2022年4月7日木曜日

南京を侵略した日本軍車両のトラックが南京の路上を通過した。その道路脇には、虐殺されて倒れた南京市民の死体が散乱していた。

日本軍が、1937年12月13日に南京を占領した後から約3週間にわたり、日本軍は南京安全区に入り、難民に紛れた元中国兵を探した。多くの罪のない男性が誤認されて、殺害された。南京を侵略した日本軍車両のトラックが南京の路上を通過した。その道路脇には、虐殺されて倒れた南京市民の死体が散乱していた。日本軍の従軍記者が撮影した南京市内にて、戦争犯罪を立証する虐殺の一部が撮影されていた。南京大虐殺では、数千人の日本兵が南京の街に押し寄せ、規律を失った兵士たちが暴れまわり、街を焼き払い、殺し、略奪した。千年の都、南京は生き地獄と化した。

 李錬三郎は、南京が陥落した1937年12月13日から6から7週間は、銃創の症例が南京大学の病院に入り続けたと証言した。B.キャンベルは、南京大虐殺は、日本軍は戦闘に確実に勝利したが、南京戦の余波で住民が大量に虐殺され、ジェノサイドであると述べた。ジャン=ルイ・マルゴランは、捕虜だけが組織的に処刑されて、民間人を標的にすることは散発的であり、個々の虐殺行為は命令なしに行われたために、南京の虐殺はジェノサイドとみなさないと述べた。

 ジョン・ラーベは1937年12月13日に日記に次のように記述した。南京市街を見て回るまでは、破壊の程度を知らなかった。約100メートルから200メートルごとに死体に遭遇した。民間人の死体には、背中に弾痕があった。逃げ惑って後ろから撃たれた。日本軍は約10人から20人の兵士集団で南京市内を行軍して、商店を略奪した。ドイツ人のパン屋、キースリングのカフェも略奪していた。ヘンペルのホテルにも押し入り、中商と太平路の全店にも押し入った。

 1938年2月10日に、ドイツ大使館のローゼン公使は次のように報告した。ジョン・マギー牧師が1937年12月に南京虐殺の記録映画を撮影して、その購入を勧める手紙をドイツ外務省に送った。日本軍が南京を恐怖のどん底に陥れ、アメリカ聖公会伝道部のジョン・マギー牧師は、日本軍が行った南京虐殺の記録映画を撮影した。12月13日に、約30人の日本軍兵士が南京の南東部にある興梠区5番地の中国人宅にて、ドアを開けた夫を即座に銃殺した。なぜ夫を殺したのかと日本軍兵士に尋ねた夫人も銃殺した。

 2009年2月5日に、日本の最高裁判所は、東中野修道と出版社の天電社に対し、マギー監督の映画に登場する約7から8歳の少女と名乗る夏淑琴夫人に対して、約400万円の損害賠償を支払うように命じた。東中野修造は著書『南京大虐殺徹底検証』の中で、彼女と少女は別人であり、南京大虐殺の目撃者ではないと主張していたが、最高裁でこれを証明できなかった。海軍の三谷翔は、陸軍は『逃げる中国人は皆殺し』という意味のラッパ音を使った。長さ約300m、幅約5mの一万屍溝と呼ばれる掘割で、数千人が連行されて集団処刑された。この溝に埋められた犠牲者の数は、記録が残っていないが、約4,000人から約20,000人までと推定された。





2022年4月6日水曜日

キューバのマチャド独裁政権下に、抵抗運動した青年ルビエリタらは、秘密警察に強制連行されて暗殺された死体が放置された。

キューバの首都ハバナで1932年12月30日に、キューバの独裁者であるジェラルド・マチャド(Gerardo Machado)大統領の秘密警察が暗殺作戦を指揮して、対抗する青年らを尾行した。17歳のハバナ工科大学のフアン・ゴンサレス・ルビエラ(Juan Gonzalez Rubiera)は、同志たちと武器を取りに出かけた。彼らがガソリンを買うためのお金を得ようとして家に着いた。青年ルビエラは、車から飛び降りてコラレス通りを走り、民家に避難した。数時間後に、青年ルビエリタら3人は、秘密警察に強制連行されて、区画整理のミラマール地区に行った。6番街と15番街の角の寂しい場所で、暗殺されて放置されたルビエラの死体が発見されて、身元が確認された。

 15歳のルビエラはキューバの首都のハバナ工科大学に入学して、優れた学生運動リーダーであり、ジェラルド・マチャド政権に対抗する闘士であった。15歳のとき、大学学生理事会が結成されるきっかけとなった学生デモに参加した。1932年12月30日に、17歳の若さで暗殺された。1933年1月16日のエル・パイス新聞の表紙に、キューバの秘密警察の銃撃により、逃げようとした青年ルビエラらに対して11発の銃弾が突き刺さった。血まみれの顔で地面に倒れた17歳のルビエラの死体の禁断の写真が掲載された。ルビエラの死体が、新聞記者が撮影できるほど長い間路上に、秘密警察が放置していた。

 1932年9月に、秘密警察の車列から、キューバ上院の議長であったクレメンテ・バスケス・ベロ医師を自宅の前で銃撃された。その1時間以内に、秘密警察は反マチャドの指導者であるハバナ大学学長のリカルド・ドルツ博士を銃撃した。キューバのマチャド政権下では毎日のように人が銃撃された。秘密結社は12月30日に、秘密警察のラファエル・カストロ軍曹を銃撃して重傷を負わせた。その報復として、12月31日に秘密警察のオルティス署長が自分の車で青年らを路地まで追いかけて3人全員を射殺した。

