2020年1月30日木曜日

サイパンの戦いで壮絶なガラパンの市街戦が勃発して、日本軍兵士がアメリカ軍の猛烈な砲撃に吹き飛ばされて殺害された。

太平洋戦争において1944年6月15日からのサイパンの戦いにて、6月28日には最大都市でもあったガラパンで壮絶な市街戦が勃発した。日本軍兵士がアメリカ軍の猛烈な砲撃に吹き飛ばされて殺害された。日本軍兵士は、仰向けに叫びながら口を開けたままに倒れて戦死した。日本軍兵士は市街戦で肉弾攻撃から白兵突撃を繰り返しても、武器から食糧も飲料水も枯渇して3日間も飲まず食わずで6月30日には日本軍兵士はほぼ全滅した。
   ガラパンが戦場となって、ガラパン全域をアメリカ軍が占領して、日本軍は崩壊して7月3日に北部に退散した。7月4日にはガラパン近辺のタナバク港には日本軍兵士の死体が重なり埋まった。日系民間市民もサイパン島のタナバク周辺に避難して、北端の悲劇のバンザイ・クリフとなるマッピー岬に追い詰められた。日本軍司令部は、7月7日にはサイパン島北端までの撤退を拒否して、サイパン島を太平洋の防波堤にすると全軍の全員が全滅する玉砕を敢行することを厳命した。7月7日午前3時に手榴弾、銃剣とナイフで最大のバンザイ攻撃の白兵突撃をした。事前に察知していたアメリカ軍は、多量の照明弾を打ち上げて、実弾演習の如くに集中攻撃をして、戦場は死の谷となり7月7日のお昼頃には日本軍兵士はほぼ全滅した。日本軍の組織的な抵抗は7月9日に終結した。
 日本軍司令部は、民間市民と軍隊の区別はもはやない、捕まえるよりも、竹の槍で攻撃に参加することや自殺を奨励した。民間市民は洞窟や隠れるべき家や穴すら見当たらなかった。読売新聞は、マッピー岬の崖から約80m下に飛び降りて自殺した女性らを「日本の女性の誇り」と称賛して、「昭和の最高の行為」とまで喧伝した。東京大学は朝日新聞で「100から1,000の勇気が輝かしい光の閃光を発した歴史上の行為であった」と称賛した。アメリカ軍の犠牲は、約71,000人のうち約3,426人が死亡して、約10,364人が戦傷した。日本軍の犠牲は、約31,000人のうち、約24,000人が戦死して、約921日が捕虜となり、約5,000人が自殺した。


2020年1月29日水曜日

フランス人女性がライフルを掲げて、ドイツ軍と紛争を継続するようにフランス人の男性市民に呼びかけた。

ナチス・ドイツ軍が、1940年5月からの電撃戦にてフランス軍を蹂躙して、わずか約6週間の瞬く間にパリを6月14日に占領した。抵抗するにもパリ市民には、ほとんど武器は枯渇していた。ドイツ軍に抵抗して殺害されたフランス人男性の身体が路面に横たわった。その身体からライフルをかき集めたフランス人女性が、ライフルを掲げてはドイツ軍と紛争を継続するようにフランス人の男性市民に呼びかけた。ノルマンディー上陸作戦までは、積極的な抵抗者であるレジスタンスは、ごく少数であった。本来のレジスタンスとしての抵抗者の主体は、移民、学生、スペイン内戦後の共産主義者で構成されていた。レジスタンスの抵抗を誇示してフランス市民を煽動する写真などが大量にばらまかれた。地下新聞の発行、妨害活動、情報収集に関与したフランス人は、約2%未満に過ぎなかった。静観しながらチラシを読み、フランスの伝統文化を守る受動的なフランス人でもわずか約8%未満であった。
 フランスは国民全体は想外の敗北の屈辱から、集団的な心的外傷後ストレス障害(PTSD)により衰弱していた。ナチス・ドイツ軍の思想を受け入れて傀儡となったヴィシー政権は、数千人ものユダヤ人を強制収容所に送り込んで大量虐殺にも加担した。フランス人の特権階級や資産家らは完全にナチス・ドイツ軍に取り込んで完全に無抵抗者となった。特にフランスの北東部のドイツ軍の占領地域で、屈辱的な虐待や虐殺を受けて追い込まれたフランス人が抵抗者となった。レジスタンスでは非現実的に興奮して不満を解消できずに、実際はナチス・ドイツ軍から残忍な虐待と虐殺を受けた。最も差し迫った恐怖は、身内の裏切りであった。抵抗運動を高めるほど、裏切りによる壊滅に逼迫した。レジスタンスの主体を果たしたのは、第1次世界大戦後にフランスに移民した外国人と、ナチス・ドイツ軍から逃避してきた東部戦線からの難民らであった。特にポーランド系ユダヤ人、多彩な東ヨーロッパの共産主義者、スペイン内戦でファシズムに対抗した共和党勢力のスペイン人であった。フランス人の指揮下で、非常に危険な都市ゲリラ戦に従軍した。パリにおける外国人ユダヤ人は、1942年7月16日から17日だけで、約13,000人が東ヨーロッパ強制収容所に強制連行された。ナチス・ドイツ軍は数千人のレジスタンス戦闘員と数千人の民間人が虐殺されて、ノルマンディー上陸作戦に関与できなかった。上陸後になってから、フランス全土にわたる強力で積極的なナチス・ドイツ軍との悲惨な対立の突風につながった。1944年8月25日になって連合軍がパリを開放した。


