第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国が皇太子の暗殺の1ヶ月後の1914年7月28日にセルビア王国に戦線布告して勃発した。
セルビアに対して第一次侵攻する際には、セルビア市民を含めて無差別に虐殺した。さらに東部戦線において8月1日に参戦したドイツ帝国と1915年
10月14日から参戦したブルがニア王国との中央同盟国により、1915年11月5日にはセルビア王国は侵略された。ドイツ帝国軍の捕虜となった多数のセルビア人兵士が、悲惨にも虐殺された。
第2次世界大戦においてイタリア軍は、ドイツ軍の参戦により、ギリシアを侵略から分割して占領した。ギリシア市民の多くは1941年から1942年の冬期にかけて占領軍の蛮行と搾取による経済的な危機により悲劇的な餓死者を出した。特にアテネやそのほかの都市では、食糧の極度の欠乏により、大半の市民が急激な栄養失調となり、約300,000人もの餓死者が散乱した。ギリシア市民は多数の餓死者の死体をトラックに積載して処理した。
朝鮮戦争に巻き込まれた朝鮮人市民らは、国連軍と北朝鮮軍との激しい戦闘に襲われた。朝鮮人市民らは、1950年6月25日から1953年7月23日の約3年間にわたる戦闘により全土にわたり全壊や崩壊から虐殺されて最大の犠牲者となった。家を焼かれ、両親を失った戦争孤児は、約175,000名にも上り、朝鮮半島の全域にわたり散乱して多数の難民となった。戦争孤児は、荒廃した地域にただ一人で取り残されて呆然としてして泣き叫びさまよった。
第2次世界大戦では、ドイツ軍に対して占領されたフランス国内では攻撃的な抵抗運動であるレジスタンスが激しくなった。それに対して、ドイツ軍側の弾圧もますます凄まじくなった。森林に逃げ込んで潜伏した「マキ」は、ゲリラ作戦で抵抗するレジスタンス勢力となった。数多くのマキの団員が、ドイツ軍の捕虜となり、絞首刑の犠牲となり、虐殺された。逆にマキの団員は、ドイツ軍兵士を捕虜にしないで、直ちに処刑して虐殺した。レジスタンスの武力闘争の結果は、市民を巻き込み解放するも、逆に市民の侵略者に変貌するなど過激ともなった。
朝鮮戦争にて、国連軍も韓国軍も民間人等に対して無差別の虐殺をした。コンクリートなどの構築物を破壊するための油脂状の焼夷弾であるナパーム弾を放射した。ベトナム戦争のように、北朝鮮軍が潜むとして多くの民間人を標的とした。村落などにナパーム弾を投下して、避難民に掃射して、無差別の砲弾によって焼死や銃殺した。第2次世界大戦中にも、連合軍は1945年にドイツと日本の一部に使用したナパーム弾を是認した。ナパーム弾で全身の火傷などの犠牲者となったのは主に婦人と子供の朝鮮民間人たちであった。
第1次世界大戦下にて、ルーマニアのブンツラウ捕虜収容所は、ドイツ軍の支配下にあった。1917年の春にて、虐殺されたルーマニア人やロシア人の死体が集積した埋葬された。共同の埋葬墓地が毎月2から3ヶ所は必要であった。コレラやチフスに感染死したり、餓死などにによって各共同墓地には、300人から500人のり死体が散在していた。
第2世界大戦において、1943年11月18日から1944年3月24日まで連合国がドイツの首都ベルリンに対して16回もの空襲をした。第1回目のベルリ爆撃だけの空襲で143人が死亡、4人が行方不明、409人が負傷して、8,493軒が全半壊(内全壊は533軒)した。都市に対する無差別爆撃を開始され、ベルリンを焦がす悲惨な空襲が本格化して、昼夜を問わずに大量の爆弾がベルリンに投下されれた。埋葬のために、空襲で亡くなった多数のベルリン市民の死体が埋葬のために体育館に集められ散在した。
人種隔離政策であるアパルトヘイトを強制するために、南アフメカ政府は1952年のパス法で18歳以上のアフリカ系黒人に身分証の携帯を義務化した。パン・アフリカニスト(PAC)は、1960年3月21日にトランスバール州ヨハネスブルグ付近のシャープビルで抗議活動をした。警察官は、身分証明書を持たずに警察署の前で抗議するPACに対して、警察隊は装甲車を配備して、黒人市民を虐殺した。69人が死亡して、200人弱が負傷した。ますますアフリカ系黒人の抗議や暴動が頻発した。ネルソン・マンデラも、対抗する武装闘争をして反逆罪で1964年に終身刑となり27年間の投獄後に、1994年の全人種参加選挙で大統領となった。
