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2023年2月9日木曜日

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。

第二次上海事変が1937年8月13日に勃発して、上海の八字橋付近の中国国民党軍の陣地に、8月17日には国民党軍は中国人戦死者を放置して残存したまま退却した。八字橋を挟んで日本軍と国民党軍が一進一退の戦いをした。多くの兵士が犠牲となり、宝山路、宝興路付近まで焼土と化し、多くの住民が家を焼失した。特権的外国人居留地である日本租界の北西部が戦場となった。毎日新聞の八字橋の写真を、日本軍が検閲をした修整の指示は「死体を消すこと」であった。写真に受入日や説明の他、検閲記録が記載された。戦地で撮影した写真は、日本軍の検閲を受けなければ、新聞に掲載できなかった。写真には不許可となるも、修整の上で許可となった。




 1937年8月9日に国民党軍の張治中らが、日本海軍の特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が殺害された。7月7日に勃発した盧溝橋事件から日中和平交渉の最中に大山事件が勃発した。8月12日に、中国の国民党軍の約3万人が、上海の日本租界を包囲した。八字橋に駐屯していた特別陸戦隊はわずか約4千人で、日本領事館は在留日本人を避難させた。緒戦は、8月13日午前10時30分に、商務印書館付近の国民党軍が、日本軍の特別陸戦隊に機銃掃射を浴びせた。午後4時54分に、八字橋の方面から中国の国民党軍が急襲して第二次上海事変が勃発した。

 上海ではドイツ製などの最新の兵器を持った国民党軍に対して寡兵の特別陸戦隊が奮戦した。特別陸戦隊は八字橋で約10倍の国民党軍に対して約5時間にわたり防御した。8月16日には国民党軍が大挙して特別陸戦隊へ押し寄せて、日本軍は戦車と装甲車で防戦した。その後も国民党軍は攻撃を続け、約7万の大部隊まで増強した。ようやく8月18日から8月19日に横須賀と呉からの特別陸戦隊が上海へ約6千3百人に増援した。

 8月22日未明には支那軍は戦車とともに大挙して攻勢に出て、日本軍の陣地が一部突破された。日本軍は必死に防戦して、夜明けとともに国民党軍の攻勢も停滞した。更にその夜からも国民党軍が各戦線で攻撃を行い、8月23日に激戦となるも、特別陸戦隊はかろうじて防衛した。8月23日から日本陸軍部隊も上海に上陸を開始して、特別陸戦隊は守り切った。8月25日以降は国民党軍は日本陸軍部隊を攻撃対象となった。




2023年2月3日金曜日

第二次上海事変にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂して、上海最大の繁華街は流血の修羅場と化した。

第二次上海事変(1937年8月13日から11月12日)にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂させた。多数の中国人だけでなく、外国人にも死傷者が出た。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には手足の吹き飛ばされた死体や瀕死の人で溢れた。街頭の車が炎上して、爆風で瓦礫が散乱した。その惨状を撮影して記録した『支那事変写真帖第一集』の写真集を、上海の玉川写真館が、第三艦隊報道部と上海日本総領事館に検閲後に、1937年10月に発行した。

 8月14日に、上海にて中国軍の戦闘機による誤爆と共にあらゆる戦争の悲劇が出現した。中国軍が戦闘機を初めて使用して、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日にわたり中国軍の戦闘機は上海上空から急襲を繰り返した。日本軍は高射砲によって中国軍機を迎撃した。中国軍機の誤爆による大惨事は8月14日4時半に勃発した。2発の爆弾が国際共同租界に、もう2発がフランス租界に投下して炸裂した。およそ約600人(ほとんどは中国人)が死亡して、約11,000人が負傷した。

 それに続けて2発の誤爆が、パレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落下して炸裂した。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には死体や瀕死の人で溢れた。その後さらに2発が、エドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちて炸裂した。現地上海のフランス警察は、死者は約445人と負傷者は約828人と推定した。中国空軍に爆撃されたキャセイホテル前の惨状では、壊れた自動車や自転車、瓦礫が散乱し、空襲の凄まじさを物語った。犠牲者には大学教授や雑誌編集者、医師など多数の外国人も含まれた。

 8月14日以降も、中国軍の空襲は複数回に及んだ。8月23日正午12時50分頃には先施公司第二楼に中国空軍の爆弾の投下により炸裂した。その誤爆は惨状を呈して、即死者は約160人以上と約470人余の負傷者が出た。先施公司は上海を代表するデパートの一つであり、白昼に繁華街への攻撃を受けた。当時の上海は欧米各国の要人や特派員が常駐し、国際世論に直結する土地柄だった。日本軍は宣伝工作を十分に尽くさないまま軍事的な報復に踏み切った。一連の攻撃で中国軍が用いた爆撃機はアメリカ製であった。第二次上海事変は、日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど、流血が多い戦場と評された。




2023年1月26日木曜日

第一次国共内戦にて、1930年7月27日に中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。中国共産党軍が残虐に虐殺した国民党軍や民間人の死体が、長沙の路上に散乱した。

第一次国共内戦にて、国民党軍と地方軍閥間に1930年5月11日に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日に、中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。湖南省の長沙にて、中国共産党軍が残虐に虐殺した死体が、繁栄していた市場に散乱してすべてが焦土と化した。

 1930年8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。湖南省長沙で約1万人以上の共産主義の容疑者が逮捕されて処刑された。さらに、最初の1カ月間の戦闘は残忍を極めた。湖南省だけでも約38万人以上の民間人が殺害された。国民党の残虐行為は限りがなかった。1928年には、約31万人以上の民間人が国民党軍の命令で殺害された。国民党軍も中国共産党軍もさまざまな残虐行為を執行した。相手が誰であれ、同情することもなく、両軍はしばしば罪のない民間人を殺し、大規模な処刑を執行した。