2020年1月28日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、アメリカ軍は戦車に向けて爆弾を抱えて肉弾攻撃をした日本軍兵士を直ちに殺害した。

太平洋戦争の沖縄戦において、1945年5月に日本軍兵士がアメリカ軍の戦車に向けて爆弾を抱えて肉弾攻撃をした。直ちにアメリカ軍兵士により、射撃されて殺害された。アメリカ軍の戦車は何も無かった如く通り過ぎて行き、戦死した日本軍兵士の死体がそのままに仰向けで放置された。アメリカ軍に比較して、圧倒的に兵力が劣る日本軍は、若年兵士らを爆弾を抱えさせ、戦車に向けて戦車への斬り込み攻撃する特攻をさせて自滅させた。多く日本軍兵士はアメリカ軍の戦車にたどり着く前に、射殺された。その他に塹壕に爆弾を抱えて潜伏して、アメリカ軍の戦車に飛び出して体当たりするタコツボ攻撃も取らせた。1台の戦車に対して数名が斬り込み攻撃もした。爆薬を詰め込んだかばん攻撃の自爆によって支援された日本軍歩兵が直接に洗車攻撃した。
 潜入して戦死した日本軍兵士と倒れた海兵隊員の死体は、5月の豪雨で取り戻せずに頻繁に放置された。腐った死体と肥大したうじ虫で一杯になった死体はゆっくりと腐敗した。日本軍の間では、沖縄戦の最後の数日間に自殺の発生が急増した。日本軍の死体の検死の結果、降伏するのではなく、多くの日本人が手榴弾を腹部に当て、戦争を個人的手段で終わらせていた。多数の切断された腕と脚が散乱した。死体群の一部の頭部はニヤリとしていた。頭蓋骨の肉から腐敗し、歯はむき出しになった。沖縄戦はにアメリカ軍とって勝利でしたが、その非常に大きな犠牲と大虐殺は軍事戦略家とアメリカ市民に衝撃を与えた。
  1945年3月23日に義勇兵役法を成立させて、徴兵対象を拡大する新たな徴兵制度を構築した。日本軍は15歳以上〜60歳以下の男子および17歳以上〜40歳未満の女子に義勇兵役を課して、国民義勇戦闘隊に編入できた。交付と施行は6月23日に執行されたが、既に沖縄戦は終結していた。沖縄戦では、日本国の法律の施行する前に、陸軍省令の通知で、14歳から17歳の少年兵を召集した。少年兵は鉄血勤皇隊、少年護郷隊に召集されて自滅させられた。召集は、日本軍からの指令で、指定の場所に期日内に出頭が義務付けられて、召集に違反すると罪人となった。罪人には、懲役刑に処せられて戦場の前線で突撃させ、3親等内の家族は失職して、兵役逃れは不可能であり社会的に追放された。



