2022年5月31日火曜日

太平洋戦争のニューギニア島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍が敷設した地雷原に命中して爆破されて殺害された。

太平洋戦争のニューギニア島の戦いにて、日本軍兵士はアメリカ軍が敷設した地雷原に命中して爆破されて殺害された。日本軍兵士は、戦場に迷い込んでほふく前進して抜け出そうとした。日本軍兵士は抜け出せる数メートル直前で、地雷が接触して爆破されて無惨な死体に化した。

 対人地雷は、人間を戦傷させる兵器となり、悪魔の兵器と呼称される。兵士と民間人も、敵と味方も区別なく、誰でも家畜も殺傷する。一度敷設された地雷は、長期に渡わる脅威を保持して、戦争の対人地雷が脅威を与える。地雷の目的は人々に障害を負わせ、手足などを吹き飛ばし障害を負わせる武器である。軍隊は、兵士を殺すだけでなく、外傷をさせる地雷は有効な戦略手段となった。長期にわたり人的・経済的負担を課して、敵対勢力を消耗させた。

 対人地雷は、1861年から1985年のアメリカの南北戦争から本格的に使用された。その後、第1次世界大戦、第2次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争の大規模な戦争から、国外内の紛争で使用された。多くの場所で、地雷は無差別に使われ、市民を標的にして、市民を脅威にさらし、市民を支配する、市民を阻害する、市民を苦しめ、混乱させるために地雷を使用された。

 地雷は地球上各地で使用され、特にカンボジア、アフガニスタン、ボスニア、チェチェン、コロンビア、モザンビークなどは、特に地雷で悲惨な被害を受けた。その他に、チリ、エジプト、エチオピア、インド、イラク、イスラエル、韓国、コソボ、ラオス、ニカラグア、セネガル、タジキスタンなど約88カ以上の国と地域が今でも地雷問題を抱えてい。死亡した兵士の死体は置き去りにされ、地雷で負傷した兵士は放置できず連れ帰る手間を負わせた。長期にわたり人的・経済的負担を課して、敵対勢力を消耗させた。対人地雷で手足を吹き飛ばされる精神的ショックを与えた(地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)・カンボジア地雷撤去キャンペーン(CMC)参照)。

 地雷廃絶国際キャンペーン(ICBL:International Campaign to Ban Landmines)や対人地雷全面禁止に賛同諸国により,対人地雷禁止条約が提唱された。カナダ政府が1996年10月にオタワで開催した国際会議で、対人地雷禁止条約(オタワ条約,正式名称は「対人地雷の使用,貯蔵,生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」)は,1997年12月のオタワで署名されてノーベル平和賞に繋がった。1999年3月1日に国際条約が発効して、2017年9月末に104か国が締結した。アメリカ、ロシア、中華人民共和国、イスラエル、インド、パキスタンなどの約33カ国は拒否している。




2022年5月30日月曜日

カウフボイレン・イルゼー安楽死施設の子供病棟のあるシスター・ヴェルレ看護師が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で1945年5月29日13時10分に最後に殺害した。

第二次世界大戦の終結後の1945年5月29日に、ミュンヘン近郊のカウフボイレン・イルゼー(Kaufbeuren-Irsee)安楽死施設の子供病棟の主任看護師であるシスター・ヴェルレ(Sister Wörle)が、4歳のリチャード・ジェンヌを致命的な注射で13時10分に殺害した。安楽死施設で虐殺された最後の心身障害児となった。

  1876年に開設されたカウフボイレン・イルゼー療養所は、心身障害者(児)の治療のための重要な医療施設であった。第一次世界大戦中は、戦争神経症による重度障害兵士のための軍事病院となった。1929年に、戦争神経症治療の専門家である医師ヴァレンティン・ファルトルハウザー(Valentin Faltlhauser)が、カウフボイレン所長に就任した。彼は優生学運動の提唱者であり、安楽死を一部の患者の善の措置と信じた。彼は、ナチスの安楽死計画であるアクティオン(Action)T-4の強力な支持者となった。1939-40年に、彼は全精神科施設をT-4登録プログラムに参加させる委員会委員になった。ドイツの精神科施設にいる精神科の患者を用紙に記入し、ベルリンに送付させた。T-4の医師は、患者をどの患者が生きるに値しない、無駄飯食いと判定した。患者は、療養所の職員に監視された後に、グラフェネック(Grafeneck)やハルトハイム(Hartheim)などの毒ガス処刑施設に特別バスで輸送された。

 カウフボイレン・イルゼーは、ドイツ各地から安楽死施設に送られる患者の選別地点となった。1941年8月に、アドルフ・ヒトラー自身は、戦時中にドイツ国民を疎外しないために、毒ガス処刑計画を中止するように命じた。しかし、その1年後に、カウフボイレン・イルゼーで殺人が再開された。ファルトルハウザー自身は、部下が拒否した場合に、致死注射を執行した。飢餓も患者の殺害方法となった。餓死させる患者には、脂肪分やビタミンを含まない食事を与えた。1942年11月末に、飢餓食(E-Kost)がドイツの全安楽死施設で導入された。1945年4月にアメリカがシュヴァービアの占領から数ヵ月後まで、カウフボイレン・イルゼーでは注射と飢餓による殺戮が1945年7月2日まで続けられた。安楽死施設のドアに貼られたチフスの警告を見て、退避したアメリカ軍がカウフボイレンに入ったのは7月2日となった。その時までの殺戮作戦の記録はすべて破棄された。ファルトルハウザーと看護婦達は、殺人幇助の罪で逮捕され、裁判にかけられた。看護婦達は12ヶ月から21ヶ月の禁固刑に処された。ファルトハウザーは3年間収監されて釈放され後に、医師免許を剥奪されたのみで終結された。

 安楽死計画は、劣等でアーリア人種の健康を脅かすと判断した特定の集団に対するナチス政権初の大量殺人作戦であった。ベルリンの本部住所(Tiergarten 4)からT4作戦と呼称された安楽死作戦は、ナチスが生きるに値しない生命(lebensunwertes Leben)とみなした心身障害者(児)を対象とした。安楽死による殺人は、1939年8月に障害のある乳幼児の殺害から始まった。総統府長官フィリップ・ブーラーとヒトラーの専属医師カール・ブラントが指揮をとり、医師、看護師、助産師が障害者と認めた子供たちを選別して、約20以上の病院に設けた特別小児病棟に移送した安楽死計画であった。医療従事者が致死量の薬物投与や飢餓状態にして、少なくとも約5,000人もの子どもを虐殺した。後に年長の障害児にも拡大された。安楽死の次の段階は、ドイツ帝国施設に入所した身体障害者の殺害であった。T4の技術者は、膨大な対象者に対応するために、障害者をガス室で殺害し、死体を火葬場で焼却する殺人センターを設置した。1940年にブランデンブルク、グラーフェネック、ハルトハイム、ゾンネンシュタイン、ベルンブルク、ハダマールの6つの殺人施設が設立された。教会や司法当局からの抗議で、ヒトラーは1941年8月にガス処刑を中止させた。しかし、安楽死計画は終了しないで、障害児の殺害は絶え間なく続けられた。1942年8月からは、致死量の過剰投与と飢餓による成人障害者の殺害が再開された。野生の安楽死と呼ばれ、戦争末期まで続けられた。T4作戦を主導したカール・ブラントは、1946年12月9日からのニュールンベルク裁判で死刑と裁定されて、1948年6月2日に絞首刑に処された。T4作戦によって、少なくとも20万人の障害者の命が奪われた。



2022年5月29日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争で2022年5月26日に、ウクライナのハルキフの地下鉄がミサイル攻撃され、夫アレクセイの死体は地下鉄の入口の側で妻エレナさんが泣き崩れた。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年5月26日にウクライナ東部のハルキフの地下鉄が攻撃された。地下鉄の構内で負傷した男性が優先して担架で運ばれた。死亡した夫アレクセイの死体は、地下鉄の入口に横たわったままであった。その側で妻のエレナさんが泣き崩れた。ミサイル砲撃中に殺害され大量の出血をした夫アレクセイの死体の側で、一人で取り残されて妻のエレナさんが慟哭しながら跪いていた。

 ウクライナ第2の都市ハルキウで、5月26日のロシア軍のミサイル砲撃により7人が死亡し、9歳の子どもを含む17人がけがをしたとハルキウ州のシネグボフ知事は公表した。その時点は東部のハルキウ州周辺では、ウクライナ軍がロシア軍を押し戻していた。2月24日の侵攻開始から約3カ月の5月23日までに、ロシア軍はウクライナに対して約1474回のミサイル攻撃を行い、航空機やヘリコプターによる空爆は約3000回以上に及び、被害の大半は民間人施設とウクライナ当局は公表した。

 国連人権高等弁務官事務所は、ロシア軍による軍事侵攻が始まった2月24日から5月26日までに、ウクライナで少なくとも4,031人の市民が死亡した。このうち261人は、子どもであった。地域別では東部のドネツク州とルハンシク州で2274人、キーウ州や東部のハルキウ州など、そのほかの地域で1757人の死亡が確認された。負傷した市民は4735人に上ると公表した。その他に国連人権高等弁務官事務所は、激しい戦闘が続いた東部のマリウポリなどでの死傷者は、まだ確認が取れず、実際の死傷者の数はこれを大きく上回ると推定された。

 アメリカ国防総省は5月26日に、ロシア軍がスラビャンスクとクラマトルスク方面に侵攻した。ロシア軍がウクライナ東部2州のうち、ドネツク州の交通の要衝に対して、攻勢を強めた。東部2州のうちもう1つのルハンシク州では、ウクライナ側が唯一の拠点とするセベロドネツクに激しい戦闘が継続して、ロシア軍が北東部の大部分を制圧したと公表した。ロシア軍によるルハンシュク州が包囲された場合には、ウクライナ軍の撤退が示唆された。











Warning: A dead man lay at the entrance of the subway as an injured man was carried on a stretcher after shelling in Kharkiv, eastern Ukraine, Thursday, 26, May, 2022. (AP Photo/Bernat Armangue)











Warning: Elena kneeled over the body of her husband Alexey after he died during shelling at the subway in Kharkiv in eastern Ukraine, Thursday, May 26, 2022. (AP Photo/Bernat Armangue)

2022年5月28日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建て木造消防署が瓦礫となり、数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下敷きになった。

