2022年1月7日金曜日

太平洋戦争のニューブリテン島のグロースター岬の戦いにて、1943年12月27日に日本軍兵士が砲台の側で殺害されて、死体が密林のジャングルの中に横たわっていた。

太平洋戦争のニューブリテン島のグロースター岬の戦いにて、1943年12月27日に日本軍兵士が砲台の側で殺害された。死体が密林のジャングルの中に横たわっていた。アメリカ軍とオーストラリア軍の艦艇によるグロスター岬の日本軍陣地への砲撃から戦闘機による地上攻撃が行われた。その後に1943年12月26日から、アメリカ軍とオーストラリア軍はニューブリテン島のグロースター岬に上陸して、日本軍を1944年4月22日まで侵攻した。その直前の12月15日にはニューブリテン島の南西のマーカス岬からも上陸して日本軍を侵攻した。

 1942年1月23日から日本軍はニューブリテン島に侵攻して、ニューブリテン島とグロスター岬を1942年2月9日に占領していた。日本軍はグロスター岬に2つの飛行場を設置していた。アメリカ軍がソロモン諸島に侵攻した際に、ニューブリテン島を再占領して、飛行場を利用してニューギニアの他の地域を占領するために、グロスター岬の飛行場も含まれた。ニューブリテン島に日本の主要基地があるラバウルを爆撃した。ニューブリテン島とニューギニア島の往来を可能になった。グロースター岬に上陸した直後にアメリカ軍は隊は、日本軍兵士の約100人から野蛮な自殺するようなバンザイ攻撃を受けた。戦闘は日本軍が降伏するまで続き、その後にグロスター岬は安全になったと宣言した。

 12月27日の夜に、日本軍はアメリカ軍の上陸地点に対して激しい反撃を開始した。この攻撃は失敗に終わり、日本軍は少なくとも約200人の死者を出した。12月28日の正午に、アメリカ軍はより強固な日本軍の防御陣地と戦闘となり、アメリカ軍は死者約人、負傷者約36人、日本軍は少なくとも死者約266人を出した。日本軍は12月30日に再び姿を現して、アメリカ軍の攻撃中に飛行場の南側に避難して、今度はバンザイ攻撃を仕掛けてきた。完全に失敗し、生存者は半島中央の山に逃げ込んだ。アメリカ軍には1943年1月14日に再び攻撃を行い、迫撃砲の支援から丘の頂上に到達した。日本軍は周囲のジャングルに退却を余儀なくされ、日本軍が道路封鎖に遭遇した。その後、小競り合いが数日続き、1月16日の夜明け直後に、日本軍は丘への最後のバンザイ攻撃を行った。日本軍は、最終的には大きな損失を出して撃退された。この戦いで、アメリカ軍は約50人の死傷者を出したが、日本軍は約200人の死者を出した。グロースター岬の戦いで、連合軍は総計で約310人が戦死して、約1.083人が戦傷して、日本軍は約1,000人が戦死した。 




2022年1月6日木曜日

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイで、日本軍の神風特攻攻撃で殺害された乗組員の死体は厚地の平織りの白布に包まれて海への投入の埋葬を待機した。

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイ(Callaway)の乗組員である沿岸警備隊員が神風特攻で殺害された。その死体は、死体を包む厚地の平織りの白布に包まれて重くなっており、海への埋葬する投入を待っている。彼らは、フィリピン・ルソン島のリンガエン湾に侵攻した際に、1945年1月8日に日本軍の神風特攻隊の自爆突撃を受けて、29人が死亡したアメリカ軍水兵人の死体群である。その他22人が戦傷した。太平洋戦争で海の勝利の代償を払ったアメリカ軍水兵たちの墓には、白い十字架の列はない。深海で死んだ者は、深海で死体から眠っている。

 フィリピン・レイテ湾の戦いでは、神風特攻機が初めて登場した。1944年10月19日に、大西瀧治郎副司令官はフィリピンのマバラカット戦闘機の基地で上級司令官と会談して、「戦闘機の数が少ないので、特攻でなければ成功を保証できない。一機の戦闘機に約250kgの爆弾を搭載して、片道の燃料で空母の甲板に不時着させなければならない」。これが神風という特攻の起源である。神風の言葉は、中世に日本を侵略しようと出撃したモンゴル軍の艦隊を吹き飛ばした台風のことを指している。

 空母タフィー3号が日本海軍と戦っている間に、10月25日にその近隣の護衛空母サンティーが特攻機の攻撃を受けた。これが神風による最初の神風の突撃墜落船となった。午前7時40分、すぐに別の神風が同じ勢いで午前8時4分にスワンニー号に命中した。護衛空母軍(タフィー3は損傷を数えていた午前11時前に、特攻攻撃を受けた。5機の神風は撃墜されて空母に軽微な損傷を与え、6機目の神風は10時47分に護衛空母セントローの飛行甲板を突き破り、爆弾と魚雷の爆発を起こして、セントローが沈没したのである。日本群は後に最も恐ろしい兵器の一つとなる特攻初めて試行した。

 神風特攻隊員たちは、執拗なまでに執拗な特攻攻撃を行った。この時から戦争が終わるまで、日本軍の若い飛行士の間では、この片道飛行に志願することは大きな特権とされていた。パイロットたちが家族に宛てた別れの手紙が集められている。ある手紙にはこう書かれている。「私のことを親切に思ってくれて、立派なことができたのは幸運だったと思ってください」。別の手紙には、「人は誰でも運命づけられている。"人は皆、やがて自分の道を歩む運命にある "と。また、あるパイロットは日記の最後のページをこう結んでいる。"春の桜のように、私たちは清らかに輝きながら散っていこう。" いずれも20代前半であった。

