沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得さんは、1959年9月6日に、アメリカ軍に土地を奪われたうえに、爆死した(沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』1970年)。比嘉良得さんはアメリカ軍に土地を奪われて、仕方なく畑に落下した爆弾を拾ってスクラップに出して暮らしていた。その爆弾を解体中に爆死した。阿波根昌鴻が、1950年代の伊江島の市民が、アメリカ軍と闘争する多数の写真を撮影した。1953年4月からアメリカ軍による伊江島の強制土地接収が開始された。1954年にアメリカ軍は、伊江島の住民に立ち退き通告した。1955年3月に伊江島真謝地区から約300人の武装したアメリカ軍兵士による強制的な土地の取り上げた。1956年から伊江島ぐるみ土地闘争が盛り上がった。
沖縄県伊江島は、かつての沖縄戦の激戦地であった。アメリカ軍が占領した後は、伊江島の約6割が、爆弾の投下や落下傘部隊の降下等の演習地として使用された。伊江島の農民らは肥沃な土地で、農耕に生きるはずであった。アメリカ軍は、伊江島の農民たちから、農地を取り上げて、家屋を取り壊された。伊江島の農民らは、致し方なくアメリカ軍を相手に必死の闘争に立ち上がった。沖縄戦後も苦難に満ちた生き方を負わされた伊江島の農民らは、長く粘り強くアメリカ軍と闘争した。しかし、伊江島は、沖縄本島から北西約9kmと近い場所にあるとはいえ、やはり離島であるために、アメリカ軍との闘争は秘密裏に処分された。
太平洋戦争後のアメリカ軍の施政権の下に、各地で半ば強制的に基地や施設を建設した。アメリカ軍兵士による悪質な事故や殺人を含む事件が頻発して、沖縄県民の死傷者も相次いだ。沖縄県民はアメリカ軍の施政に幻滅して日本本土復帰を訴えた。沖縄県民有志は島ぐるみ闘争などの抵抗運動を起こした。アメリカ軍がベトナム戦争から1973年3月31日に完全撤退を控えて、沖縄返還は1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されて、沖縄は本土に復帰した。
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