 1945年8月6日午前8時15分に広島原子爆弾が落下して炸裂して、午後2時頃に広島原子爆弾の爆心地から南南東約2.6kmにある3階建ての木造消防署が瓦礫になった。数人の消防士と1台の消防車が倒壊した建物の下に閉じ込められた。消防署と自宅の間にある電車路を通行人が歩行した。理髪店の窓の外から、瓦礫となった西消防署皆実出張所の惨状が撮影された。原子爆弾による爆風により、周辺地域は崩壊したが、熱線による炎上は免れた。理髪店内も、爆風によって悲惨に崩壊して瓦礫が散乱していた。

 広島原子爆弾が投下されて炸裂した当日1945年8月6日の人的被爆の写真は、中国新聞社の元写真記者である松重美人(1913–2005)が現像できた5枚の写真ネガのみが残存した。原爆投下された当日の広島市民に対する人道的被害を撮影できた唯一の写真となった。長崎原子爆弾が炸裂した8月9日当日の写真は皆無である。原爆被爆写真が著名となると、元軍人が被爆写真の著作権を巡って訴訟を起こした。裁判所で第一、二審の勝訴が、最高裁判所の裁定で1998年に松重美人に確定した。 

 広島原子爆弾による1945年8月6日当日に撮影された原爆写真は、中国新聞社が原爆資料館の資料などを基に2007年に調査して確認できた写真はネガがないものも含めて35枚であった。そのうち25枚は原爆のきのこ雲であり、炎上した広島市街地は4枚あった。さらに被爆者を乗せて広島市の郊外に向かうトラックが1枚あった。原子爆弾の炸裂による被爆者の悲惨を収めたのは松重美人の5枚のみの写真であった。御幸橋の惨状の写真が初めて中国新聞社が別会社で発行していた「夕刊ひろしま」に1946年7月6日付で掲載された。GHQの検閲を避けるために米誌が全世界へ紹介との脇見出しが付けられた。実際に世界的な写真誌「ライフ」に掲載されたのは、GHQ占領が終わった後の1952年7月29日であった。



2022年5月27日金曜日

第一次世界大戦にてソンムの戦いにて、1916年9月にドイツ軍兵士の殺害された死体がギーユモン近郊の機関銃座の残骸に散乱した。

第一次世界大戦にてソンムの戦いの途上にて、1916年9月にドイツ軍兵士の殺害された死体がギーユモン近郊の機関銃座の残骸に散乱した。ドイツ軍の防御に深い塹壕がなかったために、イギリス軍の砲撃により機関銃座が破壊されて、同時にドイツ軍兵士も爆死した。イギリスの砲撃は1916年9月3日の夜明けまでに始まり、ドイツ軍の前線に激しい砲撃を集中させた。ドイツ砲兵は防衛にほとんど関与しなかったが、イギリス軍の攻撃開始後1時間で約1,000人のドイツ軍兵士が死傷した。

 ギーユモンは、フランス北部のソンムの東約13kmにある地域であった。イギリス軍は1916年9月3日にギルモン村を占領した。9月はソンムの戦いにおける連合軍の攻勢が短期間は改善された。ドイツ軍はバポームに撤退して、その他のジンチーとティエプヴァルを含む多くの重要地点が占領された。第一次世界大戦中、戦死した死体がはっきりと見える写真は、しばしば一般公開が差し控えられた。

 ギーユモンの戦いは、1916年9月3日から9月6日に勃発した。ギルモンの戦いは、イギリス軍によるギルモン村への攻撃した。ギーユモン村は、イギリス軍の右翼にあり、フランス軍との境界線に近かった。1916年9月3日正午に、より広い攻撃の一部として、忍び寄りの弾幕の保護下でイギリス軍が攻撃を開始した。ドイツ軍の迷路のような地下道、壕、コンクリート陣地からなるギーユモンは正真正銘の要塞であった。イギリス軍は、ギーユモン村辞退を度重なる砲撃で破壊した。ギーユモンの戦いでギルモン村を占領した。9月3日から6日にかけて、ソンム北部のクレリーからギーユモンまでのドイツ軍防御網を攻略した。

 第一次世界大戦のソンムの戦いは、1916年7月1日から11月18日に、イギリス軍、フランス軍とドイツ軍の若い兵士の多くが、フランス北部のソンムの泥沼で絶命した。イギリス軍司令部は、破れかぶれの役に立たない数百メートルの領土を得るために、大量の兵士が、突破されていないドイツ軍の鉄条網と手つかずのドイツ軍の機関銃に身投げして、何万人もの若い兵士の命を損失した。ソンムの戦いにて、イギリス軍は約456,000人、フランス軍は約200,000人、ドイツが434,000人以上も犠牲となった。




2022年5月26日木曜日

第一次上海事変にて、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、日本軍は中国国民党軍兵士の死体の上を突進した。

第一次上海事変にて、日本軍は1932年2月22日に、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、中華民国軍兵士の死体の上を突進した。アサヒグラフ(朝日新聞社)は、1932年1月28日に、第一次上海事変が勃発すると、朝日新聞社の記者たちはいち早く上海の戦場に駆けつけて、戦闘の様子を写真に収めた。第一次上海事変の写真において、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実を映し出した。中国の大都市を蹂躙する近代的な日本軍の軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の姿を見出した。戦場における死体も含めて戦争の悲惨さを公表した。その後に、日本の政治家や軍部幹部は、中国での戦闘に対する国際的な抗議に驚嘆した。そのために第二次上海事変(1937年8月13日)から南京陥落(1937年12月13日)したときに、日本のマスコミはひどい都市部の破壊の写真を何枚も掲載したが、中国人と日本人にかかわらず殺害された死体の写真は掲載できなかった。

 1930年代初頭に、日本軍による中国への軍事介入に関するメディア報道は、朝日新聞社の特派員は、日本軍の中国での主力部隊である関東軍の跡を追った。満州事変(1931年9月18日)から第一次上海事変(1932年1月28日)、済州島事件(1933年1月3日)を写真による特報を制作した。軍事事件の報道は、アジアで他の追随を許さない無敵の日本軍軍隊が、挑発されて、必要に迫られて軍事行動することを国民に過信させた。1937年まで、満州と中国における日本軍の動きを取材できるメディアは、自社の報道用飛行機を持つ朝日新聞社が最も優れていた。ライバルの新聞出版大手である毎日新聞社は、1937年に中国特派員と『中国前線』誌で対抗する特派員部隊を設立した。1938年2月には、内閣情報調査室(後に室、最終的に局へ昇格)が『写真週報』を創刊した。

 日本軍は第一次上海事変にて、在留日本人を含む国際社会を、中国国民党軍の暴力的な軍事行動から守るために迅速に軍事行動し、中国人の反乱軍が鎮圧されて秩序が回復されて、日本軍の軍事行動は完結したと物語化した。日本軍兵士が上海の都市部の道路を封鎖して、日本の権益を警備した写真を多く掲載した。上海の街を、日本軍の装甲車が巡回して、日本軍旗を掲げて、日本軍の統制を写真で誇示した。




2022年5月25日水曜日

太平洋戦争におけるサイパンの戦いで、アメリカ軍兵士の戦死者には、戦場にライフルとヘルメットによる戦場十字架が、埋葬に引き取る死体の位置を示した。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いで、アメリカ軍兵士の戦死者は3,000人以上に及んだ。戦場にライフルとヘルメットによる戦場十字架(Battlefield Cross)が、戦死したアメリカ軍兵士の死体の位置を示した。適切な時期に埋葬のために引き取る目印とした。サイパンの戦いでは、アメリカ軍の犠牲も甚大となった。戦死者の死体の側に、アメリカ軍兵士はここに永眠の戦場を示唆して、銃剣と鉄兜が立てられた。十字架や戦死者の宗教に適した記念標識に代用された。

 1944年6月15日に、サイパン島に上陸したアメリカ軍は、6月27日にタポチョー山を占領した。その間の約11日間で、日本軍兵士は約8割も損失した。7月6日早朝に司令部は、最後の命令を下して、7月7日に残存した約3,000人の日本軍兵士が、自滅するバンザイ攻撃をして全滅して、必死の夜間攻撃が虚しい兵力の浪費となった。7月9日には、日本軍と民間人は、サイパン島の北端のマッピ岬やマッピ山北面に追い詰められるも、狂信的愛国心から降伏を拒否して自決やバンザイクリフなどから投身自殺して、サイパンの戦いは終結した。その間にアメリカ軍は、日本軍に約138,391発、約8,500トン以上も艦砲射撃して、戦闘機による機銃掃射と爆撃を加えた。日本軍兵士の約30,000人はほとんど全員が死滅した。生存者はアメリカ軍に捕獲されたわずか約1,800人の捕虜のみであった。アメリカ軍の犠牲は、戦死者は約3,426人と戦傷者等は約13,099人であり、全体の約2割にも相当した。

 戦場十字架は、最期の死亡した場所に印をつける伝統は、南北戦争から死体集積の目印となる木製のプレートから始まった。第一次世界大戦からは、ライフル銃を下向きに地面やブーツに突き刺して、ヘルメットを載せて、戦死の指標にした。戦場の十字架は、墓地登録局員が死体を埋葬する目印だけでなく、慰霊碑の役割も果たした。第二次世界大戦以後からは、戦死者の犠牲、名誉、敬意、奉仕、象徴、慰霊、終結、喪失、最期、追悼などを記念した。兵士の仲間に対して、ある種の弔いの慰霊碑があることは軍隊には有益となった。




2022年5月24日火曜日

アメリカ軍は、ランズベルクのドイツ市民約250人を徴集して、解放したカウフェリングⅣ収容所の囚人の死体を見詰めて埋葬させた。

アメリカ軍のエドワード・ザイラー大佐が、ドイツ・ランズベルクの市民に対して、1945年4月27日に解放した近隣の強制労働収容所であるカウフェリングⅣ収容所の犠牲者の死体に目を向けるように要請した。大佐は、収容所を解放して、近くのランズベルグの町から約250人の民間人を徴集して、死んだ囚人の約360人の死体を埋葬させた。死体は、収容所の点呼所にある墓地に埋められていた。アメリカ軍兵士たちが解放時に、ナチス親衛隊が放火した小屋の残骸に煙を上げていた。この中から生きたまま焼かれた可能性のある約360人の死体が発見された。燃えた牢屋小屋の煙の中に、ナチスの刑務官がユダヤ人囚人を木製の小屋に閉じ込め、火をつけて生きたまま焼いた炭化した痩せ細った死体が横たわっていた。