 中国共産党は1927年7月13日に対時局宣言を発して、国民党との国共合作の終了を宣言した。中国共産党は武力闘争を開始して、8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返した。国民党軍は、第一次国共内戦にて共産党軍を鎮圧した。共産党が引き起こした武装闘争の内戦は局所的であり散発的であった。1928年10月10日に、中華民国の南京国民政府主席に就任した蔣介石は、中国の近代化を推進する改革を行った。国民党軍の北伐は継続されて、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒した。

 南京国民政府でも、反日世論が高まっていたが、蔣介石は日本との国力の差を考慮した上で、中国国内統一による国力増強を最優先目標とした。反共主義の立場から、抗日政策より、中国共産党との戦いを優先した。1931年11月7日に中国共産党が瑞金に江西省ソビエト共和国を樹立した。

 1930年5月11日には反蔣介石連合運動との内戦の中原大戦が起こり、両軍合計100万の軍勢で約30万の死傷者が出た。国民党軍と地方軍閥間に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日には、中国共産党軍が約1万の兵力で湖南省長沙を占拠し、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。8月15日に閻馮軍から済南を奪回した。9月18日に、張学良が蔣介石支持の態度を表明して、東北軍の関内進駐によって蔣介石軍が勝利して、蔣介石の勢力は強化された。毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下で、農村を中心として支配領域を広げ、1931年11月7日に江西省に中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)を樹立した。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。






2022年10月25日火曜日

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三(Yu Zisan)が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。学生死亡事件である于子三事件は、国民党政府が長江デルタ地域の学生運動を組織的に弾圧した一連の虐殺事件であった。犠牲者の于子三は、浙江大学農学院農学部の4年生であった。国民党政府に秘密裏に逮捕されて、獄中死した。逮捕される前に、于子三は浙江大学学生会会長を務めて、新民主青年会華家池支部と新潮会の学生会の活動、浙江学生会と全国学生連合会の連携も担当した。

 于子三は10月25日に同窓生の結婚式に出席するために杭州に入り大同ホテルに一泊した。10月26日午前2時に、国民党中央委員会浙江部は数名の工作員を送って、彼の他に3人の学生とともに密かに逮捕した。浙江省保安司令部の刑務所に強制連行した。国民政府支配地区の学生運動を壊滅させる目的で、中国共産党地下組織の手がかりを得るために、厳しい拷問を受けた。10月29日午後6時頃に、于子三は獄中で虐殺されて息を引き取った。国民党側は、杭州市を封鎖して、事件の拡大を阻止した。他方、共産党側は于子三事件を最大限利用して、学生運動を拡大した。

 于子三が虐殺された死後に、国民党政府は于子三はガラスで喉を掻き切って自殺したと主張した。10月31日から杭州市全域に戒厳令を敷いた。中華民国教育部は、浙江省の学生によるストライキを阻止した。1947年11月20日に、裁判所は他の3人の学生の陳建新、黄志民、李伯錦の3人に7年の懲役を言い渡した。11月3日に銭英が率いる中国共産党上海局青年部は、闘争規模を拡大して、連帯して学生運動を展開した。1948年8月下旬までに、全国20都市以上で累計10万人以上の学生がストライキを行い、約15万人以上が集会やデモ行進、連帯活動に参加した。

 日中戦争の終結後に、国民党軍が1946年6月26日に共産党軍に全面侵攻する国共内戦が勃発した。1947年3月には戦況が不利となり、国民党軍の蔣介石は全面侵攻から重点攻撃へと方針を転換した。共産党軍が盛り返して国民党軍が後退し始めた。最終的に1949年12月7日に国民党軍は内戦に敗戦して台湾に撤退した。




2022年10月19日水曜日

「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」として、1934年に満州国内の戦闘で戦死した日本軍兵士の慰霊に、馬賊の報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

満州国が、1934年3月1日に清国の最後の皇帝である溥儀が、満州国の皇帝に即位して、満洲国佈告1により日本軍が中国東北地方に建国した。1934年頃に「満州国軍戦没官兵慰霊に供せられた死体」と写真に記載された。1934年に満州国内の戦闘にて戦死した日本軍兵士の慰霊に対して、馬賊に対する報復として虐殺した2人の中国人の死体を見せしめにした。

 2つの死体に、人間の頭部が身体上に置かれた。左側の死体の傷面は非常に不規則で、右肩から左腰にかけて不明瞭な傷口であった。身体は爆破されて、頭部は白骨化して、頭蓋骨の後頭部は半分に欠けた。頭部の眼窩、顎、頬の組織はわずか残存して、黒焦げになった。犠牲者は爆発で死亡した中国人女性の可能性が高い。爆発力の巨大な衝撃で上半身と頭蓋骨の半分が吹き飛ばされて、炎上して焼死した。右側の死体は、若い中年の中国人男性であり、周辺の深部組織はまだ残存していた。2つの死体は死後に、死体が硬直していないときに、意図的に見せしめに配置された。

 中国人の匪賊は、山中の村落に潜伏して、中国人の村民は仲間と見なして、匪賊に労苦を惜しまず相互扶助した。日本軍による村落における匪賊の討伐や掃討は、困難を極めた。満州帝国の建国によって、匪賊を弾圧すれば、より反日一辺倒の勢力となった。日本軍は、満州国の建国に向けて、中国人に迎合するのに馬賊として、義賊として、大衆には義軍性を誇示した。馬賊も、勃発した満州事変によって日本軍は消滅させた。