 1924年に、マチャドはキューバ共和国の大統領に選出された。マチャドは1925年から1928年までの最初の任期中に、主要な公共事業プログラムを実施した。彼の任期が終了する前に、憲法制定会議はキューバ憲法を改正し、新たな6年間の大統領任期を創設した。マチャドは1928年に再選され、新法の下で1935年まで大統領を務めた。マチャドの第2期は、内戦と経済混乱により、砂糖の価格は大幅に下落し、多くのキューバ人は失業した。不安が高まる中1930年に、マチャドは警察に違法な政治集会とデモを解散させた。マチャド政権への反対は大きくなり、抑圧的措置を強化した。1932年に、マチャドは憲法を一時停止して、アメリカのフランクリンD.ルーズベルト大統領により、1933年8月12日にマチャドはキューバから追放されアメリカに定住した。






2022年4月5日火曜日

アウシュビッツ強制収容所の門に近づくに連れて、一面の白い雪上の道端に黒い染みの数が増えて、強制連行された囚人が殺害されて凍死した死体の数が増大した。

第二次世界大戦中の1945年1月18日の夜は、ポーランド南部に死の行進と後に呼ばれたアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所の門をくぐる旅となった。あたり一面は雪の夜の色であり、非常に長く黒い強制連行の車列は、ゆっくりと動いていた。突然に、雪道の両脇には黒い染みが見えて来た。強制連行された当初は、雪の白さに、自由に、鉄条網を後にしたことに、広い夜景に、通り過ぎた村々に酔いしれていた。その黒い染みの一つ、また一つをよく見てみると、その正体は囚人の凍死した死体であった。アウシュビッツ強制収容所の門に近づくに連れて、黒い染みの数は増えて、囚人の死体の数が増大した。

 死の行進の旅が長引くにつれて、囚人の体力は次第に衰えて、もたつくと最後の列に近づいていた。最後の囚人の列には、もたつく者、遅れをとる者は、誰でもナチス・ドイツ親衛隊の看守の射撃により殺害されて、道端の黒い染みの死体になった。その銃声はますます頻繁に発生して、黒い染みの死体はどんどん増えていった。アウシュビッツ強制収容所の赤レンガの門には、生存した囚人が到達した。赤レンガの塔の門で、その下を強制連行の列車が通っていた。うっとうしい霧雪が容赦なく降り続き、空気は雪と湿気の混じった静かな視界で飽和された。

 アウシュビッツ強制収容所の線路に沿って、赤レンガの門をくぐって、強制収容所に到達した。バラックとレンガの煙突の列、森と、別方向に傾いてよろめくコンクリートの柱と、張り詰めた鉄条網が水平線から水平線へと這っていた。周囲は圧倒的な静寂であり、鳥の声さえも聞こえず、無言であり、空虚であった。蟻のように、奴隷の軍隊のように、小道を行く囚人の列が密集して、コンクリートの柱の森に侵入した。とても憂鬱で荒涼とした風景であり、アウシュビッツ強制収容所が埋葬と墓地に変貌した。囚人として、解けない鎖で縛られ、足枷をつけられていた。無数の囚人が、一段一段と階段から降りていった地下のガス室には、コンクリートの屋根が横たわっていた。その毒ガス殺された囚人の死体は、黒く煤けたレンガの火葬場に延々と並べては飲み込まていった。




2022年4月4日月曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、首都キエフ(キーウ)の郊外にあるブチャの町で、家屋の建物の大部分は完全に破壊され、両手を白布で後手に縛られた民間人の死体が散らばった。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年4月3日にウクライナの首都キエフ(キーウ)の郊外にあるブチャの町が解放された。その静かな並木道には、破壊されたロシア軍の車両が道に並び、家屋の建物の大部分は完全に破壊されていた。見渡す限り民間人の死体が散らばり、両手を白布で後手に縛られた死体の隣には、ウクライナのパスポートが置かれた。その他には白い布を後ろで上腕に巻いていた。後頭部から至近距離で射殺され、いくつかの死体には拷問の跡があり、強姦の報告もあった。少なくとも約20人の民間ウクライナ人が、布切れで手を後ろに縛られて殺害された。草地の土手で自転車に絡まって殺害された死体が、ブチャのヤブスカ通りに散乱していた。両手は白い布切れで縛られ、後頭部を撃たれて殺害された。ウクライナ検察当局によると、ロシア軍が撤退したキエフ周辺地域から約410人の民間人の死体が収容された。

 2022年4月3日にブチャの町に集団墓地が発見された。ブチャはロシア・ウクライナ戦争が始まって以来、最も激しい戦闘が行われた。ロシア軍が約25キロ離れたキエフを包囲するのを阻止した。教会の敷地内にある集団墓地には、戦争後に初めて埋められた死体が発掘された。少なくとも12死体が黒い死体袋に入れられて、墓地の中に積み上げられた。ブチャ住民は、周辺の戦闘で殺害された民間人の約150体の死体はすでに埋められていた。ブチャ市長は、埋葬された犠牲者は最大で約300人に上ると述べた。ウクライナ人の身内は集団墓地で泣きながら身内の死体を探した。

 ロシア軍は2月24日に3方向からウクライナに侵攻して、北方のベラルーシから進駐したロシア軍兵士たちは、キエフに接近するのに数週間も費やした。ウクライナの守備軍の断固とした反撃に直面し、ロシア軍の侵攻は停滞した。ロシア軍は3月29日から一部撤退して、今後の侵攻を他の南部と東部に集中させると述べた。4月2日にウクライナ軍がキエフ州をロシア軍からの解放を宣言した。4月3日にウクライナのヴォロディミル・ゼレンスキー大統領はビデオ演説で、ウクライナ人に対するロシア軍によるジェノサイド(集団虐殺, genocide)による抹殺と絶叫した。ロシア国防省は、ロシアによるブチャ占領中に、地元住民が暴力行為に遭っことは一度もないとフェイクと主張した。国連事務総長アントニオ・グテーレスは、ブチャで殺害された民間人への独立した調査が不可欠であると述べた。















