2020年2月14日金曜日

アメリカ軍の空爆によるトイダン中学への誤爆によって、約30人の中学生が虐殺された死体が散乱した。

アメリカ軍による1964年からベトナム北爆によって、1966年10月21日にハノイのトイダン中学に空爆が直撃した。アメリカ軍の空爆によるトイダン中学への誤爆によって、約30人の中学生が虐殺された死体が散乱した。北爆によりハノイは瓦礫の山となり、爆死から生き埋めになった死体なども掘り出した。
 アメリカ軍は、1964年8月2日と4日のトンキン湾事件を起点に、最初にアメリカ海軍による北爆が勃発した。1965年初頭からはアメリカ空軍も北爆に参戦した。北ベトナムの北爆は恒常化して、アメリカ軍が本格的なベトナムへの軍事介入をした。1965年4月4日には、北ベトナムのタン・ホア鉄橋を爆撃中に、アメリカ軍と北ベトナム軍の戦闘機が激突した。北ベトナムに対して、ソ連と中国から最新兵器が送り込まれた。アメリカ軍の北爆が激烈になるにつれて、迎撃する北ベトナム軍の戦力も高まった。ホーチミンルートを分断して、ラオス北部においてヴェトナム解放勢力を壊滅するために、最も激烈な北爆を執行した。1967年初頭から激闘に陥り、1967年8月11日には、アメリカ軍はベトナム北部とハノイ市街地を結ぶ重要なポール・ドーマ橋(ロンビエン大鉄橋)が空爆して、修復されると再空爆した。鉄橋は1967年中に3度も破壊され、攻撃と修復の繰り返しは1968年以降も続いた。
 1967年には、アメリカ軍の戦力は最高潮に達するも、泥沼化したベトナム戦争に苦闘した。1968年1月には、北ベトナム人民軍と南ベトナム人民解放戦線が、南ベトナム全土で本格的な軍事作戦であるテト攻勢を展開した。1968年3月31日に、ジョンソン米国大統領は、遂に北爆の部分停止を発表して、北ベトナムに対し和平会談を呼びかけた。1968年11月から、北爆停止が一時的に実施された。1973年1月に和平協定が調印されてから、空爆も終結した。1964年8月から1973年1月までの北爆の全期間を通じて、北ベトナムには約200万個もの爆弾が投下された。


2020年2月13日木曜日

ポーランド在中のドイツ人の自衛準軍隊員は、ポーランドのトルンのバルバルカ森で、多数のポーランド市民を射殺した。

ポーランド在中のドイツ民間人の自衛準軍隊員は、1939年10月にポーランドのトルン(Torun)近郊のバルバルカ(Barbarka)森で、多数のポーランド市民を射殺した。シュトゥットホーフ強制収容所のナチス・ドイツ軍の親衛隊は、処刑場の奥で集団死刑を検分した。バルバルカの森で、1939年10月28日から12月6日までに、約600人のポーランド人が虐殺された。バルバルカは、トルンの北部約3.2km郊外にある森林である。大量のポーランド人の死体は、1994年にナチス・ドイツ軍の証拠隠滅のために、掘り起こして焼滅した。自衛準軍退院はドイツ人の優越性を地域に浸透させるために、ゲルマン系の準軍事的な民間部隊が編成された。
  1939年10月から12月の終わりに、ゲシュタポと自衛軍退院はトルン近郊のバルバルカ森で約600人以上のポーランド人を虐殺した。トルンとその周辺地域にて、特に知識人およびポーランドの社会的および政治的運動家を虐殺した。バルバルカの森での最初の虐殺は、1939年10月28日に執行された。囚人は、強制収容所からバルバルカ森までトラックで強制連行した。次いでポーランド人は強制労働で、大量の墓穴を掘らされた。10月28日初日には、約130人が射殺された。囚人は毎週、時には週2回、バルバルカ森に連行されて射殺された。1940年1月に強制収容所は閉鎖され、生存者はザクセンハウゼン強制収容所とシュトゥットホーフ強制収容所に強制移送された。その後にユダヤ人がバルバルカ森の強制収容所に連行されて強制労働を強要した。1944年にソビエト赤軍が次第に侵攻してくると、虐殺の痕跡を隠すことを目的として、1944年に大量の墓を掘って死体は焼却された。第二次世界大戦後になって、犠牲者の死体がバルバルカの森で発掘された。1945年9月24日と1945年10月19日に、1つの集団墓を除いて空の7つの集団墓が見つかった。残存した見分けできた死体はたった1つの集団墓地で見つかった。トルンの軍事墓地に埋葬された約87人の犠牲者の死体が発見された。戦後になっても、バルバルカ森で虐殺された々の名前は約300個のみが解明された。