 日露戦争中に、中国人の反抗する自衛団であった匪賊を、日本軍は馬賊と呼称した。馬賊をして義賊とすれば、日本軍は義軍であると自負した。中国人の官憲は匪賊と見下したが、日本軍は自ら義軍として、馬賊として見なした。もしもし匪賊は、日本軍から被害や攻撃を受けていた。匪賊の勢力が増して、権力をは把握してくると、馬賊として取り込んだ。中国の腐敗した政権には、兵匪や官匪と悪評した。自衛団も民衆も、都合の悪いものは匪賊とした。




2022年9月23日金曜日

日中戦争の南京事件が1937年12月13日に勃発した。南京大虐殺が頻発して、中国民間人は薪を積み上げてに油をかけて焼かれて殺害された黒焦げの死体が散乱した。

日中戦争の南京事件が1937年12月13日に勃発した。南京大虐殺が頻発して、中国民間人は薪を積み上げてに油をかけて焼かれて殺害された黒焦げの死体が散乱した。焼け残った者の服装は民間人のものばかりだった。南京の長江川辺で、日本軍に殺害された後に、焼かれた南京市民の死体が散乱した。(村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線)。写真は、元日本陸軍自動車第17戦隊第2級の村瀬守保が、南京事件が勃発して、約1週間から10日以内に撮影した。

 当時の南京の現場では、「新聞掲載事項許否判定要領」という陸軍の検閲制度が実施された。四、左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵又は支那人逮捕尋問等の記事写真中虐待の感を与うる虞れあるもの (14)惨虐なる写真 但し支那兵又は支那人の惨虐性に関する記事は差支なし――とあり、一般人は虐殺現場の写真など撮影できる状況ではなかった。日本軍の兵站自動車第17中隊の村瀬守保氏が撮影した。彼は報道カメラマンではなく同中隊の非公式な写真班という立場で、検閲を受けずネガを保持できる状況にあり、信憑性の高い写真である。その状況下でも、当時識字率の低かった中国国民に事態を知らせる国民党等が、中国側からはいわゆる「ヤラセ写真」が出てくる結果となった。

 南京事件により、膨大な死体が南京周辺に残された。死体の処理と埋葬が遅延すれば、死体が腐敗して膿瘍化した死体の悪臭が漂う。さらに長い間放置すれば、地域の水道を汚染して飲水など環境汚染が、深刻な事態になる。日本軍は南京事件の死体を適時に処理するために、薪に油を注いで火葬した。




2022年8月24日水曜日

中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑を強行した。街路上に、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行して、死体を切り苛めた。

1931年10月には、中国共産党は江西省瑞金に中国ソビエト政府を樹立した。11月7日に中国ソビエト共和国憲法を決議して、共産党内における粛清が強行された。テロ行為により、数千人にも及ぶ反革命派らが悲惨に処刑された。その後の4年間で約128,075人も殺害された。中国ソビエト地区において、中国共産党は反革命派に対して警察隊が死刑が強行した。街路上において、死刑執行人が民衆に公開した断頭による首切りを執行した。さらに首切りした死体を切り苛めた(支那: 列国に於ける共産主義運動, 1936年)。断頭するのに、囚人はひざまづいて並び、両手を後ろに縛られた。処刑人が刀を振り上げて切ると、囚人の頭は地面に転がる前に躊躇していた。頸動脈から大量の血液が噴出し、身体は急に脱力してゆっくりと血の海に倒れ込んだ。近年は公開処刑の首切りは、世界でサウジアラビア、カタール、北イエメンの3ヵ国のみである。 

 中国国民党の孫文は1924年に中国共産党に門戸を開放した。1925年3月12日に孫文が北京で死亡した後に、国民党内の左右派の抗争が勃発した。5月15日に、上海日本紡績工場の中国人労働者がストライキを挙行して、大衆デモに発展して5月30日に、警察隊が発砲して、死者4人と負傷者24人を出した五・三〇事件が勃発した。国民党の蒋介石は、中国農民を階級闘争に巻き込む中国共産党に対して、1926年3月20日に広東でクーデターを断行して、7月初旬から全広東軍を北伐させた。12月に占領した漢口に武漢政府を移管した。1927年1月30日に漢口にて英国租界を襲撃した。漢口だけで1926年1月から5月までに、反革命者約3,252人、反動家約1,461人など約7,433人が射殺された。国民党の蒋介石は、3月22日に北伐軍を上海に侵攻させて中国共産党を弾圧した。4月上旬には、南京と広東にも武装解除して、南京政府を樹立した。

 1927年12月11日に、広東で中国共産党の暴動が勃発した。軍事力が優勢な国民党軍が、広東に侵攻して一網打尽に蹂躙した。広東は、一気に阿鼻召喚の巷と化して、約2,000以上もの多数の老若男女が殺戮された。共産党は、上海・武漢・広東でも悲惨な敗退を繰り返し、絶滅を免れるために、全てが山脈が防壁となる中国の奥地の江西省に遁走した。共産党は、江西省にて無知なる農民大衆の洗脳を強化して、土地・金銭・生命を略奪した。1931年2月と7月に、国民党軍が近代兵器の討伐軍を派遣したが敗退した。国民党軍による持久的遮断と封鎖により、兵站が途絶えた共産党軍は1934年7月に瑞金を放棄して、1936年11月まで陝西省延安への長征を挙行した。



 






















2022年8月18日木曜日

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士から、日本軍に殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士は、上海市宝山区に位置する大場鎮にて殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。1937年10月26日、日本軍の上海派遣軍は上海近郊の要衝である大場鎮を攻略して、10月27日に、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。大場鎮を陥落して、上海はほぼ日本軍の制圧下になった。11月9日には中国軍は退却を始めて、上海は日本軍の占領下に置かれた。

