ナイジェリアの軍事政権下にて、多数の見物人が見守る中で、1985年2月23日に銃殺刑が執行された。重罪人はドラム缶に縛り付けられて公開処刑により銃殺された。ナイジェリアでは,1960年10月の独立から 1999年5月のオバサンジョ文民政権成立までの38.7年間のうち,文民政権下の期間は9.8年間ほどでしかなく,残りの28.9年間は軍事政権期間となった。第2次軍政では、1983年の選挙で将軍ら軍政派によるクーデターが勃発して、再び軍政に戻った。国民に強圧的な体制を敷いて、経済はさらに悪化した。
1983年12月31日にナイジェリア軍の中上位将校がクーデターを起こし、腐敗したシャガリ文民政権を打倒して、ブハリが元首となる軍事評議会議長に就任した。軍事政権の奪取を正当化して、無規律との戦いにより、国民に綱紀粛正の運動を強制した。報道を抑圧し、罪状なしでも反対派を拘禁した。労働者や市民のストライキやロックアウトも禁止した。さらにナイジェリア初の秘密警察であるナイジェリアセキュリティ機構を設立した。ブハリ政権は財政均衡のために輸入を抑えて、多くの会社が倒産や閉鎖された。物価は上昇し生活水準は低下した。緊縮政策の失敗、汚職の蔓延、さらに経済の悪化を受け、ブハリ政権は1985年8月27日に中級将校のクーデターで、ババンギダ軍事政権によって打倒された。ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。