Warning: 2022年4月3日日曜日に、ウクライナのブチャで、手を後ろに縛られて殺害された男性の死体が横たわった。Politico, April 3, 2022. Vadim Ghirda/AP Photo

2022年4月3日日曜日

ヨーロッパ連合軍最高司令官のドワイト・D・アイゼンハワー将軍らは、アメリカ軍が最初に解放したドイツのテューリンゲン州ゴータのオーアドルフ強制収容所を視察した。

オーアドルフ(Ohrdruf)強制収容所は、1945年4月4日にアメリカ軍によって初めて解放された最初のナチスの強制収容所であった。石灰で覆われた死体や、薪の上で一部焼却された死体が山積みになっていた。1945年4月6日に、オーアドルフ市民に強制収容所の訪問を命じた。オーアドルフ市長のアルバート・シュナイダーは、訪問の翌日に、夫妻は自宅こで自殺した。4月12日に、ヨーロッパ連合軍最高司令官のドワイト・D・アイゼンハワー将軍、ジョージ・S・パットン将軍、オマー・ブラッドリー将軍とともに、ドイツのテューリンゲン州ゴータの南のオーアドルフ強制収容所を視察した。

 オーアドルフ強制収容所の木造の小屋は、死体で満たされた。鉄条網の向こうには、線路で作った格子の上に焼けた死体、一部開いた集団墓地から突き出た手足、バラックに積み上げられた飢えた死体、点呼場の真ん中に横たわる撃たれた囚人の群れなど、至る所に死体が転がっていた。生存した囚人は、やせ細り、絶命する極限であった。親衛隊は、絞首台や殴打台など様々な方法で拷問や虐殺して、焼け落ちた薪で囚人を炭化して隠蔽した。人間は他の人間性を完全に無視し、冷静に、系統的に、絶滅させる可能性があるを証明した。

 オーアドルフ収容所は、ブッヘンヴァルト強制収容所の支部収容所であった。1944年11月に軍事訓練地域に設置された。特にロシア、ポーランド、ハンガリーから強制連行された約2万人以上の囚人は、隣接するヨナスタル渓谷の地面に潜伏トンネルを掘る強制労働した。1945年3月までに、オーアドルフ強制収容所の囚人数は約11,700人にも達した。1945年4月1日から4日にかけてブッヘンヴァルトに向かって徒歩で移動し、その途上で何千人もの死者を出した。オーアドルフ強制収容所の開放のニュースは、4月9日にアメリカにも伝わった。アメリカやイギリスのジャーナリストをチューリンゲンに呼んで、解放された強制収容所の惨状を見せた。就任してまだ数日のトルーマン大統領は、アイゼンハワーの提案に即座に同意した。4月25日に、記者団は4月11日に、ワイマール近郊のブッヘンヴァルト強制収容所を訪問した。





2022年4月2日土曜日

広島原子爆弾の爆心地の直下となった島病院は、玄関の柱以外全て崩壊して瓦礫の山となり、病院関係者の約80人が即死して、生死消息を尋ねる看板を立て掛けた。

広島原子爆弾の爆心地の直下となった細工町29番地2の島病院は、玄関の両側の二本のコンクリートの柱以外を除いて全て崩壊した。島病院の建物は瓦礫の山となり、レンガの一部を残して、圧潰されて崩壊した。島薫院長の回想録では、病院関係者の約80人が即死した。敷地は約1,320平方メートルでレンガ造り2階建て、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者の木造の施療7室もあった。 

 原子爆弾の投下日に、世羅郡甲山町への出張手術した島薫院長と看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子は健在であった。8月6日午後7時前に、世羅から復路上で列車が矢賀駅で停止した。その後徒歩で広島市内に向かった。見渡すかぎり町の上空には煙が広がり、あちこちに火が空に向かって燃え上がって、焼け跡の熱気で島病院に近づけなかった。翌日の8月7日午後に、瓦礫の山の島病院に到着した。玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、死体の口の中の金歯から婦長の宮本さんだと判明した。瓦礫の底では、死体は原爆が炸裂で直後に一部は骸骨化して、大量の黒焦げの死体と白骨が散乱していた。ほかの人の死体は皆下敷きになって行方不明となった。

 悲嘆にくれて廃虚の中を歩く中で、島薫さんは、外遊中に買ったアルミの箱の器具ケースにつまづいた。その中に入っていた手術用具は、変色はしていたものの使用には耐える器具であった。その器具が島病院の唯一の痕跡と回想した。島薫は病院の焼け跡に消息を知らせる伝言板を書き残して、関係者を探して回った。島薫らは、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら、島病院から西約460mの救護所となった袋町国民学校で被爆者の救護活動に従事した。島薫院長は、1945年10月上旬に、入院通院患者・付添者看護婦家人・病院関係者の生死消息を尋ねて記載を求める看板を立て掛けた。 














 

   

   爆心地(hypocenter)は、現在の広島市中区大手町1丁目5−25の島内科医院の第3駐車場上空である、東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高度約600mと推定された。広島現爆弾の原爆被害を伝える象徴である原爆ドームは、爆心地から西へおよそ200メートルの地点に存在した。島病院は、原子爆弾が炸裂した直下の地表面となる「グラウンド・ゼロ(Ground zero)」であった。グラウンドゼロを爆発する爆弾、特に原子爆弾のすぐ下にある地面の部分と定義して、最も深刻な被爆を受けた地点を示した。2001年9月11日の同時多発テロ事件では、アルカイダのテロリスト10人がハイジャックした2機の航空機が、ニューヨークの世界貿易センタービルのノースタワーとサウスタワーに飛び込んで、110階建ての高層ビルが倒壊した。崩壊した世界貿易センタービルの跡地は、「グラウンド・ゼロ」と呼称された。