 日本海軍陸戦隊が、1937年8月23日に上海の呉淞鎮に上陸した。10月23日から総攻撃をして、10月25日に廟行鎮、11月11日には南翔の堅塁を陥落した。さらに北進して、大倉、常熟、無錫に侵攻した。その当時に、上海は人口は約150万人、中国全土の約85%の工場を有して、第一の海外貿易額を有した。上海事変によって、上海市街の大半は壊滅して瓦礫となった。日本人租界の虹口、北閘の一部は、崩壊して瓦礫が散在した。

 上海の市街地の両側の道路で対峙して、向かい合って白兵戦となり悲惨な大量の虐待と虐殺を伴う死闘を伴った。大場鎮向けて二重や三重の塹壕が続いて、中国軍兵士の死体はを納めた棺が放置されていた。塹壕内には血に染った軍服、帯革、水筒、懐中電灯、カンテラ、軍報、笠、食器類など殊にドロドロになった布団の散乱していた。その戦場となった上海の大場鎮の周辺地域では、殺害された死体が放置されて、半ば白骨化していた。

 日本軍は大昌の戦い(10月1日から26日)で、雲沢濱江を渡り、上海市街と西北の郊外の町を結ぶ通信路である大場鎮を奪取を目指した。大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となり、幾度の決死の突撃を繰り返した。日本軍は、約700門の大砲と約150機の爆撃機を投入し、大昌の町は完全に瓦礫と化した。戦闘は非常に激しく、1時間当たりの平均死傷者数は数千人に達し、数日で崩壊した師団もあった。この激戦は10月25日に、ついに大昌が陥落するまで続いた。この時、中国軍は約3ケ月近く守り続けた上海市街地から撤退した。




2022年8月1日月曜日

第二次上海事変にて、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

第二次上海事変において、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

 第一次上海戦終了後の1932年の停戦条件で、1937年8月9日に日本海軍特別上陸部隊の大山功中尉が、違法である上海の鴻橋空港の敷地内に入ろうとした。大山は中国の警官に発砲されて死亡した。8月10日に、日本軍側は中国軍と中国警察組織の和平工作団の上海からの撤収を要求したが、中国軍側は応じなかった。上海での緊張が高まる中で、日本は邦人保護を名目に、上海へ援軍を派遣して、8月11日に中国軍はついに上海への出兵を命令された。

 8月13日午前9時に、1万人以上の日本軍海軍陸戦隊が上海近郊に上陸して、閘北、武松、江湾地区で交戦状態となり、第二次上海事変が勃発した。その昼過ぎには、中国軍が迫撃砲で日本軍を攻撃し始めた。8月13日午後4時に、黄浦江と長江にいた日本軍の第3艦隊が艦砲射撃を開始した。8月14日に、中国軍の戦闘機が日本軍の戦艦と陣地を爆撃し始めて、中国国民党政府は自衛・抵抗の戦争宣言を出した。午後3時頃に、中国軍の反撃が始まるも、国際海域に強固な陣地を築いた日本軍は、軽武装の中国軍の反撃を圧倒した。8月15日に日本海軍の爆撃機が、長崎と台湾から渡洋爆撃した。8月15日に、国民党政権は、総動員令を出した。8月16日に、中国軍は日本軍の建物に忍び寄り、松明や手榴弾で建物に放火した。日本軍が建物から逃避すると、中国軍の機関銃が日本軍兵士を射撃した。8月17日に、日本軍の軽戦車が中国軍を追い返し、中国軍の反撃は終結して、日本軍の戦線を突破できず多くの死傷者を出した。

 8月18日、中国軍は援軍が到着し、恵山の埠頭を攻撃して戦車の援護を受け、日本軍を撃退した。しかし中国軍は戦車と歩兵の連携不足により、日本軍により再び埠頭を失った。中国軍の攻撃は敗退に終わり、約90人の中国軍将校と1,000人以上の中国軍兵士を失った。8月22日に、日本軍は上海を援護して、上海の北東50kmの荘子口、石林、宝山へ上陸した。中国軍は上陸を妨害できずに、一部は上海から撤退した。8月23日に、日本軍は、柳河、武松、荘内口に再び大規模な上陸作戦を展開した。中国軍は日本軍の新たな上陸に対抗するも再び失敗した。中国軍は夜間攻撃で、いくつかの村を侵攻しても、また村を失った。8月末には、中国軍の残党は包囲された宝山の防衛で全滅し、生き残った中国軍兵士は一人だけであった。10月26日に上海近郊の中国軍の大場鎮が陥落して、11月9日に上海を焦土しながら、南京への全面撤退に入った。最終的に中国軍は限定的な交戦にとどめて、より有利な条件で戦える内陸部での対決に転換した。




2022年7月29日金曜日

中華人民共和国の土地改革法にて、新疆ウイグル自治区富士安近郊で、1953年1月に地主が銃殺によって、中国共産党軍兵士により背中を撃ち抜かれて死刑が執行された。

中華人民共和国の新疆ウイグル自治区富士安近郊で、1953年1月に地主が銃殺によって、中国共産党軍兵士により背中を撃ち抜かれて死刑が執行された。毛沢東の農地改革により、地主の死刑者数の推定値は約150万人から200万人と想定された。特定の地域では、隣人よりもわずかに土地を持っていた無実の民間人が階級の敵として非難されて、他人を搾取した容疑されたとして処刑された。1949年の革命前から、共産党の支配地域に人民裁判所が設置されて、地主は公開裁判という公共の場で、小作人と直接対決して罪を問われた。

 中国の国共内戦後に、1949年10月1日に中華人民共和国の建国宣言の初期に、毛沢東は1950年6月20日に土地改革法を公布して中国土地改革運動に乗り出した。地主を大量に殺害して、小作人の農民への土地再分配を行った。この土地改革運動で殺された地主の人数は、数十万人から数百万人にのぼる。階級闘争を動機とした大量殺戮は、毛沢東の社会・経済変革のほぼ30年間に継続されて、運動の終わりには地主階級はほぼ絶滅した。