2020年1月27日月曜日

フランス軍はアフリカから黒人兵を投入して、ナチス・ドイツ軍の侵攻の途上で、特に捕虜の黒人兵を処刑して虐殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1940年に第二次世界大戦の西部戦線から電撃戦にてフランスへ侵攻した。ドイツ軍は1940年6月5日から、ソンム川からセーヌ川にかけて侵攻した。フランス軍は、ソンム川の防衛のために、アフリカから有色人種として黒人兵を投入して戦力を増強した。ナチス・ドイツ軍は急速なる進撃を黒人兵らは妨げた。ナチス・ドイツ軍の侵攻の途上で、特に有色人種の黒人兵は捕虜になっても、処刑されて虐殺された。ナチス・ドイツ軍の敵部隊であるフランス軍は、すべて排除されるか後退を強いられた。特に有色人種である黒人兵を排除するために、無差別で無法な私刑を加えて虐殺した。アンジェストの街にて、虐殺された多数の黒人兵の死体が散乱した。フランス軍の黒人兵である場合には容赦なく残虐行為を加え、多くを射殺した。黒人兵はフランス軍の植民地兵、主にアルジェリアやモロッコ出身の黒人兵であった。フランス軍にはかなりの割合で黒人兵士達による部隊があった。ナチス・ドイツ軍は捕虜に対する虐待に直面しても、ジュネーブ条約の規制を保持しなかった。アメリカ軍、フランス軍、イギリス軍であった黒人兵士は、強制収容所または捕虜収容所で虐待と虐待により死亡した。投獄されなかった黒人は、親衛隊またはゲシュタポにより即座に虐殺された。黒人捕虜は、白人捕虜よりも厳しい虐待と虐殺を受けて、食料も少なく、ほとんどの白人捕虜は投獄されても、黒人兵士の多くは、虐殺か処刑まで強制労働した。
 1940年6月のフランス軍の敗戦中に、ナチス・ドイツ軍はボワ・デレイン近くで捕らえたアフリカ人兵士と白人の将校を虐殺した。さらに約10人のフランス軍アフリカ人がリヨン近くで殺害された。6月にエルキビレ近くで捕虜にしたアフリカ人黒人兵士を虐殺した。ナチス・ドイツ軍は、「劣等な人種はドイツ人の文明人種との戦いに値しない」と喧伝した。1940年の西部戦中に、ナチス・ドイツ軍はフランス軍から数千人のアフリカ黒人捕虜を殺害した。殺害を命令または容認するドイツ軍は、伝統的な有色人種である黒人男性の軽蔑した。ドイツ国民は解き放たれたフランス軍の黒人兵士に対する大規模な宣伝によって殺害を承認した。しかし、この「プロパガンダによる許可」は大きな矛盾を含んでいた。ソ連軍兵士に対する東部戦線に対して殺害が横行したように、ナチス・ドイツ軍と親衛隊は「生存が望ましくない」囚人の殺害のために特定の命令が必要であったと結論付けた。ヴィシーフランス政権に対抗して樹立された自由フランス軍も,フランス人兵士よりも,セネガルなどアフリカ出身の黒人兵士が多かった。自由フランス軍はフランスに亡命した黒人兵士が主流であると装われた。自由フランスの黒人兵士と植民地兵士は,連合国の中でも過小に卑下された。
   

2020年1月26日日曜日

広島逓信病院にて2人の中学生の被爆者は、 帽子で保護された髪毛は残り、髪毛の線の下は燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がった。

広島逓信病院にて、1945年10月8日に原爆症を治療中の2人の被爆者は、中学生のように見える。 帽子で保護されていた髪毛は残っている。しかし、髪毛の線の下で燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がっていた。広島原子爆弾の熱線と爆風の強度を証明している。手術室で応急的な治療室を兼用していた。黒く壊れた手術用の無影灯が天井からぶら下がっていた。時計が午後6時を過ぎても、治療室の外では被爆者が待機して列を並んだ。
 鉄筋コンクリートの2階建ての広島逓信病院は、爆心地から東北約1.4kmで猛烈な爆風を受けた。病院職員は、死亡は約5人、院長を含めて重症は約7人に及んだ。午前9時頃から西端の薬品倉庫から出火して、広島逓信病院の2階と逓信局の3階に火災が拡がった。消火により1階の病院には火災は及ばなく残存した。この時点で、重症な被爆者は約200人と火傷の被爆死やは約700人が殺到した。疎開していた広島逓信局の約100枚の畳を、直ちに収容被爆者のベッドの代用とした。収容患者は約平均220名で、8月6日から8月15日までの約10日間で約60人が被爆死した。
 広島逓信病院は、広島原子爆弾に被爆する約1月前の1945年7月頃に、空襲の対象を避けるために、全ての入院患者は退院させ疎開させた。周辺の施設、軍隊、軍司令部、学校などは被爆で壊滅して焼土となった。爆風で広島逓信病院の窓枠は吹き飛んだ。爆心地から約2kmで病院として残存していたのは、広島日赤病院と広島逓信病院のみであった。被爆者に対して、広島逓信病院内で一日中にわたり懸命で厳しく可及的な救護がされた。
 蜂谷道彦院長は約56日間の被爆治療を記録した『ヒロシマ日記』(朝日新聞社, 1955年)を刊行した。"Hiroshima Diary" Michihiko Hachiyama (North Calorina University Press, 1955, 約18国で翻訳済み。田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。





















