ルソン島の東海岸のポートリアルにあるアメリカ軍の野砲隊の観測地点に対して、1945年7月20日に日本軍兵士が切り込み突撃をした。日本軍兵士は手榴弾を投げ込む直前にアメリカ軍により射殺された。日本軍兵士は、手榴弾を手に持ったままで、仰向けに転倒して殺害された。ルソン島の戦いだけで、日本軍兵士は約205,538人、アメリカ軍は約10,380人が戦病死した。
アメリカ軍とフィリピン軍が、水陸両用から攻撃をしてルソン島に上陸した。マニラ北東地区の日本軍部隊は、1945年2月3日からのマニラの戦い中に、1945年2月8日よりマニラ郊外で第一次総攻撃により連合軍と激戦を繰り広げた。アメリカ軍は2月23日から猛砲撃から包囲して攻撃をした。3月3日にマニラの戦いで、マニラはアメリカ軍に制圧された。日本軍部隊は、3月中旬頃にさらにマニラ郊外で第二次総攻撃をした。しかし、3月下旬頃になるとアメリカ軍に圧倒されて、マニラ郊外から撤退した。日本軍部隊は分断されて、6月頃には陣地も失って、分散してのジャングルや山林でのゲリラ持久戦に突入した。その約2ケ月後に、日本が1945年8月15日に連合軍に無条件降伏して終戦した。その後から、9月頃から11月頃にかけて終戦を知って降伏するまで、連合軍とゲリラ戦を行った。その日本軍部隊の生存者は、緒戦の約105,000名のうちで終戦以後に収容された13,000人と、フィリピンの戦いの終結までの捕虜約1,600人のみであった。