 1950年から中華人民共和国は、中国共産党に反対する勢力を根絶するために反革命分子鎮圧運動を開始した。中華人民共和国の初期に頻発した反乱に対応するために、1950年3月に始まり、1953年に終結した。鎮圧運動の対象となった人々は反革命分子のレッテルを貼られ、集団裁判で公に糾弾され、膨大な人数が逮捕・処刑され、さらに多くの人々が労働改造刑に処された。1954年の中国共産党の公式推計では、約260万人が逮捕され、約130万人が投獄され、約71万2千人が死刑が執行された。

 1958年から1962年の大躍進は、毛沢東が主導して、毛沢東は、人民公社を設立し、農耕経済から共産主義社会に転換を図った。穀物の収量を増加を命じて、地方の役人はノルマを達成するために余った穀物を略奪して農民が餓死に陥った。その結果、1,500万人から5,500万人が死亡して、天候不順と食料生産量の減少を伴って、人類史上最も甚大な大飢饉となった。




2022年7月21日木曜日

日本軍兵士は、日中戦争の平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。

1937年7月7日の盧溝橋事件が発端となり支那事変が誘発されて、血みどりの日中戦争が勃発した。日本軍兵士は、平漢戦線の戦闘にて、戦場における死亡傷者の多数の身体を担架に乗せて数人の肩に担いで護送した。平漢線は北平と漢口をつなぐ鉄道であり、中部支那と北支那とを連絡する大鉄道であった。1927年に北京が北平へ改称されて、北京から漢口までの京漢線が平漢線と改称された。7月9日に蔣介石は中央軍に対し、徐州付近に駐屯した中国軍に7月11日夜明けからの河南省への侵攻を命じた。7月10日に約200人以上の中国軍兵士が迫撃砲で攻撃を再開した。7月19日には中国軍兵士を北支那に集結させた。7月12日に両軍の撤兵を条項に含む停戦協定が締結されるも、前日の7月11日に、日本軍は華北への派兵を下令された。中国軍は7月25日に廊坊で、7月26日に広安門で日本軍に攻撃を加えた。日本軍は、7月27日に支那駐屯軍を増援して、7月28日に北京(北平)を陥落して、中国軍は、7月29日に講和を求めずに全面的抗戦に舵を切った。

 北支那の山岳戦と平地戦に、江南の陣地戦にて、壮烈かつ大規模な戦闘が展開された。鬼神も泣くほどの壮烈な激戦と労苦で、幾多の甚大な犠牲者を出した。歴史的な支那事変で、日本軍にとって有利な戦争記録を、皇徳奉賛会が資料を検閲して『支那事変史ー各社特派員決死の筆陣ー』(新聞タイムズ社、1937年12月)を刊行した。日本国民に対して、支那事変の推移に注目させて、近未来を洞察させ軍事的対策の必要性を認識させた。日中戦争の戦線にて硝煙と弾雨の間で、大新聞社から強制派遣された数百人の従軍特派員が、支那事変を取材と記録した。1枚の支那事変の戦争写真を記録するにも、従軍特派員は命がけの撮影となった。

 日本軍は中国沿線の各都市を、軍事上と交通上と商業上に重要視した。平漢線に沿って北京(北平)から南方に向って侵攻すると、約24kmにして蘆溝橋に到達する。支那事変の発瑞をなった盧溝橋にて、日本軍側は中国軍側が演習中の日本軍に向って不法射撃の火蓋を切ったと容疑した地点であった。平漢鉄道は、始めは蘆漢鉄路と称し、神聖な王城の北京にて、夷狄である外国人の手による鉄道の侵入は許し難く、北京郊外の盧溝橋にて支那事変が勃発した。平漢鉄道への攻撃は1938年2月9日に勃発して、徐州戦と連動した。金茶地軍区の中国軍が平漢鉄道沿いの日本軍に攻撃をした。3月4日に日本軍は約12,000人を動員して反撃に転じて、両陣営の戦いが繰り広げられ、日本軍は約1,600人が死傷した。




 

2022年7月6日水曜日

南京の戦いで南京市民の父親は、悲嘆して殺害された息子の男子の身体を抱えながら土蔵の防空壕に逃げ込みんだ。

日本軍が南京城の包囲して攻撃していた1937年12月6日に、日本軍の砲弾が爆破して、中国人の男子が殺害された。南京の戦いで、南京市民の父親は、悲嘆して瀕死の息子の男子の身体を抱えながら土蔵の防空壕に逃げ込んだ。防空壕に到着した時点で、息子の男子は絶命した。約27人の南京在留した欧米人らが設置した土蔵の防空壕の安全地帯(Nanking Safty Zone)に、多数の南京市民が逃げ込んだ。南京の外国人住民も、爆撃、火災、犯罪者の略奪、停電などの緊張の中で混沌とした。11月下旬まで在留した欧米人が、南京市の中心部に南京安全区に、民間人の難民が戦闘から逃れる非武装地帯を増設した。南京が占領された12月13日以降に安全地帯でも、日本軍の戦争犯罪が勃発した。

 南京の戦いは12月1日から勃発して、日本軍は12月13日に南京を占領した。日本軍の爆撃機は頻繁に南京に約50回も空襲を行った。日本軍の爆撃と侵攻に直面して、南京市民の大部分は南京を脱出して、12月初旬までに南京の人口は約100万人以上から約50万人以下に減少した。1931年9月28日の満州事変以降に、中国民国政府は国防計画から、1934年に十龍基地、首都南京に主・副基地を建設した。1937年8月15日から、日本軍は高速重爆撃機をジュロン空軍基地に対して攻撃を開始した。 

