸に投げ込まれた。大田刑務所の虐殺は、朝鮮戦争最大の大量殺戮の一つであり、約5~7千人の民間人と兵士が虐殺された。大田刑務所の死体は、真っ黒で、ハエがたかって、民間人が無残に虐殺された。銃で撃たれ、鈍器で頭蓋骨を割られて殺害された。井戸の中は死体でいっぱいだった。共産党員の容疑者の7人を捕まえ、死体を並べる強制労働をさせた。死体は腐敗がひどく、抱き上げると、肉がすべり落ちた。裸では服の上から抱き上げれなかった。共産党員の囚人たちは、死体を扱より殺害を求め、牢屋に戻した。大田市役所から約300~400人を動員して、死体を片付けた。大田刑務所の裏山に穴を掘って埋葬した。約400から500もの死体は、大きな穴に集団で埋めた。
韓国の治安部隊は、捕虜を後方に護送する手間を省き虐殺した。韓国軍は一般市民を単に邪魔であり、捜索や反対尋問の手間を省き殺害した。1950年7月13日に、敵対関係の朝鮮戦争が勃発以来に、共産主義の容疑者約1200人が、韓国警察によって虐殺されたと報告された。朝鮮戦争初期には、北朝鮮も韓国も残虐行為を隠さなかった。残虐行為は、すべて北朝鮮軍の仕業でなかった。戦争法や戦争犯罪裁判は、一般的に適用され、すべての側に適用されてこそ、真の意味で法となり得る。アメリカ軍は当初から、何千人もの朝鮮人難民を対処するジレンマに直面した。北朝鮮軍兵士は、白木綿の農民服で変装し、難民に紛れ込んだ。アメリカ軍は何度も、田を耕す無邪気な髭面の朝鮮人農民を通り過ぎたが、夜明けの攻撃で手榴弾を投げる同じ朝鮮人に直面した。7月末に、敵対行為をした民間人を処刑すると韓国政府は発表した。北朝鮮軍は難民を利用して、7月26日に難民を南に強制的に追いやり、道を詰まらせたと宣告した。