2021年4月13日火曜日

沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得は、アメリカ軍に土地を奪われたうえに爆死した。

沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得さんは、1959年9月6日に、アメリカ軍に土地を奪われたうえに、爆死した(沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』1970年)。比嘉良得さんはアメリカ軍に土地を奪われて、仕方なく畑に落下した爆弾を拾ってスクラップに出して暮らしていた。その爆弾を解体中に爆死した。阿波根昌鴻が、1950年代の伊江島の市民が、アメリカ軍と闘争する多数の写真を撮影した。1953年4月からアメリカ軍による伊江島の強制土地接収が開始された。1954年にアメリカ軍は、伊江島の住民に立ち退き通告した。1955年3月に伊江島真謝地区から約300人の武装したアメリカ軍兵士による強制的な土地の取り上げた。1956年から伊江島ぐるみ土地闘争が盛り上がった。
 沖縄県伊江島は、かつての沖縄戦の激戦地であった。アメリカ軍が占領した後は、伊江島の約6割が、爆弾の投下や落下傘部隊の降下等の演習地として使用された。伊江島の農民らは肥沃な土地で、農耕に生きるはずであった。アメリカ軍は、伊江島の農民たちから、農地を取り上げて、家屋を取り壊された。伊江島の農民らは、致し方なくアメリカ軍を相手に必死の闘争に立ち上がった。沖縄戦後も苦難に満ちた生き方を負わされた伊江島の農民らは、長く粘り強くアメリカ軍と闘争した。しかし、伊江島は、沖縄本島から北西約9kmと近い場所にあるとはいえ、やはり離島であるために、アメリカ軍との闘争は秘密裏に処分された。 

 太平洋戦争後のアメリカ軍の施政権の下に、各地で半ば強制的に基地や施設を建設した。アメリカ軍兵士による悪質な事故や殺人を含む事件が頻発して、沖縄県民の死傷者も相次いだ。沖縄県民はアメリカ軍の施政に幻滅して日本本土復帰を訴えた。沖縄県民有志は島ぐるみ闘争などの抵抗運動を起こした。アメリカ軍がベトナム戦争から1973年3月31日に完全撤退を控えて、沖縄返還は1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されて、沖縄は本土に復帰した。


 
 
 2021年4月13日 Japan No War (NGO)
日本平和市民連盟 視聴回数 480,000回

2021年4月12日月曜日

日米安保闘争で1960年6月15日に重態の樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送され、警察病院で死亡と診断された。

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日生まれ1960年6月15日没)学生運動家として、日米安全保障(安保)闘争で死亡した東京大学3年生の女子学生である。安保闘争で1960年6月15日に重態となった樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送された。死亡した当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。護送された警察病院で死亡と診断されて、学生らは国会構内で、樺美智子さの死に黙祷を捧げた。
 学生や労働者や市民が安保反対・岸内閣退陣を要求して国会議事堂を十重二十重に取り囲んだ。1960年6月15日のデモで全学連主流派が、国会の衆議院南通用門から国会に突入した。その中で警官隊と衝突した際に、22歳で死亡した。警察病院の検死では死因は、胸部圧迫及び頭部内出血とされた。警察側は樺美智子さんの転倒が原因の圧死と主張した。デモ隊が国会敷地内に突入後、折り重なり倒れた人々の下敷きになって胸腹部が圧迫され、呼吸困難で死亡したと結論付けた。鑑定結果が遺族にも開示されず、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。
 1957年に東京大学文科二類(現在の三類)の文学部国史学科に入学した。イギリスの水爆実験に反対するデモで、アメリカ軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争に参加した。歴史研究会に所属して、歴史を動かす原理の探求を目指した。東大文学部の自治会副委員長となった。迫りくる安保闘争に向けて日本共産党に入党した。教員に対する勤務評定に反対する日教組の勤評闘争や警察官の権限を強化する警職法の反対闘争をした。1958年12月に、共産党の学生党員らが脱党して、より先鋭的な思想・方針を掲げて結成した前衛党・共産主義者同盟に加盟した。全学連主流派として羽田事件で逮捕されるなど過激な闘争をした。激越な言葉は人を熱狂させるが、熱狂は冷めやすく、分裂しやすい。
 1960年5月20日未明に、新安保条約案を衆院本会議で強行採決した。在日米軍として、アメリカ軍の日本駐留を引き続き認め、憲法に抵触する集団的自衛権を認めた。新安保条約案が自然成立を迎える6月19日まで安保闘争が一気に熱狂した。1960年6月16日には,予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止された。その1ヶ月後の7月15日には、新安保条約を強行採決した岸内閣が総辞職した.樺美智子の死亡は日本社会に重大な影響を及ぼした事件となった。
 「最後に」(1956年 樺美智子作) 誰かが私を笑っている、向うでも こっちでも、私をあざ笑っている、でもかまわないさ、私は自分の道を行く、笑っている連中もやはり、各々の道を行くだろう、よく云うじゃないか、「最後に笑うものが、最もよく笑うものだ」と、でも私は、いつまでも笑わないだろう、いつまでも笑えないだろう、それでいいのだ、ただ許されるものなら、最後に、人知れずほほえみたいものだ (樺家之墓には、美智子の詩が掲げられている)