 アイヒェルスドルファー所長は、1945年1月4日にカウフェリングⅣ収容所の最後の責任者となった。病気収容所として指定されたが、ダッハウ強制収容所の劣悪な生活環境のために病気になり、働けなくなった囚人たちの収容所であった。ナチス親衛隊はアメリカ軍の侵攻される前に、ダッハウ強制収容所への囚人の死の行進を強制した。カウフェリングⅣ収容所では、バラックに火をつけて数百人の囚人を殺した。アイヒェルスドルファーは、事件番号000-50-2で、ダッハウ裁判では12月13日に判決され、1946年5月29日に死刑が執行された。

 ナチスは全ユダヤ人をドイツから追放するも、他の労働力源を使い果たした。ユダヤ人をカウフェリング収容所に強制連行して、戦闘機工場を荒廃させる連合軍の爆撃の影響を受けない3つの巨大地下壕であるヴァイングートII、ダイアナII、ヴァルヌースIIを建設した。地下壕は、メッサーシュミットMe262の生産用であったが、アメリカ軍に解放されるまで、一機も生産できなかった。カウフェリング収容所はダッハウ強制収容所の分所の中で最も大きく、また最も劣悪な環境にあった。男性囚人用の72小屋と、女性囚人用の8の小屋で、囚人はしばしば暖房も食料も不十分な土の小屋で、土中に沈められ、外気から見えないように土で覆われた。収容所には、それぞれ数千人の囚人がおり、その大多数がユダヤ人であった。病気や栄養失調、職場や収容所の残酷な環境は、収容者たちを苦しめ、高い死亡率を伴った。約3万人の囚人の約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で死亡した。



2022年5月23日月曜日

第二次世界大戦のバルジの戦いで、ベルギー南部のマボンプレ付近の雪に埋もれた塹壕にナチスドイツ軍将校が横たわった。

バルジの戦いで、ベルギー南部のマボンプレ付近の雪に埋もれた塹壕にナチスドイツ軍将校が凍死して横たわった。バルジの戦いで最も困難だったのは天候である。歴史的な極寒が大混乱を引き起こした。移動、シェルター、食事といった兵站を毎日苦難の連続にした。1945年1月はヨーロッパで記録的な厳寒となり、バルジの戦闘中に約15,000人以上が凍傷などの寒冷により戦死傷した。

 バルジの戦いは、ベルギーのアルデンヌ山脈の深い森の中で、1944年12月16日から1945年1月25日まで、約84万人もの連合軍が、第二次世界大戦最後の約50万人ものドイツ軍の大攻勢と苦闘した。連合軍は最終的に勝利を収めたが、約6週間にわたる激しい戦闘で、両軍合わせて数万人が死亡した。バルジの戦いの犠牲者は、アメリカ軍が約8,607人以上、イギリス軍が約201人以上、ドイツ軍が約12,652人が戦死した。

 ドイツ軍の最後の攻勢には、連合軍の不意をつき、戦闘機を無力化する悪天候、早期の壊滅的な打撃、連合軍の燃料供給を確保することが必要であった。ドイツ国防軍は、ベルギー南部からルクセンブルクまでの約137kmに及ぶ連合軍戦線に約25万人のドイツ軍兵士を投入し、1944年12月16日に攻撃を開始した。

 ドイツ軍の攻撃は、当初は驚くほど驚異的で、部隊は連合国領内に約80kmも進攻した。この戦いの名前の由来となったアメリカ軍の戦線にバルジ(膨らみ)を作り出した。しかし、最初のドイツ軍の作戦がいかに驚異的でも、連合軍部隊の完全かつ早期の脱落は達成できなかった。

  連合軍は勝利を収めたが、代償として約2万人近いアメリカ軍兵士が死亡し、数万人が負傷、行方不明、または捕虜となった。イギリス軍は約1,000人以上の死傷者を出した。アメリカ軍にとって、バルジは第二次世界大戦中の西部戦線で最も血生臭い戦いとなった。ドイツ軍の犠牲は甚大で、約7万から10万人の死傷者が出たと推定された。

 連合軍は1945年1月25日に勝利し、ナチス・ドイツに対する最後の勝利を手に入れた。連合軍は優位に立ち、ベルリンへの最後の追撃を開始した。ドイツが5月8日にベルリンで無条件降伏して、5月9日にソ連が勝利宣言をして戦勝記念日となった。バルジの戦いが終わってから約5ヵ月足らずで、ヨーロッパでの戦争は終結した。




2022年5月22日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍によるウクライナのマリウポリの産科・小児科病院への空爆で負傷した妊婦が、胎児とともに死亡した。

ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月24日に勃発して2週間後に、ロシア軍によるウクライナのマウリポリの産科・小児科病院への空爆で負傷した妊婦が、胎児とともに死亡した。3月9日水曜日に、ウクライナの港湾都市マリウポルの産科病院に対するロシア軍の無差別の空爆の後に、妊婦は顔面が青白く、血まみれの左下腹部を左手で撫でて担架に乗せられて救急隊員とボランティアが別の病院に搬送した。この空爆で、この妊婦と胎児の他に、少なくとも他の3人が殺害された。

 出産する予定病院が攻撃された後に、妊婦は別の病院へ緊急的に搬送された。妊婦は蘇生されながら、赤ちゃんは帝王切開で生まれたが、生命の兆候は無く死亡していた。救急病院の外科医のティムール・マリンは、妊婦の骨盤はつぶれて、股関節は脱臼していた。医療関係者は、妊婦の生命を救おうとしたが、妊婦は赤ちゃんが死亡したことに気づき、今すぐ殺してくれ "と叫んだ。死産である明白となり、医療関係者は妊婦の蘇生を試みたが、約30分後には絶望的となり死亡した。妊婦の夫と父親が死体を引き取り来ても、女性の名前を聞ける余裕はなかった。

 ロシア軍が病院を爆破した後に、SNSのTwitter社は、在ロンドン・ロシア大使館による攻撃が捏造されたと主張する2つの投稿を削除した。ロシア大使館のTweetは、病院は当時は稼働せず、現場で撮影され死亡した身元不明の妊婦は女優であるとフェイクを主張をした。ロシア軍は、病院から患者がいなくなり、ウクライナ軍の活動拠点として使われたと主張している。世界保健機関(WHO)は、ロシア軍によるウクライナ攻撃が始まって以来、医療施設や設備に対して少なくとも31件の攻撃が記録された。















Warning: Ukrainian emergency employees and volunteers carry an injured pregnant woman from a maternity hospital that was damaged by shelling in Mariupol, Ukraine, March 9, 2022. The woman and her baby died after Russia bombed the maternity hospital where she was meant to give birth. (AP Photo/Evgeniy Maloletka, File)

2022年5月21日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した翌日1945年8月7日から大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。

大芝国民学校に特設された臨時救護病院に、広島原子爆弾による多数の被爆者が殺到して治療を受けた。爆心地から北に約2.4kmにあり、校舎は大破して、一部が焼失した。校庭に避難者があふれたために、大芝国民学校を臨時救護病院を特設した。1945年8月6日当日にこの周辺は火災にかこまれて、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。火災の勢いが鎮まると、救護者らは引き返して再び救護の任務についた。救護者中には、被爆日には医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいた。救護者は専門を越えた不眠不休の医療活動が実践した。

 太平洋戦争直前に1941年4月1日に、国民学校令が施行されて、小学校は国民学校になった。同年、広島市永年防空計画によって、広島市内の国民学校33校が学校長を担当者とし、医師、歯科医師、薬剤師、看護婦、女学生、女子青年団員等で組織された救護組織と救急薬品を持ち、約300人以上を収容できた。 

 大芝国民学校は、広島原子爆弾の被爆と同時に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して、縦長に建っていた棟は倒壊を免れた。校内は被爆者は発生したが、死者はいなかった。8月6日当時から、被爆者らが大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあたった。

 大芝国民学校は、1916年4月1日に創立された。広島原子爆弾の炸裂により校舎など被爆した。約600人の日本陸軍兵士と先生が消火にあたった。子供がガラスの破片で傷を受けたり、頭部などに打撲や負傷を受けた者も数人いた。死亡者はいなかった。

 被爆した当時から、被爆者が校舎や校庭に殺到した。8月7日から臨時救護病院を特設されて、学校の先生も手伝った。破壊された教室に多数の被爆者が収容されて入所した。1945年10月になってから、大芝国民学校の運動場に机や板きれを出して、青空教室で授業をした。学用品や教科書がたらず、教科書などを見せ合って勉強した。




 

2022年5月20日金曜日

太平洋戦争のグアム島の戦いで、日本軍兵士は背後に燃え盛る建物を約2時間防御した。その後に死を覚悟して、アメリカ軍に突撃して日本軍兵士全員が殺害された。

太平洋戦争で、グアム島の戦いが1944年7月21日から8月10日まで勃発した。日本軍兵士は、グアム島で背後に燃え盛る建物を、約2時間にわたって防御した。その後に、圧倒的な不利の中で、ついに死を覚悟して、アメリカ軍に突撃して、全員が殺害された。アメリカ軍兵士は、約1,783人が戦死して約6,010人が戦傷した。日本軍兵士は、18,337人が戦死して、約1,250人のみが捕獲された。グアム島の民間人は、約600人以上が殺害された。

 アメリカ軍の作戦計画者たちは、アイランドホッピング戦略を展開していた。日本本土に接近する際に、太平洋のいくつかの島の目標を注意深く選択して、それらを攻略して奪還して、他の重武装の島々は、つるつるに枯らすために背後に残しておいた。この戦略は、進路上にあるすべての島を攻撃するのではなく、人員と弾薬を大幅に削減した。しかし、日本軍が攻略していた島々は、地雷、戦車トラップ、機関銃のある何百もの隠し壕など、日本軍が何年も前から重武装していた。日本軍の一歩も譲らない戦いは、アメリカ軍の攻撃軍にとっては悪夢となった。しかも、日本軍は死を恐れない何百人もの日本軍兵士が、儀礼的な刀を振り回す日本軍将校に先導されて、絶望的なバンザイ突撃で殺害されて全滅した。太平洋戦争にて捕虜になった日本軍兵士はごくわずかだった。

 太平洋戦争のグアムの戦い(1944年7月21日〜8月10日)にて、アメリカ軍は1941年に日本軍に1941年12月10日から占領されたグアムを奪還してアメリカ領土を解放した。アメリカ軍は軍港と多くの飛行場を手に入れた。他の地域の戦いと同様に、グアムの日本軍守備隊は実質的に最後の一人が殺害されるまで戦った。アメリカ軍の死者は約1,700人、負傷者は約6,000人、日本軍の死者は約18,000人であった。