 神風特攻は戦争の流れを変えることはできなかった。艦船と連携したアメリカ軍の対空砲火の攻撃によって大量に撃墜された。神風特別攻撃は、その後に硫黄島や沖縄で大きな被害をアメリカ軍にもたらした。1945年8月15日に太平洋戦争が終わるまでに、神風特別攻撃隊は約300隻以上のアメリカ軍の艦船を撃沈または損傷させて、アメリカ軍水兵の約18,772人(死者約8064人、負傷者は10,708人)の死傷者を出した。日本側の特攻戦死者は、(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると海軍約2,531人、陸軍約1,417人、計約3,948人であった。




2022年1月5日水曜日

アフガニスタンの首都カブール近郊で、2001年11月13日に北部同盟の兵士らはタリバン軍兵士の死体を戦車上から横目に見下した。

アフガニスタンの首都カブールの北約3kmにまで接近した道路上で、2001年11月13日に北部同盟の兵士らはタリバン軍兵士の死体を戦車上から横目に見下した。反タリバンの北部同盟の部隊は、タリバン軍が首都カプールから逃げ出した後に、11月13日にカブールに入り、カブール市民に迎えられた。アメリカ軍は2001年10月17日にアフガニスタンに侵攻し、北部同盟軍に支援してタリバンとの約2ヶ月間の戦いを経て2001年12月22日に暫定政府を樹立した。

 北部同盟(Northern Alliance)は、タリバンが首都カブールを占領した後に、1996年末から2001年にかけて軍事活動した軍事同盟であった。当初はタジク人が多く含まれたが、2000年までに他の民族の指導者が北部同盟に参加した。北部同盟はタリバン政権に対して防衛戦を展開した。タリバンが、パキスタン軍から支援を受けて、北部同盟は周辺諸国とアメリカ・ロシアなどから支援を受けた。2001年までに北部同盟は国土の10%以下で、北東部に追い詰められ、バダフシャン州を拠点にした。アメリカはアフガニスタンに侵攻し、北部同盟軍に支援してタリバンとの約2ヶ月間の戦いを行って2001年12月に勝利した。タリバン政権が排除されて、北部連盟が新しいアフガン暫定政権を支持した。2021年に首都カブールが陥落する中で、かつての北部同盟の指導者やその他の反タリバンが、アフガニスタン民族抵抗戦線として再編成されている。

 タリバン(Tariban)は、自らをアフガニスタン・イスラム首長国と称した。タリバンは、アフガニスタンにおけるイスラム原理主義者、過激派イスラム主義者、ジハード主義者の政治軍事組織であった。タリバンはアフガニスタンを事実上支配している。タリバンは、違法な麻薬取引、恐喝、身代金の誘拐などで内部資金を得て、2010年代半ばには前政権下で違法だった鉱山事業を掌握した。1996年から2001年まで、タリバンはアフガニスタンの約4分の3を支配して、イスラム法の厳格な解釈を施行した。タリバンは、1994年にアフガニスタン内戦から派閥が登場して、主にイスラム学校で教育を受けたパシュトゥーン地域の学生で構成され、ソビエト・アフガン戦争で戦った。タリバンは、アフガニスタンの大部分に広がり、ムジャヒディーンの軍閥から権力を奪った。1996年には全体主義的なアフガニスタン・イスラム首長国が設立され、首都はカンダハルに移転した。9.11テロ後の2001年12月に、アメリカ主導のアフガニスタン侵攻で転覆した。北部同盟が暫定的なアフガニスタンを継続として、ほぼ国際的な承認を維持した。タリバンはその後、アフガニスタン戦争にて、アメリカの支援を受けたカルザイ政権やNATO主導の国際治安支援部隊(ISAF)と戦う反政府運動として再編成された。アメリカ軍の撤退により、2021年8月15日のカブール陥落の後に、タリバンはアフガニスタンの支配権を取り戻した。

 2021年のカブール陥落により、アフガニスタン・イスラム共和国は崩壊した。2021年5月に始まったタリバン軍は攻勢して、2021年8月15日に首都カブールをが占領した。2001年から2021年のアフガニスタン紛争を終結させる2020年2月に締結された和平合意に基づき、アフガニスタンからアメリカ軍を撤退させる中で占領された。占領前に、アフガニスタンの州都はタリバンの攻勢で相次いで陥落した。2021年8月14日から8月31日までに、アメリカとNATOは、中央政府の崩壊後にカブールのハミド・カルザイ国際空港から空輸で、約123,000人以上を避難させた。8月31日のアメリカの撤退後に、約1,000人のアメリカ市民とその他のビザを持つアフガニスタン人が、タリバンによって閉鎖された。国連の制裁などで、アフガン中央銀行の在外資産が凍結されて、経済は破綻状況でアフガン市民は飢餓状態に陥っている。



2022年1月4日火曜日

日中戦争が勃発した直後に1937年7月に天津の川に中国人の死体が浮かんだ戦争写真に、掲載が不許可であるX印が書き込まれた。

日中戦争が1937年7月7日に盧溝橋から勃発した直後に、1937年7月に天津の川に中国人の死体が浮かんだ。7月25日には、北京と天津間の廊坊でも、7月26日に北京の広安門で、7月28日から一斉に日本軍と中国国民党軍が交戦した。日本軍は7月31日までに、永定河の東海岸を制圧して、北京に入城した。中国国民党軍は北京と天津間からも敗退した。

 日本軍の検閲により、中国人の死体を撮影した写真の掲載が不許可であるX印が写真上に書き込まれた。戦場における戦傷者を撮影した写真は、戦意喪失、厭戦反戦気分を煽るものとして「不許可」となった。日本軍に従軍カメラマンは、日本軍兵士の死体をほとんど撮っていない。敵軍兵士の死体の写真を多数撮影して、許可・不許可・保留の裁定を受けた。戦場から新聞社に到着した原稿や写真は、黒字で検閲の内容を記載されて、許可の場合は検閲済、不可の場合は不許可、未定は保留の判子を捺印された。戦争に勝利するために、大本営の意向を市民に伝える媒体になった。

 陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲を受けると不許可写真となり廃棄処分となった。毎日新聞は第2次上海事変から日中全面戦争の写真を秘蔵した。日本にて唯一の残存した歴史史料写真となり、毎日新聞社編、一億人の昭和史 (10) 不許可写真、 1997年3月発行に掲載された。明治政府の新聞紙法から出版法などの検閲で、言論の自由が奪われた。太平洋戦争下ではほぼ全ての報道の自由が奪われた。報道機関は、日本政府と日本軍のプロパガンダの宣伝紙に変貌した。新聞の検閲は、官憲の意向で解釈されて発禁から事業の廃止まで厳罰に処せられた。1942年2月には、新聞社の整理統合が断行され、ページ数も次第に減少して、16頁から敗戦直前には1頁まで圧縮された。各新聞社には、大本営の許可したるもの以外は禁止され、取材もなく大本営の発表のみ掲載した。1945年8月15日に敗戦になってから新聞社は市民に初めて太平洋戦争と大本営の真実と新聞社の虚偽を掲載した。

 第二次世界大戦中は、アメリカ軍の検閲は戦争情報が市民に届かないようにした。特に重要な検閲が、戦争写真であった。戦争情報局は、政府の検閲官やメディアの自己検閲を通じて、戦線での戦闘の写真を検閲した。第二次世界大戦の最初の2年間は、写真の検閲が継続されて、アメリカ人の死傷者の写真は完全に禁止された。数年後の1943年には、写真の検閲が緩和された。死者の顔がはっきりせず、血まみれの恐ろしいものではなく、比較的穏やかな死体ならば、兵士の死体を見せることができた。犠牲を示すことで、戦争に疲弊した国内の市民を奮い立たせると考えた。戦闘地域で撮影された写真は、公開前に徹底的に審査される。検閲の対象は、アメリカ軍の砲撃による民間人の犠牲者や残虐行為を行ったアメリカ軍下士官や、衛生兵が治療している敵兵などである。結局は、戦場での恐怖や戦闘員の精神的苦痛などさまざまな戦争情報が隠された。




2022年1月3日月曜日

アメリカ軍の無名の兵士は、すべての戦争を終わらせるはずの戦争で殺害され、無名の戦死者は棺桶の中で担がれて、軍隊方式で葬儀された。

アメリカ軍の無名の兵士は、すべての戦争を終わらせるはずの戦争で殺害された。1921年11月11日にアメリカ軍の無名の戦死者は、棺桶を多数のアメリカ軍兵士に担がれて、軍隊方式に葬儀された。8人の棺桶の担ぎ手の一人として、名誉勲章を受章したサミュエル・ウッドフィル(Samuel Woodfill)が加わった。無名の戦死者は、アーリントン国立墓地に埋葬されて、第2次世界大戦中の不安な時代により良い世界を求めるアメリカの名誉の象徴にした。名誉勲章は戦争後には無援となり無意味となった。

 棺桶の担ぎ手になった名誉勲章のウッドフィルは、第一次世界大戦の末期に、フランスでの戦闘に従軍した。1918年9月26日から勃発したアルゴンヌの森の攻勢は、突如に休戦協定が11月11日に発効して第一次世界大戦が終結した。約47日間繰り広げられ、約100万人以上のアメリカ軍兵士が参加した史上最大の血戦となった。犠牲者の数も異常であり、長期な戦いとスペイン風邪により、アメリカ軍兵士は約2万6千人以上の兵士が死亡して、ドイツ軍兵士は約2万8千人の兵士が死亡して、フランス人を含めて約35万人以上もの死傷者に及んだ。当時のアメリカ軍兵士たちは、射撃の訓練を受けていなかった。多くの兵士は戦闘になるまで武器を撃ったことすらなかった。本質的な狙撃兵でなった農家のウッドフィルが戦闘状況に入ったとき、戦闘能力が格上で、最終的に名誉勲章を受賞された。名誉勲章は無援となり、無一文となり孤独死した。

 アメリカ軍は10月12日にフランスのクーネル付近で、ドイツ軍の機関銃の掃射を受けて釘付けになった。濃霧の中で、ウッドフィルはドイツ軍の陣地に向かって侵攻した。ドイツ軍の銃声の方向を確認して、偵察して、機関銃の巣を探索して、ドイツ軍の約23m以内に侵入した。彼は3人のドイツ軍兵士を発見して、3発の射撃で殺害した。残りの4人目のドイツ軍兵士は、ウッドフィルに襲いかかるも、白兵戦で殺害された。その他にもドイツ軍陣地に命がけで侵攻して、同じ手順により多くの白兵戦となり、手に汗握る戦いが続いた。ドイツ軍の大砲が発射したマスタード・ガスの影響も出始めて、ボルドーに入院した。第一次世界大戦中はそれ以降の戦闘には参戦しなかった。卓越した技術、発揮した勇気、多くの兵士の命を救った英雄的な軍事行動の活躍が注目された。小柄で地味な農家の少年が、持ち前の機知と技術を駆使して、強大なドイツ軍兵士を殺害した英雄として称賛されて、陸軍省は1942年の第2次世界大中にウッドフィルを再入隊させた。名誉勲章は退役後は無援と裁定されて無一文となって1951年10月10日に孤独死した。




2022年1月2日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された。顔面から両方の上肢に被爆して火傷とケロイドを受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。

 1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。

 広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。




2022年1月1日土曜日

日本軍の神風特攻が1945年3月11日に航空母艦ランドルフの飛行甲板直下の右舷後部に命中して、火災等で死亡した約25人のアメリカ軍兵士の黒焦げの死体を検死して照合した。