2020年1月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟の視聴回数 360,000回

2020年1月25日土曜日

ソマリアの父親は、娘が回復するように目前で、イスラム教の経典コーランを暗唱した。

ソマリア国境から炎天下を歩いて移動して、2006年に約80kmのケニア北東部のソマリアのダダーブ難民キャンプにたどり着いた。4歳の娘であるカリージャは、ソマリアの飢餓状態から慢性的な下痢で痩せて栄養不良となり重態となった。38歳の父親のハッサン・アダンが付き添って救護所にたどり着いた。父親は、娘が回復するように娘の目の前で、イスラム教の経典コーランを暗唱していた。父親には、娘にイスラム教のコーマン経典を祈り続けるしかなかった。
 アフリカ大陸の北東の角といわれるソマリアは、紅海をはさんでアラブ世界とアフリカが接して交錯する地域である。1960年にイタリアから独立して、近年に至るまで政権争いが絶え間なく繰り返された。1969年に、クーデターで政権を奪取したバーレ大統領は、敵対する部族を徹底的に弾圧した。1991年に、諸部族が蜂起してバーレを追放した。その後、アイディド将軍派とマフディ暫定大統領派の勢力争いが激化して、ソマリア全土が残忍な内戦状態に陥った。内戦と干ばつで約30万人以上が餓死し、約100万人以上が難民として近隣アフリカ諸国に流出した。1992年に、国連はこの事態を国際平和に対する脅威と見て、人道的介入を開始した。アメリカ軍などによる第1次、第2次の国連ソマリア活動(UNNOSOM)に加え、統合機動部隊(UNITAF)を投入して、史上初の人道上の理由による武力介入を行った。この武力介入は、一定の成果をあげたもののソマリア当事者の反発を買って、派遣軍兵士に犠牲者が出た。国連平和維持軍と現地武装勢力の戦争状態にも陥った。1994年2月に、国連安保理は強制介入を停止して、人道的介入は失敗に終わった。それ以来も、ソマリア内戦は継続的に泥沼化し、首都モガディシオをはじめ主要な都市は完全な廃虚となった。国際社会やアメリカが介入して、結局は放棄したソマリアは、残酷な内戦のまま見捨てられて情報も一切途絶えた。3つに分裂した地域では、2002年にもソマリア政府軍と反政府勢力が抗争を繰り返している。この数年の空白の間に、国際テロ組織アルカイダの影がソマリアにも潜伏した。
 2006年12月に、エチオピアがソマリア暫定政府を支援して軍事介入して首都モガディシオを占領した。2007年1月にはアメリカ軍が直接に介入して空爆して、エチオピア軍は南部のキスマユも制圧した。対抗する反政府勢力であるイスラム法廷は中部や南部でゲリラ化して、2009年にはイスラム過激派のアッシャバーブが集結して、暫定政府に対抗した。2011年には最悪の干ばつが、ソマリアからケニアとエチオピアなどを襲った。ソマリアが最も深刻で、7月の約10日間だけで約2万人が餓死と病死した。過激派のアッシャバーブらは、国連の世界食料計画(WFP)を非難して活動を阻止した。2013年5月に、国連食糧農業機関(FAO)は、2010年10月から2012年4月までに、ソマリア飢饉で約25万8000人が死亡した。そのうち5歳未満の子どもは約半数の約13万3000人が死亡した。さらに2011年5月から8月まで、毎月に約3万人もの餓死が発生した。


2020年1月24日金曜日

沖縄戦でアメリカ軍により、亀甲墓の入口で殺害された日本軍兵士の死体の側に芋や洗面器が散乱した。

沖縄戦において、1945年5月に日本軍兵士は亀甲墓に潜伏していた。アメリカ軍の掃討によって、亀甲墓の入口付近で殺害されて、死体の側に食料にしていた芋や洗面器が散乱した。亀甲墓に捕らえられた日本人は、アメリカ軍兵士からの繰り返しの呼び出し後に出ることを拒否すると、入口を封印してダイナマイトを仕掛けた。駆逐するのに火炎放射器を装備した戦車を導入した。アメリカ軍はドリルで亀甲羅墓の入口に穴を開けて火炎放射器を注ぎ込んだ。投降を呼びかけるも応じなければ一転して、容赦無い攻撃による殺害を続けた。
    1945年4月からの沖縄の戦いで、多くの沖縄の民間人から日本軍兵士まで、祖先の亀甲墓の中にアメリカ軍の砲撃や射撃から避難を求めて潜伏した。独特の形をした沖縄の亀甲墓は、墓の形が亀の殻に似ているために呼ばれた。死後に母親の子宮に戻るという信念から生まれた女性の子宮を表現していた。墓への入口は母親の子宮を示唆して、木々などで墓を隠蔽した。祖先崇拝を信じる沖縄では、墓は休息の場であるだけでなく、生活の精神的な場にも貢献した。病気や死亡は、家族の墓を適切に管理せず、先祖に十分な儀式を行っていないと信じた。日本軍は沖縄戦で、既存の亀甲墓または自然の洞窟であったガマを防空壕に適合させるように指令した。多数の天然の洞穴や、沖縄特有の墓である亀甲墓が、堅牢な構造からトーチカ代わりに日本軍陣地の一部となった。山頂にある一連の洞窟には、多くの簡易ベッド、ゴミ、その他の医療品が含まれて、日本軍の防空壕を示唆した。沖縄戦では、首里・那覇にあった多くの亀甲墓が甚大な犠牲を被った。