2020年2月12日水曜日

ドイツ軍とゲシュタポが、絞首刑された強制労働者のロープが長すぎたために足を地面から離して死刑を執行した。

ナチス・ドイツ軍と秘密警察のゲシュタポは、1944年10月25日にケルンで強制収容所の強制労働者の11人の絞首刑を執行した。民間服を着用したゲシュタポが、囚人のロープが長すぎたために足を地面から離すまで、彼は短時間は生き延びていた。公開処刑に対して、多数の民衆が取り巻いて見詰めた。死体は午後7時までロープ上に残った。ゲシュタポは、1933年4月26日に警察から分離して再編成した。ゲシュタポはドイツ全土に組織を次第に拡大して、無差別の捜査権から密告と虐待を併用した反対者に対する徹底的な弾圧を行い、強制収容所に連行して大量虐殺した。
 第二次世界大戦中に、1939年にはドイツ軍に召集されたために、ドイツの基幹産業などが約120万人の労働者が不足が露呈して、新たな労働力を要求した。ナチス・ドイツの占領地域から約12,000万人もの強制労働者を連行した。ナチス・ドイツが1933年3月29日に政権を奪った。ナチス法に違反した人々に対する死刑の適用を決定が可決された。1933年から1945年の間に法律で処刑された人数は約17,000人に達した。当時の民間市民に対する死刑判決は、人民法院または軍事法廷によって宣告された。特に反逆罪と大量処刑には、死刑が絞首刑によって行われた。特に、ヒトラーの1944年の暗殺未遂の失敗に続いて、ヒトラー自身の命令にり、絞首刑から切断まで死刑を求めて、残忍な方法による大規模な処刑が続いた。
 死刑は、人間社会がその長い歴史の中で最も古い制裁の1つです。 死刑の歴史は、執行者が絞首台に値する犯罪の性質の明確な定義が無かった。歴史上では、多くの死刑の罰が敵に復習する通常の手段であった。17世紀後半にヨーロッパ大陸に広まった啓蒙時代に、先駆者の多くは、法の名の下に政治的敵対者を清算する執行者を再処刑して、教会に閉じ込めた。長年の批判の後に、世界で初めて北イタリアのトスカーナ大公国は、1786年に死刑を公式に廃止した。ヨーロッパは死刑を非人道的な罰として、死刑の廃止を欧州連合への加盟条件とした。犯された犯罪の性質にかかわらず、死刑を拒否が、欧州連合基本憲章に規定された。1950年の欧州人権保護条約は「生命に対する人権」を保護する必要性を確認した。第二次世界大戦後、1949年にドイツ連邦共和国で死刑が廃止されたが、旧東ドイツは1987年に適用された。


2020年2月11日火曜日

日中戦争の南京陥落の前日に、日本軍の空襲を受けて沈没するアメリカのパナイ号から避難して長江の岸辺に犠牲者が横たわった。

日中戦争の南京陥落の前日となる1937年12月12日に、アメリカの砲艦であるバナイ(Pany)号が、日本軍の海軍機からの砲弾を受けて、南京上流の約20kmに停泊中に沈没した。日本軍の空襲を受けて沈没するパナイ号から避難して長江の岸辺に犠牲者が横たわった。アメリカ海軍の乗組員が約59人、大使館員約4人、記者が約5人、商社員が約2名とイギリスとイタリア記者が各1人らが乗船していた。日本軍による南京攻略戦が1937年12月4日に勃発して、12月13日に南京が陥落した。日本軍の海軍機による連日の爆撃が激しくなり上流に退避していた。アメリカ大使員から日本大使館に、退避しているパナイ号や商船の保護を要請した。上海の日本総領事館から直ちに陸海軍に指示を伝達した。日本軍は午前9時40分頃に、パナイ号を感知して、停止の手旗信号を送った。約20人の日本軍兵士が、パナイ号に乗船して聴取して帰還して、パナイ号はさらに約25km上流にて停泊した。
 アメリカ大使館から警告を軽視して、日本軍兵士には揚子江上の船舶を、無差別な砲撃を指示されていた。アメリカ砲艦であるパナル号は、午前11時の最後の電報からパナイ号からの通信が途絶えた。日本軍の海軍機は、午後13時27分頃から午後2時25分頃までパナイ号を爆撃で空襲した。パナイ号は約24回もの、直撃弾を被弾して浸水した。14時2分頃に、アメリカ砲艦は放棄して非難した。パナイ号を放棄して、救命ボートで北岸に向かった。沈没しているパナイ号に対しても、日本陸軍は対抗した危機防衛として救命ボートにも無差別な機関銃の射撃をした。日本軍機により、死者は約3人と重傷者は約48人に達した。
 その他にアメリカ商船や2隻のイギリス砲艦らも午後3回に空襲されていた。さらに日本海軍の空爆に巻き込まれ、南京に上陸していた日本陸軍の約2人が殺害されて、約3人が負傷した。日本海軍同士の約2隻の船艦にも誤爆をした。近隣の和県から憲兵が、負傷者を病院に搬送したが、重態のアメリカ軍水兵の1人とイタリア記者が死亡した。アメリカ大使館は、日本軍の海軍と陸軍による故意による無差別な爆撃と判断した。



