長崎原子爆弾が、1945年8月9日午前11時2分頃に投下されて炸裂した。長崎市内は、ほとんど壊滅状態となった。原子爆弾による爆心地からの激烈な爆風、熱射、放射線の暴発により、ほとんどの長崎市の市街地は炎上して壊滅した。家屋が炎上して焼失した瓦礫の中に故人の名前と地区を記した墓標を肉親が立てた。散乱する多数の白骨の中で、肉親の遺骨も同定が困難であり、せめて居住していた家屋の付近に一つの木製の墓標だけを土中に立て掛けた。原子爆弾の被爆後から長崎市内の各地に原子爆弾で被爆死した被爆者を弔う致し方ない粗末な墓標が見られた。被爆後の49日頃には慰霊の法要を行う地区もあった。
長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に、原子爆弾による被爆死した不詳や行方不明の遺骨、故人が同定されるも引き取り手がない無縁死没者の遺骨を奉納している。1947年に城山町の有志により、駒場町に「原爆殉難死者納骨堂」が設置された。爆心地の周辺に散乱した多数の被爆死者の遺骨を収集し奉納した。その後に長崎県の各地などに散在した無縁仏の遺骨を引き取った。1958年に長崎市が岡町に「原子爆弾死没者慰霊納骨堂」を建立した。1994年に平和公園の工事により、岡町に現在に至る新たな長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂に建て替えられた。