2022年4月1日金曜日

第二次世界大戦の終盤にドレスデン大空襲で、多くの民間人が猛火から逃れて噴水や貯水池に避難して、暴火が溜まって水が涸れて、窒息し焼死した死体が周囲に散乱した。

第二次世界大戦にて、1945年2月に連合軍の爆撃機がドイツのドレスデンに対して無差別の大空襲をした。多くのドレスデンの民間人は、猛火から逃れるために、噴水や貯水池に避難した。暴火が溜まって水が涸れさせて、逃避したドレスデンの民間人は窒息し焼死した。その焼死した死体が、噴水や貯水池の周囲に散乱した。

 1945年2月13日から15日に、イギリス空軍とアメリカ空軍の約800機の爆撃機が約2700トンの爆薬と焼夷弾を投下して、ドレスデンの都市を壊滅した。2月13日の夜に、イギリス空軍の爆撃機は中心部を包囲する火の海を作り出した。アメリカ空軍は、その後2日間にわたり鉄道基地の爆撃を行った。ドレスデンの街は再び火の海となり、さらに破壊が進んだ。ドレスデン爆撃の軍事的必要性をめぐって論争が今日まで続いている。民間人の犠牲者数は、2008年にドレスデン市の歴史委員会は、約25,000人が絶命したと報告した。

 レンガ、砂岩、乾燥した木でできた建造物が立ち並ぶドレスデンで、轟音、炎が空中に響いた。火は猛烈な白と黄色になり、空は巨大な雲の山になっていた。靴は熱くなったアスファルトに溶け、火の勢いは非常に速く、火は鉄を溶かし、石を粉にし、木は樹脂の熱で爆発した。逃げ惑う人々は、背中を通して火の熱さを感じ、肺を焼かれた。犠牲者の約70%は、燃焼により排出される一酸化炭素で窒息死していた。ドイツ軍は鉄格子の上に死体を積み上げ、ベンゼンを染み込ませ火葬にして、異臭が充満した。

 第二次世界大戦がが終盤に入り、ドレスデン爆撃は、ドイツに降伏を強要するために、ドイツの地元と全国の民間人を恐怖に陥れることを目標とした。西側連合国とロシアは、征服した土地は奪い合いになる。空爆により西側連合国軍の絶大な武力をロシアに示し、ロシアが土地を奪い合いを阻止した。西側連合国が欲する土地をロシアが占領すれば、空爆によって土地が荒廃し、価値が無くした。西側連合軍は、ドイツ軍のロンドン爆撃に憤慨し、実質的な報復を喜んだ連合国の市民が多かったことは確かである。連合国側はドレスデンに対する追悼の意を表明しなかった。戦争終結を希う程までにドイツ民間市民を恐怖のどん底に陥れた。




2022年3月31日木曜日

アメリカ大使館の敷地には、ベトコンのテト攻勢の決死隊が、腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。

アメリカ大使館の敷地には、ベトコンのテト攻勢の決死隊の印として腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。ベトナム戦争にて1968年1月31日の真夜中過ぎに、19人のベトコン工兵が、サイゴンの自動車の修理店に集まり、武器を配布して、攻撃の最終準備を行った。午前2時47分に、ベトコンはトンヌット大通りの周囲の壁に小さな穴を開けて、アメリカ大使館の敷地に侵入した。ベトコンは総領事館ビルには入れず、治安部隊に釘付けにされ、最終的に一人の生存者除いて全員がアメリカ軍に殺害された。

 1968年1月31日からのテト攻勢は北ベトナムは失敗に終わったが、アメリカ本国に政治的、心理的に大きな衝撃を与えた。アメリカ人は5人が殺害されて、ベトコンは18人が殺害されて、1人が捕獲された。テト攻勢の朝のベトコンの使命は、アメリカ大使館、大統領宮殿、国立放送スタジオ、南ベトナム海軍本部、タンソンニャット空軍基地のベトナム合同総務本部、フィリピン大使館の6つを標的とした。ベトコンのゲリラ部隊の死体があちこちに横たわった。ゲリラたちは解放戦線の正規部隊の中から選抜された特殊攻撃隊だった。

 ベトナム戦争の分岐点となったテト攻勢は、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館がベトコンに攻撃された。憲兵隊(MP)と海兵隊保安隊(MSG)が対応するも、メディアや国民から否定的に捉えられた。テト攻勢は、1968年1月31日にテトの休日にベトコンと北ベトナム軍が、南ベトナムの約100以上の市や町に突撃した。震源地となったのが、サイゴンのアメリカ大使館への攻勢である。1968年のテト攻勢におけるアメリカ大使館への攻撃は、戦術的勝利が政治的敗北に変貌した。MSGとMPはベトコンの侵入を防ぎ、総領事館を保持できて、明確な戦術的勝利を収めたが、その行動は政治的敗北として喧伝された。政治的敗北の事態を招いたのは、戦争に対するアメリカ世論の変化とメディアと軍の関係の悪化、アメリカ大使館での作戦遂行に直接影響を与えた国務省の対応であった。

 テト攻勢は、南ベトナム軍とアメリカ軍の意表をついたが、占領地はすぐに回復し、奪還された。軍事的には、テト攻勢は共産党に壊滅的な打撃を与えた。しかし、軍事的には大敗を喫したものの、心理的には大きな勝利を収め、最終的には戦争に勝利することになる。しかし、この攻勢は軍事的には大敗北を喫したものの、心理的には大きな勝利を収め、最終的には戦争の勝利につながった。この攻勢による米軍の死傷者の映像は、長い紛争に疲弊していたアメリカ国民の反戦感情を刺激した。国民は、戦争の進展に関する報告に幻滅して、リンドン・ジョンソン大統領は1968年3月31日に、私は大統領として再選されるための、私が属する党による指名を求めることも、受諾することもありませんとテレビ演説した。同様な結末が、2021年8月15日に、アメリカ軍がアフガニスタンの首都カブールからの撤退を続けて、ヘリコプターがカブールのアメリカ大使館から人々を避難させて、ベトナム戦争における1975年4月30日のサイゴンのアメリカ大使館からの撤退の歴史が再来した。