2020年2月10日月曜日

日本軍憲兵は、略奪の横行したビルマのラングーンで、収容施設が枯渇して容疑者らを街路樹に縄で縛り付けた。

日本軍がミャンマー(旧 ビルマ)の首都ぶあったラングーン(現在 ヤンゴン)を占領した。日本軍憲兵は、ラングーン市内で略奪犯が横行するために、ラングーン市民も一味と加担したと容疑した。日本軍は収容施設が枯渇したために、1942年3月頃に容疑者らを街路樹に大きな縄で縛り付けられた。その写真の左端には、不許可の印章とその注意事項が記載された。日本軍から熱帯地方の炎天下にさらされて、虐待と虐殺をされた。略奪犯だけでなく、民間市民も無差別に虐待と虐殺された。
  1942年から1945年にかけて、ヤンゴンはイギリス植民地に代わって日本軍による占領を受けて、第二次世界大戦中は甚大な被害を受けた。日本軍は、1942年3月8日にラングーンを占領して、5月末にはビルマ全域を占領した。日本軍のビルマ占領下で、約17万人から約25万人の民間市民が殺害された。連合軍は1945年5月にラングーンは奪還された。
 日本軍によって日中戦争から太平洋戦争に至る新聞記者が取材した写真群が検閲されて新聞に掲載が不許可となった。大阪毎日新聞社には、従軍カメラマンが撮影した写真が、戦場別に資料室に保管されている。陸軍から海軍および内務省から外務省・逓信省などの官憲が検閲して情報操作と情報隠蔽をした。官憲が検閲を通過した写真で都合の良い写真のみを宣伝に転用した。特に戦場の写真は、掲載される直前に再度の検閲を受けた。不許可写真は掲載さえしなければ、再提出や破棄を求められなかった。日本でわずかに残された軍史料の写真となった。


2020年2月9日日曜日

フィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団は、ネグロス島の農民を襲撃して、反政府ゲリラとして虐待と虐殺された。

フィリピンのネグロス島において、1987年5月にはフィリピン政府軍とアルサマサ反共産自警団に、ネグロス島の農民を襲撃して、短絡的に反政府ゲリラの容疑者として、虐待と虐殺された。その残忍な死体が、南部カバンカラン丘陵地帯の小道に放置されて散乱して腐敗した。1987年4月にフィリピン政府軍は、南部の山村を反政府ゲリラとして虐待と虐殺して焼き払った。反共産自警団ではアルサマサは、1986年4月に結成されて、地域を監視した。1987年から、内戦が激化して大量の約38,000人もの国内難民が発生した。
   ネグロス島は、フィリピンのセブ島の西下端の中部ビサヤ地方にある。植民地時代以来、砂糖栽培で繁栄したが、一方で単一栽培化と貧富の格差が進んだ。わずかな大地主が富を独占して、農民の多くが雇われる農業労働者となった。1985年に、砂糖の国際的な取引価格が暴落した。ネグロス島の砂糖産業は打撃を受け、地主の破産、農園の放棄、農民の解雇が相次いだ。地主に雇われて働く農民は、砂糖栽培が没落すると同時に失業者となった。ネグロス島全土に急速な勢いで飢餓が広がった。砂糖価格の低下から飢餓にの起点は、アメリカ植民地時代から続いた特恵的関税が1974年に打ち切られた。1970年代以降は、代替甘味料が増産した。各国とも自国産業の保護を優先して、フィリピン産砂糖の需要は激減した。砂糖危機が生じた1985年頃はマルコス独裁政権の末期で、政治経済が不安定であった。1970年代以降、貧富の格差の拡大から、農民は新人民軍(NPA)に潜入者が多くなり、ゲリラによる武力攻撃や誘拐が相次いだ。フィリピン国軍と対NPAの内戦状態となった。山間部の農民は双方の内戦と掃討で虐待と虐殺されて多くの難民が出る惨状となった。1990年代半ばにNPAはほぼ壊滅したが、内戦の後遺症から多くの農民が難民となった。フィリピン政府は1988年以降に、包括的農地改革法を制定し、ゲリラの原因となる地主の農地所有を強制収用や配分をした。地主の抵抗が強く、収用・配分目標は達成できなかった。農地の多く、砂糖畑は地主地であった。2000年代に国際砂糖市場やネグロス経済は回復したが、島内の貧富の差は根強く残っままである。