2020年1月23日木曜日

スペイン内戦の緒戦にて、セビリアのトリアナ地区で共和党派市民を大量虐殺して死体と出血が街路に散乱した。

スペイン内戦の緒戦において、反政府軍がセビリアで1936年7月18日に軍事クーデターを蜂起した。1936年7月21日に約4,000人の反乱軍は、デ・リャノ指揮官が政府軍を拘留して、セビリアのトリアナ地区を占領した。反乱軍は大量虐殺を命じられて、共和党派の市民を殺害して、その死体と出血が街路一面に散乱した。1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、セビリアはアフリカ大陸に近いスペイン南部の大都市であり、7月中にはフランシスコ・フランコを主導者とする反乱軍に占領された。労働者らは、トリアナ地区にわずかな武器を持ってバリケードに潜伏した。反乱軍は、地域の女性と子供らを人間の盾として虐殺した。摘発した全ての男性はナイフで刺殺して流血の弾圧をした。労働者階級を中心として市民による抵抗も行われたが、反乱軍による厳しい報復措置による投獄と処刑を受けた。反乱軍は、7月25日にセビリアを完全に征服した。反乱軍は、8月2日からセルビアから各地を掃討しながらエストレマドゥーラを経由して、首都のマドリッドに侵攻した。
 1936年7月に、スペイン人民戦線政府に対抗してフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こして、スペインは内戦状態に陥った。9月21日にフランコが最高司令官となった反乱軍に対して、ドイツ、イタリアのファシズム政権は軍事援助を提供した。一方で、人民戦線側もソ連とメキシコから公式に武器を供与された。第2次世界大戦の前哨戦と言える近代兵器による戦争が、スペイン人同士の内戦が勃発した。人民戦線側には反ファシズムを支持する知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイやイギリスのジョージ・オーウェルらによって組織された国際義勇軍が加わった。武器量に勝るフランコ側が有利に戦いを進め、1939年3月28日にはマドリードが陥落して、3月31日に全てのスペイン領土を占領して、内戦はフランコ側の勝利に終わった。スペイン内戦で、約190,000から約500,000が死亡した。内戦時には、共和党派によるレッド・テロにより約38,000人以上が殺害された。内戦から第2次世界大戦の終戦までに、反乱軍の民族主義派によるホワイト・テロで約100,000以上の大量死刑で殺害された。


2020年1月22日水曜日

ワルシャワ・ゲトーでユダヤ人の姉が路上で飢死しようとしている弟の面倒を見ていた。

1941年9月19日頃に、ポーランドの首都ワルシャワにおけるユダヤ人の強制居住区のゲットーにおいて、ユダヤ人の姉が路上で飢死しようとしている弟の面倒を見ていた。一見大きな人形のように見えるものを保持している歩道上の若い女の子がいた。彼女の抱えているのは、死んでいるか死にかけている彼女より若い子供の体であった。ナチス・ドイツ軍によって封鎖されたワルシャワのゲットーは、食物も希望もなく、強制収容所にユダヤ人を監禁した。ナチス・ドイツ軍が、ゲットーへの通行を阻止しているため、多くの女性や子供らは食料や水が手に入らなかった。
 ワルシャワのゲトーの写真は、43歳のドイツ国防軍のハインリッヒ・ヨースト(Heinrich Jost)軍曹が、ワルシャワのゲットーへ無許可に訪問して撮影した。ゲトーの壁に沿って横倒れの死体に出会った残酷な悲劇は、彼を驚嘆させ悲嘆させた。混沌とした不衛生な生活環境、飢餓、ナチス・ドイツ軍からの暴力の継続的な虐待による病気だけでも、1941年の夏だけで約16,000人近くの命を奪った。ホテルのオーナーであったヨーストは、ウクライナの首都キエフの占領日であり誕生日であった1941年9月19日に、ワルシャワに駐留している部隊から休暇を取った。1941年7月頃からユダヤ人の検疫のためにゲトーの撮影を禁止していた。ヨーストは命令に逆らって、カメラを持ってゲットーに侵入して、終日に写真撮影の探索をした。おそらく1日だけでは十分ではなかったので、彼は複数回ゲトーにでかけて、複数の場所で約160枚の写真を撮影した。終戦後から誰にも見せずに保管しました。彼の死の1年前の1982年になってヨスートはドイツのスターン誌のグンター・シュバルベルグ記者に写真を渡した。彼はイスラエルのヤド・ヴァシェムにもそのコピーを渡した。
 1939年9月1日にはドイツ軍はポーランドへ進攻して、ワルシャワはドイツ軍に占領された。1939年10月4日に秘密警察が、ユダヤ人居住区を占拠した。ユダヤ人評議会が、ユダヤ人居住区を監督した。ユダヤ人居住区ではチフスが流行して隔離が必要となった。1939年11月7日に、ワルシャワのユダヤ人居住区をゲットーにしてユダヤ人を封鎖した。ドイツ軍司令官はユダヤ人居住区に立ち入り禁止区域を設営した。1940年11月16日からゲトーは封鎖されて、自由な通行は不可能となった。1941年に、ゲットー全住民の約10分の1にあたる約4万3000人が病死と餓死した。1942年には更に死亡率が急増して、1942年7月に強制移送が始まるまでには総計で約8万3000人が死亡していた。


