2017年8月17日木曜日

ナチス・ドイツのゲシュタポに虐殺されたロシア人の母親に幼児がすがり泣き続けた。

第2次世界大戦のドイツ占領地域において、ナチス親衛隊の秘密国家警察であるゲシュタポは恐怖政治支配するために情け容赦ない冷酷な拘禁や虐殺と強制収容所移送を強制した。反抗したパルチザンや捕虜は絞首刑や銃殺した。一般市民も日常的に残忍な虐待を受け、ゲシュタポに虐殺されたロシア人の母親に幼児がすがり泣き続けた。



2017年8月16日水曜日

沖縄戦のアメリカ軍の掃討により日本軍兵士は火炎放射器と爆薬で死傷して最後には集団自決もした。

太平洋戦争における沖縄戦が、アメリカ軍と日本軍との最大規模で最後の戦闘となった。沖縄戦は1945年6月20日から6月23日に終結するまでに日本軍は本土のために捨て石となり悲惨に壊滅した。アメリカ軍の全掃討により日本軍兵士は莫大な火炎放射器と爆薬で死傷して最後には集団自決もした。


2017年8月15日火曜日

東条英機内閣による多数派の翼賛選挙で軍事派閥となる国民総動員体制の大政翼賛会が官僚統制にされた。

東条英機内閣は、1942年4月30日の第21回衆院選挙に、国民運動総決起大会などで厳しい選挙干渉を行い、推薦候補者で多数派を占めた。その翼賛選挙の講演会を1942年4月29日に開催した。東条内閣により、軍部を排除していた翼賛政治会は3月30日に崩壊して、1940年10月12日に軍事派閥となる国民総動員体制の大政翼賛会が官僚統制にされた。


全国戦没者追悼式 明仁天皇陛下のお言葉(日本武道館)2017年8月15日

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来既に七十二年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

2017年8月14日月曜日

大本営はアッツ島における孤立無援の戦闘を唯一に初めて唯一に日本国民に対して日本軍による玉砕と公表した。

太平洋戦争においてアッツ島にて孤立無援となった日本軍兵士は1943年5月12日から5月29日に全滅した。「最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」大本営から指令された。約2,500名の残兵はアメリカ軍に対して最後のバンザイ攻撃をしてほとんど全員が戦死した。唯一に初めて日本国民に対して日本軍による玉砕と公表した。その後の戦闘は、総員壮烈なる戦死と公表した。



2017年8月13日日曜日

太平洋戦争のタラワ孤島でァメリカ軍の火炎放射器により焼きただれ黒化した日本兵の死体が散乱した。

太平洋戦争にて1943年11月21日から23日にギルバート諸島のタラワ環礁のペティオ島で、アメリカ軍の戦闘により日本軍の約97%が戦死した。アメリカ軍も膨大な死傷者に達して恐怖と悲劇のタラワと呼称した。立て籠もる日本軍兵士に対して、強力な火炎放射器と爆薬で焼死と爆死させた。火炎放射器により生焼けにされ黒化した日本兵の死体が散乱した。




2017年8月12日土曜日

日露戦争で要塞の戦地で撮影された写真から折り重なり散乱した凄惨な日本兵士の死体が集積されていた。

日露戦争において、1904年8月19日から1905年1月1日までロシア帝国の旅順を攻略した。その前哨戦で、標高119mの東鶏冠山のロシア要塞に対して日本軍は8月21日から12月15日まで激戦をして膨大な死傷者を出した。第3軍参謀本部の「戦地に於イテ撮影したる写真」が残存していた。日本軍の軍装をした兵士の折り重なり散乱した凄惨な死体が集積された。



2017年8月11日金曜日

日本軍はサイパンの戦闘末期には民間市民にも入水自殺を強要するため両親を銃殺するも子供たちが海岸を逃げ回った。

太平洋戦争にて、1945年6月15日から7月9日まで日本軍とアメリカ軍が厳しい戦闘し日本軍はバンザイ攻撃をして全滅した。戦闘の末期になると多くの日本人の民間市民は、マッピ山北面の崖から飛び降り入水自殺をした。ある家族が海岸で約45分間ためらっているうちに、日本軍兵士が両親を銃殺した。その子供らは恐怖から必死に海岸から逃げ回った。





2017年8月11日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 50,000回

2017年8月10日木曜日

長崎原子爆弾の爆風と熱射により路面電車は脱線して完全に圧壊して即死した乗車員の死体が散乱した。

長崎原子爆弾が炸裂した翌日の1945年8月10日における爆心地から南西約200mにて路面電車が被爆した。路面電車は、原子爆弾の爆風と熱射により脱線して完全に圧壊した。その崩壊した車内の乗車員はほんど全員が即死した。衣服は黒焦げになり、はみ出た身体が重度の壊死性の火傷で黒化した死体で散乱した。