 雨と濃いジャングルがアメリカ軍を苦しめたが、8月2日から4日にバリガダ山での交戦の後に、日本軍の戦線は崩壊して、残りの戦いはグアム島北部への追撃戦となった。太平洋戦争の他の戦いと同様に、日本軍は降伏を拒否して、ほとんど兵士全員が戦死した。8月10日に、約3週間にわたる血生臭い激戦の末に、日本軍の組織的抵抗は終結した。グアムには、B-29爆撃機が日本本土に空襲できる滑走路が建設された。

 グアムへの攻撃は、当初サイパン上陸した6月15日から、翌月の7月21日に延期された。アメリカ軍側は、事前の砲撃と戦闘機の攻撃を徹底して、上陸用舟艇の沖合の障害物を効率的に除去した。アメリカ軍の上陸部隊は海兵隊と陸軍で約5万5千人が参戦した。日本軍は、約1万9千人の守備隊が、塹壕、砲台、その他の要塞を構築していた。上陸作戦は7月21日にグアム島の西海岸から勃発した。最初の数日間、日本軍の激しい夜間攻撃が続いたが、上陸地点はすぐに確保した。アメリカ軍が約1週間で、2つの戦線を連結した。日本軍の戦力の大半は散在して、日本軍の残存部隊は、さらに2週間戦い続けた。日本軍残兵は、グアム島の北端に向かって徐々に後退して、組織的な抵抗はほぼ終結した。グアムは特に山が多いので、少数の抵抗者は持ちこたえた、いくつかの小さな部隊は、終戦まで戦い続け、アメリカ軍に犠牲者を出した。ある孤独な退役軍人の横井庄一は、ジャングルから姿を現し、1972年1月24日に捕獲され降伏して日本に帰還して、「恥ずかしながら帰って参りました」と発言した。




2022年5月19日木曜日

第一次世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、侵略した膨大な民間セルビア人住民を公開したままで絞首刑にして殺害した。

第一次世界大戦中に、オーストリア・ハンガリー帝国軍は、侵略した膨大な民間セルビア人を絞首刑にして殺害した。フリードリヒ大公軍だけでも、約11,400人の絞首台を設置して、その絞首刑数は約36,000人とも記載された。1914年6月28日の暗殺事件の犯人であるセルビア人を懲罰的に攻撃する必要に迫られ、7月28日にセルビアへの宣戦布告して第一次世界大戦が開戦した。当初は、3か月以内で終了すると予想に反して戦争は1918年11月11日も長期間に及んだ。

 オーストリア・ハンガリー帝国軍により、セルビア人はゲリラ容疑者として公開処刑された。1916年に、オーストリア・ハンガリーとブルガリアの両国は、セルビアが消滅して、住民にはジュネーブとハーグ条約の国際法規を適用できないと公表した。占領した軍当局は、ほとんど法的手続きを踏まずに数多くの即決処刑を行った。軍事法廷により有罪となると、セルビア人容疑者は通常は銃殺か絞首刑にされた。自衛の戒厳令が、反対意見を鎮圧して厳しい措置がセルビア市民を弾圧した。

 占領軍当局は、セルビア人集団や民間人が武器を取る恐怖にとらわれた。その結果、抵抗を鎮める手段として、一般住民から人質を奪取して、懲罰的に襲撃して村を焼き払った。民衆の武装解除は、一定枠の武器を引き渡す責任を村長から問われ、武器所持の刑は絞首刑とされた。軍事裁判所は新たな犯罪法で民間セルビア人を裁いた。

 レジスタンス活動を疑われた民間セルビア人は、絞首刑や銃殺を含む最も厳しい措置に処された。犯罪者の家族も破滅された。セルビア人の犠牲者は通常は、村や町の主要な広場で、一般住民からよく見えるように絞首刑で吊るされた。生気のない死体には、スパイと裏切り者の扱いを明確に示威するために、数日間に縄で吊るされたまま放置された。

 オーストリア・ハンガリー帝国軍は、すべての政治を禁止し、市民集会を禁じ、学校を支配下に置く軍事法体系に加え、戒厳令の発動、人質取り、懲罰的襲撃による村の焼失、反乱に対する公開処刑と即決処刑が執行された。占領期間中に、約15万から20万人に及ぶセルビア人が、強制収容所へ強制送還された。




2022年5月18日水曜日

太平洋戦争にて、アメリカ軍はタラワ環礁のベティオ島に上陸した地点には、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体が、海岸周辺に散乱して浮き上がった。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は1943年11月20日からタラワ環礁のベティオ(Betio)島に上陸した。ベティオ島の上陸地点には、日本軍により殺害されたアメリカ軍兵士の死体が、上陸した海岸周辺に散乱して浮き上がった。タラワの恐怖を見せつけられたアメリカ軍は、日本軍兵士を全員を殺害して全滅した。

 アメリカ軍は、タラワ環礁のベティオ島にて1943年11月20日から11月23日にわたる約76時間に及ぶタラワの戦いが勃発した。アメリカ軍はベティオ島の北海岸に11月20日朝に上陸する直後に、太平洋戦争にて日本軍から未体験の猛攻撃に遭遇した。日本軍が要塞化されて集中防御したベティオ島に、上陸したアメリカ軍は、激しい抵抗を受けて甚大な死傷者の犠牲を伴った。翌日の11月21日に、ベティオ島の西側の海岸を確保した。11月22日にアメリカ軍は戦車の援軍で東侵した。日本軍はベティオ島の中央東の小領域に押し込まれて、11月22日夜から自滅的なバンザイ攻撃を繰り返した。ベティオ島を占領した11月23日早朝には日本軍は自滅的な4回にも及ぶバンザイ攻撃を挙行した。それが日本軍のベティオ島での最終的な組織的攻撃となった。捕獲された147人は、その大多数は朝鮮人強制労働者であり、それ以外の日本軍兵士は全員が自滅して死亡した。

 タラワの戦いで、日本軍側は、捕虜となった14人を除いた日本軍兵士の約2,619人の全員が自滅して戦死した。生存して捕獲された約129人の朝鮮人労働者を除いて、約1200人の朝鮮人と1000人の日本人の現場労働者のうち約2,071が戦闘に巻き込まれ死亡して、た。アメリカ軍兵士は約1,020人が死亡して、そのうち約400人以上は行方不明となった。行方不明となった多くのアメリカ軍兵士は、ベティオ島に上陸した初日の11月20日に発生した。輸送船からベティオ島の海岸まで海中を歩いて移動している時に、砲撃や機関銃で殺害されて、太平洋の海上にも流された。行方不明となったアメリカ軍兵士の埋葬地の墓標の下には死体が見当たらず、戦後に発掘調査が行われた。




2022年5月17日火曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム軍とアメリカ軍は、村落の村民を一様にベトコン容疑者として捕獲して、その一部を池の周辺で射殺し、散乱した死体を見回して検死した。

ベトナム戦争は1965年7月頃に、南ベトナムの村落にて現れた村民を、南ベトナム政府軍とアメリカ軍は一様にベトコン容疑者として捕獲した。その一部のベトコン容疑者として、池の周辺で射殺して、死体が散乱した。南ベトナム政府軍とアメリカ軍兵士らは、死体から発生する悪臭で鼻を押さえながら、見回して検死していた。その後に村落は、証拠隠滅のためにブルドーザーで全く排除して焼却して消滅した。同じベトナム民族同士の憎しみ合いにより、残虐な虐待と虐殺する戦争犯罪に結びついた。

 ベトコンは、南ベトナムのほとんどの地域で、地下組織に潜伏して、しばしば幽霊軍団と表現された。ベトコンには制服や徽章はなく、普通の南ベトナム人と見分けが困難であった。公式のベトコン本部もなく、幹部がいる特定の地域もなく、指揮系統に沿って伝達された。1960年に、ベトコンは共産主義的な反乱軍に成長した。北ベトナム政権の承認を得て、ベトコンは南部でテロ活動を活発化した。1961年10月には、ベトコンによる爆弾テロが約150件も発生した。

 南ベトナムのディエム政権の腐敗と残虐行為により、南ベトナム人は疎外され、土地を奪われ、ベトコンに入隊して戦闘した。女性、子供、老人など戦えない者は、食料、安全、南ベトナム軍とアメリカ軍に関する情報を提供して、他の方法で支援した。仏教僧、宗教団体、離散した農民や都市労働者などもベトコンに参戦した。

 しかし、ベトコンの支援の流れは双方向となり、爆撃、破壊工作、暗殺は、かなりの南ベトナム人の反発を生んだ。外国や南ベトナム政府を標的にしたが、しばしば罪のない民間ベトナム人を殺害して、私有地を破壊し、事業を中断させた。その結果、ディエム政権だけでなくベトコンも支持しない南ベトナム人も多くいた。

 1965年にアメリカ軍兵士はベトナムに派遣の増員後に、ベトコンの撲滅が最大の攻撃目標となった。ベトコンはアメリカのマスコミで、悪者扱いされ、共産主義革命家、冷酷なテロリスト、南ベトナムのあらゆる殺戮行為者として喧伝された。ベトナム在留のアメリカ軍兵士は、ベトコンに憎悪と恐怖から驚異が入り混じった。西側諸国の戦争の慣習に従わず、公開戦闘を拒否して、奇襲、待ち伏せ、雷撃、狙撃、トンネル戦、地雷などが戦術となった。ベトコン兵士は、民間ベトナム人の間に隠れて、深いジャングルの中に避難し、真夜中にのみ移動した。ベトナム戦争に、世界最強の軍事大国のアメリカが、見分けのつかないベトコンと民間ベトナム人の戦争に巻き込まれた。





















Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟 2022年 5月17日に, Blogger投稿数は2,100回に達した。

2022年5月16日月曜日

日本の終戦後から私服警察官がホームレスの戦災孤児らを取り囲み、少年は下駄を片手に泣きながら怒りの抗議するも、夜の駅で捕まり、強制連行され孤児院に入れられた。

日本の終戦から約2年後の1947年7月22日に、私服警察官がホームレスの子どもたちを取り囲んだ。戦災による離散して、軽犯罪の主な発生源となった。この少年は夜の駅で捕まり、強制連行されて孤児院に入れられた。下駄を片手に泣きながら怒りの抗議をするも、しかし無駄であった。路上の戦災孤児は警察による取り締まりの対象になった。狩り込みと呼称した行政による強制的な保護収容がされた。浮浪児を街から根絶するために、いやがる戦災孤児を捕獲して、脱げないよう服をぬがせて、強制収容した。孤児施設もとても少なく、身寄りや地域から排除されて、戦争孤児は終戦から社会に捨てられて差別された。