2022年3月30日水曜日

第二次世界大戦にて1942年7月22日に、スロベニアのツェリエ市のスタリ・ピスカー刑務所で、ナチス・ドイツ軍の銃殺隊約30人が、スロベニア民間人の約100人を銃殺した。

第二次世界大戦にて1942年7月22日に、スロベニアのツェリエ(Celje)市のスタリ・ピスカー刑務所で、ナチス・ドイツ軍の銃殺隊約30人が、反抗する容疑者のスロベニア民間人の約100人を銃殺した。ドイツ人将校は、絶命するために、検死をしながら頭部を撃っては殺害した。銃殺された死体は担架に乗せられて、集団墓地に運んでは埋葬した。ナチス・ドイツ軍が、反乱を抑止する残虐な銃殺であった。抵抗行為に対する報復として、特に女性や子供を射殺することもあった。7月22日にツェリエで、射殺された約100人のスロベニア人の中には、銃殺の犠牲になる5人の女性が含まれた。ナチス・ドイツは、女性や子供に対する銃殺が抵抗活動を弾圧するのに特に効果的であると考えた。ナチス・ドイツの残虐行為は、ユーゴスラビアのパルチザンを完全に抑制できなかった。

 スロベニア東部のツェリェは、1941年4月にナチス・ドイツ軍に占領された。ゲシュタポが1941年4月16日にツェリェに到着した。その3日後に親衛隊長のハインリヒ・ヒムラーが、スタリピスカー刑務所を視察した。約1,000人がツェリェの刑務所に収監された。約600人の子どもをゲルマン化するためにナチス・ドイツに強制連行され、「盗まれた子ども(stollen children)」と呼称された。両親から離れてドイツの家族に割り当てられた子供たちも含めて、約46,000人のスロベニア人がドイツに追放された。ナチス・ドイツ軍がスロベニアを占領中に、1942年7月22日にツェリェ刑務所で約100人、1942年10月2日にマリボール刑務所で約143人、1945年2月12日にフランコロボ地域で約100人のスロベニア民間人が虐殺された。

  ナチス・ドイツ軍は、1941年3月27日に反逆したユーゴスラビア軍を崩壊して、4月17日に征服した。ユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、そのうちスロベニアはナチス・ドイツの占領下に置かれた。イタリア軍によって首都リュブリャナが占領され、北東の一部の地域はハンガリーが占領して、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となった。スロベニア人の住む地域は、約4つの勢力によって分断された。共産主義のパルチザンはヨシップ・ブロズ・チトーに加わり、ドイツ軍などと戦闘した。ナチス・ドイツはユーゴスラビアを占領した直後から、約65,000人を追放から投獄、処刑された。あらゆるパルチザンを残酷に弾圧するために、パルチザン容疑者の全員を射殺して、家族と子どもは強制送還した。





















2022年3月29日火曜日

南軍兵士は、北軍の最後の猛攻をマホーン砦で受け止めて、南軍兵士は泥水の側で、銃を脇に置いて、仰向けに倒れて絶命した。

アメリカ合衆国の南北戦争において、グラント将軍の北軍が、バージニア州のピーターズバーグの戦いで、マホーン砦の南軍を1985年4月2日に襲撃した。南軍兵士は、北軍の最後の猛攻をマホーン砦で受け止めて壊滅した。南軍兵士は河辺の側で、銃を脇に置いて、仰向けに倒れて絶命していた。マホーン砦の周辺には、多数の南軍兵士が殺害されて死体が散乱していた。翌日4月3日に、マホーン砦の周辺の南軍の死体が撮影された。マホーン砦の写真には、北軍と南軍の死体や、城壁に立つ勝利した北軍兵士が撮影されている。マホーン砦は、天罰砦と呼称された。リンカーン大統領は、マホーン砦を占領した翌日4月3日に、死者が運び出される前に、マホーン砦を訪れた。リンカーンは、死者の中に数日前に見かけた兵士に気づき、涙を浮かべた。マホーン砦は、南北戦争の終戦後にすぐに取り壊された。 

 第3次ピーターズバーグ(Third Battle of Petersburg)の戦いは、1865年4月2日にバージニア州ピーターズバーグの南と南西で勃発した。グラント将軍の北軍は、1865年4月1日のファイブフォークスの戦いに勝利して、ロバート・E・リー将軍の南軍の塹壕と要塞に攻撃を開始した。南軍の右翼と後部が露出されて、補給線は切断され、南軍の守備隊は死傷者、捕虜、逃亡者などで1万人以上が犠牲となった。南軍の戦線は、戦闘による脱走と死傷者によって限界に達した。大規模な北軍が戦線を攻撃する中で、必死の南軍の守備隊が北軍の躍進を食い止めて、南軍の残存兵力のほとんどが、4月2日夜にピーターズバーグと南軍の首都バージニア州リッチモンドから脱出した。北軍は1865年4月3日にリッチモンドとピーターズバーグを占領した。北軍の大部分は北バージニア軍を包囲するまで追撃した。北軍は約3,936人が犠牲となり、南軍は約5,000人が犠牲となった。