Japan No War (NGO) 日本平和市民連盟
2021年4月12日Blogger投稿数は1,700回に達した。

2021年4月11日日曜日

アメリカ軍による圧倒的な軍事力により、日本軍兵士は全滅して死体がクェゼリン島の砂浜上に散乱した。

太平洋戦争のマーシャル諸島にてクェゼリンの戦い(Battle of Kwajalein)にて、アメリカ軍による圧倒的な軍事力により、日本軍兵士は全滅して死体がクェゼリン島の砂浜上に散乱した。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体群の周りから見てはほっとして微笑んでいた。日本軍はわずか8,000人程度に対して、アメリカ軍は約41,000人にも達した。
 クェゼリン環礁の占領するために、アメリカ軍は標的と世論に時間を置いた。日本軍の戦車は軽量で装甲が不十分で、乗組員の保護は皆無であった。クェゼリン環礁がアメリカ軍に陥落するまでに、日本軍は約8,122人を損失した。飛行場の滑走路を持っていた南部のクェゼリン島と北部のロイ島とナムル島は、マーシャル諸島で最初に奪還された島であった。主な戦闘の目的は、ほとんどの諸島にある滑走路を占領することであった。滑走路は爆撃機用に改造されて、東京大空襲への踏み台になった。
 太平洋戦争にて1944年1月31日に、アメリカ軍はマーシャル諸島の中心部にあるクェゼリン環礁に対して水陸両用の攻撃を行った。1944年2月1日に、クェゼリン環礁の戦いの前に、日本軍に対して約2ケ月間にわたり最も集中した砲撃の標的となった。近くの小島からの艦艇と地上砲から、約3万6千発もの砲弾がクェゼリン環礁を襲った。アメリカ軍のB-24爆撃機が島を空中から爆撃して崩壊した。クェゼリン環礁に配備された約8,782人の日本軍兵士(韓国人の強制徴集者も含む)のうち、約7,870人の日本軍兵士が殺害された。約90%の死亡率で、わすが917人が生き残った。1943年11月21日から11月23日に中央太平洋のギルバート諸島の小さなタラワ環礁で、日本軍を壮絶な犠牲を伴って血なまぐさく全滅させた。その後の太平洋戦争は、日本軍兵士を最後まで殲滅する前兆となった。
 マーシャル人の多くは戦闘直前にカヌーで島から逃げたが、戦闘中に約200人が死亡した。塹壕に避難したマーシャル人は、手榴弾によって避難所が破壊されて殺害された。1944年2月6日に、クェゼリン環礁は、マーシャル諸島の他の地域とともに、アメリカ軍の下で国連の信託統治領として指定された。

 


 

2021年4月10日土曜日

CP-1原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。

CP-1(Chicago Pile 1)原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。CP-1原子炉により、原子爆弾の材料となるプルトニウム239を生成する原子炉となった。その4周年記念日である1946年12月12日に、シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で、CP-1の原爆科学者らは原子爆弾に寄与して栄光の勝利を得た集合写真を撮影した。アメリカは1942年8月3日からニューヨークのマンハッタンに拠点を設置して、科学者のグループと軍隊が秘密裏に協力して原子爆弾を実験し始めていた。その直後にCP-1は、マンハッタン計画の原子爆弾開発に組み込まれた。
  核兵器時代は、1945年7月16日午前5時30分に始まった。ニューメキシコ州アラモゴード近くのトリニティで核兵器が炸裂した。日本の降伏を余儀なくさせて、第二次世界大戦を終結させた広島と長崎への原爆投下の前奏曲となったトリニティ実験は、科学者、民間企業、アメリカ軍による原子核分裂を引き出す脅威的な悪魔の集大成であった。第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツが、もし最初に原子爆弾を設計できたら、連合国の勝利もほとんど失われる。アメリカのマンハッタン計画は、世界初の原子爆弾を設計するために、世界大戦から地球大戦までも巻き込んだ。オークリッジ、ハンフォード、ロスアラモスでの秘密裏の核兵器の起源から、アメリカ軍が枢軸国の勝利を奪い、日本に勝利した日まで、マンハッタン計画が展開された。
 核兵器の歴史の頂点に立つマンハッタン計画は、アルバート・アインシュタインの有名な方程式 E = MC2 を驚異的な専制国家に対して炸裂させた。アインスタインは1907年に、エネルギー(E)= 質量(m) × 光速度(c)の2乗 質量とエネルギーの等価性の方程式を仮設した。つまり、どのような物質からも光速度の2乗もの無限で膨大なエネルギーを生み出すことを証明した。宇宙空間の無限で膨大なエネルギーから物質の誕生を示唆した。原子爆弾を生み出したマンハッタン計画は、科学者のロバート・オッペンハイマーが率いて、1945年7月16日に実戦的な核兵器を実現した。そのプロジェクトは、実際にはアインシュタインとレオ・シラードの手紙からルーズベルト大統領が発現された。マンハッタン計画は、核連鎖反応を引き起こした最初のプロジェクトであり、原子核が分裂し続けて炸裂する地球の存在を脅かした。

シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で行われたCP-1(Chicago Pile 1)原子炉のパイオニアが4周年記念で再会した。後列、左から右:ノーマン・ヒルベリー(Norman Hilberry)、サミュエル・アリソン(Samuel Allison)、トーマス・ブリル(Thomas Brill)、ロバート・G・ノーブルズ(Robert G. Nobles)、ウォーレン・ナイアー(Warren Nyer)、マーヴィン・ウィルケニング(Marvin Wilkening)。中段:ハロルド・アグニュー(Harold Agnew)、ウィリアム・シュトルム(William Sturm)、ハロルド・リヒテンベルガー(Harold Lichtenberger)、レオナ・W・マーシャル(Leona W. Marshall)、レオ・シラード(Leo Szilard)。前列:エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)、ウォルター・H・ジン(Walter H. Zinn)、アルバート・ヴァッテンベルク(Albert Wattenberg)、ハーバート・L・アンダーソン(Albert Wattenberg)。

 


2021年4月9日金曜日

朝鮮戦争にて韓国側の巨済島の捕虜収容所にて、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発し、連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。

韓国の巨済島の捕虜収容所において、1953年6月に、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発した。連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。射殺された北朝鮮軍兵士の多数の死体は、収容所内に並列して安置された。雑誌LIFEには、死者の顔は撮影しない内規があったが、写真には多数の死体から多量の出血が流出して、全裸とされて下半身だけを毛布等で覆われた。もう1ケ月もすれば、韓国軍とアメリカ軍が、北朝鮮と休戦協定により、捕虜収容所は解放される予定であった。
 巨済捕虜収容所(Geoje-POW Camp)は、朝鮮戦争当時に、捕らえた朝鮮人民軍と中共軍捕虜を収容するために1951年2月に巨済市を中心に巨済島の一帯に設置されて、1953年7月まで運営された捕虜収容所である。韓国の南端の巨済島に位置した朝鮮戦争当時の捕虜収容所は、1951年2月末までに朝鮮人民軍捕虜約15万人、中国軍捕虜約2万人など、最大約17万千人もの捕虜を収容した。1953年6月18日に、連合軍の管理下にあった巨済捕虜収容所の北朝鮮への強制送還を拒否する反共捕虜の約27、389名を李承晩大統領が釈放させて、7月27日の停戦協定の調印に合意して収容所は閉鎖した。
 休戦会談の最大の障害となったのは捕虜問題であった。国連軍の持つ捕虜は適正に管理されるが、北朝鮮の共産軍の捕虜数は半分以下しかない。中国と北朝鮮は、捕虜の全面的な交換を求めた。共産軍は捕虜を虐殺して、さらに捕虜を自軍に編入して戦闘に強要した。共産軍側はソウルやその他の都市を占領した時に、占領地域で多くの若者を強制徴募して北朝鮮軍に編入した。そのため捕虜の朝鮮人は、捕虜交換で北朝鮮に送還されるのを拒否した。中国軍兵士も含めて過半数が北朝鮮に帰還するのを拒否して、問題は複雑になった。巨済捕虜収容所では統制が緩いため、共産と反共産の捕虜が分離していない集団の中で多数の暴力事件が発生した。
 1952年5月7日、共産捕虜は巨済捕虜収容所所長のアメリカ陸軍のFTドッド准将を拉致した。その釈放の条件として捕虜の処遇改善、自由意思による捕虜の送還方針の撤回、捕虜の審査を停止し、捕虜の代表委員団認定などを提示した。この暴動は、洛東江戦線にて、アメリカ軍1騎兵師団に降伏したイハクグらが主導した。アメリカ軍は交渉を拒否して対立して、アメリカ軍が発砲して捕虜が約70人死亡し、140人余りが負傷した。
 共産捕虜は拷問・暴行・虐待などを拒否し、平壌からの指示に基づいて、1952年6月20日を期して全捕虜収容所で一斉に蜂起する反乱計画を立てた。新た国連軍司令官に任命されたマーク・クラークは、暴動事件を防ぐために捕虜の分散収容を決定して、HLボート准将を捕虜収容所長に任命した。6月7日から10日に釜山捕虜収容所で共産捕虜がガードに反抗している途中に1人が殺害された事件をきっかけに、改めて暴動が起きた。ボートナー准将は6月10日にドッド准将を救出しながら捕虜を分散収容し始めたが、その過程で105人の反共捕虜が共産捕虜によって殺害された。