長崎原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月9日水曜日

長崎原子爆弾の熱線や爆風から放射能により爆死した死体が腐乱して異臭を放ち白骨状態となった。

長崎原子爆弾が炸裂した被爆実態を、長崎市原爆史料保存委員会は1949年に爆死者は約73,900名、傷病行方不明者は約76,800名と推定した。爆心地から東に約600mの長崎医科大学は壊滅的に崩壊した。その玄関の付近で約1ケ月間は経過しても重度に被爆した死体が放置された。熱線や爆風から放射能により爆死してから腐乱して異臭を放ち白骨状態となった。


(長崎原子爆弾から2017年8月9日午前11時2分で72周年、死没者名簿数 175,743名)



長崎原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。

2017年8月8日火曜日

長崎原子爆弾が炸裂して14歳の女子が全身の熱傷と放射能の被爆をして入院するも急速に重篤となり死亡した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に炸裂して14歳の女子の学徒が長崎市内にて全身の熱傷と放射能の被爆をした。爆心地より約17km離れた大村海軍病院に8月10日に搬入された(写真上)。重傷な壊死したやケドであるも十分な手当もできずに、8月12日には重篤となりベッド上で点滴するも死亡した(写真下)。




長崎原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。



2017年8月7日月曜日

国民学校の学生が広島原子爆弾で全身に重傷の火傷と放射能を浴びて苦悶して死亡した。

広島原子爆弾の炸裂によって、国民学校の学生が全身に重傷の火傷と放射能を浴びた。特に着衣していなかった頭部から顔面さらに四肢にかけて拘縮して黒化して壊死に陥った。救護所に搬入されるも、十分な手当もできずに、苦悶しながら数日で衰弱して死亡した。


広島原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月6日日曜日

広島原子爆弾により女子学生は顔面がただれた重傷の火傷と全身に放射能に被爆して広島日赤病院に搬入され数日で死亡した。

広島原子爆弾が72年前の1945年8月6日の午前8時15分に炸裂した。学徒勤労動員であった女子学生は、顔面がただれた重傷の火傷と全身に放射能に被爆して広島日赤病院に搬入された。8月10日まで放置されて治療も受けられずにゴザに寝たきりとなった。「水! 水!」と叫びながら、傍らの水も飲めず、やがて衰弱して数日で死亡した。


(広島原子爆弾から2017年8月6日午前8時15分で72周年、死没者名簿数 308,025名)

広島原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月5日土曜日

広島原子爆弾で西練兵場付近は2名の兵士が一部に火傷あるも内蔵の脱出もない爆圧による即死と記録された。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に大爆発により炸裂して、広島市内は一瞬に壊滅して全滅した。凄まじい爆風、熱射、放射能でほとんどの広島市内の約140,000人の住民らは死亡した。爆心地から約500mにて中国軍管区司令部がある広島城の南側の西練兵場付近で、兵士は眼球が飛び出して、強烈な爆圧で急激な気圧の変化による即死と記録された。2017年8月6日で72年目を迎える。


広島原子爆弾の詳細は日本原爆の会 ( Japan Atomic Bomb )を参照する。


2017年8月4日金曜日

第1次世界大戦のドイツ軍がロシア大軍を膨大に虐殺した勝利が、第2次世界大戦の誘因に繋がった。

第1次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍のパウル・フォン・ヒンデンブルグ司令官は、ロシア大軍を膨大に虐殺して勝利した。対戦の勝利の記録では波状攻撃して撃退された死に行くロシア兵の死傷者は数え切れていない。ロシア戦死者の死体は集団埋葬するまで放置されて散乱した。戦後に司令官は大統領になり、政権をヒトラーのナチスに譲った。ロシア軍の撤退は精神的衝撃となり、ロシア革命から政権はスターリンに繋がり、第2次世界大戦の誘因となった。


2017年8月3日木曜日

ナチスドイツ親衛隊が無抵抗のユダヤ人の母親と子供に狙撃銃で狙いを定めて銃殺した。

第2次世界大戦にナチス・ドイツ軍はユダヤ人を、神前に供える生贄とするホロコーストとして大量虐殺をした。東部の占領領域にて、ナチス・ドイツ親衛隊の戦闘員が、平原上にて無抵抗のユダヤ人の母親と子供の頭部に狙撃銃で狙いを定めて銃殺する直前であった。その付近の住民らには、彼らの近辺では親子の埋葬用するため墓穴を強制的に掘り込ませた。