2020年1月21日火曜日

グルジア共和国の大統領支持派は、支持者派の集会に発砲した反体制派の容疑者に拳銃を口唇部に当て尋問した。

グルジア共和国のズヴィアド・ガムサフルディア大統領の支持者は、1992年1月3日に首都のトビリシで大統領支持者派の集会に発砲した容疑者に拳銃を口唇部に当て尋問した。1992年1月1日に、武装野党勢力は首都トビリシの放送塔を占領し、1992年1月2日に武装野党は軍事評議会の設立を宣言した。軍事評議会はすべての抗議を禁止する新しい命令を発した。しかし、約3,000人から4,000人のガムサフルディア大統領の支持者の集会は、戦場から数マイル離れた駅から出発して、1月3日12時頃にデモ隊を組織した。主に中年の男性と女性を含む抗議者は、ガムサフルディア大統領の肖像画を持ち、彼の名前を唱えてルスタヴェリ通りに向かって歩いた。わずか15分後に、ムヘドリオーニの仮面の男を運ぶ車が群衆に煙爆弾を投げた。直後に、約8人〜約10人のマスクで覆面した男性のグループがサングラスを着用して身元を隠して潜伏した。抗議デモ参加者の前に列を作り、群衆を解散させるために空砲を撃ち始めた。数分後に、実弾が抗議デモ参加者に発砲され、激しく混乱して分散して、一部は車両の後ろに避難した。約2人の抗議デモ参加者が即座に殺され、数人が負傷した。数日後にはさらに約2人が死亡した。
   グルジアは、ソ連連邦が崩壊後に、1991年4月9日に独立宣言をして、5月26日の総選挙でガムサフルディア大統領が選出された。グルジア民族主義者であった独裁政権の大統領となった。首都トリビシで反対勢力を弾圧して、非常事態を宣言した。少数民族の南オセアニアとアブハジアに民族紛争と民族浄化が勃発した。1992年1月3日の事件は、双方の間の緊張を高めた。軍事評議会は、すべてのデモを追放するために、デモ隊を暴力的に解散する決定を直接に下した。虐殺を「正当」と呼び、首都トビリシの住民が議会の命令に違反し続けると弾圧命令を繰り返すと脅した。1992年1月6日にクーデターより、大統領はグルジアから追放されて、チェチェン・イチケリア共和国に逃亡した。


2020年1月20日月曜日

アフリカのルワンダで1994年4月6日から7月4日までフツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。