アメリカ軍の航空母艦であるランドルフ(CV-15)が西カロリン諸島のウルシー停泊していた1945年3月11日午後8時7分に、神風特攻がランドルフの飛行甲板直下の右舷後部に命中した。アメリカ軍兵士は、艦内の格納庫デッキで映画を見ていた。約4時間後に消火して、3月12日の午前6時に鎮火した。アメリカ軍は約25人が死亡して、そのうち約4人は行方不明、約5名は病院船リリーフに移送された後に死亡して、約105人が戦傷した。火災等で死亡した約25人のアメリカ軍兵士の死体を検死して照合した。戦後の調査により、ランドルフに突入したのは特別攻撃隊の福田幸悦と判明した。ランドルフ同乗していたアメリカ軍兵士のロバート・フランクリン・クライムズは、神風特攻で戦死した。彼の息子のトムは、榴散弾となった金属片で父親は死亡して、その裏側に血痕が付着したと証言した。

 日本軍の梓特別攻撃隊は、横須賀のP1Y1(フランシス)と呼称された爆撃機に約800kgもの爆弾を搭載した。出陣前に、連合艦隊は航空隊に対して、諸君、前進せよ! 傲慢な敵を確実に破壊し、敵に突っ込むことで、我々の聖地を守ることを誓うのだと伝言した。九州の鹿屋基地から約24機が発進して、約6機は鹿屋に引き返し、約12機が目標に到達せずに海に投棄され、約3機は迷子でヤップ島に到着した。残りの約2機がウルシーに到着して、日没後に1機の梓特別攻撃隊の銀河が、低空で潜航して奇襲にて、ランドルフの飛行甲板後部に突入した。突撃直前に、銀河は攻撃成功と無線連絡した。ウルシーのもう1機の銀河は、ソーレン島の倉庫に墜落した。神風特攻により、発生した火災が発生して、格納庫甲板、航空機エレベーターの骨組み、飛行甲板の支持部を構成する鋼鉄が、歪んだり破壊された。ランドルフの損傷は真珠湾での修理能力を超えており、アメリカ海軍が行った海上での最も大規模な修理となった。ウルシーでの修復後、ランドルフは4月7日に沖縄攻略部隊に参戦した。

 アメリカ軍が1994年6月15日にサイパン島に上陸して、6月19日のマリアナ沖海戦で日本軍は圧倒な敗戦に至った。急遽に6月25日に、皇居で特殊の兵器による特攻が公式に承認された。10月13日に海軍令部から、神風隊攻撃の発表を指令した。10月20日に体当たりの神風特攻の部隊が編成されて、特攻は10月21日に離陸した。特攻が最初に激突したのは10月25日午前7時40分にアメリカ軍の護衛空母のサンティーに急降下して体当たり爆撃した。6月25日には全部隊は特攻に指定されて、反対するものは叩っ斬る、批判は許さんと厳命された。日本軍の特攻による犠牲者は、日本海軍が約2,525人に及び、その内約1,727人は予科練で大半は18歳から20歳の若者であった。日本陸軍は、約1,388人であり、大半は1943年以前に入隊した少年飛行兵であった。




2021年12月31日金曜日

1944年9月4日に拉孟の横股で籠城した日本軍は、最後に手榴弾や昇汞で自殺して、籠城内で兵士13体と慰安婦2体の死体が散乱した。

中国雲南省の拉孟にて1944年9月6日に日本軍が全滅して、日本軍兵士の死体の約106体が遺棄された。その中に女性の死体の約6体も含まれた。1944年9月4日に拉孟の横股陣地で籠城して残存していた日本軍は、最終的に手榴弾や昇汞で自殺して、拉孟の籠城内で日本軍兵士の15体の死体が散乱した。15体の死体の中には、2体の慰安婦の女性死体が含まれた。横股陣地では、重傷兵で溢れてうめき喘いだ。毒薬である塩化水銀である昇汞の服薬あるいは手榴弾で自殺した。慰安婦には昇汞が配られた。

 1944年初頭からのインパール作戦で、日本軍が連合軍に惨敗した。連合軍は北ビルマのミチナ方面には5月17日から、雲南方面には5月11日から日本軍に反攻した。連合軍の北ビルマ反攻は、ベンガルからの鉄道の終点である北ビルマのレドから、アラカン山系からミチナ、中国の雲南省に入る騰越、拉孟、保山、昆明に至る補給ルートの再開を目指した。駐インド軍と中国国民党軍が、飛行場があるミチナと雲南の両方面から攻撃した。北ビルマ方面と雲南方面の防御のために、日本軍は北方の騰越と拉孟の周辺で完全に孤立して手薄になった。やがて中国軍の反攻に対して、日本軍は籠城戦をするも、9月8日に拉孟、9月14日に騰越が、最終的に全滅した。

 ビルマロード上の拉孟にて、1944年9月3日に中国国民党軍は4人の朝鮮人女性と2人の日本人女性の6人の日本軍の慰安婦を獲得した。拉孟の近郊で日本軍が最後に立て籠もった松山で、日本軍慰安婦であった4人の朝鮮人の慰安婦は、過酷な戦場にて汚れた着衣、疲労困憊した顔貌、その内の1人は妊娠した大きな腹が撮影された。日本軍慰安婦の年齢は、24歳から27歳であった。1942年4月に日本軍の官憲が朝鮮の平壌で、18人の朝鮮人女性は挺身隊の募集に応募して徴集された。日本軍慰安婦として、ビルマのラングーンから北方の最前線に強制連行された。拉孟の慰安所は1942年末から裏山陣地に設置された。日本軍が拉孟に籠城して全滅に巻き込まれた慰安婦は手榴弾で虐殺された。