 南京城壁の外側では、日本軍の侵攻経路に、溝、堀、鉄条網、地雷原、砲台、要塞などで、南京の城壁外の最終防衛線を設置した。11月20日に中国国民党軍と徴用労働者は南京全体にほぼ50kmに及ぶ石壁で囲み、12月6日までに南京市内に入る全ての門を閉じて、土嚢と厚さ約6mのコンクリート壁を築いた。日本軍の避難所や補給を途絶するために、12月7日に南京市内に焦土作戦を開始した。南京市内から約1~2km以内のすべての家屋や建造物、南京市内から約16km以内の道路に近いすべての家や建造物にも焼却を命じた。南京守備軍は、第二次上海事変でひどく損傷を受けて南京に撤退した。南京守備隊に参戦した中国人兵士は、約73,790人から15万人程度と推定された。日本軍が12月13日に南京城を侵略した直後から、約6週間にわたり南京大虐殺が勃発した。




2022年6月22日水曜日

1939年の日ソ停戦協定後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が自軍の戦死者の死体を回収して、悲壮な死体処理と黙祷が撮影された。

1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 ノモンハン事件と呼称されるハルハ河・ノモンハン戦争が、1939年5月11日から勃発した。日本・偽満州国軍が外モンゴル辺境地域のノモンハン・ブルド・オボー地域のモンゴル軍警備隊を5月11日に襲撃したのが起点となった。5月24日にソ連軍がモンゴルに参入して7月からソ連・モンゴル軍が結成された。日中戦争下において、外モンゴル人が武力によって日本満州軍の侵略に対抗した。ハルハ河・ノモンハンで砲火を焦がして、非常に厳しい戦闘が長期にわたり継続した。武力では優勢でなかったソ連・モンゴル連合軍が反撃した。モンゴルと満州の国境地域であるハルハ河東部で、日本満州軍を撃退した。1940年8月16日にモスクワで日ソ停戦協定が調印されて停戦した。

 日本防衛省史料室は、2013年2月に約2万点のハルハ河・ノモンハン戦争の関連資料を公開した。写真・映像資料は、軍の意図的なプロパガンダを容疑されるが、細部まで鮮明に撮影された写真・映像資料は視覚的な歴史記録であり、臨場感も高く真実に強く迫る。無声の映画資料「日本軍の遺骨,1939年」が、ドキュメンタリー映画「ハルハ河の英雄」の作成元となった。1939年の停戦後に、ハルハ河・ノモンハンの戦場において、日本軍兵士が、戦死者の死体を回収して、悲惨な死体処理が撮影された。日本軍兵士の死体が、至るところの荒野や丘に散乱して横たわっていた。ハルハ河・ノモンハン戦争で生き残って、白いシャツを着て担架で運搬した。その後にトラックに積み込んかだ。日本軍兵士の戦死者の死体を素手で回収して、火葬して埋葬した。その後に荒野の埋葬地で、日本軍兵士は取り囲み黙祷した。

 1939年5月から9月の激闘で、日満軍の戦死者は約18,155人、戦傷・行方不明は約3,534人に上った。ソ連軍は、戦死者は約9,703人、戦傷病者し15,952人に及んだ。モンゴル軍は、死傷者は約990人に上った。 1939年9月15日にハルハ河・ノモンハン戦争に対して、日ソ停戦協定が成立した。9月27日と9月29日、1940年4月27日に、日満軍とソ連モンゴル軍は、捕虜交換した。1941年4月13日に、モスクワで日ソ中立条約が締結された。





2022年6月13日月曜日

南京郊外にて、近くを歩いた物売りが怪しいと、日本軍兵士が部隊の裏手へ強制連行した。直後に一発の銃声が聞こえ、現場では中国人農民が射され死体が横倒しとなった。

日中戦争から南京事件が1937年12月に勃発した。南京郊外にて、その近くを歩いていた物売りが怪しいと、日本軍兵士が、部隊の裏手へ強制連行した。その直後にズドンと一発の銃声が聞こえた。現場に行ってみると中国人農民が射されて、死体が横倒しとなった。南京郊外で罪のない中国人の農民が撃ち殺された。日中戦争の戦場の狂気が、人間を野獣にかえてしまう。 

 非公式の写真班であった村瀬守保は1937年7月に日本軍に召集された。輜重兵として天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国大陸を約2年半にわたり転戦した。カメラ2台を持って、関東軍の中隊全員の写真を撮影した。非公式の写真班として認知され約3,000枚の写真を撮影した。日中戦争下の日本軍兵士を、克明な写真記録は戦争の実態を百聞は一見にしかず伝達した。一方で、その写真集には南京虐殺の現場や慰安所など、侵略の真実も撮影された。村瀬守保『新版 私の従軍中国戦線一兵士が写した戦場の記録』日本機関紙センター, 1987年3月10日出版で戦争写真を公表した。文字や絵だけより、写真は確かな戦争の証拠であり、戦争写真の意義は大きい。

  南京事件は、中国人に対する集団虐殺が勃発した。満州事変以来、日本軍の中国における軍事行動には、尊厳や生命の保護とはかけ離れ中国人を蔑視した。日本軍が戦闘後に捕えた中国人兵士等は、国際法上の捕虜ではなく、反乱集団として組織的に虐殺した。包囲殲滅戦となった南京では、大部分の中国人兵士は士気を消失して敗走し、多くは投降兵・敗残兵・便衣兵(普段衣を着た兵士)の捕虜として捕えられて殺害された。捕虜として収容する前の戦闘中でも、武器を捨て無抵抗者を現場で殺害することは、人道に反する行為である。