 終戦直後から、大都会の地下道には、浮浪児で充満して、大量の戦災孤児たちは栄養失調となり餓死や凍死で死亡した。アメリカ軍の大空襲で、田舎に疎開中に家族を失って浮浪児になった。浮浪児が生き残るために強盗から略奪などの犯罪が多発した。終戦後に、食糧や物資が不足し混乱して、群がる闇市に戦災孤児が、飢えを偲んで集散した。地下道は身動きできないくらいの浮浪児であふれ返った。朝になって起きない人間は、死んでるか、息も絶え絶えの病人だった。誰も助ける余裕なんてない。昼間になれば警察官がやってきて、死んでいる人間を見つけては運び出していた。

 戦災孤児の保護対策は喫緊の課題であった。戦災孤児となった浮浪児が大量に都市を闊歩し、劣悪な環境の中で生活した。1947年6月の厚生省の調査では、その人数は約1万2千人と推定されて、1948年の調査で約20〜30%が10歳未満であった。浮浪児は路上生活者となり、スリや小銭稼ぎから物乞い、タバコの吸殻集め、靴磨き、新聞売りなどで生計を立てた。1945年9月20日に、厚生省は戦災孤児等保護対策要綱を発表した。1945年12月と2月のGHQの緊急救援指令(SCAPINs404と775)を先取りした。1947年12月12日に、児童福祉法が公布されて、戦争孤児は救済された。




2022年5月15日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、マウリポリの救急病院に榴散弾の破片で頭を打った幼児キリルが護送され救急医療も救えず、母親と友人が死体を悲しみながら見守った。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、のマウリポリの救急病院に2022年3月14日金曜日に、榴散弾の破片で頭を打った幼児キリルが、友人が毛布で包んで護送した。最善を望み、最悪の事態に耐えたウクライナの若い母親は「なぜ、なぜ、なぜ」と若い友人の腕の中でうつぶせになりながら、悲痛な叫び声をあげた。医療関係者は、破片で頭を負傷した幼児を救うことができなかった。生後18カ月の男子であるキリル・ヤツコ(Kirill Yatsko)は、ロシア軍のウクライナ侵攻の際に、マリウポルの自宅が砲撃されて、幼児が巻き込まれて殺害され死亡した。若い友人のフェドルが、自宅から意識のない幼児を抱きかかえて連れて病院へ駆け込んだ。男子のキリル・ヤツコの心臓が止まったように見えた。直後から医師が除細動器を心臓に使われる中で、顔に酸素マスクをかけて、胸をマッサージした。生後18ケ月の息子キリルを砲撃で失ったマリーナ・ヤツコと若い友人のフェドルがお互いを慰め合っていた。母親は、亡き息子にキスをして、匂いを最後にもう一度吸い込もうと、毛布を優しくほどいて、黒い髪をわが子にかけた。





















警告: マウリプルの病院で、男子のキリル・ヤツコの心臓が止まった。直後から医師が除細動器を心臓に当て、顔に酸素マスクをかけ、胸をマッサージした(AP)。















警告: 生後18ケ月の息子キリルを砲撃で犠牲となり、母親と友人はを慰め合った。母親は死亡した息子にキスをして、毛布をほどき黒髪をわが子にかけた(AP)。

 ロシア軍は、空襲や砲弾によりマリウポルを容赦なく、時には1分に1発の割合で、襲撃した。約43万人の南部のマウリポリは、製鉄所で激しい抵抗の象徴になった。市民を避難させる人道的回廊は、何度もロシア軍に阻止された。空爆と砲撃は、産科病院、消防署、住宅、教会、学校外の畑を直撃した。ウクライナに死体は至るところに散乱した。地元当局の集計では、包囲による死者は約2,500人を超えた。絶え間ない砲撃でまで検証できない死体も少なくない。危険で葬儀を行えず、遺族には死体を路上に放置するように指令した。

 その他に、マウリポリの最初の子供の犠牲者は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発して約4日目の2月27日に、まだ6歳未満の小さな女子を乗せた救急車が、マウリポリ市内の病院に駆け込んだ。茶色の髪を輪ゴムで縛り、パジャマのズボンはロシアの砲撃で血まみれになった。負傷した父親は頭に包帯を巻いて彼女と一緒に来た。母親は泣きながら救急車の前に立った。医師や看護師が彼女の周りに集まり、一人は注射を打ち、もう一人は除細動器でショックを与えた。除細動器を使ってショックを与えた。医師が酸素を送り込みながら、「これをプーチンに見せてやれ」と罵声を浴びせ怒った。彼女を救えずに、死亡した小さな体に彼女のピンクのジャケットをかぶせ、そっと目を閉じて、彼女は集団墓地に眠っている。死体が散乱した路上や、死体の引き取り手を待つ病院の地下室から、さらに多くの死体が集団墓地に運ばれた。

2022年5月14日土曜日

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。

広島逓信病院にて、広島原子爆弾によって悲惨な火傷を被爆した婦人を外来治療室で医師と看護婦が懸命に治療した。婦人は、顔面から背中と左上肢にかけて被爆して熱傷した。医師と看護婦が火傷した部分に薬品を塗布して、ガーゼをピンセットで覆った。火傷も、限られた医薬品の中で処置して治療した。

 1945年8月6日午前8時15分に、広島原子爆弾が投下して炸裂した。広島逓信病院には、原子爆弾が炸裂した直後から、数多くの被爆者が負傷者が押し寄せた。医療関係者はは懸命な治療に当たり、広島市内に残存した少ない医療機関として、医療から研究調査面で重要な救護を果たした。当時は広島逓信病院は、爆心地から約1,370mであった。爆心地から2km以内で残存したのは広島赤十字病院と広島逓信病院のみであった。1922年に広島逓信診療所、1942年に広島逓信病院が開設された。

 広島原子爆弾による爆風により、鉄筋コンクリート2階建ての広島逓信病院は、ほとんどの窓ガラスが吹き飛び、近隣の弾薬庫の類焼などにより、2階の内部は完全に全焼して、コンクリートのみが残存した。懸命な消火活動により、1階と地階は火災から免れた。アメリカ軍の空襲に備えて被爆する約1カ月前から、入院患者の全員を退院させて退避さて、人的被害は比較的軽微に納まった。火勢が弱まった8月6日被爆当日の夕方から、数多くの被爆者が押し寄せ、医療関係者は医薬品や衛生材料、食糧の確保を行いながら、懸命な救護をした。医薬品は、8月9日頃には枯渇した。

 一時的な隔離病棟では、原爆で被爆死した被爆者の病理解剖の剖検を行うために使用された。剖検は毎日夜遅くまで続き、その数は30に達した。近隣の広島通信局は、治療を終えたものの帰宅できない人や家族の仮設住宅となった。建物の修繕の見通しが不透明なこれらの被爆者は、窓やドアのない場所に住み、冬の到来に直面した。広島逓信病院院長の故・蜂谷道彦は、世界初の原子爆弾が投下時から9月30日までの原爆症の日々の診療記録を1950年に公表した。原爆傷害調査委員会の外科顧問であったノースカロライナ大学チャペルヒル校のワーナー・ウェルズ博士の協力により、1955年にUNC大学出版会から「ヒロシマ日記:Hiroshima Diary: The Journal of a Japanese Physician, August 6-September 30, 1945」が出版された。




2022年5月13日金曜日

1991年のイラク動乱により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害して死体を見つめた。

1991年のイラク動乱(Iraqi uprisings)により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害した。そのイラク人の防衛隊員の死体を見つめた直後に、クルド人の反乱軍はすぐにその殺害現場から撤退した。イラク反乱軍は、捜索したバース党の役人をすべて殺害し、政府の役人の家族や親戚までを虐殺した。

 湾岸戦争は、アメリカ軍が主導する多国籍軍が1991年1月17日に参戦した。砂漠の嵐作戦により、イラク軍は圧倒的に壊滅して2月28日に終結した。イラクのサダム・フセインのバース党政権が弱体化に対する1991年のイラク動乱が、主にイラン・イラク戦争と湾岸戦争の敗戦から勃発した。湾岸戦争終結後の終結後から、1991年のイラク動乱は3月1日から4月5日まで、サダム・フセイン政権に対するシーア派とクルド人が主導したイラクの民族・宗教の反乱となった。1991年のイラク動乱は、イラクの人口と経済に壊滅的な打撃を与えた。

 最初の2週間で、イラクのほとんどの都市と地方が反乱軍に陥落した。蜂起の参加者は、軍の叛乱者、シーア派アラブ・イスラム教徒、クルド人民族主義者、クルド人イスラム教徒、極左集団など、民族、宗教、政治的所属が多様に混ざり合った。最初の勝利後、革命は内部分裂と、期待していたアメリカやイランからの支援の欠如によって、継続的な維持は困難に陥った。ブッシュ政権は、イラクのレバノン化、イランの支援を受けたシーア派がバグダッドで権力を握る、もう一つのベトナム、反乱軍に何の支援も行わなかった。サダム・フセインのスンニ派アラブ人が支配するバース党政権は、首都バグダッドの支配を維持して、まもなくイラク共和国防衛隊が先導して、軍隊による残忍な大量虐待と大量虐殺により、イラク反乱軍をほぼ制圧した。

 わずか1ヶ月の短い騒乱の間に、イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク南部で約3万〜6万人のシーア派、イラク北部で約2万人のクルド人を殺害した。数万人が死亡して、約200万人近くの難民が避難した。イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク動乱後に、イラク政府はマーシュ・アラブ人に組織的強制移住とチグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア湿地の排水を事前に強制した。湾岸戦争連合軍はイラクの北部と南部に飛行禁止区域を設定して、クルド人の反政府派はイラク・クルディスタンにクルド人自治共和国を設立した。




2022年5月12日木曜日

第一次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍に心臓を撃ち抜かれてロシア軍兵士は射殺されて、死後硬直によりライフル銃の側で、戦闘中も同じ姿勢を保持していた。

第一次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍兵士に心臓を撃ち抜かれてロシア軍兵士が射殺された。その死後硬直によって、ロシア軍兵士は、ライフル銃の側で、戦闘中も同じ姿勢を保持していた。そめために、ドイツ軍兵士から、銃弾の弾丸が何度もロシア軍兵士の死体に打ち込まれていた。