 拉孟の横股陣地から、数人の慰安婦が脱走した。その中に、妊娠した朝鮮人女性の朴永心も含まれた。地獄で惨死を逃れて生き延びて、山を下って川の方へ逃げて、とうもろこし畑で、中国国民党軍に保護された。朴永心は、妊娠した大きな腹で流産しかけて切迫流産となり、処置を受けるも死産となった。その後に日本軍慰安婦は昆明捕虜収容所に連行された。収容所では、朝鮮人女性25人のうち23人は慰安婦であった。そのうち約10人の慰安婦が、拉孟の周辺から中国国民党軍に捕獲された。朴永心は北朝鮮に戻るも罪人として恥を忍んで耐えて苦難した。北朝鮮の対策委員会が1992年8月から日本政府に対して朝鮮人慰安婦の補償を訴えた。1993年8月4日に、日本政府の河野洋平内閣官房長官は、慰安婦関係調査結果発表に関する談話で、日本軍の関与を認めて、おわびと反省を表明した。北朝鮮で朴永心は補償もされず85歳で2006年8月7日に死亡した。



1944年9月4日に拉孟の横股陣地で籠城して残存していた日本軍兵士は、最終的に手榴弾や昇汞で自殺して、拉孟の籠城内で日本軍兵士の15体の死体が散乱した。




中国雲南省の拉孟の近郊の松山で、日本軍の慰安婦であった4人の朝鮮人の慰安婦は、過酷な戦場にて汚れた着衣、疲労困憊した顔貌、その内の1人は妊娠した大きな腹が撮影された。


2021年12月30日木曜日

1927年3月に北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。

満州の奉天派の軍閥であった張作霖が1926年12月に北京政府の代表となり、1927年3月から北京市内の共産主義者を弾圧と粛清するために、虐待と虐殺をした。斬首して断頭した後に、電信柱に吊り下げた頭部を民衆に公開した。北京の群衆も、断頭された頭部を興味と恐怖にかられて見上げた。共産主義者の弾圧と粛清のために、木製の首かせをはめられて、公開のさらし首にされた。張作霖は3月3日に、過激化する共産主義を防ぐ為に国民革命軍と戦闘する意思を国内外に示した。国民党軍も、1927年4月に上海で共産党を弾圧と粛清して、1927年7月からは武漢にても共産党の弾圧と粛清をした。

 1927年4月12日に中華民国にて蒋介石の国民党軍が、労働組合連合である上海総工会の武装労働者が、3月22日に上海で起こした暴動に対して、労働者と共産党員を粛清する四・一二反革命政変と呼称される上海クーデターを起こした。1927年3月下旬に、上海では第3次労働者武装蜂起が勃発した後に、国民党軍は上海に入り、治安上有利な地域を占領した。その後に、蒋介石は上海に赴き、4月上旬に反共秘密会議を開き、直ちに暴力的手段で共産党の粛清を行うことを決定して、共謀して反革命クーデターを準備した。4月11日の夜に、蒋介石は密かに占領した全省にて共産党を粛清せよと命じた。4月12日の早朝に、蒋介石から買収された武装青年団が労働者を装って、各地に駐屯する労働者のストライキを襲撃して対抗した。4月13日の朝、上海総工会は、閘北の青雲路広場で約10万人の労働者を集めて大集会を開いた。労働者の行列が宝山路に達したところで、国民党軍に虐待と虐殺されて、約100人以上が死亡して、無数の人々が負傷した。その後も、蒋介石の国民党軍は共産主義者や革命的大衆を逮捕して、虐殺し続けた。わずか約3日間で、約300人以上が虐殺されて、約500人以上が逮捕されて、約5,000人以上が行方不明になった。上海クーデターにより、共産党と労働者の粛清につながり、統一された南京国民政府が樹立された。

 1928年4月から蒋介石は中国国民党軍を率いて、上海クーデターで頓挫していた北京の軍閥政権を打倒する北伐を再開した。1928年5月の山東省済南で日本軍に武力衝突した。国民党軍は、済南を迂回して北上して、北伐を継続した。6月4日に満州奉天派であった北京政府の張作霖政権は撃破されて、北京から張作霖が逃亡中に日本軍により爆殺された。中国国民党軍は6月15日に北京を占領して、北京政府は消滅して、中国国民党は中国統一を宣言した。 




2021年12月29日水曜日

ボルネオ島のブルネイのラブアン島の戦いにて、オーストラリア軍兵士らのパトロール隊が、日本軍兵士を掃討して殺害した。

 ボルネオ島のブルネイのラブアン島の戦いにて、オーストラリア軍兵士らのパトロール隊が、日本軍兵士を掃討して殺害した。殺害された日本軍兵士の死体が道端に散乱して、連合軍兵士が見回りながら検死した。海からの砲撃と空から爆撃、戦車と火炎放射器からの武力に支えられたオーストラリア軍は、日本軍守備隊を圧倒し、ラブアンに残っていた抵抗勢力を一掃した。ラブアン島の戦いに引き続く数日間に、オーストラリア軍のパトロール隊はラブアン島に残っていた日本軍兵士を殺害したり、捕獲した。ラブアン島での日本軍の戦死者は約389人、捕虜は約11人であった。オーストラリア軍の死傷者は約34人で、負傷者は約93人であった。

 ラブアンの戦いとは、1945年6月10日から6月21日まで、ボルネオ島沖のラブアン島で行われた連合軍と日本軍の戦いである。ラブアン島の戦いは、オーストラリアの北ボルネオ侵攻作戦の一環で、ブルネイ湾を攻略して侵攻拠点とする作戦であった。ラブアン島を占領した6月21日から、連合軍は周辺地域をパトロールして、日本軍を排除した。各部隊はラブアン島の異なる地区に割り当てられて、7月中旬までに任務を完了した。パトロール中に、主に6月24日のBBCAU施設への襲撃を撃退するために、パトロール戦隊は約27人の日本軍兵士を殺害して、1人の囚人を捕らえた。