 

2021年4月8日木曜日

太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。

太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。焼夷弾により黒焦げになった焼死体が散乱していた。その焼死体をかき集めて、トタン板で覆って収容した。多数の横浜市民が周囲に立ち尽くして、身寄り親族を探索した。
 横浜大空襲(Bombing of Yokohama)は、第二次世界大戦末期の1945年5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心街に対する無差別爆撃である。B-29爆撃機の約517機とP-51戦闘機の約101機による焼夷弾攻撃により、約14,157人の横浜市民の犠牲を出した。横浜市の旧市街地に無差別の約2,570tの焼夷弾の爆撃とP-51により銃爆撃されて壊滅した。約79,017戸の家屋が破壊されて、市街地の約42%が焼失した。
 連合軍は第二次世界大戦中に日本に多くの空襲を行って、都市部を大規模に無差別に破壊して、約333,000人が死亡して、約473,000人の日本人市民が負傷あるいは行方不明となった。太平洋戦争の戦略的爆撃は1944年6月から始まり1945年8月15日の終戦まで続いた。マリアナ諸島の航空基地が利用可能になった1944年11月頃から大幅に拡大された。アメリカ陸軍航空軍のカーチス・E・ルメイは、1945年3月初旬に、選択された標的に対する昼間の精密爆撃から、日本の都市の夜間の焼夷弾攻撃に切り替えを決定した。日本軍の武器製造する多くが小さな工房や自宅に対して、爆撃機は都市部に対する低高度の夜間の焼夷弾の投下に切り替えた。日本の軍事防衛は連合国の空襲を止めれず、戦闘機と対空砲は不十分であり、頻繁に運用されるB-29爆撃機の高度に到達するのが困難であった。
 日本の都市部は木造建造物が多く、焼夷弾攻撃に対して脆弱であり、消防訓練と装備が不足して、民間市民のための防空壕は乏しく、深刻な犠牲が出た。都市部は人口が密集しており、ほとんどの建物は紙や木などの可燃性の高い材料で建造されていた。都市部の産業および軍事施設は、人口密度の高い住宅地帯に囲まれていた。アメリカ軍が火炎放射器や焼夷弾に使用したナパーム弾の生産量は、1943年の約0.23ktから1944年には約3.6 ktに増加した。ナパーム弾の多くはアメリカの9つの工場から爆弾組立工場に移転された。焼夷弾による無差別爆撃は、標的の精密爆撃からの逸脱の戦争犯罪であり、アメリカ軍は戦争を迅速な終結する必要性と犠牲を喧伝して戦争を正当化した。

 


2021年4月7日水曜日

数えきれないほどの義和団だと疑われた中国人市民を義和団の乱の最中やその後に、八カ国連合軍が公開処刑した。

数えきれないほどの義和団だと疑われた中国人市民が義和団の乱の最中やその後に、公開処刑された。多数の中国人の民衆の中に、イギリス軍兵士も混じって、清国役人が義和団の容疑者を取り押さえて斬首するのを興味深く見守った。八カ連合軍は兵員数の多い順から、日本(約20,840人)、ロシア(約13,150人)、イギリス(約12,020人)、フランス(約3,520人)、アメリカ(3,420人)、ドイツ(約900人)、オーストラリア=ハンガリー帝国(約296人)、イタリア(約80人)の八カ国から約45,000人の軍隊で構成された。
 義和団と一部の清帝国軍により、1900年6月20日から8月14日までの約55日間、東交民巷にある北京公使館の外交官と外国人市民の約900人を包囲した。八カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻して、9月15日に占領した。いくつかの合戦で清帝国軍の武偉軍団を打ち負かして、義和団を包囲して、義和団の乱をすぐに終結した。清帝国の西太后、皇帝および政府高官は、北京の紫禁城から西安まで逃走した。北京から中国北部の田園地帯に掃討した時に、八カ国連合軍は義和団の容疑者と疑われた未知の数の中国人を殺害あるいは断首した。懲罰遠征中に、八カ国連合軍の兵士によって無差別な殺害が頻繁に行われた。八カ国連合軍は、義和団の容疑者の中国人女性を強姦して虐殺した。八カ国連合軍は野蛮で残忍となり、しばしば不幸な無実の中国市民を人間以下として標的にした。
 八カ国連合軍は北京に駐屯している間に、北京の文化遺産、古書、芸術を略奪した。文化遺跡などから、金や青銅の芸術品を剥奪した。略奪品を本国で競売にかけていた。略奪された芸術品の一部は、ロンドンとパリの美術館の管理下である。1901年9月7日に、八カ国連合軍と清帝国は北京議定書の和平協定を締結した。1902年1月7日に西太后らが西安から北京の紫禁城に戻り、清帝国の統治が復活した。