 エルンスト・フリードリッヒ(Ernst Friedrich)は、第一次世界大戦後の1923年にベルリンに反戦博物館を設立して、平和教育の場を創設した。『戦争に反対する戦争(Krieg dem Kriege)』は、反戦博物館での平和教育の成果として1924年に刊行して、戦争の恐ろしさを写真で表現した。本書の初版の直後に、ベルリン市警察は、自由青年出版に対して、写真の撤去命令を下した。1933年2月28日にナチスに逮捕されて、反戦博物館はナチスによって破壊された。1982年5月2日、反戦博物館はベルリンに再建された。本書は、一部は偶然にそして一部は意図的に撮影した写真による戦争の本であり、また、戦争の始まりから終わりまでを事実に即し実刑を忠実に映し出した記録である。

 本書にて、13才の子供が描いた絵画に対して次のような説明を加えた。「人殺しと軍人の違いは次の点にある。すなわち人殺しは、略奪、欲望、あるいはその他の目的のために人を殺す。その行為は、(聖書にある)第5の戒律に反したものであり、したがって、人殺しは死、あるいは投獄の罪を受ける。軍人もまた、人を殺す者ー職業的殺し屋であり、実際は大量殺人を引き起こす人殺し中の人殺しーである。その行為は、第5の戒律に反しているにも拘らず、軍人は人を殺すことを許されている。殺した人間の数が多ければ多いほど、より大きな栄誉を与えられ、その殺人勲章を称えるべく、頭に月桂樹を冠せられ、より髙い階級が授けられる。軍人は、たとえドイツ軍のそれであろうが敵軍のそれであろうと、世に類なき残忍なる生き物である。軍人に人を殺すことを教えたる者、軍人に殺人をさせしめる者に呪いあれ! 両者共に人殺しである。なぜなら、戦争は殺人行為であるからである。戦争はまた、その過程において、飢え、不名誉、悲惨、苦悩、死、不安そして苦痛を生む。戦争を止めよ, 平和に戻れ。」




2022年5月11日水曜日

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落して、アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、大地に激突して惨死した。

日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機に体当たりして墜落させた。アメリカ軍の爆撃機の搭乗員は、墜落して大地に激突して惨死した。その搭乗員の2人の死体は、担架上に乗せられていた。日本軍の戦闘機は、アメリカ軍の爆撃機の最後部にある銃座に激突した。大地に墜落後に炎上して焼け落ちた。それには救命の浮舟ゴムを搭載していた(アサヒグラフ、1945年4月5日号、詳細不詳)。

 新聞社は、軍部と政府により言論を弾圧を受けた一方で、逆に戦争報道で国民をあおり、戦意高揚を先導して、軍部と政府に迎合、追従、便乗して誇大広告した。朝日新聞社のアサヒグラフ(大東亜戦写真報道、第44巻第14号、1945年4月5日、11頁)には、卑劣な飛行機たちの墓として、 その冒頭に陰惨な惨死したアメリカ軍兵士の写真を掲載した。その説明欄には、「これらの敵の乗組員は、我々の体当りしたの英雄の一人に衝突されて、惨死した。」とのみ記載された。この戦闘では、日本軍の神風戦闘機がB-29に空中で激突したと想定した。写真には、惨死した二人のアメリカ人飛行士を乗せたと思われる正体不明のアメリカ軍爆撃機の残骸が撮影された。この記事には、この墜落がどこで起こったか、死んだ飛行士が誰であったか、何の情報も説明も無かった。アメリカ軍の死体は、最近は、各空襲で平均50%以上の敵の襲撃機が撃墜されるか損傷している と誇張する証拠として虚偽報道した。太平洋戦争中の日本軍の数千の写真雑誌を検索するも、アメリカ軍兵士の死者と死体を誹謗中傷した写真が掲載されていたのは、アサヒグラフ第1112号だけであった。

 アサヒグラフ第112号の解説欄には、「敵B-29の殺戮爆撃によって、わが方の受けた損害も決して尠くはない。但しこれは戦争の冷厳な実相だ。弱気は断じて禁物である。敵がその兇悪な殺戮を繰り返せば、その都度猛烈なわが激撃戦によって、敵はひどい痛打をうけつつあることをも併せて思うべきだ。最近に於ては来襲の度ごとに平均約五割が撃墜、大破の憂目に遭うているのである。膨大な建造費をかけ、莫大な燃料を消費し、不足し行く搭乗員をかりあつめ、驚くべき整備の無理を重ねながら飛来するこの敵も、本土上空に於て痛烈な出血を強要されているのである。勿論楽観は許さるべきではない。算盤髙い敵である。新基地より、費用のかからぬB-24を、戦闘機護衛のもとに送り出すであろうことは、夙に指摘されているところだ。しかし、彼等が兇悪な戦術・戦略の爆撃を行うたびに毎に、わが本土及びその周辺が、醜翼の墓場になって行くことを、敵はよく覚えておくがいい。」と焦土を越えて・翼あれば必ず勝つ・醜翼の墓場・孔雀旗は断じて戦うと検閲されたアサヒクラブは喧伝した。




2022年5月10日火曜日

南京大虐殺により、南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機から投下された爆弾により虐殺された3人の子供の死体が路上に捨てられ散乱した。

南京大虐殺により、日本軍による空爆により虐殺された3人の子供の死体が路上に散乱した。南京の路上で悲劇的に殺害された中国人の3人の子供たちの死体が、南京の道端にさりげなく捨てられていた。南京の嘉絨街で日本軍の爆撃機によって投下された爆弾により殺害された3人の子供たちの死体である。

 1937年12月1日に日本軍は南京攻略を命令されて、12月13日に南京を占領した。12月7日早朝に、蒋介石は宋美齢と廬山に向けて故宮飛行場を飛び去った。12月12日に中国軍指揮官には撤退命令が下り、その他の兵士や民衆は、南京に取り残されて烏合の衆となった。12月13日から約6週間にわたり無差別の南京大虐殺が勃発した。南京の占領中に、日本軍は虐待、虐殺、強姦、略奪、放火、捕虜や民間人の処刑など、数々の残虐行為を犯した。民間人に潜伏した中国軍兵士を掃討する名目で始まるも、虐殺が攻勢すると、多くの無実の民間人が敵の戦闘員として特定されて虐待と虐殺された。極東国際軍事裁判では、少なくとも約200,000人の死傷者と約20,000人の強姦と推定した。

 第二次上海事変の3日目1937年8月15日の13時30分に、16機の日本軍爆撃機が南京に到着し、約4ヶ月にわたる日本軍機による南京爆撃が勃発した。中国の統計によると、1937年8月15日から12月13日まで、南京は約118回にわたり日本軍の爆撃機から攻撃を受けて、約1,357個の爆弾を投下されて炸裂した。南京の中国人約430人が死亡し、約528人が負傷して、約1,697戸が破壊され、南京市内の交通や道路に大きな被害を受けた (国民政府軍務委員会政治部:「日冠暴行実録」1938年)。

 その写真を含んだ「日冠暴行実録」は、国民政府の軍事委員会の政治部門の第3事務所によって編集され、1938年に香港で発刊された。実録の写真は、爆撃、燃焼、殺害、レイプ、略奪、迷走などの部分に分類された。その中で、多くの写真は南京大虐殺の戦争犯罪を反映した。日中戦争中に、中国軍兵士が、日本軍の囚人からの多くの写真を発見した。その写真は、侵略戦争中に、日本軍兵士が犯した、レイプ、燃焼、殺害、無差別爆撃などのさまざまな戦争犯罪を記録した。1938年11月12日の長沙大火で、書籍のほとんどが焼失した。




2022年5月9日月曜日

1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲され射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開された。

済州4・3事件にて南朝鮮労働党の武装蜂起が1948年4月3日に勃発した。1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九(Lee Deok-gu,이덕구)は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲されて射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開した。死体を晒して一般市民に見せしめにした。済州市関徳町広場に李徳九(29歳)の死体が見せしめにされた磔の死体の写真が日本の新聞に掲載されて残存した。

 1949年6月4日から5日にかけて、李承晩政府の粉砕・無辜の人民虐殺反対・国連韓国委員団反対・朝鮮人民共和国万歳のビラが、済州島に配布された。韓国政府は、韓国軍の第二連隊と第一独立大隊などを動員して、攻撃して弾圧した。李徳九らはゲリラ隊を式して、山岳地帯で韓国軍を翻弄した。李徳九は銃弾を浴びて射殺されて捕獲された。韓国軍は、李徳九の死体に、アルコールをかけて看板を掲げて、旧済州島庁舎の前に十字架に縛られて磔にされた。執行人が、李徳九の前胸のポケット見にスプーンを差し込んだ。梅雨時期に吊り下げられて夕方には死臭が発生して、1日過ぎると死体を引き下げて山地川南水閣の近くで火葬した。

 1948年4月3日に、済州島で南朝鮮労働党(南労党)主導で武装した約350人の住民が一斉蜂起して、警察署を襲撃した。1948年2月に国連で南北別々の選挙が決定され、5月10日に南側で南北分断する単独選挙が行われる前に蜂起した。済州4.3事件までの約1年間に約2500人余りが逮捕・拘禁され、済州島民の間に不満が高まる中での武装蜂起が勃発した。その起因には、1947年3月1日に警察が3月1日の独立記念日の済州島大会に参加した群衆に銃を発砲し6人の民間人を殺害していた。

 1948年8月15日に韓国政府が、1948年9月9日に北朝鮮政府が樹立された。韓国政府の李承晩は、1948年10月に北朝鮮に加担する済州島の武装勢力を鎮圧して済州島を戒厳令下で大虐殺して焦土化した。1949年5月に再選挙が強行されて、その直後に6月7日に李徳九が射殺されて、武装蜂起が鎮圧された。

 1950年から1953年までの朝鮮戦争にて、済州島では韓国政府による再度の大虐殺が執行された。約95%が焼失して、島全人口の約1割の約25,000人から約30,000人が虐殺された。1954年9月に、済州島の漢拏山の入山規制が解除されるまで、約7年7ケ月を、済州4.3事件と呼称した。