2020年2月8日土曜日

韓国軍国家警察は斧で北朝鮮ゲルラの首を切断して虐殺して、死体から片手で髪をつまんで頭部を引き上げた。

朝鮮戦争において、韓国国家警察は1952年11月17日に、韓国内の全羅北道にて朝鮮民主主義人民共和国の北朝鮮ゲリラの容疑者の青年を処刑した。韓国軍国家警察官は笑みを浮かべながら、斧で北朝鮮ゲルラの首を切断して虐殺した。写真に写っていない韓国国家警察巻は、その死体から片手で髪をつまんで頭部を引き上げて保持していた。韓国国家警察は、ただ共産主義者だけでなく、青年グループ、家族、組合員、または韓国の意向に同意しない人を虐殺した。その対象者は、逆に韓国とアメリカ軍の侵攻した1950年の初期に、同調して多くの右翼勢力の韓国軍は、北朝鮮の左翼ゲリラ容疑者の虐殺もあった。韓国の独裁政権は、北朝鮮の左翼の人々や他の政治的敵対者の大虐殺を行った。この青年は、笑みを浮かべて韓国国家警官に話しかけたために、北朝鮮の囚人として斬首された。朝鮮戦争はアメリカの南北戦争や第二次世界大戦のように公式に記録されていない。そのために朝鮮戦争の虐殺である軍事史も公の記憶から極秘にされた。



2020年2月7日金曜日

平和思想と戦争思想の抄録 -日本近代思想編- (Kindle版の発刊: 2020年2月6日)


平和思想と戦争思想の抄録
 ― 日本近代思想編 ―

Abstracts of Peace and War Thoughts 

– Japanease Modern Thoughts –


日本平和の市民連盟 Japan No War




内容紹介
「思い出の戦争」の真実は、市民による戦争の抑止力となります。戦争により、横たわり、苦しんでいる市民を静かに見守る事しかできない。 迫りつつある戦争を目前にして、市民の地域と家族における存在の尊厳が失われている。 それぞれの生命と生活が戦争で割かれ分離しても、家族や地域の絆を保つ僅かな存在にすぎない市民である。しかしながら、他人や部外者などから見れば、市民は微かな存在にすぎないであろう。戦争の持つ悲惨な歴史を共感できない事にもよる。
 世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、市民は多くの辛酸を受けた。戦争と悲惨な生死により、平和市民に受け継がれた「日本思い出の戦争」を授けたい。 戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として、人生の羅針盤として、「日本思い出の戦争」を多くの平和市民の心に送りたい。戦争市民が悲惨な戦争の体験をした「日本思い出の戦争」を授けたい。ささやかな戦争のメッセージである日本思い出の戦争の真実を平和市民に送り捧げたい。
 いつの時代も、戦争の加害者と被害者にされているのは市民です。戦争を知らない世代の平和市民に「思い出の平和思想と戦争思想」を覚えてほしい。平和思想と戦争思想の真実を記録した歴史には、その関心や意義だけではなく、考えながら閲覧にも留意しましょう。「平和思想と戦争思想」は平和市民による真の平和の保持と戦争の抑止力となります。日本から地球に向けて、平和思想と戦争思想の真実を伝え合うことで、地球平和の市民連盟として地球平和を探求しましょう。
本書では『平和思想と戦争思想の抄録―日本近代思想編―』により思い出の「平和思想と戦争思想」から、江戸時代末期から第二次世界大戦までの日本近代思想編を平和市民に送り捧げたい。いつの時代も、平和市民と戦争市民は平和思想と戦争思想に、いつの間にか洗脳されています。平和思想と戦争思想の真実の探求には、教育だけではなく学問が必要なのです。つまり受動的に教え育てるのではなく、能動的に学びて問うことが必要なのです。教育することで、平和文化と戦争文化を勉強して継承しています。学問することで平和文化と戦争文化を探求して未来の創造と過去の代償をしています。本書を活用して、平和思想と戦争思想―日本近代思想編―を勉強するだけでなく、学問をしましょう。平和市民はともに連盟して、平和文化を継承して創造しましょう。