 非戦闘員である一般市民の殺害は、戦闘の巻き添えではなく、日本軍兵士の故意的な軍事行動によって犠牲になった。上海派遣日本軍は上海での激戦で多くの損害を出して、中国人に対する蔑視と敵愾心が強く、一層の蛮行を伴った。食糧は全て徴発と称した略奪、徴発などの途中で女性の強姦、摘発した日本軍兵士が殺され、報復として部落全体を焼き払い、老人・子どもを含む市民を皆殺しにした残虐行為は、日本人、中国人双方の多くの証言がある。南京事件は、軍隊が平凡で優しい人間を異常な殺人鬼に変えてしまった。日本軍は南京で無差別に殺害する日本軍兵士を容認し、兵士たちは民間人を殺すために戸別訪問した。多くの人は殺害に夢中になり、完全に殺人になり、人を殺すことに喜びを感じた。

















2022年6月10日金曜日

満州事変が勃発した後に、満州の荒野にて、関東軍兵士が塹壕に潜伏していた中国軍兵士を軍刀一閃して、断頭して殺害した。

満州事変が1931年9月18日に勃発して、日本軍の関東軍が、中国東北部の満州を侵略した。満州の荒野にて、関東軍兵士が塹壕に潜伏していた中国軍兵士を軍刀一閃して、断頭して殺害した。中国軍兵士の頸部から壮絶な血煙が放出して死亡した。塹壕の周辺にも、中国人の死体が散乱した。戦争中の軍刀一閃の写真は、関東軍からその撮影の出来が称賛された。読売新聞社の藤沢特派員が、軍刀一閃の瞬間を撮影した。




2022年5月26日木曜日

第一次上海事変にて、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、日本軍は中国国民党軍兵士の死体の上を突進した。

第一次上海事変にて、日本軍は1932年2月22日に、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、中華民国軍兵士の死体の上を突進した。アサヒグラフ(朝日新聞社)は、1932年1月28日に、第一次上海事変が勃発すると、朝日新聞社の記者たちはいち早く上海の戦場に駆けつけて、戦闘の様子を写真に収めた。第一次上海事変の写真において、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実を映し出した。中国の大都市を蹂躙する近代的な日本軍の軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の姿を見出した。戦場における死体も含めて戦争の悲惨さを公表した。その後に、日本の政治家や軍部幹部は、中国での戦闘に対する国際的な抗議に驚嘆した。そのために第二次上海事変(1937年8月13日)から南京陥落(1937年12月13日)したときに、日本のマスコミはひどい都市部の破壊の写真を何枚も掲載したが、中国人と日本人にかかわらず殺害された死体の写真は掲載できなかった。

 1930年代初頭に、日本軍による中国への軍事介入に関するメディア報道は、朝日新聞社の特派員は、日本軍の中国での主力部隊である関東軍の跡を追った。満州事変(1931年9月18日)から第一次上海事変(1932年1月28日)、済州島事件(1933年1月3日)を写真による特報を制作した。軍事事件の報道は、アジアで他の追随を許さない無敵の日本軍軍隊が、挑発されて、必要に迫られて軍事行動することを国民に過信させた。1937年まで、満州と中国における日本軍の動きを取材できるメディアは、自社の報道用飛行機を持つ朝日新聞社が最も優れていた。ライバルの新聞出版大手である毎日新聞社は、1937年に中国特派員と『中国前線』誌で対抗する特派員部隊を設立した。1938年2月には、内閣情報調査室(後に室、最終的に局へ昇格)が『写真週報』を創刊した。

 日本軍は第一次上海事変にて、在留日本人を含む国際社会を、中国国民党軍の暴力的な軍事行動から守るために迅速に軍事行動し、中国人の反乱軍が鎮圧されて秩序が回復されて、日本軍の軍事行動は完結したと物語化した。日本軍兵士が上海の都市部の道路を封鎖して、日本の権益を警備した写真を多く掲載した。上海の街を、日本軍の装甲車が巡回して、日本軍旗を掲げて、日本軍の統制を写真で誇示した。




2022年5月10日火曜日

南京大虐殺により、南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機から投下された爆弾により虐殺された3人の子供の死体が路上に捨てられ散乱した。

南京大虐殺により、日本軍による空爆により虐殺された3人の子供の死体が路上に散乱した。南京の路上で悲劇的に殺害された中国人の3人の子供たちの死体が、南京の道端にさりげなく捨てられていた。南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機によって投下された爆弾により殺害された3人の子供たちの死体である。

 1937年12月1日に日本軍は南京攻略を命令されて、12月13日に南京を占領した。12月7日早朝に、蒋介石は宋美齢と廬山に向けて故宮飛行場を飛び去った。12月12日に中国軍指揮官には撤退命令が下り、その他の兵士や民衆は、南京に取り残されて烏合の衆となった。12月13日から約6週間にわたり無差別の南京大虐殺が勃発した。南京の占領中に、日本軍は虐待、虐殺、強姦、略奪、放火、捕虜や民間人の処刑など、数々の残虐行為を犯した。民間人に潜伏した中国軍兵士を掃討する名目で始まるも、虐殺が攻勢すると、多くの無実の民間人が敵の戦闘員として特定されて虐待と虐殺された。極東国際軍事裁判では、少なくとも約200,000人の死傷者と約20,000人の強姦と推定した。

 第二次上海事変の3日目1937年8月15日の13時30分に、16機の日本軍爆撃機が南京に到着し、約4ヶ月にわたる日本軍機による南京爆撃が勃発した。中国の統計によると、1937年8月15日から12月13日まで、南京は約118回にわたり日本軍の爆撃機から攻撃を受けて、約1,357個の爆弾を投下されて炸裂した。南京の中国人約430人が死亡し、約528人が負傷して、約1,697戸が破壊され、南京市内の交通や道路に大きな被害を受けた (国民政府軍務委員会政治部:「日冠暴行実録」1938年)。