2022年5月8日日曜日

ウクライナ軍兵士は、殺害されたロシア軍兵士の死体を通り過ぎて、イルピン郊外の鉄道を捜索しながらロシア軍を掃討した。

2022年3月1日火曜日に、ウクライナのイルピン(Irpin)郊外でロシア軍との戦闘が行われた。殺害されたロシア軍兵士の死体を通り過ぎて、ウクライナ軍兵士が鉄道を捜索しながらロシア軍を掃討した。イルピンは、ウクライナの北部首都キエフの近郊の都市である。2022年2月24日にロシア軍のウクライナ侵攻が勃発した直後に、首都キーウを西部から包囲するロシア軍とウクライナ軍が2月25日からイルピンの戦いが勃発した。2月27日に、ロシア軍はジェノサイドの対象となったブチャを制圧してから、イルピンに侵攻した。特にイルピンとブチャの中継地であるキリンモールで猛烈な戦闘が勃発した。ブチャからイルピンに侵攻できないように、結ぶ箸を破壊した。ウクライナ軍は、ブチャの住民に、ロシア軍の人間の盾の策略にならないように避難を警告した。

 3月2日に、ロシア軍が戦闘機(Su-25)2機が、イルピンを空爆して、2発のミサイルで、子供1人が死亡して、女性1人が負傷した。ロシア軍の攻勢が犠牲と損傷で停滞した。3月3日から、ウクライナ政府は、ブチャとイルピンから人道避難を開始するも、小競り合いの戦闘が継続して、民間人の避難は困難となった。3月6日に、首都キーフに避難する人道回廊にロシア軍の迫撃により、6人の大人と2人の子供が殺害された。避難していた民間人がロシア軍に迫撃されて殺害された死体が、3月6日にイルピンの通りでシートに覆われた。3月14日までにロシア軍は、イルピンの半分を占領していた。3月29日に、ウクライナ軍は、ロシア軍からイルピンを奪還した。ウクライナ軍兵士は、約50人が戦死して、ウクライナ民間人の約250人が殺害された。

 ウクライナ軍は、ロシア・ウクライナ戦争が勃発してから、1週間経過した3月2日までに、少なくとも約5,840人のロシア軍兵士を、戦争中に殺害したと公表した。SNSで、以下のロシアの軍事武器を破壊したと公表した。戦車は最大211台、装甲戦闘車両は約862、砲兵システム約85式、対空ミサイル約40式、戦闘機約30機、ヘリコプター約31機、車両約355台、軽ボートは約2台を破壊した。3月2日時点で、ロシア軍は犠牲者と損傷の数値は公表していない。













Warning: A Ukrainian soldier wandered down the railway to inspect something, past the bodies of dead Russian soldiers where fighting took place with Russian forces on the outskirts of Irpin, Ukraine, Tuesday, March 1, 2022, CNBC_20220303.

2022年5月7日土曜日

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に猛烈な爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。

広島赤十字病院にて、1946年8月6日の原子爆弾の炸裂により、被爆時に爆風で鼓膜が破れた原爆症により、被爆者は難聴と耳漏のため処置を受けた。原子爆弾により直接に被爆して聴覚障害を伴った。被爆者は、左耳介から左頬部から頸部の一部に、火傷とケロイドを伴っていた。広島原子爆弾が炸裂した直後から被爆者の左耳を処置したのは、広島赤十字病院の耳鼻科医長である高原滋夫であった。高原滋夫は、1946年に母校の岡山大学医学部の耳鼻科教授に就任した。世界初のカタラーゼ酵素の無い血液病であるアカタラセミアを発見した。

 聴覚器は、最も敏感な圧力を変換する感覚器であるため、爆傷の影響を受けやすい。爆発物が爆発すると、爆発点から離れて膨張する高圧ガスが放出された。周囲の空気が圧縮され、爆風が生成されて伝播した。爆風に関連する髙エネルギーの圧力は、身体に壊滅的な外傷を及ぼした。聴覚器に対して高圧波から、破片が組織に侵入、身体を引き倒して爆傷した。

 爆風による難聴は、鼓膜の穿孔と破裂、骨の損傷、基底膜の損傷、内有毛細胞と外有毛細胞の喪失、正円窓の破裂、蝸牛液の化学成分の変化、血管痙攣、虚血、酸化ストレス、興奮毒性を伴う。最初に損傷を受けるのは、鼓膜穿孔を伴う。耳鳴りから難聴、めまい、頭痛などの聴覚障害を伴う。聴覚器と空気の接合部が、空気の密度が著しく変化すると障害される。内耳の蝸牛まで介されると永続的な難聴を伴う。爆風の過圧は、伝音難聴、感音難聴、混合難聴など、あらゆる種類の難聴を引き起こす可能性がある。

 世界中で即席爆発装置(IED:Improvised Explosive Device)が、ますます戦争だけでなくテロ攻撃などで頻繁に使用された。主にアメリカ国防総省に調査で、聴覚器に障害を持つ軍人の中で、耳鳴りから難聴を発症した。壊滅的な爆撃を生き延びた後にも、膨大な兵士や民間人は長期的な聴覚障害に苦悩した。




2022年5月6日金曜日

朝鮮戦争にて、朝鮮半島を北方に退却する北朝鮮軍は、1950年10月6地に韓国人捕虜を銃殺して多数の死体を堀の中に投げらていた。

朝鮮戦争にて、朝鮮半島を北方にむけて退却する北朝鮮軍は、韓国人捕虜を銃殺した。その多数の死体を堀の中に投げられていた。アメリカ軍は、1950年10月6日に大量虐殺の死体を検死した。朝鮮戦争にて、アメリカ軍と韓国軍が1950年9月28日にソウルを奪還した直後から、北朝鮮軍による野蛮で残虐な虐待と虐殺に関する戦争犯罪の報告が表面化した。アメリカ軍と韓国軍は、北方に向けて侵攻する部隊は至るところで残虐行為の戦争犯罪の証拠を発見した。

 北朝鮮軍は、国連軍の侵攻に直面して韓国から撤退する直前に、監獄に収容されていた政治犯や軍人の死刑を執行したとアメリカ軍の公式文書に記録された。ワシントンポスト紙は、ソウルの南約56kmにある楊柳の虐殺現場をナチス・ドイツの強制収容所のような赤いブッヘンワルドと呼称した。この朝鮮赤軍の殺人収容所で、子供を含む約700人の朝鮮間人が処刑されたと報じた。ニューヨーク・タイムズ紙は、昆山近郊の忠孝で、竹槍で武装した共産軍兵士が村の食糧を奪った後に、約82人に上る男性、女性、子供を突き刺したと伝えた。ジェファーソン・シティ・ポスト紙は、大虐殺を見るのには想像を絶すると報じた。北朝鮮軍は、冷徹に計算された虐殺を執行して、一人一人が個別に射殺された。さらに多くの者は、確実に殺すために棍棒で頭部を殴られた。

 鎮守での虐殺からの生存者であるアメリカ人のキャリー・ワイナルド中尉は、北朝鮮が機関銃で虐殺する前に、まず自分たちの墓を掘らせたと語った。北朝鮮軍兵士は、私たち全員を縛り付けて銃殺して、死んだふりをして生存した。北朝鮮兵士と地元の左翼は、何千人もの民間人を無差別に虐殺した。女性、高齢者、子供も免れず虐殺された。10月3日の務安郡での特に残酷な虐殺事件では、死刑に選抜された家族が縛られて海岸に連れて行かれた。大人はナイフ、こん棒、竹槍、農具で殺されて、海に投げ込まれた。女性や10歳以下の子どもは深い井戸に投げ込まれて虐殺された。

 大田刑務所での虐殺は、朝鮮戦争最大の大量虐殺の一つとなり、約5から7千人の市民と兵士が虐殺されたと推定した。アメリカ軍下士官(GI)は、収容所内の井戸の中に死体を発見した。アメリカ軍が井戸を捜索すると、井戸からはアメリカ軍兵士約29人の死体が井戸から釣り上げた。それから数日後に、教会の地下室には、北朝鮮軍兵士に虐殺された朝鮮人女性たちの大量の死体が潜在していた。アメリカ軍は、北朝鮮軍の大量虐殺の発見して、人命を顧みない、戦争の人道のルールを守らない、残酷な北朝鮮軍が敵であることを確信した。ニューヨークタイムズのハンソン・ボールドウィンは、朝鮮半島で北朝鮮軍の野蛮な軍隊に直面した。訓練され、容赦なく、命知らずで、戦う戦術に長けた野蛮人であった。北朝鮮の大軍は、ロシアの要人たちと同様に、残虐な傾向を受け継ぎ、恐怖の武器を使用した。





2022年5月5日木曜日

日中戦争勃発直後の1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海に投下された爆弾の炸裂による民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。

日中戦争の第二次上海事変にて、1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海市内に投下された爆弾の炸裂により甚大な民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。8月14日朝に、中国空軍のパイロットは日本軍陣地に爆弾を投下し始めてから、中国空軍の上海爆撃事件が勃発した。中国空軍の飛行機が黄浦江上空を旋回して、日本軍艦の出雲を攻撃して、爆弾が爆発した。中国空軍の爆撃機から南京路と外灘の角に3発、フランス租界の大世界ビル前に2発の爆弾が落ちて炸裂した。中国空軍が空爆に約1,200人の民間中国人を巻き込み一瞬にして殺害して、数百人の負傷者が地面に倒れた。

 1937年8月14日に2つの爆弾が、大量の難民収容所となった泡井路の大使館劇場の玄関先で爆発し、甚大な殺害場所の一つとなった。最初の悲劇は、午後4時27分に起こった。黄浦江を下る上空に飛行機の一群が現れ、すぐに日本軍の出雲が、高射砲の弾丸を放って、榴散弾が市街地に降り注いだ。中国空軍の爆撃機6機は、厚い雲の中に消えて、日本軍の砲火を逃れた。後方の4機は外灘上空を飛行中に爆弾を投下した。2発は川で爆発し外灘に高波を巻き起こした。残りの3発は南京路に落ちた。上海市の南京路における1番目の爆弾は、キャセイ・ホテルの入口のすぐ前の道路に落下して炸裂した。2番目の爆弾は、パレス・ホテルの屋根を突き破り、約3階を突き破った。3つ目の爆発はキャセイ・ホテルの7階を破損した。ホテル内の爆弾の炸裂により、2つのホテルの全長に、歩道や車道には砂利や木片、外壁からはがれた石などが散乱した。頭、足、腕が、粉砕された胴体から離れて横たわった通行人たちのバラバラ死体が散乱した。キャセイ・ホテルでは建物内部まで吹き飛んで、一番奥の店の窓までが粉々になった。砕けた石組みは揺れ、外れ、舗道の上に崩れ落ち、窓や板ガラスの扉も一緒に落下した。燃え盛る車は煙を吐き出し、ねじれた車体の上で渦を巻いて、中には乗客を乗せて焼かれた車もあった。