 

 

2021年4月6日火曜日

第二次世界大戦中の元ハンガリー首相のバールドッシ・ラースローは、跳弾を防ぐ土嚢を積んだレンガ壁に向かって刑務所内の中庭で銃殺された。

第二次世界大戦中の元ハンガリー首相のバールドッシ・ラースロー(LászlóBárdossy)は、跳弾を防ぐ土嚢を積んだレンガ壁に向かって刑務所内の中庭にいた。ほっそりとした体格で直立して、自制して銃殺隊と向き合った。「神よ、これら無法者からハンガリーを護り賜え」と発して、銃殺された死体が土嚢からはじき倒された。銃殺された後に、司祭が駆け寄って冥福した。
1940年11月20日にハンガリー王国は枢軸国に加盟した。3月25日に枢軸国加に加盟したユーゴスラビア王国が、3月27日のクーデーターで反ドイツ王国となった。ナチス・ドイツにバンガリー王国の通過権を求められたテレキ・パール首相が4月3日に自殺した。テレキは、ハンガリーは死体の強盗になるほど最も忌々しい王国となると遺書に記載した。直後に右派のバールドッシ・ラースローが、1941年4月から1942年3月7日まで摂政のニコラス・ホルティ提督から首相を任命されて、親ドイツ政権に転換した。枢軸国のナチス・ドイツ軍が4月6日から4月17日のユーゴスラビア侵攻により、ユーゴラビア王国は侵略された。4月11日からハンガリー王国も、ユーゴスラビアに侵攻した。6月には、ロシアに対して宣戦布告した。1941年12月6日にイギリスに対して宣戦布告した。12月6日に真珠湾攻撃を受けたアメリカは連合軍側に参戦した。12月15日にバールドッシ・ラースロー首相はアメリカに対しても宣戦布告した。
 バールドッシ・ラースローは、トリアノン条約で損失した領土を取り戻し拡大するため親ドイツ政策を追求して、枢軸国のユーゴスラビア侵攻を支援して、ハンガリーを戦争に巻き込んだ。トリアノン条約の講和条約により、連合国に敗戦したハンガリー王国は、スロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを損失した。1941年8月に、第三ユダヤ法により、ハンガリー系ユダヤ人の経済的、社会的、およびその他の基本的権利を剥奪した。反共産主義と反ユダヤ主義の法律の制定につなげた。ユーゴスラビアを占領した領土から非ハンガリー人を国外追放して、数千人のユダヤ人を虐殺した。第二世界大戦が終結後に、プタペストの人民法院により戦争犯罪と民族主義で有罪となり、死刑を宣告された。1946年1月10日に銃殺隊によって死刑が執行された。


 

2021年4月5日月曜日

日露戦争において旅順口の北端土城子村にて、日本海軍の重砲隊の隊列が、旅順包囲戦で損失した大量の重傷者を護送した。

日露戦争において旅順口の市外の北端土城子村にて、1904年9月24日午後2時27分に日本海軍の重砲隊の隊列が、旅順包囲戦で損失した大量の重傷者を護送した。旅順包囲戦で日本軍の死傷者は約の犠牲者の痛ましさと戦争の残酷さを示唆した。日本軍兵士は、常に突撃の命令一下に、巧を争うように銃剣をかざしてロシア軍陣地に突撃した。その時に日本軍兵士が初めて接したロシア軍の機関銃の連続音とともに、日本軍兵士が次々に戦死傷して荒野に倒れて、死体や重態者が散乱した。
 ロシア軍に対する日本軍の旅順包囲戦において、1904年8月19日〜8月24日まで、第三軍司令官の乃木希典の下で 第1回旅順総攻撃を開始した。1904年10月26日〜10月31日まで、次いで第2回旅順総攻撃をした。1904年11月26日に第3回旅順総攻撃をして、ロシア軍の要塞と機関銃により、約15,000人の死傷者を伴った。11月30日に第三軍は、ロシア軍の二〇三高地を一時的占領した。12月1日に児玉総参謀長が第三軍司令部に合流した。12月5日に第三軍は、二〇三高地を再占領した。約155日もかけて多大な大量の犠牲を払って、日本軍の死者は約65,000人とロシア軍の死者は約30,000人を損失して、ロシアの極東で最大の陣地である旅順を攻略した。1905年1月2日に旅順は陥落して、陸軍省は二〇三高地の激戦後に旅順開城したことを発表した。 
 1904年2月10日にロシアと日本は相互に宣戦を布告して、日露戦争が勃発した。1904年8月19日から旅順包囲戦で死傷者は約59,000人、遼陽会戦で死傷者は約23,000人と膨大な犠牲を伴った。1904年3月1日から3月16日の奉天会戦で日本軍約240,000人は、ロシア軍約320,000人に対して奉天大会戦で辛勝した。日本軍は兵員、兵器、弾薬など全てが欠乏しし、ロシア軍は帝国の危機な情勢から停戦に至る。アメリカの調停により、1905年9月5日にポーツマスにおける講和条約で、日露戦争は終結した。日露戦争の戦死者は、日本軍が約7万人とロシア側は約9万人にも及んだ。