 太平洋戦争の勃発した直後1942年1月3日に、日本軍はボルネオの戦いで抵抗もなくラブアン島を占領していた。数週間にわたる空爆と短期間の艦砲射撃を経て、1945年6月10日に、アメリカ軍とオーストラリア軍の艦船からラブアン島に上陸した。オーストラリア軍はすぐにラブアン島の港と主要飛行場を占領した。多勢に無勢の日本軍守備隊は、主にラブアン島の内陸部の要塞に集結して、上陸にはほとんど抵抗しなかった。侵攻から数日後に、オーストラリア軍が最初に日本軍の陣地に侵入したが奏功せず、この地域は激しい砲撃にさらされた。日本軍の遊撃部隊も6月21日に連合軍の陣地を攻撃したが、撃破された。6月21日のうちにオーストラリア軍は日本軍の陣地を襲撃した。ラブアン島を確保した連合軍は、ラブアンを重要な拠点として整備していった。オーストラリア軍は6月下旬に、ラブアン島からブルネイ湾の東岸を攻略するのに、飛行場はオーストラリア空軍部隊を受け入れるために修理・拡張された。ラブアン島を占領している間、連合国は島のインフラを再建し、侵攻前の砲撃で家を失った数千人の民間人を支援した。




2021年12月28日火曜日

1945年5月に、フィリピン陸軍ゲリラ部隊とアメリカ軍人員回復野戦部隊がダバオ収容所に解放した際に、アメリカ人兵士またはフィリピン人兵士の白骨化した死体を発見した。

1945年5月に、フィリピン陸軍ゲリラ部隊とアメリカ軍人員回復野戦部隊がダバオ収容所に解放した際に、アメリカ人兵士またはフィリピン人兵士の白骨化した死体を発見した。日本軍が捕虜収容所にした疎開施設で、腐敗の程度が異なる約75体の未埋葬の死体が発見された。ダバオ刑務保留地は、1932年1月21日にフィリピン南部のミンダナオ島に約30,000ヘクタールもの土地に開設された。1941年12月7日に太平洋戦争の勃発した直後に、日本軍が約1,000人の日本人を収容したとフィリピン憲兵隊がアメリカ軍に報告した。1942年12月20日に、日本軍がダバオ市を占領した時に、多くの警備員はただ逃げ出し、多くの囚人が混乱の間に逃げた。日本軍のフィリピン占領期間中に、捕虜収容所として利用された。太平洋戦争のフィリピンの戦い中には、約2,000人のアメリカ軍兵士らがダバオ刑務収容所に拘束された。捕虜は、この時期に日本軍が運営した捕虜収容所で厳しく扱われた。

 バターン死の行進の生存者から、アメリカ軍は1942年4月に連合軍が降伏した後に、日本軍が犯した残虐行為を知った。強制行進に強要された人々のほとんどは、ルソン島のさまざまな場所で捕らえた。捕虜はマニラの南からルソン島の北にあるさまざまな収容所まで、熱帯の太陽の下で5日から12日かけて約100km歩かされた。斬首、銃撃、殴打は、バターン死の行進の試練の間に、水や食料をほとんど使用せずに行進されられた連合国の捕虜の多くにとって、その日の日課となった。娯楽のために、日本軍兵士は何人かのフィリピン人に生の埋葬さえ強制した。アメリカ軍兵士の約1,200人とフィリピン軍兵士が約16,000人死亡した。マニラ北部のいくつかの刑務所収容所に配置されて、生存は引き続き困難となった。

 バターン捕虜のほとんどは、カパスのキャンプオドネルとカバナトゥアン周辺の3つのキャンプという2つの収容所に収容された。キャンプオドネルでは、収容が始まってから数週間で、毎日約50人以上のアメリカ人が死亡した。19キャンプカバナトゥアンでは、最初の2か月で約1,200人以上が死亡した。死者を埋葬することは、食料や水がほとんどない状態で存在していた生存者にとって、日常の作業になった。病気で衰弱した状態で、連合軍の捕虜は集団埋葬のために塹壕を掘り、死体を埋葬地に運び、その他のさまざまな仕事に従事することを要求された。オドネルに入った約7,000人のアメリカ人のうち約2,000人が最初の6週間で死亡した。同時に、約28,000人のフィリピン人兵士が死亡した。ほぼ同数のアメリカ人を収容していたいくつかのカバナトゥアン収容所では、状況は良くなかった。カバナトゥアンから移送された約1,000人の囚人は、すでにアメリカ人で埋め尽くされていたダバオ刑務収容所に収容された。




2021年12月27日月曜日

朝鮮戦争中にアメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。

朝鮮戦争中に、アメリカ軍兵士は白い雪原の中の山岳部を北方に侵攻した。アメリカ軍兵士は、北朝鮮軍と中国人民志願軍の共産党軍兵士の戦死した死体を、雪原の途上で見下しながら侵撃した。1950年10月19日に中国人民志願軍は凍てついた朝鮮半島に参戦して戦局は再び動いた。約10万人以上の中国軍が奇襲をかけて、アメリカ軍を最も過酷で辺鄙な土地に閉じ込められて、気温は常に氷点下25度まで下がった。極寒の地域で、爆発物やブルドーザーがなければ狐穴を掘ることもできない。戦闘員は土嚢の代わりに凍った死体を積み上げた。ブーツの中で足が凍り、氷の塊になる。弾丸の傷口も凍り、暖房の効いたテントに入るまで出血が止まらなかった。

 朝鮮戦争は、1950年6月25日、北朝鮮(正式には朝鮮民主主義人民共和国)が隣国の韓国(正式には大韓民国)に対して奇襲攻撃を行ったことから始まった。北朝鮮とソ連の予想に反して、米国は直ちに韓国に軍事支援を行い、国連安保理は北朝鮮に38度線までの撤退を要求する決議(国連安保理決議82)を採択した。マッカーサー元帥率いる国連軍は、最初の攻撃から数日のうちに大規模な反撃作戦を計画し始め、1950年9月のインチョン海戦でその頂点に立つ。インチョン攻略後、国連軍は北朝鮮軍を後退させ、首都平壌を占領し、鴨緑江で北朝鮮最北端の国境に到達した。1950年10月から11月にかけて、モスクワの密かな支援を受けて、数十万人の中国軍が北朝鮮に進駐し、韓国軍と国連軍を撤退に追いやった。1951年夏には、地上での争いは膠着状態に陥った。北朝鮮への空爆と局地的な戦闘や小競り合いは続いたが、その後2年間、両者の間で交わされた領土はほとんどなかった。1953年7月27日休戦協定に調印して紛争は終結した。休戦協定は、戦前の朝鮮半島の地理的分断を維持し、北朝鮮軍と韓国軍は軍事境界線の反対側で活発な警戒態勢を維持した。