About this book
   Japan No War would like to send the Japanese Modern Thoughts to peaceful citizens from the "Peace Thought and War Thought", which is the memory of "Abstracts of Peace Thought and War Thoughts-Japanese Modern Thoughts". In all times, peaceful and war citizens have been brainwashed with peace and war thoughts. The search for the truth of peace and war thought requires not only educations but also studies. In other words, it is necessary to actively learn and ask questions, not passively. By educating, we study and inherit peace and war culture. By studying, we are exploring peace and war culture to create the future and destroy the past. By this book to not only learning peace and war thought—oriental thought—but also studying, peace citizens should join together to create a culture of peace.

登録情報
  • フォーマット: Kindle版, ファイルサイズ: 2160 KB, 推定ページ数: 146 ページ
  • 同時に利用できる端末数: 無制限, 販売: Amazon Services International, Inc.
  • 言語: 日本語, ASIN: B084JL9G94

2020年2月6日木曜日

アメリカ南北戦争で南軍兵士が荒野に銃殺されて仰向けになった死体の上にライフル銃が横たわった。

アメリカの南北戦争において、南軍のイーウェル部隊の兵士が、バージニア州のスポットシルバニア郡の戦闘で、1864年5月19日に北軍のグラント部隊により殺害された。荒野に銃殺されて仰向けになった死体の上にライフル銃が横たわった。南軍が5月19日に、スポットシルバニアのハリス農場付近で、南軍が潜行するも敗退して無意味な戦闘になった。北軍には犠牲となった兵士と武器を交替する大きな資源があった。南軍のイーウェル部隊は、ハリス農場付近で北軍の側面を偵察中に、北軍の重砲兵隊に遭遇して、無意味な小競り合いで約900人以上の兵士が犠牲となった。5月19日だけで、北軍は約6,642人、南軍は約2,718人、両軍で約9,360人が犠牲となった。
 スポットシルバニアの北軍と南軍の戦いは、1864年5月8日から5月21日まで、戦闘が断続的に継続するも両軍ともに進展はほとんど無く無駄な消耗戦となった。北軍は、戦死者数は約2,725人、戦傷者数は約13,416人、行方不明者数は約2,258人で総計で約18,399人の犠牲者が出た。南軍は、戦死者数は約1,515人、戦傷者数は約5,414人、行方不明が約5,758人で総計で約12,687人の犠牲を出した。両軍では、約31,086人もの膨大な犠牲者となった。スポットシルバニアの戦いでは勝敗もつかずも、両軍ともに一方的に勝利宣言をして勝利を誇った。


2020年2月5日水曜日

ナチス・ドイツのフロッセンビュルク捕虜収容所で、1945年4月30日に積み重なって放置された多数の囚人の死体が発見された。

ナチス・ドイツのフロッセンビュルク捕虜収容所で、1945年4月30日に積み重なって放置された多数の囚人の死体が発見された。その頃は、壊滅的な衛生状態、すでに発生した腸チフスの流行はさらに拡散した。毎日ますます多くの囚人が死亡した。暗闇の中で囚人ら死体が散乱していた。収容所の過密状態、恐ろしい衛生状況、食糧の枯渇により、収容所の死亡率が突然上昇した。毎朝に半数または十数人の死者が各収容棟から引きずり出された。火葬場はすべての死体を収容できず、建物の前に積み上げられた死体が隣接した山並みとなった。死体の山を置く場所がなくなると、キャンプの端、有刺鉄線のフェンスのすぐ上に大きな穴が掘って、死体を投げ込み、タールで燃やした。
 フロッセンビュルク捕虜収容所は、1938年5月にナチス親衛隊によって建設された。他の強制収容所とは異なり、チェコスロバキアとドイツ国境近くのバイエルン州のフィヒテル山地の遠隔地に位置した。捕虜収容所の当初は、囚人の強制労働によって建築用の花崗岩を石切場で発掘した。約4,000人を超える囚人のうち半数以上が政治犯であった。1943年頃から強制労働の大部分は、ナチス・ドイツの軍需産業に向けた戦闘機や兵器の生産に切り替えた。元々は犯罪者および社会的な囚人を対象としていた。ナチス・ドイツ軍のソビエト連邦侵攻後に、捕虜収容所は東ヨーロッパからの政治囚で膨れ上がり、広範な約100の支部収容所に配置転換した。1944年8月から1945年1月まで、主にハンガリーとポーランドから約10,000人以上のユダヤ人が収容された。1945年1月には、約11,100人の女性を含む、約4万人の囚人に膨れ上がった。
 1945年4月23日にアメリカ軍によって解放される直前に、証拠隠滅のために約89,964人から約100,000人の囚人がフロッセンビュルク捕虜収容所からダッハウ強制収容所に連行された。栄養失調、過労、処刑などによる死の行進中に、約30,000人が死亡した。1945年3月だけで、約1,367人の囚人が死亡した。ナチス親衛隊は、多数の個人や集団に対する射殺を散発的に継続していた。