 



 

2021年4月4日日曜日

パリの解放にて、クータン地域の街路での戦闘にて、多数のレジスタンスのフランス人が殺害されて、道端に死体が散乱した。

パリの解放にて、クータン地域の街路での戦闘にて、多数のレジスタンスのフランス人が殺害されて、道端に死体が散乱した。第二次世界大戦にて1944年6月6日に、連合軍はフランスのノルマンディーに上陸した。連合軍はドイツ侵攻を優先して、パリを迂回して自爆と崩壊を回避した。パリを保持する自由フランス軍がパリの解放することを8月16日に認知した。1944年8月19日から8月25日まで、パリを1940年6月22日から占領したナチス・ドイツ軍と戦闘をした。8月25日に、ナチス・ドイツ駐屯軍はオテルムーリスのホテルで降伏の調印をした。
 ナチス・ドイツ軍が降伏する1944年8月25日まで、自由フランス軍のルクレール将軍はドイツ軍が反撃する地域を減らすために必要な武力をレジスタンスに提供した。かなり頻繁に、自由フランス軍の反乱軍とレジスタンスが武力を合わせて、時には激しい戦いをドイツ軍と繰り広げた。ナチス・ドイツ軍の親衛隊が占領していたパリのフランス上院議事堂があったリュクサンブール宮殿、レピュブリック広場の兵舎、外務省、海洋省などで戦闘した。パリ解放のために、自由フランス軍部隊は約130人の死者と329人の負傷者が犠牲となった。レジスタンス反乱軍は数千人が殺害されて、民間市民の約2,000人が巻き込まれて殺害された。ナチス・ドイツ軍の損失は、約2,800人が死亡したと推定された。シャルル・ド・ゴールは、「すべてのフランス、戦うフランス、唯一のフランス、本物のフランス、永遠のフランスの支援と助けを借りて、その人々によって解放された!」とパリの戦争省で8月25日に演説した。フランスが唯一勝利者であることを主張した。8月26日に自由フランス軍は、シャンゼリゼ通りからコンコルド広場まで、まだ屋上から潜伏したドイツ軍兵士の狙撃を受けながらも行軍して、ノートルダム大聖堂で祝賀した。8月29日に、アメリカ軍がシャンゼリ通りをパリを完全解放した行軍をした。




2021年4月3日土曜日

広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が殺到して収容された。

広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が収容された。人数は不詳であるが、大量の負傷者が殺到した。1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂によって、重度な火傷を受傷した被爆者らは、8月10日には死の瞬間を迎えようとしていた。顔面や身体を火傷して、衣服も着けれない瀕死の被爆者があふれた。うめき声が広い部屋に充満して、枕元の水すら自力では手に取ることができなかった。
 1945年8月6日の原子爆弾の炸裂によって、広島赤十字病院と併設した陸軍病院分院は、爆心地より南方に約1.6kmに位置した。構造3階建ての病棟は外郭を残して大破したが、消火活動によって火災は免れた。本館等は外郭だけが残り、強烈な爆風により窓ガラスは吹き飛ばされ、室内も廊下などは残骸が散乱して悲惨であった。広島赤十字病院が保管したレントゲンフィルムが、被爆によりすべて感光して、原子爆弾の炸裂による放射能が立証された。広島市内は空襲対策には備えていたが、原子爆弾の炸裂という空前絶後の事態には、市内中心部は潰滅して、救護機能は困難となった。広島周辺部の半壊あるいは小破の被害を受けた国民学校や寺院あるいは民家などに救護所を設置した。
 炸裂した直後から、広島赤十字病院に押し寄せた大量の被爆者に治療が開始された。比較的に被害が少なく、診療機能が残存していた広島日赤病院と広島逓信病院が、市内中心部の救護所の拠点となった。その後に広島原爆病院は、1954年度と1955年度のお年玉付き年賀はがきの利益配分金の約6,500万円で、広島市中区千田町の広島赤十字病の構内に、広島原爆病院が設置されて、1956年9月20日に開院した。

 


 

