朝鮮戦争にて1950年9月15日から連合軍の仁川上陸作戦で、北朝鮮軍が撤退する前に共産主義者によって、1950年10月に北朝鮮の咸興市で、多数の市民が虐殺された。生存者は親族の死体を見つけようとしている。虐殺現場では、被害者の死体だけが埋葬された。朝鮮人の同族を銃や竹槍で虐殺した。朝鮮戦争当時に、咸興地域で退却する北朝鮮人民軍が、無慈悲に咸興住民を虐殺した死体が集積された。その周辺の洞窟だけで300体以上の死体が発見された。
咸興虐殺事件は、北朝鮮の金日成の指示により、咸鏡南道咸興市での虐殺事件である。 犠牲者はおよそ12,000人余り(拉致及び行方不明者を除く)と推定される。主に銃殺、井戸生埋葬、透析を通じて虐殺した。盤龍山の防空壕の場合は、爆死させた。犠牲者数は、咸興監獄で 700人、忠霊塔の地下室で200人、政治保安部のある3つの地下室で300人、徳山のニッケル鉱山で6,000人、半竜山防空壕で8,000人余りが虐殺された。
朝鮮戦争は3年1ヶ月間続き、戦争による人的被害は民間人を含めて約450万人に達する。そのうち、南側の人的被害は民間人約100万人を含む約200万人であり、共産陣営の人的被害は100万人の民間人を含む約250万人と推定されている。
南北兵士の戦死者は韓国軍が22万7,748人、米軍が3万3,629人、その他国連軍が3,194人であり、中国人民支援軍と北朝鮮軍の正確な戦死者数はまだ確認できない。朝鮮戦争の期間中に、韓国は43%の産業施設と33%の住宅が完全に破壊された。休戦協定第60条に基づき、1954年4月、ジュネーブで大韓民国と国連参戦16カ国、そして北朝鮮と中国及びソ連が出席した中で、朝鮮半島問題の政治的解決のための政治協議が開催された。韓国と国連参戦国側は、国連監視の下、南北の先住民人口比例による自由総選挙の実施とその結果による民主的な統一政府の樹立を主張した。共産軍側はただひたすら駐韓国連軍の撤退だけを主張することで合意に至らなかった。同年6月の会談は決裂し、南北は恒久的な平和ではなく停戦状態で今日に至っている。