2020年2月4日火曜日

日中戦争で、日本軍の爆撃で死んだ子どもの死体の側で老夫婦が慟哭した。

日中戦争の戦闘に中国人の民間市民が巻き込まれた。日本軍の爆撃により、中国人の子どもが爆死した。その高齢な両親が、爆撃で破壊された民家の近くで、子どもの死体の側で取り囲んで慟哭した。抗日戦争は持久戦に陥り、抗戦期間が長くなり、戦線はますます広大して民間市民が戦闘に巻き込まれた。



2020年2月3日月曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮軍によって韓国市民が虐殺されて荒野に散乱した多数の死体に親族が参集して慟哭した。

朝鮮戦争にて、北朝鮮軍によって韓国市民が虐殺された多数の死体が荒野に散乱した。死臭を放つ死体の周囲に家族が集まっては慟哭した。他国人との争いよりも、兄弟同士の戦闘の方が憎悪を強烈であった。まさに血で血を洗う内戦となった。朝鮮戦争の怨念は、他の民族では怒らない愚行を、朝鮮半島に残存した。
  朝鮮戦争中の残虐な民間市民の殺害の起因は次グループに分類された。1)内部統制の目的で北朝鮮または韓国の国家主導により、当軍局が民間人を敵の協力者と容疑して殺害した。2) 朝鮮戦争における戦闘と無差別爆撃の遂行中に、軍隊が民間人を殺害した。3)国家が主導して、民間人による民族間の殺害が報復された。4)北朝鮮軍によるアメリカと韓国の捕虜が殺害された。北朝鮮同盟軍と韓国同盟軍との間の前線で繰り返される戦闘により、相互の民間人が巻き込まれて殺害された。
 冷戦による政治的対立に応じた国家による過度の致命的武力と大規模な弾圧は、南北相互の戦闘前から休戦まで潜在した。朝鮮戦争が勃発する前から、国家の支配を維持するため民間人がすでに処決された。韓国軍は、1948年年4月から1949年5月まで済州島で蜂起中した数万人をの共産主義の容疑者として民間市民を殺害した。韓国軍は、北朝鮮の侵略に伴い、共産主義者の共感者の処刑した。裏切り容疑者の処刑は、韓国軍が囚人を追放できない地域の支配を取り戻し、あるいは北朝鮮によって占領された地域から逃避げれなかったため、紛争中に発生しました難民を敵国の協力者として殺害した。同様に、北朝鮮が侵攻したとき、特に韓国の知識人や特権階級などの浄化のため処刑された。民間市民も二極化され、北朝鮮または韓国への意図的な解放された後に、相互の民族を殺害した。
 軍隊は、戦闘員は戦場から逃げる民間人を無差別に処刑した。悪名高い1950年7月のノー・ガン・リ虐殺は、数百人の民間市民が殺害された。軍隊が逃避している難民を攻撃した。難民殺害の約200事件が、韓国軍真実和解委員会で調査された。アメリカ軍の無差別爆撃の繰り返しや民間占領地域でナパーム弾を投下した。戦闘地域の民間人を取り残しても、退却期間中に軍隊によって交通機関が破壊された。孤立した難民は、敵との協力者であり、侵入者であると容疑されて殺害された。
 戦争の囚人も、戦争中に致命的な状況に陥った。北朝鮮は、降伏した後にも捕虜を処刑した。死の強制連行させて捕虜を殺害した。捕虜収容所は、衛生、資源、および貧弱な健康教育や貧弱などのアメリカの捕虜は、拷問や医療実験にさらされ、食物や医療を欠乏した。朝鮮戦争中に、少なくとも約100万人もの民間市民が殺害された。捕虜として殺害されたのは、アメリカ軍兵士が約2,700人、韓国軍兵士が約13,836人が殺害されて、約19,409人は身元・行方不明となった。北朝鮮軍と民間市民の殺害数は不明のままである。