 1953年の戦争終結後、国防総省は約54,260人、戦死は約33,643人とその他の死約20,617人の合計である。北朝鮮の国勢調査報告は、1950-53年の朝鮮戦争中に人口の20%を失った。人口は1948年の約9,368,592人から1953年には約7,425,939人まで減少した。北朝鮮の民間人死傷者の総数は約120万人であり、爆撃で約282,000人が死亡し、約796,000人が朝鮮南部に逃亡あるいは行方不明となった。残りの約80万人の人口減少は、朝鮮戦争と自然の原因による死亡の総数と朝鮮日報は報告した。朝鮮戦争の犠牲は "忘れられた戦争 "と呼ばれている。

 韓国軍は、戦死者は約227,800人、戦傷者は約717,100、行方不明は約43,500人、総死亡者は約984,400人の犠牲であった。中国軍の犠牲者数に関する広範な推定値は、約180,000人から約900,000人である。朝鮮戦争での中国軍兵士の死者数は、中国政府が公式な死者数を発表していない。朝鮮戦争が民間人に与えた影響は、特に悲劇的だった。朝鮮戦争による民間人の犠牲者は、死者、負傷者、行方不明者を合わせると、約3年間(1950-1953)で約300万から約400万人にのぼった。朝鮮戦争は、1960年、中国はソ連から離脱し、中ソ分裂の事件が起こり、すべての共産主義国の間に緊張が走った。




2021年12月26日日曜日

第一次世界大戦の西部戦線で、ドイツ軍兵士が1918年に殺害された死体が、爆発した強い衝撃波により、陥没した道端に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線末期の戦闘の余波によって、1918年にドイツ軍兵士が殺害された死体が、陥没した道端に散乱した。戦場には常に戦況によっては、戦闘で死亡したドイツ軍兵士の身なりが悪く、ズボンが欠損していた。爆弾が爆発したときに発生する強い衝撃波により、ゆるいズボンを吹き飛ばしたり、きつい軍服を粉々にした。

 1917年のロシアの二月革命と十月革命で12月3日にドイツは休戦協定を結び、東欧の大部分を獲得して、東部戦線から解放されたドイツ軍は、春にフランスに対して大規模な攻勢をかけた。1918年3月21日からドイツ軍は、西部戦線で春の大攻勢を開始した。ドイツ軍はアラスの南側約80kmの戦線で進撃を遂げ、連合軍を約60km後退させた。戦線が伸びきったドイツ軍は、アメリカ軍が大量に参戦して攻勢を持続できなかった。1918年7月からアメリカ軍の援軍を受けた連合軍は、百日攻勢により一連の持続的に攻勢した。7月18日に、フランス軍は約8万5千人のアメリカ軍の支援を受け、マルヌ河畔でドイツ軍を撤退させた。1918年8月に、連合軍はアミアンで奇襲攻撃を開始した。一連の戦闘でドイツ軍はさらに東方に押しやられ、ドイツ軍幹部は敗戦を認めていた。連合軍がドイツに侵攻する直前の1918年11月11日に、休戦協定が締結されて、西部戦線は終結した。フランス北部のコンピエーニュの列車車内で、ドイツ軍は降伏して、フランスとベルギーからドイツ軍の撤退に休戦した。多くのドイツ軍兵士は幹部に裏切られたと感じた。1918年11月11日午前11時に第一次世界大戦は終結した。1919年6月18日のベルサイユ条約は、ドイツに戦争の責任を認めさせ厳しい条件を課して、第二次世界大戦の遠因となった。

 第一次世界大戦において、連合軍兵士約42,612,810人のうちで、戦死者は約5,211,809人、戦傷者は約13,003,004人、行方不明は約7,754,719人、総死傷者数約22,165,219人が犠牲となった。中央同盟軍兵士約65,462,009人のうち、戦死者約8,598,009人、戦傷者約21,391,452人、行方不明は約7,754,719人、総戦傷者は約37,569,768人が犠牲となった。最も戦死者数が多くなったドイツ軍約11,000,000のうち、約1,773,700人が戦死して、約4,216,058人が戦傷して、約1152,800が行方不明者、総戦傷死者約7,142,558人の犠牲となった。




 

2021年12月25日土曜日

広島原子爆弾に被爆した銀行の建物の床に、毛布を敷いて横たわる被爆した母親は火傷をして泣きじゃくる子どもをあやしていた。

1945年10月6日に、毛布を敷いた銀行の建物の床に、被爆した母親と子どものが横たわっていた。母親は火傷をして皮膚がただれて泣きじゃくる子どもをあやしていた。広島市の中心部に位置して被災した日本銀行広島支店などの建物は、一時的な救護所に改装された。広島を消滅させた原子爆弾の猛烈な爆風と熱戦で焼けただれた被爆者たちは、一時的な救護所となった銀行ビルの跡地にあふれた。火傷した被爆者の皮膚は、焼けた部分が赤チンを塗ったような赤紫を帯びた。

 日本銀行広島支店は、爆心地から南東へ約50mの近距離にあり、猛烈な熱線と爆風により広島支店の建物内は甚大な被害を受けた。ビルは堅牢な構造で倒壊は免がれた。3階と2階の一部に火災が発生し内部が焼失した。その他の1階事務室や地下金庫等は、奇跡的に火災を免れた。殆どの職員約85人が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆した。脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原子爆弾のために、悲惨な犠牲は、死亡者は約37人、負傷者は約15人に及んだ。銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原子爆弾が炸裂して、焼失して死亡した。強烈な熱線により階段は白っぽく変色して、腰掛けていた人の部分が影のように黒くなって残存した。日本銀行広島支店はわずか2日後に機能を再開できた。 