太平洋戦争の本土決戦の緒戦となった沖縄戦では、アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄本島に無血上陸した。大量の物資を駆使して、砲撃しながら岩盤を砕き切り崩した侵攻路を、まずは戦車隊が突進して、歩兵部隊が追尾した。上陸して2日目には、沖縄本島を横断して、北部と南部に分断した。緒戦から非常に不利な日本軍兵士を、戦車から砲撃と射撃しながら死滅させた。その後を膨大なアメリカ軍の歩兵隊員が、散乱している日本軍兵士の死体の側を、迅速に走りながら激しく沖縄本島を侵略した。
沖縄では、中学校学徒の動員による軍隊編成は1944年12月から実施された。男子生徒には戦闘に、女子生徒は看護で軍隊に所属した。1945年3月24日から男子は「鉄血勤皇隊」に、女子は学徒看護婦に配属された。県立第一高等女学校200名と師範学校女子部122名は共同従軍して、最期の摩文仁にて6月20日にアメリカ軍のガス弾で、多くの少女らは家族を叫びながら絶命した。残存した少女の班は脱出の時に砲弾で虐殺され、断崖に追い込まれ捕虜を拒絶して自決した。各部隊は86名、122名が若き犠牲の死体となり、校友会誌「しらゆり」「おとひめ」から「ひめゆり部隊」と呼称された。
沖縄戦において、1945年5月22日に首里から撤退した摩文仁(まぶに)の第32軍の洞窟司令部で、6月23日に司令官、参謀長、経理部主計大佐、高級副官、中佐以下、多数の日本軍兵士が自決した。アメリカ軍兵士が、その洞窟司令部の内部で検死をした。摩文仁は、陸軍第32軍の最後の砦となった。この地ではアメリカ軍に対する日本軍兵士との死闘など、沖縄では太平洋戦争の終局の悲劇が繰り返して散乱した。沖縄県糸満市にある「平和の広場」が摩文仁の遺跡として整備された。
太平洋戦争にて、ガダルカナル島で1942年8月7日から1943年2月まで、日本軍と連合国の戦闘があった。日本軍の仙台で設置された第2師団が10月3日に西北のタサファロング海岸から上陸するも、すでに死臭のする死の島に変貌した。食料の補給が困難となる餓島となり、日本軍兵士の膨大な死体や白骨が散乱していた。内陸部に向かうアメリカ軍兵士によって、日本軍の前線司令所で、5人が戦死していた。その死体には蝿が群がって腐敗していた。
シリア内戦は、2011年3月15日から勃発したアサド政権軍と反政府軍の戦闘が勃発して、国際的な内戦として戦闘が継続していたる。2014年4月5日にドゥーマにおいて政府軍と自由シリア軍と交戦した。戦闘地域と非戦闘地域とが混在して、銃声が断続に強烈に響いていた。略奪から放火もされて、路上には破片や薬莢が散らばった。19歳のソルナータが通りの軒下を歩いているだけで、監視している政府軍の狙撃兵に銃殺された。鮮血に染まった死体をお棺に納められた。屋外では、お棺の死体を担ぐ群衆は、殉教者として次々に墓地に埋葬された。
ニジェール共和国は、サハラ砂漠の南側で、内戦が頻発する地帯にある。連続する軍事クーデターにより、1974年4月にはクンチェ軍事政権が、1996年1月にはマイナサラ軍事政権が、2010年2月にはジボ軍事政権が樹立して、世界でも最貧国となった。軍部のママドゥ政権下で、2004年の大雨で2003年から2005年にサバクトビバッタが大量発生と、2005年から2006年にニジュール食料危機が、2007年にはトゥアグレ人が反政府の武装闘争を展開した。2005年9月に難民キャンプで、無残に肋骨と骸骨が細った幼児らが瀕死の栄養失調で餓死に陥った。長期の下痢と嘔吐が継続して摂食が不可となった。生き残れず神のおほしめしのままになった。
明治政府は、1871年2月に薩摩藩・長州藩・土佐藩の武士による御親兵が組織された。しかし旧薩摩藩の反乱である西南戦争などに対抗するため、中央政府は独自の強大な兵力の整備を求めて、1873年1月10日に徴兵令を施行した。地租改正による定率の金納と長男相続制度から、戸主に代わる総てを兵役の対象として徴兵した。市民のような平民階級に課せられた賦役となり、次第に近代的な大衆軍隊を構成した。徴兵検査を受ける義務があった装丁となり、軍役を課せられる20歳以上の日本人男子が初めて集合した。