2020年2月2日日曜日

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍兵士らは、機関砲横のタコ壺で爆破死した。

太平洋戦争の沖縄戦において、アメリカ軍兵士らは、機関砲横のタコ壺で爆破死した。猛烈な戦闘の最中である1945年5月には、そのままアメリカ軍兵士の戦死体はタコ壺の中に放置されていた。至る所に、激しい戦闘で殺された日本軍とアメリカ軍の死体が横たわった。あらゆる階級の歩兵と装備が散らばっていた。ヘルメット、ライフル、BAR、パック、カートリッジベルト、食堂、靴、弾薬箱、シェルケース、機関銃弾薬ベルトなどは、戦場の周りに散らばった。
 1945年4月1日から6月22日までの沖縄戦は、第二次世界大戦の最後の主要な戦闘となり、最も血なまぐさい戦闘の1つであった。沖縄戦で双方は膨大なな犠牲を被った。アメリカ人は約12,520人の死者を含む約49,000人以上の死傷者を出した。日本人の犠牲はさらに大きく、約110,000人の日本軍兵士が命を落とした。沖縄の民間市民は約15万人も死亡したと推定された。アメリカ軍は、約82,000人以上の戦死傷者を出し、そのうち約12,500人以上が死亡または行方不明になった。沖縄戦による戦死者数は海軍は約4,907人、陸軍は約4,675人、海兵隊は約2,938人であった。沖縄戦のほぼすべての戦いで、アメリカ軍は、熱狂して降伏せずに自分の命を奪う日本軍兵士との白兵戦で戦った。特に、海軍では、日本空軍の自爆する神風特攻機により、水陸両用艦艇約15隻と駆逐艦約12隻を含む36隻が沈没して、水陸両用艦艇約120隻を含む約368隻の連合艦が損傷を受けた。アメリカ海軍の死者数は戦傷者数を上回り、特に神風特攻により約4,907人が死亡して、約4,874人が負傷した。
 第二次世界大戦の沖縄の戦いの死亡率は約35.48%にも達した。太平洋戦争は、第二次世界大戦の最後の主要な戦いの1つとなり、約240,931人の軍隊と沖縄の民間徴集兵が死亡した。アメリカ軍は約14,009人の死者を出して、約82,000人以上の死傷者を出した。日本軍は最大で約80%の防衛軍を喪失した。日本人の死者数が非常に多い理由は2つある。まず、訓練を受けていない徴兵された沖縄の民間市民を、太平洋戦争で戦ったアメリカ軍と戦うことは、完全に不合理であった。第二に、日本人は降伏を拒否した。沖縄戦の恐ろしさを目の当たりにした後、精神傷害が アメリカ軍の下士官兵士の間で広まった。 多くのアメリカの軍事史家は、沖縄戦が日本本土に計画された地上侵略を回避する手段として、広島と長崎の原爆の投下に直接つながったと信じた。