 1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の最初の閃光は、千個の太陽のように明るかった。熱と光は、1秒も経たないうちに何千人もの人々を殺傷した。爆心地の中心に近い被爆者の体は、気化したり、燃え尽きたりした。ある者は壁に影を残すだけだった。爆心地からより遠方の被爆者は、髪の毛や肌が焼け落ちた。迷妄した多くの被爆者が迷妄して、衣服は体に溶け込んだ。閃光に続く爆風は、家や工場を崩壊させて、路面電車や列車は放り投げられ、埃と瓦礫で太陽を黒く染めた。激しい突風が吹き荒れ、広島市内は、火の海となった。被爆者が、火炎を避けるために川に飛び込んだ被爆者は、溺死していった。

 原子爆弾が広島市内に投下されて炸裂した時、「砕け散るような閃光が空を埋め尽くした。地面に投げ出され、周りの世界は崩壊していた。何も見えず、真っ暗であった。ようやく我に戻ると、腰に巻いていたタオルで口をこすると、ひどい臭いがした顔の皮膚が全部剥がれ落ち、腕や手の皮膚も全部剥がれ落ちた。空は夜のように黒く、鶴見川の橋に向かって家路を走りだすと、川の中では何百人もの人々が暴れていた) (ハーパー著「脱出の奇跡(Miracle of Deliverance」より引用)当時まだ5歳だった児童らも、同じような恐怖に襲われたた。「近くの通りからほとんど見分けがつかない被爆者が逃げてきた。皮膚が焼けて手やあごから垂れ下がっていた。顔は真っ赤に腫れ上がって、どこに目や口があるのかわからない願望であった。(ローデス著「原子爆弾の製造 (Making of the Atomic Bomb)」より引用)




2021年12月24日金曜日

太平洋戦争の沖縄戦で沖縄南部に撤退して、射殺されて死ぬまで戦った日本軍兵士死体を、アメリカ軍兵士が検死した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年5月24日と5月29日の撤退命令により沖縄南部に撤退していた日本軍兵士をアメリカ軍兵士が銃殺した。日本軍兵士が射殺されて死ぬまで戦った死体を、アメリカ軍兵士が検死した。殺人的となった日本軍兵士は死ぬまで死闘して自ら全滅した。戦傷者は負傷で死亡あるいは最前線に戻って殺害された。6月10日にも日本軍兵士は死ぬまで戦線を守り続けるよう命じられた。沖縄戦場は混乱状態となり、すべての日本軍兵士は上官の命令に従い、アメリカ軍兵士を巻き込んで死ぬまで戦った。6月22日に洞窟に閉じ込もって、狂気的に防御した日本軍兵士の生存者を一掃して、沖縄戦は終結した。

 沖縄戦にて、1945年6月前後からの日本軍は首里から退却は、アメリカ軍からの砲撃を受けながらも、豪雨に紛れて、夜間に沖縄南部に向けて脱出した。日本軍軍は、喜屋武半島の最後の防衛線に、約3万人近くの戦闘員を投入することが可能となった。これが不幸にも、数千人の沖縄民間人の死亡含む、沖縄戦の末期における最大の大量虐殺につながった。さらに、約9,000人の日本軍と約1,100人の民間兵士が援護した。約4,000人の日本軍兵士が飛行場の東側、小禄半島の沖縄海軍基地を見下ろす丘の中腹にある地下司令部に立てこもった。

 6月4日に、アメリカ軍が喜屋武半島への水陸両用の攻撃を開始した。6月13日に、地下司令部の手作りトンネルの中に立て籠こもった日本軍兵士約4,000人が全員が自殺して自決した。6月17日に、日本軍の残党が、糸満の南東にある島の最南端の小さな洞窟に押し込まれた。6月21日には一部の日本人が潜伏していたが、最後の抵抗は終わった。戦闘終了後、89号地の司令部で日本軍幹部は切腹して自殺した。「お前が死ねば、沖縄戦の真実を知る者は誰もいなくなる。一時の恥を忍んで耐えてくれ。これは君の陸軍司令官からの命令だ」幹部の矢原大佐のみが、沖縄戦で生き延びた最も上級な将校となり、後に『沖縄戦』という本を執筆した。6月22日に、アメリカ軍は、沖縄戦での組織的抵抗が終わったことを示す旗揚げ式を行った。6月23日には掃討作戦が開始されて、6月30日に終結した。

 沖縄戦の1945年4月1日から1945年6月22日まで続いた82日間の戦闘は、太平洋戦争で最も血なまぐさい戦いとなった。沖縄戦で判明した死者は、沖縄県立平和祈念資料館にある「平和の礎」の碑に記載された。第2次世界大戦中に沖縄戦で死亡した一人一人の名前が記載された。平和の碑には約240,931人の名前が記された。内訳は、沖縄県民が約149,193人、日本軍兵士約77,166人、アメリカ軍兵士は約14,009人、その他、韓国人は約365人、イギリス人は約82人、北朝鮮人は約82人、台湾人は約34人となった。犠牲者数は、1945年3月26日のアメリカ軍の慶良間諸島への上陸から1945年9月2日の日本の降伏調印までの沖縄戦での死亡者に加えて、さらに満州事変から約15年間の太平洋戦争での全ての沖縄人の死亡者、太平洋戦争の前年と降伏した翌年まての戦争に関連した事件で沖縄で死亡者も記載された。除幕までに約234,183人の名前が刻まれ、毎年新しい名前が追加された。沖縄の民間人の死者のうち約4万人は、日本軍に徴兵されたり、洗脳されたため、戦死として統計された。