2021年4月2日金曜日

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。古い建物の入口で、額に狙撃されて頭部に穴が空いて殺害された死体が散乱していた。狙撃兵の気まぐれの射撃により多数の市民が犠牲になった。1994年1月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、セルビア人の武装勢力によって包囲されて、砲弾と銃弾を撃ち込まれた。サラエボ市内には、セルビア人の武装勢力の狙撃兵が侵入して、市民を無差別に狙撃した。特ににイスラム教の共同体の民族であったボスニア人を標的にした。旧ソビエト連邦が崩壊した衝撃がバルカン半島まで襲った。クロアチアが独立宣言した時には、反発したクロアチア領土内のセルビア人が内乱を起こした。内乱に対して連邦宗主国のセルビア連邦軍がクロアチアに軍事介入して内戦が勃発した。 
 1992年4月にボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。1995年までの数年間に、ボスニアのセルビア軍は、ユーゴスラビア軍の支援を受けて、セルビア人が支配するイスラム教徒のボスニアクとクロアチアの民間人に対して凶悪な犯罪を犯して、約10万人を粛清した。そのうちの約80%はイスラム教に改宗したボスニアクが殺害された。1984年に平和の祭典である冬季オリンピックを開催したサラエボのスタジアムは、ボスニア戦争の内戦に巻き込まれた死者の墓地となった。
 バルカン諸国は第二次世界大戦の余波で、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニアは、チトーが主導するユーゴスラビア連邦人民共和国に併合された。1980年1月20日にチトーが死亡してから、民族主義が台頭して連邦が崩壊し始めた。1991年に、スロベニア、クロアチア、マケドニアは独立宣言した。セルビア人が支配するユーゴラビア軍は、クロアチアと残忍に衝突した。第二次世界大戦では、逆にクロアチア人がセルビア人を大量虐待と大量虐殺して、その復讐の怨念が潜伏していた。
 1992年3月3日に国民投票によりボスニア・ヘルチェゴビナは独立宣言した。ボスニア系セルビア人が、セルビアとの併合を求めた。1992年5月にセルビア系ユーゴスラビア軍が、ボスニアの首都セルビアの攻撃が勃発した。複数の民族が共存した地域では、民族主義が台頭して大量虐待と大量虐殺が繰り返された。
 セルビア人武装勢力による首都サラエボの包囲は1992年4月から1996年2月まで継続した。その包囲戦により、約12,000人以上が殺害されて、約5万人以上が戦傷し、犠牲者の約85%はサラエボ市民であった。多くの共存していた民族が、紛争が勃発すると、民族浄化の嵐を巻き起こした。1995年8月から9月にNATOがセルビア人武装勢力に対して激しい空爆をした。アメリカの仲介により、1995年12月にボスニア・ヘルツェゴビナ和製合意が成立した。

 

2021年4月1日木曜日

アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁のペティオ島を占領した後に、弾丸の破片と多数の死んだ日本軍兵士の死体が海岸の砂場に散乱した。

タラワの戦いで、アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁のペティオ島を占領した後に、弾丸の破片と多数の死んだ日本軍兵士の死体が海岸の砂場に散乱した。タラワの戦いは、アメリカ軍はギルバート諸島内の日本軍が占領した領土を奪還した。より大きなアメリカ軍の大群が侵略した。1943年11月20日に勃発して、アメリカ軍がまずタラワ島の北約160km以上のマキン島に上陸した。マキン島での日本軍の防御が弱くアメリカ軍の損失は少なかった。
 次いでアメリカ軍がタラワ環礁内のベティオ島に上陸した。ベティオ島ではしっかりと固着した日本軍の防御は、タラワの戦いを犠牲ょ伴った1943年11月20日から11月23日に約76時間もの戦闘となった。ペティオ島の約4,690人の日本軍の守備隊は、堅固な要塞の後ろから頑強に反撃した。アメリカ軍は、空中爆撃と艦砲射撃により、日本軍の防御陣地を1つずつ絶滅した。アメリカ軍は1943年11月22日から23日の夜に日本軍の最後の反撃を打倒した。最後の日本軍の防御を排除するまでに、タラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍兵士の命を奪い、その2倍もの負傷者を出して、約400人のアメリカ軍は行方不明となった。日本軍は事実上は玉砕して全滅した。アメリカ軍はタラワの戦いで多数の犠牲者を伴って、恐怖のタラワ(terrible Tarawa)あるいは悲劇のタラワ(Tragic Tarawa)と呼称された。
 日本軍はペティオ島で約3,000人以上の死者を伴った。推定1,000人の韓国人労働者も死亡した。これらの死体は、倒れた場所、または爆裂火口や既存の塹壕に埋葬された。多くの場合は、死傷者数には日本軍と韓国軍の死者と混ざり合っている。タラワでの戦いでは、4,690人の日本軍兵士の部隊から、わずか1人の日本人将校、約16人の兵隊、約1,200人のうち約129人の韓国人労働者だけが生き残った。アメリカ軍の犠牲は、約978人が戦死して、約2,188人が戦傷した。1943年12月4日のワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズに、紙面のトップページに「アメリカ軍兵士は、日本軍のタラワ環礁を占領して称賛する代わりに、至る所に多数の両軍の死体が散見された」と掲載された。アメリカ軍の死傷者数の多さは、直ちにアメリカ国民の間で、アメリカ軍に対する怒りも引き起こして、広範囲な無差別な戦闘に転換された。