2020年2月1日土曜日

長崎原爆の爆心地から南に約2.9kmの新興善国民学校救護所で、老人は頭部の火傷にチンクオイルをピッセットのガーゼで塗ってもらった。

長崎原子爆弾による頭部の火傷を受けた被爆者は、1945年8月下旬に長崎市興善町の新興善国民学校に特設された救護病院で加療を受けた。新興善国民学校は、爆心地から南に約2.9kmに位置した。男性被爆者である老人は頭部の火傷にチンクオイルを浸したガーゼをピッセット塗ってもらった。新興善国民学校は、原爆による火災を免れて新興善国民学校救護所となった。8月11日には、針尾海兵団より救援隊が到着して、そらに佐世保海軍病院武雄分院からも医療隊が到着した。壊滅した長崎医科大学を代賛して、8月16日に新興善特設救護病院となった。さらに、10月6日から長崎医科大学附属病院となって被爆医療の主軸となった。
 長崎市に投下されて炸裂したマットマンと呼称された原子爆弾は、広島市に投下されて炸裂したリトル・ボーイより破壊力が増大していた。長崎市内の盆地状の地形により、被害地域は限定されたが、被爆死は約7万人にも達した。長崎市内の膨大な被爆者に対する救護活動は、長崎原爆が炸裂した翌日の8月10日から始動された。わずかに生存していた長崎医科大学と浦上第1病院の医師・看護師・学生などが参加した。建物が残存した新興善、勝山、伊良林などの国民学校に臨時救護所が設置された。そちらに大村および諫早の海軍病院、三菱病院、長崎県内の医師会なども救護活動に参加した。救援列車が復旧してから、沿線の大村海軍病院などの救護機関に護送された。しかし、被爆者の救護活動は、1945年10月に打ち切られた。
 ハリー・トルーマン大統領は原爆被爆者を調査し、放射線被爆が彼らの健康にどのように影響したかを研究することを担当するる原爆傷害調査委員会(ABCC: Atomic Bomb Casualty Commission)の設立を1946年11月に署名した。1948年10月に長崎ABCCは新興善小学校内に設置された。ABCCは、被爆者だけを優先する責務を回避して、医療は提供せずに健康診断の実施に限定した。それ以後は、被爆者らは1957年に原爆医療法までは自己負担と自己責任を強いられた。



2020年1月31日金曜日

ベトナム戦争後からのボート難民の子どもたちは、香港の抑留収容所の金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。

1980年代から90年代に、ベトナム戦争後からのボート難民は、香港ではホワイトヘッド抑留収容所に拘留された。1995年には、ベトナムからのボート難民の子どもたちは金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。何千人ものベトナム難民の子どもたちが、この収容所で長期にわたり拘留されて過ごした。特に、戦争の後遺症に起因した弱者である難民の子ども達に対する身体的と精神的虐待が抑留収容所内で頻発して密かに横行した。
 オーストラリアからのナウル・ファイルによれば、太平洋の孤島にあるオフショア難民収容所から虐待や暴力による多数の子どもの犠牲が漏洩された。ナウル・ファイル(Nauru Files)とは、オーストラリアのオフショア難民収容所から漏洩された最大の秘密情報である。ナウルにある収容所にて2013年5月から2015年10月までの約2,000以上の事件の報告書であった。太平洋の島の警備員、ケースワーカー、教師によって記述された。彼らは島での報告可能なすべての事件を提示した。事件の半分以上は移民した子どもに関連して、自傷行為、性的暴行、児童虐待、ハンガーストライキ、暴行および負傷が含まれた。事件の文書は2016年8月10日にガーディアンが公開されて、その他の報道機関も報告した。記録にはオーストラリアの悪名の高い沖合拘留収容所での長期の拘禁による犠牲の全容が詳細に記載された。
 1975年以降に難民が流出したのは、ベトナム・カンプチア・ラオスで約30年間の戦争の後遺症から、共産党政権による何百万人に達する民間市民が虐殺された。都市の粉砕、農地の破壊、森林のはげ山化、水源の汚染、無数の地雷などが放置された。直面する経済と環境上の悪化を招いた。1980年から1986年の間は、ベトナムからのボート難民の流出は、第3国で再定住者よりも少なかったが、1987年からはボート難民の人数は再び急上昇し始めた。当時の目的地は、主に香港とタイであった。1988年6月15日から約半年だけで、約18,000人以上のベトナム人難民が香港に到着した。香港当局は、すべての新規の難民を拘留センターに入れた。第3国に再定住できるまで拘留センター閉じ込めた。ボート難民は刑務所のような拘留センターに抑留された。特に、子どもに対する教育やその他のプログラムは廃止された。東南アジアの受け入れ国も、新しく到着したベトナムからボート難民の受け入れを、香港と同様に否定的であった。
 亡命国と第3国の再定住の受入国は、より新しいボート難民の多くが政治的弾圧から逃れる難民の地位を疑った。1989年6月にジュネーブの国際難民会議では、すべての新しい難民を選別して、本物の難民を判断することを要求した。ボート難民の移民を減少させる包括的行動計画(CPA)を作成した。難民の資格を与えられない人々は、自発的または非自発的にベトナムに送還された。1989年には、約5万人のインドシナ系難民が東南アジアの5か国と香港に到着した。1992年から難民数は激減して、ベトナムのボート難民が故郷から逃げる時代は完全に終わった。ベトナム人で混血となったアメラジアンの子供たちの再定住は特別に再教育収容所で継続された。