アフリカのルワンダにおいて、1994年4月6日から7月4日まで、フツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。大虐殺に勃発しても、現地の国際平和維持軍や支援者らが介入するのに数ヶ月も遅れた。そのために数百万人のルワンダ人が難民となり、約百万人が虐殺された。1994年にわずか3ケ月間で、ルワンダでフツ族の過激派が、約80万人ものツチ族を無差別に非人道的な大量虐殺した。ツチ族の犠牲者のほとんどは在住した村や町で殺害された。多くは虐殺を強制させられた隣人や仲間の村人らによって殺害された。特にツチ族とフツ族が隣り合わせで生活した農村部では、フツ族がツチ族の隣人を見つけては殺害の標的にした。フツ族の戦闘員は、教会や学校の建物に隠れているツチ族犠牲者を探して掃討した。フツ族の民間人を募集したフツ族の民兵は、ツチ族の犠牲者をマチェット山刀やライフルで殺害した。川や湖は虐殺された死体で溢れ、道端に積み上げられ、殺害現場に放置された。性暴力も蔓延して、約25万人以上の女性がレイプされた。
 人口の約85%はフツ族が占めるルワンダを、少数派のツチ族が支配していた。1959年にフツ族勢力が、ツチ族君主制を打倒して、約33万人ものツチ族が近隣諸国に逃避した。1962年7月に公式にルワンダ共和国が独立した。難民となったツチ族は、反フツ族のルワンダ愛国戦線(RPF)を結成して、1990年から1993年までルワンダに侵攻した。1994年4月6日に首都のキガリで、フツ族勢力の大統領らの飛行機が撃墜されて暗殺された。フツ族の過激派がRPF の容疑として、フツ族勢力は報復のためにツチ族市民らの大虐殺が勃発した。ツチ族のルワンダ愛国戦線が戦闘を再開してルワンダ内戦が勃発して、7月7日に首都キガリを占領して、大虐殺は終結した。逆にフツ族の約200万人がコンゴや近隣諸国に逃避した。大虐殺の終結後に、フツ族とツチ族の合意による連合政府が樹立された。


2020年1月19日日曜日

広島原爆に被災した福屋百貨店ビルに、被爆直後から一時的な救護所を急設されて、兵士が背中に重度の火傷の痂皮の処置を受けた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、広島市内は壊滅した。その焼け野原の中で、コンクリート製の建物が一部残存した。爆心地から約710メートルにある八丁堀の福屋百貨店のビルも被災した。ビルは残存して、市内53箇所に急設された被爆直後の一時的な救護所となった。そこに多数の被爆者が殺到した。8月12日に一人の日本軍兵士が、背中に重度の火傷を受傷した。その背中の痂皮の処置を受けた。被爆直後から各フロアを病室に充てた。八丁堀本店の福屋百貨店の南側には、臨時火葬場が仮設された。膨大な死体までの処理は困難であり、市内の焼やけ跡あとの至るところで火葬が行われた。
 1938年に、地下2階と地上8階の福屋百貨店が開店した。当時はまだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人で賑わった。しかし、すでに時代は戦時体制となり、1945年には陸軍や統制会社などが強制使用することになり、休業状態に陥っていた。広島原爆の炸裂を一撃の大閃光と大轟音から「ピカドン」と呼んだ。福屋の近くで原爆の直撃を受けた。しばらくしても室内は真っ暗で何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られた。粉塵も静まると周囲はだんだん明るくなった。室内は、天井は落下して、机、椅子、ついたて等は飛散した。渦巻く黒煙と火焔に包まれた。各地から、うめき声や助けを求める悲鳴が発生した。極めて大きな爆風を受けて、機材が飛散して散乱した。



2020年1月18日土曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村民の全員を無差別に大虐殺した。

1944年6月10日にナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村を無差別に大虐殺した。最初の救助者は、保護するものが何もないく、凄まじい恐怖を感じた。男性は撃たれて、女性と子供たちは村の教会で生きたまま燃やされて、その身体にはしわが寄って、時には灰になった。リモージュ司教によってオラドゥール虐殺の翌日に死体が送られた神学校で、集めて特定しようとした。 しかし、特定できた犠牲者の人数は不明のままである。身元確認ができた死体は犠牲者全体約642人のうちわずか約8%のみであった。
 オラドゥール・シュル・グラヌは、フランスのパリから南南西約400kmにあるヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日土曜日に、ナチス・ドイツの占領下であった村で、ナチス武装親衛隊が大規模な虐殺を行った。村にいた村民のほぼ全員の約642人が殺され、村は一日にしてゴーストタウン化した。ナチス・ドイツ軍親衛隊は、オラドゥールを包囲して、村民に身分証明書の検閲のために、村の中心部の広場に集合するように命令した。集まった村民のうち、女性と子供たちは教会に連行された。しばらく経ったのちに、男性は6つの納屋に連行されたが、納屋で機関銃で射撃された。まず下肢を狙って発砲して、寝たきり状態で焚き付け身体を包み、納屋に火をつけた。男性の生存者はわずかに約5人で、約197人が死亡した。その後に、教会の女性と子供たちの中に放火して銃撃した。女性は約240人が死亡して、子供は約205人が虐殺されて、女性1人のみが避難できた。
 1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸した。迎え撃つナチス・ドイツ軍のダス・ライヒ隊は、フランス南西部のモントーバンで、潜伏したフランスのレジスタンスに襲撃された。その報復で、チュール町からゲレ町を掃討した。レジスタンスを撃退するために、約200人のナチス・ドイツ軍親衛隊がオラドゥール・シュル・グラヌへ6月10日に侵攻した。レジスタンスは皆無であるために、身代わりに村民全員を無差別に殺害した。戦後の1945年に、シャルル・ドゴール首相はオラドゥール村を訪問して、大虐殺の村を再建せずに遺跡に保存することを決定した。2013年9月4日にドイツのヨアヒム・ガウク大統領がオラドゥール村を劇的な訪問は、歴史的転換の平和訪問となった。