2021年3月31日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線異状なしで、ドイツ軍兵士のパウル・ボイメルは、塹壕に突撃したフランス軍兵士をナイフで胸を刺して殺害した。

第一次世界大戦の映画「西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front)」において、ドイツ軍志願兵のパウル・ボイメル (Paul Bäumer)は塹壕に突撃したフランス軍兵士をナイフで胸を刺して殺害した。失声の障害者であったレイモンド・グリフィスが演じたフランス軍兵士は、声も出せずに無言で苦悶して死亡した。パウル・ボイメルは、フランス軍兵士のポケットから手帳を見つけた。兵士の名前はジェラール・デュヴァル (Gerard Duval)で、妻と娘の写真を持っていた。パウル・ボイメルは再び大声でデュヴァルの死体に許しを請うた。1930年のアメリカの白黒映画「西部戦線異状なし」は第3回アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞した。ルイス・マイルストン監督は最優秀監督賞を受賞した。主人公のドイツ軍の志願兵であるパウル・ボイメルを、リュー・エアーズが主演した。
 映画ではパウル・ボイメルは、塹壕からチョウに手をのばして、敵兵の連合軍兵士がライフルで撃たれ殺害されて息絶えると脚色された。1918年5月頃にパウル・ボイメルは射殺されて、前方に打伏して倒れて、まるで寝ているように地上に転がっていた。身体をひっくり返してみると長く苦しんだ形跡はない。まるで最後を遂げることを満足に感じて覚悟の見えた沈着な顔貌をしていた。パウル・ボイメルの死亡などには関係なく「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と文句が司令部に報告された。
 原作者は、ドイツで生まれたエーリヒ・マリア・レマルクは、第一次世界大戦中にドイツ軍に徴兵された小説家である。戦争の危険な年月を通して、多くの戦場を経験した。戦後に、学校教師、演劇評論家、レースカーの運転手、スポーツ雑誌の編集者を経歴した。彼の最初の小説である『西部戦線異状なし』は、1929年1月にドイツで出版された。それは250万部以上を売り上げ、初めて多くの文学的な勝利を得た。ナチス・ドイツが権力を握ったとき、レマルクはドイツを離れてスイスに逃避した。彼はドイツに帰国を拒否し、ドイツの市民権を失い、小説は焚書により燃やされ、映画は禁止された(写真)。彼は1938年にアメリカに渡り、1947年にアメリカ市民権を取得して、1970年9月に死亡した。

 

 

 

 

 

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住居 尚子『思い出の小説ーもう一度読みたい最高の作品』1997年4月25日

2021年3月30日火曜日

プノンペンの郊外でカンボジア内戦に巻き込まれた5人の市民の死体が散乱して、警察官が死体の周囲を取り囲んだ。

カンボジアのプノンペン内の寺内の中央に、1997年7月7日に白い布をかぶせた5体の死体が横並びに集積されていた。プノンペンの郊外でカンボジア市民の5つの死体が散乱していた。制服を着用した警察官が死体の周囲を取り囲んだ。5つの死体は無数の銃弾の弾痕が残存していた車の中で殺害された。遺体の財布の中から、ラナリット派の身分証明書が残存していた。彼らはフン・セン派の軍隊の捕獲から逃れるために、車でプノンペンを出た時に、フン・セン軍に発見されて射撃されて射殺された。
 カンボジアの首都プノンペンへ1997年7月5日に、フン・セン派の軍隊がなだれ込み市内を掃討した。市内から逃げ出すカンボジア市民が溢れる中で、軍隊の兵士が殺気だって銃撃した。軍隊は、ラナリット派を掃討するために、市民も含めて無差別な砲撃と銃撃をした。約2日間の悲惨な市街戦に巻き込まれて、多数の市民が犠牲となった。7月7日に、フン・セン派の軍隊が完全に首都プノンペンを制圧した。
 カンボジア内戦は、1991年10月23日のパリ和平協定により、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアを暫定統治した。1993年5月に特別代表が明石康であるUNTACが、カンボジアで総選挙を実施した。シアヌーク国王に由来するラナリット派のフンシンペック党が約45%、フン・セン派の人民党が39%を獲得した。第一首相にラナリット、第二首相がフン・センが就任して、カンボジア王国が成立した。それ以後から、ラナリット派のフンシンペック党とフン・セン派の人民党が衝突した。
 1997年7月5日に、人民党のフン・セン軍が、ラナリットが外国訪問中に、クーデターを引き起こして、ラナリット派勢力と武力衝突した。ラナリット派は敗走して、ラナリットは首相を解任された。ラナリット派勢力は、ポル・ポト派勢力とともにタイ国境で戦闘を継続した。