 南軍は1964年6月にマホーン砦を要塞としては1864年に設置した。1965年4月には、南軍の防衛線に最強にも、わずか3つの大砲と迫撃砲を保有したのみであった。北軍によるピーターズバーグ包囲戦により、マホーン砦は、北軍が南軍の他の戦線を突破し始めた1865年4月2日の夜明けに攻撃された。約14,000人の北軍兵士が、マホーン要塞の南軍約1,500人の守備隊と戦った。北軍はマホーン砦の手前で、泥水で満たされた腰までの深さの溝に直面した。手斧と斧だけで武装した北軍兵士は、夜明けのまでに障害物を切り崩した。南軍は狙撃して格好の標的となったが、北軍は攻撃の戦線を切り開いた。

 4月2日の最初の北軍の攻撃で、南軍の防衛軍は圧倒されて後退した。午後3時には南軍は反撃して、北軍を追い返した。北軍の援軍が到着して、両軍は夜までマホーン砦の一部を保持した。4月3日に夜が明けると、南軍が撤退して、マホーン砦は北軍が攻略した。他の地点も突破されて、南軍の陣地は維持できなくなり、ピーターズバーグからの撤退が命じられた。マホーン砦の前の北軍の死傷者は約1,700人にも達して、南軍の死傷者は不明である。 




2022年3月28日月曜日

アメリカ海軍水兵は、太平洋戦争の起点である真珠湾攻撃から約2〜3月後の1942年2月下旬から3月上旬頃に、真珠湾の海底から引き上げた日本軍兵士の黒焦げの死骸を見守った。

日本軍は1941年12月7日に真珠湾攻撃を奇襲して、太平洋戦争が勃発した。ハワイ諸島のオアフ島の真珠湾において、日本軍兵士の搭乗員は、真珠湾攻撃中に炎上した戦闘機とともに真珠湾に墜落した。アメリカ海軍の水兵は、真珠湾攻撃から約2〜3ケ月後の1942年2月下旬から3月上旬頃に、真珠湾の海底から引き上げた日本軍兵士の黒焦げの死骸を見守った。

 1941年12月7日に、日本海軍はアメリカ軍への奇襲攻撃を開始てし、ハワイ・真珠湾の軍艦や軍事目標に空爆を行った。350機以上の日本軍の航空機が2波にわたって海軍基地を攻撃して、標的を空爆して、徹甲弾を投下して、アメリカ軍の戦艦や巡洋艦に向かって魚雷を打ち込んだ。アメリカ軍は何の備えもなく、爆音で目を覚まし、我が身を守るために奔走した。日本軍の先制攻撃はわずか約90分間で、戦艦4隻、駆逐艦2隻を撃沈した。さらに航空機は約188機を撃墜して、さらに多くの建物、船舶、航空機等を損傷させた。死者は約2,400人、負傷者は約1,250人、アメリカ国民に大きな衝撃を与えた。日本軍は29機から60機の航空機、5隻のミゼット型潜水艦、1隻か2隻の艦隊型潜水艦、100人弱の兵士を失った。日本の機動部隊は攻撃されることなく戦場から退いた。 

 真珠湾攻撃の直後に、日本は正式にアメリカに対して宣戦布告をした。翌日に、ルーズベルト大統領は恥辱の演説(Infamy Speech)行い、大日本帝国に対する正式な宣戦布告に調印した。数日のうちに、ナチス・ドイツとイタリア王国もアメリカに対して宣戦布告し、アメリカもすぐにそれに応えて、第二次世界大戦の地球規模の戦争が勃発した。

 ルーズベルト大統領の恥辱の演説: 昨日1941年12月7日この日は汚名(infamy)と共に記憶されることであろうが、アメリカ合衆国は、大日本帝国の海軍及び空軍による意図的な奇襲攻撃を受けた。合衆国は、同国との間に平和的関係を維持しており、日本の要請により、太平洋の平和維持に向け、同国の政府及び天皇との対話を続けてきた。ハワイ諸島に対する昨日の攻撃は、米国の海軍力と軍事力に深刻な被害をもたらした。残念ながら、極めて多くの国民の命が失われたことをお伝えせねばならない。昨日、日本政府はマラヤへの攻撃をも開始した。昨夜、日本軍は香港を攻撃した。昨夜、日本軍はグァムを攻撃した。昨夜、日本軍はフィリピン諸島を攻撃した。昨夜、日本軍はウェイク島を攻撃した。そして今朝、日本軍はミッドウェイ島を攻撃した。つまり、日本は太平洋全域にわたる奇襲攻撃を敢行したのである。1941年12月7日の日曜日に日本の一方的かつ卑劣な攻撃が開始されたため、アメリカ議会に対して、アメリカ合衆国と大日本帝国の間に戦争状態が開始したと宣言するよう要請する。

 真珠湾攻撃が悪名高い理由はただ一つ、軍事的侵略行為であったからである。日米両国は、利害の対立が激しくなりそうな時期ではあったが、当時は戦争状態にはなかった。真珠湾攻撃は、日本が先制攻撃したために戦争犯罪となったのである。大国は自国の安全保障や経済的利益が将来他国によって脅かされる可能性があると考えるときはいつでも、軍事力を行使する権利を主張する。敵対者による敵対行為を阻止するために、大国は必要であれば先制的に行動する。潜在的な脅威を察知したら、先制攻撃が有利に働くのであれば、先制攻撃、つまり戦争を開始するのである。指導者たちは、戦争に負けたことではなく、戦争を始めたことが戦争犯罪であることをはっきりさせなければならない。国際社会は、先制戦争を再び放棄して、戦争犯罪と非難しなければならない。