 民間中国人の死傷者の数は甚大となり、特に大世界の近くのフランス租界側で救助隊が処理した死体数は約435体に及んだ。約139人の負傷者が病院に運ばれる途中で死亡し、約87人の負傷者は治療中に命を落とした。その犠牲者の内訳は、男約563人、女約51人、子供約47人に及び、犠牲者のほとんどは民間中国人であった。大世界の近くでは、死体があちこちに見られ、ビルに沿って歩道に散乱し、信号機の周りで人力車に数十人が詰め込まれた。大世界の入口には約300死体以上、反対の角にはさらに100死体が積み上げた。上海の高温多湿の気候の中で、腐敗する死体を集団墓地で一刻も早く死体を埋葬処理した。




2022年5月4日水曜日

1994年2月5日にセルビア反政府勢力がボスニア首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込み、殺害された犠牲者の死体が運び出された。

1994年2月5日に、セルビア反政府勢力は、ボスニアの首都サラエボの市場に迫撃砲を打ち込んだ。サラエボ市民が、その犠牲となり殺害されて、死体が運び出された。迫撃砲でサラエボ市民の68人が殺害され、約200人が負傷した。血、腕、脚、肉片がサラエボ市場に散乱した。国連安保理事会ではセルビア人反政府勢力に対する空爆決議が採択された。この決議は、ロシアがセルビア人反政府勢力と仲介して拒否された。その以後も、セルビア人反政府勢力に対する空爆は、内戦を解決する手段として国際的に注目された。

 1992年4月6日から勃発したボスニア紛争は、1994年3月にクロアチアとボスニアとが、ボスニアにムスリム人とクロアチア人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を創設することで合意した。ボスニア紛争で、ボスニアは兵士約31,270人と市民約34,723人が殺害され、クロアチアは兵士約5,439人と市民1,899人が殺害され、セルビア人は兵士約20,649人と市民約3,555人が殺害された。1995年には連邦化に反抗して孤立したセルビア人反政府勢力は、ボスニア東部からボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に迫撃した。1995年7月に、セルビア人反政府勢力は、スレブレニツァに侵攻して、ムスリム人を大量虐待と大量虐殺した。約8,000人のムスリム人男性が殺害されて、約4万人ものムスリム人の女性、こども、老人などがスレブレニツァの虐殺を逃れて避難した。国連の平和維持活動した約400人のオランダ軍は制止できなかった。

 1996年8月に、セルビア人反政府勢力が、再度にサラエボ市場に迫撃砲が打ち込んで、約35人が殺害されて死亡した。即時に、ボスニアの北大西洋条約機構(NATO)軍が、サラエボの東部と南部のセルビア人反政府勢力の陣地に、約3週間の空爆をした。セルビア反政府勢力の約20ケ所以上の基地を空襲した。1996年9月に、セルビア人反政府勢力は、ボスニア西部のビハチ付近から撤退して、周辺から約5万人のセルビア人が逃避した。ムスリム人が、ボスニアの中部と南部を奪還して、ムスリム人が迫害して、大量のセルビア人がバルニャルカに逃避した。9月20日に、セルビア人反政府勢力は、サラエボから撤退した。12月14日に、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦内に、ボスニア連邦とセルビア人共和国の自治政府を形成するデイトン和平合意が成立してボスニア紛争は停止した。




2022年5月3日火曜日

日露戦争の葉書の表題には「露國良民ノ惨殺屍体」と記載され、ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体とも解釈された。

1904から1905年頃の日露戦争の葉書の表題には、「露國良民ノ惨殺屍体」と記載された。ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体と読める。この虐殺の状況には何の脈絡も説明もない。文法的には、虐殺されたロシア人の死体という意味にもなり得る。表題の解釈は見る人の思い込みによった。日露戦争では、木版画が戦場のドラマや血なまぐさい様子を伝えた。日露戦争の戦死者を撮影した写真は存在するが、まだカメラで写真を撮影するのはかなり困難であった。
 1904年8月10日発行(東陽堂)の『風俗画報』の「ロシア征服の図10」の表紙では、山本庄弥により、モチアン峠での戦闘で数十人のロシア軍兵士を切り倒す日本軍の吉井中尉を描いた。吉井中尉の正確な剣によって、ロシア軍兵士の頭部が切り裂かれ、血の塊の中からほとんど見えない二つの目が覗き込んでいた。このような版画の様式やテーマは、人殺しや幽霊などの扇情的な絵を得意とした江戸時代の浮世絵師たちの影響を強く受けた。カラー版の原画は、ロシア軍兵士や吉井中尉の刀や鞘を深紅の血が覆っており、陰惨な絵画であった。1930年代頃から、日本がアジアに文明開花をもたらす存在になると、野蛮で血みどろの描写はマスコミから敬遠された。
 上海事変の頃の写真には、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実が映し出された。上海事変写真画報(1932年2月22日、16-17頁、朝日新聞社)の表題全体には、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化した! 我が海兵隊は敵の死体の上を突進する" と記載した。上海事変による死体も含めて戦争の悲惨さをありのままに伝えた。大都市を蹂躙する日本軍の近代的な軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の写真を撮影した。中国での戦闘に対する国際的な抗議があり、日本の政治家や軍部の指導者は写真を驚異と捉えた。日中戦争が勃発した後の1937年末に第二次上海事変と南京が陥落したとき、日本のマスコミはひどい都市破壊の写真を何枚も掲載した。しかし、中国人、日本人にかかわらず戦争による死者の写真は掲載しなかった。

 


 

2022年5月2日月曜日

コルチャーク白軍の病人は、ロシアのオムスクの列車から這い出るのに疲れ果て、無力な人間の塊となり地面に横たわり死にかけた。

ロシア連邦中西部のオムスク都市の対岸にあるコルムジノ駅に列車が到着した。1919年8月頃に、白軍のコルチャーク(Kolchak)軍兵士が前線からチフス患者として再輸送された。病人や負傷者が、何の便宜も図らずに箱型車両に乗せられた。白軍のコルチャーク軍兵士の多くは病気で自活できず、食料の手配もされず、ごく限られた量の水しかなかった。重病人に対して助けも提供されていなかった。列車内で死体が散乱した。病気の仲間が病人の頭を押さえて、水を飲ませた。病人の多くは、車から這い出るのに疲れ果て、無力な人間の塊となって列車の側の地面に横たわって死にかけた。

 アレクサンドル・コルチャーク(は1916年8月には、副提督として黒海艦隊の指揮を執る。1917年10月25日に、ロシアの首都ペトログラード(現サンクストペテルブルク)で、労働者や兵士らが武装蜂起から十月革命が勃発して、レーニンとトロツキーら1918年1月28日に赤軍を結成した。1918年11月18日、ロシア連邦中西部のオムスクで軍事クーデターを起こし、オムスクの白軍の絶対的な権力者となった。1919年11月14日にオムスクが赤軍に陥落して、本部をイルクーツクに移転するも、1920年1月4日に崩壊した。ボルシェビキはコルチャークを強制連行して、死刑により殺害して、死体はアンガラ川に投げ捨てた。

 アメリカ、イギリス、フランス、日本は、シベリア鉄道に資金と、シベリアを警備する兵士を、すべてコルチャークの白軍の利益のために投入した。アメリカ国務省はコルチャックを支持し、陸軍省は不支持であった。コルチャークは支持者らを虐待と虐殺した後には、住民の支持を駆り立てれなかった。東シベリアの蜂起は、農民や労働者の集団が、コルチャック軍による残虐行為から自らを守るために、ボルシェビキに率いらたパルチザンとして白軍と戦闘した。




2022年5月1日日曜日

ウクライナのキエフ近郊のブチャの住民が殺害されて、草地の土手で自転車に絡まって、仰向けに倒れた民間人の死体が放置されて、その側に多分飼い犬が寄り添った。

ウクライナの首都キエフに近いブチャの町で、衝撃的な大量虐殺の死体群が2022年4月3日に情報公開された。ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、約5週間にわたる絶え間ない銃撃戦の後に、ブチャの通りには、ウクライナ民間人の死体が散乱した。ブチャの住民が殺害されて、草地の土手で自転車に絡まって、仰向けに倒れた民間人の死体が放置されていた。その死体の側に犬が寄り添っていた。おそらく犬の飼い主は、歩道に倒れて殺害された自転車の横で、犬が隣に座っていた。ブチャ住民が、自転車で通りを走っているところを、ロシア軍の戦車が射撃して殺害した。

 ロシア軍による残忍な攻撃により、民間人の犠牲者の増加を示した。少なくとも約20人の民間人が、布切れで手を後ろに縛られて殺害された死体も公開された。ブチャのヤブルスカ通りには、ロシア軍に殺害された民間ウクライナ人の死体がまだ並んでいた。両手を白い布切れで後ろ手に縛られて、無惨にも至近距離で後頭部を撃たれていた。

 ブチャで集団墓地が公開されて、初期の戦争で殺害された死体が詰めて埋められていた。黒い死体袋に入った少なくとも十数体の死体が集団墓地の中に積み上げられた。すでに一部は土に覆われいた。他の死体と一緒に埋められた死体の土中から手指が出現していた。集団墓地には約150人が埋葬されたとブチャの住民は語った。

 ウクライナ政府は、戦争が終結したら、ロシアの指導者にロシア軍のジェノサイドの戦争犯罪に対して責任を負わせるように求めた。欧米の指導者たちは、戦争犯罪の調査やロシアに対する経済制裁の強化を要求した。EU理事会のシャルル・ミシェル議長はロシアに対するさらなる経済制裁を誓った。国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、ブチャで殺害された民間人に対する独立した調査が不可欠であると述べた。NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務長は、ヨーロッパで何十年も発生していない民間人に対する残虐性を示唆した。

 ロシア国防省は、ロシア軍によるブチャ占領中に、「地元住民が暴力行為に遭ったことは一度もない」と通告した。大規模な虐殺の映像はフェイク・ニュースだと主張した。ロシア政府は、ロシア軍による民間人犠牲者の主張に対し、一貫して全面的に否定した。












Warning: A dog lies next to a body of a man in a street in the town of Bucha, not far from the Ukrainian capital of Kyiv, on April 3. (Photo: Sergei Supinsky/AFP )