2020年1月17日金曜日

中国の第二次国共内戦で、国民党は路上で共産党を卒塔婆に縛って後頭部から銃殺した。

1949年5月13日金曜日に上海の共産主義者が処刑された。処刑された5人の中国人は、共産党軍の侵攻から都市を守る準備をしていた上海において、破壊的な政治活動をする重罪を犯した。犯罪人の腕が有罪判決を受けた犯罪を記載された紙に記載された卒塔婆に縛られて、死刑囚を後ろから射殺する旧来の処刑方法に従った。中国の第二次国共内戦の中で、国民党は路上で共産党を直接に銃殺した。
 北伐の過程にて、1927年4月に中華民国は上海でクーデターを指揮して、中国共産党を弾圧した。中華民国は1927年4月に南京へ遷都して、「共産党を片付ける」ことを決定した。これは、国民党と共産党の国共が初めて崩壊したことを意味した。明確な方針は、国民党が共産党を排除するだけでなく、完全に消滅することでもあった。それ以来、国民党と共産党は10年間互いに殺害し合った。 1924年から1927年の間は国民党と共産党との国共合作の間は、国民党内において共産党の組織活動は秘密裏に行われた。蒋介石が明確な方針を命じたとき、いくつかの明確な目標を除いて、最大の難しさは「共産党」が誰であるかを伝えることが最大の難関であった。1927年4月から1928年前半まで、約2万7000人以上の共産党員を含む「清党」の名の下に約310,000人以上が虐殺された。
 台湾の中華民国において白色テロは、二・二八事件以降の戒厳令下において、国民党政府が共産党などの反体制派に対して政治的弾圧をした。1947年2月27日に台北市で闇タバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲して、ニ・ニ八事件の抗争はたちまち台湾全土に広った。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの市民が投獄や処刑された。約140,000人が投獄されて、そのうち約3000人以上が死刑にされた。



2020年1月16日木曜日

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。 ウクライナのヴォルガ地域の大飢饉の写真がソ連からノルウェーに流出した。農業の集団化よる恐ろしい結果の1つは、農民間の大飢餓となった。 ソビエト当局によって長い間否定されてきた1932年〜3年の大飢饉は、約400万人以上の犠牲者の大半はウクライナに住んでいた。「ウクライナの悲しみの収穫("The harvest of sorrow", Robert Conquest, 1986) 
 ホロドモール(Holodomor)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で、ソ連の恣意的な飢餓により餓死させた大虐殺であった。ソ連により穀倉地帯であったウクライナの独立を阻止するために、ウクライナ人は強制移住さられて、農地や家畜も奪われて、約700万人が餓死したと国連は共同声明した。ソ連によるウクライナ民族を消滅させるジェノサイドとウクライナ議会は2006年に認定した。第一次世界大戦後に、1917年11月にウクライナとソビエト、1918年に西ウクライナとポーランド、1918年にクリミアとソビエトと戦争が勃発した。ソビエト軍の勝利により、1922年12月からウクライナはソ連に併合された。ソ連によるウクライナの農業集団化は1930年台から自発的から強制的に執行された。ソ連の農地共有化政策である農業集団化により減産に陥り、厳しい徴収による食料の枯渇や強制労働などで大飢饉が発生した。反対者や欲求不満から容疑者まで、強制的に虐待と虐殺された。食料が枯渇したウクライナ人は、食べれるものは生物から人肉までも食べ尽くした。地域には餓死した死体が散乱して放置され山積みされた。1932年8月11日にスターリンは、ウクライナを占領するために、弾圧し、農産物の強制生産を命じた。
 国際的承認を得ようとしたソ連は、ウクライナのホロドールの大飢饉による大虐殺を認めなかった。飢饉の被害はウクライナ人だけでなくロシア人やカザフ人にも広く及ぶとしてウクライナを否定した。1985年3月からソ連の再構築(ペレストロイカ)から、1986年4月のチェルノブイリ原発事故を受けて、ソ連は情報公開(グラスノスチ)が開放された。1987年12月に、初めてウクライナからホロドールが提訴された。ソ連の崩壊により、1990年8月にウクライナは独立した。ウクライナ領土であったクリミアに、ロシア軍武装勢力が潜行と侵攻して占領して、2014年3月18日にロシア連邦に併合された。