2022年3月27日日曜日

ハラブジャ大虐殺は、イラン・イラク戦争中にイラク北部の約5,000人のクルド人を、イラク軍が化学兵器の毒ガスで大量虐殺した。

ハラブジャ大虐殺(Halabja massacre)の事件は、イラン・イラク戦争中にイラク北部のクルド人に対してイラク軍が化学兵器を執行した。1986年から1988年にかけて、ハラブジャ大虐殺の都市で毒ガス攻撃が行われた。イラク北部で1986年から1988年にかけて、サダム・フセインの反乱を鎮圧する作戦の一環であった。サダム・フセインは、イラク軍の北戦線の司令官であるアリ・ハサン・アル・マジッド・アル・ティクリティ中尉に、イラン軍の侵攻を阻止するために、毒ガス爆弾を使用してイラン軍の前進を阻止するように指示した。事件は1988年3月16日に発生した。ハラブジャの町は、有毒ガス爆弾を搭載した8機のミグ(MiG-23)戦闘機によって爆撃された。この事件で、約5000人が毒殺されて命を落とし、約7000人以上が負傷したと予測された。国連から委託された健康調査の結果、マスタードガスと種類が不特定の神経ガスが攻撃に使用された。科学兵器により、約3,200人から5,000人が命を落とし、約1万人から7,000人の民間人が負傷し後遺症を残した。しかし、サッダ政権は一貫して、事件はイランの仕業と関与を否定した。イラン・イラク戦争にてスンナ派諸国、欧米諸国などの多くがイラク側を支持して、ハラブジャ大虐殺は黙殺される状況になった。

 毒ガスの発生後に、空気の匂いが変わり、腐ったリンゴの匂いがした。ある子供たちの一人は、「お母さん、リンゴの匂いがやってくる!」と言い残した。咳をして地面に倒れた人は、二度と起き上がれなかった。地面に横たわった人の口から泡が出ていた。毒ガスは重く、地下室に避難して、よけいに多くの民間人が虐殺された。毒ガスを吸入した子供や大人に、合併症や様々な病気から遺伝性不妊症などが発生した。ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺で使用されたシアン化水素化合物(青酸ガス)、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の種類が極めて大量に用いられたと推測された。化学兵器(CW)とは、化学物質の毒性を兵器として利用する。大量破壊兵器(WMD)と見なされ、化学兵器の使用は国際人道法により禁止されている。旧サダム・フセイン政権のために化学兵器を調達したオランダ人のフランス・ファン・アンラートはが逮捕され、15年の禁固刑を受けた。

 サダム・フセインがハラブジャ虐殺でクルド人に対して大量虐殺の裁判にかけられるも、死刑の求刑は暗殺未遂の容疑として約148人のシーア派イラク人を殺害したデュセイル虐殺の人道に対する罪のみで有罪判決を受けて、2006年12月30日に絞首刑に処刑された。ハラブジャ大虐殺をしたアンファル作戦を率いたイラク高官のアリ・ハッサン・アル・マジッドは、ハラブジャ大虐殺を命令して有罪となり、2010年1月25日に死刑が執行された。イラク最高刑事裁判所は、2010年3月1日にハラブジャ虐殺を大量虐殺の行為と認定した。



























(Ref. : https://tr.glbnews.com/03-2022/1341065622/)

2022年3月26日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した翌日8月10日には、鎮西学院中学校の焼け跡があり、援護義勇隊が担架を担いで道ノ駅に向かって、地域住民は被爆地を見渡しながら探索した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に落下して炸裂した爆心地である松山町の交差点から約750m地点である。翌日の8月10日午後2時頃には、右奥には鎮西学院中学校の焼け跡があった。学生の援護義勇隊のグループが、担架を担いで北方の救護所がある道ノ駅に向かって行進した。その他に地域の住民らが、周囲の被爆地を探索して見渡しながら独歩していた。長崎本線の鉄道の右側の小高い丘の上にある崩壊した4階建てのビルは、鎮西学院中学であった。

 鎮西学院中学校(現在の活水女子中学・高等学校)は、浦上川を眼下に見下ろす小高い丘の上で、爆心地から南西約500mと被爆距離が近く、校舎その他が全滅した。職員9人と生徒約130人(即死が約68人と後日死が約35人)が被爆死した。校舎は鉄筋コンクリート4階建で、4階が全部崩壊、3階は爆心に面した北側半分が崩壊し、火災により各階の内部が焼失した。雨天体操場、武道場、寄宿舎(2階建)の木造建築物は、倒壊して全焼した。校内にあった三菱電機及び三菱製鋼の二つの疎開工場も壊滅した。

 長崎原子爆弾は、長崎市の工業地帯を爆撃の目標として、南の三菱長崎製鋼所と北の三菱浦上製錬所(魚雷製造所)のほぼ中間地点で炸裂した。後方中央の煙突は、三菱長崎製鉄所の一部であった。爆心地から南1.4kmに所在した三菱長崎製鉄所の従業員の犠牲者は、8月9日の出勤者である1,721人のうち死者は約1,406人(69%)にものぼった。死者の1406人の内訳は、会社員が189人、工場労働者が728人、工場実習生が118人、新規学徒動員が122人、女子勤労挺身隊労働者が26人、動員された学生が223人(教員を含む)であった。

 三菱長崎製鉄所の工場は爆心地から約750mで主要建物は全壊し、瓦礫の中から数本の煙突と第4工場などの立ち上がった骨組みだけが残存した。産業機械も大きな被害を受け、ほとんどの機械が使用不能となり、工場は生産能力を失った。工場の建物は、硬い鉄骨がシュガークラフトのように溶けて、完全に折れ曲がった。北側の窓のサッシは、内側へ向かって陥没した。周囲から被爆者が次々と運ばれてきて、畳を敷き詰めた床の上に寝かされた。