 その写真を含んだ「日冠暴行実録」は、国民政府の軍事委員会の政治部門の第3事務所によって編集され、1938年に香港で発刊された。実録の写真は、爆撃、燃焼、殺害、レイプ、略奪、迷走などの部分に分類された。その中で、多くの写真は南京大虐殺の戦争犯罪を反映した。日中戦争中に、中国軍兵士が、日本軍の囚人からの多くの写真を発見した。その写真は、侵略戦争中に、日本軍兵士が犯した、レイプ、燃焼、殺害、無差別爆撃などのさまざまな戦争犯罪を記録した。1938年11月12日の長沙大火で、書籍のほとんどが焼失した。




2022年5月5日木曜日

日中戦争勃発直後の1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海に投下された爆弾の炸裂による民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。

日中戦争の第二次上海事変にて、1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海市内に投下された爆弾の炸裂により甚大な民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。8月14日朝に、中国空軍のパイロットは日本軍陣地に爆弾を投下し始めてから、中国空軍の上海爆撃事件が勃発した。中国空軍の飛行機が黄浦江上空を旋回して、日本軍艦の出雲を攻撃して、爆弾が爆発した。中国空軍の爆撃機から南京路と外灘の角に3発、フランス租界の大世界ビル前に2発の爆弾が落ちて炸裂した。中国空軍が空爆に約1,200人の民間中国人を巻き込み一瞬にして殺害して、数百人の負傷者が地面に倒れた。

 1937年8月14日に2つの爆弾が、大量の難民収容所となった泡井路の大使館劇場の玄関先で爆発し、甚大な殺害場所の一つとなった。最初の悲劇は、午後4時27分に起こった。黄浦江を下る上空に飛行機の一群が現れ、すぐに日本軍の出雲が、高射砲の弾丸を放って、榴散弾が市街地に降り注いだ。中国空軍の爆撃機6機は、厚い雲の中に消えて、日本軍の砲火を逃れた。後方の4機は外灘上空を飛行中に爆弾を投下した。2発は川で爆発し外灘に高波を巻き起こした。残りの3発は南京路に落ちた。上海市の南京路における1番目の爆弾は、キャセイ・ホテルの入口のすぐ前の道路に落下して炸裂した。2番目の爆弾は、パレス・ホテルの屋根を突き破り、約3階を突き破った。3つ目の爆発はキャセイ・ホテルの7階を破損した。ホテル内の爆弾の炸裂により、2つのホテルの全長に、歩道や車道には砂利や木片、外壁からはがれた石などが散乱した。頭、足、腕が、粉砕された胴体から離れて横たわった通行人たちのバラバラ死体が散乱した。キャセイ・ホテルでは建物内部まで吹き飛んで、一番奥の店の窓までが粉々になった。砕けた石組みは揺れ、外れ、舗道の上に崩れ落ち、窓や板ガラスの扉も一緒に落下した。燃え盛る車は煙を吐き出し、ねじれた車体の上で渦を巻いて、中には乗客を乗せて焼かれた車もあった。

 民間中国人の死傷者の数は甚大となり、特に大世界の近くのフランス租界側で救助隊が処理した死体数は約435体に及んだ。約139人の負傷者が病院に運ばれる途中で死亡し、約87人の負傷者は治療中に命を落とした。その犠牲者の内訳は、男約563人、女約51人、子供約47人に及び、犠牲者のほとんどは民間中国人であった。大世界の近くでは、死体があちこちに見られ、ビルに沿って歩道に散乱し、信号機の周りで人力車に数十人が詰め込まれた。大世界の入口には約300死体以上、反対の角にはさらに100死体が積み上げた。上海の高温多湿の気候の中で、腐敗する死体を集団墓地で一刻も早く死体を埋葬処理した。




2022年5月3日火曜日

日露戦争の葉書の表題には「露國良民ノ惨殺屍体」と記載され、ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体とも解釈された。

1904から1905年頃の日露戦争の葉書の表題には、「露國良民ノ惨殺屍体」と記載された。ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体と読める。この虐殺の状況には何の脈絡も説明もない。文法的には、虐殺されたロシア人の死体という意味にもなり得る。表題の解釈は見る人の思い込みによった。日露戦争では、木版画が戦場のドラマや血なまぐさい様子を伝えた。日露戦争の戦死者を撮影した写真は存在するが、まだカメラで写真を撮影するのはかなり困難であった。
 1904年8月10日発行(東陽堂)の『風俗画報』の「ロシア征服の図10」の表紙では、山本庄弥により、モチアン峠での戦闘で数十人のロシア軍兵士を切り倒す日本軍の吉井中尉を描いた。吉井中尉の正確な剣によって、ロシア軍兵士の頭部が切り裂かれ、血の塊の中からほとんど見えない二つの目が覗き込んでいた。このような版画の様式やテーマは、人殺しや幽霊などの扇情的な絵を得意とした江戸時代の浮世絵師たちの影響を強く受けた。カラー版の原画は、ロシア軍兵士や吉井中尉の刀や鞘を深紅の血が覆っており、陰惨な絵画であった。1930年代頃から、日本がアジアに文明開花をもたらす存在になると、野蛮で血みどろの描写はマスコミから敬遠された。
 上海事変の頃の写真には、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実が映し出された。上海事変写真画報(1932年2月22日、16-17頁、朝日新聞社)の表題全体には、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化した! 我が海兵隊は敵の死体の上を突進する" と記載した。上海事変による死体も含めて戦争の悲惨さをありのままに伝えた。大都市を蹂躙する日本軍の近代的な軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の写真を撮影した。中国での戦闘に対する国際的な抗議があり、日本の政治家や軍部の指導者は写真を驚異と捉えた。日中戦争が勃発した後の1937年末に第二次上海事変と南京が陥落したとき、日本のマスコミはひどい都市破壊の写真を何枚も掲載した。しかし、中国人、日本人にかかわらず戦争による死者の写真は掲載しなかった。