2022年3月25日金曜日

2002年4月12日に、イスラエルの首都エルサレムのマハネ・イエフダ青空市場の入口のジャファ通りのバス停付近で、17歳のパレスチナ人女性が自爆テロを犯行した。

2002年4月12日、イスラエルの首都エルサレムのマハネ・イエフダ青空市場の入口のジャファ通りのバス停付近で、パレスチナ人女性が自爆テロを犯行した。強力な爆薬を自爆させて、6人が死亡して、104人が負傷した。エルサレム中心部の混雑した市場近くのバス横で、パレスチナ人女性の自爆テロが発生し、6人が死亡、104人以上が負傷した。現場のジェファ通りに、殺害されたイスラエル人女性を含む多量の出血した死体が散乱した。パレスチナのPLO指導者ヤセル・アラファトとアメリカ国務長官のコリン・パウエルの会談が流会となった。その首謀者としてアル・アクサ殉教者旅団が自爆テロを公表して、ヨルダン西岸地区のパレスチナ人武装集団の連合体で、テロ組織と指定された。

 2002年4月12日金曜日に、パレスチナの17歳の女性である自爆テロ犯人のアンダリブ・スレイマンが、午後4時過ぎに、混雑していた青空市場の入口にあるバス停で身体に隠した爆発物を自爆させた。バスに乗る前に、イスラエル人犠牲者に最大限の損害を与えるために釘を詰めた爆弾を爆発させた。爆発物を入れた3本のプラスチックパイプと釘を入れた黒いハンドバッグを、身体に付けた。彼女は、最後の映像では、黒い服を着てコーランを持ちながら、イスラエル占領に対する女性の戦いの象徴として自爆した。

 自爆テロ犯の女性は、ベツレヘムの南16kmにあるベイト・ファジャール村に居住した。彼女の2人のいとこは、エルサレムのマハネ・イエフダ市場で自爆テロを行う準備で、イスラエルの治安部隊に逮捕され、イスラエルの刑務所に連行され、家族の家はイスラエル軍によって取り壊された。アンダリブは未婚であるも、ファタハの工作員に妊娠させられ、彼女に強要した妊娠に対する感情的と社会的影響から、自爆テロを実行する決断に陥った。武装集団は、繰り返し殉教者を賞賛している。

 パレスチナの武装集団が、イスラエルの民間人を標的にする自爆テロを実行した。1993年9月から2000年9月下旬にパレスチナ人とイスラエル人が激突した事件に、パレスチナ人武装集団はイスラエルの民間人に14回の自爆攻撃を行い、主に1996年から1997年にかけて、約120人以上を殺害して、約550人以上を負傷させた。自爆テロは、逃げ場がなく恐怖に怯える。イスラエル人の日常生活のショッピングモール、人気のカフェやレストラン、宗教を守る静かな地域、通勤バスなどを標的にした。国際法の原則は、支配下にある人々が戦争犯罪または人道に対する罪を犯した場合、強要する権力者が犯罪責任を問われる。犯罪を命じたり、合理的な予防措置を講じなかったり、加害者を罰しないと、指導者にも犯罪責任を負う。




2022年3月24日木曜日

朝鮮戦争において1950年10月に、北朝鮮軍によって集団殺害された死体群の中で、咸興市の市民たちは家族の死体を探索した。

1950年10月に、北朝鮮軍によって集団殺害された死体の中で、咸興(Hamhung)市の市民たちは家族の死体を探索した。国連軍の仁川上陸後に、北方に追い出されて後退した北朝鮮軍が、金日成の命令で、約300人の反共産主義の政治犯を殺害した。咸興出身の韓国人は、北朝鮮軍によって殺害された政治犯の遺体を特定している。その他に、金日成の指示で、咸興市にて、北朝鮮人民軍は反共産主義政治犯の約300人を洞窟の中に生き埋めにして約300人を窒息死させた。占領したアメリカ軍と韓国軍は、地域住民に洞窟内の死体を運び出させた。咸興の井戸の中に水没して虐殺された死体も地域住民が引き出した。腐敗して悪臭を漂う死体群を、1950年10月10日に朝鮮人の女性や老人の家族や遺族らに開放して死体を探索させて検死させた。生き埋めにされた死体を見て、家族や遺族は呆然として慟哭した。

 咸興市は、北朝鮮で3番目に大きい都市で、咸鏡南道の道庁所在地である。朝鮮戦争(1950年6月25日から1953年7月27日)ではアメリカの空襲により約80から90%が破壊されて、1950年10月17日から1950年12月17日にかけてアメリカ軍と韓国軍によって占領された。連合軍は、1950年10月1日に38度線を越えて北朝鮮の東海岸を北進して、10月10日に北朝鮮の主要港である元山を占領した。韓国中部からも、西部からも、10月9日に平壌に向かって38度線を越えた。10月中旬までに、連合軍は北朝鮮の領土に約32km侵入した。

 1950年10月の後半、北朝鮮軍の抵抗が弱まり数千人が降伏して、北侵は加速した。残存した共産主義部門の破壊と重要な北朝鮮の都市の占領をした。朝鮮半島の中部から東部に占領が拡大した。咸興と興南を中心に工業地帯に向かって北侵して、元山から平壌に向けて西侵した。金川から平壌に侵攻した。10月19日には平壌に侵入して、約2日間平壌を侵略した。10月20日に、連合軍は平壌市の約48km北上にある粛川と順川に侵攻して、北方に逃げる北朝鮮人を捕らえた。北西部では、連合軍は10月26日に楚山の町から中国との国境の鴨緑江に最初に到達した。

 遂に鴨緑江に到達した同日の10月26日に、韓国軍は長津湖で中国義勇軍の攻撃を受けた。アメリカ軍が10月28日に最初の攻撃を受けた。中国義勇軍の大軍が、11月1日から国境の南方約145kmにて連合軍を猛撃して壊滅した。撤退する連合軍に対して、中国義勇軍は、11月5日まで猛追した。連合軍は、11月27日に鴨緑江付近に再侵攻するも、中国義勇軍に逆襲を受けた。11月29日に、連合軍は侵攻が撤回されて徹底が命令された。アメリカ陸軍史上最大の約12,975人の死傷者の犠牲を伴う敗走の一つとなった。